王猛
王 猛(おう もう、325年 - 375年)は、五胡十六国時代前秦の苻堅に仕えた宰相。字は景略。苻堅の覇業を全面的に補佐した賢臣で、華北統一に貢献した。
生涯
[編集]北海郡劇県の出身[1]。漢人の有力貴族の家に生まれたが家は貧しく、もっこ(竹や藁を編んで作り、物を盛って運搬する道具)を売って生計を立てていたが、細事にはこだわらず博学で殊に兵書を好んだ[1]。
354年に東晋の桓温が前秦を北伐したときに訪ねていき、虱をつぶしながら天下の大事を堂々と論じ合ったという[2]。この際、桓温が「わしは天子の命令を奉じて逆賊と戦っているのに、真の豪傑の中にわしの所に来る者がないのはどうしたわけだと思うか」と尋ね、王猛は「将軍は数千里を遠しとせず、深く敵の領土に侵入して今は長安の間近に迫っておられる。しかるに、あなたは覇水を渡ろうとはされない。これでは人民には貴方がどう考えておられるのか、わからんではないか。だから誰も来ないのです」と述べ[2]、桓温は「江東には君のような人物はおらぬよ」と述べて東晋への仕官を勧められたがこれを断った[3]。後に異民族の王の苻堅の枢機に参与したが、苻堅とは即位する前から知り合った仲でたちまちの内に身分を越えた仲になった[3]。
苻堅は「劉備が諸葛亮を得たのと同じように大切な存在だ」と言って王猛を重用した。王猛は儒教に基づく教育の普及、戸籍制度の確立、街道整備や農業奨励など、内政の充実に力を注ぎ、氐族の力を抑えて民族間の融和を図った。一方、軍事面でも370年に前燕に対して王猛自ら軍を率いて侵攻し、6万の前秦軍に対して前燕は40万の大軍であったが、前燕軍を率いる慕容評の暗愚と拙い指揮もあり、決戦して5万の戦死・捕虜を数え、さらに追撃して10万を得る大勝を挙げた[4]。376年に前涼をそれぞれ滅ぼして中国北部を統一し、この時代ではまれにみる平和な時代を築き上げたが、王猛自身は前涼滅亡の前年である375年に死去した。享年51。
死後
[編集]王猛の死後は苻堅の末弟の苻融が補佐に当たった。彼も王猛同様に兄の施策は国の災いになるとして諫言したが聴き入れられなかった。兄が南征を計画した際には一族群臣の先頭に立って諌めたが、これも受け入れられず、結局王猛の予想通り前秦は東晋に大敗してやがて滅亡した。
子の王永と王休も苻丕に仕えて斜陽の前秦を支えている。孫の王鎮悪(王休の子)は東晋に仕えた。
人物・逸話
[編集]苻堅との絆
[編集]苻堅と王猛の主従関係は、後趙の石勒と張賓、北魏の太武帝(拓跋燾)と崔浩よりはるかに親密さの度合いが大きかったとされる[5]。
ある時、功臣で苻堅と同じ氐族出身の樊世が皆のいる前で王猛を「我々は先帝(苻健)と一緒にこの前秦の国を興したが、国権に与かるということはなかった。君はなんらの戦功もないのにどうして大任を専管するのか。これは我々に農作業させ、君はそれを食らおうということなのか」と詰った。これは漢土に支配者として望んでいた胡族(異民族)が漢族を自分達の耕作奴隷と見なしていたこと、その漢族出身の王猛が自分たちに対して指図することへの不満を述べたものであるが、王猛は答えた[5]。「君を料理人にしようと思っているんだ。ただ耕作をさせるだけではないよ」と[6]。この発言に樊世は激昂し「お前の頭を長安の城門に懸けてやる」と言った。王猛は直ちに苻堅に言上した。王猛は漢人であるが苻堅に信任された寵臣、樊世は同族の功臣だが、苻堅は「必ずこの老いぼれ氐を殺し、そのあとで百官を整理しよう」と述べ、樊世を斬って王猛をなおも信任したという[6]。当時の華北における胡漢の勢力関係を考えれば、漢族が胡族に粛清されることは通例で生じたが、その逆は殆ど無かったため、この主従がいかに強い信頼関係であったかを窺う一例とされている[6]。
苻堅の末弟の苻融は「王景略(王猛)は一時の奇士であり、陛下はいつも彼を孔明(諸葛亮)に擬していました」と評価している[7][注釈 1]。
先見の明
[編集]王猛の進言を苻堅が聴き入れなかったことは殆ど無かったが、幾つか聴き入れなかったことがあり、それが王猛という賢臣を失った後、苻堅の致命的な失敗に繋がっている。
鮮卑の建国した前燕と中原制覇のため雌雄を決する戦いを演じていた時、前燕の皇族の慕容垂が苻堅の下に亡命してきた。王猛は「慕容垂は傑物であり、龍や猛獣は飼い馴らすことはできない。これは除くべきである」と進言した[8]。しかし苻堅は「朕は正義をもって英雄を招き、世に稀な大業を成し遂げようと思っている」と述べて慕容垂を受け入れた[9]。また苻堅が慕容垂をはじめとする異民族を極端に優遇しているのは国家の災いとなるので除くべきと進言したが、これも受け入れられなかった[10]。苻堅が華北の軍を興して東晋に南征を計画した時には「東晋は江南に逼塞しているがよく治まっており、中国王朝としての正統性を持っているので、攻撃してはいけない」と反対した[11]。死に臨んでも苻堅に遺言として「願わくは晋をもって図とするなかれ」と奏上した[12][注釈 2]。また王猛は国家の重要事として東晋とは友好を結ぶようにも提言していた[12][注釈 2]。また慕容垂と同じように羌族の酋長の姚萇にも警戒し、慕容垂同様に徐々に排除して国の安泰を図るように遺言したという[8]。
しかし王猛の死から8年後、苻堅は華北の軍を興して南征に出て東晋軍に淝水の戦いで大敗。これを機に異民族の混成国家だった前秦では諸族の離反と自立が相次ぎ、慕容垂は後燕を、姚萇は後秦を建国して自立。苻堅は敗戦から2年後に姚萇によって殺害された。
聖王として語られることの多い苻堅だが、その功績の大半以上は王猛なしでは為し得ないものであった。
政治
[編集]軍国の内外の万機の事は、重大なものも細かいものも王猛が関与しない案件は無く、その政治は公平で、職責を果たさない役人は流罪に処し、民間に隠れている人を抜擢し、才知のある人を明らかにし、軍隊を整備し、儒学を尊び、農業を勧め、恥を知る心を教え、罪が無ければ刑罰を加えず、才能が無ければ官位に就けず、そこで諸事業は皆盛んになり、百官がつき従い、こうして軍隊が強くなり、国が豊かになり、泰平な世の中に近づいたのは王猛の力である、と王猛の手腕は高く評価されている[1][注釈 2]。王猛は重農主義への転換、官僚機構と法制の整備により前秦の国制を確立し、五胡十六国随一の強国を築き上げた[7][注釈 1]。
また王猛は学問・教育にも尽力し、永嘉の乱から学校は廃れて風俗も乱れていたが、それらを全て再建し、また長安を拠点にして街道を整備し、20里ごとに1亭、40里ごとに1駅を置いたので、旅行者は安心して必要な物を揃える事ができて手工業者や商人は安心して道ごとに商売できたという[13][注釈 3]。
脚注
[編集]注釈
[編集]引用元
[編集]- ^ a b c 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P204
- ^ a b 駒田『新十八史略4』、P110
- ^ a b 駒田『新十八史略4』、P111
- ^ 駒田『新十八史略4』、P114
- ^ a b 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P88
- ^ a b c 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P89
- ^ a b 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P205
- ^ a b 駒田『新十八史略4』、P120
- ^ 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P90
- ^ 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P91
- ^ 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P92
- ^ a b 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P93
- ^ 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P92