苻丕
哀平帝 苻丕 | |
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前秦 | |
第4代皇帝 | |
王朝 | 前秦 |
在位期間 | 385年 - 386年 |
姓・諱 | 苻丕 |
字 | 永叔 |
諡号 | 哀平皇帝 |
生年 | 不詳 |
没年 | 386年 |
父 | 苻堅(庶長子) |
年号 | 太安 : 385年 - 386年 |
苻 丕(ふ ひ)は、五胡十六国時代前秦の第4代皇帝。字は永叔。3代皇帝苻堅の庶長子。略陽郡臨渭県(現在の甘粛省天水市秦安県の東南)を本貫とする氐族である。
生涯
[編集]少年時代から文武両道の才能があり聡明だったが、生母が正室でなかったので前秦の世子に立てられず、弟の苻宏が代わって太子となった。やがて父から長楽公に封じられ、雍州刺史・使持節・征東大将軍などを歴任した後に、尚書令として朝廷に復帰した。378年から379年にかけて東晋の襄陽を姚萇・慕容垂と共に攻め落とし、その後都督関東諸軍事・征東大将軍・冀州牧として鄴を鎮守した。
383年、父の苻堅が淝水の戦いで東晋を相手に歴史的に大敗北を喫すると、河北では俄かに生じた大きな混乱の中で諸部族の離反が相次ぎ、翌384年には早くも鮮卑族の慕容垂らが自立して後燕を建国し鄴へと迫った。これを聞いた苻丕は名将として知られる配下の石越に1万余りの歩兵・騎兵を与え、慕容垂の息子である慕容農の討伐を命じたが、石越は敗れて討ち取られてしまった。苻丕は使者や手紙を送って慕容垂の不義を詰ったが、慕容垂の軍勢は鄴へと到達し、丁零・烏桓の兵20万余りを動員して攻勢を開始した。苻丕は氐軍を率いて頑強に防城し、丁零や東晋朝廷らの救援を求めるなど調略を用いて抵抗を試みたが、城内の飢餓が深刻化した385年8月、苻丕はついに民6万を率いて鄴を脱出し、晋陽に本拠を移した。
この時、長安は既に攻勢により陥落しており、苻堅が西燕の君主の慕容沖の攻勢により長安を陥落させられ、逃走中に後秦の君主の姚萇に捕らえられ処刑されると、苻丕は部下の進言を受けて晋陽の南にて皇帝に即位した。苻堅の諡号を宣昭皇帝、廟号を世祖として仮の廟を立て、文武百官を任命して息子たちを諸侯王に封じた。当初は王猛の息子である王永らの目覚しい活躍もあり、孤立する前秦の残党を糾合して晋陽を中心に一大勢力を形成したが、しかし後燕の侵攻によりその領土は次第に削られるようになった。386年8月、事態打開のため南下して平陽に拠点を移した。
この動きに脅威を懐いた西燕君主の慕容永は、同年10月に前秦軍との決戦を挑んでこれを撃破し(襄陵の戦い)、大勝利を挙げて王永・倶石子ら苻丕の重臣を戦死させた。苻丕は近臣や禁衛軍を失い、一族の苻纂から殺害されることを恐れて東垣へ逃亡しようとしたが、途中で東晋の揚威将軍馮該の軍勢に邀撃されて敗死した。後を継いだ苻登は喪を発し、苻丕を哀平皇帝と諡した。
苻丕の残軍を統率するようになった苻纂は、苻丕の子である苻寧を枹罕の苻登の下へ送って連携を図ろうとしたが、先んじて苻登が帝位に即いたので、不満を抱きながらも苻登から魯王を拝した。387年、苻纂は苻師奴に殺害され、苻師奴がその勢力を乗っ取ったが、やがて後秦に敗れてオルドスへ逃走した。こうして苻丕の晋陽政権の残党は消滅した。
人物
[編集]幼い頃より聡明で学問を好み、経史に広く通じていた。苻堅と軍略について語ると、苻堅はその見識を大いに称賛し、鄧羌に命じて兵法を教授した。文武に才幹を有し、民を納めて罪を裁く様は苻融に次ぐものであった。将軍としても士卒を善く慰撫していたの、大いに信頼されていた。
宗室
[編集]兄弟
[編集]子
[編集]脚注
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