苻堅

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宣昭帝 苻堅
前秦
第3代大秦天王
王朝 前秦
在位期間 357年 - 385年
姓・諱 苻堅
永固
文玉
諡号 宣昭皇帝(前秦苻丕より)
壮烈天王(後秦姚萇より)
文昭皇帝(後涼呂光より)
廟号 世祖(前秦苻丕より)
生年 338年
没年 385年
苻雄
苟氏
后妃 苟氏中国語版
年号 永興 : 357年 - 359年
甘露 : 359年 - 364年
建元 : 365年 - 385年

苻 堅(ふ けん)は、五胡十六国時代前秦の第3代君主。永固[1]幼名堅頭。元の姓は蒲といい、後に苻と改めた。略陽郡臨渭県(現在の甘粛省天水市秦安県の東南)を本貫とする族であり、出生地は魏郡鄴県である。父は苻雄。母は苟氏。宰相の王猛を重用して前燕前涼前仇池を滅ぼし、五胡十六国時代において唯一となる華北統一を成し遂げると、さらには東晋領の益州をも支配下に入れ、前秦の最盛期を築いた。中華統一を目論んで大々的に東晋征伐を敢行したが、淝水の戦いで大敗を喫した。これにより統治下にあった諸部族の反乱・自立を招いて前秦は衰退し、苻堅は志半ばでこの世を去った。

生涯[編集]

出生から苻生殺害まで[編集]

前秦の成立[編集]

出生時の名は蒲堅であるが、本記事では苻堅の表記で統一する(他の一族も同様に苻姓で表記する)。

元々、苻堅の祖父である苻洪は略陽郡を根拠地とする氐族の酋長であったが、彼は328年に部族の民を従えて後趙へ帰順しており、その一族は後趙の首都であるに移住していた。その為、苻堅は鄴城内の永貴里という村で338年に生を受けた。349年5月に苻洪は後趙から離反し、枋頭(現在の河南省鶴壁市浚県の南東)を拠点として独自行動を取るようになったが、苻堅も含めた一族は未だ鄴に取り残されたままであった。同年12月、伯父の苻健に従い、苻堅ら一族は機を見て鄴城から脱出した。そして関所を突破すると、枋頭へ逃亡して苻洪と無事に合流を果たした。

350年、苻洪は大都督大将軍大単于・三秦王を自称して明確に自立を標榜し、自らの姓を『蒲』から『苻』に改めた。苻堅ら一族もこれに倣って改姓した。同年3月に苻洪が没し、嫡男の苻健が後を継いだ。11月、苻健は長安を占拠していた京兆豪族杜洪張琚らを放逐し、関中一帯を支配下に入れると、長安を都とした。

351年1月、苻健は天王・大単于の位に即き、国号を大秦と定めた(前秦の建国)。この時苻堅はかつて苻洪や父の苻雄も授かってきた、伝統ある将軍位である龍驤将軍に任じられた。354年5月、父の苻雄が病によりこの世を去ると、苻堅は父の爵位である東海王を継承した。当時、前秦の重臣である呂婆楼強汪梁平老らはいずれも『王佐の才(君主を補佐して成功に導く事が出来る才能)』の持ち主と評される人物であったが、苻堅は彼らと交流を深めて傘下に引き入れると、朋党(政治思想や利害を共通する官僚同士が結んだ党派集団を指す)を結成した。

姚襄討伐[編集]

苻健は355年6月に崩御し、その三男である苻生が帝位を継いだ。357年4月、関中攻略を目論む羌族酋長の姚襄が杏城(現在の陝西省延安市黄陵県の南西)まで進出し、従兄の輔国将軍姚蘭敷城を攻撃させ、さらにその兄の曜武将軍姚益・左将軍王欽盧には北地に住む羌の諸部族を招集させた。5万戸余りの諸部族がこの呼び掛けに応じ、集まった兵は2万7千を数えた。姚襄はさらに軍を進め、黄落(現在の陝西省銅川市王益区黄堡鎮)に拠点を構えた。

苻生の命により、苻堅は衛大将軍苻黄眉・平北将軍苻道・建節将軍鄧羌と共に歩兵・騎兵併せて1万5千を率い、姚襄討伐に向かった。これに対し、姚襄は堀を深く塁を高くして守りを固め、戦いに応じなかった。5月には鄧羌が騎兵3千を率いて陣門に迫る形で布陣して敵軍を挑発すると、姚襄は全軍を挙げて撃って出た。すると鄧羌は相手に優勢に立っていると思わせて敢えて軍を退き、姚襄軍を本陣から遠く引き離させた。姚襄はまんまとこの偽装退却に引っ掛かり、追撃を続けて三原(現在の陝西省咸陽市淳化県方里鎮)にまで至ったが、ここで鄧羌は騎兵を反転させて突撃を掛けた。これを合図に苻堅らもまた大軍でもって突撃を仕掛け、姚襄を大敗させてその首級を挙げた。これにより敵軍は戦意を失い、弟の姚萇は敗残兵を纏め上げて前秦に降伏した。姚襄の旧臣である薛讃権翼もまた降伏し、以降は前秦に仕えるようになった。苻堅は彼らと交流を深め、自らの朋党に引き入れた。

政変決行[編集]

第二代皇帝の苻生は残忍にして暴虐な人物であり、いつも遊び呆けては酒を飲み、官吏女官などの殺戮を繰り返していた。苻生の即位以降に殺された人間は后妃・公卿から下僕に至るまで1000を遥かに超えたといわれ、苻堅もまた幾度も苻生により害されそうになったが、左衛将軍李威の取りなしにより危機を免れていた。苻堅はこれに深く感謝し、李威に対しては父に接するかの如く師事するようになった。

357年5月、薛讃・権翼はこのような状況を憂えて密かに苻堅へ「主上(苻生)は疑い深く残忍・暴虐であり、内外問わず人心は離れております。今、秦祀(前秦の祭祀)を受け継ぐべきは、殿下(苻堅)に非ずして一体誰でしょうか!早々に計を為す事を願います。他家の者に国を奪われる事だけはあってはなりませんぞ!」[2]と告げた。苻堅はこれに深く同意し、彼らを謀主(参謀役)として抜擢した。またこの時期、尚書呂婆楼の進言により王猛を側近として迎え入れている。

特進梁平老らもまた、苻生の残虐ぶりに際限が無い事を憂えており、幾度も苻堅へ言葉を尽くして苻生誅殺を勧めていた。さらに6月にも梁平老らは再び苻堅へ「主上は徳を失っており、(身分の)上下問わず嗷嗷(叫び声が飛び交って騒がしい様を指す)としております。人びとは異心を抱き、燕(前燕)・晋(東晋)の二方が隙を窺って動こうとしております。禍が発して家・国が共に滅びるのが最も恐れる所です。これは殿下の事業であり、どうか早急に図っていただきますよう!」と強く勧めた。苻堅は内心では同意していたものの、苻生の矯勇(勇猛であり行動が迅速である事)を警戒していたので、なかなか実行に移す事ができなかった。

ある夜、苻生は侍婢(侍女)へ「阿法(苻堅の兄の清河王苻法の幼名)の兄弟も信用ならんな。明日にでも除くとするか」と漏らしたが、その侍婢は苻法へこの事を密告した。その為、苻法は先んじて政変を決行し、梁平老・光禄大夫強汪らと壮士数百人を率いて雲龍門より宮殿へ突入した。これに苻堅も呼応し、呂婆楼と共に麾下の兵数百を率い、軍鼓を鳴らして進軍した。これにより宮中の将兵は戦意喪失し、みな武器を捨てて苻堅に従った。この時、苻生はまだ酔い潰れて眠っており、苻堅の兵は彼を別室に連行すると、越王に降格してから殺害した。

天王即位から前燕併呑まで[編集]

即位[編集]

苻生を殺害した後、苻堅は群臣からの皇帝即位の要請を受けたが、苻堅自身は即位するつもりはなく兄の苻法に即位を勧めていた。だが、苻法もまた「汝こそが嫡男である。また賢人であるから立つべきであろう」と述べ、 自らが庶子(側室の子)であった事から勧めに応じなかった。その後苻堅の母である苟氏の手回しもあり度重なる群臣の要請を受けた苻堅は、ようやく君主の座を継承する事を決意したが、皇帝の号は名乗らず「大秦天王」の号を称した。そして年号を永興と改元して封爵と人事刷新を行い、この際に後に宰相に就任する王猛も中書侍郎に任じられている。

359年、侍中・中書令・京兆尹に任じられた王猛はかねてより酒に耽っては横暴な振る舞いを繰り返し、さらに財貨や子女を収奪していた外戚の強徳を独断で処刑した。王猛はさらに鄧羌らと共に綱紀の粛正に取り掛かり、数十日の間に貴族や役人の不正を洗い出した。これにより苻堅の王猛への信頼は増大し、10月には王猛を吏部尚書に任じ、11月には尚書左僕射を加え、さらに12月には輔国将軍・司隷校尉に昇進させた。370年には苻堅は王猛を司徒録尚書事に任じるなどしたが、当の王猛は身に余るとして頑なに辞退した。

内政改革[編集]

苻堅は即位してからは不要な官職の統廃合、農耕・養蚕の奨励、学校の設立などに力を注ぎ、また未亡人や身寄りのない者・老人で生活が困窮している者には穀・帛を支給し、田租(田地に課された租税)の半分を免除した。さらに、優れた才能を持つ者、孝友・忠義な者、称賛すべき徳業がある者を登用する為、各所に該当者の報告を命じた。これらの政策により、前秦の民は大いに喜んだという。

358年秋、前秦領内において大旱魃が起こると、苻堅は食膳を減らすと共に楽器の演奏を中止し、宝物や絹織物は全て兵士へ分け与え、妻の苟氏に命じて後宮での華美な織物の使用を禁止した。また、山沢を民間にも開放して資源を公私で共用し、戦役を取りやめて兵の休息にも努めた。これにより領内の民は養われ、旱魃は大きな禍とはならなかったという。同年12月、学官(学問を教授する官職)を国内に広く配置するため、学生で一経に通じた者(儒教の基本的な経典である『詩』『書』『礼』『易』『春秋』『楽』のうち、一つでも精通している者)を招聘してこの任務に充てさせ、公卿以下の子孫に学問を学ばせた。これらによって民は勧励され、前秦は士人(学問・道徳等を備えた尊敬に値する人物を指す)の多い土地として知られるようになった。苻堅は宗室や外戚であっても才能の無い者は用いなかったので、内外の官はみな自らの負った任を全う出来たという。盗賊は活動を止めて赦しを請う者が相次ぎ、田畑は開墾・修整され、国庫は充分に満ち足りるようになり、典章(朝廷の規則・制度)や法物(祭祀等に用いる器物)で不足しているものは無くなったという。

364年9月、西晋の制度に倣い、公国(諸公が治める領土)に各々三卿(郎中令・中尉・大司農)を配置するように命じた。官職については各々の公国が独断で登用する事を赦したが、郎中令のみは中央から任官する事と定めた。

当時、豪商である趙掇・丁妃・鄒瓫らはみな家に多大な資産を蓄えており、車・衣服の華やかさは王侯にも例えられるほどであった。その為、前秦の諸公は先を争って彼らを公国の卿に据えようとした。黄門侍郎程憲はこの状況を憂えて苻堅へ豪商の排斥を訴えると[3]、苻堅は豪商を国卿に据えた者を審問すると共に、詔を下して[4]能力に適さぬ者を登用している諸公を尽く侯に降爵した。また士人以上でなければ都城の百里内で車馬に乗る事を禁じ、さらに金銀・錦繡(精美な織物)を職人・商人・奴僕・婦女が身に着ける事を禁じた。そしてこれを犯した者は棄市(処刑して遺体を市中に晒す事)とすると宣言した。これにより、平陽平昌九江陳留安楽の五公が爵位を侯に降された。

各地の反乱の鎮圧[編集]

遡って358年2月、苻堅は前秦の大将軍冀州を務めていたが、前年に東晋に寝返った張平の討伐に乗り出した。もともと張平は後趙の并州刺史を務めていたが、後趙末年の動乱に乗じて300を超える砦を所有し、胡人漢人問わず10万戸余りを従え、征鎮[5]以下の官職を独断で任命するなど、新興雁門西河太原上党上郡の地を実効支配するようになっており、前秦に称藩していたのも形式的なものに過ぎなかった。

3月には苻堅自らも軍を率いて進軍すると、張平は全軍を挙げて迎撃に出た。張平の養子である張蚝は単身で出撃すると、大声を張り上げながら四、五回に渡って前秦の兵陣へ突撃し、大いに荒らし回った。これを見た苻堅はその武勇に惚れ込み、諸将へ彼を生け捕りにするよう命じ、成功した者には褒賞を約束した。これを受け、鷹揚将軍呂光が張蚝に斬りかかって傷を負わせ、その隙に鄧羌が彼を取り押さえて捕縛し、苻堅の下へ送った。張蚝が捕らえられた事により軍は崩壊し、張平もまた戦意喪失して苻堅に降伏した。苻堅はこれを受け入れて張平の罪を許し右将軍に任じ、張平配下の3千戸余りを長安に移住させた。また、張蚝を武賁中郎将に任じ、さらに広武将軍を加えた。苻堅は張蚝を厚遇し、前秦随一の猛将といわれた鄧羌と共に常に自らの傍近くに控えさせるようになった。前秦の人々は彼らを「万人の敵(一万の兵に匹敵する程の強さ)」と称賛したという。その後しばらくして張平はまたも前秦に背いたが張蚝はこれには加わらず、361年9月に苻堅は再び討伐軍を派遣した。張平は前燕に救援を要請したが、幾度も臣従と離反を繰り返していた事から前燕も救援には応じず、ついに張平は滅ぼされた。

364年8月には苻生の弟であった汝南公苻騰が、365年10月には同じく苻生の弟であった淮南公苻幼が反乱を起こしたが、いずれも鎮圧された。これを受けて苻騰の反乱に荷担していた晋公苻柳・趙公苻双は367年に再び反乱を企み、魏公苻廋・燕公苻武を仲間に引き入れて決起するも、鎮圧されいずれも下賜・処刑された。魏公苻廋に対しては苻堅は乱に荷担した理由を問うと、苻廋は「臣には素より反心などありませんでしたが、兄弟はしばしば逆乱を企てました。臣もまたこれらに連座するのを恐れ、謀反を起こしたのです」と答えた。苻堅は涙を流して「汝は素より長者(徳の高い人物)であり、今回の件が汝の心ではない事も固く知っている。高祖(苻健)の後継ぎを絶やす事は出来ぬ」と述べ、苻廋に死を賜ったが、彼の7人の子については罪を免じた。また、その長男には魏公を襲名させ、他の子もみな県公に封じ、苻生とその諸弟の中で後継ぎのいない家を継承させた。これを知った母の苟氏は「廋(苻廋)と双(苻双)は共に反乱を起こしましたが、なぜ双にだけ後を継がせる者を置かないのですか(苻双は苻堅の同母弟)。」と問うと、苻堅は「この天下は高祖(苻健)の天下です。高祖の子を絶やさせる訳にはいきません。また、仲群(苻双)は太后(母の苟氏)を顧みず、宗廟を危ぶめんと謀りました。天下の法というのは私情に囚われるべきではありません」と答えた。

前燕併呑[編集]

369年7月、東晋大司馬桓温前燕の討伐(第三次北伐)に乗り出して枋頭まで進出すると、前燕皇帝の慕容暐は虎牢以西の地の割譲を条件に前秦に援軍を要請した。苻堅は群臣を集めてこの件を協議すると、百官はみな「かつて桓温が前秦に攻めてきた際に前燕は救援に来なかったのに、これを助ける義理はありません」と反対したが、王猛は密かに苻堅へ「前燕は強大といえども桓温の敵にはなりえず、もし桓温が前燕を攻めてくれば前秦もただでは済みません。ひとまず桓温を撃退した後に前燕を征伐すべきです」と勧めると、苻堅はこれに同意した。かくして前秦は前燕と結んで桓温を撃退し、これ以降前燕と前秦は修好を結ぶようになり、たびたび使者が往来するようになった。

同年11月に前燕の名将であった慕容垂(初代君主慕容皝の五男)が一族を率いて苻堅の下へ亡命した。かつて前燕の国政を主管していた太宰の慕容恪が亡くなった時、苻堅はこれを好機として前燕併呑を目論んだが、慕容垂の威名を憚って手を出す事が出来なかった。その為、慕容垂の亡命を聞き、大喜びして自らこれを出迎え、慕容垂もまたこれに深く感謝した。苻堅はまた世子の慕容令・甥の慕容楷の才覚も愛しており、いずれも礼をもって厚遇し、巨万の富を下賜し、いつも進見する度に矚目してこれを見守ったという。関中の士民もまた、かねてより慕容垂父子の名を聞き及んでいたので、みな彼らを慕ったという。これを聞きつけた王猛は慕容垂の才略を危険視して誅殺を勧めたが、苻堅は全く取り合わなかった[6]。そして慕容垂を冠軍将軍に任じて賓徒侯に封じ、慕容楷を積弩将軍に任じた。

前燕皇帝の慕容暐は国土割譲の約束を反故にしたため、これに激怒した苻堅は輔国将軍王猛・建威将軍梁成・洛州刺史鄧羌に3万の兵を与え、慕容令[7]を案内役として前燕への侵攻を開始した。翌370年5月、苻堅は王猛を総大将に任じ、楊安・張蚝・鄧羌ら10将と歩兵騎兵合わせて6万の兵を与えて、前燕討伐に向かわせた。11月には苻堅は李威を太子の補佐として長安へ残し、苻融には洛陽の守備を任せ、自ら精鋭10万を率いて前燕の都である鄴に向かった。鄴はかつて前燕に滅ぼされた夫余の王太子だった余蔚の裏切りにより陥落し、逃亡を図った慕容暐らも捕縛された。慕容暐と面会した苻堅は逃亡を図った理由を詰問すると、慕容暐は「狐は死す時、生まれ育った丘に頭を向けるという。我も先人の墳墓の前で死ぬ事を願ったまでだ」と答えた。苻堅はこれを哀れに思って縄を解かせ、さらに一旦宮殿に帰らせると、改めて文武百官を伴ってから儀礼に則って降伏させた。慕容暐は苻堅へ、孟高と艾朗が忠義に殉じて戦死したこと(彼らは逃亡中に慕容暐を庇って討ち死にした)を語ると、苻堅は彼らを厚く埋葬してその子らを郎中に抜擢した。また苻堅は前燕の将軍悦綰の忠節を聞き、彼に会うことが出来なかった事を惜しみ、その子もまた郎中に抜擢した。鄴の陥落により、諸州の牧・太守・六夷の軍などは尽く前秦へ降伏した。

同月、苻堅は大赦を下すと共に、詔を下して統治者の交代を宣言した[8]。この戦いの論功により苻堅は王猛を車騎大将軍に任じたのを始めとして将士へ各々戦功に応じて恩賞を与え、慕容暐と前燕の后妃・王公・百官については罪を免じた上で鮮卑4万戸余りと共に長安へ移住させ、慕容暐を新興侯に封じ、前燕の旧臣である慕容評を給事中に、皇甫真を奉車都尉に、李洪を駙馬都尉に任じ、その他の者についても封授した。後に将軍の慕容垂は「臣の叔父評(慕容評)は、燕の悪来輩(奸臣)であり、二度も聖朝を汚させるべきではありません。願わくば陛下が燕の為にこれを戮さん事を」と訴え、苻堅は処刑については認めなかったものの慕容評を范陽郡太守に任じて地方へ左遷し、前燕の諸王についても尽く辺境の地に左遷している。また一部を除く郡県の牧・太守・県令・県長については前燕の時代通りに役職を授けた。伴って散騎侍郎の申紹韋儒に関東の州郡の巡行を命じ、農桑を奨励させ、窮困な者を援助させ、死者を收葬させ、その節行を内外へ知らしめさせた。加えて前燕の制法で民を苦しめているものについては、すべて排除した。

12月には鄴を発って長安への帰還の途に就き、帰還の途上、枋頭において再び父老と酒宴を催した。また、枋頭を永昌県と改称し、苻堅の存命中は賦役を免除とした。さらに永昌へ達すると、この地で飲至の礼(宗廟で酒を飲み、先霊に戦勝報告を行うこと)を行い、労止の詩(戦役の終わりを祝う詩)を歌いながら、群臣と酒宴を共にした。

371年1月、関東(函谷関以東の地。おおむね前燕の支配領域を指す)の豪族・諸々の夷族の15万戸[9]を関中に移し、烏丸の諸部族を馮翊北地に、丁零翟斌の部族を新安、澠池に移した。また陳留・東阿に住まう1万戸を青州に移した。また諸々の乱により流浪の身となった者や、戦禍を避けて遠くに移ってきた者で、旧業(元々の仕事)に還りたいと望む者については全て聞き入れた。8月、王猛は前燕平定の功をもって鄧羌を司隷校尉に任じるよう請うと、苻堅は詔を下し[10]、司隷校尉では不足しているとして鎮軍将軍に昇進させて位を特進とした。11月、王猛は六州を統治する任が自らには重すぎるとして、上疏して自分より有能な者に統治を代わらせるよう勧め、代わりに一州を統治する事を求めた。苻堅は詔を下し[11]、王猛でなければこの大任は務まらないとして侍中の梁讜を鄴に派遣して王猛を諭させ、これまで通り政務に当たらせた。3月、苻堅は詔を下し[12]、経学や才芸に秀でている者を郡県へ募ると共に、百石以上の官位でこれらの才能を満たしていない者は庶民に戻すよう命じた。

諸勢力服属から華北平定まで[編集]

前仇池を滅ぼす[編集]

元々、前仇池は前秦に称藩していたが、370年に仇池公楊世が没して子の楊纂が後を継ぐと、彼は前秦と国交を断絶して東晋から封爵を得るようになった。だが、楊世の弟である楊統は楊纂が後を継ぐことを認めずに武都で挙兵したので、両者は国を分けて争うようになった。仇池の内乱を好機と見た苻堅は371年に仇池征伐を命じて楊纂を降伏させ、また仇池の民を関中へ移住させ仇池を無人の地とした。

前涼・吐谷渾・隴西鮮卑を服属[編集]

さらなる国土拡大を目指した苻堅は371年4月、王猛に命じて涼州一帯を支配する前涼の君主である張天錫に対し、前秦への服属を求める書状[13]を送らせ、恐れをなした張天錫は前秦の傘下へと入った。また同年5月には青海一帯に割拠する吐谷渾の君主辟奚も、前秦に称藩する旨を告げ馬千匹・金銀五百斤を献上した。しかし9月に河州刺史の李弁が涼州に異動すると。張天錫はこれを前涼征伐の準備ではないかと思って大いに恐れ、東晋と密約を結んで372年の夏に上邽に集結して共に前秦を討つ事を計画した。同時期には益州刺史の王統が、度堅山に割拠する隴西鮮卑(乞伏部)の乞伏司繁も降伏させている。

国家の安定[編集]

372年6月、苻堅は王猛を長安に呼び戻し、丞相・中書監・尚書令・太子太傅・司隷校尉に任じ、特進・散騎常侍・持節・車騎大将軍・清河郡侯は以前通りとした。また、陽平公苻融を使持節・都督六州諸軍事・鎮東大将軍とし、王猛に代わって冀州牧に任じ、関東を統治させた。王猛は幾度も上書して辞退しようとしたが、苻堅は認めなかった[14]。宰相となった王猛は全ての官員を総監する立場として、事の大小に関わらず国家の内外のあらゆる政務に携わり清廉・倹約な執政に努めた。苻融もまた関東を良く統治し、優秀な官吏を選抜して規律を正した。また、尚書郎房黙・河間相申紹を治中別駕に、清河出身の崔宏を州従事、管記室に任じた。この時期、国内で旱魃が発生すると、苻堅は百姓へ区種法(旱魃時に適した農法)に則って農作を行わせた。さらに穀物の不作を憂慮し、穀帛の消費を節約し、太官・後官(後宮の官員)は常に二等を減じ、百官の俸給も序列に応じて減じた。魏・晋の士籍を復活させ、使役については常設の規則とした。

永嘉の乱以来、学校は廃れて風俗も乱れていたが、苻堅は王猛の補佐の下、学問・教育の拡充に尽力してそれらを次第に全て再建し、また儒学に重きを置いた教育を推進した。また禄を食みながら職責を全うしない者を放逐し、隠居して世に用いられていない者を発掘し、才能ある者を顕彰した。罪無き者が刑される事は無く、才無き者が任じられる事は無かった。外においては軍備を整え、内においては儒学を尊ばせ、農業と養蚕を励行し、廉恥をもって教化に当たった。さらに長安から諸州に至るまでの区間には、道の両脇に槐や柳を植えて街道を整備し、20里ごとに1亭、40里ごとに1駅を置いたので、旅行者は安心して必要な物を揃える事が出来、手工業者や商人は安心して道ごとに商売できたという。これにより諸々の事績は尽く盛んとなり、故に国は富み兵は強くなり、関・隴の地には平安が訪れ、百姓の生活も安定した。百姓達は前秦の統治を祝って歌謡を作ったという[15]

王猛の死[編集]

375年6月、王猛は病床に伏すようになった。苻堅は自ら南北郊・宗廟・社稷に祈りを捧げ、近臣を黄河五岳の諸々の祠に派遣して祈祷させ、王猛の病状が少し良くなると境内の死罪以下に大赦を下した。王猛は上疏し[16]、これまで受けた恩に謝すと共に、時政についても論じた。この進言が益する所は非常に大きく、苻堅はこれを覧ずると涙を流し、左右の側近も悲慟した。

7月、病状が重篤となると、苻堅は自ら病床を見舞い、後事を問うた。王猛は「晋(東晋)は呉越の地に落ちぶれてはいますが、天子は継承されています。隣人として親しく接する事が、この国の宝にもなります。臣が没した後は、願わくば晋を図る(討伐を目論む)事のありませんよう。鮮卑慕容垂ら)や姚萇ら)こそが我らの仇であり、必ずや煩いとなります。時期を見て彼らを除き、社稷の助けとして頂きますように」と答えた。その後、間もなく息を引き取った。

苻堅は侍中を追贈して武侯と諡し、丞相などの位は生前のままとし、東園温明の秘器、帛3千匹、穀1万石を下賜した。謁者・僕射に喪事を監護させ、葬礼の一切は前漢大将軍霍光の故事に依るものとした。苻堅の悲しみぶりは大変なものであり、葬儀に際しては三度に渡って慟哭した。そして太子の苻宏に向かって「天は我に中華を統一させたくないというのか。何故我から景略(王猛の字)をこんなに速く奪ったのだ!」と嘆いた。

王猛の死後、苻堅は詔を下し[17]、儒教の尊崇と老荘思想・図讖(予言書の類)の禁止を命じ、これを犯す者は処刑する事とした。そして、選りすぐりの学生と、太子や公侯・百官の子全員に学業を受けさせ、中外の四禁・二衛・四軍長上の将士全員にも学門を修めるよう命じた。また、20人の学生に対し、1人の経生(儒教経典を教える者)をつけ、その音句について教読させた。後宮にも典学を置き、内司(宮中の女官)を立てて講義させた。さらに宦官や女隸の中から敏慧(機敏にして知恵がある事)な者を選抜し、博士の下で経を学ばせた。尚書郎王佩は禁令に反して図讖を読んだので、苻堅は王佩を処刑した。これにより、讖を学ぶ者はいなくなった。

376年2月、苻堅は詔を下し[18]、使者に各地の郡県を周巡させ、領民の苦しみについて調べるよう命じた。

華北統一[編集]

376年5月、苻堅は前涼征伐の詔を下し[19]、衛将軍苟萇・左将軍毛盛・中書令梁熙・歩兵校尉姚萇らに13万の兵を与えて前涼への侵攻を開始し、また同時に尚書郎閻負・梁殊の2人を前涼への使者として派遣し降伏を進めたが、徹底抗戦を決意した張天錫は2人を兵士に命じて射殺させた。しかし前秦軍が姑臧まで進軍すると張天錫は降伏を決断し、自らを縛り上げて棺を伴って降伏した。苟萇はその戒めを解いて棺を焼き払うと張天錫を長安へと送致し、これにより涼州の郡県はみな前秦へ降伏し、ここに前涼は滅亡した。

同年10月、鉄弗部の大人の劉衛辰の救援要請を受けた苻堅はこれに応じ、劉衛辰を嚮導(案内役)として幽州刺史・行唐公苻洛を北討大都督に任じ、幽州・冀州の兵10万を与えて代の攻略を命じた。また、并州刺史倶難・鎮軍将軍鄧羌・尚書趙遷・李柔・前将軍朱肜・前禁将軍張蚝・右禁将軍郭慶らを東は和龍より、西は上郡より出陣させ、総勢20万の兵を苻洛軍に合流させた。代王拓跋什翼犍は病により自ら軍を率いる事が出来ず、諸部を率いて陰山の北へ逃走したが、高車の反乱に遭い、四方から略奪を受けて牛馬を養う事もできず、最後は子の拓跋寔君・甥の拓跋斤の謀反により諸子諸共殺害されてしまった[20]。ほどなくして入軍した苻洛の軍により事態は収拾され、ここに代は滅亡した。

代国平定後、苻堅は代の長史である燕鳳を召し出してこの混乱の原因を尋ねると、燕鳳は起きた事(拓跋寔君・拓跋斤の謀反)をありのままに答えた。これに苻堅は「天下の悪である」と述べ、拓跋寔君と拓跋斤を捕らえると長安へ連行し、車裂きの刑に処した。また拓跋什翼犍の諸子に拓跋窟咄という人物がおり、拓跋寔君・拓跋斤の反乱を逃れて立派に成長していたが、苻洛は彼を長安に移らせると同時に苻堅へ書を送り、拓跋窟咄を太学に入れさせて教育を受けさせた。さらに苻堅は拓跋珪(拓跋什翼犍の孫。北魏の太祖道武帝)を長安に移そうと考えたが、燕鳳は上表[21]して匈奴独孤部大人の劉庫仁と鉄弗部大人劉衛辰に代の地を分割統治させ、拓跋珪が成長した後にこれを引き継がせるよう固く請うた。苻堅はこれに従って代の民を二部に分け、黄河東部を劉庫仁に、黄河西部を劉衛辰に治めさせ、各々に官爵を与えてその衆を統べさせた。

これより以前に前秦が前涼を征伐した時、西方の障壁となっている氐族・羌族も併せて討つ事が議論され、苻堅は前秦へ服属するよう説得に当たるよう命じていた[22]。そして代の平定後苻堅は殿中将軍張旬を先発させて氐族・羌族を慰撫するよう命じ、庭中将軍魏曷飛に騎兵2万7千を与えて後続させた。だが、魏曷飛は彼らが頑なに服従しない様に腹を立て、兵を率いて攻撃し、大いに略奪してから帰還した。苻堅は命に背いたことに激怒し、魏曷飛を鞭打ち二百回を課し、その前鋒督護儲安を処刑して氐族・羌族に謝罪した。彼らは大いに感じ入り、8万3千余りの部落が降伏した。また、雍州の士族の中には過去の反乱以降、河西において流浪の身となっている者が多くいたが、ここにおいてみな前秦に帰順した。こうして苻堅は前涼・代・氐族・羌族を服属させ、西晋の滅亡以来初めて華北の統一に成功した。

東晋への侵攻と敗北[編集]

南征開始[編集]

376年3月の東晋領の南郷の制圧を皮切りに、苻堅は東晋への侵攻を開始し、378年2月に苻堅は苻丕・慕容暐・慕容垂・姚萇らに命じて東晋領の襄陽への侵攻を開始した。しかし苻堅の長男の苻丕は半年以上に渡って襄陽への包囲を続けたが、一行に攻め落とす事はできなかった。これに対し苻堅は「丕らは費用を費やしておきながら成果がなく、まことに貶戮すべきといえる。しかしながら戦闘は既に長期に渡っており、このまま撤退するわけにもいかぬ。故に特別に今回の件は不問とするので、成功をもって罪を購うように」と命じ、使者を派遣して苻丕らを厳しく叱責させると共に、苻丕に剣を下賜して「来春までに勝利できなくば、汝が自らを裁くのだ。再び我と見える事はないぞ!」と告げさせた。その一方で苻堅は自ら軍を率いて苻丕らの救援に向かう事も考えたが、弟の苻融の諫言[23]もあり取り止めとなった。

戦いは翌379年2月に東晋軍の襄陽督護李伯護の裏切りにより前秦軍の勝利に終わり、東晋軍の指揮官であった梁州刺史朱序は捕縛されて長安へ送られた。朱序は節義を守った事を称えられて苻堅により度支尚書に任じられたが、逆に李伯護は忠を尽くさなかった事を咎められて斬首された。また前秦軍は同時期に広陵・魏興への侵攻にも成功し、その勢力範囲を拡大した。しかし379年5月、東晋の兗州刺史謝玄が戦線に加わると前秦軍は敗北を喫し、一時撤退を余儀なくされた。

苻洛・苻重の反乱[編集]

379年3月、苻堅は自身の従兄弟に当たる苻洛を使持節・都督益寧西南夷諸軍事・散騎常侍・征南大将軍・益州牧・領護西夷校尉に任じて、辺境の地へと派遣した。苻堅はかねてより苻洛を忌み嫌っており、また前378年には兄の苻重が後に許したとはいえ謀反を起こしていたこともあり、その動向を大いに警戒していた。代の平定という大功を挙げたにも関わらず恩賞が乏しく、常に辺境の地に追いやられていた苻洛は、かねてより大いに不満を抱いていた。その上で今回の異動を知った苻洛は、これは苻堅の陰謀であり、必ずや襄陽を鎮守している荊州刺史・梁成に自分を殺害させるつもりに違いないと決めつけ、ついには兄の苻重を引き入れた上で大都督大将軍・秦王を自称して反旗を翻した。しかし諸国はみな「我らは天子(苻堅)の藩国である。行唐公(苻洛)の反逆に従うことはない」と述べて応じなかったので、苻洛は大いに恐れて造反を中止しようと考えたが、躊躇して決断できなかった。王蘊・王琳・皇甫傑・魏敷は反乱が失敗したと見切りを付け、苻堅に密告しようとしたので、苻洛は先んじて彼らを処刑した。

4月、苻洛は7万の兵を率いて和龍を出発し、苻重もまた薊城の全軍10万を挙げて苻洛に呼応し、中山に駐屯した。苻洛の反乱を聞いた苻堅は、群臣を招集してこの事を議論した。歩兵校尉呂光は「行唐公は至親であるのに反逆を為しました。これは天下が憎む所です。願わくば臣に歩騎5万を与えてくだされば、これを平らげて見せます」と進み出ると、苻堅は「重・洛の兄弟は東北の一隅に拠り、兵も物資も備わっており、軽々しく当たるべきではない」と答えた。これに呂光は「彼の衆は凶威に迫られて無理やり従っているだけであり、一時的に蟻が集まっているのと変わりありません。もし大軍をもって臨めば、必ずやその勢いは瓦解します。憂うには足りますまい」と返した。

苻堅は和龍へ使者を派遣し、苻洛へ「天下は未だ一家となっていないのに、兄弟が分裂してしまった。どうして反したのか。和龍に戻るのだ。そうすれば、幽州を永遠に世襲の封土としよう」と述べ、説得を試みた。だが、苻洛は使者へ「汝は帰って東海王(かつて苻堅は東海王であった)へ伝えるように。幽州はいささか偏狭であり、万乗(皇帝)を迎えるには不足している。我は秦中へ向かい、高祖(苻健の廟号)の業を成し遂げる。もし我を潼関にて出迎えるならば、上公の爵を与えて本国に帰してやろう」と告げた。苻堅はこれに激怒し、左将軍竇衝・呂光に4万の兵を与えて討伐を命じ、さらに右将軍都貴を鄴へ急ぎ派遣して冀州軍3万を与えて前鋒とし、苻融を征討大都督として全軍を統括させた。屯騎校尉石越にも騎兵1万を与えて東萊から石陘へ向かわせ、海上を通って400里彼方の和龍を攻撃させた。軍の総勢は数十万に及んだ。

5月、竇衝・呂光は苻洛と中山において交戦し、これを大いに打ち破ると、苻洛と将軍蘭殊と捕らえて長安へ送った。苻重は薊城へ逃走したが、呂光はこれを幽州まで追撃して斬り殺した。石越もまた和龍を攻略し、平規とその側近100人余りを処断した。これにより幽州は平定された。苻堅は蘭殊を赦して将軍に登用し、苻洛もまた死罪を免じて涼州西海郡へ流した。功績により苻融を車騎大将軍・領宗正・録尚書事に任じた。

苻陽・王皮・周虓の謀反[編集]

382年3月、前秦の大司農・東海公苻陽(苻法の子で、苻堅の甥)、員外散騎侍郎王皮(王猛の子)、周虓(かつて東晋の梓潼郡太守を務めていたが、前秦の益州侵攻の折に捕らえられていた)は共に謀反を企てたが、事前に事が露見して捕らえられ、廷尉に下された。苻堅は彼らへ反乱を起こした理由を問うと、苻陽は「『礼』に則ったまでです。父母の仇とは天地を同じく出来ません。臣の父である哀公(苻法)は、罪無く殺されました。斉襄(斉の襄公)は九世祖の仇を取りました。ましてや臣のような立場であればどうでしょうか!」と答えた。苻堅は涙を流して「哀公の死は朕の在らぬ所で起きた。卿はどうしてそれを分からぬか!」と返した。また、王皮は「臣の父は丞相であり、佐命の勲がありました。にもかかわらず臣は貧賤を免れておりません。故に富貴となる事を図ったまでです」と答えると、苻堅は「丞相は臨終に際して卿を託し、田を治めるための十分な数の牛を残すよう望んだが、未だかつて卿の為に官を求めた事はなかった。子が父に及ばないのを知っているのに、どうしてそのようにできようか!」と叱責した。また、周虓は「この虓は代々晋の恩を担っており、晋鬼となるために生きてきた。どうしてまた理由など問おうか!」と返した。以前より周虓は幾度も謀反を企てていたので、左右の側近は苻堅へ誅殺を求めたが、苻堅は「孟威(周虓の字)は烈士であり、このように志を持っている。どうして死など恐れようか!殺してもその名を充足させるだけである!」と述べた。全員を赦免して誅殺せず、苻陽を涼州の高昌郡に流し、王皮・周虓を朔方の北に流した。

4月、苻融は上疏し、自らが姦萌(反乱の兆し)を止める事が出来ず、宗正の位を汚している(宗正は皇族を管轄する役職。苻法の反乱を止められなかった事を指している)として、私藩(自らの藩国である陽平郡)にて罪を請うた。苻堅はこれを許さずに逆に司徒に抜擢したが、苻融は固辞した。だが苻堅は荊州・揚州への侵攻に強い意欲を燃やしており、苻融にその重任を委ねようとしていたので、改めて征南大将軍・開府儀同三司の地位を授けた。

本格侵攻へ[編集]

382年10月、苻堅は群臣を太極殿に招集し、会議を開くと「我が大業を継承してから三十年が過ぎたが、汚れた賊どもを刈り取る事で四方をほぼ平定した。ただ、東南の一隅(東晋)だけが未だに王化に賓しておらず、我は天下が一つではないことをいつも思い、夕飯をも満足に食べる事が出来ていない。ゆえに今、天下の兵を起こし、これを討たんと考えている。武官・精兵を数えるに97万にも及ぶというから、我自らがその兵を率いて先陣となり、南裔を討伐しようと思うのだ。諸卿らの意見は如何か」と問うた。

秘書監の朱肜は進み出ると、百万の兵をもってすれば戦わずして容易く勝利出来るとして全面的に賛同し[24]、苻堅は「これこそ我の志である」と大いに喜んだ。だが尚書左僕射権翼は、東晋には未だ有望な人材がいる事から征伐は時期尚早と反対した[25]。これを聞いた苻堅はしばらく黙然としていたが、やがて「諸君はその志を各々述べるように」とさらに意見を求めた。さらに太子左衛率石越もまた天文に凶兆が観られる事、東晋が長江の険に守られている事、人心が離れていない事などを挙げ、時期を待つよう請うた[26]。他の群臣も各々様々な意見があり、議論は纏まらぬまま長らく続けられたが、遂に苻堅は「これこそいわゆる『道傍築室(多数の人間が好き勝手に意見を言い合えば、小さな小屋すら造るのは難しいという諺)』であり、これを成すに時間が掛かりすぎる。時に万端(多すぎる意見)は計を妨げるという。我は内なる心において決断せん!」と宣言し、会議を終わらせた。

群臣が退出した後、苻堅は苻融一人を留めて議論を続けて「古えより、大事において策を定めるは一両人(1人か2人)で十分だという。今、群議は紛紜(入り乱れて混乱する様)してしまっており、徒らに人意を乱してしまっている。そこで、我と汝でこれを決めようと思う」と述べた。だが、苻融もまた天文に凶兆が見られる事・東晋の君臣が強固に結びついている事・戦役が続いており疲弊している事を挙げ、権翼・石越の意見に全面的に賛同して征伐に反対した[27]。これを聞いた苻堅は顔つきを厳しくしてこれに反論した[28]が、苻融はさらなる懸念点として、苻堅が鮮卑族・羌族・羯族を寵遇して長安近傍に住まわせており、逆に古参の臣下や一族を遠方へと移らせている事から、大軍を率いて長安を出撃すれば彼らの反乱を招くと訴え[29]、王猛の遺言(鮮卑族・羌族の一派を次期を見計らって排斥する事)を思い出すよう涙を流して諫めた。だが、 苻堅が聞き入れる事は無かった。

その後も、苻融・尚書申紹・石越らを始めとした朝臣の大半はみな上書して言葉を尽くして出征を諫め、その回数は数十回にも及んだ。だが、苻堅は「我自らが晋を撃つのだ。その強弱の勢いを比べれば、疾風が枯れ葉を掃くようなものである。それなのに朝廷の内外ではみな反対する。誠に我の理解出来るところではない!」と憤るのみであり、遂に従う事は無かった。

苻堅は仏教を厚く尊崇し、仏教僧である釈道安を信任していた。その為、以前より群臣は釈道安へ「主上(苻堅)は東南(東晋)で事を為そうとしている。公はどうして蒼生(人民)のために一言(苻堅への進言)を致さないのか!」と詰め寄り、苻堅を説得するよう頼んでいた。同年11月、苻堅が東苑に赴いた際、釈道安を輦(天子の乗輿)に同乗させた。この時、苻堅は釈道安を顧みて「朕は公と共に呉越の地を南遊し、六師を整えて巡狩しようと考えている。また、九疑の嶺において虞()の陵墓へ謁し、会稽においての墓穴を仰ぎ見て、長江において漂い、滄海へ臨むのだ。なんと楽しい事であろうか!」と述べた。釈道安は群臣からの要請を受け、文徳によって遠方を慰撫すべきであり、徒らに自ら労を重ねて民を苦しませるべきではないと苻堅を諫めた[30]が、苻堅は聞き入れなかった[31]。釈道安はなおも、まず諸軍を進めて威圧すると共に使者を派遣して降伏を勧め、それでも従わなければ討伐すべきと勧めた[32]が、聞き入れる事は無かった。

苻堅が寵愛している張夫人もまた、今回の出征は天道にも人心にも背いているとして再考するよう請うた[33]が、苻堅は「軍旅(戦争)の事は、婦人が預かる所ではない!」と言って取り合わなかった。苻堅から最も寵愛を受けていた末子の中山公苻詵もまた、賢人の意見を聞き入れなかった事で国が滅んだ故事を引き合いに出し、苻融の意見を聞き入れるよう請うた[34]。だが、苻堅は「国には謀士がおり、これをもって大謀を決している。朝廷には公卿がおり、これをもって進否を定めている。これは天下の大事であり、孺子(青二才)の言がどうして辱しめてよいだろうか!」と述べ、聞き入れなかった。

その後、苻堅は灞上へ赴いた折、落ち着いた様子で群臣へ向けて、西晋武帝が群臣の反対を押し切って征伐を成し遂げた事を引き合いに出し、東晋征伐を断行する事を宣言すると共に[35]、これ以上の議論を拒絶した。太子苻宏は進み出て再考するよう訴え、釈道安もまた苻宏の意見に同調したが、苻堅は聞き入れなかった[36]。冠軍将軍・京兆尹慕容垂は進み出て、彼もまた武帝の呉征伐を引き合いに出し、群臣の意見よりも自身の判断を信じるべきであると訴えた[37]。苻堅はこれに大いに喜んで「我と天下を定める者は、卿一人である」と述べ、帛五百匹を下賜した。

これ以降も、慕容垂・姚萇らいつも苻堅へ、呉の平定や封禅の事(天下統一を天地へ知らせる儀礼)について説いていた。これにより苻堅はまずます江南攻略に意欲を燃やすようになり、夜通しでこの件を語り合ったという。苻融はまたも苻堅を諫め、天命が未だ中華の正統たる東晋にある事を挙げて征伐に反対したが、遂に苻堅は取り合わなかった[38]

全軍侵攻[編集]

383年5月、襄陽に進軍してきた桓沖率いる東晋軍を撃退した苻堅は、ついに総軍を挙げての東晋侵攻を敢行する旨の詔を下すと共に、諸州の馬を公私問わず徴発し、青年10人に1人を徴兵する事を命じた。また学問所において優秀な者はその文才を惜しんで弓兵とし、20歳以下の良家の子で武芸を有した才能豊かな者はみな羽林郎(皇帝直属の部隊)へと徴発した。これにより集めた良家の子らは3万騎余りに上り、 秦州主簿の趙盛之を建威将軍・少年都統に任じてこれを管轄させた。朝臣はみな苻堅の出征を望んでいなかったが、ただ慕容垂、姚萇、その他羽林郎の将兵らのみがこれに賛成していた。苻融はまたも苻堅に対して「慕容垂・姚萇は謀反を企んでおり、その誘いに乗って出征するべきではない」と訴えた[39]が、最後まで苻堅は聞き入れる事はなかった。

8月、苻堅は陽平公苻融に驃騎将軍張蚝・撫軍将軍苻方・衛軍将軍梁成[40]・平南将軍慕容暐・冠軍将軍慕容垂・揚州刺史王顕・弋陽郡太守王詠らを始めとした歩兵騎兵総勢25万を与えて出撃させた。また、乞伏国仁を前将軍に任じて軍の先鋒とし、騎兵を従えさせた。さらに、兗州刺史姚萇を龍驤将軍・都督益梁二州諸軍事に任じてこの征伐に従軍させた。ほかにも全国各地より軍を動員して出撃させた。そして直後に苻堅は自ら戎卒60万余り、騎兵27万を率いて長安を出発した。

9月、苻堅率いる本隊は項城へ到達した。この時、涼州から出立した軍勢はようやく咸陽に達し、蜀・漢中の軍もまた長江の流れに乗って東下し、幽州・冀州の兵は彭城に至った。軍は東西で万里にも広がり、水陸両方より行軍した。兵糧を運ぶ船は1万艘に及び、黄河より石門に入り、汝潁まで到達した。苻融らが率いる前鋒部隊30万は潁口へ到達した。前秦軍襲来の報に東晋の朝廷は震えあがり、朝廷は尚書僕射謝石を征虜将軍・征討大都督に、徐兗二州刺史謝玄を前鋒都督に任じて兵8万を与え、輔国将軍謝琰・西中郎将桓伊らと共に迎撃させた。また。龍驤将軍胡彬に水軍5千を与え、寿春を救援させた。

10月、苻融ら前鋒部隊は寿春へ侵攻すると、これを陥落させて東晋の平虜将軍徐元喜・安豊郡太守王先を捕らえた。苻融は参軍郭褒を淮南郡太守に任じてこれを守らせた。また、慕容垂は別動隊を率いて鄖城(江夏郡雲杜県の南東にある)を攻略し、東晋の将軍王太丘の首級を挙げた。胡彬は寿春陥落の報を聞き、硤石まで撤退した。苻融はさらに軍を進めてこれを攻撃した。

梁成・王顕・王詠は5万を率いて洛澗に軍を留めると、淮河に柵を設けて敵軍の進行を遮断し、幾度も胡彬軍を破った。謝石・謝玄らは洛澗から25里の所まで進軍したが、梁成軍の勢いを憚ってこれ以上進めなくなった。胡彬は兵糧が底を突き始めていたが、苻融軍には悟られないように虚勢を示すと共に、密かに使者を謝石の下へ派遣して「今、賊は盛んであり、兵糧も尽きてしまいました。このままでは、恐らく救援の大軍と見える事は出来ないでしょう!」と報告させようとしたが、前秦軍はこれを捕らえて苻融の下へ送った。苻融はすぐさま苻堅へ使者を送って「賊は少なく捕らえるのは容易でしょう。ただ逃げ去るのを恐れております。速やかに赴かれるべきです!」と伝えた。苻堅はこの報告を大いに喜び、大軍を項城に留めて軽騎八千のみを率いて寿春へ向かい、諸将には「我が寿春に向かっている事を敢えて話す者は、その舌を引き抜かん」と命じた。その為、謝石らは苻堅の到来を知る事はなかった。

さらに苻堅は尚書朱序(襄陽攻略の折に捕らえた東晋の将軍)を謝石らの下へ派遣して説得に当たらせ「強弱の勢いは明らかである。速やかに降るべきである」と告げさせた。だが、朱序の心は未だ東晋にあったので、彼は私的に謝石らへ「もし秦の百万の衆が尽く至ったならば、これに対するのはまことに難しいかと存じます。今、諸軍は未だ集っておりませんから、速やかにこれを撃つべきです。もしその前鋒が敗れれば士気を奪う事が出来、破る事も可能かと」と勧めた。謝石は既に苻堅が寿春にいると知り甚だ恐れ、戦わずして前秦軍の消耗を待とうと考えたが、謝琰は朱序の進言に従うよう勧めて決戦を請うたので、謝石もこれを認めた。

11月、謝玄は龍驤将軍・広陵相劉牢之に精鋭五千を与え、洛澗に築いていた梁成の砦を夜襲した。十里の距離まで接近すると、梁成は陣を隊列させて澗を阻んで劉牢之を待ち受けようとしたが、劉牢之はその直前に川を渡り切って梁成を攻撃した。梁成は大敗を喫して戦死し、揚州刺史王顕をはじめ10将が打ち取られた。劉牢之は兵を分けて敵の退路を断ったので、前秦軍は崩壊してみな争って淮水へ赴き、死者は1万5千を数えた。揚州刺史王顕らは捕らえられ[41]、武器や物資は尽く奪われた。

謝石は梁成の敗北を知ると、水陸から進軍を開始した。苻堅は苻融と共に城壁に登って東晋軍を望み見ると、その厳整とした陣形を目の当たりにした。また、北の八公山を望むと、山上に生える草木を晋兵と見間違えた。これらに動揺した苻堅は顧みて苻融へ「これは強敵であるぞ。どうしてこれを弱いなどというか!」と述べて憮然とし、始めて東晋軍に恐怖を抱いたという。

淝水の戦い[編集]

同月、張蚝が淝水の南において謝石軍を破ると、謝玄・謝琰は数万の兵をもって張蚝軍の到来を待ち構えたが、張蚝は軍を引いて淝水の近くに陣を布いた。その為、東晋軍は淝水を渡る事が出来なくなったので、苻融の下へ使者を派遣して「君は敵陣深く入り込んでおり、水辺近くに陣を布いている。これは持久の計であり、速戦ではないぞ。もし軍を少し引き、将士に陣を移すよう命じたならば、晋兵は渡河する事が出来、勝負を決する事が出来よう。なんと良い事ではないか!」と持ち掛けた。前秦の諸将はみな「我らは多勢であり、敵は寡勢です。渡河させなければ、何もできません。これこそ万全というべきです」と述べたが、苻堅は「兵を引いて少しだけ退却し、敵が半ばまで渡ったところで我が鉄騎をもって迫り、これを撃破するのだ。これで勝てないわけがなかろう!」と述べた。苻融もまたこの意見に同意し、軍に退却を命じた。こうして前秦軍は誘いに乗って退却を始めたが、突如として朱序は陣の後方より大声を挙げて「秦兵は敗れた!」と叫び回った。これにより、東晋軍が近づいても後退に歯止めが利かなくなってしまい、謝玄・謝琰・桓伊らは兵を率いて渡河を果たすと、苻融軍を攻撃した。苻融は馬を馳せて戦場を駆け回ったが、軍の退却の波に飲まれて馬が転倒したところを晋兵に殺された。これにより軍は崩壊し、謝玄らは追撃をかけて青岡まで到達した。前秦は記録的な大敗を喫し、混乱により味方に踏み潰された死体が野を覆い川を塞いだ。

逃走する者は風の音や鶴の鳴き声を聞き、みな晋兵が至ったと勘違いし、昼夜関係なしに死に物狂いで逃げ続け、飢えと凍えにより7・8割の兵が死んだ。東晋軍は苻堅の乗っていた雲母車をはじめ、鹵獲した儀服・器械・軍資・珍宝・畜産などは数えきれない程であった。寿春は再び東晋軍に奪還され、淮南郡太守郭褒は捕らえられた。また、尚書朱序・僕射張天錫・徐元喜らはみな東晋に降伏した。

苻堅もまた流れ矢に当たって負傷し、単騎で淮北まで逃走したが、食料もなく飢えに苦しんだ。前秦の諸軍もまた尽く壊滅していたが、ただ慕容垂率いる3万の兵だけが陣営を全うしていた。その為、苻堅は千騎余りを伴って慕容垂の陣に逃げ込んだ。世子の慕容宝・奮威将軍慕容徳・冠軍参軍趙秋を始め、側近の大半が苻堅を殺害するよう勧めたが、慕容垂はこれを一切聞き入れず、苻堅から受けた大恩に報いるために自らの束ねる兵の指揮権を苻堅に返上した。

この時、前秦の平南将軍慕容暐(前燕の元皇帝)は鄖城に駐屯しており、配下の姜成らに漳口の守りを任せていたが、東晋の随郡太守夏侯澄の侵攻を受けて姜成は討ち死にした。慕容暐はさらに苻堅が大敗を喫したと知ると、遂に兵を放棄して滎陽まで逃走した。

苻堅は敗残兵をかき集めながら退却し、洛陽まで到達した。兵は10万余りが集結し、百官・威儀・軍容もほぼ元通りとなった。

苻堅の軍勢が澠池に到着した時、慕容垂は苻堅へ「北の辺境の民は王師(皇帝軍)の敗報を聞き、不穏の動きをしております。臣が詔書を奉じてこれに赴き、鎮慰・安集させる事を請います。また、併せて陵廟(鄴には前燕の陵墓・宗廟がある)に拝謁させていただきますよう」と請うと、苻堅はこれを許した。権翼はこれを諫め、今は都の長安を固めることに専念すべきであり、同時に慕容垂の離反も疑われる事から、向かわせるべきでは無いと訴えた[42]。苻堅はこれに理解を示しながらも従わなかった[43]。権翼はなおも反論した[44]が、苻堅は最後まで聞き入れず、将軍李蛮・閔亮・尹国に3千の兵を与えて慕容垂を送らせた。しかし、次第に慕容垂が謀反を起こす事を憂慮するようになり、これを後悔したという。

権翼は密かに慕容垂殺害を決断し、刺客を先回りして河橋南の空倉の中に忍ばせ、慕容垂を襲撃させた。だが、慕容垂はこれを予知しており、河橋を通らずに涼馬台から草を結った筏で渡河を行った。また同時に、典軍程同には自らと同じ衣装を与えて河橋へ向かわせ、伏兵を釣り出させた。すると予想通り伏兵が現れたが、程同は馬を馳せて逃げ果せた。

同月、苻堅は驍騎将軍石越に精鋭3千を与えて鄴を、驃騎将軍張蚝に羽林(近衛兵)5千を与えて并州を、鎮軍将軍毛当に4千を与えて洛陽をそれぞれ守らせた。

12月、苻堅は長安に帰還すると、長安東にある行宮に向かい、苻融の死を悼んでから入殿した。その後、太廟に赴いて告罪し、殊死以下に大赦を下した。文武官は一級を増位させ、兵を休めて農業を励行させた。また、孤老(身寄りのない老人)の下を慰問すると共に、戦死した士卒の一族に対しては終世に渡って税・賦役を免除すると宣言した。苻融には大司馬を追贈し、哀公と諡した。

支配体制の崩壊と最期[編集]

383年12月、鮮卑族の乞伏歩頽が隴西において反乱を起こした。苻堅は乞伏歩頽の甥の乞伏国仁を郷里へ帰らせて討伐を命じたが、乞伏国仁は乞伏歩頽と結託すると苻堅に反旗を翻してしまった。また同月、丁零である前秦の衛軍従事中郎翟斌が河南において反乱を起こし、豫州牧・平原公苻暉の守る洛陽を攻め落とした。さらに同月には冠軍将軍の慕容垂が、それぞれ皇族である長楽公苻丕・広武将軍苻飛龍に異心を疑われた事をきっかけに、実際に造反を起こして大将軍・大都督・燕王を称し自立するに至ってしまう(後燕)。翌384年3月には慕容垂の甥に当たる北地長史慕容泓が、慕容垂の反乱を受けて都督陝西諸軍事・大将軍・雍州牧・済北王を自称して自立し(西燕)、そこに慕容泓の弟である平陽郡太守慕容沖も合流する。さらに4月には龍驤将軍姚萇までもが敗戦の弁明の使者を激怒した苻堅に殺害された事をきっかけに、大将軍・大単于・万年秦王を自称して自立する(後秦)など、前秦全土で有力諸将の自立・造反が続発した。苻堅は慕容氏の諸将の反乱に際して、前燕の末帝であった慕容暐に対し同族の諸将への説得を命じたが、慕容暐は逆に苻堅の暗殺を計画したため、従兄弟の慕容粛ら共々処刑された。

385年1月、苻堅は群臣と共に朝会を執り行い、宴会を催した。同月、苻堅は自ら西燕の討伐に出陣し、仇班渠・雀桑にて西燕の軍勢を立て続けに撃破したが、続く白渠の戦いでは大敗を喫して西燕軍に包囲されてしまった。殿中上将軍鄧邁・左中郎将鄧綏・尚書郎鄧瓊は互いに「我が一門は代々栄寵を担ってきた。先君が国家においた殊功を建てた時は、忠節を尽くして先君の志を成したのだ。今、君主が難に瀕しているのに命を差し出せないならば、丈夫(一人前の男子)とはいえまい」と言い合い、獣の皮を被り矛を振るって西燕軍に突撃しこれを打ち破った。危機を免れた苻堅は彼らの忠勇を称え、いずれも五校に任じて三品将軍を加え関内侯を賜爵した。

その後も苻堅は西燕軍との戦いに力を割いたが、息子の平原公苻暉は幾度も西燕軍に敗戦を喫していたので、苻堅はこれを叱責して「汝は我の才子であるぞ。それが大軍を擁しているのに、白虜の小児と戦って幾度も敗れようとは。どうして生きていられるのか!」と怒声を上げた。しかし3月、苻暉は憂憤の余り自殺してしまった。5月には西燕の慕容沖との戦闘に際して苻堅は陣頭指揮を執ったが、流れ矢が身に刺さってしまい、体中から血を流すほどの重傷を負ってしまった。同月には衛将軍の楊定が城西において慕容沖を攻撃するも、敗戦を喫して捕らえられてしまった。楊定は前秦の驍将として名を馳せていたので、苻堅はこの敗戦を大いに恐れ、長安からの撤退を考えるようになった。

当時の長安の城中には『古符伝賈録』という書があり、その一節に「帝は五将を出でて、久長を得る(帝出五将久長得)」という文があり、またこれより以前より「堅は五将山に入り、長を得る(堅入五将山長得)」という歌が流行っていた。苻堅はこの歌にあやかって五将山への逃走を決心し、そして太子の苻宏へ「この言の通り脱する事が出来れば、あるいは天が導いているかもしれん。今、汝をここに留めて軍事・政事の全てを委ねる。賊と利を争うような事はするな。朕が隴を出たならば、兵を集めて兵糧と共に送り届けよう。これこそ、天からの啓示である」と告げ、長安の留守を命じて後事を託すと、中山公苻詵・張夫人・2人の娘の苻宝・苻錦を伴い、数百の騎兵を率いて城を出立した。しかし苻宏は長安を守り切る事はできないと考え、翌6月には数千騎を率いると母・妻・宗室と共に西の下弁へ逃走した。これにより百官は逃散してしまい、司隷校尉権翼を始め数百人が後秦へ亡命した。こうして慕容沖は長安へ入城すると配下の兵達に大々的な略奪を命じたので、計り知れないほどの民が虐殺された。

7月、苻堅は五将山へと到着したが、後秦の姚萇は自ら故県より新平に赴くと、驍騎将軍呉忠に騎兵を与えてこれを包囲した。これにより前秦の軍卒は逃散してしまい、傍に侍るのは侍御10数人のみであった。だが、苻堅はこれに全く動じずに座り込むと、宰人を呼び寄せて料理を作らせた。すると呉忠が突如として侵入し、苻堅らは捕らえられて新平へ送還され、別室に幽閉された。

長安から脱出した苻宏は下弁へ逃げたが、南秦州刺史楊璧は入城を拒んだ。楊璧の妻は順陽公主(苻堅の娘)であり、彼女は夫を棄てて苻宏に従った。苻宏は武都へ逃走すると、豪族強熙の助けを借りて東晋へ亡命した。東晋朝廷は彼らを江州へ住まわせた。

8月、姚萇は苻堅の下へ使者を派遣すると、伝国璽を差し出すよう求めて「この萇が次の暦数(天命)に応じるのだ。そうすれば恩恵を与えてやろう」と言った。これに苻堅は目を見開いて激怒して「小羌が天子に迫ろうとはな。どうして伝国璽を汝のような羌に授けられようか。図緯・符命のいったいどこに根拠を見出そうというのか。五胡の序列に汝のような羌の名は無い。天命に違えて瑞祥も無いのに、どうして長らえる事が出来ようか!璽は既に晋に送っている。得るものなどないぞ」と言い放った。姚萇はまた右司馬尹緯を派遣し、堯が舜に禅譲した故事を引き合いにして説得させた。だが、苻堅は尹緯を責めて「禅代とは聖賢の事であるぞ。姚萇のような叛賊が、どうして古人に擬えてよいだろうか!」と怒った。

苻堅はいつも姚萇を厚く遇して恩を与えていたので、それだけに怒りも甚だしく、幾度も姚萇を罵倒して死を求めた。また、張夫人へ「羌奴如きに我が子が辱められるなど、どうして許していいだろうか!」と述べると、先んじて苻宝・苻錦を自らの手で殺害した。その後、 姚萇は人を派遣して新平仏寺において苻堅を絞め殺した。享年48であった。張夫人・苻詵は自殺した。後秦の将士はみなこれを哀慟したので、姚萇は自らの悪名を隠そうと思い、苻堅へ壮烈天王と諡した。

後燕との戦線に当たっていた庶長子の苻丕は苻堅の地位を継いて即位すると、苻堅の廟号を世祖とし、宣昭皇帝と追諡した。また、残存勢力を纏め上げると、後燕との戦いを継続した。

人物[編集]

業績[編集]

苻堅は学問を奨励して内政を重視し、国力の充実と文化の発展に尽力した。名宰相王猛の補佐を受けて重商主義から重農主義に転換し、灌漑施設の復興や農業基盤を整備に力を注ぐとともに、戸籍制度の確立や街道整備も推し進めた。さらに官僚機構を整えて法制を整備し、中央集権化を進めた。また出自や旧怨に囚われずに広く人材を抜擢し、民族間の対立が激しかった中華では従来考えられなかったような融和策を次々と採った。国内は学校が復興されて学問が盛んになり、風俗が整備され、街道や宿舎が整備されて商売や手工業者が安心して仕事ができるようになり、この時代では稀にみる平和を実現した。また、多くの側近から排除をするように進言された仏教僧の釈道安を信任して仏教を厚く尊崇するなどしている。

外征においては前燕・前仇池・前涼・代といった名だたる国家を全て滅ぼして華北の統一を成し遂げ、さらには東晋領の梁州・益州をも支配下にいれた。国内においては同族の造反や諸部族の反乱が相次いだが、いずれも鎮定して国家を安定させた。これにより朝鮮や西域を始め各地から朝貢が行なわれるようになり、その勢威は大いに振るった。

だが、群臣の相次ぐ強い反対を押し切って江南征伐を敢行し、総勢100万を超すともいわれる兵力を動員して建康に迫ったが、淝水の戦いで歴史的大敗を喫してその夢は断たれ、これにより前秦に服属していた諸部族の謀反を引き起こし、前秦の勢力圏は一気に華北全土から長安周辺や河北の一部という地方政権にまで零落した。苻堅はこれら離反した勢力の鎮定を目指して応戦したものの、長安の経済は破壊されて深刻な食糧不足に陥り、遂には長安を脱出して再起を図ろうとするも、姚萇に捕らえられて殺された。

性格・容貌[編集]

幼少期[編集]

腕は膝下に届く程長いといわれ、目には紫光を宿していたという。

幼少期より祖父の蒲洪からはただ者ではないと見なされ、『堅頭』と呼ばれて甚だ寵愛を受けていた。7歳にして既に聡明との呼び声高く、他者へ施しを好むようになり、その立ち居振る舞いは規範に則っていた。また、いつも蒲洪の側に侍り、その行為や仕草から彼の意図を察し、機を失う事は無かった。その為、蒲洪はいつも周囲の者へ「この子の姿貌は立派であり、その資質は飛びぬけている。これは常人の相ではない」と語り、感嘆したという。8歳の時には、家学を修める為に師に就いて学びたいと請うた。これを聞いた蒲洪は「汝は戎狄の異類(異民族の事。自らが漢人ではない事を自虐的に言った)であり、我らは代々酒飲みの部族として知られている。それが今、学を求めようとは!」と大いに喜び、これを許したという。

臣下時代[編集]

苻健からの信頼は篤く、臣下からも大いに慕われていた。苻堅が剣を振るって馬を鞭打つと、兵の志気は感奮・激励され、士卒の中でこれを畏服しない者はいなかったという。また、度量が広く至孝であり、博学にして才芸が多く、経世済民の大志を抱いていた。また、英雄や豪傑と交流を深め、彼らと共に天下の治理について論じ合った。姚襄の旧臣である薛讃・権翼らが前秦に仕えるようになった際、苻堅と初めて会うやいなや驚いて「常人ではないぞ!」と声を挙げ、甚だ重んじるようになったという。

宗室[編集]

父母
后妃
  • 苟氏中国語版 - 皇后(天王后)
  • 慕容氏 - 皇妃(天王妃)。前燕の皇帝慕容儁の娘で、前燕の清河公主であった。
  • 張夫人 - 皇妃(天王妃)
伯父
従叔父
兄弟
従兄弟
甥・従子

(従子(従兄弟の子)も含む)

  • 兄の苻法の子
  • 従兄の苻洛の子
族子
子女
族孫

苻堅を扱った作品[編集]

小説[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 一説には文玉とも
  2. ^ 『晋書』には「今の主上(苻生)は愚かにして暴虐であり、天下は離心しております。有徳の者が盛んとなり、無徳の者が禍を受けるのは、天の道理です。神の事業というのは重いものであり、他人にこれを取られてはなりません。君王(苻堅)が湯武(殷湯王・周武王)の事を行い、天人の心に従う事を願います」と記載されている
  3. ^ 程憲は「趙掇らはみな商販をしている醜い豎(取るに足らない人物)に過ぎず、城市の小人(都市に住む小物)に過ぎませんが、車馬や衣服は王者を真似ており、官位もまた君子と等しく、藩国の列卿となっております。故に風俗は傷敗し、聖化は塵に塗れてしまいました。典法を粛々と明らかにし、清濁をはっきりと分けるべきです」と訴えている。
  4. ^ 詔の内容は「素より望んでいたのは、諸公が英儒なる者を推薦する事であったが、それがこのように濫用される事となってしまった!有司に命じて審問させ、その能力に適さぬ者を登用している人物を招集し、尽く侯に降爵する事とし、今をもって国官についてはみな銓衡(能力・人柄をよく調べて適任者を選出する事)に委ねる事とする。また、士以上でなければ都城百里の内で車馬に乗る事を禁じ、金銀・錦繡を工商・皁隷・婦女が着用する事を禁じる。これを犯した者は、棄市(処刑して遺体を市中に晒す事)とする」というものであった。
  5. ^ 征東・鎮東・征西・鎮西などの、軍事を監督して地方を守衛する将軍のこと
  6. ^ 王猛は苻堅へ「慕容垂は燕の皇族であり、東夏(中華の東側)における一世の雄です。性格は寛仁で下の者へよく施し、士卒・庶人とは恩で結ばれております。燕・趙の間ではみな彼を奉戴しようとしており、その才略を見ますに権智は計り知れません。その諸子も明毅にして幹芸を有しており、いずれも傑物です。蛟龍や猛獣を飼い馴らす事は出来ず、除くべきです」と進言したが、苻堅は「我は義をもって英雄豪傑を招聘し、不世の功を建てんとしている。それはまだ始まったばかりであり、我は至誠をもって彼を遇したというのに、今これを害したとなれば、人は我を何と言うであろうか!」と述べ、その意見を退けている。
  7. ^ 『晋書』には慕容垂とある
  8. ^ 「朕は寡薄をもって、猥りにも大いなる命を承った。徳をもって遠方を慰撫する事が出来ず、四維を穏やかに服従させるため、幾度も戎車を派遣し、この地の民を害してきた。百姓に過ちがあるとはいえ、朕の罪でもある。故に天下に大赦を下し、共に更始するものとする」
  9. ^ 『晋書』には10万戸とある
  10. ^ 苻堅は「司隷校尉は国家の近畿を統べる重要な任務であるが、名将に対してその優秀さを示すものではない。光武(後漢の光武帝劉秀)は功臣を官務をもって処遇する事を不とした。これは実に貴ぶべき事である。鄧羌は廉頗李牧のような才があり、朕は征伐の任を委ねるるつもりである。北は匈奴を平らげ、南は揚・越の地を平らげることが鄧羌の任であるのだ。司隷校尉の職では与えるには足りぬ」と詔を下した。
  11. ^ 「朕と卿は義の上では君臣に則っているが、その親は骨肉を越え、桓(桓公)・昭(昭王)に管(管仲)・楽(楽毅)があり、玄徳(蜀漢の昭烈帝劉備)に孔明(諸葛亮)があるといえども、これを越えたと自ら言おう。人主は才を求めて労を為し、士を得た事でそれをやめるものだ。既に6州を委ねた事で、朕は東顧の憂いを無くしたのだ。これは決して汝を優崇している訳ではなく、朕が安逸の計を求めるが故である。この地を攻め取るのは簡単な事ではなかったが、守る事もまた同様に難しい。正しい人を用いなければ、思いがけない煩いが生じる事にもなる。そうなればただ朕の憂いが増すだけでなく、卿の責にもなるのだ。故に朝廷を疎かにしてでも関東の地に重きをおくのだ。卿は朕の心を理解できておらず、とりわけ素望が乖離している。政を新たにして才を待ち、速やかに銓補すべきである。東方の化洽を待ってから、まさに袞衣を西に帰すのだ」
  12. ^ 「関東の民の中で学が一経に精通し、才が一芸を成している者については、郡県は礼をもってこれらを送り届けるように。逆に百石以上の官位にありながら、学が一経に通じず、才が一芸を成していない者については、罷免して送還するので、庶民に戻すように」
  13. ^ 書の内容は「昔、貴の先公は劉(前趙)・石(後趙)の藩を称したが、これはただ強弱を考えてのものであった。今、涼土の力を論じれば、往年からは損なわれている。また、大秦の徳は二趙の比ではない。にもかかわらず、将軍は翻然として断絶している。宗廟の福とはならないであろう!秦の威を以てすれば、遠方を揺らし、弱水を回して東に流し、長江・黄河を逆流させて西に注がせる事も出来よう。関東は既に平らげており、この兵を河右へ移せば、恐らく六郡の士民では抗する事叶わぬであろう。かつて劉表は『漢南を保つ事が出来る』と言ったが、将軍も『河西を全うできる』と言うかね。吉凶は身にあるものである、元亀は遠くにはない。故に、深算・妙慮し、自ら多福を求めるべきである。六世の業を一代で地に堕とすべきではないぞ!」というものであった。
  14. ^ 王猛は「元相(丞相)は重く、儲傅(太子太傅)は尊く、端右(尚書令)は多忙であり、京牧(司隷校尉)は重大な任であり、総督(地方長官)は軍事を司り、出納は帝の命を伝達します。文武というものは共に集まっているものであり、巨細というのは繋がっているものです。伊(伊尹)・呂(呂尚)・蕭(蕭何)・鄧(鄧禹)のような賢人であっても、なおこれらを兼務する事は出来ませんでした。どうして臣のような不肖の者がこれに応えられましょうか!」と述べ、この事を幾度も上書した。だが、苻堅はこれを認めずに「朕はこの混沌とした四海を正そうとしており、これを卿でなければいったい誰に委ねるというのだ。卿が宰相の任を辞するならば、朕もまた天下の任を辞するであろう」
  15. ^ 『長安大街、夾樹楊槐、下走朱輪、上有鸞栖、英彦雲集、誨我萌黎』(『晋書』による)
  16. ^ 「図らずも陛下は臣の如き命のために、天地の徳を汚そうとしております。天地が始まって以来、このようなことは未だかつてありません。臣が聞くところによりますと、恩徳に報いるには言葉を尽くす事だといいます。垂没する命をもって謹んで、ここに遺款を献じさせていただきます。伏して惟みますに、陛下は威烈をもって八方の荒地を震わせ、声望と教化により六合を照らし、九州百郡の10のうち7を統べ、燕を平らげて蜀を定め、これらを容易く果たされました。しかしながら、善を作る者が必ずしも善を成すわけではなく、善を始める者が必ずしも善に終わるわけではありません。故に、古の明哲な王は功業を成すのは容易ではない事を深く理解し、いつも戦々恐々とし、それは深谷に臨むかの如くです。伏して惟みますに、陛下が前聖を追蹤してくだされば、天下は甚だ幸いといえましょう!」
  17. ^ 「賢輔(賢明なる宰相。王猛を指す)の新喪であるが、百司(百官)には未だに朕の心を示せていない。未央の南に聴訟観を設け、朕は5日に1度はこれに臨み、民にも隠を求めるものとする。今、天下は大定していないといえども、偃武・修文(戦争を止めて学問を修める事)を旨とすべきである。これこそ武侯(王猛)の雅旨に敵うものである。また、儒教をこれまで以上に尊び、老荘図讖(予言書の類)を学ぶ事を禁ずる。これを犯す者は市に棄てるものとする」
  18. ^ 「朕が聞くところによると、王者というのは賢人を求めるために労をなし、士を得る事によって安逸するという(斉の桓公が管仲へ語った事葉)。その言の何と素晴らしい事か!かつて丞相(王猛)を得ていた時は、常に帝王というものは為し易いものだと言っていたが、こうして丞相が世を去ってみて、鬚髮には白が混じるようになってしまった。いつもこの事を深く思い、不覚にも悲慟するばかりだ。今、天下には既に丞相はおらず、政教は衰落しようとしている。侍臣を分けて派遣して、郡県を周巡させ、民の疾苦について問うべきである」
  19. ^ 「張天錫は称藩して位を受けているといえども、その臣道は純とはいえぬ。使持節・武衛将軍苟萇・左将軍毛盛・中書令梁熙・歩兵校尉姚萇らは将兵を派遣して西河に臨み、尚書郎閻負・梁殊は詔を奉じて張天錫に入朝するよう命じるのだ。もしこの王命に違うようならば、すぐに師を進めて撲討せよ」
  20. ^ 『晋書』苻堅伝によると、拓跋什翼犍の子である拓跋翼圭(拓跋珪)が父を捕らえて降伏したという。
  21. ^ 「代王が亡くなり、臣下らが叛散してしまいました。その遺孫(拓跋珪)は幼く、これを支える者もおりません。別部大人の劉庫仁は勇猛にして智略を有し、鉄弗の劉衛辰は狡猾にして権変が多く、いずれも独任すべきではありません。諸部を二分し、この両人に各々統治させるべきです。両人はもとより仇敵の関係にあり、いずれかを先に発する事はしてはなりません。その孫の成長を待ってこれを引き立ててやれば、これこそ陛下が存亡継絶の徳を示すものとなり、その子々孫々まで永きに渡って不侵不叛の臣となる事でしょう。これこそ辺境を安んじる良策です」
  22. ^ 「彼らの種落は雑居しており、一つにまとまっておらず、中国の大患とはなりえぬだろう。先に撫諭して租税を徴収し、もしその命に従わなければ、然る後にこれを討つとしよう」
  23. ^ 「陛下が江南を取りたいと思っているならば、固く博謀・熟慮すべきであり、慌ただしく行うべきではありません。もし襄陽を取るだけで止めようとしているならば、どうして親征するに足りましょうか。一城のためだけに天下の衆を動かすなどありえません。いわゆる『随侯之珠、弾千仞之雀(得る事が少なく失う事が多い事の比喩)』という事です」と述べ、梁熙もまた「晋主の暴は孫晧ほどではなく、江山の険固な様は守るに易く攻めるに難いです。陛下は必ずや江表を廓清せんと望み、多くの将帥を任命しております。関東の兵を引き、南は淮・泗より臨み、下は梁・益を卒し、東は巴・陝より出しており、どうして鸞輅を親屈させ、遠く沮沢の地に巡幸する必要がありましょうか。昔、漢光武公孫述を誅し、晋武帝は孫晧を捕らえましたが、未だ二帝が自ら六師を統率したなど聞き及んでおりません。枹鼓を自ら執れば、矢石を蒙る事になります」
  24. ^ 朱肜は「陛下は天に応じて時に順い、恭しく天罰を行われました。その嘯咤で五岳は摧け覆り、その呼吸で江海は絶流するほどです。もし百万を一挙に動かせば、必ずや戦わずして征する事が出来ましょう。そうすれば、晋主は自ら璧を咥えて棺を供伴い、軍門に叩頭する事でしょう。もし迷って決断できなければ、必ずや江海に逃げるでしょうから、そうであれば猛将にこれを追撃させればよいのです。また、すぐに南巣の地にも命を賜り、中州の人(永嘉の乱を避けて江南へ渡った民)を桑梓(故郷)に戻してやるのです。然る後に、岱宗(泰山)を駕でもって巡り、封禅を行う事を告げ、中壇において白雲を起こし、中岳において万歳を受けるのです。まさしく千載の好機といえます」と答えた。
  25. ^ の権翼は「臣は未だ晋を討つべきではないと考えます。そもそも、紂(帝辛)はその無道により天下が離心し、八百の諸侯が図らずも至りましたが、(周の)武王はなおも『彼の下には人材(比干箕子微子の三仁)がいる』と述べ、軍を戻して旆を下しました。三仁が誅放されてから、はじめて牧野において戈を奮ったのです。今、晋道は微弱といえども、徳が喪われたとは聞いておりません。君臣は和睦し、上下も心を同じくしております。謝安・桓沖は江表の偉才というべきであり、晋には未だ人材がいるというべきです。臣が聞くところによりますと、軍というのは和があって勝利出来るといいます。今、晋は和を保っており、未だ図るべきではありません」と答えた。
  26. ^ 石越は「呉人(東晋の人)は険阻にして偏隅の地を頼みとし、王命を迎えいれようとしておりません。陛下自らが六師を率いてその罪を問うというのは、誠に人神を合わせ、四海の望みに適う事です。しかし今、歳鎮星(歳星は木星、鎮星は土星の事)が斗牛(斗は斗宿、牛は牛宿)に差し掛かっております。これは福徳が呉にあるという事です。天体にも違いは見られず、犯すべきではありません。それに晋の中宗(司馬睿)は藩王の頃より夷夏の情を集め、それによってみなより推戴されたのです。その遺愛は、なお民の中にあります。昌明(孝武帝司馬曜の字)はその孫であり、国は長江の険にあり、朝廷には昏弐の釁(内部分裂)はありません。臣が愚考しますところ、徳を修めて用い、利とするならば、軍を動かすべきではありません。孔子は『遠人が服さなければ、文徳を修めてこれを招くように』といっております。願わくば国境を保って兵を養い、その虚隙を伺いますように」と答えた。これに苻堅は「我が聞くところによると、武王が紂を討った時、逆行した歳が星を犯したと言う(凶兆である)。天道とは幽遠なるものであり、それを知る事は出来ない。昔、夫差の威は上国(中原に割拠する各諸侯)を凌いでいたが、勾践に滅ぼされる所となった。仲謀(孫権の字)は全呉に潤いを行渡らせたが、三代の業により龍驤(龍驤将軍の王濬)が一呼しただけで孫晧をはじめとした君臣は面縛(両手を後ろ手に縛り、顔を前に突き出して降伏の意思を示すこと)した。長江を有するといえども、固守する事が出来なかったのだ!我の衆旅(軍隊)をもって江(長江)に鞭を投じれば、その流れを断つには充分である」と反論したが、これに対して石越は「臣が聞くところによりますと、紂は無道を為して天下がこれを患っておりました。また、夫差は淫虐であり、孫晧は昏暴であり、衆は背いて親族は離反しました。故に敗れるに至ったのです。今、晋に徳が無いといえども、罪もまたありません。深く願いますのは、兵を磨いて粟を積み、天の時を待たれることを」とさらに反論した。
  27. ^ 苻融は「歳が斗牛にあり、呉越の福を現しております。伐つべきではない第一の理由がこれです。晋主は君徳大きく英明であり、朝臣はその命を奉じております。伐つべきではない第二の理由がこれです。我々は幾度も戦い、兵は疲れ、将は倦れており、敵の意気を憚っております。伐つべきではない第三の理由がこれです。諸々の意見には征伐を不可とするものがありましたが、彼らは忠臣であり、これこそ上策であります。願わくば陛下がこの意見を容れます事を」と述べた。
  28. ^ 「汝までそのような事を言うのか。我は天下の事業を誰と預かればよいのだ!今、百万の兵を有し、資杖は山の如くあるのだ。我はまだ令主(徳行を積んだ君主)を称していないといえども、暗劣でもない。連勝の威をもって、垂亡の寇を撃てば、どうして勝てない事があろうか!それにこの賊を子孫の代まで遺しておくのは、宗廟社稷の憂いとなるであろう」と返した
  29. ^ 苻融は「呉を撃つべきでないのは明白であります。徒らに大挙しても必ずや功なく引き返すだけです。それに、臣が憂えているのはこれだけに留まりません。陛下は鮮卑・羌・羯を寵遇して都城付近に住まわせており、旧人や族類を遠方へと移らせております。今、国を傾けてまで出征すれば、風塵の変が起こりましょう。そうなれば、宗廟はどうなりましょうか!監国(太子)に弱卒数万を与えて京師(長安)を守らせても、鮮卑・羌・羯は林のように衆を集まります。そうなれば悔いても及びません。これらは全て国賊であり、我らは仇なのですぞ。臣が恐れますのは、討伐が徒労になる事だけでなく、国内が万全ではない事です。臣の智識は愚浅であり、誠に採用するには足りないでしょう。しかし、王景略(王猛)は当代の奇士であり、陛下はいつも孔明に例えておられました。その臨終の際の言葉を忘れるべきではありません!」と答えた。
  30. ^ 釈道安「陛下は天に応じて世を御し、中土にあって四維を制し、逍遙として時に順じ、聖躬(天子の体)に適しているといえましょう。動けば則ち鳴鑾して清道され、止まれば則ち神栖は無為となり、その端拱により教化し、に比肩するといえましょう。どうして騎を馳せて労を為し、口を経略で倦ませ、風雨に晒され、塵を蒙って野営する必要がありましょうか。その上、東南は取るに足らない土地であり、妖気に満ちております。虞舜が赴くも戻る事は無く、大禹が向かうも帰る事はありませんでした。上は神駕を労し、下は蒼生を困らせる必要がどこにありましょうか。詩には『恵此中国、以綏四方(この中国を恵み、もって四方を綏ずる)』とあります。苟しくも文徳によって遠方を慰撫するには十分であり、寸兵を煩わせずに、座して百越を迎えさせるべきです」と述べた
  31. ^ 苻堅は「確かに土地は広くなく、人は不足している。だが、我がただ思うのは六合を混一し、蒼生を救う事である。天は蒸庶(人民)を生み出し、これに君を樹立したが、これは煩いを除いて乱を取り去るためである。どうして労を憚って自らだけを安んじ、片隅の人間だけその恩沢を被らないなど許されようか!朕は既に大運を集めており、天罰を行って天心を示そうとしているのだ。高辛()には熊泉の役があり、唐堯には丹水の師があり、これらは全て前典において著しく、後王により昭かとなった。まことに公の言う通りであれば、帝王が四方を征伐したという記録など無い筈であろう。朕の行動は義挙によるものであり、衣冠の冑を流度させ、その墟墳を元に戻し、その桑梓(故郷)を復すのだ。難を救い才を選ぼうとしなければ、戦争を起こそうとも思わぬであろう」と反論した。
  32. ^ 釈道安は「もし必ず鑾駕自らが動く事を欲するのであっても、遠く江淮を渡るべきではなく、洛陽までで留め、明らかなる勝略を授けるのです。まず使者を派遣して丹楊に紙檄を送りつけ、さらに諸将へ六軍を率いさせて後に続かせれば、必ずや稽首して臣となるでしょう。これこそ改迷の路を開くというものです。もしこれに従わなかったならば、それから討伐すべきかと」と勧めた
  33. ^ 「妾が聞くところによりますと、天地が万物を生み、聖王が天下を治めるのは、全て自然の流れに順じているものであり、故に成果が上がらない事はないといいます。黄帝が牛を服して、馬に乗る事を是としたのは、その性によるものです。禹が九川を浚い、九沢を障ったのは、その地勢によるものです。后稷が百穀播殖を耕作したのは、その時機によるものです。が天下の軍を率いてを攻めたのは、その人心によるものです。いずれも成に則り、敗に則っておりません。今、朝野問わずみな晋を伐つべきではないと言っておりますが、陛下は独断でこれを決行しようとしており、この妾には陛下が何に従っているのか分かりません。書(『書経』)によりますと『天の聡明は民の聡明に依る』といいます。天でも猶民に依っているというのに、ましてや人ではどうでしょうか!また、妾が聞くところによりますと、王者が出師というのは、必ず上は天道を観て、下は人心に順じるといいます。今、人心には既に背いており、天道の験がどうか試してみる事を請います。諺には『鶏夜鳴者不利行師、犬群嗥者宮室将空、兵動馬驚、軍敗不歸(鶏が夜に鳴けば出師に利はなく、犬が群れて騒げば宮殿は空となり(滅亡する)、武具が動いて馬が驚けばその軍は敗れて帰ることはない)』といいます。昨年の秋より、多数の鶏が夜に鳴き、群れた犬は哀しく吠え、厩の馬は多くが驚いており、武庫の兵器は自然に動いて音を立てていると聞いております。これらはいずれも、出師の祥ではありません」
  34. ^ 苻詵は「臣が聞くところによりますと、季梁(春秋時代の随の政治家)が随にあって楚人はこれを憚り、宮奇(宮之奇。春秋時代虞の政治家)が虞にあって晋は兵を起こしませんでした。国の興亡というのは、賢人の取捨にかかっているのです。彼らはその謀が用いられなくなり、数年で亡びる事となりました。前を行く車が軌道を外れれば、後ろを行く車はそこから学びとるでしょう。陽平公(苻融)は国の謀主でありますが、陛下はこの意見に違おうとしております。晋には謝安・桓沖がおりながら、陛下はこれを討とうとしております。この行いについて、臣は密かに戸惑っております」と請うた。
  35. ^ 苻堅は「軒轅(黄帝)は大聖であり、その仁は天の如し、その智は神の如しといえよう。順わない者を帰属させるために自ら征伐に赴き、常居とする場所などなく、いつも兵に護衛をさせた。故に日月に照され、風雨が至る所であっても、従わなない者はいなかったのだ。今、天下は平定されようとしているが、ただ東南だけが未だ尽きていない。朕は忝くも大業を荷い、巨責が帰するところにある。どうして優游として年月を過ごし、大同の業を建てずにいられるというのか!いつも桓温の寇を思うに、江東を滅する事は不可ではない。今、勁卒百万を有し、文武は林の如くいる。鼓行して遺晋を砕くのは、商風(秋風)が秋籜(筍の皮)を隕すようなものである。朝廷の内外はいずれも不可と言ったが、我はその理由が実に理解出来ない。晋武(西晋の武帝司馬炎)がもし朝士の言を信じて呉を征伐しなかったならば、天下はどうやって一軌になったというのか!我が計は決したのだ。この事に関して再び諸卿と議する事は無い」と答えた
  36. ^ 太子苻宏は進み出て「今、呉は歳を得ており、伐つべきではありません。さらに晋主は無罪であり、人をよく用いております。謝安・桓沖の兄弟はいずれも一方の俊才であり、君臣は力を合わせており、険阻なる長江もありますから、まだ図るべきではありません。今は、兵を養って粟を積み、暴主の出現を待ち、一挙にこれを滅すのです。もし今動いても功はなく、外においては威名を損ね、内においては資財を枯渇させるだけになってしまいます。古の聖王の行師とは、必誠を判断し、その後にこれを用いました。彼がもし長江を頼みとして固く守り、江北の百姓を江南に移し、清野に城を増やし、門を閉じて戦に応じなければ、我らは徒に疲弊するだけです。彼が弓を引かなければ、土地の疫病にも侵され、長く留まる事は出来ません。陛下はこれをどうお考えでしょうか」と問うた。苻堅はこれに「往年、車騎(王猛)が燕を滅した時も、歳が侵していたがこれに勝利したぞ。天道とは幽遠であり、汝が理解できる所ではない。昔、始皇が六国を滅した時、その王はいずれも暴君であったというのかね。それに我の心は久しく前より決まっている。兵を挙げれば、必ずや勝利するであろう。どうして無功に終わろうか!我は蛮夷に内から攻めさせ、さらに精甲・勁兵で外から攻撃する。内外からこのようになれば、勝てない事があろうか!」と反論した。釈道安もまた「太子の言が正しいです。願わくば陛下がこの意見を容れる事を」と諫めたが、苻堅は聞き入れなかった。
  37. ^ 慕容垂は「陛下の徳は軒(黄帝)・唐(堯)にも等しく、その功は湯・武を超え、その威沢は八表(世界)を被っており、遠夷は重訳(言葉が通じない為、幾度も翻訳する事)して帰順しております。司馬昌明(孝武帝司馬曜の字)は燃え残りのような資にしがみつき、王命を拒んでおります。これを誅さければ、法は安寧となりましょうか!孫氏は江東に跨って僭称しましたが、最後には晋に併呑されました。その勢いの差は歴然です。臣が聞くところによりますと、小は大に敵わず、弱は強を御す事はないといいます。ましてや大秦は符に応じており、陛下には聖武があり、百万の強兵を有し、韓白(韓信・白起)のような才が朝廷に溢れており、偸魂・仮号を命じております。どうして子孫の代まで賊どもを遺しておけましょうか!詩には『築室于道謀、是用不潰于成(多数の人間が好き勝手に意見を言い合えば、小さな小屋すら造るのは難しいという諺)』とあります。陛下は神謀を決断されたのですから、朝臣に広く訪ねて聖慮を乱すべきではありません。昔、晋武が呉を平定した時、これに賛同した者は、張杜(張華・杜預)のほか数人の賢人だけでした。もし群臣の言に耳を貸していれば、不世の功を立てる事が出来たでしょうか!諺には『憑天俟時、時已至矣、其可已乎!(天に拠って時を待ち、時が既に至っていれば、どうしてそれを止めようか!)』といいます」と述べた。
  38. ^ 苻融は「『知足不辱、知止不殆(足るを知れば辱められず、止まるを知れば危うからず)』と諺にあります。古より兵を窮め武を極めて、亡ばなかった者はおりません。それに我らが国家はもとより戎狄であり、正統ではありません。江東は微弱といえども僅かに存続しており、中華の正統を天意は必ずや絶やさないでしょう」と述べると、苻堅は「帝王の暦数がどうして常であろうか!それはただ徳がある人物のものにのみ存在するのだ!劉禅は漢の苗裔であったにもかかわらず、最後は魏に滅ぼされる事となった。汝が我に及ばないのはそういう所であり、変化に対応して適応できていないのだ!」と反論するのみであった。
  39. ^ 苻融は「鮮卑・羌の虜(慕容垂・姚萇)は我らの仇敵であり、風塵の変を起こしてその志を逞しくすることを常に企んでおります。その述べる所は全て策略であり、どうしてそれに従うべきでしょうか!また、良家の子弟はみな富饒の子弟であり、軍旅の経験もないのに、苟も陛下に媚び諂ってその意見に合わせているだけです。今、陛下はこれを信用し、大事を軽々しく起こそうとしておられます。臣が恐れますのは、功が成らなかった後、しきりに患いが起こる事です。悔いても及びませんぞ!」
  40. ^ 『晋書』には衛将軍とある
  41. ^ 『晋書』によると、王顕もまた戦死したという
  42. ^ 権翼は「国軍が敗れたばかりであり、四方はいずれも離心しております。名将を徴収して長安へ配置し、根本を固め、枝葉を鎮するべきです。慕容垂の勇略は常人のものではなく、さらに彼は代々東夏(中国に東半分)の豪族です。禍を避けて来降してきましたが、どうしてその志が冠軍将軍たるだけに留まりましょうか!養鷹が飢えて人になつくようなものです。風が吹き荒ぶ音を聞く度に、空高く飛翔する志をいつも思い出す事でしょう。故に、謹んで籠の中に入れておかなければならないのです。どうしてこれを解き放ち、欲する所を任せてよいものでしょうか!」と訴えた。
  43. ^ 苻堅は「卿の言は正しい。だが、朕は既にこれを許したのだ。匹夫でもなお、約束は破らないものだ。まして朕は万乗(天子)であるぞ!それに、もしも天命に興廃があるのなら、もとより人智をもって動かせるところではない」と答えた。
  44. ^ 権翼はなおも「陛下は小信を重んじ、社稷を軽んじられております。臣が見ます所、一度行かせれば二度と帰ってこないでしょう。そして、関東の乱はこれより始まるのです」と訴えた。

参考文献[編集]

関連項目[編集]