王莽

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王莽
皇帝
王朝
在位期間 8年 - 23年
都城 長安
姓・諱 王莽
巨君
生年 前45年
没年 23年10月6日
王曼
功顕君
年号 始建国9年 - 13年
天鳳14年 - 19年
地皇20年 - 23年
王莽が発行した貨幣。小刀を模した形状である

王 莽(おう もう)は、新朝皇帝。字は巨君。『漢書』などに記されている「莽」の字の草冠の下の字は大ではなく犬である。

前漢元帝皇后王政君(孝元皇后)の甥で、成帝の母方の従弟に当たる。王曼(おうまん)の次男で、王宇・王獲・王安・王臨・王興・王匡らの父。孫(王宇の子)は王宗。娘に平帝皇后王氏、王曄、王捷らがいる。正妻は宜春侯王咸[1]の娘。また、王永の弟で、王光の叔父。

生涯[編集]

魏郡元城県(現・河北省邯鄲市大名県の東方)の人。

皇后に立てられた伯母の王政君の縁故で伯父達が列侯に封ぜられ、高官として裕福な暮らしを送る中で、父・王曼と兄・王永が早死にしたために王莽の一家のみが侯に封ぜられず貧しかった。王莽は恭倹に身を持し、沛郡の陳参に師事して『礼経』を受け、身を勤め学を広め、儒生並の服装をし、母と兄嫁に仕えた。また、甥の王光を養子として実子以上に熱心に養育し、それに王莽の妻が不平を述べたと伝えられる。

壮年となり、伯父の大将軍王鳳が病むとその看病を続けたため、王鳳は死に臨んで成帝に王莽を託す。これ以後、王商王根の推挙と皇太后となった伯母の後ろ盾を背景に王莽は順調に出世する。親戚の淳于長を失脚させ、大司馬となると、王莽の勢いは飛ぶ鳥を落とすほどになった。しかし外戚を除こうとした哀帝が即位すると罷免され、封国へ追いやられたが、国政復帰の嘆願が多く出され、長安に呼び戻された。

永始元年(前16年)、新都侯に封ぜられる[2]。哀帝が崩じると、哀帝から皇帝の璽綬を託されていた大司馬董賢から璽綬を強奪し、中山王劉衎(平帝)を擁立して大司馬に返り咲いた。暫くして古文経学の大家だった劉歆を始めとした儒学者を多く招き入れて、儒学と瑞祥・符命(一種の預言書にあたるもの)に基づいた政策を実施。その一方で民衆の支持を獲得するためには手段を選ばず、次男の王獲を奴僕を殺したことで罪に問い、長男の王宇を謀略を為したことで獄に送って、共に自殺に追い込んでいる。娘を平帝の皇后に冊立し、宰衡、安漢公となった後、5年には14歳になった平帝が死去した。平帝の死因については後世王莽による毒殺とされることがあるが[3]、漢書本文にはそのようなことは書かれておらず、平帝は幼少時から病弱であったため、病死である可能性が高い[4] 。こんどは遠縁の広戚侯劉顕の子・劉嬰を皇太子に立て、自らは「仮皇帝」「摂皇帝」として朝政の万機を執り行った。

更に天下を狙う王莽は古文を典拠として自らの帝位継承を正当化づけようとした。折しも、哀章という人物が高祖の預言という触れ込みの「金匱図」「金策書」なる符命を偽作し[5]、これを典拠として居摂3年(8年)に王莽は天命に基づいて禅譲を受けたとして自ら皇帝に即位、を建国した。この出来事は歴史上で初めての禅譲であり、簒奪に相当する。

『漢書』元后伝によると、太皇太后として伝国璽を預かっていた孝元皇太后王政君は、玉璽の受領にやってきた王莽の使者王舜(王莽の従兄弟)に対して向かって王莽を散々に罵倒し、それでも玉璽の受領を迫られると玉璽を投げつけて「お前らは一族悉く滅亡するであろう」と言い放ったと伝えられている。しかし栗原朋信によると、伝国璽の話は王莽伝に見えず、金策書で革命は完成しているのであって伝国璽は必要ない。またそもそも伝国璽は後漢になって出現したもので、王莽の時代には存在せず、この話をそのまま史実と考えることはできない[6]

王莽は周代の治世を理想とし、『周官』という書物を元に国策を行った[7]。だが、現実性を欠如した各種政策は短期間に破綻した。また匈奴高句麗などの周辺民族の王号を取り上げ、華夷思想に基づく侮蔑的な名称(「高句麗」を「下句麗」など)に改名しようとしたことから周辺民族の叛乱を招き、それを討伐しようとしたが失敗した。さらには専売制の強化なども失敗し、新の財政は困窮した。

生活の立ち行かなくなった農民の反乱(赤眉の乱)が続発。王莽が南陽郡で擁立された劉玄(更始帝)を倒そうと送った公称100万の軍勢も昆陽の戦いで劉玄旗下の劉秀(光武帝)に破られ、これで各地に群雄が割拠して大混乱に陥る。遂には頼む臣下にも背かれて、長安城には更始帝の軍勢が入城、王莽はその混乱の中で杜呉という者に殺された。68歳。これにより新は1代限りで滅亡した。王莽の首級は更始帝の居城宛にて晒され、身体は功を得ようとする多くの者によってばらばらに分断されたという。

評価[編集]

伝統的評価[編集]

伝統的には王莽の評価はきわめて低く、王莽については政治面ばかりか人間性まで含めて批判的な評価が下されている。『漢書』を著した班固は「王莽伝」賛で以下の様に評している。

王莽は口が大きく顎が短く、出目で瞳が赤く、大きなガラガラ声を出す。身長は7尺5寸(約173cm)もあるのに、底の厚い靴と高い冠を好み、ゴワゴワした張りのある毛を衣服に入れ、胸を反らして高いところを見、遠くを眺めるような目つきで左右の目を見る。

こうした外見や人当たりに殊更拘りを見せ、儀式の際には髭や髪を黒く染めて若く見せようとした一方、符命や瑞祥によって自らの登用や即位を正当化させようとした際にも自ら渋々受ける振りをするなど奸智に長けていたと言われている。

加えて王莽の治世においては余りにも異常な政策が実行されたことが、『漢書』では事細かに記されている。

  • 王莽に叛いた翟義と共謀した王孫慶を捕え、太医に解剖させたことがある。五臓や血管について記録させ、「これで病気の治療法が判る」と言った(『漢書』王莽伝中)。
  • 天に救いを求めるために、泣き声の悲哀な者を郎(官僚)に取り立てた。このため、郎の数だけで5000人に達したと言う(王莽伝下)。
  • ある人が一日に千里を飛び、匈奴を偵察できると言った。王莽がこれを試させたところ、大鳥の翼をつけ、全身に羽毛をまとい、紐でつなぐ仕組であった。この者は数百歩飛んで墜落した(王莽伝下)。

この様な失政の数々や人間性の問題もあって、王莽は姦臣の代表格として看做されることが多い。呉承恩は、『西遊記』で孫悟空が暴れた時期(山に封じられるまで)を王莽の時代と設定したが、これは「暴君・王位簒奪者・偽天子が皇位にある時、天変地異が起こる」という伝承を王莽の簒奪と重ねていると見られる。また日本においても、『藤氏家伝』大織冠伝が蘇我入鹿の政を「安漢の詭譎」と批判して以来、『平家物語』も趙高安禄山らと並ぶ朝敵として王莽の名を挙げ(巻1)、木曾義仲の横暴ぶりを王莽に例える(巻8)など姦臣の代表格として扱われている。

近代の評価[編集]

1920年代から一転して、王莽を改革者として高く評価される学者が現れた。日本では吉田虎雄が王莽の社会政策を評価し、中国では胡適が王莽の六筦政策などを評価して「1900年前の社会主義者」と呼び、王安石と並ぶ中国の改革者とした。ドイツのオットー・フランケも王莽を国家社会主義的政策を行ったと評価した[8]。しかしこれらの評価は現代的な価値観を直接王莽に投影したものであり、一面的である[8]

西嶋定生儒教武帝のときに国教化されたという従来の説に反対し、国家の祭祀儀礼の改革や儒教国教化の完成などの大部分は王莽が大司馬であった平帝時代に完成したとする。王莽の政治には儒教主義がはじめてあらわれ、これは後世の中国王朝国家の性格を規律することになったとして、西嶋は王莽政権の歴史的意義を重視する[9]

渡邉義浩は、儒教に基づく国制(古典中国)を特徴づける14項目のうち10項目までが王莽によって確定されたものであるとした[10]。また新の建国後、王莽は合理的で完成度の高い古文説によったが、渡邉によると儒教の理想と具体的国政が乖離していたために改革は失敗し、後漢になって理想と現実の調整が行われたとする[11]

王莽の社会政策の中で後世に影響したものとしては王田制がある。王田制そのものは早々と土地売買の禁止を廃止したために有名無実化したが、後の均田制の源のひとつとして早くから注目された[12]

漢朝臣下の時代に王莽自ら定めた「皇帝の即位儀礼」は光武帝以降の歴代皇帝に受け継がれ、即位式に際してはこれに基づき諸儀礼が行われた。学・校という儒学の校舎を全国に設置して勉強を奨励させたのも王莽の治下であり、結果的に後漢期には儒学を学ぶ人物が多くなったとも言われる。[13]

また復古政策の一環として前漢中期頃から増え始めた二字名を禁止した(二名の禁)。王莽滅亡後もなぜか影響は残り、二字名が再び増加するのは南北朝期以降となる。

脚注[編集]

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  1. ^ 丞相王訢の孫。
  2. ^ 新都侯国は南陽郡にある。
  3. ^ 『漢書』平帝紀注や、反乱者翟義の檄文では、王莽の毒殺としている。
  4. ^ 東(2003) pp.153-156
  5. ^ この中には天下を執った王莽を補佐する人物として、王莽の腹心と共に「王興」と「王盛」という名があった。しかし有力な官僚の中に該当する者がなく、門番の王興と餅売りの王盛を公に任命したという話がある。(王莽伝中)
  6. ^ 栗原(1960) p.142,154
  7. ^ この『周官』自体、王莽が劉歆に創作させたものではないかという説がある。例えば南宋・洪邁『容齋続筆』巻16「周礼非周公書」、清末・康有為『新学偽経考』「漢書劉歆王莽伝弁偽第六」。
  8. ^ a b 河地(1970) p.367
  9. ^ 西嶋(1997) p.392
  10. ^ 渡邉(2012) p.181
  11. ^ 渡邉(2012) pp.184-185
  12. ^ 東(2003) p.215
  13. ^ 東晋次『王莽』

参考文献[編集]