平帝 (漢)
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平帝 劉衎 | |
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前漢 | |
第14代皇帝 | |
王朝 | 前漢 |
在位期間 |
元寿2年9月1日 - 元始5年12月16日 (前1年10月17日 - 6年2月3日) |
都城 | 長安 |
姓・諱 | 劉箕子→劉衎 |
諡号 | 孝平皇帝 |
廟号 | 元宗 |
生年 | 元延4年(前9年) |
没年 |
元始5年12月16日 (6年2月3日) |
父 | 劉興 |
母 | 衛姫 |
后妃 | 王皇后 |
陵墓 | 康陵 |
年号 | 元始 : 1年 - 5年 |
生涯[編集]
元延5年(前8年)、父の中山孝王劉興(元帝の末子)の死去にともない2歳で爵位を継承した。元寿2年(前1年)、従兄の哀帝の死去にともない、皇帝の璽綬を董賢から奪った王莽らによって9歳で皇帝に即位した。即位当初から王莽ら王一族が権力を握った。母の衛姫や衛氏一族は長安に入れなかったが、王莽の長男の王宇やその夫人の兄の呂寛らは、このことがのちのち禍根となることを恐れて、衛氏が長安に入れるように働きかけた。そのことが王莽の怒りを買い、平帝の母の兄弟にあたる衛宝・衛玄ら衛氏一族を(衛姫を除いて)ことごとく誅殺し、王宇や呂寛も衛氏一族とともに殺した。
元始4年(4年)に王莽の娘が皇后に立てられた。元始5年(5年)14歳のとき、未央宮に於いて王莽に因り毒殺され崩御した。『漢書』平帝紀注によると、王莽が臘日に献上した酒に毒を盛り殺したという。