王皇后 (漢平帝)

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王 皇后(おう こうごう、紀元前9年 - 23年)は、前漢平帝の皇后で、の皇帝王莽の娘。

略歴[編集]

元寿2年(紀元前1年)に9歳の平帝が即位すると、成帝の母である太皇太后王政君が政務を行い、その甥の王莽が最高権力者となった。王莽は霍光に倣って娘を皇后にしようとし、王・王・周公旦孔子の子孫や列侯の子女から皇帝の妻妾を選ぶよう進言した。しかし王莽は候補者に王莽の一族の王氏の子女が多く含まれていることを知ると、彼女らが自分の娘と争うことになるのを恐れ、「私は徳も無く、娘も優れていませんから、他の子女と一緒に選ばれるほどではありません」と申し出た。太皇太后はそれを至誠であると感じ、自分の一族である王氏からは選ばないよう命じたが、庶民から大臣に至るまで多くの者が王莽の娘を選ぶよう訴え出たため、太皇太后は王莽の娘を選ぶことを許した。

元始4年(4年)に王莽の娘は皇后として迎えられた。皇后の父である王莽は尊ばれて宰衡の称号を、王莽夫人は功顕君の号を与えられ、皇后の兄弟である王安は褒新侯、王臨は賞都侯に封じられた。

元始5年(5年)、王莽は皇后に「子孫の瑞」(初潮)があったことを理由に杜陵から漢中に至る「子午道」を作った。

元始5年に平帝が死亡し、劉嬰が後継者に選ばれ、王莽が摂皇帝と称して皇帝代行となると、皇后は皇太后となった。

王莽が皇帝の座に就き、漢が滅び新が成立する(始建国元年(9年))と、劉嬰は定安公とされ、皇太后だった王莽の娘は定安太后とされた。彼女は節操があり、漢が廃されてからはいつも病気と称して朝廷の会には参加しなかった。王莽は別の者に嫁がせようと思い、彼女の号を「黄皇室主」と改め、立国将軍孫建の世継ぎに着飾らせて見舞いに行かせたが、彼女は激怒した。それ以降、彼女は発病して床から起きようとせず、王莽も強制はしなかった。

地皇4年(23年)、新が攻められ、王莽が殺されて未央宮が焼けると、彼女は「何の面目があって漢の人間に会うことができようか」と言い、火の中に身を投じて死んだ。

参考文献[編集]

  • 班固著『漢書』巻12平帝紀、巻97下孝平王皇后伝、巻99王莽伝