哀帝 (漢)

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哀帝 劉欣
前漢
第13代皇帝
Dong Xian.jpg
王朝 前漢
在位期間 綏和2年4月8日 - 元寿2年6月27日
前7年5月7日 - 前1年8月15日
都城 長安
姓・諱 劉欣
諡号 孝哀皇帝
生年 河平4年(前25年
没年 元寿2年6月27日
前1年8月15日
劉康
丁姫
后妃 傅皇后中国語版
陵墓 義陵
年号 建平 : 前6年 - 前3年
太初元将 : 前5年
元寿 : 前2年 - 前1年

哀帝(あいてい)は、前漢の第13代皇帝元帝の孫にあたる。名は、劉欣。

腹心の董賢男色の関係にあったと伝えられ、「断袖」の故事で知られる[1]

生涯[編集]

定陶王時代[編集]

河平4年(前25年)、元帝の側室の孫にあたる父の定陶恭王劉康と丁姫の間に生まれる。

母丁姫はあまり養育に関わらず、劉欣(後の哀帝)は、才知があって宮中で人望があった祖母の傅氏から熱心に養育された[2]

陽朔2年(前23年)、父の定陶恭王が死去したため3歳で爵位を継承し、劉欣は、定陶王に即位した。成長してからは、文辞や法律を好んだ。その文辞に関する知識や理解は広く、話すときに滞ることはなく、幼い時から令名があった。

元延4年(前9年)、17歳の時に、漢の都の長安に入朝する。劉欣の伯父にあたる成帝の質問に対し、明確に回答し、さらなる質問に答えて、『詩経』もそらんじ、その意味をはっきりと説明することができた。そのため、成帝は劉欣をすぐれた人物とみなし、しばしばその才能を称えた。

劉欣の祖母の傅氏(元帝の昭儀)が、成帝の皇后であった趙飛燕 (孝成皇后)と票騎將軍であった曲陽侯の王根に(劉欣を皇太子にするために)賄賂を贈る。趙飛燕と王根は、成帝に子がなく、今後の自分たちの立場を考えて、劉欣を称えて、成帝に後継者にするように勧めた。成帝も、劉欣の才能をすぐれたものであると考え、元服させて国に帰した。

元延5年(前8年)、劉欣が18歳になると、成帝は劉欣を召して、皇太子に立てようとした。劉欣は辞退したが、成帝は別に定陶王を立て、劉欣は都に呼ばれ、成帝の皇太子に立てられた。

皇太子に立てられてからは、元帝の皇后であった王太后(王政君)のはからいで、十日に一回、劉欣の祖母の傅氏と母の丁姫が面会できるようにしたが、傅氏しか行くことができなかった[2]

皇帝即位[編集]

綏和2年(前7年)3月、成帝が死去すると、太皇太后となった王政君皇太后となった趙飛燕の後楯により、劉欣は19歳で即位し、後世に「哀帝」と呼ばれるようになる。父の定陶恭王・劉康を尊び、恭皇と称した。

漢書』哀帝紀の賛によれば、哀帝(劉欣)は、成帝までの時代に権力が外戚に移っていた状況を見て、朝廷に臨んでは大臣を厳しく罰して、人主の威厳を強めて、武帝宣帝をみならおうとしていた。哀帝は、音楽や女色は好まず、ただ、弓射と角力(すもう)を見学することはしばしば行った。皇帝即位後には、両足に障害があったようである。

東晋次は「哀帝は法律好みのところがあった」、「哀帝の性格は、元帝や成帝より宣帝に近く、(強権によって治める覇道(法家)と、徳をもって治める王道(儒家)をうまく使い分けながら行う統治方針である)漢王朝の伝統的統治方針に忠実な皇帝であったとみなしてもよい」と評している[3]

成帝の時代に、大司馬王莽が任じられていたが、(王莽の伯母にあたる)王政君は、王莽に詔を出して、哀帝の外戚の傅氏と丁氏を避けさせた。王莽は哀帝に辞任を願ったが、哀帝は詔を出して語った。「先帝(成帝)は、君に委任したまま、崩御された。朕は君と心をあわせることができると喜んでいたのに、君は病と称して辞職を求めている。朕ははなはだ心を痛めている。君の(辞任を撤回する)奏上を待っている」[4]

哀帝は、さらに丞相孔光大司空何武、左将軍の師丹、衞尉の傅喜を王政君のもとに派遣して、伝えさせた。「皇帝(哀帝)は太后(王政君)の詔をきいて、とても悲しんでおられます。大司馬(王莽)が政務に参加されないなら、皇帝は政治を行うことはされないでしょう」。そこで、王政君は王莽に政務に参加させることにした[4]

尊号問題[編集]

高昌侯の董宏が上書した。「『春秋』の義によりますと、『母は子をもって貴し』としています。(哀帝の実母の)丁姫に尊号をつけられますように」。しかし、王莽と師丹は、董宏が道に外し、朝廷を誤らせるものとして弾劾した[4]

哀帝は、即位したばかりであるので、王莽と師丹に謙譲して、董宏を罷免して、庶人とした。(哀帝の祖母の)傅氏は激怒して、必ず尊号を称したいと、哀帝に要求した[5]

5月、皇后を祖母の一族である傅氏とし、『春秋』を根拠に、実母の丁姫に恭皇后、実祖母の傅氏には恭皇太后の尊号を贈り、外戚にあたる傅氏の一族と丁氏の一族を列侯に封じた。

この頃、待詔黄門の李尋が「五行説」などを理由に、外戚の害を訴えていたが、哀帝は(元帝の外戚の)王氏は余り抑えきれず、傅氏の一族と丁氏の一族は重用され、哀帝の実祖母の傅氏は特に傲慢で、尊号を求めていた。結局は、傅氏に尊号が与えられ、これを諫めた丞相の孔光と大司空の師丹は罷免されたが、李尋は信任されるようになった[6]

渡邉義浩は、「哀帝は、王氏出身の元太皇太后(王政君)に対抗するため、祖母の定陶太后(傅太后)と母の丁姫に尊号を与えようとしていた」としている[7]

ただし、哀帝は傅氏の一族と丁氏の一族に大きな権力を持たせなかったので、権勢では成帝における(王政君の)王氏に及ばなかったとされる[2]

郎中令の泠襃と黄門郎の段猶はまた奏上した。「(実祖母の傅氏に贈った「恭皇太后」と実母の丁姫に贈った「恭皇后」には)定陶を意味する蕃国の名である「恭」の字を大号に冠すべきではいけません。また、(哀帝の父の)恭皇(定陶恭王の劉康)の廟を都に立てるべきです」。しかし、師丹に尊卑の序列を乱すなどの理由で反対する[5]

東晋次は、「この背景には、宣帝に類似した哀帝の法家的な統治方針を支持する朱博等の党与と師丹・王莽等の儒家の教説を奉じる一派との対立がある」としている[8]

後日、未央宮において宴会がなされた時、内者令が、哀帝の実祖母の傅太后の席を、太皇太后である王政君の横に置いた。王莽は巡回して、内者令を責めた「定陶太后(傅太后)は、藩妾(「藩」王である定陶王の母であり、かつての成帝の側室(「妾」)という意味)である。なにをもって、至尊と並べるのか!」。王莽は、傅太后の席を撤去して、別に設けさせた。これを聞いた傅太后は激怒し、宴席に来ずに、さらに王莽を恨み怒った[4]

東晋次は、「王莽や師丹が傅氏や丁氏に対する尊号奉上に反対する背景には、王氏と傅氏の宮廷における序列、そこから生まれる政治的権威の問題が存在した。王莽にとって傅氏が元后(王政君)と同列になることはどうしても避けねばならなかった。表面上は尊号という制度上の一問題にすぎないけれども、王氏と傅氏・丁氏との激烈な権力闘争がその根底に横たわっていると見るべきであろう」としている[9]

そこで、王莽はまた、辞任を願った。哀帝は、黄金500斤と馬車を王莽に与え、屋敷に帰らせた。公卿大夫の多くのものが王莽を褒めたたえた。哀帝は特別の恩寵をもって、十日に一度、使者を王莽の屋敷に送ることにして、詔をくだした。「新都侯の王莽は、国家のために悩み苦しみ、義を守ること堅固で、朕はともに政治を行うことを願っている。太皇太后(王政君)は詔を行い、王莽を屋敷に帰したが、朕はとても憂いてる。そこで、黄郵聚の350戸を王莽に増して与え、位を特進とし、給事中に任じて、月の一日と十五日に朝見させ、天子にまみえる礼は三公の通りとして、車でのおともをさせる」。そこで、王莽はこれから2年、このようにして、朝廷に仕えた[4]

哀帝は、左将軍・師丹を、王莽に代えて、大司馬に任じた[10]

6月、即位に功績のあった曲陽侯の王根に二千戸、太僕であった安陽侯の王舜は五百戸、丞相の孔光と大司空の何武にそれぞれ千戸を与えた。

哀帝は若い時から、王氏が驕慢で勢いがあることを知っており、(王莽のことも含めて)、心では面白くはなかったが、まだ即位したばかりだったので、まだ、王氏を優遇していた[11]

治世[編集]

師丹は建議して言った。「いにしえの聖人は井田を設けて、それから天下を治まりました。文帝は秦末の戦乱の後を受けて、天下が空虚であったので、農耕と倹約を勧め、民ははじめて充実しました。まだ、(富裕層が貧困層の土地を奪うような)兼併の害はなかったので、名田(私田)と奴婢を有する広さと数の制限を行わなかったのです。長い間、太平の世が続き、豪族や官吏の家は巨万の財を積み、貧困な民はさらに困窮しています。君子の為政は因習を尊び、変化をはばかりますが、それでも、改めることがあるのは、危急を救うことがあるためです。(私田と奴婢)はおおよその所有する限度をもうけるべきです」

哀帝が臣下に議論させると、丞相の孔光、大司空の何武は、「諸侯王や列侯が領土の中にある名田(私田)、長安にいる列侯や公主が各地に有している名田、関内侯や官吏・民の名田は,全て三十頃を超えることができないようにし、諸侯王の奴婢は二百人まで、列侯と公主は百人まで、関内侯や官吏・民は三十人までにします。猶予期間は三年もうけて、それ以降に犯したものは、全て国が没収するのです」

哀帝は、詔を行い、朝廷に命じた。「諸侯王・侯・主・高位の官吏および勢力が強く富裕な民が、たくさんの奴婢を養い、田や宅地を限りなく持ち、民と利益を争っているため、多くの民が分限を失い、困窮を重ねても足りない状態である。この制限禁止の事項をあげて議論するように」

これにより、新たな政策が公布された。

  • 諸王や列侯が領土の中にある名田(私田)、長安にいる列侯や公主が各地に有している名田、関内侯や官吏・民の名田は,全て三十頃を超えることができないようにする。
  • 諸侯王の奴婢は二百人まで、列侯と公主は百人まで,関内侯や官吏・民は三十人までにする。
  • 商人は全て名田を得ることや、官吏になることを許さず,これを犯すものは法律で罰する。
  • 名田や奴婢の広さや数が限度を過ぎている分は,全て国が没収する。
  • 贅沢な服飾は製造を中止し、完成品を献上させないようにする。
  • 任子(高位の役人は在職が3年になれば、その子の一人が郎に任じられた)は廃止する。
  • 後宮宮女で年が三十歳以下のものは出して、結婚させる。
  • 役所の奴婢で五十歳以上のものは,それを免じて庶人にする。
  • 郡国に獣を献上させることを禁止させる。
  • 官吏の三百石以下ものの俸禄を増やす。
  • 役人で刑罰が残酷なものは,時をみはからって退職させる。
  • 役人は恩赦以前の犯罪で捕まえることができないようにする。
  • 博士弟子の父母が死んだ場合,三年の喪に服させる。

これには、王侯や一般人が所有する田地や奴婢の制限を行う「限田法」が含まれるが、「限田法」は三年間の猶予期間がもうけられ、発令によって、田地や奴婢の価格が下落した。だが、「限田法」はその後反対にあい、実施されることはなかった[12]

ただし、任子の令を廃止するなどのその他の改革は実行された。

7月頃、司隸校尉解光が奏上してきた。「曲陽侯・王根は、賄賂をとって巨万の富を積み、贅沢を行い、召使を私兵にし、勝手に民を使役して、政治を乱し、藩臣と交際し、制度を破壊しました。先帝(成帝)が亡くなられても、酒宴歌舞を行うなど、先帝の厚い恩を忘れ、君臣の義に反します。(王根の兄)王商の子である成都侯・王況は、父を継いで、列侯に封じられ、侍中になることができたのに、もと後宮の貴人の妻をとり、人臣の礼がありません。これは、大不敬にして不道です」。哀帝は、「先帝は厚く王根と王況父子を遇したのに、今になって恩義を忘れ背いたか」と話し、王根のかつての功績に免じて、(領土の没収はせずに)領国に行かせ、王況は庶人におとした。また、王根と王商が推薦した役人は全て罷免させた[11]

この頃、哀帝が太子時代に、庶子(官職名)として、信任していた王去疾を侍中騎都尉に任じる。王去疾は王政君の弟である平阿侯・王譚の子であり、王氏に高位のものがいないため、哀帝は、王去疾を信任し続けて、その弟である王閎中常侍に任じた[13]

各地で地震があり、河南郡穎川郡に洪水が起きたため、死者の棺料として一人に銭三千を与え、被害が大きい地域の貧しい民には、この年の税を免除する。

建平 元年(前6年)、正月、天下に大赦を行う。

司隸の解光が、皇太后の趙飛燕がかつて、成帝の子とその母を殺害していたことを訴える。そこで、哀帝は、趙飛燕の弟である新成侯の趙欽と趙欽の兄の子である成陽侯の趙訢を庶人におとして、その家族を遼西郡へと流した[2]

王政君が詔を行い、王氏の私田のうち、墓地でないものは、みな、貧民に与える。

2月、大司馬、列侯、将軍、高位の官吏、州牧太守諸侯相に命じて、人格にすぐれるもの直言することができるもの、政治に通じるもの、卑賤より引き上げて民を親しむことができるもの、各々一人ずつ推薦するように、詔を行う。

建平 二年(前5年)3月、大司空の名を、元々の御史大夫に戻す。

4月、詔を行い、亡父劉康に追贈した「恭皇」の諡号があるため、(王位であった時の)「定陶」とは呼んではならないことを命じ、実母の丁氏に帝太后、実祖母の傅氏には皇太太后の尊号を贈っている。また、恭皇のが長安に立てられることとなった。

州牧の名を、元々の刺史に戻す。

東晋次は、「大司空の名を、元々の御史大夫に」、「州牧の名を、元々の刺史に」もどした政策を「成帝期の儒家官僚主導による制度改革を、秦以来の伝統的なそれに復帰させようとする哀帝の強い意向を示すものであろう。それはとりもなおさず、王氏一族によって壟断された皇帝権の回復を意図するものであった」と評している[14]

この頃、丞相の朱博が上奏してきた。「王莽は先に、(哀帝の実母の丁氏と、実祖母の傅氏)への尊尊の義を広めようとせず、(哀帝の)孝道をそこない、処刑にしてみせしめにすべきでした。幸いにも赦免をこうむりましたものの、領土を有すべきではありません。どうか、罷免して、庶人にしてください」。哀帝は答えて言った。「王莽は太皇太后(王政君)の一族である。罷免してはいけないが、領地に帰すことにする」。このため、王莽は、領地に行くことになった[4]

また、同じく王氏の平阿侯・王仁がかつて趙飛燕の親族をかくまったことがあったため、領地にいくことになっており、天下の人の多くが、王氏は無実の罪を受けていると思った[11]

このため、諫大夫の楊宣が上言してきた。「先帝(成帝)のお気持ちを考えるに、なぜ、陛下が皇太子であった時に、太皇太后(王政君)をお呼びになっていたわれなかったのですか? 太皇太后は70歳にもなられ、しばしば心の憂いや痛みに耐えられ、親族の王氏に勅令をくだして、丁氏や傅氏を避けて、領土に行くように命じられています。このことを聞いて、道行く人ですが、太皇太后のために涙を流していることです。時に高くのぼって遠くを望んで、成帝にはずかしく思われないのですか?」。哀帝はこの言葉に深く感激を受け、王商の次子・王邑を成都侯に封じた[11]

6月、実母の丁氏が死去する。父・劉康とともに、定陶の地に葬った。

この頃、郎の董賢に面会して気に入り、殿上にあげ共に語り、黄門郎に抜擢した。さらに、董賢への寵愛は深まり、董賢を駙馬都尉侍中に昇進させる。哀帝は、董賢を車に同乗させ、左右にはべらせ、一緒に寝起きをともにするようになった。董賢への恩賞は巨万なものとなった。『漢書』では、哀帝と董賢は男色の関係にあるものとされる。後に、董賢の妹を昭儀(側室の一人)とし、董賢の妻もふくめて、宮廷に出入りできるようにさせ、哀帝の左右にはべったと伝えられる[13]

予言の影響[編集]

当時は漢の命運がつきかけているという迷信(暦運)があり、(讖文)という天帝(天の支配者)の意思を伝えるとされる古代の仙人孔子の予言と称する書物の存在が信じられていた。

渡邉義浩は、「讖緯思想において、孔子は未来をも見通す神と位置づけられた。この結果、孔子の神格化が急速に進み、やがて儒学は儒教へと変容していく。前漢の中期以降、とりわけ末期にかけて盛んにつくられた緯書のなかには、漢の暦数(天により定められた国家の寿命)は尽きたので、天命を再び受ける必要がある、と漢の再受命の必要性を説くものもある」としている[15]

司隸校尉の解光と騎都尉の李尋の推薦を受けた待詔黄門侍詔の夏賀良が、成帝時代に発見されたとされる天帝の意思を伝えると称する赤精子(仙人の一人)の讖文(予言書)のことを上言してきた。「漢王朝の暦運は、中頃で衰えており、また、(漢の高祖である劉邦が一度は受けた)天命を再度、受けるべきです。成帝は天命に応じられなかったので、後継ぎが絶えました。現在、陛下(哀帝)が長い間、ご病気でおられ、変異がしばしば起こっているのは、天が警告されているからです。そのため、改元を行い、号を変えるべきでしょう。そうすれば、寿命を延ばすことができ、皇子もお生まれになり、災異もやむことでしょう。道があっても得ることができないなら、滅亡します。洪水や火災が起きて民衆が被害にあうでしょう」[6]

哀帝は長い間、病気でふせっており、利益があることをこいねがって、夏賀良の意見に従うことにした。[6]

そこで、詔を行う。「漢王朝が興って200年が経ち、天命のめぐりあわせで、開国できた。天は、非才なる朕に助けをくだして、漢王朝に天命を授ける符(お告げ)をくだされた。朕は不徳であるが、天意に通じ、天命に基づいて、天下を一新しよう。天下に大赦をくだすように。改元を行い、建平二年は、太初元将元年とする。朕の号は、「陳聖劉太平皇帝」とする。漏刻(水時計)の目盛りは、120度に変えるように」。

1か月ほどしたが、哀帝の病気に変化はなかった。夏賀良らは政治に関することを変えようとしたが、大臣たちは許すべきではないと争った。夏賀良らは大臣がみな天命を知らないと奏上し、丞相や御史を罷免して、解光と李尋を政治の補佐にするように哀帝に求めてきた。哀帝は夏賀良らの言葉に効験がないため、夏賀良らを役人に引き渡した。

8月、詔を行った。「夏賀良らが改元と号を変えることや漏刻の目盛りを増やし、国家を長く安らかにするように建言した。朕はあやまって、夏賀良らの言葉を聞き、海内のために福をこいねがったが、ついに良い応えはなかった。これは全て、経書の教えに違い、いにしえに反し、時宜に合わないことであった。6月に下した詔は、恩赦を除いて、除去する。夏賀良らは道に反し、多くのものを惑わした。役人に引き渡すように」

夏賀良ら皆、獄にくだった。夏賀良らは、左道(邪道な教え)をとって、朝廷の政治を乱し、国家を転覆させ、哀帝に誣いていつわったとして、道を外したものとされた。夏賀良らは皆、処刑され、解光と李尋は罪一等が減じられ、敦煌郡に流刑となった[6]

東晋次は、「ここで注目すべきは、哀帝自身、漢王朝が天命から見放されつつあり、再び天命を受けることの必要性を感じていることである。つまり漢王朝が中国を支配する王朝としての正当性をしだいに失いつつあるとの認識を皇帝自身も持たざるをえないほど、漢代社会の矛盾や問題が充満していた、と解釈することもできるであろう」と評している[14]

不穏な社会情勢[編集]

丞相の朱博、御史大夫の趙玄、孔郷侯の傅晏は実祖母の傅氏の意向により、傅氏が尊号を得ることに反対した傅高を排除しようとした。そこで、朱博と趙玄は、傅高と何武を庶人とすうように上言してきた。哀帝は、実祖母の傅氏が傅高を恨んでいたので、知っていたため、審問したところ、趙玄を調べさせたところ、趙玄がその罪を認めた[16]

朱博は自害し、趙玄は死二等が減ぜられ論告され、傅晏の領地は4分の1が削られた。

建平 三年(前4年)、この頃、(3年を猶予の期限としていた)「限田法」の実施が迫ったが、高位にある傅氏や丁氏の一族や董賢が反対をしたため、詔を下して、しばらく実施を延期したが、最終的には実施されなかった[12]

11月、甘泉の泰畤、汾陰の后土の祠を元にもどして,南郊北郊の儀式をやめる。

これは、儒家の古礼に合致しないとして、元帝期から儒家官僚に問題にされ、成帝期に、長安の南郊で天を、北郊で地を祀るようにその祭祀の場所を移したもので、成帝期には、また、元にもどり、成帝が死去した後で、また、長安の南北の郊外で天地を祀ることに変更したものであり、哀帝がまた、南郊・北郊の儀式をやめたことは、「儒家官僚の神経を逆なでするような処置」であった[14]

渡邉義浩は、哀帝が南郊・北郊の儀式をやめ、甘泉の泰畤、汾陰の后土の祠を元にもどしたことについて、「哀帝は、成帝期に儒者より推進されてきた儒教に基づく制度改革を漢家の故事へと戻すことにより、外戚として権力を掌握してきた王氏の勢力を排除するとともに、皇帝権力の回復を目指した。王氏、なかでも王莽が価値基準の中核に置いてきた儒教の経義よりも、漢家の故事を優先することで、王氏に対抗したのである」としている[17]

待詔の孫寵と息夫躬ら東平王の劉雲(宣帝の第四子・劉宇の子)、劉雲の后である謁が神をまつり呪詛を行っていると告発したため、調べたところ、安成恭侯・王崇(王政君の弟)の夫人の放も含めて、全て罪があった。董賢を侯に封じたいと考えていた哀帝は、孫寵と息夫躬に命じて、董賢のはからいで告発させることにした。劉雲は自殺し、謁と放は市場で処刑された[18]

建平 四年(前3年)春、大干ばつが起きる。関東の民の「西王母が来る」という流言が、各地の郡や国をめぐって、西にまで伝わり、長安にまで聞こえた。民は集まって西王母をまつり、あるいは火を持って屋上にのぼり、太鼓を打って叫んで、お互いに恐れあった。

東晋次は、「災害は元帝期頃から徐々に増加し、成帝期に入るととくに関東や関中での大水の記事が目立っている」、「実際、成帝期から哀帝期にかけての地方政治の荒廃、民の生活の破綻が多くの論者によって指摘されているのである」、「例えば、『漢書』鮑宣伝によると、鮑宣は(中略)、このような現実をもたらしているのは、ただただ己の利益を追求する中央・地方の官吏のあり方にこそその原因があるのだ、という」と指摘している[19]

3月、東平王の劉雲を告発したことで功績のあった侍中駙馬都尉の董賢を高安侯に、光禄大夫となった息夫躬を宜陵侯に、南陽太守となった孫寵を方陽侯に封じる。それぞれ、食邑は千戸であった。[18]

東晋次は、「ちょうど限田制の実施予定の時期に当たるから、哀帝の董賢への規定を大幅に超過した土地の賜与は、限田制の無効化を物語っているし、(董賢への土地の賜与を諫めた)王嘉の言う「均田之制」はこの限田制を指していることはまちがいなかろう」と指摘している[20]

5月、俸禄が2,000石と600石の官吏、及び天下の男子に爵位を与える。

6月、実祖母の帝太太后・傅氏をさらに尊んで、皇太太后とした。

8月、恭皇の園の北門で火災が起きる。

冬、詔を行い、将軍や高位の官吏に、兵法に明るく智謀すぐれたものを推挙するように命じる。

董賢への譲位を望む[編集]

元寿 元年(前2年)正月、日食があった。

当時は、「天人相関説」が存在し、天子が不徳であり、善政を行わなければ、天がそれを警告するため、「災」と言われる自然災害や「異」と呼ばれる日食などの異変が行われるという「災異説」が大きな力を持っていた。天子が天の警告に従わない場合は、天が怪異を起こし、それでも改めない場合は、国を滅ぼすと信じられていた[21]

そのため、哀帝は、詔を行った。「朕が帝位についてから、不明不敏であり、毎晩悩み苦しみ、安らげる時もない。ただ、陰陽の調和が整わず、民は不足を感じているが、まだ、その咎が見られなかった。そこで、公卿に命じて、望みを託したが、今だ、役所の法律の執行は公正ではない。あるものは暴虐で、名声を得て、勢いをえて、かえって、善良で温和なものが滅ぶに至っている。そのため、民を悩み恨んで、身の置き所もない有様である。正月の日食の咎は、遠くになく、朕一人にある。公卿大夫はみな、それぞれ、心を尽くして百官を統帥せよ。また、あつく仁の心のある人に任せ、残賊を遠くしりぞけ、民を安らぐことを期して、朕のあやまちを述べ、いみはばかるところがあってはならない。将軍、列侯、高位の官吏は賢良・方正で直言できる人物をそれぞれ一人、推挙するように」

同月、祖母の皇太太后・傅氏が死去する。

祖母の傅氏を元帝の渭陵に合葬させ,(元帝の正后は、王政君ただ一人にも関わらず)孝元傅皇后と称した[22]

この頃、(官僚登用試験の)賢良の科の対策試験で、多くのものが王莽の無実を訴えた。そこで、哀帝は、王莽と平阿侯・王仁を都の長安に帰させて、王政君の近くにはべらせるようにさせた。曲陽侯の王根が死去し、その領土は除かれた[11]

3月、哀帝は、皇太太后の傅氏の遺詔にかこつけて、董賢に二千戸を増し封じる詔を行う。丞相の王嘉はその詔を返し、東平王の劉雲の事件は冤罪であることを疑い、告発した息夫躬や孫寵の罪を憎み、しばしば、董賢が国や制度を乱していることを諫めた。そのため、王嘉は失言に座して獄に下されて、死んだ。董賢に二千戸を増しくだされた[18]

9月、哀帝が董賢を寵愛することを嫌い、王嘉の死をあわれんでいた大司馬票騎将軍の丁明(哀帝の実母・丁姫の兄)を罷免した[18]

この時、哀帝は勅書をくだした。「先の東平王の劉雲は帝位を欲し、神に祈り呪いを行った。劉雲の后の父である伍宏は医術を持って詔を待ちながら、校秘書郎の楊閎とともに反逆しようとして、わざわいは迫っていたのだ。丁氏の一族が彼らを信任したため、伍宏は医術で近づき、国家をあやうくしようとしたのだ。朕は丁皇后のために、このことを言うに忍びなかった。将軍(丁明)はわざわいをその芽のうちに摘み取ることができず、心で朕の過ちと思い、劉雲や伍宏が無実の罪を着せられたといいふらし、伍宏は良い医者でありその死は惜しむべきで、董賢が寵愛を極め、忠義ある人に嫉妬し、功ある人をそしっているのは痛ましいことだと言った。朕は将軍を書簡でいましめたのに、王嘉と私心をもって交わり、そのため、王嘉はあなどった。朕は将軍を罪するには忍びない。票騎将軍の印綬を返すように」[23]

そこで、哀帝は、董賢を大司馬衛将軍に任じた。哀帝は、董賢に勅書をくだした。「朕は点から帝王の位をうけ、いにしえを考えて、汝を三公に建て、漢室の補佐とした。汝の心をつくして、軍を率いて統率せよ。敵と折衝し、遠くを安んじて、様々なことを匡正して、全てをすべるように[24]。天下の衆は、朕からの制約をうけ、将軍をもって命令と思い、兵をもって威力を知る。これをつつしまないでおれようか」[23]

元寿2年(前1年)、正月、匈奴単于である大昆彌が来朝した。二月、大昆彌は帰国した。

この頃、中常侍の王閎の妻の父である中郎将の蕭咸が、董賢の父の董恭から、子の董寬信(董賢の弟)と蕭咸の娘との婚姻を申し込まれていた。蕭咸は恐れて、断りたいと考え、王閎に告げた。「「董公(董賢)が大司馬になった時の詔に、『全てをすべるように』という文言があったが、これは、(聖人の)に禅譲した時の文にある文言であり、三公の故事ではない。長老たちはこれを見て、心に恐れないものはない。ただの家の子に堪えられるはずがない」。王閎は、知略があり、蕭咸の言葉を聞いて、心に悟るところがあった[23]

哀帝は、麒麟殿で酒宴を行った時、董恭・董賢父子ら親族も宴会に参加しており、侍中や中常侍である王去疾・王閎兄弟も参加していた。哀帝は、酔って、董賢を見て笑って語った。「私は、堯が舜に禅譲したことに見習おうと思うが、どうじゃ?」。王閎は進言した。「天下は高皇帝(劉邦)のものであり、陛下(哀帝)が有しているわけではありません。陛下は宗廟を受け継がれ、ご子孫にいつまでも継がれるべきです。統治の業はとても重いのです。天子が、亡国の戯言を申してはなりません」。哀帝は黙り、不機嫌となり、左右はみな恐れた。そこで、王閎は宴会から、追い出され、二度と宴会に呼ばれることはなかった[23]

4月、日食がまた起こった。

5月、三公の官の分職を正した。大司馬衛将軍の董賢を大司馬に任じ、丞相の孔光大司徒に任じ,御史大夫の彭宣を大司空に任じ長平侯に封じた。司直、司隸の職を正し、司寇の職を設置しようとしたが、まだ、決定しなかった。

これは、丞相を廃止し三公制へ移行し、後の新・後漢で実施された三公制の祖形を生み出す形となった。

6月27日、未央宮において25歳で死去した。障害のあった両足は晩年にはさらに悪くなっていた。嗣子はなかった。

哀帝は、死に臨んで皇帝璽綬を董賢に託したが、王閎が太皇太后の王政君に董賢から皇帝璽綬を奪うことを願い、その許しを得て、帯剣して董賢から璽綬を奪い、太皇太后に渡した[25]

董賢は大司馬を罷免され、董賢とその妻はその日のうちに自殺した [23]

王政君は王莽を大司馬に任命し、政治の実権は王氏が再び掌握することとなり、従弟の劉箕子が次皇帝として即位する(平帝[26]

9月に義陵に葬られた。

哀帝の時代は、宮室や府庫のたくわえは多く、民衆の富は、文帝景帝の時に及ばなかったものの、天下の戸口は隆盛を極めていたと伝えられる[12]

評価[編集]

東晋次は、「哀帝の政治は、その折々の臣下の奏上どおりに裁可して主体性のなさも目につくけれども、班固が哀帝紀の「賛」で、「成帝の御代には、政権が皇室をはなれて外戚の手に移るさまを目の当たりにした哀帝は、それゆえに朝政にのぞんではしばしば大臣を誅し、武帝や宣帝を手本として皇帝の権威をつよめようとした」と述べているような政治の実現を目指していたと考えられる。かかる哀帝の統治方針は、元后(王政君)をはじめ王氏一族にとって甚だ都合の悪い、というよりも一族の滅亡をも将来しかねない可能性を孕むものであった」と評している[27]

渡邉義浩は、「一種の終末思想が、漢家の再受命を求める主張の背景となっていた。立て続く災害と異変が何らかの変化を求めていたのである。こうしたなか、哀帝は、外戚の王氏を排除して、皇帝権力の強化に努めたが、寵愛して政治を委ねた董賢の無能により、政局は混乱を極めた」と評している[28]

故事[編集]

男色を意味する「断袖中国語版」という語は、董賢と一緒に寝ていた哀帝が、哀帝の衣の袖の上に寝ていた董賢を起こさないようにするため衣を切って起きた、という故事に基づく。

家族[編集]

漢王朝系図】(編集
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
太上皇
劉太公
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
代王
劉喜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(前1)高祖
劉邦
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
呉王
劉濞
 
斉王
劉肥
 
(前2)恵帝
劉盈
 
趙王
劉如意
 
(前3)文帝
劉恒
 
趙王
劉友
 
淮南王
劉長
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
斉王
劉襄
 
城陽王
劉章
 
*前少帝
劉某
 
*後少帝
劉弘
 
(前4)景帝
劉啓
 
 
 
 
 
淮南王
劉安
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
中山王
劉勝
 
長沙王
劉発
 
 
 
(前5)武帝
劉徹
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
陸城侯
劉貞
 
 
 
 
 
 
 
 
(追)戻太子
劉拠
 
(前6)昭帝
劉弗陵
 
昌邑王
劉髆
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(追)悼皇
劉進
 
 
 
 
 
*昌邑王
劉賀
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(前7)宣帝
劉詢
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(前8)元帝
劉奭
 
 
 
 
 
 
 
 
 
楚王
劉囂
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(前9)成帝
劉驁
 
(追)恭皇
劉康
 
中山王
劉興
 
広戚侯
劉勲
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(赤眉)皇帝
劉盆子
 
 
 
 
(緑林)更始帝
劉玄
 
(後1)光武帝
劉秀
 
 
 
(前10)哀帝
劉欣
 
(前11)平帝
劉衎
 
広戚侯
劉顕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(後2)明帝
劉荘
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
*劉嬰
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(後3)章帝
劉炟
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
千乗王
劉伉
 
清河王
劉慶
 
(後4)和帝
劉肇
 
済北王
劉寿
 
(追)穆皇
劉開
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
楽安王
劉寵
 
(後6)安帝
劉祜
 
(後5)殤帝
劉隆
 
*北郷侯
劉懿
 
(追)崇皇
劉翼
 
(追)元皇
劉淑
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
勃海王
劉鴻
 
(後7)順帝
劉保
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(後10)桓帝
劉志
 
(追)仁皇
劉萇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(後9)質帝
劉纘
 
(後8)沖帝
劉炳
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(後11)霊帝
劉宏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(蜀1)昭烈帝
劉備
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
*弘農王
劉辯
 
(後12)献帝
劉協
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(蜀2)後主
劉禅

后妃[編集]

子女[編集]

  • 女子(傅皇后の娘。『漢書』王莽伝上に見える)

登場作品[編集]

テレビドラマ

:漫画

  • しちみ楼『キンとケン 1』、イースト・プレス、2021.3
  • しちみ楼『キンとケン 2』、イースト・プレス、2021.5

参考文献[編集]

  • 東晋次、『王莽―儒家の理想に憑かれた男』 (白帝社アジア史選書)、白帝社 、2003.10
  • 渡邉義浩、『王莽―改革者の孤独』 (あじあブックス) 、大修館書店、2012.12

脚注[編集]

  1. ^ 以下、特に注釈がない場合、出典は、『漢書』哀帝紀
  2. ^ a b c d 『漢書』外戚伝下
  3. ^ 『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.61-62
  4. ^ a b c d e f 『漢書』王莽伝上
  5. ^ a b 『漢書』何武王嘉師丹伝
  6. ^ a b c d 『漢書』眭両夏侯京翼李伝
  7. ^ 『王莽―改革者の孤独』p.55
  8. ^ 『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.66-67
  9. ^ 『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.67
  10. ^ 『漢書』王商史丹伝
  11. ^ a b c d e 『漢書』元后伝
  12. ^ a b c 『漢書』食貨志上
  13. ^ a b 『漢書』佞幸伝
  14. ^ a b c 『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.63
  15. ^ 『王莽―改革者の孤独』p.17
  16. ^ 『漢書』薛宣朱博伝
  17. ^ 『王莽―改革者の孤独』p.54
  18. ^ a b c d 『漢書』哀帝紀及び 『漢書』佞幸伝
  19. ^ 『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.92-94
  20. ^ 『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.219
  21. ^ 『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.90-91
  22. ^ 『漢書』外戚伝
  23. ^ a b c d e 『漢書』佞幸伝
  24. ^ 原文「允執其中」。『論語』において、堯が舜に帝位を譲ろうとした時の堯の言葉である。 この時、すでに、哀帝には董賢に帝位を譲位しようという意思があったことを匂わせる
  25. ^ 後漢書』巻12王劉張李彭盧列伝
  26. ^ 『漢書』平帝紀
  27. ^ 『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.64
  28. ^ 『王莽―改革者の孤独』p.60