平晏

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平 晏(へい あん、? - 20年)は、中国前漢時代末期から代にかけての政治家。父は哀帝の時代に丞相となった平当右扶風平陵県の人。

事跡[編集]

姓名 平晏
時代 前漢時代 -
生没年 生年不詳 - 20年地皇元年)
字・別号 〔不詳〕
出身地 右扶風平陵県
職官 尚書令〔前漢〕→長楽少府〔前漢〕

大司徒〔前漢〕
太傅
(兼領尚書事、左伯)〔新〕
→太傅〔新〕

爵位・号等 防郷侯〔前漢〕→就新公〔新〕
陣営・所属等 哀帝平帝孺子嬰王莽
家族・一族 父:平当

王莽の腹心の一人で、その下で機密(「機事」)を管轄していた。平帝が即位した元寿2年(紀元前1年)の時点では、尚書令の地位にあり、後に長楽少府に遷った。元始5年(5年)閏月、防郷侯に封じられ、千戸を領有する。同年12月、大司徒に昇任した。

始建国元年(9年)、王莽が新を創建するとともに、平晏は就新公に封じられ、太傅に任命された。これにより平晏は、太師王舜・国師劉歆・国将哀章とともに四輔とされている。また、この時から、領尚書事も兼任したと見られる。始建国2年(10年)、甄豊の子の甄尋が王莽に献上した符命に基き、平晏は左伯に任命された。

天鳳元年(14年)、王莽の命で平晏は大司空王邑と共に洛陽に派遣され、王莽のために宗廟・社稷・郊兆の建設予定地を選定している。同年3月、領尚書事の兼任を解かれた。なお、この年の事件と思われるが、平晏は規定より多くの吏員を雇用していたとして、僕射から尋問されたところ、これに反発した太傅府の吏員が僕射を拘禁してしまう。王莽はこれを聞いて怒り、戦車数百台を繰り出して太傅府を包囲し、僕射を拘禁した吏員を捕縛してただちに処刑した。

地皇元年(20年)、平晏は太傅の地位にあったまま死去した。

参考文献[編集]

  • 漢書』巻18 表6 外戚恩澤侯表
  • 同 巻19下 表7下 百官公卿表下
  • 同 巻71 列伝41 平当伝
  • 同 巻97下 列伝67下 外戚伝下
  • 同 巻99上 列伝69上 王莽伝上
  • 同 巻99中 列伝99中 王莽伝中