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(こよみ、れき)とは、時間の流れをといった単位に当てはめて数えるように体系付けたもの。また、その構成の方法論(暦法)や、それを記載した暦書暦表(日本のいわゆる「カレンダー」)を指す。さらに、そこで配当された各日ごとに、月齢天体の出没(日の出・日の入り・月の出・月の入り)の時刻、潮汐(干満)の時刻などの予測値を記したり、曜日、行事、吉凶(暦注)を記したものをも含める。

細分すると、

  • 日を記録するものを暦(こよみ、calendar)
  • 暦による日付の並びを表形式等で表示した暦表・カレンダー (calendar)
  • 暦の方法論である暦法新暦旧暦)(calendar)
  • 天象の予報・天体の軌道を記述するものを天体暦(れき、ephemeris)
  • 一年間の日ごとに天象に加えて行事や占い曜日などを総合して記述したものを生活暦 (almanac)
  • 航海用に一年間の天象・天体の視位置を記述した航海暦(nautical almanac
  • 紀年法、すなわち西暦和暦など (calendar era)

本稿においては、このうちの暦(こよみ、calendar)の説明を行う。

語釈[編集]

「こよみ」の語源は、江戸時代の谷川士清の『和訓栞』では「日読み」(かよみ)であるとされ、定説となっており、一日・二日...と正しく数えることを意味する。ほかに、本居宣長の「一日一日とつぎつぎと来歴(きふ)るを数へゆく由(よし)の名」、新井白石は「古語にコといひしには、詳細の義あり、ヨミとは数をかぞふる事をいひけり」などの定義がある。

中国の暦も、月日の決定だけでなく日月食の予報や惑星運行の推算(天体暦)などを扱うものであった。過去に関する記録は「歴」、現在から未来に関する記録は「暦」であるが、これをともに扱う役職を史官といい、今でいう歴史学者と天文学者を兼ねていた。また暦は未来を扱うものであるから、予言的な性格をもち、占星術と大きく関わる。占いに関わるものは暦注と呼ばれた。

暦法[編集]

古代エジプトにおいて、ナイル川の氾濫の時期に周期性があることに気づいたのが暦の始まりといわれている(シリウス暦)。人類が農耕を行うようになると、適切な農作業の時期を知るのに暦は重要なものとなっていった。まず昼夜の周期(地球の自転)が日となり、の満ち欠けの周期が月に、季節の周期(地球の公転)が年となった。このように暦法は天体運動の周期性に基づいていることから、その観測と周期性の研究が重要であり、これが天文学の基礎となった。一方で、石器時代の35000年前に暦を創ったらしいとの意見もある。紀元前3000年頃のシュメール文明では、季節が冬と夏の2つで、1か月29日か30日の12か月の比較的簡単な暦を作り上げたといわれている。

何を基準として1年を定めるか、閏(閏日閏月)をどのようにして決めるかなどにより、さまざまな暦法が作られた。大きく分けて以下の3種類がある。

それぞれ、基準は「太陽」、「太陽と月の併用」、「月」である。

日本における暦[編集]

現在、世界各国で広く用いられているのは、太陽暦の一つであるグレゴリオ暦である。日本でグレゴリオ暦以前に使われた暦法は太陰太陽暦であった。元嘉暦から宣明暦までは中国暦を輸入して使った。これを漢暦五伝という。貞享暦から天保暦までは、日本人の手によって作られた暦法である。

中国の暦が日本に伝えられたのがいつであるか定かではないが、『日本書紀』には欽明天皇14年(553年)に百済に対し暦博士の来朝を要請し、翌年2月に来たとの記事があり、遅くとも6世紀には伝来していたと考えられる。この頃の百済で施行されていた暦法は元嘉暦であるので、このときに伝来した暦も元嘉暦ではないかと推測される。

また、推古天皇10年(602年)に百済から学僧観勒が暦本や天文地理書などを携えて来日し、幾人かの子弟らがこの観勒について勉強したとある。 官暦として正式に採用されたのがいつからであるかについては諸説ある。

平安時代に編集された『政事要略』という本には推古天皇12年(604年)から初めて暦の頒布を行ったと書かれているが、『日本書紀』では持統天皇4年(690年)の条にある「勅を奉りて始めて元嘉暦と儀鳳暦とを行う」という記事が初めてであり、正式採用は持統天皇6年(692年)からという説がある。

文武天皇元年(697年)8月からは元嘉暦が廃され、儀鳳暦が専用された。儀鳳暦はで施行された麟徳暦のことである。元嘉暦と儀鳳暦の大きな違いは朔日の決定方法と閏月の置き方である。朔日については、前者は平朔を、後者は定朔を使用していた。また、置閏法については、元嘉暦が19年7閏月という章法を採用していたのに対し、儀鳳暦では章法に拘らない破章法を用いていた。

儀鳳暦以降、大衍暦五紀暦宣明暦と唐で施行された暦法が相次いで輸入され施行された。実際の毎年の暦の作成・頒布は暦博士などの暦道の人々が行った。宣明暦は貞観4年(862年)から用いられたが、その後は中国との正式な国交が絶えたため、江戸時代まで823年間も施行された。

貞享暦1729享保14)年版。国立科学博物館の展示。

江戸時代になると日本でも独自に天文暦学が発展し、大統暦や西洋天文学の研究、天体観測が盛んに行われた。このような中で、渋川春海が最初の自国の暦法である貞享暦を作るのに成功した。

貞享暦以後、宝暦暦寛政暦天保暦と日本独自に相次いで改暦が行われた。弘化元年(1844年)から施行された天保暦が日本で最後の太陰太陽暦であるが、これまでに実施された太陰太陽暦の中で最も精密なものといわれ、当時中国で用いられていた時憲暦を上回ったと評されているが、当時の世界の流れに逆行して不定時法を導入するなどの問題点もあった。

現在でも民間では太陰太陽暦は年中行事や占いのために用いることがあり、これを旧暦と呼んでいるが、これは閏月の置き方を天保暦に借りはしているものの数値や計算法は現代の理論に従っているので、厳密には天保暦と同義ではない。現在の中国でも太陰太陽暦が農暦という名で使われており、基本的に日本の旧暦と同じであるが、1時間の時差のために日がずれることが少なからずある。

日本における暦法一覧[編集]

その他の国・宗教の暦法[編集]

提案されている暦法[編集]

架空の暦法[編集]

それぞれの暦法の長所・短所[編集]

元々、「何月」というのは、天体の運行を意識したものである。太陰暦は月の運行を強く意識した暦で、「何日」と月のみかけの形が一致する。したがって月が出てさえいれば、その日が何日であるか暦がなくてもわかる。深夜に月の明かりを頼りとして活動をする場合には、月のみかけの形がわかると都合がよい。また、潮の満ち引きは月の位置と密接な関係があるため、漁業や釣りなどの海での活動を行う場合に役に立つ。

それに対して、太陽暦は月の形とは関係なく暦が作られている。したがって暦だけではその日の月の形はわからない。また、各月の日数が一定ではない。しかし、太陽の運行と暦の月日が一致しているので、同じような月日に同じ季節の現象が起きる(草花の開花、鳥の渡りなど)。逆に、同じ月日なのに季節の現象が遅れたり早まったりすることを観察することによって、その年が寒い傾向の年なのか暑い傾向の年なのかを知ることができる。このことは農業や漁業、園芸にとって極めて大切なことである。

年の記述[編集]

いわゆる紀年法についても、「西暦」「中華民国暦」「主体暦」のように接尾語として「」が用いられることがあるが、暦法と混同してはならない。

生活暦[編集]

実用品としての暦[編集]

この場合、暦とはいわずカレンダーということが多い (詳しくはカレンダーの項を参照)。主に予定管理などに使われる。形式は日めくり、月めくりなど様々なものがあり、月めくりのカレンダーの場合だけでも月曜始まりと日曜始まりの2種類がある(稀に土曜始まりもある)。また、日本では宣伝などのために粗品として配布されることもある。そのほかにも、1日1日が分離されていてパズルのように組み立ててカレンダーにする、というものもある。

関連項目[編集]

「今日のこよみ」
以下は最近の出来事に表示され毎日自動更新される「今日のこよみ」である。

旧暦:11月137日 - 六曜:先負 - 日の干支:己未 - 九星:八白土星 - 二十八宿:亢宿 - 十二直:平 - 八専土用節気清明穀雨まで2日


外部リンク[編集]