本居宣長
![]() 本居宣長四十四歳自画自賛像 (部分) 安永2年(1773年) | |
人物情報 | |
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生誕 |
享保15年5月7日(1730年6月21日)![]() |
死没 |
享和元年9月29日(1801年11月5日(71歳没))![]() |
居住 |
![]() |
配偶者 | 勝(かつ) |
学問 | |
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
研究分野 |
国学 文献学 |
特筆すべき概念 |
「もののあはれ」 「漢意」 「道」 |
主要な作品 |
『古事記伝』 『源氏物語玉の小櫛』 『玉勝間』 |
影響を 受けた人物 |
堀景山 荻生徂徠 契沖 賀茂真淵 |
影響を 与えた人物 |
平田篤胤 伴信友 長瀬真幸 千家俊信 塙保己一他多数 |
主な受賞歴 | 贈正四位[1]贈従三位[2] |
本居 宣長(もとおり のりなが、享保15年5月7日(1730年6月21日) - 享和元年9月29日(1801年11月5日))は、江戸時代の国学者(文献学・言語学)、医師。名は栄貞。本姓は平氏。通称は、はじめ弥四郎、のち健蔵。号は芝蘭、瞬庵、春庵。自宅の
概要[編集]
契沖の文献考証と師・賀茂真淵の古道説を継承し[注 1]、国学の発展に多大な貢献をしたことで知られる[5]。本居宣長は、真淵の励ましを受けて『古事記』の研究に取り組み、約35年を費やして当時の『古事記』研究の集大成である注釈書『古事記伝』を著した[5]。『古事記伝』の成果は、当時の人々に衝撃的に受け入れられ、一般には正史である『日本書紀』を講読する際の副読本としての位置づけであった『古事記』が、独自の価値を持った史書としての評価を獲得していく契機となった。
代表作には、前述の『古事記伝』のほか、『源氏物語玉の小櫛』『玉勝間』『馭戒慨言』[6]などがある。
門下生も数多く『授業門人姓名録』には、宣長自筆本に45名、他筆本には489名が記載されている。主な門人として田中道麿、服部中庸・石塚龍麿・夏目甕麿・長瀬真幸・藤井高尚・高林方朗・鈴木朖・小国重年・竹村尚規・横井千秋・代官の村田七右衛門(橋彦)春門父子・神主の坂倉茂樹・一見直樹・倉田実樹・白子昌平・植松有信・肥後の国、山鹿の天目一神社神官・帆足長秋・帆足京(みさと)父子・飛騨高山の田中大秀・本居春庭(宣長の実子)・本居大平(宣長の養子)などがいる。中には平田篤胤のように遺風を慕って没後に入門した者や、義門や伴信友のように門人とはなっておらずとも多大な影響を受けた者もいる[7]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
享保15年(1730年)6月伊勢国松坂(現・三重県松阪市)の木綿仲買商である小津家の次男として生まれる[注 2]。幼名は富之助。元文2年(1737年)、8歳で寺子屋に学ぶ。元文5年(1740年)、11歳で父を亡くす[注 3]。延享2年(1745年)、16歳で江戸大伝馬町にある叔父の店に寄宿し、翌年に郷里へと帰る。商売見習いのためであったと考えられる。当時の江戸までの道中の地図資料のいい加減なところから、「城下船津名所遺跡其方角を改め在所を分明にし道中の行程駅をみさいに是を記す」として「山川海島悉く図する」資料集の『大日本天下四海画図』を起筆し、宝暦元年(1752年)12月上旬に書写作業完了。また、この時期の見聞を元に、自分用の資料として『都考抜書(とこうばっしょ)』を延享3年より起筆、宝暦元年(1751年)頃まで書き継いだ。
寛延元年(1748年)、19歳のとき、伊勢山田の紙商兼御師の今井田家の養子となるが、3年後、寛延3年(1750年)離縁して松坂に帰る。このころから和歌を詠み始める。
京都遊学、国学との出会い[編集]
宝暦2年、22歳のとき、義兄が亡くなり[注 4]、小津家を継いだが、商売に関心はなく、江戸の店を整理してしまう。母と相談の上、医師を志し、京都へ遊学する。医学を堀元厚・武川幸順に、儒学を堀景山に師事し、寄宿して漢学や国学などを学ぶ。景山は広島藩儒医で朱子学を奉じたが、反朱子学の荻生徂徠の学にも関心を示し、また契沖の支援者でもあった。同年、姓を先祖の姓である「本居」に戻す。
この頃から宣長は、日本固有の古典学を熱心に研究するようになり、景山の影響もあって荻生徂徠や契沖に影響を受け、国学の道に入ることを志す。また、京都での生活に感化され、王朝文化への憧れを強めていく。
帰郷、松阪の一夜[編集]
宝暦7年(1758年)京都から松坂に帰った宣長は医師を開業。そのかたわら自宅で『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究に励んだ。27歳の時、『先代旧事本紀』と『古事記』を書店で購入し、賀茂真淵の『冠辞考』[注 5]に触発されて国学の研究に本腰を入れることになる。
宝暦13年(1763年)2月3日、春庭が生まれる。5月25日、伊勢神宮参宮のために松阪を来訪した真淵に初見し(「松阪の一夜」)、古事記の注釈について指導を願い、入門を希望した。その年の終わり頃に入門を許可され、翌年の正月に宣長が入門誓詞を出している。真淵は、万葉仮名に慣れるため、『万葉集』の注釈から始めるよう指導した。以後、宣長は『古事記』の本格的な研究に進む。この真淵との出会いは、宣長の随筆『玉勝間(たまがつま)』[11]に収められている「おのが物まなびの有りしより」と「あがたゐのうしの御さとし言」という文章に記されている[注 6]。その後、宣長は真淵と文通による指導を受け始めた。
宣長は、一時は紀伊藩に仕えた[注 7]が、生涯の大半を市井の学者として過ごした。門人も数多く、特に天明年間(1781年 - 1789年)の末頃から増加する。天明8年(1788年)末までの門人の合計は164人であるが、その後増加し、宣長が死去したときには487人に達していた[注 8]。
晩年[編集]
60歳の時、名古屋・京都・和歌山・大阪・美濃などの各地に旅行に出かけ、旅先で多くの人と交流し、各地にいる門人を激励するなどした。寛政5年(1793年)、64歳の時から散文集『玉勝間』を書き始め、その中で自らの学問・思想・信念について述べているほか、方言や地理的事項について言及し、地名の考証を行い、地誌を記述している。寛政10年(1797年)、69歳にして『古事記伝』を完成させた。起稿して34年後のことである。
死に臨んでは遺言として、相続その他の一般的な内容の他、命日の定め方[注 9]、供養、墓の設計までにも及ぶ詳細で大部の「遺言書」をのこした。これについては、やまとごころにおける死生観として以前に述べていることといささか隔たりがあるとして、「謎」であるとする評論もある[要出典]。
享和元年(1801年)没。71歳。山室町高峰の妙楽寺に葬られた。
没後[編集]
明治38年(1905年)に従三位が追贈される。これにより旧宅保存の気運が高まり、明治42年(1909年)に鈴屋遺蹟保存会の手によって松坂城二の丸跡地に移築され、宣長当時の姿に復元された[13]。昭和28年(1953年)、本居宣長旧宅と移築前の魚町の跡地が国の特別史跡に指定された。
旧山室村の本居家の墓から本居宣長の霊魂を殿町の森に運び神仏の聖地が移転した。大正4年(1915年)に学問の神様として本居神社が遷座した。平成7年(1995年)に社号を本居宣長ノ宮と改称した。その墓は昭和34年(1959年)に松阪市内を見渡す妙楽寺の小高い山へ移された。生前の宣長が好んだ場所とされる[14]。さらに平成11年(1999年)には遺言の設計に沿った「本居宣長奥津墓(城)」が建造された。
昭和45年(1970年)に宣長の業績の顕彰を目的として、宣長の旧蔵書や自筆本などを保存・公開する施設「本居宣長記念館」が開館した[15]。開館した日は宣長の命日にあたる[15]。
-
本居宣長奥津墓(国指定史跡)
-
本居宣長の墓(樹敬寺・国指定史跡)
ゆかりの地[編集]

- 鈴屋大人偶講学旧地(京都市下京区四条烏丸下ル、三菱東京UFJ銀行南脇)
業績[編集]

賛文「これは宣長六十一寛政の二とせといふ年の秋八月に手づからうつしたるおのかかたなり、筆のついてに、しき嶋のやまとこころをひととはは朝日ににほふ山さくら花」[注 10]
歌論・物語論[編集]
宣長は『源氏物語』の中にみられる「もののあはれ」という日本固有の情緒こそ文学の本質であると提唱し、大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、外来的な儒教の教え(「漢意」)を「自然に背く考えである」と非難し[注 11]、中華文明を参考にして取り入れる荻生徂徠を批判したとされる[注 12]。
古道論・史論[編集]
宣長は儒教仏教流の「漢意」を用いて神典を解釈する従来の仏家神道や儒家神道を強く批判し、「神道は古事記などの神典を実証的・文献的に研究して明らかにするべきだ」と主張した。そして、「日本は古来より儒仏のような教えという教えがなくても、天照大御神の御孫とともに下から上まで乱れることなく治ってきた」として、「日本には言挙げをしない真の道があった」と強調した。逆に儒教や仏教は「国が乱れて治り難いのを強ちに統治するために支配者によって作為された道である」と批判し[21]、天命論についても「易姓革命によって前の君主を倒して国を奪い、新しく君主になった者が自己を正当化するための作為である」と批判した[21]。さらに、朱子学の理気二元論についても、「儒学者達が推測で作り上げた空論である」と批判し、「世界の事象は全て日本神話の神々によって司られているものだ」と主張した上で、「世界の仕組みを理屈で解釈することはさかしらの「からごころ」であり神々に対する不敬である」とした[21]。
宣長は上述の通り現実を全て神の御仕業と捉えたため、「時々の社会体制も全て神が司っているので、人は時々の社会体制に従うべきだ」とも主張している。「漢意を重んじる誤りのある現実社会もまた、神により司られているため重んじるべきだ」とし[注 13]、今の制度を上古のようにするために変革しようとすることは「今の神の御仕業に背くこと」として批判し、自らが理想視した「古道」を規範化して現実の政治を動かそうとすることは徹底的に否定した[22]。そして、「道は上が行い下に敷き施すものであるため、上古の行いにかなうからといって世間と異なることをしたり、時々の掟に反することをすることは間違いであり、下たるものは上の掟に従って生活することこそが古道である」と主張した[23]。
また、宣長は、紀州徳川家に贈られた「玉くしげ別本」の中で「定りは宜しくても、其法を守るとして、却て軽々しく人をころす事あり、よくよく慎むべし。たとひ少々法にはづるる事ありとも、ともかく情実をよく勘へて軽むる方は難なかるべし」と、その背景事情を勘案して厳しく死刑を適用しないように勧めている。
言語論[編集]
日本語学の歴史上において、宣長には以下の功績が取り上げられる[24]。
こうした成果は、いずれも集積された用例という客観的証拠に基づいた帰納的方法論によるものである[注 15]。これらの研究成果のうち、上代語の研究と漢字音の研究は、後に石塚龍麿が発展させて『古言清濁考』や『仮字用格奥山路』などを著した[28]。とりわけ文法研究は、鈴木朖が発展させて『活語断続譜』や『言語四種論』などを著しているほか[29]、実子の本居春庭が動詞の活用現象について『詞八衢』や『詞通路』などを著している[30]。没後には東条義門が発展させて『山口栞』や『活語指南』などを著しているほか、富樫広蔭が組織化と体系化をはかって『詞玉橋』や『辞玉襷』などを著している[31]。
人物[編集]

読書人・数寄人[編集]
平安朝の王朝文化に深い憧れを持ち、中でも『源氏物語』を好んだ。
鈴の蒐集家でもあり、駅鈴の複製品など珍しいものを多く所有していた。この駅鈴は、寛政7年(1795年)8月13日に浜田藩主・松平康定が宣長の源氏物語講釈を聴講するのに先立って、自筆色紙と共に贈ったものである [32]。また、自宅に「鈴屋」という屋号もつけている。19歳の頃には架空都市「端原氏城下絵図」を描いた[33]。
読書家であると同時に、書物の貸し借りや読み方にこだわりがあり、「借りた本を傷めるな」「借りたらすぐ読んで早く返せ、けれど良い本は多くの人に読んで貰いたい」などの考えを記している。
「法話聞書 赤穂義士伝」では、「大石良雄はいろいろのたわけを尽くし、天下の人に後ろ指をさされ笑われた」「大石良金はめかけの子」と義士を列記して毀損が綴られている。これは佐佐木信綱により「赤穂記」の名で紹介され、宣長の手になる原本が残っている[34]。しかし、赤穂義士が精神的支柱とした朱子学を「支配者が己に都合よく作った忠義」として、さかしらの「からごころ」と批判する余り、ただの主観的な悪口になってしまっている[注 16]。
史料としての日記[編集]


医師になるための京都遊学の際の日記である『在京日記』や、吉野や飛鳥を歴訪した際の日記である『菅笠日記』など、宣長は膨大な量の日記を残した。それらについて、江戸時代の庶民の生活や町の様子、催されていた行事など、当時をうかがい知れる歴史史料として史料価値が高い[38]。また京都の方広寺大仏(京の大仏)など今日現存しない建造物についての言及や[37]、明和7年(1770年)7月28日夜に日本各地で観測されたオーロラへの言及などもあり[39]、歴史学以外の他の分野からも注目される記述がある。
医療活動[編集]
家業を手伝うも、読書に熱中し商売に適していないと、母に相談して医業を学んだ。地元・松坂では医師として40年以上にわたって活動した。初め加賀藩から仕官の交渉があったが、遠国であり、老身であるため、仕官を好まず、『記伝』の執筆中もあって断った。この噂を聞いた紀州藩が対抗的に招き、寛政4年(1792年)、紀州藩に仕官し、御針医格十人扶持となった[40]。
宣長は昼間は医師としての仕事に専念し、自身の研究や門人への教授は主に夜に行った。宣長は『済世録』と呼ばれる日誌を付けて、毎日の患者や処方した薬の数、薬礼の金額などを記しており、当時の医師の経営の実態を知ることが出来る。亡くなる10日前まで患者の治療にあたったことが記録されている。内科全般を手がけていたが、小児科医としても著名であった。当時の医師は薬(家伝薬)の調剤・販売を手掛けている例も少なくなかったが、宣長も小児用の薬製造を手掛けて成功し、家計の足しとした[41]。また、「乳児の病気の原因は母親にある」として、付き添いの母親を必要以上に診察した逸話がある。
しかしながら、あくまでその意識は「医師は、男子本懐の仕事ではない」と子孫に残した言葉に表れている[42]。
上田秋成との論争[編集]
日本書紀を「漢意のふみ」とし、大陸の強い影響などを糾弾していた[43]。
宣長は天明6年(1786年)から翌年頃まで上田秋成と二度にわたって論争した。その結果を、宣長は「呵刈葭(かがいか、あしかりよし)」前後編の著作で、秋成は「安々言(やすみごと)」という形で著した。 前編「上田秋成論難同弁」は、主として音便などの言語上の問題についての論争であり、後編「鉗狂人上田秋成評同弁」は「日の神論争」ともいわれ日本神話の解釈をめぐる論争である[44]。
信仰と恋愛[編集]
大和国吉野の水分神(吉野水分神社)が子守明神として、子を与え、守る神と世間で信じられていたため、宣長の父は男子が得られるよう祈り、宣長が生まれたため、宣長自身は「水分神の申し子」として生まれたと堅く信じていた[45]。
儒仏に対する排除を主張していた宣長だが、10代頃は浄土教思想の強い影響下にあり[46]、『直毘霊』成立前後から排除思想が強くなった[47]。
宣長の生涯にわたる恋愛生活は、大野晋などが明らかにしている。
作品[編集]




刊行著作[編集]
- 『本居宣長全集』筑摩書房(全20巻別巻3)、大野晋、大久保正編、1968-1977年
- 『本居宣長 日本思想大系40』 吉川幸次郎、佐竹昭広、日野龍夫校注、岩波書店、1978年
- 『本居宣長集 新潮日本古典集成』 日野龍夫校注、新潮社、1983年、新装版2018年
- 「紫文要領」「石上私淑言」を収録
- 今西祐一郎校注 『古今集遠鏡』平凡社東洋文庫 全2巻、2008年
- 白石良夫訳注 『本居宣長 「うひ山ぶみ」全訳注』講談社学術文庫、2009年
- 村岡典嗣校訂 『うひ山ふみ 鈴屋問答録』、『玉くしげ・秘本玉くしげ』
- 『玉勝間』(上・下)、『直毘靈』、各・岩波文庫(初刊) 1934-36年
- 『排蘆小船 宣長「物のあはれ」歌論』 子安宣邦校注、岩波文庫 2003年
- 『紫文要領』 子安宣邦校注、岩波文庫 2010年
- 『宣長選集』野口武彦編・校注、筑摩叢書 1986年。「玉くしげ」など
- 『現代語訳 本居宣長選集』山口志義夫訳、多摩通信社、新書判
- 1.『玉くしげ - 美しい国のための提言』(玉くしげ、玉くしげ別巻、直毘霊)2007年
- 2.『馭戎慨言 - 日本外交史』2009年
- 3.『うい山ぶみ - 皇朝学入門』(うい山ぶみ、答問録、講後談)2010年
- 4.『源氏物語玉の小櫛 - 物のあわれ論』(源氏物語玉の小櫛、第一巻、第二巻)2013年
- 『本居宣長 コレクション日本歌人選058』山下久夫編、和歌文学会監修、笠間書院 2012年
著作[編集]
- 国学
- 『古事記伝』 村岡典嗣校訂、岩波文庫全4巻(全44巻のうち第1から第17巻まで)
- 『源氏物語年紀考』
- 『紫文要領』
- 『源氏物語玉の小櫛』
- 『直毘霊(なおびのみたま)』[48] 村岡典嗣校訂、岩波文庫
- 『玉鉾百首』 同上
- 『玉くしげ』 村岡校訂
- 『鈴野屋問答』 村岡校訂
- 『うひ山ぶみ』 同上、学問論でもある。
- 『古今集遠鏡』
- 評論
- 『排蘆小船(あしわけおぶね)』[49]
- 語学
- 随筆・歌論
- 経済
- 歴史
- 『馭戒慨言(ぎょじゅうがいげん)』
- 家集(和歌集)
- 『大日本天下四海画図』考證の為の自筆稿本(資料集)
- 「日本の絵図世に多いといっても、諸国の城下其外名所旧跡悉く在所が相違している。又行程の宿場や馬借の駅が微細でない。そのため自分は今この絵図を描くにあたり、城下町や船着場、名所遺跡の方角を正確に記し、在所を分明にして道中の行程や駅を微細に記し山川海島を悉くを描く。ならびに六十六洲の諸郡を顕して、又知行や高田数を書いて、大坂を起点とした諸方への道法を東西に分てこれを記す、異国の道のりも略顕した。延享三年五月吉日」[注 17]
- 『都考抜書』考證の為の自筆稿本(資料集)
- 『鈴屋集』
本居家[編集]
宣長以後、本居家は家督を継いだ養子大平の系譜に連なる和歌山[要曖昧さ回避]の本居家と、実子春庭の系譜に連なる松坂の本居家に分かれる。
和歌山本居家歴代当主[編集]
- 1本居宣長
- 2本居大平(1756-1833):本居宣長養子。
- (本居建正)(1788-1819):本居大平長男。32歳で早逝する。
- (本居清島)(1789-1821):本居大平次男。33歳で早逝する。
- 3本居内遠(1792-1855):本居大平養子。学識は宣長に次ぐといわれる。
- (本居永平)(1819-1842):本居大平四男。後嗣となるが、24歳で早逝する。
- 4本居豊穎(1834-1913):本居内遠長男。近代を代表する国学者。
- (松野勇雄)(1852-1893):明治10年(1878年)に本居豊穎の養子となるが、明治12年(1880年)7月に離縁。
- (増田于信)(1862-没年不詳):明治17年(1884年)に本居豊穎の養子となるが、まもなく離縁。
- 5本居並子(1843-1886):本居豊穎長女。
- 6本居長世(1885-1945):本居並子次男(増田于信長男)。作曲家。童謡の先駆者。
- 7本居雷章(菱山修三)(1909-1967):本居長世養子。詩人。
松坂本居家歴代当主[編集]
- 1本居宣長
- 2本居春庭(1763-1828):本居宣長長男。32歳で失明。
- 3本居有郷(1804-1852):本居春庭長男。
- 4本居信郷(1825-1900):本居有郷養子。本居宣長曾孫。
- 5本居清造(1873-1958):本居信郷次男。本居豊穎から学統を継承する。
- 6本居弥生(1903-1983):本居清造長男。
- 7本居芳野(1942-):東京都在住。
- ※本居宣長記念館の記述に従う。()は一時期、後継者となったが、当主には就かなかった人物。
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 師・真淵との関係では「後によき考への出できたらんには、必ずしも師の説にたがふとて、なはばかりそ」と言い、師の教えを仰ぎながらも良いと適ったことは遠慮なく主張したという。
- ^ 父は小津三四右衛門定利[8]。兄の宗五郎定治は養子[9]。宣長は実子としては長男だった。
- ^ 江戸店にて病死、享年46歳[8]。
- ^ 江戸神田紺屋町宅にて没、享年40歳[9]。
- ^ 『万葉集』に出てくる枕詞について詳細な解釈、精密な考察を施した書[10]。
- ^ この2つの文章から再構成された宣長と真淵との出会いは、「松阪の一夜」として戦前期の『小学国語読本』に掲載された。
- ^ 寛政4年(1792年)に五人扶持
- ^ 伊勢国の門人が200人と多く、尾張国やその他の地方にも存在していた。職業では町人が約34%、農民約23%、その他となっていた。
- ^ 天文学的な、0時(当時の表現で「九つ(ここのつ)」)を日付の境とする考え方は、まだ一般的には普及しておらず、日の出を境とする意識が(当時のインテリである宣長にはともかく、残される他の者には)多かったということだろうが、そういったことまで詳細に述べている[12]。
- ^ 宣長にとってこの歌は自身の心とも言える特別なものだったらしく、自選歌集『鈴屋集』には載せず、人から乞われた時のみ染筆している[18]。
- ^ 儒教を体系化した孔子その人には好意的であり、「聖人と人はいへども聖人のたぐひならめや孔子はよき人」という歌を詠んでいる[19]。
- ^ 一方で、徂徠の学問の方法論である古文辞学からは、堀景山を介して多大な影響を受けていることも指摘されている[20]。
- ^ 実際、宣長は『玉鉾百首」で「東照るかみのみことの安国としづめましける御代はよろづ代」という歌を詠み、徳川幕藩体制を賞賛している。
- ^ 『古事記』『風土記』『和名抄』などから地名の字音の転用例を200近く集め、それを分類整理している[25]。
- ^ 宣長以前は必ずしも当然の方法論ではなかった[26]。また、この方法論は宣長の独創ではなく、契沖などから学ぶところが大きいが、表記研究のみならず文法研究などにも拡大したところが重要である[27]。
- ^ なお前述の、宣長と昵懇だった松平康定は、義士の泉岳寺引き上げを妨害した浜田藩主・松平康宦の養曽孫にあたる[要出典]。
- ^ 大日本天下四海画図より現代語訳
脚注[編集]
- ^ 1883年(明治16年)に贈位。山室山神社 -本居宣長記念館
- ^ 『官報』第6718号「叙任及辞令」1905年11月20日。
- ^ 大久保正 「本居宣長」 (日本古典文学大辞典編集委員会 1986, p. 1815)
- ^ “国学の四大人(こくがくのしたいじん)の意味”. goo国語辞書. 2020年7月22日閲覧。
- ^ a b 日本史用語研究会『必携日本史用語』(四訂版)実教出版(原著2009-2-2)。ISBN 9784407316599。
- ^ 杉戸清彬 「馭戎慨言」 (日本古典文学大辞典編集委員会 1986, p. 506)
- ^ 矢田勉 2016, p. 52.
- ^ a b 鈴木香織「小津定利」(本居宣長記念館 2001, pp. 104–105)
- ^ a b 鈴木香織「小津宗五郎」(本居宣長記念館 2001, pp. 105–106)
- ^ 寺田泰政「冠辞考」(本居宣長記念館 2001, p. 15)
- ^ 杉戸清彬 「玉勝間」 (日本古典文学大辞典編集委員会 1986, pp. 1189–1190)
- ^ 『こよみと天文・今昔』 p. 93
- ^ 本居宣長の不思議(令和版) 2022, p. 4.
- ^ 本居宣長の不思議(令和版) 2022, p. 108.
- ^ a b 田中康二 2012, p. 224.
- ^ a b 石田孝喜『京都史跡事典』新人物往来社、2001年、250頁。
- ^ a b 杉立義一『京の医史跡探訪』思文閣出版、1984年、296、297頁。
- ^ 『心力をつくして ─本居宣長の生涯─』pp.70-72
- ^ 吉田悦之「孔子」(本居宣長記念館 2001, p. 124)
- ^ 高橋俊和「古文辞学」(本居宣長記念館 2001, p. 217)
- ^ a b c 村岡典嗣『直毘霊・玉鉾百首』岩波書店,1936
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- ^ 白石良夫『うひ山ぶみ』講談社学術文庫,2009
- ^ 矢田勉 2016, p. 53.
- ^ 竹田純太郎「地名字音転用例」(本居宣長記念館 2001, p. 54)
- ^ 矢田勉 2016, p. 54.
- ^ 矢田勉 2016, p. 55.
- ^ 安田尚道 2016, p. 66.
- ^ 坪井美樹 2016, pp. 69–70.
- ^ 中村朱美 2016, pp. 62–63.
- ^ 仁田義雄 2021, pp. 134–135.
- ^ 『新版 本居宣長の世界』 p.89。
- ^ 「端原氏城下絵図」(はしはらし じょうか えず)
- ^ 『本居宣長全集』第二十巻(筑摩書房)
- ^ ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』中央公論社、1994年 p.95
- ^ 『本居宣長全集 第16巻』1974年出版 在京日記 宝暦七年の条 p.106
- ^ a b http://www.norinagakinenkan.com/tenji/10haru/10haru07.html
- ^ 出村嘉史 他 『本居宣長「在京日記」にみる行楽地としての東山景域の構成』2007年
- ^ https://www.norinagakinenkan.com/kongetu7.html
- ^ 城福勇 1980, pp. 187–188(新装版第二刷1990年)
- ^ 青柳精一『診療報酬の歴史』思文閣出版、1996年、ISBN 978-4-7842-0896-8 P160-163
- ^ 布施昌一「医師の歴史」中央公論 1979
- ^ “『日本書紀の誕生: 編纂と受容の歴史』(八木書店) - 編集:遠藤 慶太,河内 春人,関根 淳,細井 浩志 - 河内 春人による本文抜粋”. ALL REVIEWS (2020年11月18日). 2021年1月3日閲覧。
- ^ 『本居宣長全集』第八巻(同)
- ^ 城福勇 1980, p. 6(新装版第二刷1990年)
- ^ 城福勇 1980, pp. 25–26(新装版第二刷1990年)
- ^ 城福勇 1980, p. 108(新装版第二刷1990年)
- ^ 大久保正 「直毘霊」 (日本古典文学大辞典編集委員会 1986, p. 1345)
- ^ 岩田隆 「排蘆小船」 (日本古典文学大辞典編集委員会 1986, p. 29)
- ^ 山口明穂 「てにをは紐鏡」 (日本古典文学大辞典編集委員会 1986, p. 1282)
- ^ 鈴木真喜男 「字音仮字用格」 (日本古典文学大辞典編集委員会 1986, p. 844)
- ^ 永野賢 「詞の玉緒」 (日本古典文学大辞典編集委員会 1986, p. 733)
- ^ 大久保正 「秘本玉くしげ」 (日本古典文学大辞典編集委員会 1986, p. 1527)
参考文献[編集]
- 著書
- 城福勇『本居宣長』吉川弘文館〈人物叢書〉、1980年。(新装版1988年、ISBN 4642051104)
- 田中康二『国学史再考:のぞきからくり本居宣長』新典社〈新典社選書〉、2012年。ISBN 9784787967978。
- 仁田義雄『国語問題と日本語文法研究史』ひつじ書房、2021年。ISBN 9784823411144。
- 論文
- 矢田勉「本居宣長」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年、52-55頁。
- 中村朱美「本居春庭」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年、60-63頁。
- 安田尚道「石塚龍麿」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年、64-67頁。
- 坪井美樹「鈴木朖」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年、68-71頁。
- 辞書類
- 日本古典文学大辞典編集委員会 編『日本古典文学大辞典』(簡約版)岩波書店、1986年。ISBN 4000800671。
- 本居宣長記念館 編『本居宣長事典』東京堂出版、2001年。ISBN 4490105711。
- 図録
- 鈴屋遺蹟保存会本居宣長記念館 編『本居宣長の不思議』(令和版)鈴屋遺蹟保存会本居宣長記念館、2022年。
関連文献[編集]
伝記[編集]
- 村岡典嗣 『本居宣長』 岩波書店、初版1928年/平凡社東洋文庫(全2巻、前田勉校訂)、2008年
- 小林秀雄 『本居宣長』 新潮社、初版1977年/新潮文庫(上下)、改版2006年。脚注入り
- 野崎守英『本居宣長の世界』はなわ新書、1972年5月 のちオンデマンド版、ISBN 4827345414
- 田原嗣郎『本居宣長』講談社現代新書、1968年、ISBN 4061155385
- 子安宣邦『本居宣長』岩波新書、1992年、ISBN 4004302277/ 岩波現代文庫2001年、ISBN 4006000588
- 子安宣邦『本居宣長とは誰か』平凡社新書、2005年、ISBN 4582852971
- 田中康二『本居宣長:文学と思想の巨人』 中公新書、2014年、ISBN 9784121022769
- 岩田隆 『本居宣長の生涯:その学の軌跡』 以文社、1999年、ISBN 4753102009
- 本山幸彦 『本居宣長』清水書院〈人と思想〉、1978年、ISBN 4389410474(新装版2014年、ISBN 9784389420475)
- 芳賀登『本居宣長:近世国学の成立』清水書院、1972年/吉川弘文館〈読みなおす日本史〉、2017年、ISBN 9784642067232
- 芳賀登『近世国学の大成者・本居宣長』清水新書、1984年、ISBN 438944025X(新装拡大版、2021年、ISBN 9784389441432)
- 吉田悦之 『〈日本人のこころの言葉〉本居宣長』創元社 2015年、ISBN 9784422800684
- 吉田悦之 『第十回 『宣長さん』吟詠剣詩舞道大会記念 心力をつくして - 本居宣長の生涯』
- 『宣長さん』吟詠剣詩舞道実行委員会、2013年4月(非売品)
- 中根道幸 『宣長さん 伊勢人の仕事』 和泉書院 2002年、ISBN 4757601425
- 小井土繁(漫画)・岡田勝(シナリオ) 『鈴せんせい 歴史漫画・本居宣長のすべて』 松阪青年会議所、1989年
- 公益財団法人 鈴屋遺蹟保存会本居宣長記念館編・刊行 『新版 本居宣長の世界』 2013年11月
研究[編集]
- 吉川幸次郎 『仁斎・徂徠・宣長』 岩波書店、1975年、復刊2001年、ISBN 4000009591
- 『本居宣長』、『文弱の価値』、のち「全集 日本編」に分巻収録。各・筑摩書房
- 相良亨 『本居宣長』 東京大学出版会、1978年、ISBN 4130130048。講談社学術文庫、2011年、ISBN 9784062920568
- 『相良亨著作集4 国学-本居宣長とその周辺 ほか』ぺりかん社、1994年、ISBN 4831506311
- 『日野龍夫著作集 第二巻 宣長・秋成・蕪村』ぺりかん社、2005年、ISBN 9784831511034
- 子安宣邦『宣長と篤胤の世界』中央公論社〈中公叢書〉、1977年、ISBN 4120007200
- 子安宣邦『平田篤胤の世界』ぺりかん社、2001年、ISBN 4831509841(新装版2009年、ISBN 9784831512499)
- 子安宣邦『「宣長問題」とは何か』青土社、1995年、ISBN 4791754107。ちくま学芸文庫2000年、ISBN 4480086145
- 子安宣邦『宣長学講義』岩波書店、2006年、ISBN 4000018183
- 長谷川三千子 『からごころ』 中央公論社〈中公叢書〉、1986年、ISBN 4120014894。中公文庫2014年、ISBN 9784122059641
- 笹月清美『本居宣長の研究』岩波書店、1944年
- 菅野覚明 『本居宣長:言葉と雅び』 ぺりかん社、1991年、改訂版2004年、ISBN 483151084X
- 岡田千昭 『本居宣長の研究』 吉川弘文館、2006年、ISBN 4642034080
- 田中康二『本居宣長の思考法』ぺりかん社、2005年、ISBN 4831511277
- 田中康二『本居宣長の大東亜戦争』ぺりかん社、2009年、ISBN 9784831512420
- 田中康二『本居宣長の国文学』 ぺりかん社、2015年、ISBN 9784831514257
- 田中康二『真淵と宣長:「松坂の一夜」の史実と真実』 中央公論新社〈中公叢書〉、2017年、ISBN 9784120049484
- 吉田悦之『宣長にまねぶ:志を貫徹する生き方』致知出版社、2017年、ISBN 9784800911391
- 熊野純彦 『本居宣長』作品社、2018年、ISBN 9784861827051
- 河合一樹『大和心と正名:本居宣長の学問観と古代観』法政大学出版局、2022年。ISBN 9784588151262
- 榎本恵理『本居宣長から教育を考える:声・文字・和歌』ぺりかん社、2023年。ISBN 9784831516381
- 今野真二『日本とは何か:日本語の始源の姿を追った国学者たち』みすず書房、2023年。ISBN 9784622095972