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古事記

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
真福寺収蔵の『古事記』(国宝
信瑜の弟子の賢瑜による写本

古事記(こじき、ふることふみ、ふることぶみ)[1]は、日本日本神話を含む歴史書。現存する日本最古の書物である[2][3]。その序によれば、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し[4]元明天皇に献上されたことで成立する[5]。上中下の3巻。内容は天地のはじまりから推古天皇の記事である。

8年後の養老4年(720年)に編纂された『日本書紀』とともに神代から上古までを記した史書として、近代になって国家の聖典と見なされ[6]記紀と総称されることもあるが、『古事記』が出雲神話を重視するなど両書の内容には差異もある[7][8]

和歌の母体である古代歌謡(記紀歌謡)などの民間伝承の歌謡や[9]、古代神話・伝説などの素材や記録を取り込んだ『古事記』は、日本文学の発生や源流を見る上でも重要な素材の宝庫となっている[10][2][11]

概要

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『古事記』の原本は現存せず、いくつかの写本が伝わる。成立年代は、写本の序に記された年月日(和銅5年正月28日ユリウス暦712年3月9日))により、8世紀初めと推定される。

内容は、神代における天地の始まりから推古天皇の時代に至るまでの出来事が、神話伝説などを含めて、紀伝体で記載される。また、数多くの歌謡を含む。「高天原」という語が多用される点でも特徴的な文書である[注釈 1]

『古事記』は『日本書紀』とともに後世では「記紀」と総称される。内容には一部に違いがあり、『日本書紀』のような勅撰正史ではないが、『古事記』も序文で天武天皇が、

撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉
訓読文:帝紀を撰録(せんろく)し、旧辞を討覈(とうかく)して、偽りを削り実を定めて、後葉に流(つた)へむと欲(おも)ふ。

と詔したと記載があるため、勅撰とも考えられる。しかし史料の上では、序文に書かれた成立過程や皇室の関与に不明な点や矛盾点が多いとする見解もある。

続日本紀』には『日本書紀』の記事があるのに対し、『古事記』にはそのような記述を欠いている。稗田阿礼の実在性の低さ、序文の不自然さから、偽書説(後述)も唱えられている。

『古事記』は歴史書であると共に文学的な価値も非常に高く評価され、また日本神話を伝える神典の一つとして、神道を中心に日本の宗教文化や精神文化に多大な影響を与えている[12]。『古事記』に現れる神々は、現在では多くの神社祭神として祀られている[注釈 2]。一方文化的な側面は『日本書紀』よりも強く、創作物や伝承等で度々引用されるなど、世間一般への日本神話の浸透に大きな影響を与えている。

編纂の経緯

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645年、中大兄皇子(天智天皇)らによる蘇我入鹿暗殺事件(乙巳の変)に憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害した。この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上したと言われる。『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われ、『国記』は難を逃れて天智天皇に献上されたとされるが、共に現存しない。663年、天智天皇は白村江の戦い新羅の連合に敗北し、予想された渡海攻撃への準備のため史書編纂の余裕はなかった。その時点で既に諸家の『帝紀』及『本辭』(『旧辞』)は虚実ない交ぜの状態であった。672年の壬申の乱後、673年、天智天皇の弟である天武天皇が即位し、『天皇記』や焼けて欠けてしまった『国記』に代わる国史の編纂を命じた。その際、28歳で高い識字能力と記憶力を持つ稗田阿礼に『帝紀』及『本辭』などの文献を「誦習」させた[1]。その後、711年の元明天皇の命を受け、太安万侶が阿礼の「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を編纂し712年に『古事記』を完成させた。

成立

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成立の経緯を記す序によれば『古事記』は、天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた上述の『帝皇日継』と『先代旧辞』を太安万侶が書き記し、編纂したものである。かつて「誦習」は、単に「暗誦」することと考えられていたが、小島憲之(『上代日本文学と中国文学 上』塙書房)や西宮一民(「古事記行文私解」『古事記年報』15)らによって「文字資料の読み方に習熟する行為」であったことが確かめられている。

書名

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書名は『古事記』とされているが、作成当時においては古い書物を示す一般名詞であったことから、正式名ではないといわれる。また、書名は安万侶が付けたのか、後人が付けたのかは定かではない。読みは本居宣長の唱えた「ふることぶみ」との説もあったが、現在は一般に音読みで「コジキ」と呼ばれる[1]

帝紀と旧辞

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『古事記』は『帝紀』的部分と『旧辞』的部分とから成る。

『帝紀』は初代天皇から第33代天皇までの名、天皇の后妃・皇子・皇女の名、及びその子孫の氏族など、このほか皇居の名、治世年数、崩年干支・寿命、陵墓所在地、及びその治世の主な出来事などを記している。これらは朝廷の語部などが暗誦して天皇の大葬のの祭儀などで誦み上げる慣習であったが、6世紀半ばになると文字によって書き表されたものである。

『旧辞』は、宮廷内の物語、皇室や国家の起源に関する話をまとめたもので、同じ頃書かれたものである。

武田祐吉岡田精司関根淳などは、『古事記』の本文が推古朝で完結していることから、『古事記』の元となった『帝紀』が推古朝で終わっていた=推古朝から遠くない時期に記されたと指摘している。ただし、舒明天皇を「岡本宮に坐して天下を治らしめしし天皇」と記していることから、舒明朝段階の加筆はあったとされる[13]

なお、笹川尚紀は、舒明天皇の時代の後半に天皇と蘇我氏の対立が深まり、舒明天皇が蘇我氏が関わった『天皇記』などに代わる自己の正統性を主張するための『帝紀』と『旧辞』を改訂と編纂を行わせ、後に子である天武天皇に引き継がれてそれが『古事記』の元になったと推測している[14]

表記

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本文は変体漢文を主体とし、古語や固有名詞のように、漢文では代用しづらいものは一字一音表記としている。歌謡は全て一字一音表記とされており、本文の一字一音表記部分を含めて上代特殊仮名遣[注釈 3]の研究対象となっている。また一字一音表記のうち、一部の神名などの右傍に と、中国の文書にみられる漢語の声調である四声のうち上声と去声と同じ文字を配している[15]

歌謡

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『古事記』は物語中心に書かれているが、それだけでなく多くの歌謡も挿入されている。これらの歌謡の多くは、民謡や俗謡であったものが、物語に合わせて挿入された可能性が高い。

有名な歌として、須佐之男命櫛名田比売と結婚したときに歌い、和歌の始まりとされる「八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」や、倭建命が東征の帰途で故郷を想って歌った「倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる 倭し うるわし」などがある。

構成

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  1. 上つ巻(序・神話)
  2. 中つ巻(初代から十五代天皇まで)
  3. 下つ巻(第十六代から三十三代天皇まで)

の3巻より成っている。

特徴

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『古事記』の系譜記事で特徴的なのは、収録している氏族系譜が多く統一性が高く、母系の系譜を重視している点が挙げられる。『日本書紀』で記される登場する系譜は110氏族だが、『古事記』は201氏を数える。加えて、一祖多氏型の系譜も多いとされる[16]

また、『日本書紀』で用明天皇の皇后について述べた部分は「穴穂部間人皇女を立てて皇后とす。是に生ませる四の男、其一は厩戸皇子と曰ふ」と記し、その後に厩戸皇子やその親族について記した後に、「蘇我大臣稲目宿禰の女石寸名を立てて嬪とす。是に田目皇子を生ませり」と記されているのに対し、『古事記』では「稲目宿禰大臣の女意富芸多志比売を娶りて生ませる御子、多米王。また庶妹間人穴太部王を娶りて生ませる御子、上宮之厩戸豊聡耳命」となっており、蘇我氏が優先され、上宮王家についての記述が後になっている。そして、『古事記』には聖徳太子に関する記事が一切見えないため、『古事記』は聖徳太子の存在を蘇我氏より後退させたり、聖徳太子の歴史を無視しているとされる[17]。7世紀後半から8世紀初頭にかけての『日本書紀』の編集作業では、聖徳太子を礼賛する思潮が見えるのに対し、同じ時期に成立した『古事記』ではそのような思潮が見られないどころか、その事績を無視している上に、蘇我馬子が主導した崇峻天皇の暗殺に関する記述も『古事記』には存在しない[17]

『古事記』の皇女の記載方法には統一性がなく、「比売命」や「郎女」などが混在しており、「皇女」で統一されている『日本書紀』とは大きく異なっている。しかし、『古事記』の欽明記・敏達記では皇子も皇女も「王」で統一されている。これは、欽明王統と蘇我氏が結びついた政治形態が成立していたからであると考えられる[18]

加えて、『古事記』の通常の用字法では「葛木」と表記されるべきであるが、仁徳記・履中記では「葛城」と好字に改められている箇所があり、これは蘇我馬子が「葛城臣」を称したためであると考えられている[18]

また、『古事記』では孝元天皇-武内宿禰-蘇我石河-蘇我氏という系譜を記しているのに対して、『日本書紀』ではそれを記していない。また、欠史八代の皇居と御陵は蘇我氏の勢力基盤である葛城・高市地域に集中している。これは「欠史八代武内宿禰の系譜が推古朝において蘇我氏の手によって形成されたからである」と考えられるが、推古朝の段階で蘇我氏の全ての系譜が確定していたのではなく、「蘇我石河宿禰」は蘇我倉山田石川麻呂によって創作されたものであると考えられる[19]

写本

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現存する『古事記』の写本は、主に「伊勢本系統」と「卜部本系統」に分かれる[20]

伊勢本系統

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現存する『古事記』の写本で最古のものは、「伊勢本系統」の南朝: 建徳2年/北朝: 応安4年(1371年)から翌、南朝:文中元年/北朝:応安5年(1372年)にかけて真福寺[注釈 4]の僧・賢瑜によって写された真福寺本『古事記』三帖(国宝)である。奥書によれば、祖本は上・下巻が大中臣定世本、中巻が藤原通雅本である。道果本(上巻の前半のみ。南朝:弘和元年/北朝:永徳元年(1381年)写)、道祥本(上巻のみ。応永31年(1424年)写)、春瑜本(上巻のみ。応永33年(1426年)写)の道果本系3本は真福寺本に近く、ともに伊勢本系統をなす。

卜部本系統

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伊勢本系統を除く写本は全て卜部本系統に属する。祖本は卜部兼永自筆本(上中下3巻。室町時代後期写)である。

受容・研究史

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朝廷では平安時代、『日本書紀』について大学寮の学者が公卿に解説する日本紀講筵(日本紀講、講書)が行われ、『古事記』は参考文献として使われた。古語を伝える書として重視されることもあれば、矢田部公望のように編年体でないことで低く評価したうえで『先代旧事本紀』の方がより古い史書であると主張する講師もいた[21]

鎌倉時代には、朝廷でも披見できる人が少ない秘本扱いで、特に中巻は近衛家伝来の書を収めた鴨院御文庫にしかないと言われていた。そうした中、弘長3年(1263年)に右近衛大将藤原通雅が「不慮」に中巻を手に入れた。神祇官卜部兼文卜部兼方の父)は文永5年(1268年)に通雅から、文永10年(1273年)には鷹司兼平から中巻を借りて書写した。弘安4年(1281年)には藤原氏一条家が卜部家から借りた『古事記』を書写して自家伝来本と校合し、翌年さらに伊勢神宮祭主大中臣定世が一条家から借りて書写した。孫の大中臣親忠が伊勢神宮外宮禰宜度会家行伊勢神道の大成者)に貸して写本が2部つくられた。これが、伊勢神宮と密接な関わりがあった真福寺に伝わる『古事記』最古の写本の元になったと推測される。度会家行は自著『類聚神祇本源』に『古事記』を引用した[22]

室町時代後期の神道家の吉田兼倶も、『日本書紀』を最上としつつも『先代旧事本紀』と『古事記』を「三部の本書」と呼んで重視した[23]

寛永版本 古事記、初版
國學院大學古事記学センター蔵

江戸時代初期の寛永21年(1644年)に京都印刷による刊本『古事記』(いわゆる「寛永古事記」)が出版され、研究が盛んになった。出口延佳が『鼇頭(ごうとう)古事記』を貞享4年(1687年)に刊行したほか、『大日本史』につながる修史事業を始めた徳川光圀水戸藩主)にも影響を与えた[24]

国学の三哲」と位置づけられる本居宣長(左)、契沖(中)、賀茂真淵(右)

中期に隆盛する国学でも重視され、荷田春満は『古事記箚記(さっき)』、賀茂真淵は『古事記頭書(とうしょ)』を著した。そして京都遊学中に寛永版古事記を入手した本居宣長は、賀茂真淵との「松坂の一夜」でも『古事記』の重要性を説かれて本格的な研究に取り組み、全44巻の註釈書『古事記傳』を寛政10年(1798年)に完成させた[25]。これは『古事記』研究の古典であり、厳密かつ実証的な校訂は後世に大きな影響を与えている。

本居宣長『古事記傳』
本居宣長記念館蔵・国重文

第二次世界大戦後は自由な解釈が可能となり、倉野憲司武田祐吉西郷信綱西宮一民神野志隆光らによる研究や注釈書が発表された。特に倉野憲司による岩波文庫版は、初版(1963年(昭和38年))刊行以来、重版の通算は約100万部に達している。20世紀後半になり、『古事記』の研究はそれまでの成立論から作品論へとシフトしている。成立論の代表としては津田左右吉石母田正があり、作品論の代表としては、吉井巌・西郷信綱・神野志隆光がいる。

偽書説

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『古事記』には、近世江戸時代)以降、偽書の疑いを持つ者があった。賀茂真淵(宣長宛書翰)や沼田順義、中沢見明、筏勲、松本雅明、大和岩雄、大島隼人、三浦佑之宝賀寿男らは、『古事記』成立が公の史書に記載がないことや、序文の不自然さなどへ疑問を提示し、偽書説を唱えている[26]

偽書説には主に二通りあり、序文のみが偽書とする説と、本文も偽書とする説に分かれる。以下に概要を記す。

  • 序文偽書説では『古事記』の序文(上表文)において語られる『古事記』の成立事情を証する外部の有力な証拠がないことなどから序文の正当性に疑義を指摘する。また稗田阿礼の実在性が非常に低いことや、編纂の勅命が出された年号の記載がないこと、官位の記載や成立までの記載が杜撰なことから偽書の可能性を指摘している。なお「偽書」とは著者や執筆時期などの来歴を偽った書物のことであるから、その意味では序文が偽作であれば古事記は「偽書」ということになる。もちろん、その場合も本文の正当性は別の問題である。
  • 本文偽書説では、『古事記』には『日本書紀』より新しい神話の内容や、延喜式に見えない神社が含まれているとして、より時代の下る平安時代初期ころ、または鎌倉時代の成立とみなす。この説には後世に序文・本文の全部を創作したとする説と、『日本書紀』同様の古い史料に途中途中「加筆」し続けたものとする説がある。また『新撰姓氏録』でも『古事記』本文に登場する系譜伝承が引用されていないなど、その成立に不審な点が多々ある。

このうち、本文偽書説のうち全部を創作したとする説は上代文学界・歴史学界には受け入れられていない。上代特殊仮名遣の中でも、『万葉集』『日本書紀』では既に消失している2種類の「モ」の表記上の区別が、『古事記』には残存するからである。[注釈 5] なお序文には上代特殊仮名遣は一切使われていない。

序文偽書説の論拠に、稗田阿礼の実在性が低く、太安萬侶のようなの記載がないことが国史として不自然であること、官位のない低級身分の人間[注釈 6]を舎人として登用したとは考えられないこと、編纂の勅令が下された年の記載がないこと、『古事記』以外の史書(『続日本紀』『弘仁私記』『日本紀竟宴和歌』など)では「太安麻呂」と書かれているのに、『古事記』序文のみ「太安萬侶」と異なる表記になっていることがあった。ところが、1979年昭和54年)1月に奈良市此瀬(このせ)町より太安万侶の墓誌銘が出土し、そこに

左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶癸亥
年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳[注釈 7]

とあったことが判明し、漢字表記の異同という論拠に関しては否定されることとなった。しかし、偽書説においては太安萬侶の表記の異同が問題ではなく、安萬侶自身が『古事記』編纂に関与したことが何ら証明されていないことが問題とされる[27]

その後、平城京跡から出土した、太安万侶の墓誌銘を含む木簡の解析により、『古事記』成立当時には、既に『古事記』で使用される書き言葉は一般的に使用されていたと判明した。それにより序文中の「然れども、上古の時、言意(ことばこころ)並びに朴(すなほ)にして、文を敷き句を構ふること、字におきてすなはち難し。」は序文の作成者が当時の日本語の使用状況を知らずに想像で書いたのではないかと指摘されている[誰?]

また、『古事記』が編纂された時期の正史とされている『続日本紀』は、元々は全30巻で編纂されていたものが途中で全20巻に変更された結果、原稿から相当の記述が削除もしくは圧縮された後の姿が現在の『続日本紀』になったと考えられている。この際に『古事記』に関する記述も元の原稿には記載されていたものの、全20巻にする過程で完成記事も含めて削られてしまったことも十分考えられる。これは『日本書紀』に関しても同様で、こちらには完成した事実を示す記述があるもののの、本来ならば記述されるべき舎人親王が『日本書紀』の編纂責任者となった経緯を示す記事や完成時に天皇に出された筈の上表文、完成後に行われた筈の編纂関係者への褒賞に関する記事が載せられておらず、不完全な記述に留まっている[28]。つまり、『続日本紀』編纂における分量圧縮の過程で『古事記』に関する記事が省略された可能性がある以上、史書への記述の有無によって偽書説の根拠にはなりがたいことを示している。

815年(弘仁6年)に撰録された『新撰姓氏録』はその序の中で編集方針について、「本系で漏れているものは古記でおぎない、また本系と古記とに異動のあるものは、古記を正しいものとして判定し、古記の蒐集には非常に努力が払われた」ことが記されている。ところが、『古事記』は系譜において『日本書紀』よりもはるかに詳しく記載しているにもかかわらず、『新撰姓氏録』は『古事記』を参考資料として全く校合しなかった事実から、少なくとも『新撰姓氏録』が世に出た弘仁6年までは、『古事記』は存在しなかったと見られる。

外国語訳

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『古事記』の最初の英語完訳は、1882年(明治15年)に初版された英国人のバジル・ホール・チェンバレンによる「KO-JI-KI or “Records of Ancient Matters”」である[29]。日本に関心を持っていたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、この英訳本をアメリカの出版社から渡され、日本行きの決意を固くした[30]

サブカルチャーでの受容

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『古事記』はサブカルチャーでも受容され、漫画化・ライトノベル化などもされている。

  • 『古典コミックス古事記』1990年、主婦と生活社、監修・樋口清之国学院大学名誉教授、解説・小松和彦大阪大学助教授、脚本・鈴木亨、作画・登龍太
  • 『マンガ日本の古典(1)古事記』1999年、中公文庫、作画・石ノ森章太郎
  • 『まんがで読む古事記』全3巻、2009年 - 2011年、青林堂、作画・久松文雄
  • 『まんがで読破Remix 古事記/日本書紀』2014年、イースト・プレス
  • 『愛と涙と勇気の神様ものがたり まんが古事記』2015年、講談社、監修・戸矢学、作画・ふわこういちろう
  • ラノベ古事記 日本の神様とはじまりの物語』2017年、KADOKAWA、小野寺優
  • 『神訳 古事記』2017年、光文社、荒川祐二
  • 『マンガで読み解く真説・古事記』2021年、講談社、著・関裕二、作画・近藤たかし

本文目次

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上巻

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中巻

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  • 神倭伊波礼毘古命かんやまといわれびこのみこと神武天皇
  • 神沼河耳命かんぬなかわみみのみこと綏靖天皇
  • 師木津日子玉手見命しきつひこたまてみのみこと安寧天皇
  • 大倭日子鍬友命おおやまとひこすきとものみこと懿徳天皇
  • 御真津日子可恵志泥命みまつひこかえしねのみこと孝昭天皇
  • 大倭帯日子国押人命おおやまとたらしひこくにおしひとのみこと孝安天皇
  • 大倭根子日子賦斗迩命おおやまとねこひこふとにのみこと孝霊天皇
  • 大倭根子日子国玖琉命おおやまとねこひこくにくるのみこと孝元天皇
  • 若倭根子日子大毘々命わかやまとねこひこおおびびのみこと開化天皇
  • 御真木入日子印恵命みまきいりひこいにえのみこと崇神天皇
    • 后妃こうひ御子みこ
    • 三輪山大物主神おおものぬしのかみ
    • 建波邇安王たけはにやすのみこの反逆
    • 初国知らしし天皇
  • 伊久米伊理毘古伊佐知命いくめいりびこいさちのみこと垂仁天皇
    • 后妃と御子
    • 沙本毘古さほびこ沙本毘売さほびめ
    • 本牟智和気王ほむちわけのみこ
    • 円野比売まとのひめ
    • 時じくのかくの木の実
  • 大帯日子於斯呂和気天皇おおたらしひこおしろわけのすめらみこと景行天皇
    • 后妃と御子
    • 倭建命やまとたけるのみことの熊襲征伐
    • 出雲建いずもたける討伐
    • 倭建命の東国征討
    • 美夜受比売みやずひめ
    • 思国歌くにしのびうた
    • 八尋白智鳥やひろしろちどり
    • 倭建命の子孫
  • 若帯日子天皇わかたらしひこのすめらみこと成務天皇
  • 帯中日子天皇たらしなかつひこのすめらみこと仲哀天皇
  • 品陀和気命ほんだわけのみこと応神天皇

下巻

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  • 大雀命おおさざきのみこと仁徳天皇
    • 后妃と御子
    • 吉備黒日売くろひめ
    • 八田若郎女やたのわきいらつめ石之日売いはのひめ
    • 速総別王はやぶさわけのきみ女鳥王めどりのきみ
    • かり
    • 枯野という船
  • 伊邪本若気王いざほわけのみこ履中天皇
    • 墨江中王すみのえのなかつのきみの反逆
    • 水歯別王みづはわけのきみ曾婆可理そばかり
  • 水歯別命みずはわけのみこと反正天皇
  • 男浅津間若子宿禰王おさつまわくごのすくねのみこ允恭天皇
    • 后妃と御子
    • 氏姓の制定
    • 軽太子かるのひつぎのみこ軽大郎女かるのおほいらつめ
  • 穴穂御子あなほのみこ安康天皇
    • 大日下王おおくさかのきみ根臣ねのおみ
    • 目弱王まよわのきみの変
    • 市辺之忍歯王いちのべのおしはのきみ
  • 大長谷若建命おおはつせわかたけのみこと雄略天皇
    • 后妃と御子
    • 若日下部王わかくさかべのきみ
    • 赤猪子あかいこ
    • 吉野宮
    • 葛城かづらき一言主大神ひとことぬしのおおかみ
    • 袁努比売をどひめ三重采女うねめ
  • 白髪大倭根子命しらかのおおやまとねこのみこと清寧天皇
    • 志自牟しじむ新室楽にひむろうたげ
    • 歌垣
  • 袁祁之石巣別命をけのいわすわけのみこと顕宗天皇
    • 置目老媼おきめのおみな
    • 御陵みささぎの土
  • 意祁命おけのみこと仁賢天皇
  • 小長谷若雀命おはつせのわかさざきのみこと武烈天皇
  • 袁本杼命おほどのみこと継体天皇
  • 広国押建金日王ひろくにおしたけかなひのみこ安閑天皇
  • 建小広国押楯命たけおひろくにおしたてのみこと宣化天皇
  • 天国押波琉岐広庭天皇あめくにおしはるきひろにわのすめらみこと欽明天皇
  • 沼名倉太玉敷命ぬなくらふとたましきのみこと敏達天皇
  • 橘豊日王たちばなのとよひのみこ用明天皇
  • 長谷部若雀天皇はつせべのわかさざきのすめらみこと崇峻天皇
  • 豊御食炊屋比売命とよみけかしきやひめのみこと推古天皇

内容

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序を併せたり

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撰者である太朝臣安万侶が天子に奏上する形式に倣った序文である。

序第1段 稽古照今(古を稽へて、今に照らす)
ここでは『古事記』の内容の要点を天地開闢から挙げ、さらに、それぞれの御代の事跡は異なるが政治についての記載にはほぼ誤りはなかったと述べている。
臣安萬侶言す。それ、混元既に凝りて、気象未だあらはれず。名もなく為も無し。誰れかその形を知らむ。
臣安萬侶言 夫混元既凝 氣象未效 無名無爲 誰知其形
歩驟ほしう各異おのおのことに、文質同じくあらずと雖も、古をかむがへて風猷を既に頽れたるにただし、今に照らして典教を絶えむとするに補はずといふことなし。
雖歩驟各異 文質不同 莫不稽古以繩風猷於既頽 照今以補典敎於欲絶
序第2段 『古事記』撰録の発端
ここでは、まず、天武天皇の事跡を厳かに述べた後、天武天皇が稗田阿禮に勅語して、『帝紀』『旧辞』を誦習させたが、結局文章に残せなかった経緯を記している。
…ここに天皇(天武)りたまひしく「われ聞きたまへらく、『諸家のもたらす帝紀および本辞、既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふ。』といへり。今の時に当たりて、其のあやまりを改めずは、未だ幾年をも経ずしてその旨滅びなんとす。これすなはち、邦家の経緯、王化の鴻基なり。故これ、帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削りまことを定めて、後葉のちのちつたへむとおもふ。」とのりたまひき。時に舎人とねりありき。うぢ稗田ひえだ、名は阿禮あれ、年はこれ二十八。人と為り聡明にして、耳にわたれば口にみ、耳にるれば心にしるしき。すなはち、阿禮に勅語して帝皇日継すめらみことのひつぎ及び先代旧辞さきつよのふることを誦み習はしめたまひき。
於是天皇詔之 朕聞諸家之所齎 帝紀及本辭 既違正實 多加虚僞 當今之時 不改其失 未經幾年 其旨欲滅 斯乃邦家經緯 王化之鴻基焉 故惟撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉 時有舍人 姓稗田名阿禮 年是廿八 爲人聰明 度目誦口 拂耳勒心 即勅語阿禮 令誦習帝皇日繼 及先代舊辭
序第3段 『古事記』の成立
ここでは、元明天皇の世となって、詔により安万侶が稗田阿禮の誦習を撰録した経緯を述べ、最後に内容の区分について記している。経緯では言葉を文字に置き換えるのに非常に苦労した旨が具体的に記されている。
…ここに、旧辞の誤りたがへるを惜しみ、先紀の謬りまじれるを正さむとして、和銅四年九月十八日をもちて、臣安麻呂に詔りして、稗田阿禮の誦む所の勅語の旧辞を撰録して献上せしむるといへれば、謹みて詔旨おほみことまにまに、子細に採りひろひぬ。然れども、上古の時、言意ことばこころ並びにすなほにして、文を敷き句を構ふること、字におきてすなはち難し。
於焉惜舊辭之誤忤 正先紀之謬錯 以和銅四年九月十八日 詔臣安萬侶 撰録稗田阿禮所誦之勅語舊辭 以獻上者 謹隨詔旨 子細採摭然、上古之時 言意並朴 敷文構句 於字即難
…大抵記す所は、天地開闢より始めて、小治田をはりだの御世にをはる。故、天御中主神あめのみなかぬしのかみ以下、日子波限建鵜草葺不合命ひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと以前を上巻となし、神倭伊波禮毘古天皇かむやまといはれびこのすめらみこと以下、品蛇御世ほむだのみよ以前を中巻となし、大雀皇帝おほさぎのみかど以下、小治田大宮をはりだのおほみや以前を下巻となし、併せて三巻を録して、謹みて献上る。臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。
大抵所記者 自天地開闢始 以訖于小治田御世 故天御中主神以下 日子波限建鵜草葺不合尊以前 爲上卷 神倭伊波禮毘古天皇以下 品陀御世以前 爲中卷 大雀皇帝以下 小治田大宮以前 爲下卷 并録三卷 謹以獻上 臣安萬侶 誠惶誠恐頓首頓首
和銅五年正月二十八日 正五位上勲五等太朝臣安萬侶

上巻(かみつまき)

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天地開闢から日本列島の形成と国土の整備が語られ、天孫降臨を経てイワレヒコ(神武天皇)の誕生までを記す。いわゆる「日本神話」である。

天地開闢の後に七代のが交代し、その最後にイザナギイザナミが生まれた。二神は高天原(天)から葦原中津国(地上世界)に降り、結婚して結ばれ、その子として、大八島国を産み、ついで、山の神、海の神など様々な神を産んだ。こうした国産みの途中、イザナミは火の神を産んだため、火傷を負い死んでしまい、出雲国伯耆国の堺にある比婆山(現・島根県安来市)に葬られた。イザナギはイザナミを恋しがり、黄泉の国(死者の世界)を訪れ連れ戻そうとするが、連れ戻せず、国産みは未完成のまま終わる。

イザナギは黄泉の国の穢れを落とすため、を行い、左目を洗ったときに天照大御神アマテラスオオミカミ、右目を洗ったときに月読命ツクヨミノミコト、鼻を洗ったときに須佐之男命スサノオノミコトを産む。その後、最初に生んだ淡路島の幽宮で過ごした。これら三神は三貴子と呼ばれ、神々の中で重要な位置を占めるのだが、月読命に関してはその誕生後の記述が一切ない。スサノオノミコトは乱暴者なため、姉のアマテラスに反逆を疑われる。そこで、アマテラスとスサノオノミコトは心の潔白を調べる誓約(うけい)を行い五男三女神が誕生する。その結果、スサノオノミコトは潔白を証明するが、調子に乗って暴れてしまい、そのためアマテラスは天岩屋戸に閉じこもるが、集まった諸神の知恵で外に出すことに成功する。

一方、スサノオノミコトは神々の審判により高天原を追放され、葦原中津国の出雲国に下る。ここまでは乱暴なだけだったスサノオノミコトの様相は変化し、英雄的なものとなってヤマタノオロチ退治を行なう。次に、スサノオノミコトの子孫である大国主神が登場する。大国主の稲羽の素兎(因幡の白兎)や求婚と受難の話が続き(大国主の神話)、スクナヒコナとともに国作りを進めたことが記される。国土が整うと国譲りの神話に移る。天照大御神は葦原中津国の統治権を天孫に委譲することを要求し、大国主と子供の事代主神はそれを受諾する。子の建御名方神は、承諾せず抵抗するが、後に受諾する。葦原中津国の統治権を得ると高天原の神々は天孫ニニギを日向の高千穂降臨させる。次に、ニニギの子供の山幸彦と海幸彦の説話となり、浦島太郎のルーツともいわれる海神の宮殿の訪問や異族の服属の由来などが語られる。山幸彦は海神の娘と結婚し、誕生した息子もまた海神の娘と結婚し、孫の神武天皇が誕生して上巻は終わる。

上巻に出てくる主な神々

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中巻(なかつまき)

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初代神武天皇から15代応神天皇までを記す。2代から9代までは欠史八代と呼ばれ、系譜などの記述のみで、説話などは記載が少ない。そのため、この八代は後世に追加された架空の存在であるという説があるが、実在説も存在する。なお、神武東征に始まり、ヤマトタケル神功皇后について記す。「神武天皇」などの各天皇の漢風諡号は『古事記』編纂当時は定められていないため、国風諡号のみで記されている。各天皇陵の現在の比定地については「天皇陵#一覧」も参照。

中巻に出てくる主な人物

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1代神武天皇
神倭伊波禮毘古命かむやまといはれびこのみこと、畝火の白檮原宮かしはらのみや(奈良県畝傍山東南の地)にいまして、天の下らしめしき。天皇の御年(享年)は一百三十七歳ももあまりみそぢまりななとせ御陵みはかは畝傍山の北の方の白檮かしの尾の上にあり(奈良県橿原市)。
2代綏靖天皇
神沼河耳命かむぬなかはみみのみこと、葛城の高岡宮(奈良県御所市)に坐して、天の下治らしめしき。天皇の御年は四十五歳よそぢまりいつとせ。御陵は衝田つきだの岡にあり(奈良県橿原市)。
3代安寧天皇
師木津日子玉手見命しきつひこたまでみのみこと、片鹽の浮穴宮(奈良県大和高田市)に坐して、天の下治らしめしき。天皇の御年は四十九歳よそぢまりここのとせ。御陵は畝傍山の御陰みほとにあり(奈良県橿原市)。
4代懿徳天皇
大倭日子鉏友命おほやまとひこすきとものみこと、軽の境岡宮(奈良県橿原市)に坐して、天の下治らしめしき。天皇の御年は四十五歳よそぢまりいつとせ。御陵は畝傍山の真名子まなご谷の上にあり(奈良県橿原市)。
5代孝昭天皇
御眞津日子訶惠志泥命みまつひこかゑしねのみこと、葛城の掖上宮(奈良県御所市)に坐して、天の下治らしめしき。天皇の御年は九十三歳ここのそぢまりみとせ。御陵は掖上わきがみ博多はかた山の上にあり(奈良県御所市)。
6代孝安天皇
大倭帯日子國押人命おほやまとたらしひこくにおしひとのみこと、葛城の室の秋津島(奈良県御所市)に坐して、天の下治らしめしき。天皇の御年は一百二十三歳ももあまりはたちまりみとせ。御陵は玉手たまでの岡の上にあり(奈良県御所市)。
7代孝霊天皇
大倭根子日子賦斗邇命おほやまとねこひこふとにのみこと、黒田の庵戸宮(廬戸宮)(奈良県田原本町)に坐して、天の下治らしめしき。天皇の御年は一百六歳ももあまりむとせ。御陵は片岡の馬坂の上にあり(奈良県王寺町)。欠史八代で唯一、大吉備津日子命と若建吉備津日子命による吉備平定が簡潔に書かれている。
8代孝元天皇
大倭根子日子國玖琉命おほやまとねこひこくにくるのみこと、軽の境原宮(奈良県橿原市)に坐して、天の下治らしめしき。天皇の御年は五十七歳いそぢまりななとせ。御陵は剣池の中の岡の上にあり(奈良県橿原市)。
9代開化天皇
若倭根子日子大毘毘命わかやまとねこひこおほびびのみこと、春日の伊邪河宮いざかはのみや奈良市)に坐して、天の下治らしめしき。天皇の御年は六十三歳むそぢまりみとせ。御陵は伊邪いざ河の坂の上にあり(奈良市)。
10代崇神天皇
御眞木入日子印惠命みまきいりひこいにゑのみこと師木しき水垣宮みずがきのみや(奈良県桜井市)に坐して、天の下治らしめしき。天皇の御歳は一百六十八歳ももあまりむそぢまりやとせ。戊寅の年の十二月に崩りましき。御陵は山邊やまのべの道のまがりの岡の上にあり(奈良県天理市)。
11代垂仁天皇
伊久米伊理毘古伊佐知命いくめいりびこいさちのみこと、師木の玉垣宮(奈良県桜井市)に坐して、天の下治らしめしき。天皇の御年は一百五十三歳ももあまりいそぢまりみとせ。御陵は菅原の御立野の中にあり(奈良市)。
12代景行天皇
大帯日子淤斯呂和氣天皇おほたらしひこおしろわけのすめらみこと纏向まきむくの日代宮(奈良県桜井市)に坐して、天の下治らしめしき。天皇の御年は一百三十七歳ももあまりみそぢまりななとせ。御陵は山邊の道の上にあり(奈良県天理市)。
倭建命やまとたけるのみこと
能煩野のぼの三重県鈴鹿郡)に至りまし、歌ひふる即ち崩りましき。御陵を作る。ここに八尋白智鳥やひろしろちどりに化りて、天に翔りて濱に向きて飛び行でましき。………河内国志幾しきに留まりましき。故、其地に御陵を作りて鎮まり坐さしめき。すなわちその御陵を号けて、白鳥の御陵と謂う。
13代成務天皇
若帯日子天皇わかたらしひこのすめらみこと、志賀の高穴穂宮たかあなほのみや滋賀県大津市)に坐して、天の下治らしめしき。天皇の御年は九十五歳ここのそぢまりいつとせ。乙卯の年の三月十五日に崩りましき。御陵は沙紀の多他那美たたなみにあり(奈良県奈良市)。
14代仲哀天皇
帯中日子天皇たらしなかつひこのすめらみこと穴門あなど山口県下関市長府)、また筑紫詞志比宮かしひのみや福岡市香椎)に坐して、天の下治らしめしき。天皇の御年は五十二歳いそぢまりふたとせ。壬戌の年の六月十一日に崩りましき。御陵は河内の恵賀の長江ながえにあり(大阪府南河内郡)。
神功皇后
息長帯日(比)売命おきながたらしひめのみこと。皇后は御年一百歳(ももとせ)にして崩りましき。狭城の楯列(たたなみ)の陵に葬りまつりき(奈良市)。
15代応神天皇
品蛇和氣命ほむだわけのみこと、軽島の明宮あきらのみや(奈良県橿原市)に坐して、天の下治らしめしき。天皇の御年は一百三十歳ももあまりみそとせ。甲午の年の九月九日に崩りましき。御陵は川内かふちの恵賀の裳伏もふしの岡にあり(大阪府南河内郡)。

下巻(しもつまき)

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16代仁徳天皇から33代推古天皇までを記す。24代仁賢天皇から推古天皇までは欠史八代と同じく系譜などの記述のみで具体的な著述が少ない。これは、当時においては時代が近く自明のことなので書かれなかったなどといわれる。

下巻に出てくる主な人物

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16代仁徳天皇
大雀命おほさざきのみこと、難波の高津宮(大阪市)にいまして、天の下らしめしき。天皇の御年は八十三歳やそぢまりみとせ。丁卯の年の八月十五日に崩りましき。御陵は毛受もず耳原みみはらにあり(大阪府堺市)。
17代履中天皇
伊邪本和氣命いざほわけのみこと伊波禮いはれの若櫻宮(奈良県桜井市)に坐して、天の下治らしめしき。天皇の御年は六十四歳むそじまりよとせ。壬申の年の正月三日に崩りましき。御陵は毛受にあり(大阪府堺市)。
18代反正天皇
水歯別命みづはわけのみこと多治比たじひの柴垣宮に坐して、天の下治らしめしき(大阪府南河内郡)。天皇の御年は六十歳むそとせ。丁丑の年の七月崩りましき。御陵は毛受野もずのにあり。
19代允恭天皇
男淺津間若子宿禰命をあさづまわくごのすくねのみこと遠飛鳥宮とほつあすかのみや(奈良県明日香村)に坐して、天の下治らしめしき。天皇の御年は七十八歳ななそぢまりやとせ。甲午の年の正月十五日に崩りましき。御陵は河内の恵賀の長枝ながえにあり(大阪府南河内郡)。
20代安康天皇
穴穂御子あなほのみこ石上いそのかみ穴穂宮あなほのみや(奈良県天理市)に坐して、天の下治らしめしき。天皇の御年は五十六歳いそぢまりむとせ。御陵は菅原の伏見の岡にあり(奈良市)。
21代雄略天皇
大長谷若建命おほはつせわかたけのみこと長谷はつせの朝倉宮(奈良県桜井市)に坐して、天の下治らしめしき。天皇の御年は一百二十四歳ももあまりはたちまりよとせ。己巳の年の八月九日に崩りましき。御陵は河内の多治比の高鸇たかわしにあり(大阪府南河内郡)。
22代清寧天皇
白髪大倭根子命しらかのおほやまとねこのみこと伊波禮いはれ甕栗宮みかくりのみや(奈良県橿原市)に坐して、天の下治らしめしき。
23代顕宗天皇
袁祁之石巣別命をけのいはすわけのみこと近飛鳥宮ちかつあすかのみや(大阪府南河内郡)に坐して、天の下治らしめすこと八歳なりき。天皇の御年は三十八歳みそぢまりやとせ。御陵は片岡の石坏いはつきの岡の上にあり(奈良県香芝市)。
24代仁賢天皇
意祁命おけのみこと、石上の廣高宮(奈良県天理市[31])に坐して、天の下治らしめしき。
25代武烈天皇
小長谷若雀命おはつせのわかさざきのみこと、長谷の列木宮なみきのみや(奈良県桜井市)に坐して、天の下治らしめすこと八歳なりき。御陵は片岡の石坏の岡にあり。
26代継体天皇
袁本柕命をほどのみこと、伊波禮の玉穂宮たまほのみや(奈良県桜井市)に坐して、天の下治らしめしき。天皇の御年は四十三歳よそじまりみとせ。丁未の年の四月九日に崩りましき。御陵は三島の藍の御陵なり(大阪府三島郡)。磐井の乱(「石井」と表記)について簡潔に触れている。
27代安閑天皇
広国押建金日命ひろくにおしたけかなひのみことまがり金箸宮かなはしのみや(奈良県橿原市)に坐して、天の下治らしめしき。乙卯の年の三月十三日に崩りましき。御陵は河内古市ふるちの高屋村にあり(大阪府南河内郡)。
28代宣化天皇
建小広国押楯命たけおひろくにおしたてのみこと檜垌ひのくま廬入野宮いほりののみや(奈良県明日香村)に坐して、天の下治らしめしき(奈良県明日香村)。
29代欽明天皇
天国押波流岐広庭天皇あめくにおしはるきひろにわのすめらみこと師木島しきしまの大宮(奈良県桜井市)[32]に坐して、天の下治らしめしき。
30代敏達天皇
沼名倉太玉敷命ぬなくらふとたましきのみこと他田宮をさだのみや(奈良県桜井市)に坐して、天の下治らしめすこと、十四歳なりき。甲辰の年の四月六日に崩りましき。御陵は川内の科長しながにあり(大阪府南河内郡)。
31代用明天皇
橘豊日命たちばなのとよひのみこと、池邊宮(奈良県桜井市)に坐して、天の下治らしめすこと、三歳なりき。丁未の年の四月十五日に崩りましき。御陵は石寸いはれ掖上いけのうえにありしを、後に科長の中の陵に遷しき(大阪府南河内郡)。
32代崇峻天皇
長谷部若雀命はつせべのわかささぎのみこと、倉橋の柴垣宮しばかきのみや(奈良県桜井市)に坐して、天の下治らしめすこと、四歳なりき。壬子の年の十一月十三日に崩りましき。御陵は倉椅の岡の上にあり(奈良県桜井市)。
33代推古天皇
豊御食炊屋比売命とよみけかしきやひめのみこと小治田宮をわりたのみや(奈良県明日香村)に坐して、天の下治らしめすこと、三十七歳なりき。戊子の年の三月十五日に崩りましき。御陵は大野の岡の上にありしを、後に科長の大き陵に遷しき(大阪府南河内郡)。

全文

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全文テキスト及び全文検索

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影印・複製

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  • 梵舜筆『古事記』上巻 室町時代末期写 國學院大學デジタルライブラリー所収[36]
  • 梵舜筆『古事記』中巻 室町時代末期写 國學院大學デジタルライブラリー所収[37]
  • 梵舜筆『古事記』下巻 室町時代末期写 國學院大學デジタルライブラリー所収[38]
  • 本居宣長訓『古訓古事記』3巻 京都 : 永田調兵衛, 1874. 刻本国立国会図書館近代デジタルライブラリー[39]
  • 荷田春満訓点『古事記』上巻 寛永21年(1644年)刊 國學院大學デジタルライブラリー所収[40]
  • 荷田春満訓点『古事記』中巻 寛永21年(1644年)刊 國學院大學デジタルライブラリー所収[41]
  • 荷田春満訓点『古事記』下巻 寛永21年(1644年)刊 國學院大學デジタルライブラリー所収[42]
  • 賢瑜筆『真福寺本 古事記』巻上 1925年 古典保存会 複製 国立国会図書館近代デジタルライブラリー[43]
  • 賢瑜筆『真福寺本 古事記』巻中 1925年 古典保存会 複製 国立国会図書館近代デジタルライブラリー[44]
  • 賢瑜筆『真福寺本 古事記』巻下 1925年 古典保存会 複製 国立国会図書館近代デジタルライブラリー[45]
  • 幸田成友校訂『古事記』1937年 岩波書店 (岩波文庫・教科書版 ; 1) 国立国会図書館近代デジタルライブラリー[46]
  • 賢瑜筆『国宝真福寺本 古事記』1945年 京都印書館 複製
  • 賢瑜筆『国宝 真福寺本 古事記』1978年 桜楓社 影印
  • 道果筆『道果本 古事記』1943年 貴重図書複製会 複製
  • 道祥筆『伊勢本 古事記』1936年 古典保存会 複製
  • 春瑜筆『春瑜本 古事記』1930年 古典保存会 複製
  • 春瑜筆『古事記上巻 応永三十三年 春瑜写』神宮古典籍影印叢刊1『古事記 日本書紀(上)』1982年 八木書店 影印
  • 卜部兼永筆『卜部兼永本 古事記』1981年 勉誠社 影印
  • 卜部兼永筆『兼永本古事記 出雲風土記抄 CD‐ROM』国文学研究資料館データベース古典コレクション 2003年 岩波書店
  • 祐範筆『古事記』尊経閣叢刊 1937年 前田育徳財団 複製
  • 祐範筆『古事記』尊経閣善本影印集成 第四輯 古代史籍30 2002年 八木書店 影印
  • 『猪熊信男蔵 古事記』1936~1937年 古典保存会 複製
  • 氏庸筆『古事記』阪本龍門文庫善本叢刊5 1986年 勉誠出版 影印

注解刊行

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現代語訳(新版)

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注釈本

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朗読

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脚注

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注釈

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  1. ^ 「高天原(たかまがはら)」は、『古事記』のほかでは、神道において唱される「祝詞」でも多用される。
  2. ^ 『古事記』『日本書紀』『万葉集』に祭神の記載がある神社は、伊勢神宮住吉神社出雲大社大神神社などに限られている。10世紀に編まれた『延喜式神名帳』においても、一部は社名や鎮座地などから主祭神を類推できるが、多くは地名社のみで祭神は不明である。詳細は祭神を参照。
  3. ^ 本来、仮名遣とは現代仮名遣いの「お」と「を」のように同音のものを異なる文字で書き分けることであるが、上代の文献に見られる万葉仮名の特殊な使い分けの場合は音韻の違いを表しているので特殊仮名遣と呼んでいる。通説によれば、上代日本語は、キヒミ・ケヘメ・コソトノモヨロの13音節とこれらの濁音節がそれぞれ甲乙の二類に書き分けられている。ただし、「モ」の書き分けは記紀のみにみられるものである。
  4. ^ もともと『古事記』を所蔵していたのは真福寺岐阜県羽島市)であったが、徳川家康の命により、真福寺の一院である「宝生院」が名古屋城下に移転させられた際に、写本も同時に移転となった。これが現在の大須観音である。詳細は当該項目を参照。
  5. ^ 1997年、ハワイ大学のジョン・ベントリーが修士論文 で日本書紀β群においてもモ甲乙とホ甲乙が区別されていることを指摘し(Mo and Po in Old Japanese (2005))、マーク・ヒデオ・ミヤケもこれを支持(Old Japanese: a phonetic reconstruction (2003, p. 258)。近年ではアレクサンダー・ボビンもこれを認めている(A Descriptive and Comparative Grammar of Western Old Japanese (2005))。国内でも2005年に犬飼隆がこれを支持する研究成果を成書で発表した(上代文字言語の研究, p. 121–156)。
  6. ^ 畿内の大族の氏姓を記録した『新撰姓氏録』に稗田氏についての記録はない。
  7. ^ 太字引用者
  8. ^ 注記:白文。荒山慶一入力。
  9. ^ 白文、『訂正古訓古事記』が底本で誤り多し、(FireFoxを推奨). 岡島昭浩入力。

出典

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  1. ^ a b c 「解説」(古事記・角川 2002, pp. 275–284)
  2. ^ a b 「一 古事記」(キーン古代1 2013, pp. 58–106)
  3. ^ 山口佳紀神野志隆光校訂・訳 『日本の古典をよむ(1) 古事記』 小学館2007年(平成19年)、3頁。ISBN 978-4-09-362171-7
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  9. ^ 「第一章 古代 三 万葉の世紀」(小西甚一 1993, pp. 32–44)
  10. ^ 「序 日本文学のジャンル」(キーン古代1 2013, pp. 11–12)
  11. ^ 「第一章 古代 二 古代国家の成立とその文藝」(小西甚一 1993, pp. 26–32)
  12. ^ 鎌田純一 (2001), pp. 37–38.
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  21. ^ 斎藤英喜 (2012), pp. 36–44現代において、『先代旧事本紀』は平安時代初期の成立とみる説が有力
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  36. ^ 梵舜筆『古事記』上巻
  37. ^ 梵舜筆『古事記』中巻
  38. ^ 梵舜筆『古事記』下巻
  39. ^ 本居宣長訓『古訓古事記』3巻
  40. ^ 荷田春満訓点『古事記』上巻
  41. ^ 荷田春満訓点『古事記』中巻
  42. ^ 荷田春満訓点『古事記』下巻
  43. ^ 『古事記』巻上
  44. ^ 『古事記』巻中
  45. ^ 『古事記』巻下
  46. ^ 幸田成友校訂『古事記』

参考文献

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著書
  • 山田孝雄述『古事記序文講義』志波彦神社 ; 鹽竃神社、1935年。 
  • 小西甚一『日本文学史』講談社講談社学術文庫1090〉、1993年9月。ISBN 978-4061590908 
  • 角川書店 編『古事記』角川ソフィア文庫〈ビギナーズ・クラシックス〉、2002年8月。ISBN 978-4043574100 
  • 西郷信綱『日本古代文学史』岩波書店〈岩波現代文庫 G152〉、2005年12月。ISBN 978-4006001520  - 1996年8月の「同時代ライブラリー 277」の版は、ISBN 978-4002602776
  • 斎藤英喜『古事記:不思議な1300年史』新人物往来社、2012年。ISBN 9784404041869NCID BB09238341 
  • ドナルド・キーン 著、土屋政雄 訳『日本文学史――古代・中世篇一』中央公論新社中公文庫〉、2013年1月。ISBN 978-4122057524 
  • 笹川尚紀『日本書紀成立史攷』塙書房、2016年3月。ISBN 978-4-8273-1281-2 
  • 折口信夫『日本文学の発生序説』角川書店角川ソフィア文庫 J119-7 20409〉、2017年6月。ISBN 978-4044002961 
  • 関根淳『六国史以前:日本書紀への道のり』吉川弘文館歴史文化ライブラリー502〉、2020年。ISBN 9784642059022 
  • 鎌田純一『神道文献』(改訂版)神社新報社、2001年9月(原著1993年12月)。 
論文

関連文献

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関連人物

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関連項目

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外部リンク

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