大和魂

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大和魂(やまとだましい)は、外国と比して日本流であると考えられる精神などを指す用語や概念。時代によって意味は異なる。

概要[編集]

平安時代中期ごろから「才」「漢才」と対比的に使われはじめ、諸内容を包含するきわめてひろい概念であった[要出典]江戸時代中期以降の国学の流れのなかで、「漢意(からごころ)」と対比されることが多くなり、「日本古来から伝統的に伝わる固有の精神」という観念が付与されていった[要出典]

関東軍の重砲兵として入隊した当時、「百発百中の砲一門は、百発一中の砲百門に当たる」と教えられた。 疑問を挟むと、「貴様は敢闘精神が足らん。砲の不足は大和魂で補え」と怒鳴られた。

中内功、日本経済新聞・私の履歴書 2000年1月31日

「防御鋼鈑の薄さは大和魂で補う。それに薄ければ機動力もある。」 砲の力が弱いと言うが、敵の歩兵砲兵には有効ではないか。 実際は敵の歩兵や砲兵を敵の戦車が守っている。 その戦車をつぶす為には戦車が要る、という近代戦の構造を全く知らなかったか、知らないふりをしていた。 戦車出身の参謀本部の幹部は一人もいなかったから、知らなかったというのが本当らしい。

司馬遼太郎、歴史と視点 - 私の雑記帖 新潮社)

歴史[編集]

大和魂の語の初出は、『源氏物語』の『少女』帖とされている[要出典]。大和魂の語・概念は、漢才という語・概念と対のものとして生まれたとされ、和魂漢才と言うこともあった[要出典]。それは漢才、すなわち中国などから流入してきた知識・学問をそのまま日本へ移植するのではなく、あくまで基礎的教養として採り入れ、それを日本の実情に合わせて応用的に政治や生活の場面で発揮することである[要出典]。『源氏物語』が生まれた平安中期は、国風文化という日本独特の文化が興った時代であるが、当時の人々の中には、中国から伝来した知識・文化が基盤となって、日本風に味付けしているのだ、という認識が存在していたと考えられている[要出典]。そのうち、大和魂は、机上の知識を現実の様々な場面で応用する判断力・能力を表すようになり、主として「実務能力」の意味で用いられるとともに、「情緒を理解する心」という意味でも用いられていた[要出典]

江戸時代中期以降の国学の流れの中で上代文学の研究が進み大和魂の語は本居宣長が提唱した「漢意(からごころ)」と対比されるようになり、「もののあわれ」「はかりごとのないありのままの素直な心」「仏教や儒学から離れた日本古来から伝統的に伝わる固有の精神」のような概念が発見・付与されていった[要出典]。宣長は「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」と詠んだ事でも知られる[要出典]。 江戸後期になると国学者によって、大和魂の語は、日本の独自性を主張するための政治的な用語として使われ、そうした中で、遣唐使廃止を建言した菅原道真が、大和魂の語の創始者に仮託されるようになった[要出典]。 このような傾向は、儒学の深化と水戸学・国学などの発展やそれによる尊皇論の興隆に伴うものであり、近代化への原動力ともなった[要出典]

明治時代に入り、西洋の知識・学問・文化が一気に流入するようになると、岡倉天心らによって、それらを日本流に摂取すべきという主張が現れ、大和魂とともに和魂洋才という語が用いられるようになった[要出典]。この語は、和魂漢才のもじりであり、大和魂の本来的な意味を含んでいたが、一方では西洋の知識・文化を必要以上に摂取する事への抵抗感も併せもっていた[要出典]

日露戦争戦勝以降の帝国主義の台頭に伴い、国家への犠牲的精神とともに他国への排外的・拡張的な姿勢を含んだ語として用いられていき、「大和魂」という言葉も専ら日本精神の独自性・優位性を表現するものと解されるようになった[要出典]

戦後も「大和魂」という語は様々な場面で使用されている[1][2][3][4][5]

大和魂を題材とした作品[編集]

和歌[編集]

  • 敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花(本居宣長
  • かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂(吉田松陰

関連項目[編集]

脚注[編集]

出典[編集]