三島由紀夫

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三島 由紀夫
(みしま ゆきお)
Yukio Mishima.jpg
31歳(1956年
誕生 平岡 公威(ひらおか きみたけ)
1925年1月14日
日本の旗 日本東京府東京市四谷区永住町2番地(現・東京都新宿区四谷4丁目22番)
死没 1970年11月25日(満45歳没)
日本の旗 日本東京都新宿区市谷本村町5-1(陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地
墓地 日本の旗 日本多磨霊園
職業 小説家劇作家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
教育 法学士
最終学歴 東京大学法学部
活動期間 1941年 - 1970年
ジャンル 小説戯曲評論随筆
主題 古典美、日本の
超越的な美意識悲劇
肉体精神
大和魂文武両道
文学活動 日本浪曼派第二次戦後派
耽美派
代表作 仮面の告白』(1949年)
潮騒』(1954年)
金閣寺』(1956年)
鹿鳴館』(1956年)
鏡子の家』(1959年)
憂国』(1961年)
サド侯爵夫人』(1965年)
豊饒の海』(1965年-1970年)
主な受賞歴 新潮社文学賞(1954年)
岸田演劇賞(1955年)
読売文学賞(1957年・1962年)
週刊読売新劇賞(1958年)
フォルメントール国際文学賞第2位(1964年・1967年)
毎日芸術賞(1964年)
文部省芸術祭賞(1965年)
ツール国際短編映画祭劇映画部門第2位(1966年)
処女作 短編小説:『酸模――秋彦の幼き思ひ出』(1938年)、
花ざかりの森』(1941年)
長編小説:『盗賊』(1947年-1948年)
配偶者 平岡瑤子
子供 平岡紀子平岡威一郎
親族 松平乗尹(五世祖父)
三好長済永井尚志松平頼位橋一巴(高祖父)
平岡太吉永井岩之丞瀬川朝治橋健堂(曾祖父)
平岡定太郎橋健三(祖父)
平岡なつ、橋トミ(祖母)
平岡梓(父)、倭文重(母)
平岡千之(弟)、美津子(妹)
橋健行、橋行蔵(伯父)
平岡萬次郎(大伯父)
大屋敦(大叔父)
平岡萬寿彦磯崎叡(父の従兄弟
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三島 由紀夫(みしま ゆきお、本名:平岡 公威(ひらおか きみたけ)、1925年大正14年)1月14日 - 1970年昭和45年)11月25日)は、日本小説家劇作家随筆家評論家政治活動家皇国主義者。血液型はA型[1]戦後日本文学界を代表する作家の一人であると同時に、日本語の枠を超え、海外においても広く認められた作家である[2]満年齢と昭和の年号が一致し、その人生の節目や活躍が昭和時代の日本の興廃や盛衰の歴史的出来事と相まっているため、「昭和」と生涯を共にした人物として語られることが多い[3][4][5]

代表作は小説に『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『憂国』『豊饒の海』など、戯曲に『鹿鳴館』『近代能楽集』『サド侯爵夫人』などがある。修辞に富んだ絢爛豪華で詩的な文体古典劇を基調にした人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴[2][6]

晩年は政治的な傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、民兵組織楯の会」を結成。1970年(昭和45年)11月25日、楯の会隊員4名と共に、自衛隊市ヶ谷駐屯地(現:防衛省本省)を訪れて東部方面総監を監禁。その際に幕僚数名を負傷させ、部屋の前のバルコニーで演説しクーデターを促し、その約5分後に割腹自殺を遂げた。この一件は世間に大きな衝撃を与え、新右翼が生れるなど、国内の政治運動に大きな影響を及ぼした[7]。(詳細は三島事件を参照)

筆名の「三島」は、静岡県三島の地名に由来する。「三島」の命名を想起した清水文雄修善寺での同人誌の編集会議を兼ねた一泊旅行のとき、三島駅を通ってきたことと、富士の白雪を見ての連想から「ゆき」という名前が浮び[8][9]大嘗祭で神事に用いる新穀を奉るため選ばれた2つの国郡のうちの第1の「ゆき」(斎忌、悠紀、由基)に因んで「由紀」の字が付けられた[8][10][注釈 1][注釈 2]

著作権は、酒井著作権事務所が一括管理している[6]。2010年11月時点で三島の著作は累計発行部数2400万部以上[13]

目次

生涯[編集]

出自[編集]

家族 親族も参照のこと。

祖父・平岡定太郎
樺太庁長官時代)

1925年(大正14年)1月14日東京市四谷区永住町2番地(現・東京都新宿区四谷4丁目22番)において、父・平岡梓(当時30歳)と母・倭文重(当時19歳)の間の長男として誕生。体重は650(約2,400グラム)だった[14]。「公威」の名は祖父・定太郎による命名で、定太郎の恩人で同郷の土木工学者古市公威にあやかって付けられた[15][16]。兄弟は、妹・美津子1928年 - 1945年)、弟・千之1930年 - 1996年)。

父・は、一高から東京帝国大学法学部を経て、高等文官試験に1番で合格したが、面接官に悪印象を持たれて大蔵省入りを拒絶され、農商務省(公威の誕生後まもなく同省の廃止にともない農林省に異動)に勤務していた[17]。後に内閣総理大臣となる岸信介、日本民法学の泰斗と称された我妻栄とは一高以来の同窓であった[18]

母・倭文重(しずえ)は、加賀藩藩主前田家に仕えていた儒学者・橋家の出身。父親は東京開成中学校の5代目校長で、漢学者橋健三[16][19]

祖父・定太郎は、兵庫県印南郡志方村(現・兵庫県加古川市志方町地域)の農家の生まれ。帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)を卒業し、内務省に入省、内務官僚となる。1893年(明治26年)、武家の娘である永井なつと結婚。福島県知事、樺太庁長官等を務めたが、疑獄事件で失脚した(後に無罪の判決)[20]

祖母・夏子(戸籍名:なつ)は、父・永井岩之丞大審院判事)と、母・高(常陸宍戸藩藩主・松平頼位側室との間にもうけた娘)の間に長女として生まれ、12歳から17歳で結婚するまで有栖川宮熾仁親王に行儀見習いとして仕えた。なつの祖父は江戸幕府若年寄の永井尚志 [16][19]。なお、永井岩之丞の同僚・柳田直平の養子が柳田国男で、平岡定太郎と同じ兵庫県出身という縁もあった柳田国男は、なつの家庭とは早くから交流があった[21]

作家・永井荷風の永井家と祖母・夏子の実家の永井家は同族(同じ一族)になる。夏子の9代前の祖先永井尚政の異母兄永井正直が荷風の12代前の祖先にあたる[22]。父・の風貌は荷風と酷似していて、公威は父のことを陰で「荷風先生」と呼んでいた。ちなみに、祖母・夏子は幼い公威を「小虎」と呼んでいた[19][23][17]

祖父、父、そして息子の三島由紀夫と、三代に渡って同じ大学の学部を卒業した官僚の家柄であった。江戸幕府の重臣を務めた永井尚志の行政・統治に関わる政治は、三島家の血脈や意識に深く浸透したのではないかと推測される[3]

幼少年期――詩を書く少年[編集]

三島6歳。初等科入学の頃(1931年4月)

公威と祖母・夏子とは、学習院中等科に入学するまで同居し、公威の幼少期は夏子の絶対的な影響下に置かれていた[24]。公威が生まれて49日目に、「二階で赤ん坊を育てるのは危険だ」という口実の下、夏子は公威を両親から奪い自室で育て始め[14]、母・倭文重授乳する際も、夏子が懐中時計で時間を計った[16]坐骨神経痛の痛みで臥せっていることが多い夏子は、家族の中でヒステリックな振舞いに及ぶこともたびたびで、行儀作法も厳しかった[24][16]

公威は物差しはたきを振り回すのが好きであったが没収された[16]。車や鉄砲などの音の出る玩具も御法度で、外での男の子らしい遊びも禁じられた[16][24]。夏子は孫の遊び相手におとなしい年上の女の子を選び、公威に女言葉を使わせた[24][25]。1930年(昭和5年)1月、5歳の公威は自家中毒に罹り、死の一歩手前までいく[14][16]。病弱な公威のため、夏子は食事やおやつを厳しく制限し、貴族趣味を含む過保護な教育をした[14][24]。その一方、歌舞伎谷崎潤一郎泉鏡花などの夏子の好みは[26][27]、後年の公威の小説家および劇作家としての作家的素養を培った[9]

1931年(昭和6年)4月、公威は学習院初等科に入学した。当時の学習院は華族中心の学校ではあったが平民も入学できた。平岡家は定太郎樺太庁長官だった時期に男爵の位を受ける話があったにせよ、平民階級だった。公威を学習院に入学させたのは、大名華族意識のある祖母・夏子の意向が強く働いていたとされ[28]、夏子の伯父・松平頼安上野東照宮社司。三島の小説『神官』『好色』『怪物』『領主』のモデル[29])を保証人とした[28][注釈 3]

しかし華族中心とはいえ、時代の波は満州事変勃発など戦争へ移行してゆき、かつて乃木希典が院長をしていたことのある学習院の気風も質実剛健で硬派が優勢であった[30][31][32]。級友だった三谷信は学習院入学当時の公威の印象について、以下のように述懐している[33]

初等科に入って間もない頃、つまり新しく友人になった者同士が互いにまだ珍しかった頃、ある級友が 「平岡さんは自分の産まれた時のことを覚えているんだって!」と告げた。その友人と私が驚き合っているとは知らずに、彼が横を走り抜けた。春陽をあびて駆け抜けた小柄な彼の後ろ姿を覚えている。

三谷信「級友 三島由紀夫」[33]

公威は初等科1、2年から俳句などを初等科機関誌『小ざくら』に発表し始めた。読書に親しみ、世界童話集、印度童話集、『千夜一夜物語』、小川未明鈴木三重吉ストリンドベルヒ童話北原白秋、フランス近代詩、丸山薫草野心平の詩、講談社少年倶楽部』(山中峯太郎南洋一郎高垣眸ら)、『スピード太郎』などを愛読する[27][34]。自家中毒や風邪で学校を休みがちで、4年生の時は肺門リンパ腺炎を患い、体がだるく姿勢が悪くなり教師によく叱られた[25][16]

初等科3年の時に国語担当の鈴木弘一先生から、作文「ふくろふ」の〈フウロフ、貴女は女王です〉という内容に対し、「題材を現在にとれ」と注意されるなど、国語(綴方)の成績は中程度であった[35]。主治医の方針で日光に当ることを禁じられていた公威は、〈日に当ること不可燃(しかるべからず)〉と言って日影を選んで過ごしていたため、虚弱体質で色が青白く、当時の綽名は「蝋燭」「アオジロ」であった[25][33][36]

初等科6年の時には校内の悪童から、「おいアオジロ、お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」とからかわれているのを三谷信は目撃した[33]。その時、公威は即座にサッとズボンの前ボタンを開けて一物を取り出し、「おい、見ろ見ろ」とその悪童に迫り、それは揶揄った側がたじろく程の偉容で、濃紺の制服のズボンをバックにした一物は、貧弱な体に比べて大きかったという[33]

この6年生の時の1936年(昭和11年)には、2月26日に二・二六事件があった。急遽授業は1時限目で取り止めとなり、いかなることに遭っても「学習院学生たる矜り」を忘れてはならないと先生から訓示を受けて帰宅した[37]。6月には、〈非常な威厳と尊さがひらめいて居る〉と日の丸を表現した作文「わが国旗」を書いた[38]

1937年(昭和12年)、中等科に進んだ4月、両親の転居に伴い、祖母・夏子のもとを離れ、渋谷区大山町15番地(現・渋谷区松濤2丁目4番8号)で両親と妹・弟と暮らすようになった[25]。夏子は、1週間に1度公威が泊まりに来ることを約束させ、日夜公威の写真を抱きしめて泣いた[14]。公威は文芸部に入り、同年7月、学習院校内誌『輔仁会雑誌』159号に作文「春草抄――初等科時代の思ひ出」を発表。自作の散文が初めて活字となった。中等科から国語担当になった岩田九郎に作文や短歌の才能を認められ成績も上がった[16][17]。以後、『輔仁会雑誌』には、中等科・高等科の約7年間(中等科は5年間、高等科の3年は9月卒業)で多くの詩歌や散文作品、戯曲を発表することとなる[35]。11、12歳頃、ワイルドに魅せられ、やがて谷崎潤一郎ラディゲなども読み始めた[34]

7月に支那事変が勃発し、日中戦争となった。この年の秋、8歳年上の高等科3年の文芸部員・坊城俊民と出会い、文学交遊を結んだ[39][40]。初対面の時の公威の印象を坊城は、「人波をかきわけて、華奢な少年が、帽子をかぶりなおしながらあらわれた。首が細く、皮膚がまっ白だった。目深な学帽の庇の奥に、大きな瞳が見ひらかれている。『平岡公威です』 高からず、低からず、その声が私の気に入った」とし、その時の光景を以下のように語っている[39]

「文芸部の坊城だ」 彼はすでに私の名を知っていたらしく、その目がなごんだ。「きみが投稿した詩、“秋二篇”だったね、今度の輔仁会雑誌にのせるように、委員に言っておいた」 私は学習院で使われている二人称“貴様”は用いなかった。彼があまりにも幼く見えたので。… 「これは、文芸部の雑誌“雪線”だ。おれの小説が出ているから読んでくれ。きみの詩の批評もはさんである」 三島は全身にはじらいを示し、それを受け取った。私はかすかにうなずいた。もう行ってもよろしい、という合図である。三島は一瞬躊躇し、思いきったように、挙手の礼をした。このやや不器用な敬礼や、はじらいの中に、私は少年のやさしい魂を垣間見たと思った。

坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」[39]

1938年(昭和13年)1月頃、初めて小説らしい小説「酸模(すかんぽ)――秋彦の幼き思ひ出」を書き、同時期の「座禅物語」などと共に3月の『輔仁会雑誌』に発表された[41]。短編「酸模」は三島の活字となった初めての小説といわれている[42]。この頃、学校の剣道の早朝寒稽古に率先して起床していた公威は、稽古の後に出される味噌汁がうまくてたまらないと母に自慢するなど[16]、中等科に上り徐々に身体も丈夫になっていった[12]。同年10月、祖母・夏子に連れられ、初めて歌舞伎(『仮名手本忠臣蔵』)を観劇した[43][44]。同月には、母方の祖母・橋トミに連れられて、初めて(『三輪』)も観た[43]。この体験以降、公威は歌舞伎や能の観劇に夢中になり[43]、その後17歳から観劇記録「芝居日記」を付け始める[45]

1939年(昭和14年)1月18日、祖母・夏子が潰瘍出血のため、小石川区駕籠町(現・文京区本駒込)の山川内科医院で死去(没年齢62歳)[35]。同年4月、前年から学習院に転任していた清水文雄が国語の担当となり、国文法、作文の教師に加わった。和泉式部研究家でもある清水は三島の生涯の師となり、平安朝文学への目を開かせた[43][46]。同年9月、ドイツフランスイギリスの戦争が始まった(第二次世界大戦の始まり)。

1940年(昭和15年)1月に、後年の作風を彷彿とさせる破滅的心情の詩「凶ごと」を書く[47]。同年、母・倭文重に連れられ、下落合に住む詩人・川路柳虹を訪問し、以後何度か師事を受けた[48][49][50]。倭文重の父・橋健三と川路柳虹は友人でもあった[51]。同年2月に山路閑古主宰の月刊俳句雑誌『山梔(くちなし)』に俳句や詩歌を発表。前年から渾名のアオジロをもじって自ら「平岡青城」の俳号を名乗り、1年半ほどさかんに俳句や詩歌を『山梔』に投稿する[35]

同年6月に文芸部委員に選出され(委員長は坊城俊民)、11月に、堀辰雄の文体の影響を受けた短編「彩絵硝子」を校内誌『輔仁会雑誌』に発表。これを読んだ同校先輩の東文彦から始めて手紙をもらったのを機に文通が始まり、同じく先輩の徳川義恭とも交友を持ち始める[25][27]。東は結核を患い、大森区(現・大田区田園調布3-20の自宅で療養しながら室生犀星や堀辰雄の指導を受けて創作活動をしていた[27]。一方、坊城俊民との交友は徐々に疎遠になっていき、この時の複雑な心情は、後に『詩を書く少年』に描かれ[40]、この頃の詩歌群は「十五歳詩集」として、その後『三島由紀夫選集1 1940-46 花ざかりの森』(新潮社、1957年11月)に収録される。

この少年時代は、ラディゲ、ワイルド、谷崎潤一郎の他、ジャン・コクトーリルケトーマス・マンラフカディオ・ハーンエドガー・アラン・ポーリラダンモオランボードレールメリメジョイスプルーストカロッサニーチェ泉鏡花芥川龍之介志賀直哉中原中也田中冬二立原道造宮沢賢治稲垣足穂室生犀星佐藤春夫堀辰雄伊東静雄保田與重郎梶井基次郎川端康成郡虎彦森鴎外の戯曲、浄瑠璃、『万葉集』『古事記』『枕草子』『源氏物語』『和泉式部日記』なども愛読するようになった[27][25][43][52][53][54]

花ざかりの森――「三島由紀夫」の出発[編集]

1941年(昭和16年)1月21日に父・梓が農林省水産局長に就任し、約3年間単身赴任していた大阪から帰京[35]。相変わらず文学に夢中の息子を叱りつけ、原稿用紙を片っ端からビリビリ破く[12]。公威は黙って下を向いて目に涙をためていた[12][注釈 4]

同年4月、中等科5年に進級した公威は、7月に「花ざかりの森」を書き上げ、国語教師の清水文雄に原稿を郵送し批評を請うた[57]。清水は、「私の内にそれまで眠っていたものが、はげしく呼びさまされ」るような感銘を受け、伊豆修善寺温泉の荒井旅館での編集会議で、日本浪曼派国文学雑誌『文藝文化』の同人たち(蓮田善明池田勉栗山理一)にも読ませた[8]。彼らは、「天才」が現われたことを祝福し合い、その作品を同誌9月号から掲載することを決めた[8][9]

その際、本名「平岡公威」での発表の差し障り(まだ中学生の身であることと、父親の文学活動反対)を鑑み、筆名を使わせることとなり、清水の脳裏に「三島」を通ってきたことと、富士を見て「ゆき」が思い浮かんだ[8]。帰京後、清水が筆名使用を提案すると、公威は当初本名を主張したが受け入れ、「伊藤左千夫(いとうさちお)」のような万葉風の名を希望した[11][58]。結局「由紀雄」とし、「雄」の字が重すぎるとという清水の助言で、「三島由紀夫」となった[8][11][58]

リルケ保田與重郎の影響を受けた「花ざかりの森」は[59]、『文藝文化』昭和16年9月号から12月号に連載された[60]。第1回目の編集後記で蓮田善明は、「この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である」と激賞した[61][注釈 5]。この9月、公威は随想「惟神之道(かんながらのみち)」をノートに記し、〈地上と高天原との懸橋〉の〈神ながらの道〉の根本理念の〈まことごゝろ〉を〈人間本然のものでありながら日本人に於て最も顕著〉だとして、〈豊葦原之邦の創造の精神である〉と、神道への深い傾倒を寄せた[62]

世の情勢は次第にアメリカ列強との全面戦争突入が濃厚となるが、公威は〈もう時期は遅いでせう〉とも考えていた[59]12月8日ハワイ時間:12月7日)、日本はついにアメリカ、イギリスオランダなどの連合国と開戦(真珠湾攻撃)となった(大東亜戦争太平洋戦争)。開戦当日、教室にやって来た馬術部の先輩から、「戦争がはじまった。しっかりやろう」と感激した口ぶりで話かけられ、公威も〈なんともいへない興奮〉にかられた[63]

1942年(昭和17年)1月31日、公威は前年11月から書き始めていた評論「王朝心理文学小史」を学習院図書館懸賞論文として提出(この論文は、翌年1月に入選した。貰った希望賞品は、光吉夏弥編・筑摩書房刊の豪華本『文楽[35])。3月24日、席次2番で中等科を卒業し、4月に学習院高等科文科乙類(独語)に進んだ。公威は、体操物理の「中上」を除けば、極めて優秀な学生であった[35]。運動は苦手であったが、高等科での教練の成績は常に「上」()で[35]、教官から根性があると精神力を褒められたことを、公威は誇りとしていた[12]

ドイツ語ロベルト・シンチンゲルに師事し[36]、他の教師も桜井和市新関良三野村行一(1957年の東宮大夫在職中に死亡)らがいた[64][12]。後年ドナルド・キーンがドイツで講演をした際、会場に居たおじいさん(ロベルト・シンチンゲル)が立ち上がり、「私は平岡君の(ドイツ語の)先生だった。彼が一番だった」と言ったエピソードがあるほど[65]、ドイツ語は得意であった[36][12]

同年4月、大東亜戦争開戦の静かな感動を厳かに綴った詩「大詔」を『文藝文化』に発表[66]。同年5月23日、文芸部委員長に選出された公威は、7月1日に東文彦徳川義恭帝大文学部に進学)と共に同人誌『赤繪』を創刊し、「苧菟と瑪耶」を掲載した[67]。誌名の由来は志賀直哉の『万暦赤繪』にあやかって付けられた[68]。公威は彼らとの友情を深め、病床の東とはさらに文通を重ねた[27][69][注釈 6]。同年8月26日、祖父・定太郎が死亡(没年齢79歳)。公威は詩「挽歌一篇」を作った[70][35]

同年11月、学習院の講演依頼のため、清水文雄に連れられて保田與重郎と対面し、以後何度か訪問する[71][43][72]。公威は保田與重郎、蓮田善明、伊東静雄ら日本浪曼派の影響の下で、詩や小説、随筆を同人誌『文藝文化』に発表し、特に蓮田の説く、「皇国思想」「やまとごころ」「みやび」のに感銘した[73]。公威が「みのもの月」、随筆「伊勢物語のこと」を掲載した昭和17年11月号には、蓮田が「神風連のこころ」と題した一文を掲載。これは蓮田にとって熊本済々黌の数年先輩にあたる森本忠が書いた『神風連のこころ』(国民評論社、1942年)の書評である[74]。後年三島は神風連の地・熊本を1966年(昭和41年)8月に訪れた際、森本忠(熊本商科大学教授)と会うことになる[75][76]

ちなみに三島は35歳の時、〈私は今までの半生で、二回しか試験を受けたことがない。幸いにしてそのどちらも通つた〉と語っていたが[77][注釈 7]、三島の死後村松剛倭文重から聞いた話として、三島が中等科卒業前に一高の入試を受験し不合格となっていたという説もある[82][注釈 8]。しかし、三島が中等科5年時の9月25日付の東文彦宛の書簡には、高等科は文科乙類(独語)にすると伝える記述があり、三島本人はそのまま文芸部の基盤が形成されていた学習院の高等科へ進む意思であったことが示されている[83][注釈 9]。なお、三島が一高を受験したかどうかは、母・倭文重の証言だけで事実関係が不明なため、全集の年譜にも補足として、「学習院在学中には他校の受験はできなかったという説もある」と付記されている[84][注釈 10]

戦時下の青春[編集]

1943年(昭和18年)2月24日、公威は学習院輔仁会の総務部総務幹事となった[86][35]。同年6月6日の輔仁会春季文化大会では、自作・演出の劇『やがてみ楯と』(2幕4場)が上演された(当初は翻訳劇を企画したが、時局に合わないということで山梨勝之進学習院長から許可が出ず、やむなく公威が創作劇を書いた[87][56])。3月から『文藝文化』に「世々に残さん」を発表[88]。同年5月、公威の「花ざかりの森」などの作品集を出版化することを伊東静雄と相談していた蓮田善明は、京都に住む富士正晴を紹介され、新人「三島」に興味を持っていた富士も出版に乗り気になった[89]

同年6月、月1回東京へ出張していた富士正晴は公威と会い、池袋に住む医師詩人林富士馬宅へも連れて行った[90]。それ以降数年間、公威は林と文学的文通など親しく交際するようになった[90][91]。8月、富士が公威の本の初出版について、「ひとがしないのならわたしが骨折つてでもしたい」と述べ[92]、蓮田も、「国文学の中から語りいでられた霊のやうなひとである」と公威を讃えた[93]。そして蓮田は公威に葉書を送り、「詩友富士正晴氏が、あなたの小説の本を然るべき書店より出版することに熱心に考へられ目当てある由、もしよろしければ同氏の好意をうけられたく」と、作品原稿を富士に送付するよう勧めた[94]

日本軍アメリカ軍の戦争が激化し空襲警報が多くなる中、公威は〈アメリカのやうな劣弱下等な文化の国、あんなものにまけてたまるかと思ひます〉[95]、〈米と英のあの愚人ども、俗人ども、と我々は永遠に戦ふべきでせう。俗な精神が世界を蔽うた時、それは世界の滅亡です〉と神聖な日本古代精神の勝利を願った[96]。なお、公威は同盟国イタリアムッソリーニに好感を抱いていながらも、ドイツヒットラーには嫌悪感を持っていた[97][96]

同年10月8日、そんな便りをやり取りしていた東文彦が23歳の若さで急逝。公威は弔辞を奉げた[98][99]。東の死により同人誌『赤繪』は2号で廃刊となった[25]。文彦の父・東季彦によると、三島は死ぬまで、文彦の命日に毎年欠かさず墓前参りに来ていたという[100]。なお、この年に公威は杉並区成宗堀辰雄宅を訪ねているが[101]、堀から〈シンプルになれ〉という助言を受けていた[102]

世情はこの頃、国民に〈儀礼の強要〉をし、戦没兵士の追悼式など事あるごとにオーケストラが騒がしく「海往かば」を演奏し、ラウド・スピーカーで〈御託宣をならべる〉気風であったが[103]、公威はそういった大仰さを、〈まるで浅草あたりの場末の芝居小屋の時局便乗劇そのまゝにて、冒瀆も甚だしく、憤懣にたへません〉と批判し、ただ心静かに〈戦歿勇士に祈念〉とだけ言えばいいのだと友人の徳川義恭へ伝えている[103][注釈 11]

同年10月25日、蓮田善明は召集令状を受け熊本へ行く前、「日本のあとのことをおまえに託した」と公威に言い遺し[17][104]、翌日、陸軍中尉の軍装と純白の手袋をして宮城前の広場で皇居を拝んだ[105][106]。公威は日本の行く末と美的天皇主義(尊皇)を蓮田から託された形となった[105][107][108]。富士正晴も戦地へ向かう出兵前に、「にはかにお召しにあづかり三島君よりも早くゆくことになつたゆゑ、たまたま得し一首をば記しのこすに、 よきひとと よきともとなり ひととせを こころはづみて おくりけるかな」という一首を公威に送った[91]

徴兵検査を受けた加古川公会堂

1944年(昭和19年)4月27日、公威も本籍地兵庫県印南郡志方村村長発信の徴兵検査通達書を受け取り、5月16日、兵庫県加古郡加古川町(現・加古川市)の加古川公会堂(現・加古川市立加古川図書館)で徴兵検査を受けた[35]。公会堂の現在も残る松の下で十(約40キロ)のを入れた米俵を持ち上げるなどの検査もあった[56][51]

本籍地の加古川で徴兵検査を受けたのは、〈田舎の隊で検査を受けた方がひよわさが目立つて採られないですむかもしれないといふ父の入れ知恵〉であったが[14]、結果は第二種で合格となった(召集令状は翌年2月)。級友の三谷信など同級生の大半が特別幹部候補生として志願していたが、公威は一兵卒として応召されるつもりであった[36][14]。それは、どうせ死ぬのならば1日でも長く1行でも多く書いていられる方を平岡が選んだのだと三谷は思った[36]

徴兵検査合格の帰途の5月17日、大阪住吉中学校で教師をしている伊東静雄を訪ね、支那(現・中国)出征前に一時帰郷していた富士正晴宅を一緒に訪ねた[109][17]。5月22日は、遺著となるであろう処女出版本『花ざかりの森』の序文依頼のため、伊東静雄の家に行くが、伊東から悪感情を持たれ、「学校に三時頃平岡来る。夕食を出す。俗人、神堀来る。リンゴを呉れる。九時頃までゐる。駅に送る」などと日記に書かれた[109][110]。しかし、伊東は、のち『花ざかりの森』献呈の返礼で、会う機会が少なすぎた感じがすることなどを公威に伝え[111]、戦後には『岬にての物語』を読んで、公威に対する評価を見直している[109][110][112][注釈 12]

1944年(昭和19年)9月9日、学習院高等科を首席で卒業。卒業生総代となった[113][36]。卒業式に臨席した昭和天皇に初めて接し、恩賜の銀時計を拝受され[12][113]、ドイツ大使からはドイツ文学の原書3冊(ナチスハーケンクロイツ入り)をもらった[113]。御礼言上に、学習院長・山梨勝之進海軍大将と共に宮内参内し、謝恩会で華族会館から図書数冊も贈られた[113]

大学は文学部への進学という選択肢も念頭にはあったものの、父・梓の説得により、同年10月1日、東京帝国大学法学部法律学科(独法)に入学(推薦入学)した[12][35]。そこで学んだ団藤重光教授による刑事訴訟法講義の〈徹底した論理の進行〉に魅惑され、この時修得した法学の論理性が小説や戯曲の創作において極めて有用となり、のちに三島は父・梓に感謝するようになる[114][115]。公威が文学に熱中することに反対し、度々執筆活動を妨害していた父であったが、息子を法学部に進学させたことにより、三島文学に日本文学史上稀有な論理性を齎したことは梓の貢献であった[12][注釈 13]

出版統制の厳しく紙不足の中、〈この世の形見〉として『花ざかりの森』刊行に公威は奔走した[117][58]。同年10月に処女短編集『花ざかりの森』(装幀は友人・徳川義恭が担当)が七丈書院で出版された[58]。公威は17日に届いた見本本1冊をまず、入隊直前の三谷信に上野駅で献呈した[36]。息子の文学活動に反対していた父・梓であったが、いずれ召集されてしまう公威のために、11月11日に上野下谷区池之端(現・台東区池之端)の中華料理店・雨月荘で出版記念会を開いてやり、母・倭文重、清水文雄ら『文藝文化』同人、徳川義恭、林富士馬などが出席した[12][118][35]

書店に並んだ『花ざかりの森』は、当時学生だった吉本隆明芥川比呂志らも買って読み、各高の文芸部や文学青年の間に学習院に「三島」という早熟な天才少年がいるという噂が流れた[56][119][120]。しかし、公威が同人となっていた日本浪曼派の『文藝文化』も、物資不足や硬派的な情勢の流れの中、雑誌統合要請のため8月をもって通巻70号で終刊となっていた[35]

1945年(昭和20年)、戦況が激しくなり大学の授業は中断され、公威は1月10日から「東京帝国大学勤労報国隊」として、群馬県新田郡太田町中島飛行機小泉製作所に勤労動員され、総務部配属となった[17]。事務作業に従事しつつ、公威は小説「中世」を書き続ける[121][43]。以前保田與重郎謡曲文体について質問した際、期待した浪漫主義的答えを得られなかった思いを、「中世」に書き綴ることで、人工的な豪華な言語による絶望感に裏打ちされた終末観の美学の作品化に挑戦し[43]中河与一の厚意により、第1回と第2回の途中までを雑誌『文藝世紀』に発表した[43][122][123]

誕生日の1月14日、思いがけず帰京でき、母・倭文重が焼いてくれたホットケーキを美味しく食べた[124](この思い出は後年、遺作『天人五衰』に描かれることになる)。2月4日に入営通知の電報が自宅へ届いた。公威は〈天皇陛下萬歳〉と終りに記した遺書を書き、遺髪と遺爪を用意した[125][126][12]。中島飛行機小泉製作所を離れることになったが、その直後(公威の入隊検査の10日)、アメリカ軍爆撃機による主要目標となって徹底的な大空襲を受け、多数の動員学生が死亡[17][127]。結果的に応召は三島の罹災を免れさせる結果となった[127]

同年2月6日、髪を振り乱して泣く母・倭文重に見送られ、公威は父・梓と一緒に兵庫県富合村へ出立した[12]。風邪で寝込んでいた母から移ったせいで、気管支炎を起こし眩暈や高熱の症状を出していた公威は10日の入隊検査の折、新米の軍医からラッセルが聞こえるとして肺浸潤と誤診され即日帰郷となった[12][32][128]。その部隊の兵士たちはフィリピンに派遣され、ほぼ全滅した[32]

戦死を覚悟していたつもりが、医師の問診に同調したこの時のアンビバレンスな感情が以後三島の中で自問自答を繰り返す[14]。この身体の虚弱から来る気弱さや、行動から〈拒まれてゐる〉という意識が三島にとって生涯、コンプレックスとなり[129]、国家の命運を決めることとなった戦争に対する自らの消極的な態度が、以降の三島に複雑な思い(特異な死生観や〈戦後は余生〉という感覚など[130])を抱かせることになる[129][110]

梓が公威と共にが自宅に戻ると、一家は喜び有頂天となったが、公威は高熱と旅の疲れで1人ぼんやりとした様子で、「特攻隊に入りたかった」と真面目につぶやいたという[12]。公威はその後4月、三谷信宛てに、〈君と共に将来は、日本の文化を背負つて立つ意気込みですが、君が御奉公をすましてかへつてこられるまでに、僕が地固めをしておく心算です〉と伝え、神風特攻隊についての熱い思いを記した[131]。兵役は即日帰郷となったものの、一時の猶予を得たにすぎず、再び召集される可能性があった[32][2]

公威は、栗山理一を通じ野田宇太郎(『文藝』編集長)と知り合い、戦時下でただひとつ残った文芸誌『文藝』に「サーカス」と「エスガイの狩」を持ち込み、「エスガイの狩」が採用された[132][133]。処女短編集『花ざかりの森』は野田宇太郎を通じ、3月に川端康成に献呈された[134][135]。川端は『文藝文化』の公威の作品群や「中世」を読んでいた[134][43]。群馬県の前橋陸軍士官学校にいる三谷信を、三谷の家族と共に慰問中の3月10日の夜、東京は大空襲に見舞われた(東京大空襲)。焦土と化した東京へ急いで戻り、公威は家族の無事を確認した[12]

1945年(昭和20年)5月5日から、神奈川県高座郡大和の海軍高座工廠に勤労動員された[35]。この頃、『和泉式部日記』『上田秋成全集』『古事記』『日本歌謡集成』『室町時代小説集』などの古典、泉鏡花イェーツなどを濫読した[43]。6月12日から数日間、軽井沢に疎開している恋人・三谷邦子(親友・三谷信の妹。父親はのちに侍従長となる三谷隆信)に会いに行った[32][14]。帰京後の7月、戦禍が悪化し空襲が激しくなる中、公威は遺作となることを意識した「岬にての物語」を書き始めた[136][43]

終戦後の苦悶と焦燥[編集]

1945年(昭和20年)8月6日、9日と相次ぎ、広島長崎原爆が投下された。公威は〈世界の終りだ〉と虚無的な気分になり、わざと上空から目立つ白いシャツを着て歩いた[137][14]。10日、公威は高熱と頭痛のため高座工廠から、一家が疎開していた豪徳寺の親戚の家に帰宅し、梅肉エキスを舐めながら床に伏せった。8月15日、終戦第二次世界大戦が終わった。天皇陛下のラジオの玉音放送を聞き、「これからは芸術家の世の中だから、やっぱり小説家になったらいい」と父・梓が言った[138]

三島19歳。妹・美津子16歳と(1944年9月9日、学習院卒業式の後)

公威が私淑していた蓮田善明マレー半島陸軍中尉として終戦を迎え、同年8月19日に駐屯地のマレー半島ジョホールバルで、天皇を愚弄した連隊長・中条豊馬大佐を軍用拳銃で射殺し、自らもこめかみに拳銃を当て自決した(没年齢41歳)[106][105]。翌年の1946年(昭和21年)11月17日に成城大学素心寮で行われた「蓮田善明を偲ぶ会」に出席した公威は、〈古代の雪を愛でし 君はその身に古代を現じて雲隠れ玉ひしに われ近代に遺されて空しく 靉靆の雪を慕ひ その身は漠々たる 塵土に埋れんとす〉という詩を、亡き蓮田に献じた[139][108]

公威は8月に三谷信への手紙で戦後への決意として、〈自分一個のうちにだけでも、最大の美しい秩序を築き上げたいと思ひます。戦後の文学、芸術の復興と、その秩序づけにも及ばず乍ら全力をつくして貢献したい〉と綴り[140]、9月の自身のノートには「戦後語録」として、〈日本的非合理の温存のみが、百年後世界文化に貢献するであらう〉と記した[141]

1945年(昭和20年)10月23日、妹・美津子腸チフス(菌を含んだなま水を飲んだのが原因)により、17歳の若さで急逝[142][12]。公威は号泣した[142][143]。同年11月末か12月頃公威は、戦争中から交際し結婚を逡巡していた三谷邦子が、銀行員永井邦夫(父は永井松三)と婚約したことを知った[142][144][注釈 14]

翌年の1946年(昭和21年)5月5日に邦子と永井は結婚。公威はこの日、自宅で泥酔していた[101]。恋人を横取りされる形になった公威にとり、〈妹の死と、この女性の結婚と、二つの事件が、私の以後の文学的情熱を推進する力〉になっていった[142]。邦子の結婚後の同年9月16日、公威は偶然、邦子と道で会った。このときのことを公威はノートに記した。

偶然邦子にめぐりあつた。試験がすんだので友達をたづね、留守だつたので、二時にかへるといふので、近くをぶらぶらあてどもなく歩いてゐた時、よびとめられた。彼女は前より若く却つて娘らしくなつてゐた。(中略) その日一日僕の胸はどこかで刺されつゞけてゐるやうだつた。前日まで何故といふことなく僕は、「ゲエテとの対話」のなかの、彼が恋人とめぐりあふ夜の町の件を何度もよんでゐたのだつた。それは予感だ。世の中にはまだふしぎがある。そしてこの偶然の出会は今度の小説を書けといふ暗示なのか? 書くなといふ暗示なのか?

平岡公威「ノート(昭和21年)」[145]

この邦子とのことは、のちの自伝的小説『仮面の告白』の中で詳しく描かれることになる[145]

文壇デビューと『仮面の告白』[編集]

1946年(昭和21年)1月27日、鎌倉に在住していた川端康成のもとを三島は始めて訪問し、『中世』、『煙草』の原稿を渡す。それは、野田宇太郎の紹介状を持参した訪問だったが、野田は当時を次のように語っている。「君は文学者になりたいのか、文壇人になりたいのかと言ったら、"有名な作家になりたい"と来るんだよ。まだ学生で一本立ちしてないのに、最初から有名な作家になるつもりで、僕を利用するために来ていたのかと怒ったら、だいぶこたえたようだった。川端さんのところへ行った折に"こういう人間が来るから"と言っておいたら彼は訪ねて行った。そして、川端さんに庇護されて、どんどん翼を伸ばして行った」 しかし、野田の知らないところで、三島と川端との繋がりはそれ以前の学習院在学中の頃からあった。三島の母・倭文重によると、1943年(昭和18年)、三島の同人誌での詩や短編を読んだ川端から突然、手紙(宛名は平岡公威)が来て、三島は、「名もない僕に大作家の川端さんが、お手紙を下さるなんて天にも昇る気持だ」と大喜びし、はしゃいでいたという。翌年の1944年(昭和19年)、『花ざかりの森』出版まで、2・3度手紙をやりとりし、三島は本ができあがると、川端に贈呈した。誰の紹介状もなくとも、1946年(昭和21年)1月27日に川端宅を初訪問してもよかったが、慎重深く礼儀を重んじる三島は、野田宇太郎の紹介状を持って訪問したという[146]

当時、鎌倉文庫の幹部であった川端は、雑誌『人間』(編集長:木村徳三)に『煙草』の掲載を推薦した。これが文壇への足がかりとなり、以来、川端とは生涯にわたる師弟関係となる(ただし三島自身は終生、川端を「先生」とは絶対に呼ばず、「川端さん」と呼ぶことに固執していた)。敗戦後、川端が、「私はこれからもう、日本の悲しみ、日本の美しさしか歌ふまい」と言った言葉は、三島の心に、「一管の笛のなげきのやうに聴かれて胸を搏つた」という[147]。同年6月、『煙草』は発表されたが、三島は大学の勉強と執筆活動をする中、高等文官試験を受けるか文筆で立つか悩む。同年11月、敗戦前後に渡って書き綴られた『岬にての物語』が文芸雑誌『群像』に、12月には『中世』全編が雑誌『人間』に掲載される。ある日、木村徳三は、三島と帝大図書館前で待ち合わせ一時間ほど雑談した際、講義に戻る三島を好奇心から、あとをつけて教室を覗いたという。その様子を木村は、「三島君が入った二十六番教室をのぞいてみると、真面目な優等生がするようにあらかじめ席をとっておいたらしい。教壇の正面二列目あたりに着席する後姿が目に入った。怠け学生だった私などの考えも及ばぬことであった」と述べている[148]

1946年(昭和21年)12月14日、三島は紺の着物にを身につけ、矢代静一と一緒に、太宰治亀井勝一郎を囲む集いに参加した。この時、三島は太宰に対して面と向かって、「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」と言い切った。この三島の発言に対して太宰は虚を衝かれたような表情をして誰へ言うともなく、「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と答えたという[43]

1947年(昭和22年)6月27日、『新夕刊』で林房雄と出会う。三島は林に好感を持ち、以後、親交を持つようになる。林への書簡で自身の文学論や、高見順ら左翼的文壇への憤慨などを吐露する(後年、三島は『林房雄論』(1963年)を書き、また林との対談『対話・日本人論』(1966年)、『現代における右翼と左翼』(1969年)も実現する)。同年7月、日本勧業銀行の入行試験を受験する。論文や英語などの筆記試験には合格したが、健康上の理由により面接で不採用となった。この頃、加藤周一福永武彦中村真一郎窪田啓作らのマチネ・ポエティックの人々と交流を持つ。しかし、その批評活動のあからさまなフランス臭に、「フランスはフランス、日本は日本じゃないか」[43] と反感をおぼえる。

1947年(昭和22年)11月28日、東京大学法学部法律学科卒業(同年9月に東京帝国大学から名称変更)。同年12月13日、高等文官試験に合格する(成績は合格者167人中138位)。一時宮内省入省の口利きがあったが、結局は父の強い勧めにより同月24日、大蔵省事務官に任官され、銀行局国民貯蓄課に勤務する(銀行局長に愛知揆一主計局長に福田赳夫がいた)。同じく学習院から東大を経て大蔵省入りした先輩に橋口収、入省同期に長岡實がいる。同月、初の長編『盗賊』の第2章が発表される。入省以降も小説家としても旺盛な創作活動を行う。一方、この頃の心境を、三島は『私の遍歴時代』の中で、「せつせと短編小説を書き散らしながら、私は本当のところ、生きてゐても仕様がない気がしてゐた。ひどい無力感が私をとらえてゐた。(中略)私は自分の若さには一体意味があるのか、いや、一体自分は本当に若いのか。といふやうな疑問にさいなまれた」[43] と記している。

1948年(昭和23年)6月、雑誌『近代文学』の第2次同人拡大の際し参加。この第2次参加の顔ぶれは、椎名麟三梅崎春生武田泰淳安部公房原民喜高橋義孝寺田透船山馨日高六郎中田耕治らがいた。(この件りは『私の遍歴時代』[43] に詳しい)。同年の7月か8月、出勤途中の朝、三島は役所勤めと執筆活動の二重生活による過労のため、渋谷駅のホームから線路に落ちる。事なきをえたが、この事故をきっかけに職業作家になることを、父・平岡梓が許す。同年8月下旬、河出書房の編集者坂本一亀坂本龍一の父)と志邨孝夫が、書き下ろし長篇小説の執筆依頼のために大蔵省の三島を訪ねた。三島は快諾し、「この作品に作家的生命を賭ける」と宣言する。そして、同年9月2日、創作に専念するため大蔵省に辞表を提出し、9月22日、辞令を受け依願退職した。同年11月25日に、三島は『仮面の告白』を起筆する。

1949年(昭和24年)7月5日、書き下ろし長編小説『仮面の告白』(河出書房)が出版される。同性愛を扱った本作はセンセーションを呼び、高い評価を得て作家の地位を確立した。以降、1950年6月30日に書き下ろし長編『愛の渇き』(新潮社)を発表。同年7月 - 12月に、光クラブ事件山崎晃嗣をモデルとした『青の時代』を連載。1951年(昭和26年)1月 - 1953年(昭和28)8月にかけて、『禁色』を発表するなど、戦後文学の旗手として脚光を浴びた。また、その間も数々の短編や、『邯鄲』、『綾の鼓』、『卒塔婆小町』などの戯曲も発表するなど旺盛な活動を見せた。また、1952年(昭和27年)に発表された短編小説『真夏の死』は、のちの1967年(昭和42年)にフォルメントール国際文学賞第2位を受賞することとなる。

1951年12月25日には、朝日新聞特別通信員として約半年間の世界一周旅行へ旅客船で出発した(この世界一周旅行の実現には、父・一高時代の同期である朝日新聞重役の嘉治隆一が尽力した)。ハワイサンフランシスコロサンゼルスニューヨークフロリダマイアミサン・フアンリオ・デ・ジャネイロサン・パウロジュネーブパリロンドンアテネローマを経て、翌年の1952年(昭和27)5月10日、羽田に帰国。このときの世界旅行記は、同年10月5日に紀行文集『アポロの杯』としてまとめられ、朝日新聞社から刊行された。

1953年(昭和28年)3月と、8月 - 9月に、三島は三重県鳥羽港から神島(かみしま)に行く。八代神社、神島灯台、島民の生活、例祭神事、漁港、歴史、漁船員の仕事や生活、台風などについて取材し、翌年の1954年(昭和29年)6月10日、『潮騒』(新潮社)を発表する。ギリシャの古典『ダフニスとクロエ』に着想を得たこの恋愛小説はベストセラーとなり、東宝で映画化された。神島を舞台に選んだ理由を三島は、「日本で唯一パチンコ店がない島だったから」と、大蔵省同期の長岡實に語ったという。『潮騒』は第1回新潮社文学賞を受賞した[注釈 15]

自己改造と『金閣寺』[編集]

三島31歳。石原慎太郎23歳と(1956年2月、銀座6丁目の文藝春秋ビル屋上にて)

世界一周旅行中に三島が発見した「太陽」、「肉体」、「官能」は、以後の作家生活に大きな影響を及ぼすことになる。世界一周旅行後の翌年1953年(昭和28年)、『潮騒』の取材で滞在した神島の島民に、初め三島は、病気療養のために島に来ている人と勘違いされ、「あの青びょうたんみたいな顔の男は誰やろ?体が悪くて養生しに来とるのか」と噂された。島民たちに島の話を聞きながら、熱心にメモをとる痩せた白い肌の三島の姿は、屈強な島の逞しい男達を見慣れている島の女性たちにはかなり珍しかったという。そんな経験や、胃弱や虚弱体質に悩んでいたこともきっかけとなり、1955年(昭和30年)9月、三島は、週刊読売のグラビアに取り上げられていた玉利齊(当時、早稲田大学バーベルクラブ主将。現在は社団法人日本ボディビル協会会長)の写真と、「誰でもこんな身体になれます」というキャプションに惹かれ、早速、編集部に電話をかけ、玉利を紹介してもらい、週3回のボディビルを始めるなど、「肉体改造」に取り組み始める。

最初は自宅の庭に、玉利齋を招き指導を受けていたが、1956年(昭和31年)1月、後楽園ジムのボディビル・コーチ鈴木智雄に会い、弟子入りする。同年3月頃、鈴木が自由ヶ丘にボディビルジムを開き、三島のジム通いが始まった。また同年8月には、自由ヶ丘で知り合った町内会の人に誘われ、自由ヶ丘の熊野神社の夏祭りで、生まれて初めて神輿をかつぐ。元々痩身で虚弱体質の三島であったが、弛まぬ鍛錬で後に知られるほどの偉容を備えた体格となった。最初は10キロしか挙げられなかったベンチプレスも、鍛錬の結果、晩年は90キロを挙上したという[注釈 16]。同年9月には、鈴木の紹介で、日大拳闘部の好意により、小島智雄監督の下、ボクシングの練習も始め、1年ほど続けた(1953年(昭和28年)頃も、三島は安部譲二の紹介でボクシングに挑戦したが、その時はいつもシャドーボクシングだった)。1957年(昭和32年)5月、小島智雄をスパーリング相手に練習を行っている三島を、石原慎太郎が訪ね、8ミリに撮影する。これを観た三島は、「石原慎太郎の八ミリシネにとつてもらひましたが、それをみていかに主観客観には相違があるものかと非常に驚き、目下自信喪失の状態にあります」と記し[150]、以後はもっぱらボクシング観戦の方に回り、何人かの選手のスポンサーになった。

1948年(昭和23年)頃からの友人で作家となる中井英夫が、小学館で『原色百科事典』の編集に携わっていた頃、ボディビルの項目に載せる写真のモデルにならないかと三島に冗談を言い、そのまま忘れていると、次に会った時、三島から妙に声をひそめるようにして、「この間のボディビルの話ねえ、もし本当なら急いでもらえない? オレ、もしかするとまた外国に行かなくちゃならないかも知れないから」と催促された。それは遠慮深く真剣な口調だったので、中井は三島が本気であると感じ、編集部に話を通して実現の運びとなった[151]

三島の同世代の作家には、星新一遠藤周作など比較的長身の者もいたが、三島は身長164センチ(遺体解剖所見では163センチ)と、当時としては平均的であった。ちなみに三島の1941年(昭和16年)4月22日付の身体検査記録表には、「平岡公威 身長162.2センチ、体重44.0キロ」と記録され(このときの成績通知表に記された文部省による全国の同年齢平均標準値は158.8センチ、体重50.0キロとなっている)、1942年(昭和17年)4月13日付の身体検査記録表は、「平岡公威 身長163.1センチ、45.4キロ」と記録され、こちらも同年・同学年の平均値よりは高い数値である[152]。また、現在残っている質問形式の雑誌記事には三島が正直に身長を答えている記載がいくつもある[153][154]

三島30歳(1955年秋、自宅の庭にて)

ボディビルを始めた同年の1955年(昭和30年)11月には、京都に取材に行き、1950年(昭和25年)に起こった、青年僧による金閣寺放火事件を題材にした次回作の執筆にとりかかる。『仮面の告白』から取り入れていた森鴎外的な硬質な文体をさらに鍛え上げ、「肉体改造」のみならず「文体改造」も行った。その双方を磨き上げ昇華した独特の壮麗な文体を確立し、広く高い評価を得たのが、1956年(昭和31年)1月から10月まで雑誌『新潮』に連載された長編小説『金閣寺』である。『金閣寺』は三島文学の代表作となり、第8回読売文学賞も受賞した。

この時期の三島は、1956年(昭和31年)に『永すぎた春』、1957年(昭和32年)に『美徳のよろめき』などのベストセラー小説を多数発表。作品のタイトルのいくつかは流行語(「よろめき」など)にもなり、映画化作品も多数にのぼるなど、文字どおり文壇の寵児となる。また同時期には、1955年(昭和30年)に第2回岸田演劇賞を受賞した『白蟻の巣』、1956年(昭和31年)に『鹿鳴館』など戯曲発表も旺盛に行い、同年、国際的にも評価の高い戯曲集『近代能楽集』(「邯鄲」、「綾の鼓」、「卒塔婆小町」、「葵上」、「班女」から成る[注釈 17])も刊行された。戯曲上演には、文学座をはじめとする劇団で自ら演出、端役出演なども行った。

またこの時期、花嫁候補を探していた三島が、銀座6丁目の小料理屋「井上」の2階で、独身時代の正田美智子(美智子皇后)と見合いを行ったのも、1957年(昭和32年)頃であると考えられている[155][156]。同年の3月15日、三島は母・倭文重とともに、皇后美智子が首席で卒業した聖心女子大学卒業式を参観している。

三島は文学以外の評論や批評を行うことも多く、映画や劇画、時事、風俗などへの多岐にわたる評論もした。1954年(昭和29年)の『ゴジラ』公開当時、多くの文化人が「ゲテモノ映画」と酷評する中、特撮部分だけでなく内容についても「文明批判の見地がある」など高い評価を与えていた。次第にその審美眼は、プロの映画評論家にも一目置かれるようになり、荻昌弘小森和子らと対談などもした。淀川長治は、「ワタシみたいなモンにでも気軽に話しかけてくださる。自由に冗談を言いあえる。数少ないホンモノの人間ですネ。(中略)あの人の持っている赤ちゃん精神。これが多くの人たちに三島さんが愛される最大の理由でしょうネ」と三島について雑誌『平凡パンチ』のインタビューで述べていた[157]。また、SFやSF的なものに関心を寄せ、肯定的な評価をしていた。日本空飛ぶ円盤研究会にも所属し、1957年(昭和32年)6月8日には、日活国際会館屋上での空飛ぶ円盤観測会に初参加した。のちの1962年(昭和37年)には、自らもSF性の強い作品である『美しい星』を発表し、1963年(昭和38年)9月には、SF同人誌『宇宙塵』に寄稿するなどした。また、アーサー・クラークの『幼年期の終り』を絶賛し、「随一の傑作と呼んで憚らない」と評した。劇画については、「平田弘史の時代物劇画がなどに、そのあくまで真摯でシリアスなタッチに、古い紙芝居ノスタルジヤと“絵金”的幕末趣味を発見してゐた」と三島は述べている[158]

世界的評価と『鏡子の家』[編集]

1959年(昭和34年)9月、三島は書き下ろし長篇小説『鏡子の家』を発表する。起稿から約1年半をかけ、『金閣寺』では「個人」を描いたが本作では「時代」を描こうとした野心作だった。三島は『鏡子の家』について、「この小説は、いはゆる戦後文学ではなく、『戦後は終つた』文学だとも云へるだらう。『戦後は終つた』と信じた時代の、感情と心理の典型的な例を書かうとしたのである。(中略)四人の青年が、鏡子といふ巫女的な女性の媒(なかだ)ちによつて、現代の地獄巡りをする。現代の地獄は、都会的でなければならない。おのづからあらゆる挿話が、東京と紐育に集中するのである」[159] と述べた。奥野健男はこの小説を「最高傑作」と評価し、橋川文三も高評価を与えた。だが、平野謙江藤淳は「失敗作」と断じ、世間一般の評価も必ずしも芳しいものではなかった。これは、作家として三島が味わった最初の大きな挫折(転機)だったとされている[注釈 18]。同年1月には、評論『文章読本』を雑誌『婦人公論』に発表。『鏡子の家』執筆中の1958年(昭和33年)7月 - 1959年(昭和34年)11月には、エッセイ『不道徳教育講座』を雑誌『週刊明星』に連載する。また同時期には、公開日記・随筆『裸体と衣裳』(掲載時は「日記」というタイトル)も雑誌『新潮』に連載された。1958年(昭和33年)に発表された戯曲『薔薇と海賊』は、週刊読売新劇賞を受賞した。

その後、文壇の寵児として、1960年(昭和35年)に『宴のあと』(のちフォルメントール国際文学賞第2位受賞)、『百万円煎餅』、『熱帯樹』、『弱法師』、1961年(昭和36年)に『獣の戯れ』、『憂国』、『十日の菊』(第13回読売文学賞戯曲部門賞受賞)、『黒蜥蜴』、1962年(昭和37年)に『美しい星』などを発表、1963年(昭和38年)には『午後の曳航』(のちフォルメントール国際文学賞候補作品)、『雨のなかの噴水』、『』、『喜びの琴』、1964年(昭和39年)は『絹と明察』など、多くの作品を旺盛に発表した。

私生活では、1958年(昭和33年)6月1日に、日本画家・杉山寧の長女・瑤子と結婚。大田区南馬込ビクトリアコロニアル様式の新居を建築し(設計・施工は清水建設)、同年11月からは、ボディビルに加えて、本格的に剣道を始める。この頃には、70キロのバーベルを持ち上げられるようになっていた。翌年の1959年(昭和34年)6月2日には長女・紀子が誕生し、1962年(昭和37年)5月2日には長男・威一郎が誕生した。また、舩坂弘と剣道を通じて交友を持つようになる。

文学活動以外でも、1960年(昭和35年)に、永田雅一肝煎り大映映画からっ風野郎』(増村保造監督)にチンピラやくざ役で主演した。1961年(昭和36年)9月には、写真家・細江英公の写真集『薔薇刑』のモデルとなり、自宅で撮影が行われた。写真発表は翌年1962年(昭和37年)1月に銀座松屋の「NON」展でなされ、その鍛え上げられた肉体を積極的に世間に披露した。写真集『薔薇刑』は、1963年(昭和38年)3月に限定版で刊行された。このような小説家以外での三島の数々の行動に対しては、一部で「露悪的」として嫌悪する見方がある一方、戦後マスメディア勃興期においていち早くマスメディアの効用を積極的に駆使し、いわゆる「マスコミ文化人の先駆」と位置づけて好意的に見る向きもある。だが、三島自身は死の4ヶ月前にサンケイ新聞夕刊で発表した『果たし得てゐない約束―私の中の二十五年』において、「私の中の二十五年間を考へると、その空虚に今さらびつくりする。私はほとんど『生きた』とはいへない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ」と告白している[161]

私生活や多方面の活躍で、その充実ぶりを見せる一方、1961年(昭和36年)2月には、深沢七郎の『風流夢譚』をめぐるいわゆる嶋中事件に関連して右翼から脅迫状を送付され、2ヶ月間警察の護衛を受けて生活することを余儀なくされる。ジョン・ネイスンによると、この時の右翼に対する恐怖感が後の三島の思想を過激な方向に向かわせたのではないか、とする実弟・平岡千之の推測があるとされたが、弟の千之はそのようなことは言っていないと、これを否定した[162]。三島は嶋中事件の起こる2年以上前から剣道を本格的に習い、事件以前に『憂国』も書き上げているので、ジョン・ネイスンの見解は見当違いである。同年3月には、『宴のあと』をめぐり有田八郎から告訴され、同年4月からプライバシー裁判が始まった。三島は1964年(昭和39年)9月に敗訴し、80万円の賠償を求められた(三島側は10月に控訴するが、翌年3月の原告・有田八郎の死去に伴い、のちに遺族と和解成立)。この事件で有田側についた吉田健一と三島は疎遠となった。

劇団「文学座」をめぐっても、様々なトラブルにも見舞われた。1963年(昭和38年)1月、反杉村春子であった福田恆存の裏工作により、芥川比呂志岸田今日子ら29人の劇団員が文学座を脱退し、福田が中心となる「劇団雲」が結成された。三島は新聞に載る直前まで何も知らされていなかった。岸田今日子は、「福田さんに誘われたわたしは 『三島さんが一緒なら』と言った。『もちろん僕から誘います。三島君に言うと直ぐ洩れるから話さないように』と念を押された。(中略)新聞に脱退の記事が出た。三島さんの名前はない。帰京してすぐ三島さんのお家へ行くと、『新聞に出る前の晩に聞かされて、動けると思う?』と言われた。福田さんにだまされたと思ったけれど、どうしようもなかった」と回顧している[163]吉田健一の件と、この一件で、1951年(昭和26年)から続いた「鉢の木会」も自然消滅する。残された三島は文学座の再建に力を注ぐが、同年11月には、『喜びの琴』をめぐり、三島と杉村春子らが対立する文学座公演中止事件(喜びの琴事件)が起こり、再びトラブルが相次いだ。このように、この時期には、安保闘争を経た時代思潮に沿う形でいわゆる「文学と政治」にまつわる事件にも度々関与した。このときはまだ晩年におけるファナティックな政治思想を披瀝するほどの関わりをもつことはなかったが、同年8月には、三島はすでに晩年の自死に通じるような『』を書き上げている。翌年の1964年(昭和39年)初めには、『浜松中納言物語』を読み、『豊饒の海』の構想が具体化して行った。

1963年(昭和38年)10月、三島は『絹と明察』を起筆した。この小説は、『鏡子の家』で描いた「時代」の「青年」から、日本の「家長」というものへテーマを変えた作品だった。三島は『絹と明察』について、「書きたかつたのは、日本及び日本人といふものと、父親の問題なんです。(中略)父親というテーマ、つまり男性的権威の一番支配的なものであり、いつも息子から攻撃をうけ、滅びてゆくものを描かうとしたものです」と述べている[164]。三島は近江絹糸の労働争議(近江絹糸争議)を背景に、伝統的な日本(駒沢)と、西洋かぶれの日本(大槻、岡野)との対立を描くことで、日本の究極の家長とは何かを探ろうとした。この小説の翻訳は当初、ジョン・ネイスンが担当したが、ネイスンは翻訳途中状態でこれを放置し、大江健三郎の翻訳担当に移った。のちネイスンは『絹と明察』の翻訳を三島に断ったが、この非礼に怒った三島とネイスンの関係は感情的もつれを生んだ。三島はネイスンのことを、「左翼に誘惑された与太者」と呼び、ネイスンも米誌に三島の酷評を書いた。『絹と明察』は第6回毎日芸術賞文学部門賞を受賞した。

この時期には、三島文学が翻訳を介しヨーロッパアメリカなどで紹介されるようになり、舞台上演も数多く行われた(世界各国への三島文学紹介者として、アイヴァン・モリスドナルド・キーンエドワード・G・サイデンステッカーなどが著名である)。以降、三島作品は世界的に高く評価されるようになる。国連事務総長だったダグ・ハマーショルドは、1961年(昭和36年)に赴任先で事故死の直前に、『金閣寺』を読了し、ノーベル財団委員宛の手紙で大絶賛したという。また、『真夏の死』、『宴のあと』は、フォルメントール国際文学賞第2位を受賞した。ドナルド・キーンは、「三島以前の日本文学者の翻訳は、特殊に研究している人や関心のある人によって読まれていたが、三島の場合は一般の人達まで興味を持って読まれている。『サド侯爵夫人』は古典劇にも近いために、フランスでは地方の劇場でも上演されている。それは特別な依頼ではなく、見たい人が多いから」としている[165]

二・二六事件と『英霊の聲』[編集]

1965年(昭和40年)4月、三島は短編『憂国』(擱筆・1960年10月)を、自ら脚色・監督・主演・美術・制作する映画『憂国』の撮影に入った。映画『憂国』は、翌年の1966年(昭和41年)1月に、ツール国際短編映画祭劇映画部門第2位となった。日本での一般公開は同年4月からなされ、話題を呼びヒットした。映画『憂国』は、後の自決を予感させるような切腹シーンがあるため、三島の死後の1971年(昭和46年)に瑤子夫人の希望によりネガフィルムが全て焼却され、画質劣悪な海外版以外は現存しないとされてきたが、2005年(平成17年)8月にオリジナルのネガフィルムの発見が報じられた。夫人が死去した数年後に発見されたという。これは、瑤子夫人の要請により上映用フィルムはすべて焼却処分にされたものの、共同製作者・藤井浩明の「ネガフィルムだけはどうか残しておいてほしい」という要望で、瑤子夫人が自宅に密かに保存していたものであった。茶箱の中に、ネガフィルムのほか、映画『憂国』に関するすべての資料が数個のケースにきちんと分類され収められていた。ネガフィルムの存在を半ば諦めていた藤井浩明はそれを発見したとき、「そこには御主人(三島)に対する愛情と尊敬がこめられていた。ふるえるほどの感動に私は立ちつくしていた」[166] と語った。

1966年(昭和41年)5月に剣道4段に合格した三島は、居合(大森流)も始めるようになる。同年6月には、二・二六事件特攻隊の兵士の霊の呪詛を描いた『英霊の聲』を刊行した。この本は、『憂国』、戯曲『十日の菊』と共に、二・二六事件三部作としてまとめられ出版された。三島は後記の「二・二六事件と私」の中で、「……たしかに二・二六事件の挫折によつて、何か偉大な神が死んだのだつた」、「かくも永く私を支配してきた真のヒーローたちの霊を慰め、その汚辱を雪ぎ、その復権を試みようといふ思ひは、たしかに私の裡に底流してゐた。しかし、その糸を手繰つてゆくと、私はどうしても天皇の『人間宣言』に引つかからざるをえなかつた」と述べている[37][注釈 19]

昭和天皇が「人間宣言」したのは、終戦後の1946年(昭和21年)1月1日であった。新聞には天皇とマッカーサーが並ぶ写真が載った。三島はこの時、憤怒する。級友の三谷信はその当時を述懐し、「天皇が人間宣言をなさり、背広姿の御写真が新聞に掲載された時、彼は非常な不満、むしろ忿懣を抱いていた。なぜ衣冠束帯の御写真にしないのかというのである。又、焼跡だらけのハチ公前の広場を一緒に歩いていた時、彼は天皇制攻撃のジャーナリズムを心底から怒り、『ああいうことは結局のところ世に受け入れられるはずが無い』と断言した。そういう彼の言葉には理屈抜きの烈しさがあった。だから、彼は自分が敗戦後、日本の伝統から離れて楽しむうちに、混乱の方が、いつか多数派になったのに驚いたのではないか。美酒の瓶が倒れたように、日本の美質がどんどん流失しているのに気付き慄然としたのではないか。(中略)彼が自分の好きな国々を思いきり歩いて故郷に戻って来た時、心の拠り処の日本の古典は滅びかけていた」と述べている[36]

加藤典洋は、「わたしの考えでは、1966年に書かれた『英霊の聲』は、日本の戦後にとってたぶんもっとも重要な作品の一つである。(中略)わたしは、日本の戦後に三島のような人間がいてくれたことを日本の戦後のために喜ぶ。わたしがこう言ったとしてどれだけの人が同意してくれるかわからないが、彼がいるといないとでは、日本の戦後の意味は、大違いである」と論評している[167]

楯の会と『豊饒の海』[編集]

1965年(昭和40年)2月26日、自らライフワークとした長編四部作『豊饒の海』の第一巻『春の雪』の取材のため、三島は奈良帯解円照寺を1人で訪ねる。『春の雪』は同年9月より雑誌『新潮』で連載開始された(1967年(昭和42年)1月まで)。同年11月には、戯曲『サド侯爵夫人』と、評論・随筆『太陽と鉄』も発表された。また、同年はAP通信ストックホルム発で、三島由紀夫と谷崎潤一郎ノーベル文学賞最終候補の模様と報じ、三島は以降の年も引き続きノーベル文学賞候補として話題に上った。翌年の1966年(昭和41年)には国内のマスコミから受賞を期待され予定談話まで受けたが、受賞者はシュムエル・アグノンネリー・ザックスだった。三島はこのバツの悪い思いの教訓で、その翌年の1967年(昭和42年)には、記者の追跡を避けバンコクへ滞留する。バンコクでの三島を捕まえた特派員の徳岡孝夫は三島に予定談話を頼んだが断られた[155]川端康成がノーベル文学賞を受賞するのは、この翌年の1968年(昭和43年)である。川端は受賞の際の報道陣のインタビューに、「運がよかった」とし、「翻訳者のおかげ」の他に、「三島由紀夫君が若すぎるということのおかげです」と答えた[168]

なお、川端は、その7年前の1961年(昭和36年)5月に、三島にノーベル賞推薦文を依頼し、三島が推薦文を書いていたこともあり[169][170]、実際1961年(昭和36年)にも川端がノーベル文学賞を受賞する可能性があったことが、朝日新聞スウェーデン・アカデミーに対する情報開示で明らかになっている[171][注釈 20]。また、2014年(平成26年)1月2日(日本時間)にノーベル財団から発表された資料により、三島が1963年度のノーベル文学賞の有力候補6人の中に入っていたことが明らかになった[173]。三島は「技巧的な才能」に注目され、受賞に非常に近い位置にいた[174]。候補者6人の中には、サミュエル・ベケットらがおり[173]、三島の他に谷崎潤一郎と川端康成らも名を連ね、日本人4人が候補となっていた[174]。翌1964年度の候補にも同様に三島が入っていた[175]。三島が初めて候補者に名を連ねた1963年度の選考で、委員会から日本の作家の評価を求められていたドナルド・キーンは、実績と年齢順(年功序列)を意識し日本社会に配慮しながら、谷崎、川端、三島の順で当時推薦したが、本心では「三島が現役の作家で最も優れている」と思っていたことを2015年(平成27年)に明かしている[176]

三島は自死の2か月ほど前、「このごろはひとが家具を買いに行くというはなしをきいても、吐気がする」と村松剛に告白したという。村松が、「家庭の幸福は文学の敵。それじゃあ、太宰治と同じじゃないか」と言うと、三島は、「そうだよ、おれは太宰治と同じだ。同じなんだよ」と言い、小市民的幸福を嫌っていたというが[104]、その一方で、1965年(昭和40年)、月刊雑誌の幼稚園特集号を見て編集部に電話を入れ、幼稚園事情に詳しい記者の紹介を依頼し、都内の料理店でその記者と会い、「長男を東大に入れるにはどんなコースがあるか、幼稚園の選び方から教えて欲しい」と40分余りにわたって記者に質問し、真剣にアドバイスを聴き、メモをとった一面もあったという[177]。さらに、三島は家庭的といえる一面は、母に対する愛情の濃やかさにも顕れ、『愛の渇き』と『仮面の告白』の著作権を自分の死後、母に譲渡する内容の遺書を作成している。また、自身の死後も、子供たちに毎年クリスマス・プレゼントが届く手配をしていたという[178]伊藤勝彦によると、三島はある種の芸術家にみられるような、家庭を顧みないような人間ではなかったという[179]。また、よく見るお気に入りのテレビ番組は『ウルトラマン』であった[180]

1966年(昭和41年)8月、三島は、『豊饒の海』の第二巻『奔馬』の取材のため、奈良県大神神社[注釈 21]熊本県神風連の地などを訪れ[75]、途中、広島県江田島海上自衛隊第一術科学校にも立ち寄った。この神風連の地への旅について三島は清水文雄への書簡の中で、「天皇の神聖は、伊藤博文の憲法にはじまるといふ亀井勝一郎説を、山本健吉氏まで信じてゐるのは情けないことです。それで一そう神風連に興味を持ちました。神風連には、一番本質的な何かがある、と予感してゐます」[8] と記している。同年10月には、三島は林房雄との対談『対話・日本人論』の中で、藤原定家を書こうと思っていると述べた。また、同月、三島は自衛隊体験入隊を希望し、防衛庁関係者や元陸将藤原岩市などに接触し、体験入隊許可のための仲介や口利きを求める。同年12月、舩坂弘著『英霊の絶叫』の序文を書いた返礼として、舩坂弘から日本刀・関孫六を贈られた。さらに、同月には、小沢開策から『論争ジャーナル』創刊準備をしている青年の話を聞いた林房雄の紹介で、同誌の万代潔が三島宅を訪ねて来る。翌年の1967年(昭和42年)1月、民族派雑誌『論争ジャーナル』が創刊され、編集長・中辻和彦と副編集長・万代潔が三島宅を訪問し、雑誌に寄稿を正式依頼。以降、同グループとの親交を深める。同年4月12日から5月27日まで、三島は単身で自衛隊体験に入隊し、民兵組織による国土防衛の一端を担う祖国防衛隊構想を固め、のち学生らを引き連れた自衛隊体験入隊を定期的に行なった。以降、三島は航空自衛隊ロッキードF-104戦闘機への搭乗体験や、陸上自衛隊調査学校情報教育課長・山本舜勝とも親交し、共に民兵組織(のち「楯の会」の名称となる)会員への指導を行った。

第二巻『奔馬』は、これと平行し1967年(昭和42年)2月から連載開始された(1968年(昭和43年)8月まで)。この小説は、血盟団の時代を背景に昭和維新に賭けた青年の自刃を描き、美意識と政治的行動が深く交錯した作品である。同時期には、政治への傾斜とともに『葉隠入門』、『文化防衛論』などの評論も発表された。特に『文化防衛論』においては、「近松西鶴芭蕉もいない」昭和元禄を冷笑し、自分は「現下日本の呪い手」であると宣言するなど、戦後民主主義への批判を明確にした[182]。同年の3月には、中共に対して『文化大革命に関する声明』を東京新聞川端康成石川淳安部公房と共に発表もした。同年6月、三島は日本空手協会道場に入門。中山正敏日本空手協会首席師範)の下、7月から空手の稽古を始める。同年10月には、戯曲『朱雀家の滅亡』を発表した。翌年の1968年(昭和43年)8月、三島は剣道5段に合格。同年10月5日には、祖国防衛隊の名称を変更し、「楯の会」とした。これは、万葉集防人歌の「今日よりは 顧みなくて大君の 醜の御楯と出で立つ吾は」より由来したものである。同年12月には、戯曲『わが友ヒットラー』を発表した。

1967年(昭和42年)9月から10月に、三島は『豊饒の海』の第三巻『暁の寺』の取材を兼ね、インドタイラオスなどへ旅行。『暁の寺』は、翌年の1968年(昭和43年)9月から連載開始された(1970年(昭和45年)4月まで)。このとき三島が感受したインドにおけるベナレス体験は、『暁の寺』全体にみなぎっている巨大で徒労なニヒリズムに結実した。それは終結部においても、不意にフーガのように作品内に立ち現れてくる[183]。三島は『小説とは何か』の中で[184]、『暁の寺』を脱稿したとき、いいしれぬ不快だったと述べ、「『暁の寺』の完成によつて、それまで浮遊してゐた二種の現実は確定せられ、一つの作品世界が完結し閉ぢられると共に、それまでの作品外の現実はすべてこの瞬間に紙屑になつたのである。私は本当のところ、それを紙屑にしたくなかつた。それは私にとつての貴重な現実であり人生であつた筈だ。しかしこの第三巻に携はつてゐた一年八ヶ月は、小休止と共に、二種の現実の対立・緊張の関係を失ひ、一方は作品に、一方は紙屑になつたのだつた」と述べている。三島はちょうどこの『暁の寺』を執筆中、国際反戦デーの左翼デモ・10.21国際反戦デー闘争 (1969年)に対抗するための自衛隊治安出動と「楯の会」の出番を期待し、それに乗じたクーデターによる憲法改正・自衛隊国軍化を実現する「作品外の現実」に賭けていたのである。しかし、その夢はなくなったのであった。三島は『暁の寺』が未完に終ること、つまり死を賭けたクーデターを実現することを期待していた。

1969年(昭和44年)7月、戯曲『癩王のテラス』(主演は北大路欣也)を発表し上演。三島は、自決の1週間前の清水文雄への書簡の中で、「『豊饒の海』は終りつつありますが、『これが終つたら……』といふ言葉を、家族にも出版社にも、禁句にさせてゐます。小生にとつては、これが終ることが世界の終りに他ならないからです。カンボジアバイヨン大寺院のことを、かつて『癩王のテラス』といふ芝居に書きましたが、この小説こそ私にとつてのバイヨンでした」[8] と記している。また、辻井喬によると、『癩王のテラス』の中の台詞、「今の王様にとつては、ただこのお寺の完成だけがお望みなのだ。そしてお寺の名も、共に戦つて死んだ英霊たちのみ魂を迎へるバイヨンと名づけられた。バイヨン。王様はあの目ざましい戦の間に、討死してゐればよかつたとお考へなのだらう」という言葉は、三島自身の心境(生き残ってしまった青年としての自分の思い、戦争で死んだ英霊たちへの鎮魂)が述べられていたという[185]。 同年11月、最後の短編『蘭陵王』と、曲亭馬琴原作の歌舞伎台本『椿説弓張月』(主演は8代目松本幸四郎)を発表する。

1969年(昭和44年)2月11日建国記念の日)に国会議事堂前で決行された憂国烈士江藤小三郎青年の壮絶な自決に三島は大きな衝撃を受け、その青年の行動の〈本気〉に、〈夢あるひは芸術としての政治に対する最も強烈な批評〉を読んだ[186]。同年5月13日には、東大教養学部教室における全共闘主催の討論会に出席し、当時東大の学生であった芥正彦小阪修平らと国家天皇などについて激論を交わした。三島は、「もし君らが、『天皇陛下万歳』と叫んでくれたら、共に戦う事ができたのに、言ってくれないから、互いに“殺す殺す”と言っているだけさ」と、意外な近似の面を覗かせた。その時のやり取りは同年6月に出版された[187]。また、同年6月からは、勝新太郎石原裕次郎仲代達矢らと共演する映画『人斬り』(五社英雄監督)の撮影に入り、三島は薩摩藩田中新兵衛役を演じた。映画は同年8月に封切られた。

1969年(昭和44年)10月、楯の会の運営資金の問題をめぐり、万代潔中辻和彦持丸博(学生長)らが退会した(中辻らが田中清玄に資金を求めていたことで三島と齟齬が生じたという)。それに伴い、森田必勝が楯の会の学生長に任命された。この顛末の後、楯の会結成1周年記念パレードの前々日あたりに、林房雄は三島から電話で、「あなたのお嫌いな連中はもういませんから、安心して見に来てください」と言われたという[188][注釈 22]。一方、村松剛によると、三島は持丸博が退会するときには、「楯の会の仕事に専念してくれれば生活を保証する」と引き止めたが、持丸はこれを断り去っていったという[189]。この時期、持丸は会の事務を手伝っていた松浦芳子と婚約していた。山本舜勝によると、三島は山本に、「男はやっぱり女によって変わるんですねえ」と悲しみと怒りの声でしんみり言ったという[190]

1969年(昭和44年)10月25日、蓮田善明の25回忌に三島は、『蓮田善明全集』の刊行の協力要請を小高根二郎に願い出た[191]。同年11月3日、楯の会結成1周年記念パレードを国立劇場屋上で行なう。三島は、このパレードに川端康成も招待したが断られ、落胆したという。1970年(昭和45年)1月17日、三島は坊城俊民夫妻との会食の席で、「ぼくは五十になったら、定家を書こうと思います。(中略)定家はみずから神になったのですよ。それを書こうと思います」と今後の執筆の抱負を語ったという[192]。同年2月、未知の男子高校生が三島宅を訪れ、「先生はいつ死ぬんですか」と問う。同時期には、徐々にクーデター計画をめぐり山本舜勝と意見が合わなくなり、1970年(昭和45年)4月頃から、三島と森田必勝ら先鋭メンバーが具体的な最終決起計画を練り始める(その経緯や詳細は三島事件を参照のこと)。

1970年(昭和45年)3月頃、三島は村松剛に、「蓮田善明は、おれに日本のあとをたのむといって出征したんだよ」としんみり呟き、また、「『豊饒の海』第四巻の構想をすっかり変えなくてはならなくなってね」とも洩らしたという[104]。三島は、森田必勝らとの決起計画を進める一方、最終巻の取材のため、同年5月に清水港駿河湾、6月に三保の松原に赴き、タイトルも決定し、7月から第四巻『天人五衰』の連載を開始した。同年8月、家族とともに下田に行く。帰京後の同月には、取材のため新富町帝国興信所を訪れた。この頃にはすでに『天人五衰』はほぼ書き上がっていたという。同年9月に評論『革命哲学としての陽明学』を発表。また、同月には対談集『尚武のこころ』を、10月には対談集『源泉の感情』を出版する。

自衛隊突入決行と自決[編集]

バルコニーで演説(1970年11月25日、市ヶ谷駐屯地にて)

1970年(昭和45年)11月25日陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地東部方面総監部の総監室を森田必勝ら楯の会メンバー4名とともに訪れ、面談中に突如益田兼利総監を、人質にして籠城バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起・クーデターを促す演説をした直後に割腹自決した(詳細は三島事件参照のこと)。45歳没。音楽・文芸評論家の高橋英郎柴田勝二は、昭和天皇が摂政に就いた日である11月25日を決行日に選んだのでないかと推測している[193][4]

決起当日の朝、担当編集者(小島千加子)へ間接的に『豊饒の海 第四巻 天人五衰』最終回原稿が渡され[194]、本作が遺作となった。1970年(昭和45年)8月の時点で既に、結末部は脱稿していたが三島は、巻末日付を11月25日と記載した。また、介錯に使われた自慢の名刀「関孫六」は当初白鞘入りだったが、三島が特注の軍刀拵えを作らせそれに納まっていた。事件後の検分によれば、目釘は固く打ち込まれさらに両側を潰し、容易に抜けないようにされていた。刀を贈った友人の舩坂弘は、死の8日前の「三島展」で孫六が軍刀拵えで展示されていたことを聞き、言い知れぬ不安を感じたという[195]

その3日前の11月22日深夜に横尾忠則は三島に電話をしている。当時三島は必ず0時前に帰宅する習慣があり、電話をしたのはやはり午前0時前であった。その日は楯の会のメンバーと5人と、パレスホテル自衛隊市ヶ谷駐屯地乱入のリハーサルを行っていた日であった。そうとは知らず横尾は「こんな雨の中、遅くまでごくろうさんです」といった。この電話で三島は、横尾が担当した『新輯 薔薇刑』の装幀イラストについて話した。横尾は十字架の形に枠取りし、そこにの三島が身体に薔薇を刺され、ヒンズーの神々によって天上へと高く揚げられている情景を描いていた。裸体の背後には魔人たちが大挙して蝟集し蠢く構図だった。三島はこの絵について「これは俺の涅槃像だろう」と言ったが、横尾は「そんなつもりで描いたのではない」と返答するが三島は「俺の涅槃像だ」といって譲らなかった[196]。その他、療養中の横尾を気遣い、「足の病気は俺が治して歩けるようにしてやる」と様々な話をした三島は最後に、「インドは死を学ぶところではない。むしろ生を学ぶところだよ。インドへ行けるものとそうでない者がいて、タイミングもある。君もそろそろインドへ行ってもいいな」といった。三島の死は横尾にインド行きを決意させる[196][197]。それ以前に三島は横尾に、「人間にはインドに行ける者と行けない者があり、さらにその時期は運命的なカルマが決定する」と言っていたという[198]

自決2か月前に、三島と対談した文学仲間だった武田泰淳は、自決の時期は文芸雑誌『』(中央公論社)に、戦中の精神病院を舞台にした長編小説『富士』を連載していた。自決直前の11月20日に脱稿した連載原稿に、三島を彷彿とさせる患者(自分を宮様と自称し、皇族宅に乱入して、「無礼者として殺せ」と要求し、最後は自決する)が描写されていた。担当編集者だった村松友視は、「この発表タイミングでは、『三島事件』をモデルにしたと読者に思われる」と懸念したが、武田はこの偶然に驚き、作品完成後は、「三島のおかげで、この小説を書きあげることができた」と語った[199]。武田泰淳は三島への追悼文で、「息つくひまなき刻苦勉励の一生が、ここに完結しました。疾走する長距離ランナーの孤独な肉体と精神が蹴たてていった土埃、その息づかいが、私たちの頭上に舞い上り、そして舞い下りています。あなたの忍耐と、あなたの決断。あなたの憎悪と、あなたの愛情が。そしてあなたの哄笑と、あなたの沈黙が、私たちのあいだにただよい、私たちをおさえつけています。それは美的というよりは、何かしら道徳的なものです。あなたが『不道徳教育講座』を発表したとき、私は『こんなに生真じめな努力家が、不道徳になぞなれるわけがないではないか』と直感したものですが、あなたには生まれながらにして、道徳ぬきにして生きて行く生は、生ではないと信じる素質がそなわっていたのではないでしょうか。あなたを恍惚とさせようとする『美』を押しのけるようにして、『道徳』はたえずあなたをしばりつけようとしていた」と記した[200]

辞世の句は、「益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜」 、「散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」の2句。自決翌日の11月26日に、自宅書斎で、「限りある命ならば永遠に生きたい. 三島由紀夫」という遺書風のメモが見つかった[17]

翌年の1971年(昭和46年)1月14日府中市多摩霊園の平岡家墓地に遺骨が埋葬された。この日は三島の誕生日でもある。同年1月24日に、築地本願寺告別式(葬儀委員長・川端康成、弔辞・舟橋聖一ほか)が行われ、多くの一般会葬者が参列に来た。戒名は、「彰武院文鑑公威居士」。現在も忌日には、「三島由紀夫研究会」による憂国忌(主に、かつては九段会館、現在は星陵会館)をはじめ、全国各地で民族派運動の諸団体が、追悼慰霊祭を行っている。

また川端康成の養女・政子の夫・川端香男里によると、三島が川端康成に宛てた手紙の最後のものは、自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地から出された鉛筆書きのもので、この手紙は川端康成によって焼却されたという。香男里によると、「文章に乱れがあり、これをとっておくと本人の名誉にならないからすぐに焼却してしまった」という[201]。しかし、これは川端の名誉にならないから焼却されたという見方もある[202]

略年譜[編集]

1925年大正14年)
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1月14日の夜9時に東京市四谷区永住町2番地(現・東京都新宿区四谷4丁目22番)で、父・平岡梓と母・倭文重長男として誕生。本名・平岡公威。本籍地は祖父・平岡定太郎の郷里・兵庫県印南郡志方村上富木119番地(現・兵庫県加古川市志方町上富木)。3月3日頃から祖母・夏子が1階の自室で育て始める。8月に小石川植物園で遊ぶ。
1926年(大正15年・昭和元年) 1歳。1月に祖母の留守中、2階に這い上がろうとして階段から転落。眉間から大量出血し病院に搬送。
1927年(昭和2年) 2歳。1月に母の実家への年始参りで、漢学者の祖父・橋健三運筆を習い書初めをする(以降、幼少時代ほぼ毎年恒例となる)。
1928年(昭和3年) 3歳。2月23日に美津子が誕生。天気の良い日でないと祖母から外出許可が下りず、遊び相手も年上の女の子に限定。この年、スパルタ教育を決行した父に抱かれて新宿蒸気機関車を至近距離で見る。
1929年(昭和4年) 4歳。3月に母に連れられ豊島園に行き、スナップ写真を撮る。この年の秋頃、両親に散歩に連れられ、市ヶ谷刑務所の高い建物に興味を示す。
1930年(昭和5年) 5歳。1月19日に千之が誕生。同月、自家中毒に罹りの一歩手前までいく。に入れる玩具などが用意されたが、医師伯父橋健行が診た際に排尿し、一命をとりとめる。8月22日に祖父・定太郎の銅像樺太神社に建立。祖父母・母らと銅像の前で記念撮影。
1931年(昭和6年) 6歳。4月に学習院初等科に入学。三谷信と級友になる。同月に靖国神社例大祭(以降、毎年初等科恒例行事で参拝)。絵本、世界童話小川未明鈴木三重吉などを愛読。5月に遠足千葉県姉崎に行く。12月に初等科機関誌『小ざくら』(年2回発行)に俳句短歌が初掲載。以降、毎号に習作(俳句・短歌)を発表。初等科低学年時代は風邪のため学校は休みがち。
1932年(昭和7年) 7歳。3月10日に菊池武夫中尉による陸軍記念日の講話を聴く(以降、毎年初等科恒例行事で軍人が招かれる)。5月の江の島行きの遠足を休む。9月13日に乃木希典元学習院長の二十年祭で墓参(以降、毎年初等科恒例行事で乃木神社参拝)。9月17日に学校正堂で本庄繁関東軍司令官による満州事変1周年記念の講話を聴く。11月に遠足で茨城県水戸に行く。12月に上野動物園見学。
1933年(昭和8年) 8歳。2月に川崎市明治製菓の工場見学。同月頃に学校の「旅順池」の渡りっこでが割れ1人だけ池に落下し号泣。小使いさんに救助される。3月に四谷区西信濃町16番地(現・新宿区信濃町8番)へ転居。5月に遠足で立川に行く。8月に祖父母に伴い2、3軒先離れた家に転居。両親・妹弟と別居することになる。11月に遠足で群馬県太田に行く(書生が付添う)。12月24日に学校正堂で皇太子殿下御降誕奉祝式。
1934年(昭和9年) 9歳。5月の筑波山の遠足を体調不良で休む。6月5日に東郷平八郎元帥国葬のため英国大使館向い側に整列して葬送。夏休み中の7月22日に、慕っていた図画教師・大内一二先生が死去。9月に作文「大内先生を想ふ」を書く。11月に遠足で長瀞に行く。12月に肺門リンパ腺を患う。
1935年(昭和10年) 10歳。4月6日に満州国皇帝愛新覚羅溥儀来訪により赤坂離宮前で整列奉迎。4月8日に代々木練兵場で来訪特別観兵式を見学。5月に『世界童話大系 アラビヤン・ナイト』を買ってもらう。同月に遠足で潮来鹿島香取に行く。11月に遠足で日光に行く。
1936年(昭和11年) 11歳。2月26日に二・二六事件が起こり、1時限目で臨時休校。5月に遠足で伊勢奈良京都に行く。6月に作文「我が国旗」を書く。11月に遠足で奥多摩に行く。この年、同級生に「お前の睾丸もアオジロだろうな」とからかわれ、逆に「おい、見ろ」と反撃。
1937年(昭和12年) 12歳。1月に自作の童話・詩集ノート『笹舟』を編む。3月に学習院初等科を卒業。同月に父が欧州遊学。4月に学習院中等科に進学し、文芸部に入部。同月、両親の引っ越しに同伴し、渋谷区大山町15番地(現・渋谷区松濤2丁目4番8号)へ転居。祖父母と離れる。7月に作文「春草抄――初等科時代の思ひ出」を学習院校内誌『輔仁会雑誌』(159号)に発表。以降、毎号に習作(詩歌・散文作品・戯曲)を発表。
8月に母と妹弟と千葉県鵜原海岸に避暑に行く。秋頃に高等科3年の先輩文芸部員・坊城俊民から声をかけられ、交友が始まる。10月に父が農林省営林局事務官に就任し、大阪単身赴任(昭和16年1月まで)。12月頃に自作の詩集ノート『こだま――平岡小虎詩集』などを編む。
1938年(昭和13年) 13歳。3月に初めての小説酸模(すかんぽ)――秋彦の幼き思ひ出」、「座禅物語」、詩篇「金鈴」、俳句を『輔仁会雑誌』(161号)に発表。5月に野外演習で千葉県の上総一宮に行く。10月に祖母に歌舞伎座連れられ、初めての歌舞伎仮名手本忠臣蔵』を観劇。同時期に母方の祖母・橋トミにも連れられ、初めて三輪』を観る。
1939年(昭和14年) 14歳。1月18日に祖母・夏子が潰瘍出血のため死去(没年齢62歳)。3月に戯曲「東の博士たち」、詩篇「九官鳥」を『輔仁会雑誌』(163号)に発表。4月に、前年より成城高等学校(現・成城大学)から学習院に転任していた清水文雄国文法と作文の担当教師となる。以降、生涯にわたる恩師となる。11月頃から俳句創作の際、渾名のアオジロをもじって「平岡青城」を俳号とする。
1940年(昭和15年) 15歳。1月に詩「凶ごと」を書く。2月から山路閑古主宰の月刊俳句雑誌『山梔(くちなし)』に俳句や詩歌をさかんに投稿発表(翌年にかけて)。6月に文芸部委員に選出。11月に小説「彩絵硝子」を『輔仁会雑誌』(166号)に発表。東文彦から初めて手紙をもらい、文通が始まる。同時期に徳川義恭とも交友が始まる。この年、母に連れられ、詩人川路柳虹を訪問。しばらく師事する。
1941年(昭和16年) 16歳。2月19日に東文彦宅を初訪問。5月に修学旅行で伊勢神宮、奈良、京都、舞鶴海軍機関学校、天橋立有馬温泉に行く。6月に野外演習で群馬県相馬ヶ原に行く。7月に「花ざかりの森」を書き上げ、清水文雄に批評を請う。同月に川路柳虹の紹介で萩原朔太郎を訪問。9月に清水の同人月刊誌文藝文化』に「花ざかりの森」を発表(12月まで)。ペンネーム三島由紀夫とする。以降、同誌に同人として小説や随筆、詩歌を発表。12月8日に日米開戦(真珠湾攻撃)。
1942年(昭和17年) 17歳。3月に学習院中等科を卒業(席次は2番)。謝恩会で「謝辞」を読む。同月に父が農林省を退官。日本瓦斯木炭株式会社に天下る。4月に学習院高等科文科乙類(ドイツ語)に入学。同月に詩「大詔」を『文藝文化』に発表。5月に文芸部委員長に選任。7月1日に東文彦徳川義恭と共に同人誌『赤繪』を創刊。創刊号に「苧菟と瑪耶」を発表。
8月26日に祖父・定太郎が死亡(没年齢79歳)。11月に学校講演依頼のため、清水文雄と共に保田與重郎を初訪問。
1943年(昭和18年) 18歳。1月に懸賞論文「王朝心理文學小史」が入選。2月に輔仁会の総務部総務幹事に就任。3月から「世々に残さん」を『文藝文化』に連載(10月まで)。6月6日の輔仁会春季文化大会で創作対話劇『やがてみ楯と』が上演。伊東静雄蓮田善明の導きにより、6月9日に富士正晴神田区の七丈書院で面会。富士を通じて林富士馬とも知り合う。
7月下旬に徳川義恭と共に世田谷区新町志賀直哉を初訪問。10月3日に富士、林と共に佐藤春夫を初訪問。10月8日に東文彦が死去(没年齢23歳)。葬儀弔辞を読む。『赤繪』は2号で廃刊。この年、堀辰雄を訪問。
1944年(昭和19年) 19歳。4月に林富士馬と共に上石神井檀一雄を初訪問。4月27日に徴兵検査通達書を受け取る(発信者は本籍地の兵庫県印南郡志方村村長・陰山憲二)。5月16日に兵庫県加古郡加古川町(現・加古川市)の加古川公会堂(現・加古川市立加古川図書館)で徴兵検査。第二種に合格(召集令状は翌年2月)。その足で翌17日と22日に大阪の伊東静雄を訪問。
8月に『文藝文化』が70号で終刊。同月下旬に三谷信ら友人4人で志賀高原に卒業旅行。9月に学習院高等科を首席で卒業。卒業生総代となり、天皇より恩賜の銀時計を拝受。10月に東京帝国大学法学法律学科(独法)に入学。同月に処女小説集『花ざかりの森』を七丈書院より刊行。12月5日に祖父・橋健三が郷里の金沢で死去(没年齢83歳)。
1945年(昭和20年) 20歳。学徒動員に伴い、1月から「東京帝国大学勤労報国隊」として群馬県新田郡太田町中島飛行機小泉製作所に勤労動員。東矢島寮11寮35号室に入寮。の悪い同学生と2人で総務課調査部文書係に配属。2月に中河与一の厚意で、小説「中世」の第一回、第二回(途中)を『文藝世紀』に発表。2月4日に入営通知の電報を受け取り、出立までに遺書、遺髪、遺爪を用意。
2月10日に兵庫県富合村の高岡廠舎で入隊検査。右肺浸潤の診断が下され即日帰郷栗山理一を通じ、2月22日に 野田宇太郎(『文藝』編集長)を訪問。3月8日に川端康成から来簡。3月9日から群馬県の前橋陸軍士官学校にいる三谷信を慰問。翌3月10日に東京大空襲。4月上旬頃、疎開する佐藤春夫を、林富士馬庄野潤三らと餞別に行く。
5月から神奈川県高座郡大和の海軍高座工廠に勤労動員。高座廠第五工員寄宿舎東大法学部第一中隊第二小隊に入る。6月に工廠内の法学部学生ら東大文化委員による回覧冊子『東雲』が作られ、編集を担当。同月中旬に軽井沢疎開中の三谷邦子(三谷信の妹で恋人)を訪問。邦子と接吻をする。7月頃に庄野潤三島尾敏雄と知り合い、伊東静雄主催の同人誌『光耀』に共に参加。
8月15日に疎開先の豪徳寺の親戚の家で敗戦を迎える。8月19日に蓮田善明が駐屯先のマレー半島ジョホールバルピストル自決(没年齢41歳)。8月下旬に遅れて発行された『文藝』(5・6月合併号)に「エスガイの狩」を発表。初めての原稿料を得る。10月23日に妹・美津子腸チフスのため死去(没年齢17歳)。
1946年(昭和21年) 21歳。1月1日に昭和天皇詔書人間宣言」に憤慨。1月27日に鎌倉市二階堂の川端康成宅を初訪問。以降、長きに亘り師事する。5月5日に三谷邦子が銀行員・永井邦夫と結婚。6月に「煙草」を『人間』に発表。9月16日に邦子と道で偶然出会う。11月17日に「蓮田善明を偲ぶ会」に出席。12月14日に矢代静一と一緒に、太宰治亀井勝一郎を囲む集いに参加。太宰と初めて言葉を交わす。
1947年(昭和22年) 22歳。1月10日に織田作之助が死去(没年齢33歳)。哀惜にたえず翌日梅崎春生と会い、一緒に赤坂書店に行く。4月に「軽王子と衣通姫」を『群像』に発表。6月27日に新橋新夕刊林房雄と会い、以降親交を持つ。7月に日本勧業銀行の第一次試験に合格するも面接で不採用。11月に東京大学法学部法律学科卒業。同月に短編集『岬にての物語』を桜井書店より刊行。
12月に「自殺企図者」(『盗賊』第2章の改題前)を『文学会議』に発表(以降、翌年にかけ各章が各誌に分載)。12月13日に高等文官試験合格。12月24日に大蔵省に初登庁。大蔵事務官に任官され、銀行局国民貯蓄課に勤務。
1948年(昭和23年) 23歳。3月に随筆「重症者の兇器」を『人間』に発表。6月13日に太宰治玉川上水入水自殺(没年齢38歳)。6月に『近代文学』の第二次同人となる。7月下旬から8月頃、作家活動と官僚の二重生活の過労で出勤途中に渋谷駅ホームから線路に転落。8月下旬頃、河出書房坂本一亀らが書き下ろし長編の執筆依頼に大蔵省仮庁舎を来訪。
9月2日に大蔵省に辞表を提出し、9月22日に依頼退職。10月に河出書房の杉森久英企画の雑誌『序曲』の同人(椎名麟三武田泰淳梅崎春生野間宏船山馨中村真一郎寺田透島尾敏雄埴谷雄高)に参加。同月に国際乗馬倶楽部に入会。7年ぶりに乗馬をする。11月に全5章から成る初の長編『盗賊』を真光社より刊行。12月に短編集『夜の仕度』を鎌倉文庫より刊行。同月に同人誌『序曲』が創刊(1号で終刊)。
1949年(昭和24年) 24歳。2月に戯曲『火宅』が俳優座創作劇研究会により初演。7月に書き下ろし長編『仮面の告白』を河出書房より刊行。8月に作品集『魔群の通過』を河出書房より刊行。同月に舟橋聖一主宰の「伽羅(きあら)の会」に参加。10月に大阪府豊中市へ取材旅行。11月24日に光クラブ事件の山崎晃嗣が服毒自殺(没年齢26歳)。12月12日に徳川義恭が死去(没年齢28歳)。
1950年(昭和25年) 25歳。1月から「純白の夜」を『婦人公論』に連載(10月まで)。2月に小田切秀雄から共産党入党を勧誘される。6月に書き下ろし長編『愛の渇き』を新潮社より刊行。7月2日に金閣寺放火事件が起こる。同月から「青の時代」を『新潮』に連載(12月まで)。同月に執筆のため箱根町強羅に行く。
8月1日に目黒区緑ヶ丘2323番地(現・緑が丘1丁目17-24)へ転居。同月に岸田国士提唱の「雲の会」発足に小林秀雄福田恆存らと参加。12月に能楽を戯曲化した初作『邯鄲』がテアトロ・トフンにより初演。
1951年(昭和26年) 26歳。1月から「禁色」(『禁色』第一部)を『群像』に連載(10月まで)。6月に初の評論集『狩と獲物』を要書房より刊行。7月に三島ファン福島次郎瀬戸内晴美が来訪。11月に文藝春秋祭の文士劇父帰る』に出演(弟・新二郎役)。12月25日に朝日新聞特別通信員として横浜港からハワイに向け初の世界旅行に出帆(翌年5月まで)。
1952年(昭和27年) 27歳。2月に近代能楽3作目の『卒塔婆小町』が文学座により初演。3月にパリにて50万円分のトラベラーズチェック詐取に遭う。日本人経営の宿・ぼたんやに移り、木下恵介佐野繁次郎黛敏郎と知り合う。最終訪問地ローマから5月10日に日本に帰着。6月に林房雄夫人・繁子の通夜の席で、川端康成の養女政子との結婚を秀子夫人に切り出すが断られる。
8月から「秘楽」(『禁色』第二部)を『文学界』に連載(翌年8月まで)。10月に世界旅行記『アポロの杯』を朝日新聞社より刊行。11月20日に文藝春秋祭の文士劇『弁天娘女男白浪・浜松屋店先の場』に出演(浜松屋番頭・由兵衛役)。この頃から中村光夫福田恆存吉田健一大岡昇平らの「鉢の木会」に参加。
1953年(昭和28年) 28歳。2月に作品集『真夏の死』を創元社より刊行。3月と8月、9月に神島へ取材旅行。3月12日に伊東静雄が死去(没年齢46歳)。5月28日に堀辰雄が死去(没年齢48歳)。12月3日に文藝春秋祭の文士劇『仮名手本忠臣蔵(討入りの場、引上げの場)』に出演(磯貝十郎左衛門役)。12月22日に加藤道夫縊死自殺(没年齢35歳)。加藤宅へ駆けつける。
1954年(昭和29年) 29歳。3月5日に岸田国士が死去(没年齢63歳)。6月に書き下ろし長編『潮騒』を新潮社より刊行。この作品で第1回新潮社文学賞受賞(決定は10月)。同月に「伽羅の会」を脱退。8月に中村歌右衛門楽屋で後藤貞子と出逢う。その後交際を開始。10月に短編集『鍵のかかる部屋』を新潮社より刊行。同月に須田貝ダム奥只見ダムへ取材旅行。
11月に創作歌舞伎『鰯売恋曳網』が歌舞伎座で初演。同月29日に文藝春秋祭の文士劇『御所五郎蔵五条坂出会いの場』に出演(五郎蔵の子分・平平役)。
1955年(昭和30年) 30歳。1月から「沈める滝」を『中央公論』に連載(4月まで)。7月に作品集『ラディゲの死』を新潮社より刊行。7月22日に田中澄江と「宗谷」に乗り、横浜港外での海上保安庁の観閲式に出席。9月からボディビルを始める(生涯にわたり継続)。10月に『白蟻の巣』が劇団青年座により初演。この作品で第2回岸田演劇賞受賞(決定は翌年1月)。
11月1日に文藝春秋祭りの文士劇『屋上の狂人』に出演(弟・末次郎役)。同月に金閣寺南禅寺東舞鶴へ取材旅行。同月に日記風随筆『小説家の休暇』を講談社より刊行。
1956年(昭和31年) 31歳。1月から「金閣寺」を『新潮』に連載(10月まで)。この作品で第8回読売文学賞受賞(決定は翌年1月)。2月に石原慎太郎と初対面。3月に文学座へ入座。同月7日に金閣寺放火犯・林養賢が死去(没年齢26歳)。同月17日に奥野健男の『太宰治論』出版記念会の二次会で北杜夫と出逢う。同月23日に自宅で「永すぎた春」執筆中の姿を写真家・林忠彦が撮影。4月に『近代能楽集』を新潮社より刊行。
この頃、「日本空飛ぶ円盤研究会」に入会(会員番号は12番)。6月に作品集『詩を書く少年』を角川書店より刊行。8月に自由が丘熊野神社夏祭りで初めて神輿をかつぐ。9月中旬からボクシングを始める(翌年6月頃まで)。11月に『鹿鳴館』が文学座により初演。東京公演で連日大工植木職人役で出演。同月に初の英訳『潮騒』が米国で刊行。
1957年(昭和32年) 32歳。1月から自伝エッセイ「わが思春期」を『明星』に連載(9月まで)。3月にラシーヌ原作『ブリタニキュス』の修辞脚色劇を文学座が初演。東京公演千秋楽衛兵役で出演。この作品で第9回毎日演劇賞劇団賞を受賞(決定は翌年4月)。同月に母と共に聖心女子大学卒業式を参観。この年、同校の正田美智子と歌舞伎座で観劇し、銀座6丁目の割烹「井上」の2階でお見合い
4月から「美徳のよろめき」を『群像』に連載(6月まで)。5月に後藤貞子と別離。6月に日活国際会館屋上での「日本空飛ぶ円盤研究会」主催のUFO観測会に参加。7月からクノップ社の招きで渡米(年末まで)。同月にノーマン・メイラーに会う。12月14日にニューヨークでのジャパン・ソサエティーのパーティーで、夫に伴い現地駐在中の永井邦子と偶然再会。
1958年(昭和33年) 33歳。1月にマドリードローマ経由で日本に帰国。1月に短編集『橋づくし』を文藝春秋新社より刊行。3月に勝鬨橋晴海を取材。4月13日に杉山瑤子(画家杉山寧の娘)と銀座でお見合い。同月20日に吉田健一、アイヴァン・モリスと共に、来日中のスティーブン・スペンダーを夕食に招く。6月1日に杉山瑤子と結婚し、明治記念館で挙式(媒酌人は川端康成夫妻)。本籍を目黒区に移籍。同月に箱根、熱海、京都、大阪、別府博多へ新婚旅行。
7月に『薔薇と海賊』が文学座により初演。この作品で週刊読売新劇賞受賞(決定は12月)。同月からエッセイ「不道徳教育講座」を『週刊明星』に連載(翌年11月まで)。10月に雑誌『声』(丸善出版)を創刊し、執筆中の「鏡子の家」第1章と第2章途中までを掲載。11月下旬から本格的に剣道を始める。同月29日に文藝春秋祭の文士劇『助六』に出演(髭の意休役)。12月に、ナビゲーターの作家役で2カット出演の映画『不道徳教育講座』の撮影(封切は翌年1月8日)。
1959年(昭和34年) 34歳。1月に富士山麓青木ヶ原樹海へ取材旅行。4月10日に皇太子ご結婚祝賀演奏会に出席。5月3日に大田区馬込東1丁目1333番地(現・南馬込4丁目32-8)の新築の邸宅へ転居。6月2日に長女紀子が誕生。8月から小高根二郎が『果樹園』に連載開始した「蓮田善明とその死」を読む(以降、最終回の昭和43年11月まで)。9月14日に来日中のテネシー・ウィリアムズと対談。
9月に書き下ろし長編『鏡子の家』第一部(上巻)・第二部(下巻)を新潮社より刊行。11月に日記『裸体と衣裳』を新潮社より刊行。同月28日に文藝春秋祭の文士劇『弁天娘女男白浪』に出演(弁天小僧菊之助役)。12月16日にテレビ番組『スター千一夜』に出演。
1960年(昭和35年) 35歳。1月から「宴のあと」を『中央公論』に連載(10月まで)。同月24日にニューヨークCBSのテレビ番組『Twentieth Century』に出演。2月から、主演を務める大映映画『からっ風野郎』(増村保造監督)の撮影(封切3月23日)。3月1日の西銀座デパート内での撮影でエスカレーターに頭部を強打し、虎の門病院に10日間入院。4月にワイルド原作(訳・日夏耿之介)『サロメ』の脚色劇を文学座が初演。5月23日に自宅屋上にて早朝UFOを妻と目撃。
6月18日に日米安保条約反対の国会周辺デモを見学。8月に浜松航空自衛隊浜名湖西伊豆安良里田子)へ取材旅行。11月から夫人同伴で世界旅行に渡航(翌年1月まで)。同月にロサンゼルスディズニーランドに行く。フォービアン・バワーズ宅でグレタ・ガルボに会う。12月にパリで憧れのジャン・コクトーと初対面。同月にロンドンアーサー・ウェイリースティーブン・スペンダーと会う。
1961年(昭和36年) 36歳。1月に「憂国」を『小説中央公論』に発表。同月にローマでジョヴァンニ・アルディニにアポロ像の作製を依頼。香港を最後に1月20日に日本に帰国。2月に深沢七郎の小説『風流夢譚』を巡る嶋中事件に巻き込まれ、右翼から強迫。3月15日に『宴のあと』のモデル問題で有田八郎からプライバシー侵害だと提訴。4月23日に剣道初段合格。5月に川端康成に依頼された英文のノーベル文学賞推薦文を送る。
6月から「獣の戯れ」を『週刊新潮』に連載(9月まで)。9月から写真家細江英公の被写体となる(昭和38年3月に『薔薇刑』として刊行)。同月に米誌『ホリデイ』に招かれ、サンフランシスコでの日本シンポジウムに出席。「Japanese Youth(日本の青年)」と題し講演。ABCテレビインタビューを受ける。11月に「鉢の木会」を脱会。同月に『十日の菊』が文学座により初演。この作品で第13回読売文学賞戯曲賞受賞(決定は翌年1月)。
12月にパリの雑誌『エクスプレス』が小説『金閣寺』を紹介。同月に金沢へ取材旅行。
1962年(昭和37年) 37歳。1月から「美しい星」を『新潮』に連載(11月まで)。3月に『黒蜥蜴』がプロデューサー・システムにより初演。3月5日にハリー・マーティンソンの希望でスウェーデン参事官邸に川端康成、大岡昇平、伊藤整石川淳ら約20名と共に招かれる。5月2日に長男威一郎が誕生。7月に運転免許取得。7月20日に、6月から度々面会強要していた24歳青年が三島宅の住居侵入現行犯で逮捕。9月に横浜港三井船舶貨物船を取材。
12月22日に知人らを招いて自宅でクリスマスパーティーを開催(昭和40年まで毎年続く)。
1963年(昭和38年) 38歳。1月14日に文学座から芥川比呂志岸田今日子ら29人の劇団員が脱退。福田恆存を中心とする「劇団雲」が結成され、三島はとり残される。同月から「私の遍歴時代」を『東京新聞』に連載(5月まで)。3月24日に剣道二段に合格。6月に川端康成、谷崎潤一郎、伊藤整、大岡昇平、高見順ドナルド・キーンらと共に中央公論社の『日本の文学』編集委員となる。8月に彦根近江八景へ取材旅行。
9月に書き下ろし長編『午後の曳航』を講談社より刊行。11月に杉村春子らの出演拒否により『喜びの琴』が上演中止になり、三島は文学座を退団(喜びの琴事件)。12月に短編集『』を講談社より刊行。同月にスウェーデン有力紙の特集「世界の文豪」の中に入る。
1964年(昭和39年) 39歳。1月から「絹と明察」を『群像』に連載(10月まで)。この作品で第6回毎日芸術賞受賞(決定は翌年1月)。同月10日に、文学座を一緒に脱退したメンバーと「劇団NLT」を結成。3月22日に剣道三段に合格。5月6日に佐藤春夫が死去(没年齢72歳)。告別式に行く。5月に『宴のあと』が1964年フォルメントール国際文学賞第2位受賞。『金閣寺』も第4回国際文学賞で2位受賞。8月に伊豆下田へ家族旅行(以降、毎年恒例となる)。
9月28日に「宴のあと」裁判第一審で敗訴。10月に東京オリンピックの新聞特派員記者として連日取材活動。
1965年(昭和40年) 40歳。2月から京都、奈良の圓照寺へ取材旅行。3月4日に有田八郎が死去(没年齢80歳)。同月にブリティッシュ・カウンシルの招待で渡英。ダフ・クーパー賞を受賞したアイヴァン・モリスを祝う。マーゴ・フォンテインエドナ・オブライエン、アンガス・ウィルソンらと会う。4月に村松剛佐伯彰一らの復刊雑誌『批評』の同人となる。
4月30日に短編映画『憂国』完成(封切は翌年4月)。この作品でツール国際短編映画祭劇映画部門第2位受賞(決定は翌年1月)。7月30日に谷崎潤一郎が死去(没年齢79歳)。9月から「春の雪豊饒の海 第一巻)」を『新潮』に連載(昭和42年1月まで)。同月から夫人同伴で米国、欧州、東南アジアカンボジアへ取材旅行(11月まで)。10月にノーベル文学賞最終候補と報じられる。
11月から「太陽と鉄」を『批評』に連載(昭和43年6月まで)。同月に『サド侯爵夫人』が劇団NLTにより初演。この作品で第20回文部省芸術祭賞受賞(決定は翌年1月)。同月から居合抜きを習い始める。
1966年(昭和41年) 41歳。1月31日に国会議員と剣道の親善試合。橋本龍太郎と対戦し引き分ける。2月11日に建国記念日祝賀行進に参加。5月29日に剣道四段に合格。6月に「英霊の聲」を『文藝』に発表。6月30日にビートルズ初日公演を観る。同月下旬にファンの青年が窓ガラスを割って三島宅に侵入。7月9日に丸山明宏のチャリティーリサイタルに出演。自作詞の歌を熱唱。同月に芥川賞選考委員となる(第55回から昭和45年度上半期・第63回まで)。
8月に大神神社広島江田島海上自衛隊第一術科学校熊本神風連の地へ取材旅行。清水文雄荒木精之、森本忠、蓮田善明未亡人と面会。日本刀を購入。9月に米誌『ライフ』が三島を特集。10月に自衛隊体験入隊を希望し、防衛庁関係者らに依頼。11月11日に両陛下主催の秋の園遊会に招待され出席。11月25日に有田八郎遺族と裁判和解成立。
12月頃に舩坂弘から序文の礼として日本刀・関孫六をもらう(贋物をつかまされたという説もあり)。同月に雑誌『論争ジャーナル』創刊準備中の万代潔林房雄の紹介で来訪。
1967年(昭和42年) 42歳。1月に『論争ジャーナル』の万代潔、中辻和彦が来訪。後日、日本学生同盟持丸博も初来訪。同月にゴールデン・アロー賞の話題賞受賞。2月から「奔馬 (豊饒の海 第二巻)を『新潮』に連載(翌年8月まで)。2月12日に居合初段に合格。2月28日に川端康成、安部公房、石川淳と共に、中国文化大革命に対する抗議声明発表。4月19日から本名の「平岡公威」で単身で自衛隊体験入隊(5月27日まで)。
5月に『真夏の死 その他』が1967年フォルメントール国際文学賞第2位受賞(『午後の曳航』も候補作品)。6月19日に早大国防部の代表・森田必勝と出逢う。7月2日から1週間、森田ら早大国防部と自衛隊北海道北恵庭駐屯地で体験入隊。同月から空手を始める(6月に日本空手協会道場に入門)。9月に『葉隠入門』を光文社より刊行。同月下旬から夫人同伴でインドタイラオスへ取材旅行。
10月にインドでガンディー首相、フセイン大統領、陸軍大佐と面会。ラオスではルアン・プラバン王宮で国王に謁見。同月に『朱雀家の滅亡』が劇団NLTにより初演。同月に再びノーベル文学賞候補と報じられる。11月に『論争ジャーナル』グループと民兵組織「祖国防衛隊」構想の試案パンフレット作成。12月5日に航空自衛隊F-104戦闘機に試乗。同月末に山本舜勝と初対面。
1968年(昭和43年) 43歳。3月1日から1か月間、学生らを引率し自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で第1回自衛隊体験入隊(以降、昭和45年まで5回の体験入隊と、2回のリフレッシャー・コース体験入隊を実施)。4月に劇団浪曼劇場を結成。5月に日本学生同盟の理論合宿に林房雄、村松剛と共に参加。同月から評論「小説とは何か」を『波』に連載(昭和45年11月まで)。6月に日本文化会議設立の発起人に参加し理事となる。
7月に「文化防衛論」を『中央公論』に発表。8月11日に剣道五段に合格。9月から「暁の寺』(豊饒の海 第三巻)」を『新潮』に連載(昭和45年4月まで)。10月5日に「祖国防衛隊」から改め「楯の会」を正式結成。10月17日に川端康成がノーベル文学賞受賞。11月10日に阿川弘之と共に東大に赴き、全共闘により軟禁中の林健太郎に面会を求めるが果たせず(林健太郎監禁事件)。10月21日に国際反戦デーのデモ視察。
1969年(昭和44年) 44歳。1月に『わが友ヒットラー』が劇団浪曼劇場により初演。5月13日に東大全共闘委員会主催の討論会に出席。同月に保利茂官房長官から東京都知事選出馬を勧誘される。6月に大映京都撮影所田中新兵衛を演じる映画『人斬り』(五社英雄監督)の撮影(8月9日封切)。7月に『癩王のテラス』が劇団浪曼劇場+劇団雲東宝により初演。同月に評論集『若きサムラヒのために』を日本教文社より刊行。
10月12日に、持丸博の退会に伴い「楯の会」学生長が森田必勝になる。10月21日に国際反戦デーの新宿デモ視察。11月3日に国立劇場屋上で「楯の会」結成1周年記念パレード。同月に最後の短編「蘭陵王」を『群像』に発表。歌舞伎『椿説弓張月』が国立劇場大劇場で初演。12月14日に居合二段に合格。
1970年(昭和45年) 45歳。2月に男子高校生が来訪し、「先生はいつ死ぬんですか」と質問される。4月5日に第1回世界剣道選手権大会に参加。台湾の五段選手と対戦し引き分ける。同月に日本文化会議と『批評』同人を辞める。6月17日に空手初段に合格。7月から「天人五衰(豊饒の海 第四巻)」を『新潮』に連載(翌年1月まで)。7月7日に「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」を『サンケイ新聞』に発表。8月に毎年恒例の伊豆下田へ最後の家族旅行。
9月に対談集『尚武のこころ』を日本教文社より刊行。10月に対談集『源泉の感情』を河出書房新社より刊行。11月12日から17日まで池袋東急百貨店で「三島由紀夫展」開催。11月25日に「楯の会」メンバー4名と共に陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地東部方面総監部にて益田兼利総監を拘束し、バルコニーで演説(三島事件)。森田必勝と共に割腹自決

作風・評価[編集]

三島文学の文体は、終始レトリックを多様に使っているところが最大の特徴である。日本人作家でありながら、その表現方法は、他の日本人作家よりも、外国人作家に近い。長岡實は、「日本の文学愛好者の中にはどちらかというと淡泊でむしろ余韻のある文章を好んで読む傾向があるが、三島作品はどちらかというと濃密な表現を積み重ねていく文学である。こうした点で外国の文豪にも通じ、世界的に高い評価を得ているのではないか?」と分析している[165]

三島文学の作風としては生と死、文と武、精神と肉体、言葉と行動といった二元論的思考がみられるが、単純な対立関係ではないところに特徴がある(三島本人曰く、「『太陽と鉄』は私のほとんど宿命的な二元論的思考の絵解きのようなものである」と述べている[203])。

代表作の一つ『仮面の告白』の題については、「仮面を被る」のが告白と反対になる概念であるが、両者をアイロニカルに接合している事が指摘される。『純白の夜』、『愛の渇き』、『美徳のよろめき』、『春の雪』なども、反対の概念をアイロニカルに組み合わせた題の例である。

近代日本文学史の傾向においては、ロマン主義耽美主義に分類されている。ジョルジュ・バタイユ的な生と死の合一といったエロティシズム観念も、『憂国』、『春の雪』で顕著に表れるが、バタイユのエロティシズムとは禁止を犯す不可能な試みで、三島のロマン主義的憧憬とも一致するものであった。三島はバタイユについて、「人間の神の拒否、神の否定の必死の叫びが、実は“本心からではない”ことをバタイユは冷酷に指摘する。その“本心”こそ、バタイユのいはゆる“エロティシズム”の核心であり、ウィーンの俗悪な精神分析学者などの遠く及ばぬエロティシズムの深淵を、われわれに切り拓いてみせてくれた人こそバタイユであつた」と論じていた[204]。また、死の1週間前に行なわれた対談の中では、「バタイユは、この世でもっとも超絶的なものを見つけだそうとして、じつに一所懸命だったんですよ。バタイユは、そういう行為を通して生命の全体性を回復する以外に、いまの人間は救われないんだと考えていたんです」と述べている[130]

また作品の人工性も指摘される。その人工性について、川端康成は三島の初の長編『盗賊』の書評の中で、「すべて架空であり、あるひはすべて真実であらう。私は三島君の早成の才華が眩しくもあり、痛ましくもある。三島君の新しさは容易には理解されない。三島君自身にも容易には理解しにくいのかもしれぬ。三島君は自分の作品によつてなんの傷も負はないかのやうに見る人もあらう。しかし三島君の数々の深い傷から作品が出てゐると見る人もあらう。この冷たさうな毒は決して人に飲ませるものではないやうな強さもある。この脆そうな造花は生花の髄を編み合せたやうな生々しさもある」と記している[205]

弟子の女優村松英子によると、三島は、「基本としてドメスティック(日常的)な演技を必要だけど、それだけじゃ、“演劇”にならない。大根やイワシの値段や井戸端会議を越えた所に、日常の奥底に、人間の本質のドラマがあるのだからね」、「怒りも嘆きも、いかなる叫びも、ナマでなく濾した上で、舞台では美しく表現されなければならない。汚い音、汚い演技は観客に不快感を与えるから」と表現の指導をしていたという[206]。また三島は、荻昌弘との対談でも「アーサー・シモンズの言葉、『芸術でいちばんやさしいことは、涙を流させることと、わいせつ感を起させることだ』というのがあるが、これは千古の名言だと思う」と述べ、「日本人の平均的感受性に訴えて、その上で高いテーマを盛ろうというのは、芸術ではなくて政治だよ。(中略)国民の平均的感受性に訴えるという、そういうものは信じない。進歩派が『二十四の瞳』を買うのはただ政治ですよ」という芸術論を持っていた[207]

10歳の時に書いたという小品『世界の驚異』、14歳の時の詩『凶ごと(まがごと)』から、『金閣寺』、『鏡子の家』、最晩年の『豊饒の海』で寂寞のうちに閉じるという印象的な結末まで、数多くの作品にはニヒリズム的な傾向が認められる。三島自身、「『鏡子の家』は、いはば私の“ニヒリズム研究“だ」と言い、意気込んで書いたが期待とは裏腹に世間では評価されなかった[208]佐伯彰一も『鏡子の家』について、登場人物の「ぶつかり合いが起こらない」として、低評価を与えているが、三島の「創作ノート」では、人物間の絡み合う場面がいくつか構想されていた。それらは皆廃案とされたのである。井上隆史は、「人物が複雑に絡み合うことのない展開は、相応に考え抜かれた構成なのであって、この点を考慮することなしには、『鏡子の家』に対する充分に行き届いた理解も、意味のある批判も不可能であるように思われる」[209] と述べている。佐藤秀明は、「4人の人間が干渉し合わないというのも、今の目から見れば、現代的な人間関係のあり方を早くも捉えていたと言えるのである」、「彼らの危機は、一様に“ニヒリズム”と呼ぶことができる。そのニヒリズムの芽を彼らは待ち続け、より大きな破壊を待望していた気配はある」という見解を示している[210]

三島は劇作家でもあり、唯一翻訳出版したのも戯曲である。演劇は、二項の対立・緊張による「劇」的展開を得意とした。「告白の順番は詩・戯曲・小説の順で、詩が一番、次が戯曲で、小説は告白に向かない、嘘だから」と述べ、また戯曲は小説よりも「本能的なところ」にあると述べていることからも、私小説的な従来のものと逆の観念を持っていたことがうかがえる。これは戯曲がそもそも虚構の舞台に捧げられているのに対し、小説が現実世界と紙一枚隔てるに留まり容易に「侵入」を許すという構造の違いに由来すると思われ、三島は『豊饒の海』第3巻『暁の寺』脱稿後の心境を、「いひしれぬ不快」だったと述べている[184]。戯曲『薔薇と海賊』は要するに書き手とその作品世界との幸福な合体がテーマであり、自決の直前に上演されたこの劇を見て三島が涕泣したというエピソードからも告白の意味の重みが了解されよう[211]。これらも「作品・芸術」と「作者・現実」といった二分法を仮定しており、多く小説では分裂の悲劇性となって表れる。『潮騒』は例外的に2項対立を無化したものであるが、同時に2年前にギリシア旅行で得た、明朗な「アポロン的」イメージ(旅行記『アポロの杯』など)を反映している。晩年5年間は政治性に傾斜していった。

午後の曳航』などを翻訳したことのあるジョン・ネイスンは、「たしかに、三島の何とも優美で華麗な表現力をそなえた日本語は、多少熟れすぎではあったが、骨の髄まで日本的であった。三島が毎夜、真夜中から明け方までかけて紡ぎ出した日本語こそが彼にとって真の重大事であり、その一生を規定したのだ」、「(三島の死は)一つの国民的苦悩の明快で適切無比な表現であったことも理解されなければならない。これぞ文化的廃嫡の苦悩であった」と述べている[127]

三島の創作傾向は、古代ギリシアの『ダフニスとクロエ』から着想した『潮騒』、能楽歌舞伎エウリピデスなどを下敷きにした数々の戯曲、『浜松中納言物語』を典拠とした『豊饒の海』など、古典から、その源泉を汲み上げ、新しく蘇らせようとする作風傾向がある。

三島の持論[編集]

改憲論[編集]

三島が楯の会での憲法研究を踏まえて没年に著した『問題提起』の第二・「戦争の放棄」では、日本国憲法第9条は「敗戦国日本の戦勝国への詫証文」であると断じている[212]。そして憲法第9条第2項では、自衛権交戦権およびいかなるすべての戦力の所有を否定しており、それを遵守すれば、日本は侵略されても自衛すら許されないまま「“国家として死ぬ”以外にはない」から、そのため政府はいわゆる緊急避難の解釈理論という「牽強付会の説を立てた」と述べ、それは、「実際に執行力を持たぬ法の無権威を暴露するのみか、法と道徳との裂け目を拡大」しているとし、「国家理念を剥奪された日本」は、「生きんがためには法を破らざるをえぬことを、国家が大目に見るばかりか、恥も外聞もなく、国家自身が自分の行為としても大目に見ることになつた」と断じている[212]

また三島は、法的には明らかに違憲である自衛隊の創設は、皮肉にも、「新憲法を与へたアメリカ自身の、その後の国際政治状況の変化による要請に基づくものである」が、朝鮮戦争ベトナム戦争という難関を突破した1970年以降も、ただ護憲を標榜するだけの政府について、「消極的弥縫策(一時のがれにとりつくろって間に合わせるための方策)にすぎず」、「しかもアメリカの絶えざる要請にしぶしぶ押されて、自衛隊をただ“量的に”拡大し」、「平和憲法下の安全保障の路線を、無目的無理想に進んでゆく」と問題提議を唱えている[212]

なお、いわゆる「押しつけ憲法論」について三島は、同条が日本の戦力の所有を徹頭徹尾否定する内容である以上、「この詫証文の成立が、日本側の自発的意志であるか米国側の強制によるかは、もはや大した問題ではない」とし、この条約が「国家としての存立を危ふくする立場に自らを置くものであることは明らかである」と断じている[212]

さらに、改憲に当たっては憲法第9条第2項だけを削除すればよい、という意見に対しては、そのためには「第九条第一項の規定は、世界各国の憲法に必要条項として挿入されるべきであり、日本国憲法のみが、国際社会への誓約を、国家自身の基本法に包含するといふのは、不公平不調和」であると断じ、「敗戦憲法の特質を永久に免かれぬことにならう」と批判し、「第九条全部を削除」すべしと主張している[212]

また同論では、改憲にあたっては憲法第9条のみならず、第1章「天皇」の問題と、第20条「信教の自由」に関する神道の問題と関連させて考えなければ、日本は独立国としての体面を回復できず、アメリカの思う壺にはまるだけであると警告している。憲法9条のみを改正し、日米安保を双務条約に書き変えるだけでは、韓国その他アジア反共国家と並ぶだけの結果に終ると警告し、正しい日本の体面回復のためには、憲法9条を全部破棄し、その代わりに、日本国軍を設立し憲法に、「日本国軍隊は、天皇を中心とするわが国体、その歴史、伝統、文化を護持することを本義とし、国際社会の信倚と日本国民の信頼の上に健軍される」という建軍の本義を規定・明記するべきであると主張している[212]

また三島は、平和憲法と呼ばれる憲法9条について、「完全に遵奉することの不可能な成文法の存在は、道義的退廃を惹き起こす」と、闇市の取締りを引き合いに出して批判し、「戦後の偽善はすべてここに発したといつても過言ではない」と断じた[213]

三島が自衛隊を違憲だとし、政府の「解釈改憲」を批判したのは以上の論点による。

なお、三島は1969年(昭和44年)12月から楯の会会員のうち13人を募って「憲法研究会」を発足した(班長・阿部勉)。翌年1970年(昭和45年)1月以降、三島が執筆した『問題提起』第一・「新憲法における『日本』の欠落」(1970年5月に配布)、第二・「戦争の放棄」(1970年7月に配布)、第三・「非常事態法について」(1970年9月に配布)を基本資料とし、研究会は憲法改正案を起草し続けた[214]。結局、三島の死後の1971年(昭和46年)2月になって、研究会による一連の議論の記録及び憲法改正案から成る「維新法案序」を完成[215]。楯の会は同月28日に解散した。この「維新法案序」は産経新聞2003年(平成15年)11月2日号により初めて紹介された [7]

自衛隊論[編集]

上記のように、三島にとって日本の再軍備は日本の存続において不可欠なものであった。『問題提起』でも、「防衛は国の基本的な最重要問題であり、これを抜きにして国家を語ることはできぬ。 物理的に言つても、一定の領土内に一定の国民を包括する現実の態様を抜きにして、国家といふことを語ることができないならば、その一定空間の物理的保障としては軍事力しかなく、よしんば、空間的国家の保障として、外国の軍事力(核兵器その他)を借りるとしても、決して外国の軍事力は、他国の時間的国家の態様を守るものではない」と、ロン・ノルが「赤化した」シハヌーク国家元首を追放した1970年(昭和45年)のクーデターを引き合いに出して日米安保に安住することを批判し、日本の自主防衛を訴えている[212]

三島は、人生最後の日の檄文で、「自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負ひつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた」と訴えた(同様の趣旨は『問題提起』でも示されている)。そして、「政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう」と説き、前述のように前年の国際反戦デーの左翼デモ・10.21国際反戦デー闘争 (1969年)の際に自衛隊治安出動がおこなわれなかったことに憤った[216]

檄文では、「諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。(中略)国家百年の大計にかかはる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう」とも警告した[216]

この警告について西尾幹二は、三島由紀夫はNPTのことを語っているとし、「彼が自衛隊に蹶起を促すのは、明らかに核の脅威を及ぼしてくる外敵を意識しての話なのである。このままでよいのかという切迫した問いを孕んでいる」[217] と述べ、「六年前に中国核実験に成功し、核保有の五大国として“核停止条約”(NPTのこと)で特権的位置を占め、三島が死んだこの年に台湾を蹴落として国連に加盟、常任理事国となるのである。『五・五・三の不平等条約』とは、ワシントン会議における米英日の主力戦艦の保有比率であることは見易い」と解説し、「三島は、NPTに署名し核を放棄するのは『国家百年の大計にかかはる』と書いている。NPTの署名を日本政府が決断したのは1970(昭和45)年2月3日で、同じ年の11月25日に三島は腹を切った。そして、NPTの署名と核武装の放棄を理由に、佐藤栄作ノーベル平和賞の名誉に輝いた。(中略)『あと二年』とは1972(昭和47)年を指す。沖縄返還が72年に実現した。その頃から準備と工作を続け、74年にノーベル平和賞である」[217] と述べている。

三島の『「変革の思想」とは――道理の実現』という文章には、檄文や演説では言い尽くされていなかった三島の自衛隊に対する考えが、余すところなく書かれている[213]

この中で三島は、「改憲サボタージュ」が自民党政権の体質となっている以上、「改憲の可能性は右からのクーデターか、左からの暴力革命によるほかはないが、いずれもその可能性は薄い」と指摘。そして、本来、祭政一致的な国家であった日本は、現在、「統治的国家(行政権の主体)」と「祭祀的国家(国民精神の主体)」の二極分化を起こし、「後者が前者の背後に影のごとく揺曳してゐる」と指摘し、国民に対しそのどちらかに忠誠を誓うかを問うた。それに合わせて、“現憲法下で”という条件付であるが、

  1. 航空自衛隊の9割、海上自衛隊の7割、陸上自衛隊の1割で「国連警察予備軍」を編成し、対直接侵略を主任務とすること。この軍は統治国家としての日本に属し、安保条約によって集団安全保障体制にリンクする。根本理念は国際主義的であり、身分は国連事務局における日本人職員に準ずる。
  2. 陸上自衛隊の9割、海上自衛隊の3割、航空自衛隊の1割で「国土防衛軍」を編成し、絶対自立の軍隊としていかなる外国とも軍事条約を結ばない。その根本理念は祭祀国家の長としての天皇への忠誠である。対間接侵略を主任務とし、治安出動も行う。

という「自衛隊二分論」の提案をおこなっている[注釈 23]。2.の「国土防衛軍」には多数の民兵が含まれるとし、「楯の会」はそのパイオニアであるとしている。

文化防衛論』では、天皇が自衛隊の儀仗を受けることと、連隊旗を直接下賜することを提言し、自衛隊の名誉回復を主張している[182]

このように、三島が自衛隊に望んでいたことは以下の2点に集約される。

  1. 自衛隊の名誉回復、国軍化
  2. 日米安保体制からの将来的な脱却と自主防衛

天皇論[編集]

一方、三島の天皇に対する態度は複雑であった。

三島は、最期の日の演説や檄文などで、「歴史と文化の伝統の中心」、「祭祀国家の長」として天皇を絶対視していた。さらに『文化防衛論』においては、「文化概念としての天皇」という概念を主張し、日本の文化の中心であった天皇は、「国と民族の非分離の象徴であり、その時間的連続性と空間的連続性の座標軸である」としている[182]

また、伊勢神宮の造営や、歌道における「本歌取り」の法則などに例をみるように、本来、オリジナルとコピーの弁別を持たない日本文化では、「各代の天皇が、正に天皇その方であつて、天照大神(あまてらすおほみかみ)とオリジナルとコピーの関係にはない」とし、天皇は宗教的で、神聖な、インパーソナルな存在であると主張した。そして、「文化概念の定義は、おのづから文化を防衛するにはいかにあるべきか、文化の真の敵は何かといふ考察を促すであらう」と述べ、「“守る”とはつねに剣の原理である」とし、「菊と刀の栄誉が最終的に帰一する根源が天皇なのであるから、軍事上の栄誉も亦、文化概念としての天皇から与へられなければならない。(中略)天皇に栄誉大権の実質を回復し、軍の儀仗を受けられることはもちろん、聨隊旗も直接下賜されなければならない」、「天皇と軍隊を栄誉の絆でつないでおくことが急務」であると主張している[182]

インパーソナルな天皇像を希求するがゆえ、1966年(昭和41年)の林房雄との対談では、「僕はどうしても天皇というのを、現状肯定のシンボルにするのはいやなんですよ」、「天皇というのは、僕の観念のなかでは世界に比類のないもので、現状肯定のシンボルでもあり得るが、いちばん先鋭な革新のシンボルでもあり得る二面性をもっておられる」などと発言し[219]、天皇イコール「革新のシンボル」との位置づけを頻繁に試みるようになる。

その流れから、国民と天皇を現代的感覚で結びつけようという、大衆社会化に追随した戦後の象徴天皇制を、「週刊誌的天皇制」(皇室が週刊誌のネタにされるほど貶められた、という意味)として唾棄し、「国民に親しまれる天皇制」のイメージ作りに多大な影響力を及ぼし、民主化しようとしてやり過ぎた小泉信三を、皇室からディグニティ(威厳)を奪った「大逆臣」と呼んで痛罵するなどした[219]

さらに、昭和天皇に対しては、「ぼくは、むしろ(昭和)天皇個人にたいして反感を持っているんです。ぼくは戦後における天皇人間化という行為を、ぜんぶ否定しているんです」と死の1週間前に行なわれた対談で発言している[130]

昭和天皇に対する否定的な感情は、二・二六事件三部作の最後を飾る『英霊の聲』で端的に表されている。三島はその作中で、「たつたお孤りで、あらゆる辛苦をお忍びになりつつ、陛下は人間であらせられた。清らかに、小さく光る人間であらせられた。それはよい。誰が陛下をお咎めすることができよう」と前置きした上で、昭和天皇に、「だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだつた。何と云はうか、人間としての義務(つとめ)において、神であらせられるべきだつた」と批判する。「二度」のケースとは、

  1. 「兄神たちの蹶起の時」。すなわち、誠忠の士であった二・二六事件の青年将校らを、人間的な感情から、「叛逆の徒」として銃殺極刑にはずかしめたこと。
  2. 「われらの死のあと、国の敗れたあとの時」。すなわち、戦後の「人間宣言」により、「神としての天皇のために死んだ」神風特攻隊隊員らの至誠を裏切ったこと。

であり、三島は、二・二六事件の蹶起将校と特攻隊隊員のに「などて天皇(すめろぎ)は人間(ひと)となりたまひし」と、ほとんど呪詛に近い言葉を語らせている。また同時に、昭和天皇の信頼が厚かった幣原喜重郎を批判している[220][221]

高橋睦郎によると、三島は昭和天皇について、「彼にはエロティシズムを感じない、あんな老人のために死ぬわけにはいかない」と発言し、さらに当時の人気歌手を引き合いに出し「三田明が天皇だったらいつでも死ぬ」と発言したことがあったという[222]

だが、その一方で、旧制学習院高等科を首席で卒業した際、恩賜の銀時計を拝受し昭和天皇に謁見したことを感慨深く回想している。1969年(昭和44年)5月13日に、駒場の東大教養学部でおこなわれた全共闘との討論集会においても、学習院高等科の卒業式に臨席した昭和天皇が「3時間(の式の間)、木像のごとく全然微動もしない」御姿が大変ご立派であったと、敬意を表することも一再ならずあった。同討論集会で三島は、「天皇を天皇と諸君が一言、言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐ(共闘する)のに、言ってくれないから、いつまでたっても“殺す、殺す”といっているだけのことさ」[187]と言い放ち、全共闘学生を挑発した。

三島は福田恆存との対談『文武両道と死の哲学』において、井上光晴の「三島さんは、おれよりも天皇に苛酷なんだね」との評を引用し、天皇に過酷な要求をすることこそが天皇に対する一番の忠義であると語っている。また同対談では、理想の天皇制とは没我の精神であり、国家的エゴイズムや国民のエゴイズムを掣肘するファクターだと述べ、「天皇はあらゆる近代化、あらゆる工業化によるフラストレイションの最後の救世主として、そこにいなけりゃならない、いまから準備していなければならない」、「天皇というのは、国家のエゴイズム、国民のエゴイズムというものの、一番反極のところにあるべきだ。そういう意味で、天皇は尊いんだから、天皇が自由を縛られてもしかたがない。その根元にあるのは、とにかく“お祭”だ、ということです。天皇がなすべきことは、お祭、お祭、お祭、お祭、― それだけだ。これがぼくの天皇論の概略です」と三島は語っている[223]

なお、鈴木邦男によると、楯の会の「憲法研究会」において、三島は自身の持論をメモに残しているという。その中では、天皇は国体であり、「神勅を奉じて祭祀を司り」、「国軍の栄誉の源」であるという原則とともに「皇位は世襲であって、その継承は男系子孫に限ることはない」と書かれており、三島が女系天皇を容認していたことが分かるという[要出典]。また、当時この持論はほとんど賛同を得られなかったが、近年皇位継承問題が表面化したことから注目を集めているという見解を鈴木邦男は示し、戦後昭和天皇が側室制度を廃止し、十一家あった旧宮家臣籍降下させたことなどにより、将来皇統問題が必ず起こることを三島は予見していたのではないかと推測し、これらの点でも昭和天皇への批判を含んでいたのではないかとしている[224]

しかし実際には、鈴木邦男が主張している「三島が女系天皇を容認していたことを示すメモ」なるものの存在は確認されていない[225]。鈴木が見解の元としている出典の松藤竹二郎の著書『血滾ル 三島由紀夫「憲法改正」』、『日本改正案 三島由紀夫と楯の会』、『三島由紀夫「残された手帳」』にも、三島が女系天皇を容認していたことを示すようなメモや記述、あるいは伝言の提示はない[215]。松藤の著書で示された三島が残した憲法改正案は、第一・「新憲法に於ける『日本』の欠落」と、第二・「戦争の放棄」と、第三・「非常事態法について」の3章から成る『問題提起』という論文のみである。そこには、天皇の皇位継承の男系・女系については一切触れられていない[214]

松藤竹二郎の著書では、鈴木邦男が言う「皇位は世襲であって、その継承は男系子孫に限ることはない」という案は、三島の死後に「憲法研究会」で討議案をまとめた中の、あくまで一会員の一つの意見であるにすぎず、それに異議を唱える会員の意見もあり、楯の会の「憲法研究会」の総意ですらない。よって「憲法研究会」の話し合いの結論も、「“継承は男系子孫に限ることはない”という文言は憲法に入れる必要ない」という結論となっている。さらに、「憲法研究会」のリーダー的役割であり、改正案の話し合いの記録を保管していた班長・阿部勉の提案した「女帝を認める」という意見に関しても、「皇統には複数の女帝がおられたんで、女帝は絶対だめだというような意見には反対だという意味ですよ、消極的な」と阿部勉は語り、「積極的な一つの主義として確立しろという意味ではない」と述べている[226]

その天皇主義的な側面から、三島を右翼と評する向きもあるが、生前には『風流夢譚』事件で右翼の攻撃対象となるなど、必ずしも既存右翼と常に軌を一にしていたわけではない(もっとも、1965年(昭和40年)頃に毛呂清輝らとの交流があったことが、書簡等で明らかとなっている)。

なお、磯田光一は三島が亡くなる1か月前に三島から言われた言葉として、本当は腹を切る前に宮中で天皇を殺したいが、宮中に入れないので自衛隊にした、と聞かされたと島田雅彦との対談で述べているが[227]、これに対しては、用心深かった三島が事前に決起や自決を漏らすようなことを部外者に言うはずがないと持丸博は異を唱えている[228]

長く昭和天皇に側近として仕えた入江相政の日記(『入江相政日記』)の記述から、昭和天皇自身が三島や三島事件に少なからず意を及ぼしていたのではないかとの指摘がある[229]

愛国心について[編集]

右翼陣営は三島の自決後は彼をみずからの模範として崇敬(もしくは政治利用)するようになったが、三島自身は「愛国心」という言葉に関しては、官製のイメージが強いとして「自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、国の一員であるにもかかはらず、その国といふものを向こう側に対象に置いて、わざわざそれを愛するといふのが、わざとらしくてきらひである」とし、キリスト教的な「愛」(全人類的な愛)という言葉はそぐわず、日本語の「恋」や「大和魂」で十分だと提言している[230]。そして、「日本人の情緒的表現の最高のものは『恋』であって『愛』ではない。もしキリスト教的な愛であるなら、その愛は無限定無条件でなければならない。従って、『人類愛』というなら多少筋が通るが、『愛国心』というのは筋が通らない。なぜなら愛国心とは、国境を以て閉ざされた愛だからである」と説明している[230]。ただ、国を思う心自体は否定しておらず、日本人にとって日本は「内在的即自的であり、かつ限定的個別的具体的」にあるもので、「われわれはとにかく日本に恋してゐる。これは日本人が日本に対する基本的な心情の在り方である」とし、「恋が盲目であるやうに、国を恋ふる心は盲目であるにちがひない。しかし、さめた冷静な目のはうが日本をより的確に見てゐるかといふと、さうも言へないところに問題がある。さめた目が逸したところのものを、恋に盲ひた目がはつきりつかんでゐることがしばしばあるのは、男女の仲と同じである」と肯定している[230]

特攻隊について[編集]

三島の天皇観や、あるべき皇室の姿は、国家的エゴイズムや個人的エゴイズムを掣肘するファクター、反エゴイズムの代表として措定され、「近代化、あらゆる工業化によるフラストレイションの最後の救世主」として天皇を存在せしめようという考えであったが[223]、三島の神風特攻隊への思いも、彼らの「没私の純粋さ」への賛美であり、その天皇観と同じ心情に基づいたものである[231]

三島の考える「純粋」は、小説『奔馬』の中で、純粋行為の持つ意味について多く語られているが、その中には、「あくまで歴史は全体と考へ、純粋性は超歴史的なものと考へたがよいと思ひます」とあり[232]、評論『葉隠入門』においても、政治的思想や理論からの正否や合理性を超越した純粋な行為への考察がなされ、特攻隊の死に関しても、その側面からの言及がなされている[233]

三島は日本刀を「である」としていたが[234]、特攻隊についても近代的側面への反措定として捉えており、「大東亜戦争」に触れた中で、「あの戦争が日本刀だけで戦つたのなら威張れるけれども、みんな西洋の発明品で、西洋相手に戦つたのである。ただ一つ、真の日本的武器は、航空機を日本刀のやうに使つて斬死した特攻隊だけである」としている[235]。この捉え方は、三島が20歳の時の文面にも見られ、以下のように特攻隊について語っている[131]

僕は僕だけの解釈で、特攻隊を、古代の再生でなしに、近代の殲滅――すなはち日本の文化層が、永く克服しようとしてなしえなかつた「近代」、あの尨大な、モニュメンタールな、カントの、エヂソンの、アメリカの、あの端倪すべからざる「近代」の超克でなくてその殺傷(これは超克よりは一段と高い烈しい美しい意味で)だと思つてゐます。「近代人」は特攻隊によつてはじめて「現代」といふか、本当の「われわれの時代」の曙光をつかみえた、今まで近代の私生児であつた知識層がはじめて歴史的な嫡子になつた。それは皆特攻隊のおかげであると思ひます。日本の全文化層、世界の全文化人が特攻隊の前に拝跪し感謝の祈りをさゝげるべき理由はそこにあるので、今更、神話の再現だなどと生ぬるいたゝへ様をしてゐる時ではない。全く身近の問題だと思ひます。

平岡公威「三谷信宛ての葉書」(昭和20年4月21日付)[131]

そして終戦時には、「幼拙なヒューマニズム」や、「戦術」と称して神風特攻隊員らを「将棋の駒を動かすやうに」見て、彼らの精神を「ジャアナリズムによつて様式化」して安堵し、その効能を疑い、彼らから「の座と称号を奪つた」冒涜についての非難の手記をノートに綴っている[236]

我々が中世の究極に幾重にも折り畳まれた末世の幻影を見たのは、昭和廿年の初春であつた。人々は特攻隊に対して早くもその生と死の(いみじくも夙に若林中隊長が警告した如き)現在の最も痛切喫緊な問題から目を覆ひ、国家の勝利(否もはや個人的利己的に考へられたる勝利、最も悪質の仮面をかぶれる勝利願望)を声高に叫び、彼等の敬虔なる祈願を捨てゝ、冒瀆の語を放ち出した。

平岡公威「昭和廿年八月の記念に」[236]

また三島は、特攻隊員の遺書を「作為的」に編纂している『きけ わだつみのこえ』には批判的であり[237]、高学歴の学生のインテリの文章を珍重して、政治的プロパガンダに利用している点に異議を唱え[237][238]、「テメエはインテリだから偉い、大学生がむりやり殺されたんだからかわいそうだ、それじゃ小学校しか出ていないで兵隊にいって死んだやつはどうなる」と唾棄している[238]。この本を題材とした映画についても、「いはん方ない反感」を感じたとし、フランス文学研究をしていた学生らが戦死した傍らに、ボードレールヴェルレーヌの詩集の頁が風にちぎれているシーンが「甚だしくバカバカしい印象」として残り、「ボオドレエルが墓の下で泣くであらう。日本人がボオドレエルのために死ぬことはないので、どうせ兵隊が戦死するなら、祖国のために死んだはうが論理的」であるとしている[238]

国語教育論[編集]

三島は、戦後の政府により1946年(昭和21年)に改定された「現代かなづかい」を使わず、自身の原稿は終生、「旧仮名遣ひ」を貫いた。三島は、ことばにちょっとでも実用的な原理や合理的な原理を導入したら、もうだめだと主張し、中国人は漢字を全部簡略化したため古典が読めなくなったと述べている[219]。また敗戦後に日本語を廃止してフランス語公用語にすべきと発言した志賀直哉については、「私は、日本語を大切にする。これを失つたら、日本人は魂を失ふことになるのである。戦後、日本語をフランス語に変へよう、などと言つた文学者があつたとは、驚くにたへたことである」と批判している[239]

国語教育についても、「現代の教育で絶対にまちがつてゐることが一つある。それは古典主義教育の完全放棄である。古典の暗誦は、決して捨ててならない教育の根本であるのに、戦後の教育はそれを捨ててしまつた。ヨーロッパでもアメリカでも、古典の暗誦だけはちやんとやつてゐる。これだけは、どうでもかうでも、即刻復活すべし」[240] と述べている。そして、中学生には原文でどんどん古典を読ませなければならないとし、古典の安易な現代語訳に反対を唱え、日本語の伝統や歴史的背景を無視した利便・実用第一主義を唾棄している[219][241]。三島は、「美しからぬ現代語訳に精出してゐるさまは、アンチョコ製造よりもつと罪が深い。みづから進んで、日本人の語学力を弱めることに協力してゐる」[241] と、文部省の役人や教育学者を批判し、自身の提案として、「ただカナばかりの原本を、漢字まじりの読みやすい版に作り直すとか、ルビを入れるとか、おもしろいたのしい脚注を入れるとか、それで美しい本を作るとか、さういふ仕事は先生方にうんとやつてもらひたい」[241] と述べている。

漫画・映画・サブカルチャーに対して[編集]

三島は水木しげるつげ義春好美のぼるらの漫画を複数所蔵していたことが明らかになっている{[242]

手塚治虫や水木しげるについて三島は、「劇画や漫画の作者がどんな思想を持たうと自由であるが、啓蒙家や教育者や図式的風刺家になつたら、その時点でもうおしまひである。かつて颯爽たる『鉄腕アトム』を想像した手塚治虫も、『火の鳥』では日教組の御用漫画家になり果て、『宇宙虫』ですばらしいニヒリズムを見せた水木しげるも『ガロ』の『こどもの国』や『武蔵』連作では見るもむざんな政治主義に堕してゐる。一体、今の若者は、図式化されたかういふ浅墓な政治主義の劇画・漫画を喜ぶのであらうか。『もーれつア太郎』のスラップスティックスを喜ぶ精神と、それは相反するではないか」、「折角『お化け漫画』にみごとな才能を揮ふ水木しげるが、偶像破壊の『新講談 宮本武蔵』(1965年)を描くときは、芥川龍之介と同時代に逆行してしまふ」[158] と辛辣な評を残す一方、赤塚不二夫に関しては、「いつのころからか、私は自分の小学生の娘や息子と、少年週刊誌を奪い合つて読むやうになつた。『もーれつア太郎』は毎号欠かしたことがなく、私は猫のニャロメと毛虫のケムンパスと奇怪な生物ベシのファンである。このナンセンスは徹底的で、かつて時代物劇画に私が求めてゐた破壊主義と共通する点がある。それはヒーローが一番ひどい目に会ふといふ主題の扱ひでも共通してゐる」[158] と絶賛している。このことから当時の同世代人の中では三島は相当量の漫画の読み手であったことが窺える。また、「平田弘史の時代物劇画がなどに、そのあくまで真摯でシリアスなタッチに、古い紙芝居ノスタルジヤと“絵金”的幕末趣味を発見してゐたのである」[158] と述べ、白土三平はあまり好まないと述べている。

ボクシング観戦好きで、自身も1年間ほどジムに通った経験のあった三島は、雑誌「週刊少年マガジン」に連載されていた『あしたのジョー』を愛読していたという。夏のある日の深夜、講談社のマガジン編集部に三島が突然現れ、今日発売されたばかりのマガジンを売ってもらいたいと頼みに来たという。理由を聞くと、三島は毎週マガジンを買うのを楽しみにしていたが、その日に限って映画の撮影(『黒蜥蜴』)で、帰りが夜中になり買うところもなくなったため、編集部で売ってもらおうとやって来たという。三島は、「『あしたのジョー』を読むために、毎週水曜日に買っている」と答えた。財布を出した三島に対して、編集部ではお金のやりとりができないから、1冊どうぞと差し出すと嬉しそうに持ち帰ったという。当時は24時間営業のコンビニなどはなかったため、夜になって書店が閉店してしまうと、もう雑誌を買うことができなかった。三島は『あしたのジョー』が読みたくて翌日まで待てなかった[243]

1954年の映画『ゴジラ』について、公開時の日本のジャーナリズムの評価は概ね低く、「ゲテモノ映画」、「キワモノ映画」と酷評する向きも多かった。各新聞の論評でも、特撮面では絶賛されているものの、「人間ドラマの部分が余計」として、本多猪四郎監督の意図したものを汲んだ批評はみられなかったが、田中友幸によれば、三島のみが「原爆の恐怖がよく出ており、着想も素晴らしく面白い映画だ」として、ドラマ部分を含めた全てを絶賛してくれたという。

「よくみるTV番組は?」というアンケートの問いに『ウルトラマン』と答えている[180]

裁判[編集]

『宴のあと』裁判[編集]

三島は、日本で最初のプライバシーの侵害裁判の被告となった。もの珍しさから、「プライバシーの侵害」という言葉は当時、流行語となった[244]

1961年(昭和36年)3月15日、元外務大臣東京都知事候補の有田八郎は、三島の『宴のあと』という小説が自分のプライバシーを侵すものであるとして、三島と出版社である新潮社を相手取り、損害賠償100万円と謝罪広告を求める訴えを東京地方裁判所で起した。裁判は、「表現の自由」と「私生活をみだりに明かされない権利」という論点で進められたが、1964年(昭和39年)9月28日に東京地方裁判所で判決[245] が出て、三島側は80万円の損害賠償の支払いを命じられた(ただし謝罪広告の必要はなし)。三島は、芸術的表現の自由が原告のプライバシーに優先すると主張したが、第一審、東京地裁の昭和39年9月28日石田哲一裁判長は判決において以下の論述を出した。

裁判長・石田哲一
小説なり映画なりがいかに芸術的価値においてみるべきものがあるとしても、そのことが当然にプライバシー侵害の違法性を阻却するものとは考えられないそれはプライバシーの価値と芸術的価値の基準とはまったく異質のものであり、法はそのいずれが優位に立つものとも決定できないからであるたとえば、無断で特定の女性の裸身をそれと判るような形式、方法で表現した芸術作品が、芸術的にいかに秀れていても、通常の女性の感受性として、そのような形の公開を欲しない社会では、やはりプライバシーの侵害であって、違法性を否定することはできない」

石田裁判長は、「言論、表現の自由は絶対的なものではなく、他の名誉、信用、プライバシー等の法益を侵害しないかぎりにおいてその自由が保障されているものである」との判断を示し、「プライバシー権侵害の要件は次の4点である」と判示した。

  1. 私生活上の事実、またはそれらしく受け取られるおそれのある事柄であること
  2. 一般人の感受性を基準として当事者の立場に立った場合、公開を欲しないであろうと認められるべき事柄であること
  3. 一般の人にまだ知られていない事柄であること
  4. このような公開によって当該私人が現実に不快や不安の念を覚えたこと

三島側は10月に控訴するが、この後、1965年(昭和40年)3月4日に有田が死去したため、1966年(昭和41年)11月28日、有田の遺族と三島・新潮社との間に和解が成立した。

当初、この件で友人である吉田健一(父親・吉田茂外務省時代に有田の同僚であった)に仲介を依頼したものの上手くいかず、吉田健一が有田側に立った発言をしたため、後に両者は絶交に至る機縁になったといわれている。

三島は、自決1週間前に行なった古林尚との対談『三島由紀夫 最後の言葉』において、この裁判で三島は裁判というものを信じなくなったという。法廷で弁護人から、「三島に著名入りで本(有田八郎著『馬鹿八と人はいう』)をやったか」と質問が出たとき、有田は、「とんでもない、三島みたいな男にだれが本なんてやるもんか…(後略)」と答え、弁護人が、「もしやっていらっしゃったら、ある程度三島の作品を認めたか、あるいは書いてもらいたいというお気持があったと考えてよろしいですね?」と念押しされ、「そのとおりですよ」と有田は、断固、本は渡していないと主張したという。ところが、三島は有田から、「三島由紀夫様、有田八郎」と著名された本を貰っていた。それを三島側が提示すると、傍聴席が驚いたという。三島は、あの裁判がもし陪審制度だったら、自分は勝っていただろうと述べている。裁判所の判断は、有田が老体であるとか、社会的地位や名声を配慮して有田に有利に傾き、民事裁判にもかかわらず、刑事訴訟のように、被告は「三島」と呼び捨てにされていたという。ときどき気が付いて「さん」付けになるものの、ほぼ呼び捨てだったという[130]

『三島由紀夫-剣と寒紅』裁判[編集]

1998年平成10年)3月20日、福島次郎文藝春秋社から小説『三島由紀夫-剣と寒紅』を発売した。内容は三島と福島の同性愛の関係を描いたセンセーショナルなものであった。三島から福島に送られた15通の書簡の全文も掲載されているなど話題を呼んだ。ただし、この本は著者自身が巻末に、「この“小説”を書くに当って」と書いているように、決してノンフィクションであるとはどこにも断られておらず、出版社も「文学」、「自伝小説」を強調する宣伝をしていた。これについて板坂剛は、内容がすべて事実であると言い切る自信が出版社にないからだと述べ、同性愛行為を描いている文章部分も、意識を失っていたはずの福島が克明に描写するのはおかしいと矛盾点を指摘している。また、「明らかなことは福島次郎も結局は三島に対するストーカーでしかなかった」という見解を示し、「文藝春秋の人間でさえ、福島には妄想癖虚言癖がある、と認めている」と述べている。板坂剛は、「スーパースターとの過去をひけらかすことで売名に成功した松田聖子の元愛人を自称する外国人たちと、福島次郎は結局同類である」と述べ、三島研究者にとって参考になるのは、小説中に掲載された三島の書簡だけという見解を示している[246]

1998年(平成10年)3月24日、小説中に掲載された三島の書簡について、「手紙を無断で掲載・公表、複製するのは著作権侵害」である」として、三島由紀夫の相続人である三島の長女・冨田紀子と、長男・平岡威一郎の2人は、著者・福島次郎と出版元である文藝春秋社に出版差し止めを求める仮処分を東京地方裁判所に申請し、民事裁判を起こした。

1998年(平成10年)3月30日の一審、1999年(平成11年)10月18日の二審ともに、東京地裁は、文藝春秋社側の主張である「手紙の内容は実用的な通信文であり著作物にあたらない」との言い分を退け、「書簡は事務的な内容の他、三島の自己の作品に対する感慨、抱負や折々の人生観などが、文芸作品とは異なる飾らない言葉で述べられている」とし、書簡を著作物であるという判決を下し、原告が勝訴した。被告側は500万円の損害賠償などを命じられ、控訴した。

2000年(平成12年)5月23日、東京高等裁判所は、被告側の主張は、事実誤認や単なる法令違反で上告理由にあたらないとし、福島次郎文藝春秋側の控訴を棄却した。判決文の「著作権侵害による損害賠償は、文学的価値ではなく財産的価値の侵害による賠償であって、三島由紀夫と控訴人福島の知名度や文学者としての名声を比較すれば、本件各手紙が本件書籍において、財産的に重要なものであること、すなわち、本件書籍購入の意欲をそそり、本件書籍の商業的成功をもたらすという点で重要なものであることは明らかである」[247] により、書簡も著作物にあたる場合があるとの高裁判決が確定した。なお、裁判は著作権上の判断であり、争点は福島の著書の内容に関しての真偽についてではなかった。というのは、あらかじめこの著書にはアリバイ的に巻末の中で「小説」と銘うっていたからである。当初より異例の初版10万部の発行を行なっており、判決にもかかわらず大半は流通し9万部が販売された。板坂剛はこれについて、「遺族に無断で書簡を公表してはならないことぐらいプロの出版人なら知らないはずはない。(中略)最初から裁判沙汰は予定の宣伝戦略であり、その効果を考えれば平岡家に対して支払う謝罪金など安いものだと内心では計算ずくだったのだろう」と述べている[246]

家族 親族[編集]

出自も参照のこと。

実家
祖父・定太郎内務省官僚
1863年文久3年)6月4日生 - 1942年昭和17年)8月26日
1892年(明治25年)、帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)卒業。内務省に入省。その後、徳島県参事官栃木県警部長、衆議院書記官、衆議院書記官兼内務省参事官、内務省参事官兼内務事務官高等文官試験官、広島宮城大阪府内務部長を歴任。1906年(明治39年)7月、福島県知事に就任。1908年(明治41年)6月11日、樺太庁長官に就任。1914年(大正3年)6月、反政友会農商務大臣大浦兼武の策謀による公金流用疑惑のため樺太庁長官を辞任(のちに無罪判決)。1930年(昭和5年)8月、定太郎を顕彰する銅像樺太神社に建立される。1942年(昭和17年)8月26日、79歳で死亡。菩提寺愛宕青松寺
「三島由紀夫の無視された家系」(『月刊噂』1972年8月号)59-60頁によれば、「祖父の定太郎が永井奈徒と結婚したのは明治二六年、大学を卒業した翌年のことである。何と言っても帝大出の“学士さま”である。“学士さまならお嫁にやろか”と言われた時代だから、奈徒も不自然なく嫁いできたものと思われる。奈徒は、父は永井玄番頭の嗣子、その母は宍戸藩松平頼位の娘、松平大炊守の妹というれっきとした名流の士族であった。百姓の定太郎が士族の娘を嫁にもらえたのも“学士さま”のお蔭であったろう。平岡家の家系には、この時はじめて名血と結びついた。しかし奈徒という女性は非常に気位が高く気性も激しかった。徳川家重臣の嫡流という意識を強く持ち、その上に美貌であったから、一介の百姓生まれの定太郎を内心では軽蔑していたようである。つね日頃から、『お殿様と駿河へ行って……』という話をし始めると、それは永井家が家臣として最後まで徳川慶喜と行動を共にしたというプライドからくるものであった。語学にも堪能で、ドイツ語、フランス語を七十歳すぎても流暢に読んだり話したりすることができたともいう。定太郎は原敬に重用された性格でわかるように、能吏というよりは事業家肌であった」という[248]
祖母・夏子(戸籍名・なつ)(東京府士族大審院判事・永井岩之丞の長女。幕臣玄蕃頭永井尚志の孫)
1876年明治9年)6月27日生 - 1939年(昭和14年)1月18日
なつの母・高は、水戸支藩宍戸藩藩主松平頼位とその側室との間に生まれた。なつは1888年(明治21年)の12歳から1893年(明治26年)11月27日、17歳で平岡定太郎と結婚するまでの期間、有栖川宮熾仁親王の屋敷に行儀見習いとして仕える。定太郎との間に一人息子のを儲ける。1939年(昭和14年)1月18日、潰瘍出血のため62歳で死亡。
野坂昭如の著書『赫奕たる逆光』129-130頁によれば、「明治二六年、なつは満十七で定太郎のとなった。ほんの二十年前までは、名門の武家の娘と町人、ましてや百姓の男が結婚するなど、考えられぬ仕儀、江戸時代なら直参と陪臣、御目見(おめみえ)以上と以下の縁組もない。士分以上の者が、百姓に娘を与える場合、これは捨てたことで、それにしても、間に仮親をつくり、その養女として後、嫁がせた。鹿鳴館時代を過ぎ、教育勅語も発布された。文明開化の波は日増しに高まるとはいえ、母方の祖父は徳川の枝に連なり、父方のそれは幕府若年寄である娘と、播州の、二代前は所払いとなっている百姓の倅(せがれ)、いかに帝大出とはいえ、卒業は八年おくれているのだ、まことに不自然」という[249]
によれば、「…子供が僕一人というのは、あながち母の邪推を待つまでもなく、その平常の振舞いからして父があるいはトリッペルにとっつかれていたためかと思われます。母自身も猛烈な坐骨神経痛にかかり、一生を苦しみ通したのですが、これも父のしわざだとの医者のひそひそ話を小耳にはさんだことがありました。大家族の中における長女たる自分の身分、家柄を過信するプライド、父の天衣無縫の行動、坐骨神経痛等々が重なり合って、母は精神肉体両面からの激痛でひどいヒステリーになる。この大型台風はたちまち家中をところせましと吹きまくり、その被害や以て想うべしという惨状でした」という[16]
父・農商務省官僚
1894年(明治27年)10月12日生 - 1976年(昭和51年)12月16日
1920年(大正9年)、東京帝国大学法学部(現・東京大学法学部法律学科(独法)卒業。農商務省(現・農林水産省)に入る。1942年(昭和17年)3月、水産局長を最後に、農林省を退官。日本瓦斯用木炭株式会社社長に就任するが、終戦で会社は機能停止、1948年(昭和23年)1月に政府命令で閉鎖される。1976年(昭和51年)12月16日、肺に溜まった漿による呼吸困難のため82歳で死亡。
農林省で梓の7年後輩の楠見義男によれば、「私は蚕糸局の繭糸課でしたが、平岡さんはすでに蚕業課に2年おられた。(中略)入って一か月くらいのとき僕は繭糸課長に呼ばれ“隣の課の平岡君はあまり仕事熱心でなく業務が滞りがちなので手伝ってやってくれんかね”と言われた」、「退庁時間が近づくとソワソワするような人だった。同期の岸さんも“あいつは駄目だからなぁ”と放ってました」という[51]。一方、増村保造(三島が主演した映画『からっ風野郎』の監督)は映画完成後、三島邸に招待された際、梓から、「下手な役者をあそこまできちんと使って頂いて」と礼を言われ驚いたという。増村は三島に怪我をさせて申し訳ないと思っていたのに逆に礼を言われ、帰り道に、「明治生まれの男は偉い」と梓をほめていたという[250]
祖父・橋健三漢学者
1861年万延2年)1月2日生 - 1944年(昭和19年)12月5日
加賀藩士の父・瀬川朝治と母・ソトの間に二男として生まれ、武士の血をひく。健三は幼少より漢学者・橋健堂に学んだ。1873年(明治6年)、12歳のとき、学才を見込まれて健堂の三女・こうの婿養子となり、橋健三と名乗る。健三は14、5歳にして、養父の健堂に代わり、藩主・前田直行に講義を行うほどの秀才だったという。やがて健三は妻子を連れて上京し、小石川に学塾を開く。1888年(明治21年)、共立学校に招かれて漢文と倫理を教え、幹事に就任する。妻・こうの死亡により、健堂の五女・トミ(を後妻とした。1894年(明治27年)、学校の共同設立者に加わる。1910年(明治43年)、第二開成中学校(神奈川県逗子町)の分離独立に際して、健三は開成中学校の第5代校長に就任した。校長を辞職後は、昌平中学夜間中学)の校長として、勤労青少年の教育に尽力した。1944年(昭和19年)12月5日、故郷の金沢で84歳にて死亡[251]
伯父・橋健行精神科医)(漢学者・橋健三の長男。倭文重の兄)
1884年(明治17年)2月6日生 - 1936年(昭和11年)4月18日
健行は、開成中学一高東京帝国大学医科大学(現・東大医学部)精神医学科と進むが、常に首席であったという[注釈 24]。1925年(大正14年)、東大精神科の付属病院の東京府巣鴨病院(のちの松沢病院)の講師から副院長に就任。その後、1927年(昭和2年)、千葉医科大学(現在の千葉大学医学部)助教授に就任した。歌人の斎藤茂吉とは親友同士であった。1936年(昭和11年)4月18日、肺炎をこじらせ52歳で急逝する[251]
母・倭文重(漢学者・橋健三の次女。加賀藩学問所・「壮猶館」教授・橋健堂の孫)
1905年(明治38年)2月18日生 - 1987年(昭和62年)10月21日
倭文重の母・トミは、加賀藩学問所、「壮猶館」教授・橋健堂の五女。橋家は加賀藩主前田家に代々仕えた。倭文重は1922年(大正11年)、三輪田高等女学校を卒業後、1924年(大正13年)4月19日、平岡梓と結婚。梓との間に、公威、美津子、千之の二男一女を儲ける。1987年(昭和62年)10月21日、心不全のため82歳で死亡。
妹・美津子
1928年(昭和3年)2月23日生 - 1945年(昭和20年)10月23日
聖心女学院専門部在学中の1945年(昭和20年)10月10日、学徒動員で疎開されていた図書館の本の運搬作業中、菌を含んだなま水を飲んだのが原因で腸チフスを発病する。母・倭文重と三島が交代で看病するが、同月23日、大久保の避病院で17歳にて死亡。三島は号泣したという。
三輪田高等女学校時代の同級生に板谷諒子(湯浅あつ子の妹)、聖心女学院の同級生に佐々悌子佐々淳行の姉)がいた。美津子の死後、三島は佐々悌子と1947年(昭和22年)から1948年(昭和23年)頃[253]、板谷諒子とは1950年(昭和25年)から1951年(昭和26年)頃、親交を持つ[254]
弟・千之外交官
1930年(昭和5年)1月19日生 - 1996年平成8年)1月9日
1954年(昭和29年)、東京大学法学部政治学科卒業。同年、外務省に入省。フランスセネガルなど各国に駐在。1987年(昭和62年)3月31日、4月2日付で駐モロッコ大使に任命される。駐ポルトガル大使などを歴任した。引退後、1996年(平成8年)1月9日、肺炎のため65歳で死亡。
自家
妻・瑤子画家杉山寧の長女)
1937年(昭和12年)2月13日生 - 1995年(平成7年)7月31日
日本女子大学英文科2年在学中の1958年(昭和33年)6月1日、三島と結婚(大学は2年で中退する)。三島との間に、紀子、威一郎の一男一女を儲ける。1995年(平成7年)7月31日、急性心不全のため58歳で死亡。
長女・紀子演出家
1959年(昭和34年)6月2日生 -
1990年(平成2年)9月24日、冨田浩司(外交官)と結婚。富田との間に二女一男がいる。
長男・威一郎(元実業家
1962年(昭和37年)5月2日生 -
映画の助監督を経て、1988年(昭和63年)9月9日、東京都中央区銀座に宝飾店「アウローラ」を開店したが、後に閉店。映画『春の雪』、『三島由紀夫映画論集成』(ワイズ出版、1999年)の監修、編集に携わる。

系譜[編集]

平岡家[編集]

  • 祖父・平岡定太郎の故郷、兵庫県加古川市志方地区
祖父・定太郎本籍は、兵庫県印南郡志方村上富木(現在の加古川市志方町上富木)で、その昔、まだ村と呼ばれていた頃、ここは農業漁業塩田が盛んであった。附近には景行天皇の皇后・播磨稲日大郎姫御陵があり、その皇子・日本武尊の誕生の地という古代史上、意義のある地でもある。この地は古代において港であったので、三韓征伐の折、神功皇后が龍船を泊めた。皇后は野鹿の群が多いのを見て、この地を「鹿多」と呼んだ。のちに、この「鹿多」を「志方」と改めたというのが地名の由来である。1573年 - 1591年頃(天正の頃)櫛端左京亮が観音城(別名、志方城)を築城したため、港町から城下町となる。秀吉中国征伐にあたり、城主・櫛橋は、東播三木城主・別所長治と共に抗戦し落城した。このため多くの武士、学者は土着化し、城下町志方の様子は著しく変化したという[19]。またこの地は地盤が強く震災の被害が少ないことから、関東大震災のあとに登場した遷都論で候補地の一つに挙がった[255]阪神大震災のときも加古川流域はほとんど被害がなかったという。
  • 家系
“平岡”姓について、安藤武によれば、「平岡姓は平岡河内国讃良郡枚岡郷(ひらおかごう)か、河内郡枚岡邑(ひらおかむら)より起こりしか。武士は出身地の名田の名からをつけたが明治維新後は農民もならい姓とした。津速魂一四世孫胴身臣の後継。『大和物語』で奈良猿沢の池に身投げをした猿沢采女は平岡の人。農民の平岡家も明治になってから土地の名をとって、平岡姓を太左衛門(たざえもん)から名乗った」という[177]
平岡家の菩提寺、真福寺は1652年(承応元年)の建立である。過去帳によれば、初代は1688年 - 1703年(元禄時代)の孫左衛門である。二代目は孫左衛門を襲名し、次は利兵衛が三代続く。その次は太左衛門(六代)、太吉(七代)、萬次郎(八代)となり、三島の祖父・定太郎は太吉(七代)の二男である。初代の孫左衛門には屋号として「しおや」(塩屋)と付いているという。志方は同じ兵庫県の赤穂に次いで塩田が盛んであった[256]。この屋号については、「三島由紀夫の無視された家系」(『月刊噂』1972年8月号)でも初代に屋号が付いているとされているが、 猪瀬直樹によれば、屋号の「しおや」は三代目・利兵衛のところに付いており、塩屋ではなく塩物屋であるという。これは三代目利兵衛(五代)のとき、農業のかたわら商売を始めたということだという[51]
さらに、板坂剛によると、平岡家は当初、真福寺の近くの西神吉村宮前(現在の加古川市西神吉町宮前)に住んでいて、家はほとんどあばらやと呼んでいいくらいの粗末なものであったという。板坂剛は、「住職夫人や、後で地元の教育関係者等から聞いた話では、宮前で店を構えていたのは酒屋一軒だけであり、その家は庄屋だった。平岡家の先祖がやっていたことは“塩屋”ではなく塩をまぶした魚介類等を仕入れて、路上で売り歩いた程度の小商いだった、ともいう。あるいは、塩そのものを販売していたとしても、当時の状況を考えれば、それは天秤棒の両端に二つの塩桶をぶら下げて運んでいた姿を想像した方が当たっているだろう」[257] と述べている。
「三島由紀夫の無視された家系」(『月刊噂』1972年8月号)によると、兵庫県の平岡家(定太郎の弟・久太郎の家)とは、父・平岡梓の代からほとんど絶縁状態で、三島は兵庫県加古川市にある平岡家の墓には生涯一度も参らなかったという。多くの作品でも三島は故郷をとりあげていない。このため、地元民の一部からは批判の声もあり、現地の三島に対する評価も高いものでないという[248]。兵庫の墓参りをしていなかったことについては、三島の祖父・定太郎の墓が東京にあったから足が遠のいたことも考慮されるが、猪瀬直樹は、三島が本籍での徴兵検査の際も、故郷の平岡家に立ち寄っていないことの理由については、梓のいとこにあたる平岡義一(久太郎の二男)が変わり者で奇行癖のあった(上半身裸、ひとつで歩き回ったり、暗い土蔵で春画を描くことに没頭していた)人物であったことに触れ、梓の配慮で三島と義一を会わせないようにしていたと述べている[51]
三島は、近畿方言が嫌いであり、東京弁・共通語以外を用いた戯曲を嫌ってもいたいう。中村光夫宛ての1963年(昭和38年)9月2日の書簡では、「関西へ久々に来てみると、関西弁は全くいただけず、世態人情、すべて関西風は性に合はず、外国へ来たやうです。尤も、小生純粋の江戸ッ子でなく、祖父が播州ですから、同属嫌悪の気味があるのかもしれません」と語っている[258]。しかし、そうは言いつつも実際は、近畿地方が舞台で主人公が方言で話している芝居や小説は、『鰯売恋曳網』、『潮騒』、『金閣寺』、『絹と明察』など、いくつか書いている。
かつて作家の杉森久英が編集者だった時に、「われわれの仲間では三島由紀夫は貴族の出であると思い込んでいた。三島由紀夫に会ったとき『あなたは三島子爵の子孫ですか?』と聞いたところ三島は即座にこれを否定したが、自分の家柄というものは、そのへんのものではないのだということを暗に匂わせていた」と述懐しているという[248]
仲野羞々子(元産経新聞四国支社の記者で男性。仲野羞々子はペンネームであるという[257])は、雑誌『農民文学』のなかで、「世間では三島のことを貴族だといい、貴族に間違いないことを信じている。本人もそれを信じ、敢えてそのようにふるまってきたところから、間違いがはじまっているように思えてならない。平岡三代目の彼は貴族であっても、初代の祖父定太郎は貧農出身の成り上がり者であることを、彼は知りつくしておりながら、とことんまでそれをかくし通して、優雅な家系のように誇示したあとが気になる。胸の底にうごめく貧農コンプレックスを、貴族のポーズで克服しようとしたとしか思えないふしがある」と述べている[259]。このように仲野羞々子は、三島が兵庫県という自らのルーツを殊更に無視していると主張し、それは、夫の定太郎を忌み嫌っていた三島の祖母・夏子の影響が関係していると述べている[259]。しかしその一方、仲野羞々子は、「三島の作品なんてほとんど読んでいない」[259] とも述べている。三島は実際にはインタビューなどで、「私は血すぢでは百姓サムラヒの末裔だが、仕事の仕方はもつとも勤勉な百姓である」と、はっきり述べており[260]、祖先に百姓がいたことを隠してはいない。また、主な作品の主人公も、同性愛者、漁師、放火犯、殺人者、事務所の老小使、元芸者、料亭の女将、殉教者、魚の行商人、宝石泥棒、少年犯罪者、テロリストなどで、その作風も特に貴族階級賛美の傾向でもなく、三島自身が貴族のポーズで貧農コンプレックスを克服していたというような単純な作家傾向とは言えない。
  • 曽祖父・平岡太吉
太吉(七代)の子は、萬次郎定太郎久太郎の3人の息子と、娘・むめである。三島の自決に衝撃を受けた父は急に思い立って自らの家系を調査する気になるが、ただし自分ではやらずに従弟の小野繁に託した[51]。小野繁は定太郎の妹むめの息子である[51]。小野繁はただちに志方町へ赴き菩提寺の住職から過去帳を閲覧させてもらい、郷土史なども集め、翌年2月、手書きの報告書にまとめ、報告書は控えを取ったうえで梓へ送られた[51]。小野繁が住職から聞き出してまとめた報告書には定太郎の父親太吉(七代)の人物像は次のように記されている[51]
「平岡太吉は裕福な地主農家で、田舎ではいわゆる風流な知識人で腰には矢立を帯び短冊を持ち歩いた」、「萬次郎、定太郎両名を明石橋本関雪岳父の漢学習字の塾に入れ勉学させ、次いで東都へ遊学させた」、「太吉の妻(つる)もすこぶる賢夫人として土地では有名であった」[51]
太吉の孫の嫁(久太郎の二男・平岡義一の妻)である平岡りきによると、太吉は幼少(5、6歳)の頃に、領主から禁じられていた(一説には雉子)を射ったため、一家に“所払い”が命じられ、志方村上富木へ移り住んだという[248]。また、板坂剛によると、成長した太吉は金貸し業で成功し、さらには畑仕事を一手に引き受けていた妻・つるの農業的な才覚やアイデア(果実の栽培の成功)により、平岡家に莫大な利益がもたらしたという[257]野坂昭如は太吉について、「所払い以後、にわかに顕(あら)われた太左衛門の才覚は、太吉に継がれた。(中略)農作業は妻にゆだね、太吉は商いと金貸しに打こんだ。丹精こめて作物を育てるより、これを扱って利ざやを稼ぐ、父より手広く金融業を営み、安政四年、太左衛門が病に臥すと、二十数年間掘立小屋につぎはぎして暮した住いを、近隣の眼をそばだてしめる豪邸に建て直した」と述べている[249]
  • 「赤門事件」と「豪農“塩屋”」の真相
三島の父・平岡梓は、自著『倅・三島由紀夫』において、「僕の家は、家系図を開けば、なるほど父方は百姓風情で赤門事件という反体制的のことをやらかして、お上に痛い目に会うし…」と述べている[261]。志方町中央農協組合の元組合長の好田光伊によると、赤門事件とは、加賀前田家徳川将軍から姫君を迎えるにあたって上屋敷の正門に赤い門を構えたが、平岡太左衛門はこれを真似て、菩提寺の真福寺に赤門を寄進し、それはほんのしるし程度のものであったが、この行為が“お上をおそれぬ、ふとどきもののおこない”として所払いになったという昔からのいい伝えの話だという[262]
しかし、『月刊噂』は、「この梓の発言はいささか反骨の家系であることを胸を張っていう口吻(こうふん)が感じられるが、これを事実だと信じることはできない。梓のいとこ・平岡義一の妻りきの記憶によれば、赤門事件など聞いたおぼえもなく、『太左衛門の息子である太吉が、領主から禁じられている鶴を射った。その行為が表沙汰になって“所払い”を命じられた』というものだった。また梓は『平岡家も田舎の豪農“塩屋”としての誇りを堅持していた』[16] と書いているがこれも事実ではない。“反骨の赤門事件”といい、“豪農塩屋”といい、三島由紀夫亡きあとにつくられた家系としかいいようがない」という主張している[248]。また、野坂昭如は、「“しおや”の屋号があって不思議はない。元禄以前から印南郡の南は、一帯が塩田だった。(中略)播磨の塩は“花塩”といい、特に珍重された。だが“塩屋”を“豪農”とするのは無理。“折ふしは塩屋まで来る物もらひ”と路通の句があるが、粗末な小屋、苫屋(とまや)の謂(い)い、誇るに足る屋号ではない。“塩屋まで”は、貧しい塩屋までもの意味」だと述べている[249]
『月刊噂』の赤門事件否定に対し、平岡梓から直接その伝承話を聞いたことがあるという越次倶子は、実際にその事件があったかどうかは、真福寺に赤門寄進の記録がないため事実であるかは真偽不明だが、「三島も幼い時からそういった伝承話を耳にしていたにちがいない」、「赤門事件を起こした太左衛門という高祖父がいた、と三島の意識に刻まれていたと思われる」[19] という見解を示している。また、「今の時代、昔平民であっても士族であっても、それを問題にすることはどんな場合でもなかろう。家系を追求することを仕事にしたり、研究対象にしている一握の人々にとっては大問題であろうが。“豪農塩屋”と“反骨精神の太左衛門”は平岡家に語り伝えられた事柄かもしれないが、三島が父方の高祖父をそう理解していたことは事実のようである」[19] と述べている。また、板坂剛は、この赤門事件は祖父・定太郎の創作で、それが梓に信じられ、またその子の三島にも伝えられたと推測している[257]
  • 平岡家部落民説
平岡家の本来の居住地は志方村ではなく、平岡太左衛門(六代)までは西神吉村だったが、『月刊噂』によると、志方村に移住したそもそもの理由は、三島の曽祖父・平岡太吉が幼少の頃、領主から禁じられているを射るという不祥事を起こし、“所払い”にされたためだという。また52頁では、「岡住職は過去帳から平岡家の祖をたどった結果、およそ二百五十年間つづいた家だと判明したという。真福寺で明らかにされた平岡家の先代はまず元禄時代の“孫左衛門”から始まっている。しばらくはがなく(中略)以後はじめて平岡太左衛門、平岡太吉とつづくのである。過去帳には名前のそばに“非人”、“非人の子”、“番人”、“水番”という汚名の肩書もついているが、平岡家の初代である“孫左衛門”の肩にはもちろんそんな濁点は付されていない。記されているものは”しおや”という屋号のようなものである。(中略)初代の“孫左衛門”の俗名に“しおや”の肩書きが付されている以外は、太左衛門にいたるまでの戒名はすべて一般の農民と同程度の身分を示している。“ごくふつうの百姓だったのですよ”と岡住職はきっぱりと断言している」と、主張している[248]。しかし、この屋号に関して猪瀬直樹は、屋号の「しおや」は三代目・利兵衛のところに付いていると述べている[51]
安藤武によると、平岡家部落民説は、三島が杉山瑤子と結婚した時にも問題となり、一度は杉山家が結婚解消を申し出たこともあるとされ、父・梓がこの風説を断固として否定し、結局、梓が志方町に赴いて杉山家に戸籍を確認させ、東京都目黒区に本籍を移すことで決着がついているという[177]。しかし一方、見合いの仲人をした湯浅あつ子によると、杉山瑤子との結婚の際、特に名門の家柄ではない杉山家が平岡家の家系のことで結婚解消を申し出たことも、家系調査を依頼した事実もなく、実際には、見合い後に縁談を断っていたのは三島の方であったという[263]。また、本籍を東京に移したという件については、三島事件警視庁調査報告書の中の、被疑者・平岡公威(三島由紀夫)の本籍地の欄には兵庫県印南郡上富木と記されているという[264]
福島鑄郎の『資料・三島由紀夫』(1982年版)によると、真福寺の過去帳には「知られたくないものが書かれてあった」、「それぞれの祖先の肩書きには、とうてい文字にして書き表せないような汚名が書きしるされているからである」と推測されていたが[265]、この福島鑄郎の見解に対して村松剛は、平岡梓の言い分を裏付ける次のような反論を述べている。「問題の平岡家の過去帳は、三島研究家の越次倶子が真福寺(平岡家の菩提寺である曹洞宗真福寺)に行って調べ、写真にもとって来ている。これで見るかぎり、“文字にして書き表せないような”ことばなどどこにも出て来ない。(中略)福島鑄郎は実際には過去帳を見たことがなく、何かの思いちがいからこんな断定的な文章を書いてしまったらしい。越次倶子は平岡家の壬申戸籍の写しも昭和三十九年(1964年)ころに入手していて、これによっても格別変わった箇所は見あたらない。もしも定太郎の出自に何らかの問題があったら、差別意識がきわめてつよかった明治の中期に、夏子との結婚は成立しなかったろう。(中略)いまとちがって身許の調査はきびしく行われた」と述べ[266]、いずれの資料も平岡家が被差別階級に属していたことを示す内容ではなかったという見解を示している[266]。後に安藤武曹洞宗青龍山真福寺の過去帳を、実地に検証しこれらの情報の真偽を確かめようとしたが、そのときは真福寺住職の西超三が過去帳の公開を拒んだため、ついに真相は不明のままたったという。
しかし、板坂剛村松剛を批判し、「村松が切り札のように持ち出している越次倶子の写真の件だが、私はこれを信用することができない。というのも差別問題に関係する家系には、複数の過去帳が存在すると言われているからだ。もともと過去帳が家系を美化するためのものであるのなら、さしさわりのある部分を残した過去帳とは別のさしさわりのないように書き換えられたものが存在するのも当然である。そして、外部の人間に写真を撮らせるようなことがあったとしたら、それがさしさわりのあるものであったはずがないのだ」と述べている[257]。また板坂剛は、地元の噂に平岡家の祖先が“刑場の役人の下働き”をしていたというものがあることに触れているが、「平岡家の祖先が“刑場の役人の下働き”をしていた、といってもそれが即、“被差別部落民だった”ということに繋がるわけではない」という意見も同時に述べている[257]。真福寺の住職夫人も、「どうして差別が生まれたのか、私らには理解できんですね。その地域の出身の人の方が、優秀な人が多いみたいですしね」と語っているという。また、この件についての様々な憶測に対して、住職夫人は、「ただ名前が書いてあるだけですよ。他には何も書いてないですよ。いろんなことを言う人がいますけどね」と述べている[257]
近年、過去帳を見ることができた福島鑄郎は、新版の『再訂資料・三島由紀夫』(2005年9月版)の中で、平岡姓は四代目利兵衛から名のっているとし、「仲野羞々子が言うような情報は見つからなかった」、「刑場の役人の下働きをしていたという地元の噂であるが、根拠については定かでない。ただ、事件と何かを結びつけたいという心理がそうさせたともうかがえる。いずれにしても平岡家の代になってからは何事もない」と述べている[262]。また、「(赤門事件が本当なのか、鶴を射った話の方が本当なのかは判らないが)いずれにせよ、“おかみをおそれぬ行為”は、三島由紀夫の血の中に受けつがれていった」という見解を示している[262]。なお板坂剛は、福島鑄郎が唯一、仲野羞々子に直接取材したことのある三島研究者だと著書で書いていたが、福島鑄郎は仲野羞々子からは直接事情を聞くことができなかったと書いている。福島鑄郎が直接取材できたのは、『農民文学』に登場する志方町農協組合の元組合長である[262]
平岡家系図
初代孫左衛門
 
2代目孫左衛門
 
初代利兵衛
 
2代目利兵衛
 
3代目利兵衛
 
太左衛門
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
太吉
 
 
萬次郎
 
 
こと
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
公威(三島由紀夫)
 
 
紀子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寺岡つる
 
 
桜井ひさ
 
 
萬壽彦
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
定太郎
 
 
 
 
 
 
杉山瑤子
 
 
威一郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
美津子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
永井なつ
 
 
 
 
 
 
千之
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義夫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
久太郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
むめ
 
 
義之
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義顕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
田中豊蔵
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
儀一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
杉山寧
 
瑤子
 
 
紀子
 
 
 
 
 
 
 
平岡定太郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
平岡梓
 
 
平岡公威(三島由紀夫)
 
 
平岡威一郎
 
 
 
 
 
 
永井岩之丞
 
なつ
 
 
 
 
 
 
 
美津子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
橋健三
 
倭文重
 
 
平岡千之
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
近藤三郎
 
近藤晋一
 
 
夏美
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寿美
 
 
久美
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
斎木俊男
 
 
 
 
 
 
 
 
14代目竹中藤右衛門
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
竹中宏平
 
竹中祐二
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
竹中錬一
 
 
公子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
米内光政
 
和子
 
 
まる子
 
 
栄子(影木栄貴)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
竹下登
 
 
内藤武宣
 
 
内藤大湖(DAIGO)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
一子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
金丸信
 
金丸康信
 
 
 
 
 

永井家[編集]

永井氏系譜(武家家伝)

三島の『花ざかりの森』は自伝小説ではないが、その中に、〈わたしは武家公家祖先をもつてゐる〉という表現があり[60]安藤武はその点に関し、三島の中で、祖母・平岡なつの祖父・永井尚志を武家の血縁とし、なつの行儀見習先の有栖川宮熾仁親王宅を公家の祖先とする意識の表現があったのではないかと推察している[17][注釈 25]

夏子の祖父・永井尚志は、松平乗真奥殿藩初代城主)から五代乗尹の子として1806年(文化3年)11月3日に誕生。尚志は父の晩年に生まれた息子であった。すでに家督(六代)を養子乗羨に定めた後に生まれた。1840年天保11年)、25歳の時、永井尚徳の養子となった。1854年安政元)に長崎海軍伝習所の総監理(所長)として長崎に赴き、長崎製鉄所の創設に着手するなど活躍した。徳川幕府海軍創設に甚大な貢献をなし、1855年安政2年)、従五位下玄蕃頭に叙任。1860年(安政5年)7月に外国奉行1861年(安政6年)2月に軍艦奉行1862年文久2年)8月に京都町奉行となる。京摂の間、坂本龍馬等志士とも交渉を持った。1864年元治元年)に大目付1867年(慶応3年)に若年寄1868年(慶応4年)8月、榎本武揚と共に函館に走り、函館奉行となる。維新後は、1875年(明治8年)に元老院権大書記官。1891年(明治24年)7月1日没、享年76。

尚志の孫・大屋敦夏子の弟。元住友本社理事、日銀政策委員)は、祖父・永井尚志について『私の履歴書』(日本経済新聞 1964年に連載)の中で、「軍艦奉行として日本海軍の創設者であったゆえをもって、烏帽子直垂といったいでたちの写真が、元の海軍記念館に飾られていたことを記憶している。(中略)そういう波乱に富んだ一生を送った祖父は、政治家というより、文人ともいうべき人であった。徳川慶喜公が大政奉還する際、その奏上文を草案した人として名を知られている。勝海舟なども詩友として祖父に兄事していたため、私の昔の家に、海舟のたくさんの遺墨のあったことを記憶している」と語っている[267]

永井亨(夏子の弟。経済学博士)によると、祖父・尚志は京都では守護職の松平容保会津藩主)の下ではたらき、近藤勇土方歳三以下の新撰組の面々にも人気があったという[268]。尚志の晩年については、「向島の岩瀬肥後守という、若くして死にましたが偉い人物がおりました。その人の別荘に入り、その親友の岩瀬を邸前に祭って死ぬまで祀をたたず、明治二十四年七月一日に七十六歳で死んでおります。私は数え年十四の年でしじゅう遊びに参っておりましたのでよく覚えております」と語っている[268]

三島は映画『人斬り』(監督・五社英雄)に薩摩藩士・田中新兵衛の役で出演した際のことを、林房雄宛の書簡(1969年6月13日付)の中で、「明後日は大殺陣の撮影です。新兵衛が腹を切つたおかげで、不注意の咎で閉門を命ぜられた永井主水正曾々孫が百年後、その新兵衛をやるのですから、先祖は墓の下で、目を白黒させてゐることでせう」と記している[269]

夏子の父・永井岩之丞は、1846年弘化2年9月)、永井家一族の幕臣・三好山城守幽雙の二男として生まれ、永井尚志養子となる。水戸支藩宍戸藩藩主松平頼位の三女・松平鷹(のちに高)と結婚し、六男六女を儲ける。松平高の母は佐々木氏の娘で、松平頼位の側室であった。新門辰五郎の姪でもある。岩之丞は戊辰戦争では、父・永井尚志と共に品川を脱出し、函館五稜郭に立て籠もり、共に戦う。維新後、1873年(明治6年)7月に司法省十等出仕を命ぜられ、1880年(明治13年)5月に判事1883年(明治16年)1月に控訴院判事1894年(明治27年)4月に大審院判事となる。1907年(明治40年)5月25日に没、享年62。

父・永井岩之丞について、六男・大屋敦は、「父は融通など全くきかぬ厳格そのもののような人だった。子供の教育については、なにひとつ干渉しなかったが日常の起居は古武士のようであぐらなどかいた姿を、ただの一度も見たことはなかった。当時の判事行政官に比べるときわめて簿給で、それで十二人の子女を養わねばならなかったから、当然清貧であった。私どもと同じ上野桜木町に住む父の実弟三好晋六郎は日本の造船界黎明期の権威者で、東京帝大教授であり、産業界にも深いつながりを持っていた関係で、今の大学の先生など想像のできぬ豊かな暮らしをしていたが、兄弟仲はすこぶるむつまじかったようである」[267] と語っている。母・高については、「私の母の生まれた家もやはり小大名で、水戸烈公の弟の家であります。長兄松平大炊頭、頼徳は有名な武田耕雲斎のときに幕府から切腹を仰せつかり、家系ともどもみな切腹してしまいました。私の母は、家は貧しかったのでありますが、そこの家の娘として育って、十六歳ぐらいのころに私のおやじのところへ嫁に参りまして、その間に初めて十二人の子供ができたのであります。(中略)そんな訳で、母は水戸の宍戸藩藩主の家でありますが、私の血筋には江戸っ子水戸っ子の両方が伝わっておるのであります」、「かように母の家は格式は高いが小藩で、維新後は貧乏華族の一つであった。(中略)十二人の子を産み、貧乏暮らしに一生を終わった。母はそういうことをうらみにも思わず、不平もこぼさず、父なき後は、たくさんの子供たちとその友だちにかこまれ、関東大震災後、上野東照宮社務所の一室で安らかに世を去った」[267] と語っている。

永井家系図
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
良将
 
将門
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
桓武天皇
 
葛原親王
 
高見王
 
平高望
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
良兼
 
公雅
 
致頼
 
致経
 
致房
 
長田行致
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
政俊
 
(6代略)
 
直重
 
白広
 
重広
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
後醍醐天皇
 
宗良親王
 
興良親王
 
良王
 
大橋信重
 
定広
 
 
広正
 
重元
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
由利姫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
正直
 
直隆
 
正似
 
正治
 
正次
 
(5代略)
 
匡威
 
匡温
 
壮吉(荷風)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
永井直勝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尚政
 
尚庸
 
直敬
 
尚方
 
尚恕
 
尚友
 
尚徳
 
尚志
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
阿部正勝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩之丞
 
 
壮吉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
なつ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
平岡梓
 
平岡公威(三島由紀夫)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
平岡定太郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大屋敦
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
千恵
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
清子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
文子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
永井尚志系図
藤原鎌足
 
不比等
 
房前
 
(18代略)
 
本多助秀
 
(27代略)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
乗友
 
乗羨
 
 
 
 
 
 
 
 
 
松平乗真
 
盈乗
 
乗穏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
乗尹
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
永井尚志
 
 
永井岩之丞系図
加賀美遠光
 
小笠原長清
 
長房
 
(22代略)
 
三好幽雙
 
岩之丞
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
永井尚志
 
 
 
 
 
 
松平家系図
 
 
 
 
 
秀忠
 
家光
 
家綱
 
綱吉
 
(九代略)
 
慶喜
 
 
 
 
 
 
 
徳川家康
 
 
義直
 
 
松平頼重
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
頼宣
 
 
光圀
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
頼房
 
 
松平頼元
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
松平頼隆
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
松平頼利
 
頼道
 
頼慶
 
頼多
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
松平頼雄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
頼敬
 
頼筠
 
 
壮吉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
頼救
 
 
太田資原
 
 
頼徳
 
 
なつ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
定三郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
平岡梓
 
 
平岡公威(三島由紀夫)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
頼位
 
 
 
 
平岡定太郎
 
 
 
 
 
 
 
美津子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
頼安
 
 
 
橋倭文重
 
 
平岡千之
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩之丞
 
 
大屋敦
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
頼平
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
千恵
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
清子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
文子
 
 
 
 
 
 
 
 
 

橋家[編集]

母方の祖父・橋健三、曽祖父・橋健堂、高祖父・橋一巴は、加賀藩藩主・前田家に代々仕えた漢学者書家であった。名字帯刀を許され、学塾においては藩主・前田家の人々に講義をしていた。橋一巴は「鵠山」と号した。一巴の長男で、健堂の兄・往来も漢学者、書家で、「石甫」「対蘭軒」と号した。

高祖父・一巴以前の橋家は、近江八幡(滋賀県にある琵琶湖畔、日野川の近く)の広大な山林の持主である賀茂(橋)一族である。1970年(昭和45年)、滋賀県の調査により、この土地が賀茂(橋)一族の橋一巴 - 橋健堂 - 橋健三の流れを汲む直系の子孫に所有権があることが判明した。近江八幡に移り居城していた賀茂(橋)家は、約一千年の歴史をもつ古い家柄の京都の橋家が元であり、島根県の出雲の出身だという[19]

曽祖父・健堂は、夜学女子教育の充実など、教育者として先駆的であった。また、「壮猶館」「集学所」など、その出処進退は藩の重要プロジェクトと連動し、健堂が出仕した「壮猶館」は、単なる儒学を修める藩校ではなく、1853年(嘉永6年)のペリー率いる黒船の来航に刺激された加賀藩が、命運を賭して創設した軍事機関であった。健堂は市井の漢学者ではなく、軍事拠点の中枢にあって、海防論を戦わせ、佐野鼎から洋式兵学を吸収する立場にあった人物であったという[251]

三島の『春の雪』には、松枝侯爵家の別邸として「終南別業」が登場する。王摩詰の詩の題をとって号した「終南別業」は、旧加賀藩主・前田本家第16代目当主・前田利為侯爵家の広壮な別邸をモデルとしている。

橋家系図
 
 
 
 
 
往来
 
船次郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
橋一巴
 
 
 
 
 
 
 
つね
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
健堂
 
 
ふさ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
こう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
橋健行
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
瀬川健三
 
 
雪子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
橋正男
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
トミ
 
 
橋健雄
 
 
平岡公威(三島由紀夫)
 
 
紀子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
より
 
 
橋行蔵
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ひな
 
 
倭文重
 
 
杉山瑤子
 
 
平岡威一郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
美津子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
平岡梓
 
 
平岡千之
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
重子
 
 
 
 
 
 
 
 
 

おもな作品[編集]

★印は学習院時代の作品

短編小説[編集]

  • 酸模――秋彦の幼き思ひ出(輔仁会雑誌 1938年3月)★
  • 座禅物語(輔仁会雑誌 1938年3月)★
  • 墓参り(輔仁会雑誌 1938年7月)★ - 連作「鈴鹿鈔」の一作。
  • 暁鐘聖歌(輔仁会雑誌 1938年7月)★ - 連作「鈴鹿鈔」の一作。
  • 心のかゞやき(1940年3月)★ - 未完
  • 仔熊の話(1940年6月)★
  • 神官(1940年)★
  • 彩絵硝子〈だみえがらす〉(輔仁会雑誌 1940年11月)★
  • 花ざかりの森文藝文化 1941年9月-12月)★
  • 青垣山の物語(1942年2月)★
  • 苧菟と瑪耶〈おっとおとまや〉(赤繪 1942年7月)★
  • みのもの月(文藝文化 1942年11月)★
  • 玉刻春(輔仁会雑誌 1942年12月)★
  • 世々に残さん(文藝文化 1943年3月)★
  • 祈りの日記(赤絵 1943年6月)★
  • 曼荼羅物語(輔仁会雑誌 1943年12月)★
  • 檜扇(1944年1月)★ - 2000年11月『新潮』に初掲載。
  • 朝倉(文藝世紀 1944年7月)★
  • 中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋(文藝文化 1944年8月)★ - 改題前は「夜の車」
  • 中世(文藝世紀 1945年2月-1946年1月、人間 1946年12月)
  • エスガイの狩(文藝 1945年5・6月。戦乱のため発行は8月に遅延)
  • 黒島の王の物語の一場面(東雲 1945年6月)
  • 菖蒲前(現代 1945年10月)
  • 贋ドン・ファン記(新世紀 1946年6月)
  • 煙草(人間 1946年6月)
  • 岬にての物語群像 1946年11月)
  • 恋と別離と(婦人画報 1947年3月)
  • 軽王子と衣通姫(群像 1947年4月)
  • 鴉(光耀 1947年8月)
  • 夜の仕度(人間 1947年8月)
  • ラウドスピーカー(文藝大学 1947年12月)
  • 春子(人間 1947年12月)
  • サーカス(進路 1948年1月)
  • 婦徳(令女界 1948年1月)
  • 接吻(マドモアゼル 1948年1月)
  • 伝説(マドモアゼル 1948年1月)
  • 白鳥(マドモアゼル 1948年1月)
  • 哲学(マドモアゼル 1948年1月)
  • 蝶々(花 1948年2月) - 改題前は「晴れた日に」
  • 殉教(丹頂 1948年4月)
  • 親切な男(新世間 1948年4月)
  • 家族合せ(文學季刊 1948年4月)
  • 人間喜劇(1948年4月) - 1974年10月刊行の全集2巻に初収録。
  • 頭文字(文學界 1948年6月)
  • 慈善(改造 1948年6月)
  • 宝石売買(文藝 1948年6月)
  • 罪びと(婦人 1948年7月)
  • 好色(小説界 1948年7月)
  • 不実な洋傘(婦人公論 1948年10月)
  • 山羊の首(別冊文藝春秋 1948年11月)
  • 獅子(序曲 1948年12月)
  • 幸福といふ病気の療法(文藝 1949年1月)
  • 恋重荷(群像 1949年1月)
  • 毒薬の社会的効用について(風雪 1949年1月)
  • 大臣(新潮 1949年1月)
  • 魔群の通過(別冊文藝春秋 1949年2月)
  • 侍童(小説新潮 1949年3月)
  • 天国に結ぶ恋(オール讀物 1949年6月)
  • 訃音(改造 1949年7月)
  • 舞台稽古(女性改造 1949年9月)
  • 星(評論 1949年9月)
  • 薔薇(文藝往来 1949年10月)
  • 退屈な旅(別冊小説新潮 1949年10月)
  • 親切な機械(風雪 1949年11月)
  • 孝経(展望 1949年11月)
  • 火山の休暇(改造文藝 1949年11月)
  • 怪物(別冊文藝春秋 1949年12月)
  • 花山院(婦人朝日 1950年1月)
  • 果実(新潮 1950年1月)
  • 鴛鴦(文學界 1950年1月)
  • 修学旅行(週刊朝日 1950年3月1日)
  • 日曜日(中央公論 1950年7月)
  • 遠乗会(別冊文藝春秋 1950年8月)
  • 孤閨悶々(オール讀物 1950年8月)
  • 日食(朝日新聞夕刊 1950年9月19日)
  • 食道楽(サンデー毎日別冊 1950年10月20日)
  • 牝犬(別冊文藝春秋 1950年12月)
  • 女流立志伝(オール讀物 1951年1月)
  • 家庭裁判(文藝春秋 1951年1月)
  • 偉大な姉妹(新潮 1951年3月)
  • 箱根細工(小説公園 1951年3月)
  • 椅子(別冊文藝春秋 1951年3月)
  • 死の島(改造 1951年4月)
  • ――ゴーティエ風の物語(文學界 1951年5月)
  • 右領収仕候(オール讀物 1951年5月)
  • 手長姫(小説新潮 1951年6月)
  • 朝顔(婦人公論 1951年8月)
  • 携帯用(新潮 1951年10月)
  • 離宮の松(別冊文藝春秋 1951年12月)
  • クロスワード・パズル(文藝春秋 1952年1月)
  • 学生歌舞伎気質(小説新潮 1952年1月)
  • 近世姑気質(オール讀物 1952年1月)
  • 金魚と奥様(オール讀物 1952年9月)
  • 真夏の死(新潮 1952年10月) - 1967年フォルメントール国際文学賞第2位受賞。
  • 二人の老嬢(週刊朝日 1952年11月30日)
  • 美神(文藝 1952年12月)
  • 江口初女覚書(別冊文藝春秋 1953年4月)
  • 雛の宿(オール讀物 1953年4月)
  • 旅の墓碑銘(新潮 1953年6月)
  • 急停車(中央公論 1953年6月)
  • 卵(群像 1953年6月)
  • 不満な女たち(文藝春秋 1953年7月)
  • 花火(改造 1953年9月)
  • ラディゲの死(中央公論 1953年10月)
  • 陽気な恋人(サンデー毎日 1953年10月30日)
  • 博覧会(群像 1954年6月)
  • 芸術狐(オール讀物 1954年6月)
  • 鍵のかかる部屋(新潮 1954年7月)
  • 復讐(別冊文藝春秋 1954年7月)
  • 詩を書く少年(文學界 1954年8月)
  • 志賀寺上人の恋(文藝春秋 1954年10月)
  • 水音(世界 1954年11月)
  • S・O・S(小説新潮 1954年11月)
  • 海と夕焼(群像 1955年1月)
  • 新聞紙(文藝 1955年3月)
  • 商ひ人(新潮 1955年4月)
  • 山の魂(別冊文藝春秋 1955年4月)
  • 屋根を歩む(オール讀物 1955年5月)
  • 牡丹(文藝 1955年7月)
  • 青いどてら(朝日新聞 1956年1月15日)
  • 十九歳(文藝 1956年3月)
  • 足の星座(オール讀物 1956年7月)
  • 施餓鬼舟(群像 1956年10月)
  • 橋づくし(文藝春秋 1956年12月)
  • 女方(世界 1957年1月)
  • 色好みの宮(オール讀物 1957年7月)
  • 貴顕(中央公論 1957年8月)
  • 影(オール讀物 1959年11月)
  • 百万円煎餅(新潮 1960年9月)
  • 愛の処刑ADONIS 1960年10月)
  • スタア(群像 1960年11月)
  • 憂国(小説中央公論 1961年1月)
  • 苺(オール讀物 1961年9月)
  • 帽子の花(群像 1962年1月)
  • 魔法瓶(文藝春秋 1962年1月)
  • 月(世界 1962年8月)
  • 葡萄パン(世界 1963年1月)
  • 真珠(文藝 1963年1月)
  • 自動車(オール讀物 1963年1月)
  • 可哀さうなパパ(小説新潮 1963年3月)
  • 雨のなかの噴水(新潮 1963年8月)
  • 切符(中央公論 1963年8月)
  • (新潮 1963年10月)
  • 月澹荘綺譚(文藝春秋 1965年1月)
  • 三熊野詣(新潮 1965年1月)
  • 孔雀(文學界 1965年2月)
  • 朝の純愛(日本 1965年6月)
  • 仲間(文藝 1966年1月)
  • 英霊の聲(文藝 1966年6月)
    • 先行試作「悪臣の歌」(1966年)あり。
  • 荒野より(群像 1966年10月)
  • 時計(文藝春秋 1967年1月)
  • 蘭陵王(群像 1969年11月)

長編小説[編集]

戯曲・歌舞伎[編集]

☆印は潤色・修辞作品

  • 東の博士たち(輔仁会雑誌 1939年3月)★
  • 路程(1939年9月28日以前)★
  • 基督降誕記(1939年8月-9月)★
  • 館(輔仁会雑誌 1939年11月)★ - 中断した第2回は未完。
  • やがてみ楯と(1943年6月)★ - 学習院輔仁会春季文化大会で上演。
  • 狐会菊有明(まほろば 1944年3月) - 舞踊劇。未上演。
  • あやめ(婦人文庫 1948年5月)
  • 火宅(人間 1948年11月)
  • 愛の不安(文藝往来 1949年2月)
  • 燈台(文學界 1949年5月)
  • ニオベ(群像 1949年10月)
  • 聖女(中央公論 1949年10月)
  • 魔神礼拝(改造 1950年3月)
  • 邯鄲――近代能楽集ノ内(人間 1950年10月)
  • 綾の鼓――近代能楽集ノ内(中央公論 1951年1月)
  • 艶競近松娘(柳橋みどり会プログラム 1951年10月) - 舞踊劇。
  • 姫君と鏡(青山圭男若柳登・新作舞踊発表会プログラム 1951年11月) - 舞踊劇。
  • 鯉になつた和尚さん(誠文堂新光社 1951年11月)
  • 卒塔婆小町――近代能楽集ノ内(群像 1952年1月)
  • 紳士(演劇 1952年1月) - 無言劇。
  • 只ほど高いものはない(新潮 1952年2月)
  • 夜の向日葵(群像 1953年4月)
  • 室町反魂香(柳橋みどり会プログラム 1953年10月) - 舞踊劇。
  • 地獄変(1953年12月初演)
  • 葵上――近代能楽集ノ内(新潮 1954年1月)
  • 若人よ蘇れ(群像 1954年6月)
  • 溶けた天女(新劇 1954年7月) - オペレッタ。未上演。
  • ボン・ディア・セニョーラ(1954年9月初演) - オペレッタ。1974年の全集で初活字化。
  • 鰯売恋曳網(演劇界 1954年11月)
  • ボクシング(文化放送脚本 1954年11月) - 第9回文部省芸術祭放送部門参加。
  • 班女――近代能楽集ノ内(新潮 1955年1月)
  • 恋には七ツの鍵がある(1955年3月初演)
  • 熊野三田文学 1955年5月) - 歌舞伎舞踊。
  • 三原色(知性 1955年8月)
  • 船の挨拶(文藝 1955年8月)
  • 白蟻の巣(文藝 1955年9月) - 第2回岸田演劇賞受賞。
  • 芙容露大内実記(文藝 1955年12月)
  • 大障碍(文學界 1956年3月)
  • 鹿鳴館(文學界 1956年12月)

随想・自伝・エッセイ・日誌・紀行[編集]

  • 狸の信者(輔仁会雑誌 1938年7月)★ - 連作「鈴鹿鈔」の一作。
  • 惟神之道〈かんながらのみち〉(1941年9月)★
  • 芝居日記(1942年1月-1947年11月)★ - 原題「平岡公威劇評集」。1989年10月-1990年2月『マリ・クレール』に初掲載。
  • 東文彦 弔詞(1943年10月) - 1998年12月『新潮』に掲載。
  • 東徤兄を哭す(輔仁会雑誌 1943年12月)★
  • 柳桜雑見録(文藝文化 1943年12月)★
  • 平岡公威伝(1944年2月)★
  • 扮装狂(1944年8月)★ - 2000年11月『新潮』に初掲載。
  • 廃墟の朝(1944年夏)★
  • 詩論その他(1945年5月-6月) - 2000年11月『新潮』に抜粋初掲載。
  • 別れ(輔仁会報 1945年7月)
  • 昭和廿年八月の記念に(1945年8月) - 1979年3月『新潮』に初掲載。
  • 戦後語録(1945年9月)
  • 川端康成印象記(1946年1月)
  • わが世代の革命(午前 1946年7月)
  • 招かれざる客(書評 1947年9月)
  • 重症者の兇器(人間 1948年3月)
  • 師弟(青年 1948年4月)
  • ツタンカーメンの結婚(財政 1948年5月)
  • 反時代的な芸術家(玄想 1948年9月)
  • 悲劇の在処(東京日日新聞 1949年6月28日)
  • 戯曲を書きたがる小説書きのノート(日本演劇 1949年10月)
  • 大阪の連込宿――「愛の渇き」の調査旅行の一夜(文藝春秋 1950年6月)
  • 虚栄について(美しい暮しの手帖 1950年10月)
  • 声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性(スタイル 1950年12月)
  • アポロの杯(各誌 1952年4月-8月、朝日新聞社 10月)
  • 遠視眼の旅人(週刊朝日 1952年6月8日)
  • 最高の偽善者として――皇太子殿下への手紙(婦人公論 1952年12月)
  • 私の好きな作中人物――希臘から現代までの中に(別冊文藝春秋 1952年12月)
  • 愉しき御航海を――皇太子殿下へ(1953年3月) - 発表誌未詳。
  • 蔵相就任の想ひ出――ボクは大蔵大臣(明窓 1953年4月・5月)
  • 堂々めぐりの放浪(毎日新聞 1953年8月22日)
  • 芝居と私(文學界 1954年1月)
  • 女ぎらひの弁(新潮 1954年8月)
  • 好きな女性(知性 1954年8月)
  • 私の小説の方法(河出書房 1954年9月) - 『文章講座4』収録。
  • 空白の役割(新潮 1955年6月)
  • 終末感からの出発――昭和二十年の自画像(新潮 1955年8月)
  • 八月十五日前後(毎日新聞 1955年8月14日)
  • 戯曲の誘惑(東京新聞 1955年9月6日-7日)
  • 小説家の休暇(書き下ろし/講談社 1955年11月)
  • 新恋愛講座明星 1955年12月-1956年12月)
  • 歴史の外に自分をたづねて――三十代の処生(中央公論 1956年2月)
  • ラディゲに憑かれて――私の読書遍歴(日本読書新聞 1956年2月20日)
  • わが漫画(漫画読売 1956年3月5日)
  • わが魅せられたるもの(新女苑 1956年4月)
  • 自己改造の試み――重い文体と鴎外への傾倒(文學界 1956年8月)
  • ボディ・ビル哲学(漫画読売 1956年9月20日)
  • 或る寓話(群像 1956年10月)
  • 文学とスポーツ(新体育 1956年10月)
  • ボクシングと小説(毎日新聞 1956年10月7日)
  • 陶酔について(新潮 1956年11月)
  • わが思春期(明星 1957年1月-9月)
  • 旅の絵本(各誌 1957年12月-1958年4月)
  • 裸体と衣裳――日記(新潮 1958年4月-1959年9月)
  • 外遊日記(新潮 1958年7月、9月、11月)
  • 不道徳教育講座(週刊明星 1958年7月27日-1959年11月29日)
  • 私の見合結婚(主婦の友 1958年7月)
  • 作家と結婚(婦人公論 1958年7月)
  • 母を語る――私の最上の読者(婦人生活 1958年10月)
  • 同人雑記(聲 1958年10月-1960年10月)
  • 十八歳と三十四歳の肖像画(群像 1959年5月)
  • ぼくはオブジェになりたい(週刊公論 1959年12月1日)
  • 夢の原料(輔仁会雑誌 1960年12月)
  • ピラミッドと麻薬(毎日新聞 1961年1月28日)
  • 美に逆らふもの(新潮 1961年4月) - タイガーバームガーデン紀行。
  • 汽車への郷愁(弘済 1961年5月)
  • 法律と文学(東大緑会大会プログラム 1961年12月)
  • 第一の性(女性明星 1962年12月-1964年12月)
  • 私の遍歴時代(東京新聞 1963年1月10日-5月23日)
  • 私の中の“男らしさ”の告白(婦人公論 1963年4月)
  • 小説家の息子(教育月報 1963年7月)
  • 一S・Fファンのわがままな希望(宇宙塵 1963年9月)
  • わが創作方法(文學 1963年11月)
  • 写真集「薔薇刑」のモデルをつとめて――ぷらす・まいなす’63(読売新聞 1963年12月28日)
  • 夢と人生(岩波書店 1964年5月) - 『日本古典文学大系77 篁物語・平中物語浜松中納言物語』月報
  • 私の小説作法(毎日新聞 1964年5月10日)
  • 天狗道(文學界 1964年7月)
  • 熊野路――新日本名所案内(週刊朝日 1964年8月28日)
  • 秋冬随筆(こうさい 1964年10月-1965年3月)
  • 実感的スポーツ論(読売新聞 1964年10月5日-6日、9日-10日、12日)
  • 東洋と西洋を結び火――開会式(毎日新聞 1964年10月11日)
  • 「別れもたのし」の祭典――閉会式(報知新聞 1964年10月25日)
  • 男のおしやれ(平凡通信 1964年12月)
  • 反貞女大学産経新聞 1965年2月7日-12月19日)
  • 法学士と小説(学士会会報 1965年2月)
  • ロンドン通信・英国紀行(毎日新聞 1965年3月25日・4月9日-10日)
  • 私の戦争と戦後体験――二十年目の八月十五日( 1965年8月)
  • 太陽と鉄(批評 1965年11月-1968年6月)
  • をはりの美学(女性自身 1966年2月14日-8月1日)
  • 「われら」からの遁走――私の文学(講談社 1966年3月) - 『われらの文学5 三島由紀夫』収録。
  • わが育児論(主婦の友 1966年4月)
  • 二・二六事件と私(河出書房新社 1966年6月) - 作品集『英霊の聲』付録。
  • 闘牛士の美(平凡パンチ 1966年6月10日)
  • 私の遺書(文學界 1966年7月)
  • 私のきらひな人(話の詩集 1966年7月)
  • ビートルズ見物記(女性自身 1966年7月18日)
  • 私の健康法――まづボデービル(読売新聞 1966年8月21日)
  • 年頭の迷ひ(読売新聞 1967年1月1日)
  • 男の美学(HEIBONパンチDELUXE 1967年3月)
  • 紫陽花の母(潮文社 1967年10月) - TBSラジオ「母を語る」活字化。
  • いかにして永生を?(文學界 1967年10月)
  • 青年について(論争ジャーナル 1967年10月) - 万代潔との出逢いを語る。
  • インドの印象(毎日新聞 1967年10月20日-21日)
  • 「文芸文化」のころ(番町書房 1968年1月) - 『昭和批評大系2 昭和10年代』月報
  • 日本の古典と私(秋田魁新報 1968年1月1日)
  • F104(文藝 1968年2月) - F104戦闘機試乗体験記。
  • 電灯のイデア――わが文学の揺籃期(新潮社 1968年9月) - 『新潮日本文学45 三島由紀夫集』月報1
  • 軍服を着る男の条件(平凡パンチ 1968年11月11日)
  • 怪獣の私生活(NOW 1968年12月)
  • ホテル(朝日新聞PR版 1969年5月25日)
  • 人斬り」出演の記(大映グラフ 1969年8月)
  • 劇画における若者論(サンデー毎日 1970年2月1日)
  • 独楽(辺境 1970年9月)
  • 愛するといふこと(女の部屋 1970年9月)
  • 滝ヶ原分屯地は第二の我が家(たきがはら 1970年9月25日)

文芸評論・作家論・芸術論・劇評[編集]

  • 田中冬二小論(1940年6月)★
  • 王朝心理文学小史(1942年1月)★ - 学習院図書館の第4回懸賞論文に入選。
  • 古今の季節(文藝文化 1942年7月)★
  • 伊勢物語のこと(文藝文化 1942年11月)★
  • うたはあまねし(文藝文化 1942年12月)★
  • 夢野之鹿(輔仁会雑誌 1943年12月)★
  • 古座の玉石――伊東静雄覚書(文藝文化 1944年1月)★
  • 檀一雄「花筐」――覚書(まほろば 1944年6月)★
  • 川端氏の「抒情歌」について(民生新聞 1946年4月29日)
  • 宗十郎覚書(スクリーン・ステージ 1947年10月20日)
  • 相聞歌の源流(日本短歌 1948年1月・2月)
  • 情死について――やゝ矯激な議論(婦人文庫 1948年10月)
  • 川端康成論の一方法――「作品」について(近代文学 1949年1月)
  • 中村芝翫論(季刊劇場 1949年2月)
  • 小説の技巧について(世界文学 1949年3月)
  • 雨月物語について(文藝往来 1949年9月)
  • 極く短かい小説の効用(小説界 1949年12月)
  • オスカア・ワイルド論(改造文藝 1950年4月)
  • 文学に於ける春のめざめ(女性改造 1951年4月)
  • 批評家に小説がわかるか(中央公論 1951年6月)
  • 新古典派(文學界 1951年7月)
  • 日本の小説家はなぜ戯曲を書かないか?(演劇 1951年11月)
  • 班女」拝見(観世 1952年7月)
  • 卑俗な文体について(群像 1954年1月)
  • ワットオの《シテエルへの船出》(芸術新潮 1954年4月)
  • 芥川龍之介について(文藝 1954年12月)
  • 横光利一と川端康成(河出書房 1955年2月) - 『文章講座6』収録。
  • 川端康成ベスト・スリー――「山の音」「反橋連作」「禽獣」(毎日新聞 1955年4月11日)
  • 芸術にエロスは必要か(文藝 1955年6月)
  • 福田恆存氏の顔(新潮 1955年7月)
  • 加藤道夫氏のこと(毎日マンスリー 1955年9月)
  • ぼくの映画をみる尺度・シネマスコープと演劇(スクリーン 1956年2月)
  • 永遠の旅人――川端康成氏の人と作品(別冊文藝春秋 1956年4月)
  • 西部劇礼讃(知性 1956年8月)
  • 楽屋で書かれた演劇論(芸術新潮 1957年1月)
  • 川端康成の東洋と西洋(国文学 解釈と鑑賞 1957年2月)
  • 現代小説は古典たり得るか(新潮 1957年6月-8月)
  • 心中論(婦人公論 1958年3月)
  • 文章読本(婦人公論別冊 1959年1月)
  • 川端康成氏再説(新潮社 1959年7月) - 『日本文学全集30 川端康成集』月報
  • 六世中村歌右衛門序説(講談社 1959年9月) - 写真集『六世 中村歌右衛門』序文
  • 「エロチシズム」――ジョルジュ・バタイユ室淳介訳」(聲 1960年4月)
  • 石原慎太郎氏の諸作品(筑摩書房 1960年7月) - 『新鋭文学叢書8 石原慎太郎集』解説。
  • ベラフォンテ讃(毎日新聞 1960年7月15日)
  • 黒いオルフェ」を見て(スクリーン 1960年8月)
  • 春日井建氏の「未青年」の序文(作品社 1960年9月)
  • 武田泰淳氏――僧侶であること(新潮社 1960年9月) - 『日本文学全集63 武田泰淳集』月報
  • 存在しないものの美学――「新古今集」珍解(国文学 解釈と鑑賞 1961年4月)
  • RECOMMENDING MR.YASUNARI KAWABATA FOR THE 1961 NOBEL PRIZE FOR LITERATURE(1961年5月) - 川端康成ノーベル文学賞推薦文。日本ペンクラブが6月12日付で英訳。
  • 川端康成氏と文化勲章北日本新聞 1961年10月22日) - 改題前「永遠に若い精神史」
  • 終末観と文学(毎日新聞 1962年1月4日)
  • 「純文学とは?」その他(風景 1962年6月)
  • 現代史としての小説(毎日新聞 1962年10月9日-10日)
  • 谷崎潤一郎論(朝日新聞 1962年10月17日-19日)
  • 川端康成読本序説(河出書房新社 1962年12月) - 『文芸読本 川端康成』寄稿
  • 踊り(毎日新聞 1963年1月4日)
  • 林房雄論(新潮 1963年2月)
  • 細江英公序説(集英社 1963年3月) - 『薔薇刑』序文
  • ロマンチック演劇の復興(婦人公論 1963年7月)
  • 変質した優雅(風景 1963年7月)
  • 芸術断想(芸術生活 1963年8月-1964年5月)
  • 文学座の諸君への「公開状」――「喜びの琴」の上演拒否について(朝日新聞 1963年11月27日)
  • 雷蔵丈のこと(日生劇場プログラム 1964年1月)
  • 解説(『日本の文学38 川端康成』)(中央公論社 1964年3月)
  • 解説(『現代の文学20 円地文子集』)(河出書房新社 1964年4月)
  • 文学における硬派――日本文学の男性的原理(中央公論 1964年5月)
  • 現代文学の三方向(展望 1965年1月)
  • 文学的予言――昭和四十年代(毎日新聞 1965年1月10日)
  • 谷崎朝時代の終焉(サンデー毎日 1965年8月15日)
  • 解説(『日本の文学2 森鴎外(一)』)(中央公論社 1966年1月)
  • 危険な芸術家(文學界 1966年2月)
  • 映画的肉体論――その部分及び全体(映画芸術 1966年5月)
  • ナルシシズム論(婦人公論 1966年7月)
  • 谷崎潤一郎、芸術と生活(中央公論社 1966年9月)- 『谷崎潤一郎全集』内容見本
  • 伊東静雄の詩――わが詩歌(新潮 1966年11月)
  • 谷崎潤一郎頌(日本橋三越 1966年11月) - 『文豪谷崎潤一郎展図録』
  • 青年像(芸術新潮 1967年2月)
  • 古今集新古今集(国文学攷 1967年3月)
  • ポップコーンの心霊術―横尾忠則論(1968年2月) - 横尾忠則著『私のアイドル』(改題後『横尾忠則 記憶の遠近術のこと』)序文
  • 仙洞御所』序文(淡交新社 1968年3月) - 『宮廷の庭I 仙洞御所』序文
  • 小説とは何か(波 1968年5月-1970年11月)
  • 野口武彦氏への公開状(文學界 1968年5月)
  • 解説(『日本の文学40 林房雄武田麟太郎島木健作』)(中央公論社 1968年8月)
  • 日沼氏と死(批評 1968年9月)
  • 篠山紀信論(毎日新聞社 1968年11月) - 『篠山紀信と28人のおんなたち』寄稿
  • All Japanese are perverse(血と薔薇 1968年11月) - 性倒錯
  • 解説(『日本の文学4 尾崎紅葉泉鏡花』)(中央公論社 1969年1月)
  • 序(矢頭保写真集『裸祭り』)(美術出版社 1969年2月)
  • 鶴田浩二論――「総長賭博」と「飛車角と吉良常」のなかの(映画芸術 1969年3月)
  • 日本文学小史(群像 1969年8月-1970年6月) - 第6章目は未完のまま中断。
  • 解説(『日本の文学52 尾崎一雄外村繁上林暁』)(中央公論社 1969年12月)
  • 眠れる美女』論(国文学 解釈と教材の研究 1970年2月)
  • 末期の眼(新潮社 1970年3月) - 『川端康成全集13巻』月報
  • 解説(『新潮日本文学6 谷崎潤一郎集』)(新潮社 1970年4月)
  • 性的変質から政治的変質へ――ヴィスコンティ地獄に堕ちた勇者ども」をめぐって(映画芸術 1970年4月)
  • 解説(『日本の文学34 内田百牧野信一稲垣足穂』)(中央公論社 1970年6月)
  • 柳田国男遠野物語』――名著再発見(読売新聞 1970年6月12日)
  • 忘我(映画芸術 1970年8月)

批評・世評・コラム・防衛論[編集]

  • 死の分量(1953年9月) - 発表誌未詳。
  • 道徳と孤独(文學界 1953年10月)
  • モラルの感覚――芸術家における誠実の問題(毎日新聞 1954年4月20日)
  • ファッシズム論(文學界 1954年10月)
  • 欲望の充足について――幸福の心理学(新女苑 1955年2月)
  • 電気洗濯機の問題(花園 1956年1月)
  • 亀は兎に追ひつくか?――いはゆる後進国の諸問題(中央公論 1956年9月)
  • きのふけふ(朝日新聞 1957年1月7日-6月24日) - コラム
  • 青春の倦怠(新女苑 1957年6月)
  • 憂楽帳(毎日新聞 1959年3月3日-5月26日) - コラム
  • 巻頭言(婦人公論 1960年1月-12月)
  • 社会料理三島亭(婦人倶楽部 1960年1月-12月)
  • 一つの政治的意見(毎日新聞 1960年6月25日)
  • 発射塔(読売新聞 1960年7月6日-10月26日) - コラム
  • アメリカ人の日本神話(HOLIDAY 1961年2月) - ”Japan:The Cherished Myths” と英訳。
  • 魔――現代的状況の象徴的構図(新潮 1961年7月)
  • 堀江青年について(中央公論 1962年11月)
  • 天下泰平の思想(論争 1963年9月)
  • 生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ(文芸朝日 1964年7月)
  • 文武両道(月刊朝雲 1965年10月)
  • 日本人の誇り(朝日新聞 1966年1月1日)
  • お茶漬ナショナリズム(文藝春秋 1966年4月)
  • 法律と餅焼き(法学セミナー 1966年4月)
  • 団蔵・芸道・再軍備(20世紀 1966年9月)
  • 序(舩坂弘著『英霊の絶叫』)(文藝春秋 1966年12月)
  • 日本への信条(愛媛新聞 1967年1月1日)
  • 忘却と美化(戦中派 1967年2月)
  • 「道義的革命」の論理――磯部一等主計の遺稿について(文藝 1967年3月)
  • 私の中のヒロシマ――原爆の日によせて(週刊朝日 1967年8月11日) - 改題前は「民族的憤怒を思ひ起せ――私の中のヒロシマ」
  • 人生の本――末松太平著『私の昭和史』(週刊文春 1967年8月14日)
  • 葉隠入門――武士道は生きてゐる(光文社 1967年9月)
  • 青年論――キミ自身の生きかたを考へるために(平凡パンチ 1967年10月5日)
  • J・N・G仮案(Japan National Guard――祖国防衛隊)(祖国防衛隊パンフレット 1968年1月)
  • 祖国防衛隊はなぜ必要か?(祖国防衛隊パンフレット 1968年1月)
  • 愛国心(朝日新聞 1968年1月8日)
  • 円谷二尉の自刃(産経新聞 1968年1月13日)
  • 二・二六事件について――“日本主義”血みどろの最期(週刊読売 1968年2月23日)
  • 若きサムラヒのための精神講話(PocketパンチOh! 1968年6月-1969年5月)
  • フィルターのすす払ひ――日本文化会議発足に寄せて(読売新聞 1968年6月18日)
  • 文化防衛論(中央公論 1968年7月)
  • 機能と美(男子専科 1968年9月)
  • 栄誉の絆でつなげ菊と刀(日本及び日本人 1968年9月)
  • 橋川文三への公開状(中央公論 1968年10月)
  • 自由と権力の状況(自由 1968年11月)
  • 「戦塵録」について(昭和文明研究会 1969年1月) - 木下静雄著への寄稿
  • 東大を動物園にしろ(文藝春秋 1969年1月)
  • 現代青年論(読売新聞 1969年1月1日)
  • 維新の若者(報知新聞 1969年1月1日)
  • 反革命宣言(論争ジャーナル 1969年2月)
  • 自衛隊二分論(20世紀 1969年4月)
  • 一貫不惑(光風社書店 1969年5月) - 影山正治著『日本民族派の運動』付録
  • 砂漠の住人への論理的弔辞――討論を終へて(新潮社 1969年6月) - 『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘』付録
  • 北一輝論――「日本改造法案大綱」を中心として(三田文学 1969年7月)
  • 日本文化の深淵について(THE TIMES 1969年9月) - “A problem of culture” と英訳。
  • 行動学入門(PocketパンチOh! 1969年9月-1970年8月)
  • 三島由紀夫のファクト・メガロポリス週刊ポスト 1969年10月17日、31日、11月14日、28日、12月12日)
  • STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE(ニューヨーク・タイムズ 1969年11月29日) - “Okinawa and Madame Butterfly’s Offspring” と抄訳。
  • 楯の会」のこと(「楯の会」結成一周年記念パンフレット 1969年11月)
  • 「国を守る」とは何か(朝日新聞 1969年11月3日)
  • 「変革の思想」とは――道理の実現(読売新聞 1970年1月19日、21日-22日)
  • 新知識人論(日本経済新聞 1970年1月22日)
  • 蓮田善明とその死』序文(筑摩書房 1970年3月) - 小高根二郎著への序文
  • 問題提起(憲法改正草案研究会配布資料 1970年5月)
  • 士道について――石原慎太郎への公開状(毎日新聞 1970年6月11日)
  • 果たし得てゐない約束――私の中の二十五年(サンケイ新聞 1970年7月7日)
  • 武士道軍国主義(1970年7月) - 1978年8月『PLAYBOY』に掲載。
  • 正規軍と不正規軍(1970年7月) - 1978年8月『PLAYBOY』に掲載。
  • 革命哲学としての陽明学諸君! 1970年9月)
  • 武士道に欠ける現代のビジネス(近代経営 1970年12月)
  • わが同志観(潮 1971年2月)

対談・座談・討論[編集]

講演・声明[編集]

  • 私の自主防衛論(1968年10月24日)
    • 日経連臨時総会での特別講演。
      同年10月31日に『日経連タイムズ』に掲載。
  • 日本の歴史と文化と伝統に立つて(1968年12月1日)
    • 東京都学生自治体・関東学生自治体の両連絡協議会主催の講演。
      1970年5月刊行の全国学生自治体連絡協議会編『“憂国”の論理』(日本教文社)に収録。
  • 日本とは何か(1969年10月15日)
  • 現代日本の思想と行動(1970年4月27日)
  • 私の聞いて欲しいこと(1970年5月28日)
  • 悪の華――歌舞伎(1970年7月3日)[272]
    • 国立劇場歌舞伎俳優養成所での特別講演。
      1988年1月『新潮』に掲載。
  • 「孤立」のススメ(1970年6月11日)
    • 尚史会主催講演。9月『青雲』(6号)に掲載。
  • 我が国の自主防衛について(1970年9月3日)[272]
  • (1970年11月25日)

作文・習作[編集]

  • ほめられた事(1932年)★
  • ばけつの話(1934年4月)★
  • 大内先生を想ふ(1934年9月)★
  • 長瀞遠足記(1934年11月)★
  • 東京市(1935年12月)★
  • 我が国旗(1936年6月)★
  • 春草抄――初等科時代の思ひ出(輔仁会雑誌 1937年7月)★
  • 三笠長門見学(1937年)★
  • 我はいはである(1937年)★
  • 分倍河原の話を聞いて(1937年)★
  • 支那に於ける我が軍隊(1937年)★
  • 土耳古人の学校(1937年)★

詩歌・俳句・作詞[編集]

  • アキノヨニ…(小ざくら 1931年12月)★ - 俳句
  • 日ノマルノ…(小ざくら 1932年5月)★ - 俳句
  • おとうとが…(小ざくら 1932年12月)★ - 俳句
  • 秋(小ざくら 1932年12月)★
  • 妹は…(小ざくら 1933年12月)★ - 短歌
  • 蜜柑(1937年1月10日)★ - 詩ノート「笹舟」に記録。
  • こだま(輔仁会雑誌 1937年12月)★ - 詩ノート「こだま――平岡小虎詩集」に記録。
  • 斜陽(輔仁会雑誌 1937年12月)★ - 詩ノート「HEKIGA――A VERSE-BOOK」に記録。
  • 秋二題(輔仁会雑誌 1937年12月)★
  • 詩篇「金鈴」(輔仁会雑誌 1938年3月)★
    • 光は普く漲り、金鈴、雨、海、墓場、ほか
  • 蜃気楼の国/月夜操練/隕星(輔仁会雑誌 1938年7月)★ - 連作「鈴鹿鈔」中の3詩。
  • 詩篇「九官鳥」(輔仁会雑誌 1939年3月)★
    • 森たち、第五の喇叭 黙示録第九章、独白 廃屋のなかの女、星座、九官鳥
  • 誕生日の朝(1939年1月14日)★ - 詩ノート「公威詩集I」に記録。
  • 見知らぬ部屋での自殺者(1939年12月24日)★ - 詩ノート「Bad Poems」に記録。1949年3月『新現実』に掲載。
  • 凶ごと〈まがごと〉(1940年1月15日)★ - 詩ノート「Bad Poems」に記録。
  • 詩篇「小曲集」(輔仁会雑誌 1940年3月)★
    • 古墳、朝、昼の館、花の闇、倦怠、明るい樫、或る朝、ほか
  • 詩篇「青城詩抄」(山梔 1940年7月-1941年1月)★
    • 町、故苑、鶴、死都、ほか
  • 詩篇「抒情詩抄」(輔仁会雑誌 1941年12月)★
    • 小曲(第三番、第八番、ほか)、風の抑揚、序曲、馬、ほか
  • わたくしの希ひは熾る(文藝文化 1941年11月)★
  • 大詔(文藝文化 1942年7月)★
  • かの花野の露けさ(文藝文化 1942年10月)★
  • 菊(文藝文化 1942年12月)★
  • 恋供養(赤繪 1943年6月)★
  • 夜の蝉(輔仁会雑誌 1943年12月)★
  • 詩人の旅(1944年) - 1950年7月『文藝』に掲載。
  • もはやイロニイはやめよ(1945年4月20日) - 曼荼羅草稿。
  • 絃歌――夏の恋人(東雲 1945年7月) - 三谷邦子を題材。
  • 饗宴魔(東雲 1945年7月)
  • 落葉の歌(光耀 1946年5月)
  • 乾盃(1946年3月24日) - 1955年刊『創作ノオト“盗賊”』に収録。
  • 逸題詩篇(叙情 1946年6月)
  • 負傷者(1946年7月23日) - 1949年1月『海峡』に掲載。
  • 故・蓮田善明への献詩(おもかげ 1946年11月17日)
  • 軽王子序詩(舞踏 1948年6月)
  • 新しきコロンブス(1955年8月2日)
  • 理髪師の衒学的欲望とフットボールの食慾との相関関係(総合 1957年7月)
  • 詩篇「十五歳詩集」(新潮社 1957年11月)★ - 『三島由紀夫選集1』に収録。
    • 凶ごと、日輪礼讃、悲壮調、風と辛夷、別荘地の雨、街のうしろに、遺物、石切場、熱帯、鶴、甃のむかうの家、建築存在、港町の夜と夕べの歌、つれづれの散漫歌、幸福の胆汁、冬の哀感
  • 狂女の恋唄(1958年9月11日)
  • むかしと今(聲 1958年10月)
  • 祝婚歌 カンタータ(奉祝 1959年4月) - 作曲:黛敏郎
    • 皇太子ご結婚祝賀演奏会での祝婚歌。
  • からつ風野郎(同名映画主題歌)(1960年3月)[272] - 作曲:深沢七郎
  • お嬢さん(同名映画主題歌)(1961年1月) - 作曲:飯田三郎
  • 黒蜥蜴の歌/黒とかげの恋の歌/用心棒の歌(1962年3月) - 作曲:黛敏郎
  • 微笑(文藝 1964年5月)
    • ジェイムス・メリルの詩(微笑、世界の子供)の邦訳。
  • 造花に殺された舟乗りの歌(1966年7月) - 作曲:丸山明宏
  • イカロス(1967年3月14日) - 随筆『太陽と鉄』エピロオグに収録。
  • 隊歌(祖国防衛隊)(祖国防衛隊ちらし 1968年1月)
  • 起て! 紅の若き獅子たち(楯の会の歌)(楯の会隊員手帳 1970年1月)[272] - 作曲:越部信義
  • 辞世の句(1970年11月25日)
    • 「益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜」
    • 「散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」

写真集被写体[編集]

  • 薔薇刑(撮影1961年9月13日-1962年春) - カメラマン細江英公。1963年3月刊行(限定1,500部)。
  • 男の死(撮影1970年9月17日以降-11月17日) - カメラマン:篠山紀信。もう1人のモデル横尾忠則の病気入院のため企画が途絶し未発売。

映画作品[編集]

原作[編集]

制作年 作品名 制作(配給) 監督名 主な出演者
1951年 純白の夜
(※モノクロ映画)
松竹大船 大庭秀雄 木暮実千代 河津清三郎
三島由紀夫(端役)
1953年 夏子の冒険
(※カラー映画)
松竹大船 中村登 角梨枝子 若原雅夫
高橋貞二 桂木洋子
淡路恵子
1953年 にっぽん製
(※モノクロ映画)
大映東京 島耕二 山本富士子 上原謙
三田隆
1954年 潮騒
(※モノクロ映画)
東宝 谷口千吉 久保明 青山京子
三船敏郎
1957年 永すぎた春
(※カラー映画)
大映東京 田中重雄 若尾文子 川口浩
船越英二 角梨枝子
1957年 美徳のよろめき
(※モノクロ映画)
日活 中平康 月丘夢路 葉山良二
三國連太郎 宮城千賀子
1958年 炎上
(※モノクロ映画)
大映京都 市川崑 市川雷蔵 仲代達矢
中村鴈治郎 新珠三千代
中村玉緒
1959年 燈台
(※モノクロ映画)
東宝 鈴木英夫 津島恵子 久保明
河津清三郎
1959年 不道徳教育講座
(※モノクロ映画)
日活 西河克己 月丘夢路 大坂志郎
信欣三
三島由紀夫(ナビゲーター)
1961年 お嬢さん 大映東京 弓削太郎 若尾文子 川口浩
田宮二郎
1962年 黒蜥蜴 大映東京 井上梅次 京マチ子 大木実 叶順子
川口浩
1964年
(※モノクロ映画)
大映京都 三隅研次 市川雷蔵 長谷川明男
藤由紀子
1964年 潮騒 日活 森永健次郎 吉永小百合 浜田光夫
1964年 獣の戯れ
(※モノクロ映画)
大映東京 富本壮吉 若尾文子 河津清三郎
伊藤孝雄
1965年 肉体の学校
(※モノクロ映画)
東宝 木下亮 岸田今日子 山崎努
山村聰 東恵美子
1966年 複雑な彼 大映東京 島耕二 田宮二郎 高毬子
若山弦蔵
1967年 愛の渇き
(※パートカラー映画)
日活 蔵原惟繕 浅丘ルリ子 中村伸郎
石立鉄男 山内明
1968年 黒蜥蜴 松竹大船 深作欣二 丸山明宏 木村功
川津祐介
三島由紀夫(端役)
1971年 潮騒 東宝 森谷司郎