渥美清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
あつみ きよし
渥美 清
渥美 清
拝啓天皇陛下様』(松竹、1963年)スチル写真より
本名 田所 康雄
たどころ やすお
別名義 風天(俳号)
生年月日 (1928-03-10) 1928年3月10日
没年月日 (1996-08-04) 1996年8月4日(68歳没)
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市下谷区
(現:東京都台東区
死没地 日本の旗 日本 東京都文京区順天堂大学医学部附属順天堂医院[1]
身長 169 cm
血液型 B型
職業 俳優コメディアン歌手
ジャンル 映画テレビドラマ舞台
活動期間 1946年 - 1996年
配偶者 あり
著名な家族 田所友次郎(父)
田所タツ(母)
田所健一郎(兄)
田所健太郎(長男)
主な作品
テレビドラマ
若い季節 (テレビドラマ)
渥美清の泣いてたまるか
映画
拝啓天皇陛下様
男はつらいよ』<全48作>
八つ墓村
幸福の黄色いハンカチ
キネマの天地
テンプレートを表示

渥美 清(あつみ きよし、1928年昭和3年)3月10日 - 1996年平成8年)8月4日)は、日本コメディアン俳優。本名は田所 康雄(たどころ やすお)。

代表作『男はつらいよ』シリーズで、下町育ちのテキ屋で風来坊の主人公「車寅次郎」を演じ、「寅さん」として広く国民的人気を博した名優。

没後に国民栄誉賞を受賞している。

生涯[編集]

幼少期[編集]

東京府東京市下谷区車坂町(現・東京都台東区上野七丁目)で、地方新聞の新聞記者をしていた父・友次郎と、元小学校教諭で内職の封筒貼りをする母・タツとの間に次男として生まれる。兄に健一郎がいる。

1934年11月、板橋尋常小学校に入学。1936年、一家で板橋区志村清水町に転居し、志村第一尋常小学校へ転入。小学生時代はいわゆる欠食児童であり、病弱で小児腎臓炎、小児関節炎、膀胱カタル等の様々な病を患っていた。そのため学校は欠席がちで、3年次と4年次では長期病欠であった。欠席中は、日がな一日ラジオに耳を傾け徳川夢声落語を聴いて過ごし、覚えた落語を学校で披露すると大変な評判だったという。

1940年に板橋城山高等小学校[注釈 1]に入学。第二次世界大戦中の1942年巣鴨中学校に入学するが、学徒動員で板橋の軍需工場へ駆り出される。1945年に同校を卒業するも、3月10日東京大空襲で自宅が被災し焼け出される。卒業後は工員として働きながら、一時期、担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていた(親友の谷幹一に、かつて自分は桝屋一家[注釈 2]に身を寄せていた、と語ったことがある)。この幼少期に培った知識が後の「男はつらいよ」シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったといえる。

役者稼業[編集]

1946年には新派の軽演劇の幕引きになり、大宮市日活館「阿部定一代記」でのチョイ役で舞台初出演。中央大学商学部[3][4]入学後、船乗りを志して退学したが母親に猛反対されたため断念。知り合いの伝手を頼って旅回りの演劇一座に入り喜劇俳優の道を歩むことになった。なお、当初の芸名は「渥美悦郎」であったが、無名時代の極初期に参加した公演で、座長が観客に向けて配役紹介を行う際になぜか「悦郎」を忘れてしまい、「清」ととっさに言ったものをそのまま使用したといわれている。“渥美”は愛知県渥美半島から採ったとされる。

1951年、東京浅草六区ストリップ劇場「百万弗劇場」(建物疎開した観音劇場の跡)の専属コメディアンとなる。2年後の1953年には、フランス座へ移籍。この頃のフランス座は、長門勇東八郎関敬六など後に第一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、コント作家として井上ひさしが出入りしていた。またこの頃、浅草の銭湯で、のちにシナリオライターとなる早坂暁(当時は大学生)と知り合い、生涯の親友となる(後述参照)。1954年肺結核で右肺を切除しサナトリウムで約2年間の療養生活を送る。このサナトリウムでの療養体験が後の人生観に多大な影響を与えたと言われている。右肺を無くしたことでそれまでのドタバタ喜劇ができなくなった。また、復帰後すぐに今度は胃腸を患い中野の立正佼成会病院に1年近く入院する。再復帰後は酒や煙草、コーヒーさえも一切やらなくなり過剰な程の摂生に努めた。

1956年にテレビデビューし、1958年に『おトラさん大繁盛』で映画にデビュー。1959年にはストリップ小屋時代からの盟友である谷幹一・関敬六スリーポケッツを結成。しかし、数ヵ月後には脱退している。1961年から1966年までNHKで放映された『夢であいましょう』、『若い季節』に出演。コメディアン・渥美清の名を全国区にした。1962年公開の映画『あいつばかりが何故もてる』にて映画初主演を務める。同年、フジテレビ連続ドラマ『大番』でのギューちゃん役がうける。同年、ヤクザ(フーテン)役で出演した『おったまげ人魚物語』のロケの際、海に飛び込むシーンでは右肺切除の影響から飛び込むことができず、唯一代役を立てたシーンとも言われている。当時、複数の映画が同じ地域で撮影を行っており、この時の撮影現場では、映画『切腹』(仲代達矢岩下志麻丹波哲郎三國連太郎)の撮影現場の宿に泊まり、同宿した多くの俳優や監督と接することとなる。1963年野村芳太郎監督の映画『拝啓天皇陛下様』で「片仮名しか書けず、軍隊を天国と信じてやまない純朴な男」を演じ、俳優としての名声を確立する。この作品がフジテレビの関係者の評判を得て「男はつらいよ」の構想が練られた。1965年公開の、羽仁進監督の『ブワナ・トシの歌』ではアフリカ各地で4ヶ月間に及ぶ長期ロケを敢行。この撮影以降、アフリカの魅力に取り付かれプライベート旅行で何度も訪れるようになる。「男はつらいよ」のイメージからはうかがえないが、最初は松竹より東映の方が渥美喜劇の売り出しに熱心で[5]、東映で"喜劇路線"を敷こうとした[6]岡田茂プロデューサー(のち、東映社長)に引き抜かれ[7][8]、岡田が登用した瀬川昌治監督の『喜劇急行列車』(1967年)他「喜劇列車シリーズ」などに主演した[7][9][10]。東映とは水が合わなかったが[5]、東映での出演作としては股旅映画の最高傑作ともいわれる[11]沓掛時次郎 遊侠一匹』(加藤泰監督、1966年)の身延の朝吉役は名演として知られる[5][12]。この時期の主演作品としては他に、TBSのテレビドラマ『渥美清の泣いてたまるか』(1966年)などがある。

車寅次郎[編集]

柴又駅前に立つ車寅次郎の銅像

1968年10月3日から半年間、フジテレビにて、テレビドラマ『男はつらいよ』が放送され、脚本は山田洋次森崎東が担当した。最終回の「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」と言う結末に視聴者からの抗議が殺到したことから、翌1969年に「罪滅ぼしの意味も含めて」、松竹が映画を製作。これが予想に反し大ヒットとなったことでシリーズ化され、主演の車寅次郎(フーテンの寅)役を27年間48作に渡って演じ続ける事になる。映画のシリーズでは最多記録の作品としてギネスブックにも載るなどの記録を成し遂げた。

1972年、渥美プロを設立し、松竹と共同で映画『あゝ声なき友』を自身主演で製作公開する。1975年、松竹80周年記念として制作された映画『友情』に出演。1977年にはテレビ朝日製作の土曜ワイド劇場田舎刑事 時間(とき)よとまれ』にて久しぶりにテレビドラマの主演を務める。同作品はのちに長く続く人気番組『土曜ワイド劇場』の記念すべき第1回作品であると同時に、第32回文化庁芸術祭のテレビ部門ドラマ部の優秀作品にも選出されている。この成功を受けて同作品はシリーズ化され1978年に『田舎刑事 旅路の果て』が、1979年には『田舎刑事 まぼろしの特攻隊』がいずれも渥美主演で製作放送されている。映画『男はつらいよ』シリーズの大成功以降は「渥美清」=「寅さん」の図式が固まってしまう。当初はイメージの固定を避けるために積極的に他作品に出演していたが、どの作品も映画『男はつらいよ』シリーズ程の成功は収める事が出来なかった。唯一1977年『八つ墓村』でそれまでのイメージを一新して名探偵「金田一耕助」役を演じ松竹始まって以来のヒットとなったが、シリーズ化権を東宝に抑えられていたため1本きりとなったことが大きな岐路となる。

1979年4月14日NHKで放映されたテレビドラマ『幾山河は越えたれど〜昭和のこころ 古賀政男〜』では作曲家古賀政男の生涯を鮮烈に演じ高い評価を得るが、新たな役柄の幅を広げるには至らなかった。また、この時期、今村昌平監督が『復讐するは我にあり』の主役・榎津巌役でオファーしたが、「寅さんのイメージを裏切りたくない」との理由で断っている[要出典]。1980年代以降になると、当時の松竹の思惑や渥美自身も他作品への出演に消極的になっていたこともあって、『男はつらいよ』シリーズ以外の主演は無くなっていく。1988年紫綬褒章を受章。その後は主演以外での参加も次第に減っていき、1993年に公開された映画『学校』が『男はつらいよ』シリーズ以外の作品への最後の出演作品となった。

晩年、死[編集]

晩年は、松竹の看板としてかなりの無理をしての仕事であった。『男はつらいよ』42作目(1989年12月公開)以降は、病気になった渥美に配慮して、立って演じるシーンは減少し、晩年は立っていることもままならず、撮影の合間は寅さんのトランクを椅子代わりにして座っていることが多かった。44作目(1991年12月公開)のころ「スタッフに挨拶されて、それに笑顔で答えることさえ辛いんです。スタッフや見物の方への挨拶を省略していただきたい」と山田洋次に語っている。ところがこの事情を知らない映画撮影の見物客は、渥美に声をかけてもまったく反応してもらえなかったことから「愛想が悪い」との理由で渥美を批判することもあったという。体調が悪くなった42作から甥の満男を主役にしたサブストーリーが作られ、年2本作っていたシリーズを1本に減らし、満男の出番を増やして寅次郎の出番を最小限に減らしている。

病気については、1991年肝臓癌が見つかり、1994年にはへの転移が認められた。主治医からは、第47作への出演は不可能だと言われていたが何とか出演し、48作に出演できたのは奇跡に近いとのことである。1996年6月に第49作製作の件で高知ロケを承諾し、撮影を控えていた中、7月に体調を崩して同月末に手術を受けたものの、癌の転移が広がり手遅れの状態だった。1996年8月4日午後5時10分、転移性肺癌のため文京区順天堂大学医学部附属順天堂医院にて死去した[1]。68歳没。

「俺のやせ細った死に顔を他人に見せたくない。骨にしてから世間に知らせてほしい」という渥美の遺言により、家族だけで密葬を行い、遺体は東京都荒川区内の町屋斎場で荼毘に付された。撮影現場には二日後の6日の夕刻、秋からの制作が決定していた第49作の制作打ち合わせに来たスタッフへ妻より告げられ、訃報は3日後の1996年8月7日に松竹から公表された。男はつらいよの第48作『男はつらいよ 寅次郎紅の花』が遺作となった。

8月13日に松竹大船撮影所で開かれた「寅さんのお別れの会」では、山田洋次が弔辞を読んでいる。

5年前に渥美さんの病気を知り、予断を許さないのは知っていました。体の衰えが目立ち始めて、小島の急な坂を登るときは、とてもつらそうだった。この時、この陽気な男が、映画から手を引く日も近いと思っていました。そろそろ解放してあげたい、と思いながら、もう一作だけ、もう一作だけ、もう一作何とかと思って48作も撮ってきました。医師から、正月遺作となった映画に出演できたのは、奇跡といわれました。ああ、悪いことをしました。後悔しています。つらい思いをさせてすいませんでした。7月に入院して、肺の手術をした後、経過が思わしくなくて、ベッドに起き上がることも出来ず、うつむいたままと聞きました。何故そんなに苦しめたのか。27年間、映画を作る喜びを与えてくれてありがとう。スタッフも幸せでした。心からお礼を申し上げます。

死後、「『男はつらいよ』シリーズを通じて人情味豊かな演技で広く国民に喜びと潤いを与えた」との理由で、日本政府から渥美に国民栄誉賞が贈られた。俳優での受賞は、1984年に死去した長谷川一夫に次いで2人目である。

妻は熱心なカトリック信徒で、渥美自身も、亡くなる直前に病床でカトリックの洗礼を受けていたことが明らかになっている。

2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の9位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第4位になった。さらに、「映画館をいっぱいにしたマネーメイキング・スターは誰だ!」日本編では第1位。

人物[編集]

経歴についての異説[編集]

渥美清のプライベートは謎につつまれた点が多く、経歴にはいくつかの異説がある。小林信彦著の『おかしな男 渥美清』の略年譜によれば、1940年に志村第一尋常小学校を卒業後、志村高等小学校に入学する。1942年に卒業し、14歳で志村坂上の東京管楽器に入社するが退社し、その後は「家出をしてドサ回り」をしていたとのことである。

巣鴨学園関係者によると、戦前の在籍記録は戦災により焼失しており、卒業していたのかしていないのかだけでなく、在籍の有無ですら公式には何とも言えないという。ただし、何人かのOBの証言によれば、「在籍はしていたが、卒業はしていない」とのことである。

永六輔によれば、戦後焼け跡の金属を換金し、秋葉原で部品を買い鉱石ラジオを組み立てるグループに永も参加していたが、そのグループのリーダーが渥美清であったとのこと。

実像[編集]

『男はつらいよ』の「寅さん」の演技で社交性のある闊達さを印象付けていたが、実像は共演者やスタッフと真摯に向き合う一方で、公私混同を非常に嫌い、プライベートでは他者との交わりを避ける傾向だった。ロケ先での、撮影協力した地元有志が開く宴席に一度も顔を出したことがなく、時々スタッフにファンへの感謝の気持ちをことづける程度だった。撮影現場でも見物人が「寅さん」「渥美さん」など声を挙げても、黙って笑顔を見せるか丁寧に頭を下げるくらいで、身辺へ個別にファンが近寄ることも嫌っていた。

家族構成は妻と子供2人だが、原宿に「勉強部屋」として、自分個人用のマンションを借りており、そこに一人籠っていることが多かった。長男の田所健太郎が「親族の立場」で公の場に顔を出すのは渥美の死後だった[13][注釈 3]。渥美自身の結婚式は親族だけでささやかに行い、仕事仲間など呼ばなかった。芸能記者の鬼沢慶一は招待され友人代表として出席したが、鬼沢はその事を渥美の死まで公表することはなく、渥美の没後にその時の記念写真と共に初めて公開した。渥美は新珠三千代の熱狂的ファンを自称していたため、結婚の際は「新珠三千代さんごめんなさい」との迷コメントを出した。

タクシーで送られる際も自宅を知られぬように「この辺りで」と離れた場所で降りるのを常としていた。渥美は亡くなるまでプライベートを芸能活動の仕事に持ち込まなかったため、渥美の自宅住所は芸能・映画関係者や芸能界の友人にも知らされておらず、「男はつらいよ」シリーズで長年一緒だった山田洋次や、親友として知られる黒柳徹子、関敬六、谷幹一でさえ渥美の自宅も個人的な連絡先も知らず、仕事仲間は告別式まで渥美の家族との面識はなかった。これは渥美が生前、私生活を徹底的に秘匿し、「渥美清=寅さん」のイメージを壊さないためであった。このきっかけは、街を歩いていた時に、見知らぬ男性から「よお、寅」と声をかけられてからの事だと語っている[13]。実生活では質素な生活を送っていたようで、車は一台も所有しておらず、仕事での食事も、時々はスタジオやロケでスタッフや共演者と共にすることもあったが、店を選ばずに一人で適当な蕎麦屋などで済ませることも多かったという[13]

そんな渥美であったが、脚本家・早坂暁とは20代に銭湯で知り合い、早坂を「ギョウさん」と呼んで、何度もプライベート旅行に行くなど終生の友であった。渥美は常に「ギョウさん、俺も連れてってちょうだいよ」と早坂との旅行を大変楽しみにしていた。東京生まれのため田舎を持たない渥美にとって、特に早坂の故郷である愛媛県北条市(現・松山市)や、沖合いにある「北条鹿島」はお気に入りで何度も同行している。晩年の渥美の俳句「お遍路が一列に行く虹の中」は、早坂作のNHKドラマ『花へんろ』(早坂の自伝的ドラマ。渥美はナレーション担当で、遍路がモチーフになっており、舞台は愛媛県北条市)および早坂への想いであると思われる[誰によって?]。このことが実現しなかった第49作『寅次郎花へんろ』の元になった。[14]渥美の死後発見された晩年の手帳には「……旅行に行こう。家族とギョウさんにも声かけて一緒に行こう……」と綴ってあった。これらの内容からも、渥美にとって早坂がどれほど大切な存在であったかが窺われる。早坂は渥美が大変才能のある役者であるのにもかかわらず、「寅さん」以外の役をほとんど演じられないことを危惧しており、そのことはお別れ会の弔辞でも語っている。渥美自身も何とか抜け出そうとの思いがあったが、結局「寅さん」に縛り続けられることになった。

1985年頃、渥美は俳人・尾崎放哉を演じたいと早坂に相談し、早坂と渥美は取材旅行に訪れ、脚本も完成した。ところが寸前にNHK松山放送局が放哉をドラマ化したため(『海も暮れきる~小豆島の放哉~』1985年8月1日放映、放哉役は橋爪功で、第23回ギャラクシー賞奨励賞を受賞[15])、急遽題材を種田山頭火に変更することになり、渥美と早坂は今度は山頭火の取材旅行に訪れ、脚本も完成したにもかかわらず、クランクイン寸前になって、突然渥美から制作のNHKに「山頭火」降板の申し出があった。降板の理由は体調不良やスケジュール不合などいわれるが、周囲(特に松竹)から「寅さん」のイメージ損失を嫌ったことの軋轢かと思われる。ちなみに渥美降板により主役がフランキー堺となったこのドラマ「山頭火・なんでこんなに淋しい風ふく」は、モンテカルロ国際テレビ祭(脚本部門ゴールデンニンフ=最優秀賞)を受賞し、フランキー堺は同最優秀主演男優賞を受賞している。早坂は渥美に、初期のテレビドラマ「泣いてたまるか」や、上記「土曜ワイド劇場」の第1回作品の「田舎刑事」シリーズなどの脚本を書いており、いずれも「寅さん」ではない渥美の魅力が引き出された名作となっている。映画においては山田洋次、野村芳太郎両監督とは別に、『沓掛時次郎 遊侠一匹 』『祇園祭』『スクラップ集団』『あゝ声なき友 』『おかしな奴』の脚本を書いた鈴木尚之とのコンビも長い。渥美主演映画を最も多く単独執筆したライターは鈴木である。『八つ墓村』も当初は鈴木脚本で予定されていた。

上記著書の小林信彦は1960年代前半に放送作家として渥美と知り合い、独身時代はお互いの部屋で徹夜で語り合うなど親友に近い関係であったが、次第に疎遠となっている。同書では、小林がその後親しくなっていくクレージーキャッツハナ肇と渥美とは互いに敵愾心に近いライバル意識があったことにも触れ、クレージーのメンバーの社会常識を称える形で、渥美とは性格的齟齬があったことを示唆している。

渥美は松竹新喜劇藤山寛美を高く評価しており、寛美の公演のパンフレットに渥美のコメントとして「私は藤山寛美という役者の芝居を唯、客席で観るだけで、楽屋には寄らずに帰える。帰る途すがら、好かったなー、上手いなー、憎たらしいなあー、一人大切に其の余韻をかみしめる事にしている」と書いていた。寛美も渥美が客席に来ていることを知ると、舞台で「おい、横丁のトラ公な、まだ帰ってこんのか?」と言うアドリブを発していた[16]。非常な勉強家でもあり、評判となった映画や舞台をよく見ていたが、「寅さん」とはまったく違ったスマートなファッションであったため、他の観客らにはほとんど気づかれなかったという。

山田洋次は渥美の頭脳の良さを指して「天才だった」と語っている。特に記憶力に関しては驚異的なものがあり、台本を2・3度読むだけで完璧にセリフが頭に入ってしまったと証言している[17]

2006年9月4日にNHKのプレミアム10で放送された『渥美清の肖像・知られざる役者人生』によると、松竹が映画の低迷期であったのも手伝い、突出して人気のあった「寅さん」のイメージを大事にしたいからと色々な企画を没にしたりして、それ以外の役柄に恵まれなかった。増村保造の映画『セックス・チェック 第二の性』を基にして作中男だと疑われるスポーツ選手の女性が、本当に男だったという主演映画などが没になったアイディアの中にあった。この構想はすでに早坂暁によって「渥美清子の青春」として、1968年にシナリオ化されている(シナリオ作家協会発行「シナリオ」1968年8月号収録)が、映像化はされていない。

黒柳徹子はプライベートでも付き合いのある数少ない存在で、彼をお兄ちゃんと呼んでいたほか、『夢であいましょう』で共演していた時に熱愛疑惑が持ち上がったことがある。因みにそれを報道したスポーツ紙には、フランス座時代に幕間のコントで黒柳が小学生の頃いつも呼んでいたチンドン屋の格好をした時の写真が掲載された。これは当時マスコミがその写真しか得られなかったためである。黒柳は2006年は渥美の死去から10年と節目の年であったためか、渥美の事を話すこともしばしばあった。また森繁久彌は渥美の才能に非常に目をかけ、渥美も森繁を慕っていたという。

永六輔とは少年時代からの旧知であり、本人曰く渥美は永も所属した不良グループのボスだったという。また渥美が役者を目指すようになったのにはある刑事の言葉があると言う。曰く、ある時、渥美が歩道の鎖を盗みそれを売ろうとして警察に補導されたことがあり、その時の刑事に「お前の顔は個性が強すぎて、一度見たら忘れられない。その顔を生かして、犯罪者になるより役者になれ」と言われたことが役者を目指すきっかけになったとのことである(上記、『渥美清の肖像・知られざる役者人生』によれば、テキ屋稼業に没頭していた頃、浅草の小屋から声をかけられそれが転機のきっかけとなったとされている)。

その他、プライベートでの交流があった芸能人として笹野高史柄本明がいる。2人とも「男はつらいよ」シリーズの常連出演者で、芝居を見に行ったり、バーに飲みに行くこともあったという。笹野は「男はつらいよ 柴又より愛をこめて」以来山田作品の常連となるが、最初に山田監督へ笹野を紹介したのは渥美自身であった。

布袋寅泰は、渥美と同じマンションに住んでいたことがあり、バンドのツアーに向かう布袋が偶然エレベーターの乗り口で会った際、渥美から「旅ですか?」と話しかけられ、とっさに「はい。北へ」と答えたのをきっかけに、正月に「つまらないものですが、部屋の隅にでも飾ってやってください」と、『男はつらいよ』のカレンダーを部屋まで届けてくれたという[18]

長男の田所健太郎は、ニッポン放送の入社試験の際、履歴書の家族欄に『父 田所康雄 職業 俳優』と書いたことから、採用担当者は大部屋俳優の息子と思っていたが、後に渥美清が彼の父親として来社し社内は騒然となった。健太郎は、講談社月刊現代』2002年8月号の記事『七回忌を前に初めて書かれるエピソード、寅でも渥美清でもない父・田所康雄の素顔』で、渥美が健太郎の食器・食事に対する扱いに突然激高し、激しい暴行を何度も加える等のドメスティック・バイオレンスが家族へ日常的に行われていたとも告白している。

晩年は俳句を趣味としていて『アエラ句会』(AERA主催)において「風天」の俳号でいくつかの句を詠んでいる。森英介『風天 渥美清のうた』(大空出版、2008年、文春文庫 2010年)に詳しく紹介されている。

出演[編集]

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

ラジオ[編集]

  • 『渥美清 ローマンス劇場』
  • 『渥美清の男性諸君』
いずれも「一慶・美雄の『夜はともだち』」内包番組(TBSラジオ / 1976年〜1978年)

音楽番組[編集]

CM[編集]

音楽作品[編集]

シングル[編集]

  • 彼奴ばかりがなぜもてる(1962年)
  • 恋すれど恋すれど物語/もててもてて困ってしまう(1963年、SA-1040)
  • 泣いてたまるか(TBS連続テレビドラマ「泣いてたまるか」主題歌)(B面:若いぼくたち/ミュージカル・アカデミー)(1966年5月10日)
  • オー大和魂(TBS連続テレビドラマ「大和魂くん」主題歌)(B面:雨の降る日は天気が悪い)(1968年10月)
  • 男はつらいよ(フジテレビ連続テレビドラマ「男はつらいよ」主題歌、松竹映画「男はつらいよ」主題歌、アニメ『男はつらいよ〜寅次郎忘れな草〜』主題歌)(B面:チンガラホケキョーの唄)(1970年2月10日)
  • ごめんくださいお訪ねします(松竹映画「あゝ声なき友」主題歌)(B面:あゝ声なき友)(1972年3月25日)
  • さくらのバラード(歌:倍賞千恵子)(B面:寅さんの子守唄)(1972年4月10日)
  • こんな男でよかったら(B面:ひとは誰でも)(よみうりテレビドラマ「こんな男でよかったら」)(1973年4月5日)
  • いつかはきっと(掛け声:山田パンダ)(TBSテレビドラマ「ヨイショ」主題歌)(B面:遠くへ行きたい)(1974年8月25日)
  • 寅さん音頭(B面:赤とんぼ)(1975年7月5日)
  • 祭りのあと(B面:駅弁唱歌)(1975年9月5日)
  • 渥美清の啖呵売I(B面:渥美清の啖呵売りII)(1976年6月25日)
  • 浅草日記(B面:すかんぽの唄)(1977年6月25日)
  • 今日はこれでおしまい (B面:着流し小唄)(1977年10月25日)
  • DISCO・翔んでる寅さん(B面:寅さん音頭)(1979年7月25日)

アルバム[編集]

  • 渥美清が歌う哀愁の日本軍歌集(1968年12月5日)
  • 渥美清が歌う哀愁の昭和叙情曲集(1970年4月)
  • 噫々戦友の詩(きけわだつみのこえ)より(1971年)
  • 男はつらいよフーテンの寅と発します!(1971年11月)
  • 男はつらいよ名場面集(第一集)
  • 男はつらいよ名場面集(第二集)
  • 男はつらいよ名場面集(第三集)(1974年)
  • 渥美清ベストヒット28(1976年)

編著書[編集]

  • 『きょうも涙の日が落ちる 渥美清のフーテン人生論』(展望社、2003年)
  • サンデー毎日 編集部編『渥美清わがフーテン人生』(毎日新聞社、1996年)
  • 森英介編『赤とんぼ 渥美清句集』(本阿弥書店、2009年)

参考文献[編集]

  • さらば友よ(関敬六、ザ・マサダ、1996年)
  • 生きてんの精いっぱい 人間・渥美清(篠原靖治、主婦と生活社、1997年)
  • 渥美清晩節、その愛と死:最後の付き人が見守った「寅さん」一四年間の真実(篠原靖治、祥伝社、2003年)
    • 最後の付き人が見た 渥美清 最後の日々:「寅さん」一四年間の真実(篠原靖治、祥伝社黄金文庫、2019年)
  • おかしな男 渥美清(小林信彦、新潮社、2000年)
    • おかしな男 渥美清(小林信彦、新潮文庫、2003年)
    • おかしな男 渥美清(小林信彦、ちくま文庫、2016年)
  • 渥美清の伝言(NHK「渥美清の伝言」制作班編、KTC中央出版、1999年)
  • 拝啓 渥美清様(読売新聞社会部編、中央公論新社、2000年)
    • 拝啓 渥美清様(読売新聞社会部編、中公文庫、2006年)
  • 知られざる渥美清(大下英治廣済堂文庫、2002年)
  • 渥美清 浅草・話芸・寅さん(堀切直人晶文社、2007年)
  • 渥美清の肘突き:人生ほど素敵なショーはない(福田陽一郎岩波書店、2008年)
  • 私が愛した渥美清(秋野太作、光文社、2017年)
  • 文人たちの俳句(坂口昌弘、本阿弥書店、2014年)

親族[編集]

田所健太郎
長男。株式会社ニッポン放送に所属していたラジオディレクター。主な担当番組に伊集院光のOh!デカナイト(有)チェリーベルがある。現在は株式会社ニッポン放送を退社し、フリーのラジオディレクター。
山岡和美
元ニッポン放送アナウンサー、長男の妻。

渥美清を演じた人物[編集]

テレビドラマ[編集]

ものまね(そっくりさん[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 板橋区の記録にこのような名前の学校はない。志村尋常高等小学校(現在の板橋区立志村小学校)の誤りもしくは通称と考えられる。
  2. ^ 昭和31年5月末日現在の「関東香具師諸団体組織系統要覧」によると枡屋一家は関東の香具師の団体で、主たる勢力範囲は上野、神田である[2]
  3. ^ それ以前に健太郎がニッポン放送のディレクターなどの立場で公式の場に出る際は、渥美の長男であることを社外では一切伏せていた。
  4. ^ 1995年から逝去後の1997年まで、「ニッポンのタイヤが変わります」のキャッチフレーズでCM出演していた。またこのCMは放映時期の季節に合わせて、渥美の服装と背景が変化した。
  5. ^ 幼少時代の沢田聖子と共演(父親役の渥美清が沢田を肩車するシーン)したバージョンがあった。ちなみに渥美は前出のブリヂストンのCMと同じく死去の直前に「パンシロン新胃腸薬」のCMに復帰出演していたことがある。
  6. ^ CMのキャッチコピーは「歴史は、あっちこっちでつくられる。」。コピーライターの神様と称される仲畑貴志の手によるものである。

出典[編集]

  1. ^ a b 史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2019年12月19日閲覧。
  2. ^ 藤田五郎『任侠百年史』笠倉出版社、1980年、p.657
  3. ^ 堀切直人『渥美清: 浅草・話芸・寅さん』晶文社、2007年、p.43
  4. ^ 『讀賣年鑑』第1973巻、670ページ
  5. ^ a b c 石坂昌三「評伝・渥美清 『寅さん』渥美清の軌跡」『キネマ旬報』1996年9月下旬号、 65頁。
  6. ^ 富司純子他「鎮魂、映画の昭和 岡田茂他」『映画芸術』、編集プロダクション映芸、2011年8月号、 132頁。
  7. ^ a b 岡田茂『悔いなきわが映画人生:東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、145-146頁。ISBN 4-87932-016-1
  8. ^ 引き抜き、タイトル付け、リストラ…岡田茂氏「伝説」の数々 スポーツ報知2011年5月10日(archive)
  9. ^ 瀬川昌治『素晴らしき哉 映画人生!』清流出版、2012年、167-168、172-173頁。ISBN 978-4-86029-380-2
  10. ^ 瀬川昌治と喜劇役者たち〜エノケンからたけしまで - flowerwild.net ──瀬川昌治インタビュー vol.2
  11. ^ 『ぴあシネマクラブ 邦画編 1998-1999』ぴあ、1998年、240頁。ISBN 4-89215-904-2
  12. ^ 『日本映画人名事典 男優篇〈上巻〉』キネマ旬報社、1996年、51頁。ISBN 4-87376-188-3日本シナリオ作家協会 鈴木尚之 人とシナリオ出版委員会『鈴木尚之 人とシナリオ』日本シナリオ作家協会、1998年、30-31頁。ISBN 4-915048-08-X桂千穂「掛札昌裕」『にっぽん脚本家クロニクル』青人社、1996年、735頁。ISBN 4-88296-801-0
  13. ^ a b c NHK『100年インタビュー』(山田洋次の回想より)
  14. ^ 風天(フーテン): 渥美清のうた p176
  15. ^ 海も暮れきる~小豆島の放哉~ - テレビドラマデータベース
  16. ^ 小林信彦『おかしな男 渥美清』(新潮文庫、2000年、pp.326-328)
  17. ^ 「男はつらいよ DVD BOX」(松竹、2008年10月発売)、監督の特典インタビューにて(2008年収録)
  18. ^ 寅ちゃんと寅さん(2010年1月1日) - 布袋寅泰公式ブログ
  19. ^ ドラマ 幾山河は越えたれど-昭和のこころ・古賀政男 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス
  20. ^ 渥美清のああ、青春日記 国民的英雄「寅さん」の過去に迫る!死の恐怖を乗り越え愛と友情に生きた日々”. テレビドラマデータベース. 2016年8月22日閲覧。
  21. ^ 満島ひかり、黒柳徹子役に決定 NHKドラマ『トットてれび』出演者発表”. ORICON STYLE (2016年2月26日). 2016年2月26日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]