寺山修司

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寺山 修司
(てらやま しゅうじ)
誕生 (1935-12-10) 1935年12月10日[1]
青森県弘前市[1]
死没 (1983-05-04) 1983年5月4日(47歳没)[1]
東京都杉並区
墓地 高尾霊園
職業 歌人劇作家詩人俳人映画監督脚本家作詞家評論家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 早稲田大学教育学部国文学科(現・国語国文学科)中退[1]
活動期間 1956年 - 1983年
ジャンル 短歌戯曲俳句作詞映画脚本評論
代表作 『われに五月を』
『田園に死す』
デビュー作 『われに五月を』
配偶者 九條今日子(1963年 - 1970年)
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寺山 修司(てらやま しゅうじ、1935年(昭和10年)12月10日 - 1983年(昭和58年)5月4日)は日本歌人劇作家。演劇実験室「天井桟敷」主宰。

「言葉の錬金術師」「アングラ演劇四天王のひとり」「昭和の啄木」などの異名[2][3]をとり、上記の他にもマルチに活動、膨大な量の文芸作品を発表した。競馬への造詣も深く、競走馬の馬主になるほどであった。

人物[編集]

少年時代[編集]

1935年昭和10年)12月10日、父・八郎、母・ハツの長男として生を受ける[1]。八郎は東奥義塾弁論部OBで当時弘前警察署勤務。父の転勤のため、県内各所を転々とする。本人は出生について「走っている列車の中で生まれ、ゆえに故郷はない」などと記していたが、ハツと元妻の九條今日子青森県弘前市紺屋町生まれとしており、寺山のこうした記述には多分に創作が混じっているといわれる。戸籍上は1936年(昭和11年)1月10日が出生日となっている[1]。これもハツによれば、「父の仕事が忙しく、産後保養していたため」という。ただし、戸籍の出生が正しいとの説もある。本籍地は青森県上北郡六戸村(現三沢市)。

1941年(昭和16年)、青森県八戸市へ転居。八郎出征のため、ハツと三沢市へ疎開。彼女はその後九州で働くために青森市の親類に修司を預ける。青森市マリア幼稚園入園。

1945年(昭和20年)、青森大空襲によりハツとともに焼け出される[1]。9月に八郎がセレベス島戦病死したとの公報を受け取る。終戦後はハツの兄を頼り六戸村古間木(現三沢市)の古間木駅前(現三沢駅)に転居。古間木小学校に転校。中学1年秋までを過ごす。ハツは進駐軍の米軍キャンプで働き、米軍差し押さえの民家に移る。

1948年(昭和23年)、三沢市立古間木中学校入学[1]。ハツが福岡県米軍ベースキャンプへ移ったため、青森市内の母方の大叔父・坂本勇三の映画館「歌舞伎座」に引き取られる(青森市青柳2丁目1?15、跡地は結婚式場となっていて、寺山の旧居地である旨が書かれている石柱がある)。青森市立野脇中学校(統合されて廃止、跡地は青森市文化会館)に転校。

1949年(昭和24年)、青森市の母方の映画館歌舞伎座を経営していた叔父夫婦宅に引き取られる[1]。中学2年生で京武久美と友人になる[4]句作をしていた京武の影響から俳句へのめり込んでいく。文芸部に入り、俳句童話学校新聞に書き続ける。

1950年(昭和25年)、青森市営球場藤本英雄が達成した日本プロ野球史上初の完全試合を現地で観戦する。

1951年(昭和26年)、青森県立青森高等学校入学。新聞部、文芸部に所属[1]。「山彦俳句会」を結成し[5]、高校1年生の終わり頃「校内俳句大会」を主催[6]。全国学生俳句会議結成。俳句改革運動を全国に呼びかける。京武と俳句雑誌『牧羊神』創刊、1954年(昭和29年)の第7号(1,5,6,7号)まで編集・発行を続ける[7]。同期生に沢田教一がいたが、たまに学校をサボって共に映画を鑑賞する程度で、特別親しい間柄ではなかったとされる。高校時代の寺山は坂本が新築した青森市松原の家に下宿し、堤川の堤防を通り青森高校に通学していた。

歌人からシナリオ作家へ[編集]

文壇デビュー[編集]

1954年(昭和29年)、早稲田大学教育学部国文学科(現・国語国文学科)に入学した。寺山は12歳から13歳頃から短歌を詠み始めたというが、熱を入れて短歌を詠み始めるきっかけとなったのが短歌研究1954年4月号に掲載された、一般からの公募から選ばれ第一回五十首詠で特選となった中城ふみ子の「乳房喪失」であった。中城の作品は歌壇で大きな反響を生み、第二回の五十首詠の公募には第一回の約2倍の約800名からの応募があった。中城の短歌は歌壇の主に若手から強い支持を受けたが、寺山もまた中城の短歌に感動し、短歌を詠む意欲を高めた[8][9][10]

寺山は短歌研究の第二回五十首詠に「父還せ」と題して応募した。短歌研究編集長の中井英夫は寺山の作品を特選とした。後に中井英夫は自らのことを「いいものをいち早く見てとる眼を持っていてほとんど誤らない」と、自負を述べている。中央歌壇では無名であった中城ふみ子、寺山修司という稀有な才能を見い出したのは、名編集者中井英夫の慧眼あったればこそであった[11][12]

中井英夫は特選とした寺山修司の「父還せ」の発表に際して、多くの配慮をした。まず題名を「チェホフ祭」とし、既存歌壇からの反発などを考慮して17首を削り、短歌研究1954年11月号に第二回五十首詠特選として発表した。寺山は短歌研究1954年12月号に「火の継走」と題した入選者の抱負を発表している。その中で、

僕に短歌へのパッショネイトな再認識と決意を与えてくれたのはどんな歌論でもなくて、中城ふみ子の作品であった。

と書いている[13]

中城ふみ子の「乳房喪失」は、既存歌壇からの激しい反発を浴びた。一方寺山の「チェホフ祭」は当初、比較的反発は少なかった[14]。しかしまもなく寺山は激しい批判、反発に晒されることになる。寺山は俳句の世界でも注目を浴びていた。寺山の短歌が中村草田男西東三鬼らの俳句作品の模倣であるとの批判が、俳句界から上がったのである。楠本憲吉は寺山の短歌に対して「俳句はクロスワードパズルではない」と、激しい反発を露わにし、寺山のことを「模倣小僧」と揶揄する声が上がった[15]。実際、中村草田男のよく知られた俳句を短歌として引き写したかのような作品もあって、批判を受けることはやむを得なかった[16]。模倣問題が明るみに出ると、俳句界から始まった批判は歌壇にも広まり、袋叩きの様相を呈するようになった[17]

寺山を第二回短歌研究五十首詠特選とした中井英夫は、歌壇からの批判に真の意味での新人を欲しない、守旧的な体質を見た。中井は寺山擁護の論陣を張った[18][17]。中井は写実を基本とする既存短歌のあり方に疑問を持たない、歌壇に激しい不満を抱いていた。乳がんで死を目前とした中城ふみ子の不幸の演技性を帯びる短歌、まだ十代のみずみずしい青春ドラマのような寺山修司の短歌は、作品としては極めて大きな違いがあるものの、ともに平板な日常詠をよしとした既存短歌の世界からの極めて大きな飛躍であったという面において、同じ方向性を持っていた。中井にとって生命力を失いつつあった写実詠を基本とした既存短歌に対するアンチテーゼとして、寺山修司の短歌は守っていかねばならないものであった[19][20]

寺山の短歌は、当初から寺山本人自身を短歌に託すというよりも、あくまで自己表現の一手段として使いこなす傾向が顕著であった。そのため、短歌を自らの感情を増幅させ、変換させたフィクションの世界として創り上げていった。寺山は短歌による文壇デビュー以降、評論、詩、演劇、映像などに多彩な才能を開花させていくが、寺山にとっては別ジャンルの媒体ではなく、同時に繰り広げられていく世界のものであった。狭いひとつのジャンルに留まることなく、寺山自身のいわば寺山ワールドを様々な形で繰り広げていくのが寺山の芸術の大きな特徴であり、後に「職業は寺山修司です」と自称した寺山は、コラージュ、モンタージュ等の技法を駆使し、事実と虚構が入り混じる世界を構築していった[21][22]

1955年、19歳の寺山はすでに

ほんとに自分に誠実であるためには、どんな手段でもとっていいたいことをいうべきだ。そこになんかの形で修飾や風刺や、演技ということが入ってくるんで、そういうものを見ると目の色変えてポーズだなんてけなすのは滑稽だと思う。彼らにはほんとにいいたいことがないってことじゃないか……

と語っている[23]

「チェホフ祭」で第二回「短歌研究」新人賞受賞[1]山田太一とは同級。中城ふみ子の影響から短歌を作り始め、在学中から早稲田大学短歌会などにて歌人として活動。18歳で第2回短歌研究50首詠(後の短歌研究新人賞)受賞。混合性腎臓炎で立川病院入院1955年(昭和30年)、ネフローゼ診断されて長期入院となり、翌年、在学1年足らずで退学、生活保護を受ける[1]

処女戯曲『忘れた領分』が早稲田大学大隈講堂「緑の詩祭」で上演され、それを観た谷川俊太郎の病院見舞いを受け、交際が始まる。1957年に第一作品集『われに五月を』、1958年に第一歌集『空には本』(的場書房)を刊行する[1]。1959年、谷川の勧めでラジオドラマを書き始める。投稿した「中村一郎」(RKB毎日)にて、民放会長賞を受賞[1]。また、石原慎太郎江藤淳谷川俊太郎大江健三郎浅利慶太永六輔黛敏郎福田善之らと「若い日本の会」を結成、60年安保に反対した。

1960年(昭和35年)2月、第3作目のラジオドラマ『大人狩り』が放送される。同年、浅利が旗揚げした「劇団四季」で戯曲『血は立ったまま眠っている』が上演される[1]。また、篠田正浩監督作品のシナリオを担当し[1]大島渚と出会う。25歳でハツと四谷アパートでおよそ12年ぶりに同居。1963年(27歳)、松竹の女優だった九條と結婚[24]、ハツとは別居となった[25]

結婚生活については2人で映画を見に行く事もあったほか、犬好きのため九条がアルバムに犬の写真を貼り、寺山が記録を書き込むなど、良好だった様子が伺える[26]

矢崎泰久和田誠立木義浩九条今日子の寺山修司を語る座談会では、九条だけが知る寺山の様子(新婚の頃は食いしん坊、ポケットの中やハンドバッグの中を開けて除く、好奇心の塊、おしゃべりだったなど)を話す場面も見られる。夫婦喧嘩では妻がわめき散らして旦那が手を出すという形式ではなく、寺山が九条を言葉で説き伏せている間に、九条が手を出すという形だったと語っている[27]

1963年(昭和38年)4月2日カトリック吉祥寺教会にて九條映子と結婚[28]。「現代の青春論」(三一書房)と題し、「家出のすすめ」をまとめる[1]

1964年(昭和39年)、放送詩劇「山姥」(NHK)がイタリア賞グランプリ受賞。放送詩劇「大礼服」(CBC)が芸術祭奨励賞受賞[1]

1960年代半ば以降からは学研の「高三コース」にて高校生の詩の選者を務めて多くの若い才能を掘り起こしたり、新書館の少女向け詩集レーベル「フォアレディース」を編んだりするなど、「青少年のカリスマ」としての位置づけを強めていく。1963年に『現代の青春論』(『家出のすすめ』)を刊行。

「天井桟敷」結成~死去[編集]

寺山の墓(高尾霊園A区 Google maps

1967年(昭和42年)1月1日横尾忠則東由多加九條映子らと劇団「天井桟敷」を結成[1]4月18日、草月アートセンターで旗揚げ公演『青森県のせむし男』を上演。6月、新宿末広亭で第2回公演『大山デブコの犯罪』。アートシアター新宿文化で第3回公演『毛皮のマリー』。同作に出演した美輪明宏は、この頃の寺山を「あまりにもシャイで、人の目をみて話せない男」と評している。

3月、評論集『書を捨てよ、町へ出よう』が刊行される[29]。33歳で九條と別居[30]

1969年(昭和44年)、西ドイツフランクフルトの『国際実験演劇祭』に招かれ、『毛皮のマリー』『犬神』を初の海外公演。カルメン・マキの「時には母のない子のように」の作詞を手がける。

1970年(昭和45年)3月24日、漫画『あしたのジョー』の登場人物、力石徹の葬儀で葬儀委員長を務める。34歳で九條と離婚[31]。離婚後も彼女は晩年の寺山のよき協力者となった。

1971年(昭和46年)、『書を捨てよ、町へ出よう』で劇映画に進出。サンレモ映画祭でグランプリを獲得。フランスニースで作家ル・クレジオと2日間語り明かす。ロッテルダム国際詩人祭に出席し、朗読ナンシーの演劇祭で『人力飛行機ソロモン』、『邪宗門』公演。ベルリンのフォーラム・シアターで『邪宗門』公演。ベオグラード国際演劇祭で『邪宗門』がグランプリ受賞[32]

1974年(昭和49年)、映画『田園に死す』が公開され、文化庁芸術祭奨励新人賞、芸術選奨新人賞を受賞。1975年(昭和50年)、杉並区内で上演された市街劇『ノック』が住民の通報により警察沙汰となる。1979年(昭和54年)、肝硬変入院

1980年(昭和55年)7月13日午後10時ごろ、渋谷区宇田川町で取材中、アパート敷地に住居侵入した容疑で警視庁渋谷警察署に逮捕。アパート経営者の息子は「5年ほど前もしばしばこのアパート付近をうろつき、一度は警察ざたになったこともあったため、また来たと思って警察に届けた」という[33]。容疑を認めた寺山は2日後に釈放され、住居侵入罪略式起訴され8000円の罰金刑を受けた(この時の身元引受人は矢崎泰久であった[34])。『毎日新聞』は「寺山修司が『のぞき』アパート侵入、つかまる。罰金で釈放」、『読売新聞』は「寺山修司が″のぞき″女性アパートで二度も  突き出され罰金」と報じた。このスキャンダルにより、寺山の一切の仕事は無期延期とされたが、寺山は「市街における訪問劇『ノック』の上演地をリサーチしていた中の敷地内立ち入りであり、覗きの現行犯ではない」旨の反論を『週刊朝日』に書いた。渋谷署副署長の清水清七も「ノゾキのノの字も、広報簿には載せていません」と発言している。

1981年(昭和56年)、肝硬変の再発で再入院。

1982年(昭和57年)、朝日新聞『懐かしのわが家』を発表。パリで「天井桟敷」最後の海外公演を行い、『奴婢訓』を上演。

1983年(昭和58年)、東京都港区三田に在住中に肝硬変を発症し阿佐ヶ谷河北総合病院に入院。その後腹膜炎を併発し、5月4日に敗血症のため死去。47歳没。葬儀委員長は谷川俊太郎[35]

没後[編集]

1993年4月~5月、「新・寺山修司展 テラヤマ、ワールド」が西武池袋百貨店にて開催された。

1995年平成7年)、十三回忌を記念して、砂子屋書房寺山修司短歌賞を開始。

1997年(平成9年)、青森県三沢市三沢市寺山修司記念館が建てられた。

2001年(平成13年)、朝日新聞社により朝日舞台芸術賞が創設された。グランプリ、舞台芸術賞などの中に、将来が嘱望される新鋭で清新さあふれる個人・団体に対して贈られる寺山修司賞がある[36]。2008年(第8回)をもって休止となった[37][38]

2006年(平成18年)、国際社会における寺山修司研究の促進と会員相互の親睦を目的として、国際寺山修司学会が発足した[39]。4月1日、設立準備委員会が愛知学院大学日進学舎にて開催され、5月6日、設立総会兼第1回大会が名古屋市民会館第一会議室にて開催された[40]。その後、およそ年2回の頻度で大会が開催されている。また、2007年より、およそ年1回の頻度で論文集『寺山修司研究』(文化書房博文社刊)が発行されている[41]。映像アート作品のフェスティバルとして1987年から開催されているイメージフォーラム・フェスティバル[42]の一般公募部門に若手作家を対象とした寺山修司賞が新設された[43][44]

2008年(平成20年)2月、生前未発表の短歌が田中未知編纂により『月蝕書簡』(岩波書店)として刊行された。[45]

2015年(平成27年)、寺山修司生誕80年の関連行事が多数行われた。代表的な公演を下記に挙げる。

2018年(平成30年)、没後35年を迎え、神奈川近代文学館神奈川県横浜市)で「寺山修司展 ひとりぼっちのあなたに」(2018年9月29日(土)~11月25日(日))が開催された[46][47]。三浦雅士、田中未知、祖父江慎が編集委員を務めた[48]

年譜[編集]

競馬[編集]

寺山の競馬との出会いは1956年ネフローゼで入院中、同室の韓国人から賭博とともにそれを学んだ。

1962年山野浩一と親しくなったころから足繁く競馬場に通うようになり、1963年、牝馬・ミオソチス[51]に心酔して競馬エッセイを書き始め、競馬を人生やドラマになぞらえて語るなどの独特の語り口で人気を博した。

1964年にはTBSテレビのドキュメンタリー番組『サラブレッド・我が愛』の台本・構成を手掛けている。

1965年、八百長疑惑が持ち上がったたちばな賞のパトロールフィルムを大川慶次郎虫明亜呂無とともに見た寺山は「どこが八百長なのか分からない」と発言し、八百長疑惑を否定した。

1968年、船橋競馬のある騎手から「寺山さんのエッセイは中央競馬寄り」という批判を受けたことをきっかけに、船橋競馬のある騎手と新宿で会談、自身の不明を恥じた寺山は「ユリシーズ」(南関東)の馬主となる。生涯ただ一頭だけの馬主体験であった。[52]

1970年からは報知新聞競馬面に「寿司屋の政」、「バーテンの万田」など多彩な人物を登場させて競馬を予想した『みどころ』『風の吹くまゝ』というコラムを連載し、これは1983年4月、死の直前まで続いた。このコラムは後に『競馬場で逢おう』シリーズとして纏められている(Part6まで、JICC出版局)。

競馬界のスポークスマン的存在で、1973年には日本中央競馬会(JRA)のコマーシャルに出演。『カモメは飛びながら歌を覚え、人生は遊びながら年老いていく』という自作の詩(ディレクターを務めた武市好古によると、「遊びについての断章」という名の長い詩だったのを、CM収録時に編集したという)を朗読。1974年ハイセイコーが引退すると、引退記念レコード『さらばハイセイコー』の構成、詩の朗読を行なった。

1978年日本経済新春杯テンポイントが骨折し、2か月後に死亡すると、追悼詩『さらば、テンポイント』を残した。この詩は関西テレビのテンポイント追悼特集番組『風花に散った流星』で紹介された。

1978年6月には、NHKが製作した『ルポルタージュにっぽん』「ダービーの日」という番組に進行役として出演。同年5月28日に開催された日本ダービーでの「東京競馬場の長い一日」を、レースに騎乗する福永洋一岡部幸雄柴田政人の同期3名の騎手を中心に、調教師観客らの姿にスポットを当てて描くというドキュメンタリーの形で綴った。

1981年カブトシロー薬殺未遂騒動の際には、寺山を中心とした10人の競馬ファンの連名で中央競馬会に抗議文を提出。

1982年に寺山が選んだ「私の忘れがたかった馬ベスト10」(競馬放浪記あとがき)はミオソチス、カブトシロー、モンタサンホワイトフォンテン、テンポイント、ハイセイコー、メジロボサツ、ユリシーズ、タカツバキ、テキサスシチー、(番外・ダンサーズイメージ)。騎手では中島啓之、のちに吉永正人を贔屓にした。まだ人気にも話題にもなっていない頃から彼らを熱心に取り上げ、「ダービーに勝つまで書き続ける」としていた。中島、吉永共にダービー制覇を成し遂げているが、吉永がミスターシービーで悲願を達成したのは、寺山が急逝した3週間後だった。

報知新聞競馬面予想コラム『風の吹くまゝ』の最終回は1983年皐月賞の当日で、寺山は『勝つのはミスターシービー』と記し、吉永とミスターシービーの勝利を確信していた。

動物愛[編集]

寺山は動物好きだった。一人っ子で寂しがり屋だったためとする説もある[53]

  • 犬 - 母・ハツも絶えず犬を飼い、代々「太郎」と名付けた。寺山修司は「太郎」も可愛がったが、自分も終生犬を飼い続けた。コッカースパニエル犬を九条今日子との結婚祝いにもらう。コッカースパニエル「ジル」との写真が残っている[53]。柴犬には「ニーチェ」「ワグナー」と名付けて飼った。ワグナーは寺山の死後、田中未知と14年の余生を過ごした[54]。寺山修司顕彰文学碑の前にはビクター犬がたたずむ[55]
  • 亀 - 「質問」と「答」という名の2匹の亀を飼っていた時期がある[56]
  • ネズミ - 脚本を書いたテレビドラマ「Q」には、のべ1000匹ものネズミが出演。登場したネズミとの写真も残されている[57]

短歌・俳句・詩[編集]

  • われに五月を (1957年) - 第一作品集
  • はだしの恋唄 (1957年)
  • 櫂詩劇作品集 (1957年)
  • 空には本 (1958年) - 歌集
  • 血と麦 (1962年) - 歌集
  • ひとりぼっちのあなたに (1965年)
  • 田園に死す (1965年) - 歌集
  • 長編叙事詩・地獄篇
  • 寺山修司全歌集(1971年)
  • わが金枝篇(1973年) - 句集
  • 花粉航海(1975年) - 句集
  • 寺山修司俳句全集 (1986年)

随筆・評論[編集]

  • 戦後詩(1965年)
  • みんなを怒らせろ(1966年)
  • 競馬場で逢おう(1966年)
  • 書を捨てよ、町へ出よう(1967年)
  • 対談・競馬論(1969年)
  • 馬敗れて草原あり(1971年)
  • 不良少女入門(2004年)

小説[編集]

脚本[編集]

ラジオ[編集]

テレビ[編集]

  • Q -ある奇妙な診断書-(1960年、KRテレビ
  • 愛の劇場『家族あわせ』(1961年、日本テレビ
  • 日立ファミリーステージ『孤独な青年の休暇』(1962年、TBS)※出演も
  • テレビ劇場『鰐』(1962年、NHK
  • お気に召すまま 第7回『トツ・トツ・クラブの紳士たち』、第19回『髭』(1962年、NET
  • 愛の劇場『田園に死す』(1962年、日本テレビ)
  • テレビ劇場『不死鳥』(1962年、NHK)
  • 愛の劇場『母がひとりで挽くコーヒー挽き機械』(1962年、日本テレビ)
  • テレビ劇場『一匹』[59](1963年、NHK)
  • でっかく生きろ! 第2回(1964年、TBS)
  • おかあさん 第2シリーズ 第230回『階段を半分降りたところ』(1964年、TBS)
  • 一千万人の劇場『海へ行きたい』(1964年、関西テレビ
  • テレビ指定席『木』(1965年、NHK)
  • 四季に花咲く『山がある川がある』(1965年、NHK)
  • おかあさん 第2シリーズ 第316回『とびうおの歌』(1965年、TBS)
  • わが心のかもめ(1966年、NHK)
  • 怒濤日本史 第6回「楠木正成」(1966年、毎日放送
  • NHK劇場『九月が来るたび』(1966年、NHK)
  • 怒濤日本史 第7回「足利尊氏」(1966年、毎日放送)
  • 東芝日曜劇場『子守唄由来』(1967年、RKB毎日放送
  • 水葬記(1968年、NET)

映画[編集]

(監督作品を除く)

他者による舞台化[編集]

  • 青い種子は太陽のなかにある[60](1963年)
  • くるみ割り人形[61](不明)

演劇[編集]

映画[編集]

長編[編集]

  • 1982年1月から3月まで約2ヶ月の沖縄ロケを敢行。1982年10月、原作者ガルシア=マルケスのノーベル文学賞が決定し、映画『百年の孤独(仮題)』の原作権問題が浮上。寺山の存命中に原作権問題は解決せず公開は先送り。1984年9月、原作クレジットの削除と改題の上、『さらば箱舟』として公開[62][63]
  • 寺山修司&谷川俊太郎ビデオ・レター(1983年)

短編[編集]

  • 猫学(Catology)(1960年) - 現存せず。
  • 檻囚(1962年)
  • トマトケチャップ皇帝(1970年)
  • ジャンケン戦争(1971年) - 『トマトケチャップ皇帝』の抜粋・再構成版。
  • ローラ(1974年)
  • 蝶服記(1974年)
  • 青少年のための映画入門(1974年)
  • 疱瘡譚(1975年)
  • 迷宮譚(1975年)
  • 審判(1975年)
  • 二頭女(1977年)
  • マルドロールの歌(1977年)
  • 消しゴム(1977年)
  • 一寸法師を記述する試み(1977年)
  • 書見機(1977年)

テレビ監修[編集]

テレビ出演[編集]

作詞[編集]

作詞した楽曲は歌詞提供だけでも100曲以上、演劇・映画関連のものを含めると、ゆうに600曲を超える。

JASRACデータベースに於いては「寺山修司」で検索を掛けると987作品が登録されている(2016年9月現在)[64]。故にJASRAC未登録(CD化されていない、等)の作品を含めるとこれ以上の作品数が存在する。

また昭和42年制定の長野市市歌の補作詞も行っている[65]

研究・評論[編集]

顕彰施設[編集]

三沢市寺山修司記念館

関連項目・人物[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 三沢市寺山修司記念館.
  2. ^ 「文藝春秋」写真資料部 2010.
  3. ^ 鈴木.
  4. ^ 小川太郎 『寺山修司 その知られざる青春』 三一書房、1997年1月15日、52頁。ISBN 4380972062
  5. ^ 太陽編集部 『寺山修司』 平凡社、1997年、83頁。ISBN 4-582-63325-0
  6. ^ 北川登園 『職業寺山修司』 日本文芸社、1993年、206頁。ISBN 4-537-02350-3
  7. ^ 松井牧歌 『寺山修司の牧羊神時代 青春俳句の日々』 朝日新聞社、2011年、174頁。ISBN 978-4023309708
  8. ^ 中井 2002, p. 455.
  9. ^ 中井 2002, p. 460.
  10. ^ 寺山 1954, p. 118.
  11. ^ 塚本 2011, p. 327.
  12. ^ 本多 2017, p. 82.
  13. ^ 中井 2002, pp. 460-461.
  14. ^ 中井 2002, pp. 460-462.
  15. ^ 谷岡 1997, p. 38.
  16. ^ 中井 2002, pp. 608-609.
  17. ^ a b 中井 2002, p. 611.
  18. ^ 中井 2002, pp. 441-442.
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  58. ^ タイトル自体はコメットハンター池谷薫の「池谷彗星」から来ている。九條今日子の「旅はいつも人と会い」(『作家の旅』平凡社)によれば、この放送のための叙事詩はイタリア賞を受賞し、翻訳されて6ヵ国で招待されることになった。
  59. ^ 現存が確認できる最も古いテレビドラマ。全編フィルム、オールロケ作品。NHKアーカイブス 「時代を挑発し続ける男〜寺山修司 生誕80年〜」(NHK 2015年12月13日) 堀江秀史 「寺山修司のテレビメディア認識 〜NHKアーカイブス発掘資料『一匹』(1963)を中心に〜」 映像学 (86) 23-42 2011 日本映像学会
  60. ^ 寺山の『ポケットに名言を』の中にスタンダールの『赤と黒』のジュリアン・ソレルの言葉とされるが、三上延倉田秀之『読書狂の冒険は終わらない!』集英社新書 2014年 p.169の三上の発言によれば、原作には出てこないという。蜷川幸雄演出で舞台化された。
  61. ^ ホフマンの「くるみ割り人形」と「砂男」からインスピレーションを受け、壮大なスペクタクルファンタジーのアニメーション映画のシナリオとして書かれたが、壮大過ぎたためアニメーション映画でさえ実現化が困難となり、寺山作品の中で唯一実現化しなかった作品。寺山修司生誕80年にあたる2016年、青蛾館が33名の女優でファンタジー男装音楽劇として上演した。
  62. ^ 守安 2017, p. 384.
  63. ^ 『寺山修司展』 神奈川文学振興会、2018年9月、44頁。
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  65. ^ 長野市市歌”. 長野市. 2018年10月25日閲覧。

参考文献[編集]

  • 三沢市寺山修司記念館: “寺山年表”. 2018年10月8日閲覧。
  • 「文藝春秋」写真資料部 (2010年7月12日). “『言葉の錬金術師』と呼ばれた寺山修司”. 文藝春秋 本の話WEB. 2018年10月8日閲覧。
  • 鈴木創. “寺山修司 Shuji Terayama (前編)”. 20世紀ポップカルチャー史とその後. 2018年10月8日閲覧。
  • 田中未知 『寺山修司と生きて』 新書館、2007年
  • 中井英夫 『中井英夫全集10 黒衣の短歌史』 東京創元社、2002年ISBN 4-488-07014-0
  • 塚本邦雄 『アルカディアの魔王 寺山修司の世界』 講談社、2011年ISBN 978-4-06-292070-4
  • 谷岡亜紀「寺山修司の俳句からの改作」、『短歌研究』第54巻=10、短歌研究社、1997年
  • 本多正一「現代短歌の起点 中城ふみ子、寺山修司、中井英夫」、『短歌研究』第74巻第4号、短歌研究社、2017年
  • 上田三四二「共同研究 戦後短歌史第二十一章 三十年新風の展開」、『短歌』第16巻第10号、角川書店、1969年
  • 寺山修司「火の継走」、『短歌研究』第11巻第12号、日本短歌社、1954年
  • 守安敏久 『寺山修司論』 国書刊行会、2017年2月
  • 『作家の犬2 (コロナ・ブックス)』 コロナブックス編集部  、平凡社、2013年ISBN 4582634753
  • 『別冊太陽 日本のこころ 207 寺山修司 天才か怪物か』 九條今日子/監修 高取英/監修、平凡社、2013年ISBN 978-4-582-92207-3

外部リンク[編集]