松平容保

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松平 容保
Matudaira Katamori.jpg
京都守護職時代の容保
時代 江戸時代末期 - 明治時代
生誕 天保6年12月29日1836年2月15日
死没 明治26年(1893年12月5日
改名 銈之丞(幼名)→容保
別名 祐堂、芳山(法号)、会津侯
神号 忠誠霊神
墓所 福島県会津若松市東山町松平家院内御廟
東京都新宿区正受院
官位 従四位下侍従若狭肥後守左近衛権少将、左近衛権中将、正四位下参議
幕府 江戸幕府京都守護職、陸軍総裁、軍事総裁職、日光東照宮宮司(明治維新後)
主君 徳川家定家茂慶喜
陸奥会津藩
氏族 高須松平家会津松平家
父母 父:松平義建、母:古森氏
養父松平容敬
兄弟 徳川慶勝武成徳川茂徳容保定敬義勇、義姉:照姫
正室敏姫松平容敬の娘)
側室:佐久(田代孫兵衛の娘)、名賀(川村源兵衛の娘)
容大健雄英夫恆雄保男
養子:喜徳
松平容保肖像画(会津武家屋敷所蔵)

松平 容保(まつだいら かたもり)は、幕末大名陸奥国会津藩の第9代藩主(実質的に最後の藩主[注 1])。京都守護職高須四兄弟の一人で、血統的には水戸藩主・徳川治保の子孫。現在の徳川宗家は容保の男系子孫である。

生涯[編集]

生誕[編集]

天保6年(1835年)1歳

12月29日、江戸四谷土手三番丁の高須藩邸で藩主・松平義建の六男として生まれる。母は側室の古森氏。幼名を銈之允と称す。[1]

弘化3年(1846年)12歳

4月27日、実の叔父にあたる会津藩第8代藩主・容敬(高須松平家出身)の養子となり、和田倉門内、会津松平家上屋敷に迎えられる。「お子柄がいい」と会津家の男女が騒ぐほど美貌の少年だったという。ここで藩主容敬より会津の家風に基づいた教育を施されることになる。それは神道(敬神崇祖における皇室尊崇)、儒教による「義」と「理」の精神、そして会津藩家訓による武家の棟梁たる徳川家への絶対随順から成り立っており、のちの容保の行動指針となった。

嘉永4年(1851年)17歳

会津へ赴く。文武を修め、追鳥狩を行い、日新館に至り文武の演習を閲す。[2]

会津藩主就任[編集]

嘉永5年(1852年)18歳

2月10日、藩主容敬が亡くなり、2月15日、封を継ぎ会津藩主肥後守となる。[3]

嘉永6年(1853年)19歳

4月、安房、上総の警備地を巡視し、士卒の操練や船の運用を見る。[4]

10月、会津藩、品川第二砲台管守を命じられる。[5]

安政元年(1854年)20歳

10月3日、台命(将軍の命)により、駒場野にて老中・若年寄に藩士1000人余りを率いた教練を見せる。[6]

安政2年(1855年)21歳

10月2日、大地震により和田倉邸・芝邸が焼失。死者165名。救済にあたる。[7]

安政6年(1859年)25歳

9月、品川の守備を解かれ、蝦夷地の守備を命じられる。[8]

幕府水戸間の調停と幕政参画[編集]

万延元年(1860年)26歳

桜田門外の変が起こる。老中久世広周安藤信正尾張紀伊に水戸家問罪の兵を出させようとしたが、容保はこれに反対し徳川御三家同士の争いは絶対不可なるを説き、幕府と水戸藩との調停に努めた。これには家茂も容保の尽力に感謝した。これに続き容保は問題となっていた水戸家への直接の密勅の返還問題に着手。家臣を水戸に派遣し武田耕雲斎原市之進らの説得にあたらせる一方、容保は委細を幕府に言上し言いなだめ、一滴の血も流さずして勅書を返上せしめ、解決に至らせる。[9]

京都守護職就任[編集]

文久2年(1862年)28歳

5月3日、家茂より「折々登城し幕政の相談にあずかるように」と命じられる。幕政参与。[10]

閏8月1日京都守護職に就任する。この時容保は時疫にかかって病の床にあり再三これを固辞した。容保は、「顧みるに容保は才うすく、この空前の大任に当たる自信はない。その上わが城は東北に僻在していて家臣らは都の風習にはくらく、なまじ台命と藩祖の遺訓を重んじて浅才を忘れ大任に当たれば、万一の過失のあった場合累は宗家におよび、すなわち国家におよび、一家一身万死を持ってしても償いがたい」と、断り続けたが、しかし政治総裁や幕臣達は日夜勧誘に来た上で、会津藩家訓を持ち出し「土津公ならばお受けしただろう」と言い詰めより、辞する言葉もなくなり奉命を決心する。[11]

家老の西郷頼母田中土佐らは急ぎ会津より到着し、京都守護職就任を断わる姿勢を取った。西郷・田中や家臣たちは容保に謁し「このころの情勢、幕府の形勢が非であり、いまこの至難の局に当たるのは、まるで薪を背負って火を救おうとするようなもの。おそらく労多くして功少なし」と、言辞凱切、至誠面にあふれて戒める。しかし容保は、「それはじつに余の初心であったが台命しきりに下り臣子の情誼としてもはや辞する言葉がない。聞き及べば余が再三固辞したのを一身の安全を計るものとするものがあったとやら。そもそも我家には宗家と盛衰存亡を共にすべしという藩祖公の遺訓がある。余不肖といえども一日も報效を忘れたことはない。ただ不才のため宗家に累を及ぼすことを怖れただけである。他の批判で進退を決めるようなことはないが、いやしくも安きをむさぼるとあっては決心するよりほかあるまい。しかし、重任を拝するとあれば我ら君臣の心が一致しなければその効果は見られないだろう。卿ら、よろしく審議をつくして余の進退を考えてほしい」とのことであったので、家臣いずれも容保の衷悃に感激し、「この上は義の重きにつくばかり、君臣共に京師の地を死に場所としよう」と、君臣肩を抱いて涙したという。[12]

幕府への建議書[編集]

容保はまず、家老田中土佐、公用人等に先発させ、京の在任準備、情勢視察をさせた。国家混乱を治めるため目的は公武一和(天皇と幕府が協力し国内の混乱を平定。その上で対外政策を取る)となり、そのため容保は幕府へ建議書を提出する。その内容は低頭謙虚な挨拶から始まり、天下の体制、朝廷の幕府への不信、孝明天皇の叡慮である鎖国、下は人民たちの主張の攘夷、これらを尊重しつつ、諸外国の長所を取ること、巨艦大砲の軍備の備え、などに至っている。孝明天皇が幕府と力を合わせることを望んでいることから、この時点で容保の考えは朝廷と幕府が力を合わせ(公武合体)、叡慮(天皇の考え)や世論は鎖国攘夷であるがこれを徐々に少しづつ開国に向かわせることとなっている。その上で次の対策を上げている。[13]

①夷人の無礼や驕慢に毅然とした態度をとり、江戸府内の居住を制限する。

②すでに開港した三港(長崎・横浜・箱館)はそのままとしその他の条約で定められた兵庫・新潟の開港と江戸・大坂の開市は延期するよう外国と交渉する。

③朝廷より江戸へ下る勅使の待遇を改め、礼節をもって迎えること。

この容保の建白を幕府は採用し開港を五年延期することに成功し、列国の公使館が品川の御殿山に新築され制限された。また、勅旨を携え江戸に到着した三条実美は好感をもって帰京し、孝明天皇はこの建議書の話を聞き「中正の卓見である」と嘉賞されお喜びになった。[14]

「言路洞開」と「策を用いるな」[編集]

12月24日、会津藩兵を率いて上洛。この日は道の両側にその行列を見る市民が蹴上から黒谷まで隙間なく続いた。容保は宿舎より先に関白近衛邸にて天機(天皇の御機嫌)をお伺いし金戒光明寺に入った。[15]

文久3年(1863年)29歳

1月2日、参内。小御所にて初めて孝明天皇に拝謁し、天杯と緋の御衣を賜う。「陣羽織か直垂に作り直すがよい」と恩詔がある。これは前年に幕府へ意見した「勅使待遇の礼を改め、君臣の名分を明らかにすること」に尽力した功であり、武士で御料の御衣を賜るのは古来稀有のことであった。[16]

2月、この頃容保は公卿の薄禄と窮乏の改善にも取り掛かっている。天皇家の御料は戦国以来旧習の定額にもかかわらず物価は何倍にもなり窮乏を極め、中には内職で生計を立てている者もいた。そこへ幕府の裕福へのねたみがあり、さらにはそこへつけいり利用する過激浪士がいたことから公武一和の障害となっていたためである。容保は天皇家の御料の見直しと定額制廃止を建議する。孝明天皇の食卓にでる魚に関しても、食べられる品質のものではなく箸をつける素振だけすることが決められていた。それを聞いた容保は急ぎ大阪湾より新鮮な魚を直輸送し献上している。天皇は「これは肥後の魚か、これは肥後の魚か」と繰り返し、喜び、更にはほぼ魚の身を食べたというのに「次の食事の時に続きを食すのでそのまま出すように」と名残惜しんだという。

また、次に京市中の治安維持にとりかかる。京都守護職は夜中巡邏の制度を作り暴徒の警戒を行った。この頃京は過激な論を唱え暗殺と脅迫を手段とする攘夷派浪士が横行する巷と化し治安の最も下がった状態にあり、日に2~3度は暗殺が行われその首や耳や手が脅迫文書と共に公卿の屋敷に投げ込まれるといった事態であった。これは攘夷派による過激な手段の幕府批判であり邪魔となる者への殺戮と脅迫であった。しかし容保はすぐには鎮圧にはあたらず「言路洞開」の方針を打ち出した。浪士が騒ぐのは意見が上に通らない為、話せばわかると考えた容保は「国事に関することならば内外大小を問わず申し出よ。手紙でも面談でも一向に構わない。その内容は関白を通じて天皇へ奉じる」と布告を出し発令し幕府へも建議した。しかしこの時一橋慶喜は「全て聞いていてはきりがない。やるならば勝手にせよ」とあしらっている。肥後の轟武兵衛、長州の久坂玄瑞が「三願(攘夷期限の設定、言論の自由、国事掛の厳選)」を願い出た時も、慶喜や松平春嶽は逮捕させようとしたが容保だけは寛大の処置を置き、言路洞開こそが浪士鎮撫の良策だと論じている。[17]

2月7日、山内豊信の館に首と脅迫文が投げ込まれる。容保はこれを聞いて安心できず、病を押して鷹司卿のもとへ伺い「この輩は天威を恐れず尊貴を侮る。罪万死に当たるが、その根底をきわめてみれば上下の事情が隔たりすぎていることによる。ゆえにあまねく令を発して言路を開く方法をとることにした。それでもなお令に従わない者、人心を惑乱させる振る舞いの者あれば、容保、職責をもって厳にこれを逮捕する。ゆえに朝廷内においてもみだりに動揺されることのないように」と述べた。[18]

2月22日、足利三代木像梟首事件が起こる。攘夷派浪士により等持院にある足利将軍三代の木像の首が引き抜かれ三条大橋に晒された。立てられた板札は公然とこの首を徳川に擬していた。これには容保も激怒し「尊氏には世論が様々あるが、いやしくも朝廷から官位を賜り政権を預かった者、このような尊貴の者を辱めることはそのまま朝廷を侮辱すると同じである。もし彼らに尊王の心があるならば先に言路洞開にて進言を許しているのにその令を奉さずこのような兇暴をなすはずがない。これは実に、上は朝憲をあなどり下は臣子の本分を忘れたもの。ことにその暴行は屍に鞭打つに等しい残虐の行い。暴行ここに至れば許すべからず」として町奉行に追捕を厳命。

2月25日、すると過激浪士は京にいるだけでも500人はあるという噂が立ち、恐れた町奉行や三条実美から逮捕の中止を求める声が上がったが、容保は「たとえ浮浪の徒が幾百いようとも、国家の典型は正さねばならない」とした。

以後治安維持は警戒を強めていく。ある家臣が容保に「様々な策謀が巡る混乱の時局、こちらも策を弄して参りましょう」と進言したところ、容保は「策は用いるな。最後には必ず一途な誠忠が勝つ」と家臣を叱った。容保は家臣の勤めが至らぬ時も、民から凶暴の訴えがあった時も、それらは全て自分の不肖として一言も家臣を責めなかったという。やがて家臣もこれにならい職の責任を重んじ尽くした。[19]

孝明天皇の御宸翰[編集]

3月、将軍家茂は和宮降嫁の御祝言上のため上洛。これに先立ち過激浪士たちはこれを妨ぐために伊勢奉幣使派遣を画策するが、容保はこれを事前に察知。未然に防ぐ。[20]

3月11日、過激派の企画により加茂社行幸が行われるが、容保、厳重な警戒により事なきを得る。家茂も行列に参加し、孝明天皇は将軍の頼もしさを語ったと容保は聞き、公武一和の成果に喜んだ。[21]

3月17日、この頃イギリスが横浜来航し生麦事件や英国公使館焼き討ちの賠償金を幕府に請求し応答によっては戦端が開かれそうな問題が発生。この混乱を理由に将軍家は江戸へ帰りたがり朝廷へ帰国を奉請した。これに容保は大いに驚き引き止めた。 「横浜の問題については、いよいよの際には代わりに後見職・総裁職に東下して頂き、それ以上に公武一和が重要であり将軍は京を離れるべきではない」として「天朝より御一和相整い、人心帰嚮するまでは長く御滞京あそばされ、上は宸襟を安んじ奉り、下は万民の帰嚮を致させられ、神州の治安の基本相立ち候よう。強いて御東帰あそばされては天朝に対しても御不都合の儀、深く心痛仕る儀に御座候。下は天下の人心を失い、救うべからざる事態に至るであろう」といっている。

賠償金問題に関して幕府は混乱し決定できぬ状況に陥り、慶喜は「今となっては攘夷と決定したので一文も払う必要なし」としたが容保は「予はむしろ因循の汚名を着ても、外国に信義を失うには忍びない。そもそも生麦のことはわが方に非があり相手はこれを責めているので理にかなったことである。攘夷にしても名義だけは正しくしておかねばならない。ゆえに要求を認め償い、しかる後に攘夷を決行すべきである」と、その由を朝廷に上奏した。 [22]

この夜、将軍家を京に引留める勅旨が下ったが、その内容にあった「浪花港に英艦を引き入れ戦端を開き…」との部分に容保は不審に思い怪しんだ。のちに天皇自身から真勅が下り「浪花は帝都の要港。万一にも無謀な戦争はしないように。先の勅旨は朕の知らざるところ」と、先の勅旨が攘夷派の起こした偽勅であったことが判明した。また真勅には「万事幕府に委任する。なお滞京し諸侯を指揮するように。諸藩にもその指揮を受くべきと命ずる。公武一和は臆兆の安堵の基である。朕は特にこれに意を注ぐ」とあり、天皇は過激攘夷派を忌み嫌い憂いた。

4月11日、過激派の公卿の計画により石清水八幡宮への行幸が行われ、この時天皇を奪い将軍を暗殺するという噂が漏れたが、これもまた警戒を厳重にし事なきを得る。[23]

6月25日、京都守護職に江戸へ下るようにと勅命が下る。しかしこれは容保と会津藩を京から遠ざけるための過激派による偽勅であった。容保は八方に家臣を出したが状況をつかめず無駄に終わる。会津としては「今は公武一和の途上である。なぜこのような勅命が」と困惑した。孝明天皇はこの事態を大いに憂慮し決心する。宮廷の慣例を破る手段であるが、前関白を通じ容保に直接手紙を届けさせた。これが天皇直筆の御宸翰である。容保は衣冠束帯で文箱をおしいただき、内容には「今、守護職を東下させることは朕の少しも欲しないところで、驕狂の者がなした偽勅であり、これが真勅である。今後も彼らは偽勅を発するであろうから真偽を察識せよ。朕はもっとも会津を頼りにしている」とあり、容保は君恩の深さに哭きつづけ頭を上げることが出来なかった。[24]

7月30日、建春門外にて藩兵の馬揃え(軍隊操練)を天覧に供す。孝明天皇は非常に楽しみにしていたが、3日程雨が続き、はじめ過激派公卿は「雨天順延」の命を出しておきながらが急に叡覧の命を出し会津の狼狽や不備をさらし容保に恥辱を与えようとしたが、会津は準備一つもかけることなく大軍の操練をした。天皇はこれを褒めたため(「いささかの差支えもなく、かねて武備充実、行届き候段、実に頼もしく」との恩賜)、8月5日、再度天覧に供した。終わったあと容保は天皇の御車寄に召され叡感の詔を賜る。 京都守護職時代の容保の写真はこの日のものである。天皇より賜わった緋の御衣にて作られた陣羽織を着ている。[25]

この間、江戸へ帰りたがる将軍家やその首脳陣を引き留めるために家臣を奔走させている。容保は「国内を一つにまとめるのが先決。さすれば外交方針が一定し人心の不安は自然と鎮静することができる。目先の横浜問題は枝葉のことである」と考えたが幕府には伝わらず大いに困らされている。容保はこの先も京の政局において、伝わらぬ幕府と過激な攘夷派とに困らされ悩まされ続けていくことになる。のちに家臣山川浩は当時のことを「わが公の多忙なことは、一つ処理すればすでに数件の難事件が双肩にかかるありさまで、禁中・二条城・各屋敷を奔走し、その苦心は筆舌にあらわし得ないほどであった」と書いている。

八月十八日の政変[編集]

8月13日、大和行興の詔が発せられる。しかしこれは真木和泉による討幕のための偽勅であり、長州藩はすでに錦旗・武器を準備し、有力六藩に対し軍用金を醵出させる勅命(偽勅)も発せられる。容保は驚愕し、急ぎ薩摩派の中川宮に奏請。近衛前関白・二条右大臣の賛成を取り付ける。

8月16日、中川宮はひそかに参内して奸臣を除く議を奏上。同日、孝明天皇より「国家の害を除くべし。容保に命を伝えよ」との真勅が下る。

8月17日夜半、会津、薩摩、その他四藩にて御所九つの門を固め、翌朝事態に気づき出動した長州藩との激論にらみ合いになる。

戦に慣れぬ宮廷内も大騒ぎとなり「長州兵は三万」という流言も飛び交い震えあがったが、孝明天皇は「全て容保に任す」と言い、容保は落ち着いた様子で「敵が何万居ようと我等会津の精鋭にて一挙に殲滅仕ります」と場を鎮めたという。結果、七卿落ちとなり、謹慎蟄居を命じられた三条実美を始めとする過激攘夷派の七卿は逃亡し京から離れた。

8月19日、休まず御所を守護していた容保へ孝明天皇は特にその労を思し召され「引いて休むように。黒谷では遠いので施薬院を仮の住居にあてよ」とされた。それから容保は毎日参内ししばし朝議にも参画し、時には徹夜になるなど万一に備え力をつくし報じた。

8月26日、過激派公卿や浪士から「十八日以前の勅諚こそ真の叡慮で、その後のものは中川宮、肥後守などの奸臣が勝手に作った偽勅である」との宣言があり、これに悩まされた孝明天皇は「十八日以前の勅命は預かり知らぬ。今後の勅命こそ真の朕の存意に候間、諸藩一同にも心得違いあるべからず」と発した。

10月9日、孝明天皇より宸翰ならびに御製二首を賜る。(後述)「公卿達が暴論をつらね、その不正や増長は耐え難く、その方へ内命を下したところ速やかな憂患掃攘と朕の存念貫徹の段、全くその方の忠誠にて、深く感悦の余り…」と天皇は容保の忠誠を称えた。

10月11日、朝廷より将軍家の再度上洛の勅書が容保に伝えられ、家臣小室当節にこれを持たせ東下させたが幕府は鎖港商議を理由に辞退。

10月29日、さらなる将軍家上洛の勅書を賜る。「公武御一和の天下の大策を立てられたき厚き叡念の御次第」容保は家臣柴田太一郎にこれを持たせ、さらに詳しく書面を老中に送って早急な上洛を勧めた。

11月29日、一橋慶喜松平春嶽らとともに朝議参与を命じられる。しかしこれはもともと容保の素志ではなく、また、伝奏・議奏と相対峙し政令が二途に出るという弊害が生じたために翌年の3月には辞退。[26]

12月15日、公武合体派の中心である中川宮は天皇の厚い信認を受けていたが、浮浪の徒がこれを除こうと策を按じ「中川宮は関東の兵力を利用し天位につく野心がある」と流言した。容保は「このような児戯は天皇の心を動かすに足らない」と知ってはいたが、噂の力を恐れ書を奉っている。「宮の日月を貫かせられ候御高義、御忠誠は、臣ら社稷に換え死を誓って奏上し奉るべく候」

12月、この頃、孝明天皇の島津へ残している手紙から天皇の意思と方向性が確認でき、容保と天皇が意思疎通させていたことがうかがえる。以下宸翰より抜粋。

一つ、攘夷の一件、今更申すまでもなく、神明神州に盟って皇国の輝照を汚穢せず、永代限りなく万民の快楽のみを存慮候より、従来数度申し出で候えども、なにぶん年久しき治世にて、武備充実せずしては無理の戦争に相成り、真実、皇国のためとも存ぜられず。

一つ、関東への委任と王政復古との両説これあり。これも暴論の輩、復古を深く申し張り、種々計略をめぐらし候えども、朕に於ては好まず、初発より不承知を申し居り候。いずれにも大樹(将軍)へ委任の所存に候。いずくまでも公武は手を引き、和熟の治国に致したく候。深く心得もらいたく候。

一つ、幕府に従う者は、深く勤王尊奉の道を相立て候えば、万民、幕府をやはり尊ぶの道理にて、欣悦これにすぎず候事。

一つ、八月十八日脱走の実美以下七人は、じつもって暴激、私情のみの人体、従来苦心し候ところ、すでに脱走後も種々の姦策をめぐらし、じつもって害の基に候えば、きっと厳重の所置に致したく存じ候。なにぶん大胆の輩ゆえ厳重になくてはいかがかと深く存じ候。復職などの沙汰もこれあるやながら、決してなるまじく候。

元治元年(1864年)30歳

2月8日、孝明天皇より「深秘の宸翰」が届けられる。これはこの日の夜、野宮定功が来て「容保つねに和歌を好む由が天皇の耳に入り、特別に御製を数首送る」と、一封の書を渡して帰っていた。感激した容保が開封してみると、御製ではなく手紙だった。内容には「極く密々に書状を遣わします。昨年来、京に滞まって、万々の精忠、深く感悦の到りです。じつに容易ならざる時勢につけても、その方の忠勤、深く悦服、深く頼みにしています…」といった調子で書かれた長文の手紙で、「密々の面会も難しいので手紙にて…」といって別紙に細々と容保に依頼するところを述べ、「今までの宮廷内の暴論がいかに自分の意志ではないところで」行われてきたか説明し「なにとぞ極密の計略をもって私の心底を貫徹してくれまいか」と訴えている。[27]

2月10日、上洛以来の功により5万石を増封される。[28]

2月11日、陸軍総裁(のちに軍事総裁と改め)に任じられる。これは長州征伐のための転任であり京都守護職には松平春嶽が任命された。するとさっそく天皇から手紙が届き「容保が京都守護職を辞めるのははなはだ残骸の至り」と残念がり、慶喜からは「天下のことには替えられません」と言われても天皇は「それにしても守護職を免じる話は深く残骸に候」と繰り返し残念がり、「長州の件が済めば戻ってくれるだろうか、そのように周旋できないだろうか、春嶽に相談してみようか」と迷いつつも、本当に容保に頼り切っている有様が手紙の行間に溢れている。[29]

2月12日、参議就任の詔があったが容保はこれを辞退。容保は「私にいささか功ありとすればそれは全て藩祖保科正之公の故あってである。正之に贈賜下さりますように」と奉答した。20日に重ねて恩命があったが、重ねて辞退している。[30]

4月22日、京都守護職に復職。復職の要望は天皇始め幕府内にも多く、新選組に至っては春嶽の支配下を嫌がり容保の下で働きたいと願ってやまないので、50日ぶりの復職となった。[31]

蛤御門の戦い[編集]

7月、禁門の変(蛤御門の戦い)起こる。容保は玉座を守護し奉ろうと常御殿の廊下まで進み孝明天皇に拝謁。そこで天皇へこの騒動に至った止むをえぬ事情を奉り「数刻で沈めます。どうかご心配なさらぬよう」と述べた。天皇はこれを諒承。容保は小御所の庭に席を設けて宿衛し天皇を守った。もともとこの半年程前から病にて伏せていた容保はこの日も両肩を家臣に抱えられながらの戦となり、庭上での露営は徹宵すること数夜に及び病は悪化した。

7月24日、京の地がようやく静まり幕府方の宿衛を免じたが会津の兵は尚も禁門を守り、朝廷から容保と会津兵へ連日の宿衛をねぎらい御饌を賜わう。また、この戦において起きた六角獄舎の悲劇について容保は後になってこれを聞き、大いに憂い厳しく町奉行らを戒めた。

9月2日、容保の病気を心配した孝明天皇より「天下多事の今日、一日も早く全快するよう」と内々に煎薬と菓子を賜わる。

9月5日、孝明天皇より禁門の変の戦功として勅賞と御剣を賜わる。

9月6日、孝明天皇は内侍所へ出向き容保の病気が早く治るよう祈り、その洗米を容保は賜わる。[32]

慶応2年(1866年)32歳

7月20日、将軍徳川家茂が大阪城で病死。

12月25日、孝明天皇が突然の崩御。容保は最も頼りにして忠義を尽くしてきた二人を続けて失くし、公武一和の策を失うことになる。「これを私にしては数回優渥の聖詔髣髴として猶耳にあり、当時を追想する毎に哀痛極りて腸を断んとし、暗涙千行、満腔の遺憾更に訴ふる所なく、遂に慶応二年も暮れ行きぬ」と容保は回想している。[33]

鳥羽・伏見の戦い[編集]

慶応3年(1867年)33歳

2月、病により守護職辞任を上表するも許されず。

11月、15代将軍・徳川慶喜大政奉還を行い、江戸幕府が消滅すると同時に、京都守護職も廃止された。同じ日に出された「討幕の密勅」には「会津宰相に速やかに誅戮を加えよ」と命ずる勅書も出されていた。

12月9日、王政復古の詔勅下る。慶喜は容保、松平定敬を従え二条城より大阪城へ移る。

慶応4年(1868年)34歳

1月3日、慶喜、京師の奸を除かんとして大阪を出発、鳥羽・伏見の戦いが勃発する。旧幕府軍が敗北。

1月6日、大坂へ退いていた慶喜が戦線から離脱し夜に紛れて幕府軍艦で江戸へ下った。容保は慶喜の命によりこれに随行することになる。これは君臣一体となっては戦うことになる会津藩士から容保を引き離す慶喜による策であるが、容保にとっては大切な家臣達を戦場に残し逃げる形となってしまう。家臣誰一人にも告げる暇もなく大阪湾上の開陽丸に連れられたという。[34]

2月4日、容保は大阪脱出の責任を取るために藩主を辞任し家督を養子である喜徳に譲る。

2月15日、容保は藩兵全員を江戸の和田倉邸内に集め鳥羽伏見戦争における奮戦を慰労、同時に自身の大阪城脱出を大いに恥じて謝罪。会津を回復したいと藩士を励ました。[35]

2月16日、会津・桑名を朝敵とする勅命が下り、慶喜より江戸城登城の禁止と江戸追放を言い渡される。容保は江戸を発し会津へ向かう。江戸詰めの藩士や婦女子も会津の人間のほとんどが江戸を後にした。

2月22日、会津に到着。容保は謹慎して朝廷の命を待つ。会津は武装防衛と降伏嘆願の二方向へ動く。

3月、奥羽鎮撫総督九条道孝は参謀世良修蔵らとともに東北諸藩に対して会津・庄内の征討を命ず。

4月、容保は仙台・米沢・庄内各藩を通じて降伏嘆願書を提出。しかし世良はこれをしりぞける。会津に同情的な奥州の各藩からも嘆願書が出されるがしりぞけられ、逆に各藩は会津征討を迫られてしまう。横暴な態度が目立ち奥羽の反感を買った世良は仙台藩士に襲われ殺害される。戦争は不回避となった。

奥羽越列藩同盟[編集]

5月、東北諸藩34藩からなる奥羽越列藩同盟が成る。

7月、13日に磐城平城、26日に三春藩、29日に二本松城、29日に長岡城が落城する。

会津戦争[編集]

8月21日、会津藩は各国境へ主力を送り出し守備に付かせていたが石筵口である母成峠の戦いにて東軍が破れ、西軍は破竹の勢いで進行した。

8月22日、容保、滝沢本陣にて宿陣。戸ノ口原の守備を固めるため白虎隊(士中二番隊)もここより出陣。

8月23日、戸ノ口原の戦いにて東軍が崩れ、西軍が若松城下に侵入。城下の戦いと籠城始まる。これより一ケ月余りの長い籠城戦の中で会津藩の家臣達は婦女子や子供に至るまで戦い、又は自決をし、会津の武士道に殉ずる道を選び、多くの悲劇を生んだ。西郷頼母の家族に代表される婦女子の自刃は140家族239名にのぼり、白虎隊の飯盛山での自刃、中野竹子娘子隊の戦いなどがおこり、その他多くの会津藩士が胸に辞世の句を入れるなどして戦った。対する西軍は32藩からなり大砲100門、3万ないし4万人に上り城を包囲し一昼夜鶴ヶ城へ砲弾を打ち続けた。

9月22日、会津藩降伏。鶴ヶ城開城。容保は滝沢村妙国寺へ移される。

10月19日、容保、会津を発し東京へ護送、池田邸に永預けとなる。

戦後[編集]

明治2年1869年)35歳

5月18日、家老萱野長修、戦争責任を一身に負い自刃。

6月3日、容保の実子、慶三郎(容大)が生まれる。

11月4日、容大に家名相続が許され華族に列し子爵を授かり、陸奥の国3万石の支配を命じられる。

12月7日、容保は和歌山藩へ預け替えとなる。

明治3年1870年)36歳

5月15日、容大が斗南藩知事に任じられ、青森県五戸へ向かうこととなる。

明治4年1871年)37歳

容保も斗南藩預け替えとなり、7月~8月の約1カ月間田名部にて居住するが、その後東京へ移住する。

晩年の容保

明治5年1872年)38歳

1月、蟄居を許される。

明治13年1880年)46歳

2月、日光東照宮宮司に任じられる。

3月、上野東照宮祠官を兼務し保晃会会長に就任。

6月、土津神社の祠官を兼務。

明治26年1893年)59歳

12月5日、東京小石川の自邸にて肺炎のため薨去。神号は忠誠霊神。

死後[編集]

昭和3年(1928年明治維新から60年目)、秩父宮雍仁親王大正天皇第2皇子)と松平勢津子(容保の六男・恆雄の長女)の婚礼が執り行われた。会津松平家皇族の結婚は、朝敵会津藩の復権であると位置づけられているといわれる。

官職および位階等の履歴[編集]

※日付は明治4年までは旧暦

容保の墓

栄典[編集]

家系[編集]

高須四兄弟(明治11年9月撮影)
左から定敬、容保、茂徳、慶勝
水師営の会見 後列左4人目が五男の英夫、中段左2人目が乃木希典

正室・婚約者(継室)・側室など[編集]

  • 正室は容敬の五女で従妹にあたる敏姫。天保14年(1843年)に会津若松城で生まれ、9歳で江戸に出府。安政3年(1856年)14歳で22歳の容保の正室となるが、文久元年(1861年)10月に19歳で死去した。先代・容敬の実子の中では唯一成長した人物であるため、早くから容保との縁組が予定されていたと考えられる。
  • 敏姫の死の翌年、文久2年(1862年)10月、容保は加賀藩主・前田慶寧の長女・禮姫と婚約し、11月に幕府の許可を得た。しかし、12月に京都守護職として上洛し、京に長期滞在したため婚儀は延期された。慶応2年(1866年)12月に容保が慶喜の弟の余九麿(喜徳)を養嗣子にし、翌慶応3年に余九麿元服を機に東下する内命が下りたことから、6月26日結納が贈られる。だが、容保は結局この時も京を離れられず、戊辰戦争の会津降伏、容保長男・容大の誕生などを経て、明治4年(1871年)の廃藩置県を機に正式に縁組を解消した[注 3]。禮姫は文久2年から明治4年まで金沢に在住していたので、この間に容保と会った可能性は低い。明治6年に榊原政敬に嫁いでいる。
  • 浦乃局(関山通子)は、柴桂子『会津藩の女たち』で会津松平家に奉公し、側室だった可能性を挙げられているが、公式記録には見当たらない。
  • 子供を産んだ側室は田代孫兵衛の娘の佐久と川村源兵衛の娘の名賀の2人。第一子の出産はともに会津降伏から間もない明治2年(1869年)で、名賀が3月、佐久が6月。明治以降、容保が死去するまで両人とも容保に仕えた。秩父宮妃節子『銀のボンボニェール』で節子の父・松平恆雄が「(側室だったので)母と呼ばせてもらえなかった」と回想している。

逸話[編集]

父への手紙[編集]

1862年(文久2年)、京都守護職就任を幕府から迫られ迷っている際に、実家の実父である高須家松平義建へ次の歌を送っている。

行も憂し 行ぬも辛し 如何せん 君と親とを おもうこころを

これに義建は返歌にて答えた。

親の名は よし立てずとも 君のため いさをあらはせ 九重の道 

軍艦をチャーター[編集]

京都守護職に就任し京へ着任する際、江戸から京へどのように行くかが討議された。京都の情勢探索にあたった藩士達たちは軍艦で大阪に入ることを主張した。これは藩校日新館より江戸の昌平黌に学んだ若手の秀才達の意見であった。当時としては時代の推移を捉えた斬新な意見であり、容保はこれに賛成。さっそく容保は幕府と交渉し二隻のスクーネル船を借用する。しかしその後この海路案は西郷頼母など家老たちから猛烈な反対にあう。「我等は山国に生まれ育ち航海の経験が浅い、主君に万一の危機が訪れたときはどのように守るのか」と轟々と反対され遂に陸路と決まった。[38]

新選組の護衛[編集]

京都の故老が残した回想録がある。「京都守護職であられた会津中将さんはとても美男子で、男が見ても惚れ惚れするような人でした。京都の人は容保さんのことを会津中将さんと呼んでおりました。何でも黒谷さん(会津本陣であった金戒光明寺)から御所さんにおいでの時を、私は一度烏丸通りで見たことがありましたが、真っ白い馬にお乗りになって、真っ赤な陣羽織みたいなものを着、烏帽子を冠り、槍を担いだ新選組を従えて、馬のお口は近藤勇が取り、右手には例の虎徹とか云う刀を、抜き身で持っておりました。会津中将さんのお通りだと云うと、若い女の子はわれ先にと、表に飛び出して行ったものですよ。」[39]

雀の和歌[編集]

新島八重の回想談によると、鶴ヶ城での籠城中、八重が数えた中でも1日に1200発以上の砲弾が撃ち込まれ城中が轟音と惨劇に包まれている時の事。ふと見ると城内の月見櫓に雀が沢山とまっていた。その群れは天守閣の屋根に飛び移り天守閣の屋根は雀でいっぱいになった。同じ光景を主君容保も見ていた。砲声が轟く中で突然に容保は歌を一首詠んだという。八重はうまく聞き取れなかったが、砲声がしばし止んだ際に物怖じしない八重はなんと主君に声をかけ今一度聞かせて頂けないかとお願いした。容保はその求めに応じて今一度詠んでくれた。

またも世に さかゆる春を しろしめす すずめ ちよ よぶ 若松の城 

知ろしめす(治めるの意)と城しめすを掛け、雀の鳴き声(ちよちよ)と千代に八千代にを掛けている。八重はこの即興の歌を聞き「この主君の為ならば命を捨てるのは惜しいことはない」と感嘆している。[40]


  • 細面の貴公子然とした風貌で、京都守護職の容保が宮中に参内すると女官たちがそわそわした、という逸話も残っている。
  • 京都見廻組京都守護職だった容保の支配下にあったので、近江屋事件について磯田道史は「(見廻組与頭)佐々木只三郎の兄で会津藩公用人であった手代木直右衛門が、松平容保の命で佐々木に実行させた」と、手代木が記した書を元に指摘している[41]
  • 家臣からの人望は厚く、若松城開城後、江戸(東京)に護送される容保を、家臣たちは断腸の思いで見送ったという。反面、下々には重税を課していたことから領民たちの恨みを買っており[注 4]、見送りにくる領民はほとんどおらず、農民たちに至っては護送されている藩主を見ようともせずに野良仕事をしていたという。当時、従軍医師として、その様子を見たウィリアム・ウィリスは「松平容保やその家臣たちが恩赦を受けても、支配者として会津に戻ることは不可能だろう」と手帳に記している。[42]
  • 明治期になって、容保の実兄である旧尾張藩主・徳川慶勝から容保に尾張徳川家相続の話がもちかけられたが、容保は辞退した。旧臣・山川浩が容保にその理由を訊ねたところ「自分の不徳から起こった幕末の動乱で苦難を蒙った人々のことを思うと、自分だけが会津を離れて他家を接ぐわけにはいかない」と答えたと言う[43]
  • 明治26年(1893年)、孝明天皇の妃であった九条夙子は、容保の病が重いことを聞き、容保の主治医であり宮中の侍医頭でもあった橋本綱常を通じて、当時滋養によい高級品とされていた牛乳を贈った。容保は牛乳の匂いを苦手としていたため、皇太后は香料を加えることを指示し、綱常はコーヒーを加えた牛乳を瓶に詰めて松平家に持参した。容保は侍女に支えられながら病床に起き上がり、感涙にむせびながらそれを飲んだという[44]
  • 会津松平家は容保の長男・容大が子爵となったものの、山川健次郎の奔走が実るまで財政は苦しかった。旧臣たちは収入から幾許かを献上し、旧主家を支え続けた。
  • 磐梯山が噴火した際、旧領の猪苗代裏磐梯地域は大きな被害を受けた。旧臣の西忠義から事態の連絡を受けた容保は現地に急行し、被災者を見舞っている。被災者は旧領主の訪問を喜んだ[45]

孝明天皇下賜の宸翰・御製[編集]

上述の通り、八月十八日の政変の際に孝明天皇より賜った宸翰(孝明天皇宸翰)には、京都守護職である容保の職務精励を嘉する文章があり、いかに孝明天皇が容保を信頼していたかを物語っている。宸翰・御製の内容は以下の通り。

宸翰
堂上以下陳暴論不正之所置増長付痛心難堪

下内命之処速ニ領掌憂患掃攘朕存念貫徹之段  

仝其方忠誠深感悦之餘右壱箱遣之者也  

文久三年十月九日

御製
たやすからさる世に武士(もののふ)の忠誠のこゝろをよろこひてよめる
  • 和(やわ)らくも たけき心も相生(あいおい)の まつの落葉のあらす栄へむ
  • 武士と こゝろあはしていはほをも つらぬきてまし世々のおもひて

登場する作品[編集]

小説[編集]

テレビドラマ[編集]

ドラマCD[編集]

  • 歴史ロマン朗読CD 城物語 松平容保と会津若松城(コズミックレイ、2013年)[46]
  • 彼岸獅子の入城(花春酒造、2014年)[47]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 容保の隠居後に、養嗣子の松平喜徳が家督を継ぎ会津藩主になったとみなすかどうかについては、見方が分かれる。
  2. ^ 日露戦争において乃木希典の副官を務め、出師営の会見に同行している。なお息子の貞夫は陸軍中尉としてインパール作戦に従軍し戦死。高木俊朗によると、その死は花谷正に自決を強要されたものであった[37]
  3. ^ 当時の慣習としては、婚約、幕府の認可、結納を経ていれば、婚儀の一部は成立しているとみなされるため、系図上は継室と記される。
  4. ^ 会津戦争によって藩内を戦火に巻き込んだことも災いした

出典[編集]

  1. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  2. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  3. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  4. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  5. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  6. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  7. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  8. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  9. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  10. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  11. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  12. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  13. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  14. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  15. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  16. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  17. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  18. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  19. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  20. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  21. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  22. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  23. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  24. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  25. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  26. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  27. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  28. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  29. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  30. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  31. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  32. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  33. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  34. ^ 『昔夢会筆記』
  35. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  36. ^ 『官報』第1351号、「叙任及辞令」1887年12月28日。
  37. ^ 『戦死 インパール牽制作戦
  38. ^ 『七年史』北原雅長著
  39. ^ 『会津こぼれ草』益田晴夫編『美男におわす松平容保』1952年
  40. ^ 『同志社談業』第20号『新島八重子刀自懐古談』
  41. ^ 磯田道史 『龍馬史』 文藝春秋2010年ISBN 4163730605
  42. ^ 中須賀哲朗・訳「英国公使館員の維新戦争見聞記」より
  43. ^ 『男爵山川先生遺稿』「14 忠誠神君の御逸事」
  44. ^ 『男爵山川先生遺稿』「15 英照皇太后陛下より忠誠神君へ牛乳を賜りしこと」
  45. ^ 『西忠義翁徳行録』
  46. ^ 歴史ロマン朗読CD「城物語 松平容保と会津若松城」 - COSMICRAY”. 2016年5月24日閲覧。
  47. ^ ドラマCD「彼岸獅子の入城」(追加情報あり)”. 萌えの桜. 2014年10月8日閲覧。

参考文献[編集]