鳥羽・伏見の戦い

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鳥羽・伏見の戦い
Encounter of Toba
Encounter of Fushimi
Encouter of Tominomori
上段:小枝橋の戦い。左側:旧幕府軍、右側:薩摩軍
中段:高瀬川堤での戦闘。左側:桑名藩などの旧幕府軍、右側:長州・土佐軍
下段:富ノ森の遭遇戦。左側:旧幕府軍、右側:薩摩軍
戦争戊辰戦争
年月日:(旧暦慶応4年1月3日 - 慶応4年1月6日
グレゴリオ暦1868年1月27日 - 1868年1月30日
場所山城国鳥羽・伏見(現在の京都市南区伏見区
結果新政府軍の勝利、戊辰戦争の勃発
交戦勢力
Flag of the Japanese Emperor.svg 新政府軍 Mon-Tokugawa.png 旧幕府軍
指導者・指揮官
Flag of the Japanese Emperor.svg 仁和寺宮嘉彰親王 Mon-Tokugawa.png 松平正質
戦力
約5,000 約15,000
損害
約110 戦死 約280 戦死
戊辰戦争
伏見口の戦い激戦地跡石碑
(京都市伏見区)

鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい、明治元年/慶応4年1月3日 - 6日1868年1月27日 - 30日))は、戊辰戦争の初戦となった戦いである。

戦いは京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)、橋本(京都府八幡市)で行われた。

背景[編集]

嘉永6年(1853年)のペリー来航以来、国内の不安定化が進む中、薩摩藩は有力諸侯による合議態勢を模索するが、江戸幕府・関係諸藩との見解の一致は困難であった。武士階級は上位者に判断を委ねる構造で安定してきた為、余程の事態にならない限り、自身の職責の埒外を公然と論じる事はおろか、知ること、考える事ですら、ともすれば悪徳となっていた。宗家親藩譜代にとっては、特に従前の組織の運営と維持が義務であり美徳であった。

一方、外様で体制の末端におかれた下級武士の間では国学が流行しつつ有った。彼らは当初攘夷論を唱え、危機にあたって対応できない幕府への危機感を募らせた。しかし国学はイデオロギーに過ぎず、西洋諸国に対する客観的な状況を示すものではなく、夢想的な攘夷論が流行した。西国においては洋学に明るい者が幕藩体制の変革を訴え始め、幕府は安政5年から6年(1858年 - 1859年)にかけてこれを弾圧した(安政の大獄)が、万延元年(1860年)に主導者の大老井伊直弼が大獄の反動で暗殺され(桜田門外の変)、幕府の権威は失墜した。やがて国内の不安を背景に朝廷は政争の舞台となり、京都では攘夷派による天誅と称する幕府関係者への暗殺が横行するようになる。幕府は徳川系の親藩で大きな武力を持つ会津藩桑名藩などに命じてこれを厳しく取り締まったが、これは安政の大獄と同じく、対症療法に過ぎなかった。

当初、過激な尊王攘夷論を背景に幕府と鋭く対立していた長州藩元治元年(1864年)に勃発した禁門の変下関戦争での完敗と幕府による第一次長州征討を経て、それまで失脚していた俗論派(佐幕派)に藩の実権が渡った。しかし、挙兵した正義派(倒幕派)が翌慶応元年(1865年)の元治の内乱で俗論派を打倒し、藩論を尊王倒幕の方向で一致させる。それを見た幕府は慶応2年(1866年)に第二次長州征討を行うも、敗北を重ねて失敗に終わった。この長州征討の失敗は、幕藩体制の限界と弱体化を白日のもとに晒し、幕府の威信を大きく低下させた。

一方、文久3年(1863年)に薩英戦争で挙藩一致を見た薩摩藩は、四侯会議が失敗すると、幕藩体制下での主導権獲得策を見限り、徳川家を排除した新政権の樹立へと方針を転換するようになる。対して幕府の主要な構成層には未だに情勢に明るいものが殆どおらず、意思統一は困難であった。大半の幕臣にとって、大政奉還こそが初めて自身に降りかかった火の粉となった。

慶応3年(1867年6月9日、坂本龍馬と後藤象二郎は藩船「夕顔丸」に乗船して長崎を発ち兵庫へ向かった。京都では将軍・徳川慶喜および島津久光・伊達宗城・松平春嶽・山内容堂による四侯会議が開かれており、後藤は容堂に京都へ呼ばれていた。龍馬は船内で政治綱領を後藤に提示した。

  1. 天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事(大政奉還)
  2. 上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事(議会開設)
  3. 有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事(官制改革)
  4. 外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事(条約改正)
  5. 古来ノ律令を折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事(憲法制定)
  6. 海軍宜ク拡張スベキ事(海軍の創設)
  7. 御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事(陸軍の創設)
  8. 金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事(通貨政策)

長岡謙吉が筆記した、以上の八項目は「船中八策」として知られる。

龍馬の提示を受けた後藤は直ちに京都へ出向し、建白書の形式で山内容堂へ上書しようとしたが、この時既に中岡慎太郎の仲介によって乾退助毛利恭助谷干城らが薩摩西郷隆盛吉井友実小松帯刀らと薩土討幕の密約を結び、容堂はこれを承認した上で土佐に帰藩していた。この為、後藤は大坂で土佐藩の重臣と協議して「船中八策」を藩論となした。6月22日、薩摩側は西郷隆盛・小松帯刀・大久保一蔵、土佐側からは坂本龍馬・中岡慎太郎・後藤象二郎・福岡孝弟寺村左膳真辺正心(栄三郎)が代表となり、「船中八策」に基づいた王政復古を目標となす薩土盟約が成立した。その後、後藤は土佐に帰って容堂に上書を行なった。

慶応3年(1867年10月13日公武合体の考えを捨てた下級公家の岩倉具視らの働きかけにより、倒幕及び会津桑名討伐の密勅が下る。この動きに対し、翌14日、かねてより元土佐藩山内容堂より建白の有った15代将軍徳川慶喜は大政奉還を上表した。これは薩長による武力倒幕を避け、徳川家の勢力を温存したまま、天皇の下での諸侯会議であらためて国家首班に就くという構想だったと見られている(公議政体論)。外交能力を持たない朝廷は慶喜に引き続きこれを委任したが、諸国の大名が様子見をして上京しないまま諸侯会議は開かれず、旗本の中には無許可で上京してくるものも相次いだ。

討幕の密勅は江戸の薩摩邸にも伝わり、討幕挙兵の準備と工作活動が行われていたが、直後の大政奉還で21日に討幕の密勅は効力を失った。武力倒幕の大義名分を失った薩摩藩の西郷隆盛は、旧幕府を挑発することによって旧幕府側から戦端を開かせようと画策した。江戸薩摩藩の益満休之助や伊牟田尚平や下総郷士の相楽総三らが浪人たちを募って500人ほど集めた。浪人集めの表向きの目的は、薩摩藩から13代将軍家定に嫁ぎ、今は未亡人となっている天璋院(篤姫)の護衛のためということだった。この浪人たちが勤皇のためと称して豪商の店に押し入り強盗を働き、更には辻斬り、強姦、放火と凶悪犯罪を立て続けに行ったことで、江戸の治安は極度に悪化し、「薩摩御用盗」と呼ばれて恐れられた[要出典]

11月15日、坂本龍馬は中岡慎太郎と共に、河原町の近江屋の二階にいた。午後8時頃、十津川郷士と名乗る男達数人が来訪し面会を求めて来た。従僕の藤吉が二階の部屋の前まで案内したところで、男達は藤吉を斬り、龍馬達のいる部屋に押し入った。龍馬達は帯刀しておらず、龍馬はまず額を深く斬られ、その他数か所を斬られて、ほとんど即死に近い形で殺害された。

12月9日、薩摩藩士大久保利通や岩倉具視らは王政復古の大号令を発し、前将軍慶喜に対し辞官納地を命じた。翌10日、徳川家親族の新政府議定松平春嶽徳川慶勝が使者として慶喜のもとへ派遣され、この決定を慶喜に通告した。慶喜は謹んで受けながらも配下の気持ちが落ち着くまでは不可能と返答した。旧幕府の退勢を知らない主戦派の暴走を懸念した慶喜は彼らに軽挙妄動を慎むように命じつつ[1]12日深夜には政府に恭順の意思を示すために京都の二条城を出て、翌13日大坂城へ退去している。春嶽はこれを見て「天地に誓って」慶喜は辞官と納地を実行するだろうという見通しを総裁有栖川宮熾仁親王に報告する。しかし大坂城に入った後慶喜からの連絡が途絶えた。

12月16日、慶喜は大坂城黒書院フランスイギリスイタリアアメリカプロイセンオランダの公使を集め、新政府の政体が定まるまでは、外交を慶喜が掌握すること等を伝えた[2]

大坂城では、会津藩士と桑名藩士だけでなく幕閣にも主戦論が高まったため、12月中旬に旧幕府軍は京坂の要地に軍隊を展開した。西国街道西宮札の辻に小浜藩兵500人、京街道守口伊勢亀山藩兵200余人、奈良街道河堀口姫路藩兵200余人、紀州街道住吉口紀州藩兵若干名を配し、枚方には注進に備えて騎兵を置き、真田山天王寺陣営を築き、大坂、大坂城外14カ所の柵十三川、守口、枚方、山崎八幡、淀を幕府陸軍で固め、伏見には幕府陸軍と新選組を配して臨戦態勢を整えた[3][4]

12月23日24日にかけて政府において、大坂城に移ってから音信不通の慶喜の件について会議が行われた。参与の大久保は慶喜の裏切りと主張し、ただちに「領地返上」を求めるべきだとしたが、春嶽は旧幕府内部の過激勢力が慶喜の妨害をしていると睨み、それでは説得が不可能として今は「徳川家の領地を取り調べ、政府の会議をもって確定する」という曖昧な命令にとどめるべきとした。岩倉も春嶽の考えに賛成し、他の政府メンバーもおおむねこれが現実的と判断したため、この命令が出されることに決した。再度春嶽と慶勝が使者にたてられ慶喜に政府決定を通告し、慶喜もこれを受け入れた。近日中に慶喜が上京することも合意され、この時点まで、慶喜は復権に向けて着実に歩を進めていた。 江戸市中における薩摩藩の浪人たちの挑発行為はエスカレートして、12月23日夜、三田の庄内藩屯所が銃撃され、同じ日、江戸城二ノ丸が炎上し、伊牟田尚平の仕業だと噂され、遂に堪りかねた旧幕府側は薩摩藩上屋敷の浪人処分を決定し、12月25日に薩摩藩に浪人たちの引き渡しを求めたが薩摩側が拒絶したため、庄内藩等による江戸薩摩藩邸の焼討事件が起きる。

28日にこの報が大坂に届くと、慶喜の周囲では「薩摩討つべし」の声が高まった。慶応4年(1868年)元日、慶喜は「討薩表」を発し、朝廷への訴えと薩摩勢討滅のため、2日から3日にかけて京都へ向け近代装備を擁する約1万5千の軍勢を進軍させた。旧幕府軍主力の幕府歩兵隊及び桑名藩兵、見廻組等は鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進んだ。旧幕府軍の本営淀本宮(淀姫社)[5]に置かれ、総督松平正質、副総督は塚原昌義であった[6]

慶喜出兵の報告を受けて朝廷では、2日に旧幕府軍の援軍が東側から京都に進軍する事態も想定して、橋本実梁を総督として柳原前光を補佐につけて京都の東側の要所である近江国大津滋賀県大津市)に派遣することを決めるとともに、京都に部隊を置く複数の藩と彦根藩に対して大津への出兵を命じた。だが、どの藩も出兵に躊躇し、命令に応えたのは大村藩のみであった。渡辺清左衛門率いる大村藩兵は3日未明には大津に到着しているが、揃えられた兵力はわずか50名であった[7]

経過[編集]

鳥羽・伏見での戦闘[編集]

3日午前、鳥羽街道を封鎖していた薩摩藩兵と旧幕府軍先鋒が接触した。街道の通行を求める旧幕府軍に対し、薩摩藩兵は京都から許可が下りるまで待つように返答、交渉を反復しながら小枝橋付近で両軍は対峙した。通行を巡っての問答が繰り返されるまま時間が経過し、大目付滝川具挙の家臣が騎馬で駆け抜けようとするも阻まれ断念、業を煮やした旧幕府軍は午後5時頃、隊列を組んで前進を開始し、強引に押し通る旨を通告した。薩摩藩側では通行を許可しない旨を回答し、その直後に銃兵、大砲が一斉に発砲、旧幕府軍先鋒は大混乱に陥った。この時、歩兵隊は銃に弾丸を込めてさえおらず、不意の攻撃に狼狽し、滝川具挙の乗馬は砲撃に驚いて暴走、滝川を乗せたまま前線から走り去った。奇襲を受けた形になった旧幕府軍の先鋒は潰走し、見廻組など一部が踏みとどまって抗戦していたところ、後方を進行していた桑名藩砲兵隊等が到着し反撃を開始した。日没を迎えても戦闘は継続し、旧幕府軍は再三攻勢を掛けるが、薩摩藩兵の優勢な銃撃の前に死傷者を増やし、ついに下鳥羽方面に退却した。

一方、伏見でも昼間から通行を巡って問答が繰り返されていたが、鳥羽方面での銃声が聞こえると戦端が開かれた。旧幕府軍は陸軍奉行竹中重固を指揮官として旧伏見奉行所を本陣に展開、対する薩摩・長州藩兵(約800名)は御香宮神社を中心に伏見街道を封鎖し、奉行所を包囲する形で布陣していた。奉行所内にいた会津藩兵や土方歳三率いる新選組が斬り込み攻撃を掛けると、高台に布陣していた薩摩藩砲兵等がこれに銃砲撃を加えた。旧幕府軍は多くの死傷者を出しながらも突撃を繰り返したが、午後8時頃、薩摩藩砲兵の放った砲弾が伏見奉行所内の弾薬庫に命中し奉行所は炎上した。新政府軍は更に周囲の民家に放火、炎を照明代わりに猛烈に銃撃したため、旧幕府軍は支えきれず退却を開始し、深夜0時頃、新政府軍は伏見奉行所に突入した。旧幕府軍は堀川を超え中書島まで撤退して防御線を張ったが、竹中重固は部隊を放置したまま淀まで逃げ落ちた。

この時の京都周辺の兵力は新政府軍の5,000名(主力は薩摩藩兵)に対して旧幕府軍は15,000名を擁していた。鳥羽では総指揮官の竹中重固の不在や滝川具挙の逃亡などで混乱し、旧幕府軍は狭い街道での縦隊突破を図るのみで、優勢な兵力を生かしきれず、新政府軍の弾幕射撃によって前進を阻まれた。

3日、朝廷では緊急会議が召集された。大久保は「旧幕府軍の入京は新政府の崩壊であり、徳川征討の布告と錦旗が必要」と主張したが、春嶽は「これは薩摩藩と旧幕府勢力の私闘であり、朝廷は中立を保つべき」と反対を主張。会議は紛糾したが、議定の岩倉が徳川征討に賛成したことで会議の大勢は決した。

戊辰戦場址碑

近江方面[編集]

一方、旧幕府軍では伊勢方面から京都に向けて援軍として騎兵1個中隊と砲兵1個大隊が発進していたが、3日夜になって大津に潜入していた偵察から既に大津には新政府軍が入っているとの報告が入った。これは大村藩兵50名のことであったが、旧幕府軍の援軍は大津に新政府軍が結集していると誤認して大津から京都を目指す事を断念し、石部宿から伊賀街道を経由して大坂に向かうことになった。4日になると、朝廷から改めて命令を受けた佐土原藩岡山藩徳島藩の兵が大津に入り、彦根藩もこれに合流した。これによって5藩合わせて700名となり、6日は更に鳥取藩兵と参謀役の木梨精一郎(長州藩)を大津に派遣するも、新政府側が危惧したこの方面からの旧幕府軍の侵攻は発生しなかった[7]

近江方面の戦況について、大久保は5日付の蓑田伝兵衛宛の書状で、井伊直弼などを輩出した譜代の大藩である彦根藩の旧幕府からの離反に皮肉を込めつつも、彦根藩が味方に付いたことで背後(近江側)の不安がなくなり、旧幕府軍支配下の大坂から京都への物資の流入が止まったとしても、近江から京都への兵糧米の確保が可能になったと記している。また、東久世通禧も後になって大村藩が素早く大津を押さえたことで、旧幕府軍からの京都侵攻とこの戦いで未だに態度を決しかねていた諸藩部隊の新政府からの離反を防いだこと、同藩が大津にある彦根藩の米蔵にある米の新政府への借上げを交渉したことなどをあげて、大村藩の功労が格別であったことを述べている[7]

淀の戦い[編集]

翌4日は鳥羽方面では旧幕府軍が一時盛り返すも、指揮官の佐久間信久らの相次ぐ戦死など新政府軍の反撃を受けて富ノ森へ後退した。伏見方面では土佐藩兵が新政府軍に加わり、旧幕府軍は敗走した。また同日、朝廷では仁和寺宮嘉彰親王征討大将軍に任命し、錦旗を与え、新政府軍がいわゆる官軍となる。

なお錦旗となる旗は岩倉と薩摩藩が事前に作成しており、戦闘の際にその使用許可を朝廷に求めた事から「薩長が錦旗を偽造した」とする説もある。しかし、朝廷の許可を得て掲げられた事は確かであり、天皇の許可を経たのかは定かではないが、朝廷はその旗を錦の御旗と認めている。

5日、伏見方面の旧幕府軍は淀千両松に布陣して新政府軍を迎撃した。一進一退の乱戦の末に旧幕府軍は敗退し、鳥羽方面の旧幕府軍も富ノ森を失う。そこで現職の老中でもあった稲葉正邦淀藩を頼って、淀城に入り戦況の立て直しをはかろうとした。旧幕府軍は、新政府軍を足止めするため伏見の町一帯に放火すると、淀城へ向かった。しかし淀藩は朝廷及び官軍と戦う意思がなく、城門を閉じ銃口を向け旧幕府軍の入城を拒絶した(ただし、藩主である正邦は当時江戸に滞在しており、藩主抜きでの決定であった)。入城を拒まれた旧幕府軍は、男山・橋本方面へ撤退し、旧幕府軍の負傷者・戦死者は長円寺へ運ばれた。また、この戦闘で新選組隊士の3分の1が戦死した。

橋本の戦い[編集]

5日勅使四条隆平は西国街道上の山崎関門(梶原台場)へ赴き、山崎一帯の津藩兵を指揮する藤堂采女を説得して、これらの津藩兵を官軍とした[8]

6日、旧幕府軍は石清水八幡宮の鎮座する男山の東西に分かれて布陣した。西側の橋本は遊郭のある宿場で、そこには土方率いる新選組の主力などを擁する旧幕府軍の本隊が陣を張った。東に男山、西に淀川、南に小浜藩が守備する楠葉台場を控えた橋本では、地の利は迎え撃つ旧幕府軍にあった。

しかし、山崎の一帯を守備していた津藩兵は官軍となったため、淀川対岸の高浜砲台(高浜船番所)から旧幕府軍へ砲撃を加えた。思いもかけない西側からの砲撃を受けた旧幕府軍は戦意を失って総崩れとなり、淀川を下って大坂へと逃れた。また、この戦いで、京都見廻組の長であった佐々木只三郎が重傷(後に死亡)を負ったとされる。

影響[編集]

6日、開戦に積極的でなかったといわれる慶喜は大坂城におり、旧幕府軍へ大坂城での徹底抗戦を説いたが、その夜僅かな側近と老中板倉勝静、老中酒井忠惇、会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬と共に密かに城を脱し、大坂湾に停泊中の幕府軍艦開陽丸で江戸に退却した。総大将が逃亡したことにより旧幕府軍は継戦意欲を失い、大坂を放棄して各自江戸や自領等へ帰還した。際して会津藩軍事総督の神保長輝は戦況の不利を予見しており、ついに錦の御旗が翻るのを目の当たりにして将軍慶喜と主君容保に恭順策を進言したとされ、これが慶喜の逃亡劇の要因を作ったともいわれる。だが長輝にとっても、よもや総大将がこのような形で逃亡するとは思いもしなかったという向きもある。陣営には長輝が残ることとなったが、元来、主戦派ではなかったため、会津藩内の抗戦派から睨まれる形となり敗戦の責任を一身に受け、後に自刃することになる。

7日、朝廷において慶喜追討令が出され、旧幕府は朝敵とされた。9日、新政府軍の長州軍が空になった大坂城を接収し、京坂一帯は新政府軍の支配下となった。1月中旬までに西日本諸藩および尾張・桑名は新政府に恭順する。25日、列強は局外中立を宣言し、旧幕府は国際的に承認された唯一の日本政府としての地位を失った。2月には東征軍が進軍を開始する。

旧幕府方は1万5000人の兵力を擁しながら緒戦にして5000人の新政府軍に敗れたが、これは新政府軍が圧倒的な重火器を擁していたことが大きい[要出典]

両軍の損害は明田鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑』によると新政府軍約110名、旧幕府軍約280名といわれている。以後、戊辰戦争の舞台は江戸市街での上野戦争や、北陸地方東北地方での北越戦争会津戦争箱館戦争として続く。

史跡[編集]

長円寺
京都市伏見区。淀の戦いの中、新選組をはじめとする幕府軍の野戦病院になる。
正門前に榎本武揚書の「戊辰役東軍戦死者之碑」、境内に「新撰組ゆかりの閻魔王」「戊辰役東軍戦死者埋骨地」を残す。京阪本線淀駅より徒歩十分。見学可能。
伏見奉行所跡
京都市伏見区。新選組をはじめとする幕府軍が駐屯した。近鉄京都線桃山御陵前駅より徒歩七分。京阪本線伏見桃山駅より徒歩十分。現存は石碑のみ。
御香宮神社
京都市伏見区。新政府軍が陣所とし、眼下の伏見奉行所を攻撃した。近鉄京都線桃山御陵前駅より徒歩四分。京阪本線伏見桃山駅より徒歩七分。現存。
東本願寺伏見別院
京都市伏見区。会津藩の陣所。京阪本線伏見桃山駅より徒歩十分。近鉄京都線桃山御陵前駅より徒歩十三分。現存は石碑のみ。
文相寺
京都市伏見区。「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の碑を残す。京阪本線淀駅より徒歩十五分。現存。見学可能。
淀城
京都市伏見区。譜代大名稲葉氏の居城。桂川宇治川木津川の三川が合流する水路の要所として、徳川の信任厚い稲葉家が陣取った。鳥羽・伏見の戦いでは幕府軍の入城要請を拒絶した。京阪本線淀駅より徒歩一分。現存は城壁、「淀城址」の碑、「田辺治之助君記念碑」のみ。敷地内は公園になっている。見学可能。
妙教寺
京都市伏見区。元淀城本丸があった場所。境内に「史跡淀古城戊辰役砲弾貫通跡」の碑と「戊辰役東軍戦死者之碑」、本堂に「東軍戦死者の位牌」を残す。砲弾が貫通した壁も現存。京阪本線淀駅より徒歩二十分。見学可能。
楠葉台場
大阪府枚方市楠葉中之芝2丁目にある。京阪本線樟葉駅と、橋本駅間の車窓から望める。今は楠葉台場跡史跡公園として整備され地元の人の憩いの場になっている。
戊辰役東軍西軍激戦之地碑
府道124号線脇。京都競馬場から京阪本線を隔てた、競馬場の旧駐車場跡地。現場にあった幕軍戦死者の埋骨碑を工事で撤去しようとしたところ、事故が相次ぎ戦死者の祟りとの噂まで出た。そのため撤去を中止し、横に慰霊碑を建てることにした。慰霊碑の碑面には以下の文面が記されている。

「幕末の戦闘ほど世に悲しい出来事はない それが日本人同族の争でもあり 幕軍・官軍のいずれもが正しいと信じたるままそれぞれの道へと己等の誠を尽した 然るに流れ行く一瞬の時差により或るは官軍となり又或るは幕軍となって士道に殉じたので有ります  ここに百年の歳月を閉じ 其の縁り有る此の地に不幸賊名に斃れたる誇り有る人々に対し今慰霊碑の建つるを見る 在天の魂依って瞑すべし 昭和四十五年春」

脚注[編集]

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  1. ^ 鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍の兵糧方を務めた坂本柳佐は、慶応3年(1867年)12月12日夕方から夜の二条城内の様子について、「彼のなどは二條城に於きまして、今 丸太町通薩藩會津の藩が、五人一時に殺した とか何とか云ふ注進が参りました、それで其になつて慶喜公出立となりました、それを會藩が 慶喜公御とあれバ此處で残らず屠腹して仕舞ふ と云ふので、夫れから容保と云ふ人が涙を流して諫めた、其處で又 薩藩を何人斬つた と云ふ注進がありました、慶喜公も會津や桑名を留めましたら内部で軍さが起る勢ですから少し斷念したと思はれます、其丈の策畧は無くして、唯一時に早る者ばかり多かつたです、」と述べ、慶喜が二条城を出る直前、会津藩士や桑名藩士は暴発寸前であったことが分かる。 「」内の引用元は、『史談会速記録 合本 五』(編著者:史談会 発行所:原書房 発行:昭和46年(1971年)12月10日 復刻原本発行:明治27年(1894年)) 94~95頁。 (原本は『史談速記録 第23輯』「坂本君伏見戦役に従事せられたる事実(一次)附四十九節」九十~九十一頁。)
  2. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『復古記 第1冊』300~302頁 (著者:太政官 出版者:内外書籍 発行:昭和5年(1930年)10月5日) 復古記 巻十 慶応三年十二月十六日 (2018年9月26日閲覧。)
  3. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『徳川慶喜公伝 巻四』253254頁 (著者:渋沢栄一、監修者:萩野由之 出版者:竜門社 出版年:大正7年(1918年)) (2018年9月21日閲覧。)
  4. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『復古記 第1冊』317318頁 (著者:太政官 出版者:内外書籍 発行:昭和5年(1930年)10月5日) 復古記 巻十一 慶応三年十二月十八日 (2018年9月26日閲覧。)
  5. ^ 当時の淀本宮(淀姫社、與杼神社)は淀小橋の西の桂川の対岸(現在の京都市伏見区淀水垂町)にあった。 国立国会図書館デジタルコレクション『都名所図会 巻4-6』286頁(著者:秋里籬島 (湘夕) 発行者:葵文會 発行所:吉川弘文館 発行:明治44年(1911年)3月29日) 「都名所圖會 巻五」 淀姫の社 (2018年9月20日閲覧。)
  6. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『徳川慶喜公伝 巻四』263頁271頁272頁 (著者:渋沢栄一、監修者:萩野由之 出版者:竜門社 出版年:大正7年(1918年)) (2018年9月20日閲覧。)
  7. ^ a b c 水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)P274-277
  8. ^ * 国立国会図書館デジタルコレクション『岩倉公実記 下巻 1』234~235頁 「勅使四條隆平山崎関門ニ至リ津藩ヲ暁諭スル事」 (著者:多田好問(岩倉具視秘書)ほか 出版者:皇后宮職 印刷者:印刷局 発行:明治39年(1906年)9月15日) (2018年9月21日閲覧。)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]