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江戸藩邸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松平忠昌上屋敷(龍ノ口屋敷)模型

江戸藩邸(えどはんてい)は、江戸時代の参勤交代の制度の下で江戸に置かれた藩邸(藩の屋敷)。ただし、江戸時代当時の歴史的呼称ではなく、後世つくられた歴史用語である[1]。当時は、単に武家屋敷もしくは江戸屋敷と呼ばれ、個別の屋敷は当該屋敷を使用する武家の家名を付して○○家屋敷などと呼ばれた。

概要

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江戸時代の大名が藩庁所在地以外に持った屋敷には2つあり、一つは江戸における参勤在府のために設けた屋敷、もう一つは京都や大坂などの主要都市や交易地に設けた屋敷である[2]。

このうち江戸の屋敷(江戸藩邸)は各藩の江戸の役所として機能したもので、基本的には幕府が江戸に参勤在府する諸大名に対して与えた屋敷である[2]。各藩邸には、このような幕府から与えられた拝領屋敷のほかに、百姓などの民有地を買収した抱屋敷があった[3]。多くの場合、拝領屋敷だけでは広さを確保できず、抱屋敷をいくつも購入したり、相対替(あいたいがえ、屋敷地の交換)によって広い屋敷を獲得した[4]。

また、各屋敷は機能面でも分けられ、藩主や家族が居住する公邸にあたる上屋敷[2]、主に嗣子が居住するための住邸として設けられた中屋敷[3][注釈 1]、主に隠退後の藩主の住居[3]あるいは年貢米の荷揚地や郊外の別邸[2]として設けられた下屋敷があった(詳細は後述)。ただし、常に明確なわけではなく、安政3年(1856年)に幕府屋敷改が作成した弥生・浅野地区の『諸向地面取調書』で、水戸藩の屋敷は中屋敷、下屋敷、抱屋敷に分けて届け出られているが、実際にはこれらの屋敷地は地続きであったとされる[4]。また、高田藩の屋敷地のように、最初は上屋敷だった場所が中屋敷、下屋敷とたびたび名称が変更されている例もある[4]。なお、すべての大名が上中下の屋敷を有したわけではない。その一方で加賀藩のように本郷(上屋敷)、駒込(中屋敷)、平尾(下屋敷)のほかに、深川の抱屋敷を蔵屋敷に当てていた例もある(18世紀初頭から幕末期の構成)[4]。

先述のように、江戸時代には藩(行政組織・行政上の単位)の所有する屋敷(藩邸)という概念は存在せず、江戸藩邸は「各藩主家の江戸屋敷」と呼ばれていた。個別の屋敷については「◯◯家屋敷」と呼称され、通常は複数の屋敷を所有するため、例えば尾張藩の徳川家の上屋敷であれば、「尾張徳川家上屋敷」とされた[要出典]。

江戸藩邸のうち、上屋敷は参勤交代制度により1年毎(大名により異なる)に江戸と本国を行き来する大名の、江戸における居住地であった。また、大名の正室・嫡子は人質として江戸に常住することが定められており、上屋敷に居住した。家臣では江戸家老、江戸留守居役(御城使)など江戸に在勤した役職もあるが、多くの家臣は大名の参勤交代に従って本国から江戸に移り、下級の武士は藩邸内に設けられた長屋などに居住した。貞享元年(1684年)の土佐藩の場合、江戸藩邸全体の居住者は3195人(うち上屋敷で1683人)を数えた。大名にとっては本国の居所と同様の重要な屋敷であり、格式を維持するため莫大な費用を必要とした[要出典]。

江戸藩邸は幕府と藩を繋ぐ政治的な窓口の役割も果たした。幕府からの連絡は藩邸に伝えられ、その後藩邸から本国へ伝えられる。一方、本国から幕府へ連絡する場合も、藩邸を経由して伝えられた。また、江戸藩邸の内部は幕府の統制外に置かれ、仮に犯罪者が藩邸内に逃げ込んだとしても、幕府が捜査権を行使することはなかった。一方で、大藩の藩邸には将軍が直々に訪ねてくる御成りがしばしば行われ、将軍一行をもてなすために庭園や能舞台を造成、改築することを余儀なくされた。元禄時代の加賀藩の例では、1回の御成りのために36万両もの大金を投じている[5]。

歴史

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参勤交代と江戸藩邸

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天正18年(1590年)、徳川家康が江戸に入った当初は家臣団は拝領した知行地に陣屋を構えて妻子とともに居住した[3]。その後、城下が整備され、慶長初年には諸城主が江戸に「証人」を送るようになり、関ヶ原の戦い後は特に外様大名においてこの傾向が強まった[3]。『徳川実記』によると慶長14年(1609年)正月には中国・西国・北国の諸大名が関東で春を迎えるため参向したとする[3]。

慶長20年(1615年)には諸候参勤の作法が定められ、寛永年間には参勤交代の制が確立された[3]。

明暦の大火後

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明暦の大火(1657年)後、幕府は江戸中心部の過密状態の緩和と防災対策のために大名下屋敷の下賜政策をとった[6]。しかし、実際には拝領屋敷は供給不足で、各大名が自律的に抱屋敷を購入することを公認して補完せざるを得なかった[6]。

拝領屋敷の不足の背景には、大名家から大量の拝領希望が出たのに対応できず、希望する大名家が耕作地でも構わずに「望杭」を打つことを認める方法がとられたが百姓側と軋轢を生じたこと、百姓地の拝領屋敷化が代官支配地の年貢減収につながることなどが影響したとされる[6]。

明治維新後の江戸藩邸

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明治維新後、江戸幕府所有である拝領屋敷は江戸城などと共に明治政府に接収され、跡地は主要官庁や大学や後に企業の土地などに利用された。一方、抱屋敷は引き続き所有者(大名等)に帰属したため、元大名(華族)の邸宅として利用されたり、不要なものや維持が困難になったものは政府や民間に売却されるなどした。また、関東大震災でも多くの屋敷が焼失した。昭和14年(1939年)の大熊喜邦調査によれば、大名屋敷の遺構は松江藩松平家上屋敷(赤坂)の表門、加賀藩前田家上屋敷赤門、薩摩藩島津家中屋敷(外桜田)、鳥取藩池田家上屋敷、岡山藩池田家上屋敷の表門の5つのみであった[7]。さらにその後、赤門と鳥取藩池田家の表門以外はすべて東京大空襲で焼失した[7]。しかし、現在でも江戸藩邸の門を移築したと言われる門であれば随所に現存している(例:佐土原藩藩邸の表門や筑前秋月藩藩邸の表門、三河岡崎藩邸の表門)。さらに、佐倉藩藩邸の敷書院と云われるものが東京都世田谷区の豪徳寺に移築されているように、御殿もある程度残っている。

小石川後楽園・新宿御苑・六義園など、藩邸内に作られた庭園を保存し現在でも当時の面影を残す公園として公開されているものもある。

江戸藩邸の種類

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江戸における各藩邸は機能的に上屋敷(かみやしき)、中屋敷(なかやしき)、下屋敷(しもやしき)、その他の屋敷に分けられる。

上屋敷

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日向佐土原藩江戸藩邸の長屋(綱町三井倶楽部敷地。2009年頃に取り壊され現存せず)

上屋敷は藩主や家族が居住する公邸にあたる[2]。藩主同士の対面や接客のための空間、役所向の諸室など公的な性格をもつ表向きの殿舎と、藩主やその家族が生活する私的な性格をもつ奥向きの殿舎で構成されるのが一般的である[3]。

上屋敷の構成は、大きく御殿空間(ごてんくうかん)と詰人空間(つめにんくうかん)に分けられる。御殿空間は主の居室などの表御殿、正室の居室などの奥御殿や庭園などであり、詰人空間は家臣の住まいである長屋、藩の政務を行う施設や厩舎などで構成された。

表向きの殿舎と奥向きの殿舎のほかに、隠退した藩主やその家族のための隠居住居を併設することもあった[3]。

中屋敷

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中屋敷は多くは嗣子が居住するための住邸として設けられた[3]。ただし、隠居後の藩主が居住するために用いられる場合もあった[2]。また、本邸の修理時や災害時のための居館としても用いられ、比較的私的な性格をもつものであった[3]。

一般的には上屋敷のもつ諸機能の要素を縮小化して配置したものである[3]。ただし、例外もある。

  • 向屋敷の名で本邸と向き合う形で近接して設けられた例[3]
  • 前藩主の未亡人などの奥向殿舎のみが設けられた例[3]
  • 紀州藩中屋敷赤坂邸のように上屋敷の麹町屋敷と交互に本邸として使用された例[3]

下屋敷

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下屋敷は主に隠退後の藩主の住居として用いられ、広大な林泉庭園内に数寄屋などを設けたものである[3]。また、下屋敷は年貢米の荷揚地や郊外の別邸としても設けられた[2]。家臣団の長屋は数棟のみで広大な敷地を利用して在江戸藩士の練兵場としても使用された[3]。

その他の屋敷

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江戸に在住する将卒のために、海上輸送に便利な地域に物資の搬入・運送・貯蔵のための蔵屋敷が設けられることがあった[3]。

代表的な江戸藩邸と跡地の現在

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紀州藩邸跡(赤坂御用地、迎賓館)
水戸藩邸跡(小石川後楽園、東京ドームシティ)

先述のように藩邸の位置と種類には変遷がみられる。例えば、加賀藩の上屋敷とされる本郷邸は、元和年間に下賜された際には下屋敷であった[4]。以下は代表的な時代のもの。

脚注

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注釈

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  1. ↑ 中屋敷は隠居後の藩主や嗣子が居住した場と説明される場合もある[2]。

出典

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  1. ↑ 歴史学では、江戸時代の統治構造を指して幕藩体制と呼ぶことがある。しかし、明治初年に府藩県三治制が定められるまで、「藩」という用語・概念が広く用いられることはなかった。江戸時代を通じて、「藩」ではなく「家」(イエ)を中心とした制度が運用された。
  2. 1 2 3 4 5 6 7 8 植松 清志、中嶋 節子、谷 直樹「佐賀藩大坂蔵屋敷について」『日本建築学会計画系論文集』第65巻第530号、日本建築学会、2000年、221-227頁、doi:10.3130/aija.65.221_2。
  3. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 西川 幸治「江戸大名居館の構成と家臣団の集団居住」『日本建築学会論文報告集』第63号、日本建築学会、1959年、585-588頁、doi:10.3130/aijsaxx.63.2.0_585。
  4. 1 2 3 4 5 山上会館・御殿下記念館地点 第3分冊 考察編 東京大学埋蔵文化財調査室、2026年10月15日閲覧。
  5. ↑ 富山県公文書館『とやまの歴史 将軍綱吉。加賀藩本郷上屋敷御成り』富山県、1998年、p93頁。
  6. 1 2 3 金行 信輔「寛文期江戸における大名下屋敷拝領過程」『日本建築学会計画系論文集』第64巻第516号、日本建築学会、1999年、221-227頁、doi:10.3130/aija.64.223_1。
  7. 1 2 金行信輔「描かれた大名屋敷」、「加賀殿再訪―東京大学本郷キャンパスの遺跡」(東京大学コレクション)。文化庁編『戦災等による焼失文化財[増訂版]建造物篇』便利堂、1983年(文化庁編『戦災等による焼失文化財』戎光祥出版 2003年)

参考文献

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関連項目

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