足利将軍一覧
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足利将軍一覧(あしかがしょうぐん いちらん)では、室町幕府(足利幕府)征夷大将軍の15人を一覧にして概説する。
3代将軍の足利義満が大臣となって以降、歴代の将軍は大臣を兼ねる(または没後に贈官される)場合が多くなり、この慣例は後の徳川将軍家にも受け継がれている。
一方で南北朝・戦国と動乱の時代の将軍家であったため、波乱に満ちた生涯を送った将軍が多く、幕府所在地(京都)を追われた将軍が7人(尊氏・義詮・義稙・義澄・義晴・義輝・義昭)、幕府所在地以外の地で没した将軍が6人(義尚・義稙・義澄・義晴・義栄・義昭)、暗殺された将軍が2人(義教・義輝)、更迭された将軍が3人4回(尊氏[1]・義稙が2回・義澄)、そもそも幕府所在地に入れなかった将軍が1人(義栄)いる。
代数は一般的に「15代(15人)」とされる場合がほとんどであるが、第10代(10人目)の足利義材(足利義稙)が一度将軍職を追われた後に再び将軍職に就いており、就任(任命)と解任(辞任)の正式な手続きが踏まれている。
一覧[編集]
脚注[編集]
- ^ 南朝方から将軍職を更迭。
- ^ 義持には義量のほかに男子がなく、将軍が不在となってしまうため、前将軍である義持が僧体の身でありながらも将軍職を代行する形で再び幕政を統括する事になった。但し、10代義稙とは異なって「将軍職再任」ではないため、代数に数えていない。また、「代理」と表現しているのは、実質的に将軍と見られており、実際に公方様・室町殿・御所様と呼称されていたためである。尚、義持死後に空白期間があるのは次の義教(初め義宣)が急遽還俗して足利将軍家を継いだために、直ちに将軍宣下を受けることが出来なかったためである。
- ^ 義栄の死去日について諸説あり、次の義昭の将軍宣下時における生死は不明である。
- ^ 一般には元亀4年(1573年)の織田信長による京都追放の時点をもって幕府機構の解体(滅亡)と見なされているが、名目上は天正16年(1588年)に豊臣秀吉への忠誠を誓うまで征夷大将軍に在職していた(『公卿補任』)。
関連項目[編集]
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