九条道孝

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九条 道孝
Kujo Michitaka.jpg
時代 江戸時代後期 - 明治時代後期
生誕 天保11年5月1日1840年5月31日
死没 1906年明治39年)1月4日
改名 道隆 → 道孝
官位 従一位左大臣公爵
主君 孝明天皇明治天皇
氏族 九条家
父母 父:九条尚忠
養父:九条幸経
養母:酒井肫子(酒井忠学の次女)
兄弟 夙子道孝松園尚嘉鶴殿忠善鷹司熙通二条基弘
正室:宗和子(宗義和の娘)
側室:野間幾子
道実範子山階宮菊麿王妃)、良政籌子大谷光瑞妻)、節子大正天皇皇后)、良致良叙、篷子(渋谷隆教妻)、紝子(大谷光明妻)
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九条 道孝(くじょう みちたか)は、日本公家政治家貴族院議員)。位階勲等爵位従一位大勲位公爵。最後の藤氏長者

貞明皇后大正天皇后)の父。昭和天皇の外祖父、第125代天皇明仁の曽祖父、第126代天皇徳仁秋篠宮文仁親王の高祖父にあたる。

人物[編集]

天保11年5月1日[1]九条尚忠の長男として誕生(ほとんどの文献には九条幸経男と記しているものもある)。当初は道隆とも表記した。尚忠の長男だったが、尚忠の養嗣子・九条幸経の養嗣子となった。元治元年(1864年)、国事御用掛慶応3年(1867年)には左大臣となる。大政奉還前は、父の尚忠と同じく幕府との協調を推進。そのことから、王政復古の大号令が出された時は、それを追及されて参内停止処分に処せられたものの、1868年明治元年)に許され処分を解かれた。

同年、摂政関白廃止後、藤氏長者に任じられ、明治維新戊辰戦争新政府軍薩長同盟)の奥羽鎮撫総督に就任し、奥羽鎮撫総督府下参謀長州藩藩士世良修蔵奇兵隊軍監、仙台藩士が処刑)および薩摩藩藩士・大山綱良(初代鹿児島県令西郷隆盛の盟友として西南戦争で処刑)と共に仙台藩藩主伊達慶邦の仙台城下に入った。のち佐竹氏秋田藩に移って東北地方を転戦し、京都守護職松平容保会津藩会庄同盟を結んでいた江戸警護役(職)・庄内藩藩主・酒井忠篤庄内藩などと戦った。明治維新後、明治天皇の相談役となる。

岩崎弥太郎の勧めで日本初の海上保険会社である東京海上保険会社(現在の東京海上日動火災保険)の創設に関わった。華族制度創設時に旧・摂家当主として公爵に叙され、帝国議会創設にともない貴族院に議席を有した。

1898年明治31年)9月10日麝香間祗候に任じられた[2]1900年(明治33年)に大勲位に叙され、大勲位菊花大綬章を受章した。1906年(明治39年)、脳溢血心臓病のため67歳で死去[3]

栄典[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 『九条家譜』
  2. ^ 官報』第4562号、1898年(明治31年)9月12日。
  3. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年(平成22年))10頁
  4. ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年(明治17年)7月8日。
  5. ^ 『官報』第1430号「彙報」1888年(明治21年)4月10日。
  6. ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年(明治22年)11月30日。

参考文献[編集]

日本の爵位
先代:
叙爵
公爵
九条家初代
1884年 - 1906年
次代:
九条道実