山田顕義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
山田 顕義
やまだ あきよし
Yamada akiyoshi 1.jpg
フロックコートを着用して、襟に略綬を付けた山田顕義の肖像写真
生年月日 1844年11月18日
天保15年10月9日
出生地 長州藩長門国阿武郡椿郷東分
(現・山口県萩市)
没年月日 1892年11月11日
死没地 日本の旗 日本 兵庫県朝来市生野町生野銀山
出身校 松下村塾
称号 帝國陸軍の階級―襟章―中将.svg陸軍中将
正二位
勲一等旭日桐花大綬章
伯爵
配偶者 山田 龍子

日本の旗 初代 司法大臣
内閣 第1次伊藤内閣黒田内閣第1次山縣内閣第1次松方内閣
在任期間 1885年12月22日 - 1891年6月1日

その他の職歴
日本の旗 第5代 司法卿
1883年12月12日 - 1885年12月22日
日本の旗 第8代 内務卿
1881年10月21日 - 1883年12月12日)
日本の旗 第3代 工部卿
1879年9月10日 - 1880年2月28日
日本の旗 貴族院議員
1890年7月10日 - 1892年11月14日
日本の旗 枢密顧問官
(1892年1月28日 - 1892年11月14日)
日本の旗 元老院議官
1878年3月5日 - 1879年9月10日)
テンプレートを表示

山田 顕義[注 1](やまだ あきよし、天保15年10月9日1844年11月18日) - 明治25年(1892年11月11日)は、日本江戸時代末期(幕末)の武士長州藩士)、明治時代の政治家陸軍軍人顕孝、のち顕義と改めた。幼名市之允(いちのじょう)。は「養浩斎(ようこうさい)」、「狂痴(きょうち)」、「韓峰山人(かん お(ね) さんじん)」、「不抜(ふばつ)」など。特に「空斎(くうさい)」と表記されることが多い。階級陸軍中将栄典正二位勲一等伯爵

明治維新期の軍人として新政府に貢献するとともに、新日本の設立者として、近代日本の法典整備に力を尽くした[1][2]

長門国出身。吉田松陰が営む松下村塾に最年少の14歳で入門、最後の門下生となる[3]。25歳の時に戊辰戦争で討伐軍の指揮をとる。その際、西郷隆盛から「あの小わっぱ、用兵の天才でごわす」、見事な軍才から「用兵の妙、神の如し」との名言がある。岩倉使節団の一員としてフランスを訪問した際、ナポレオン法典と出会い、「法律は軍事に優先する」ことを確信し、以後一貫して法律の研究に没頭する。約9年間にわたり司法大臣として近代国家の骨格となる明治法典を編纂した。

生涯[編集]

誕生から松下村塾入塾まで[編集]

松下村塾

天保15年(1844年)10月9日、長門国阿武郡椿郷東分[注 2](現・山口県萩市)で、長州藩士である山田七兵衛顕行村田光賢の子で山田家の養子となった山田龔之の子、大組士、禄高102石、藩海軍頭)の長男として生まれる。一門に村田清風山田亦介河上弥市らがいる。

叔父、兵学者・山田亦介をもつ家系の跡継ぎでいながら、幼少期の頃に「性質愚鈍、垂鼻頑獣(はなたれだるま)、ほとんど白痴の如し」といわれていた[4]

安政3年(1856年)、松本村の新山直衛塾に学ぶ。2月、伯父の山田亦介により、中村九郎竹内竹叢から兵学を教授される。3月、藩校明倫館に入って師範の馬来勝平から剣術柳生新陰流)を学び[5]、文久2年(1862年)には柳生新陰流伝中許を得ている 。安政4年(1857年)6月、松下村塾に入門した[5]

安政5年(1858年)、吉田松陰から「与山田生」(詩)「立志尚特異 俗流與議難 不思身後業 且偸目前安 百年一瞬耳 君子勿素餐」と立志の目標が書かれた扇面を与えられる[6]。その内容は「立志は特異を尚(たっと)ぶ、俗流はともに議し難し、身後の業を思はず、且(か)つ 目前の安きを偸(ぬす)む、百年は一瞬のみ、君子 素餐することなかれ[注 3]」である。

幕末期[編集]

戊辰戦争の図

文久2年(1862年)秋に上京し、藩主の跡継ぎである毛利定広の警護を務めるようになった。同年12月、高杉晋作久坂玄瑞・志道聞多(のちの井上馨)・伊藤俊輔(のちの伊藤博文)・品川弥二郎らとともに攘夷の血判書(御楯組血判書)に名を連ねた[7]。文久3年(1863年)3月31日、孝明天皇の攘夷祈願の賀茂神社行幸に際して、御前警護のため毛利定広に随行した。4月11日の石清水八幡宮への行幸にも同様に随行した。八月十八日の政変では長州藩兵として堺町御門の警備を担当し大砲掛となるも、公武合体派に排除され、三条実美以下7人の尊皇攘夷派公卿の長州亡命(七卿落ち)に同行した[7]。しかし途中で兵庫から大坂経由で京都へ一旦戻り潜伏。後に長州へ帰国した。藩から遊撃隊御用掛に任命された。慶應1年(1865年)に普門寺塾大村益次郎から西洋兵学を学んだ[8]。※後に大村益次郎の遺志を継いで陸軍創設へ大きく貢献する[9]

元治元年(1864年)7月、禁門の変では山崎に布陣する久坂玄瑞・真木保臣らの陣に加わったものの長州勢は敗北し、山田も長州へ落ち延びている。8月、太田市之進・品川弥二郎らと御楯隊を創設し、軍監となって下関戦争で奮戦するも長州藩は敗北した。12月、対幕府恭順論の「俗論派」による藩支配に対する高杉晋作の決起(功山寺挙兵)に参戦し勝利を収め、俗論派を排除する。また、山田亦介が処刑され、山田は謹慎となる[7]

慶応2年(1866年)、第二次長州征伐では藩海軍総督の高杉晋作から丙寅丸の砲隊長に任命され、6月に周防大島沖で幕府軍艦を奇襲攻撃。7月、御楯隊司令として芸州口に転戦、数々の勝利を収めた。なお、7月20日に将軍・徳川家茂の死去により第二次長州征伐は休戦となった[7]

慶応3年(1867年)5月、御楯隊と鴻城隊を合体した整武隊の総管に就任[7]。11月、薩摩藩から倒幕の出兵要請を受けた藩主・毛利敬親の命令で、長州藩先鋒隊の総隊長として三田尻(現山口県防府市)を出発し、全軍総督である毛利内匠の東征軍先鋒隊700人余とともに海路で京都に入った[10]

慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争の発端となる鳥羽・伏見の戦いで在京長州藩兵諸隊の指揮官として、1,000余名程の長州藩兵を率いることとなった。新政府征討総督・仁和寺宮嘉彰親王の征討総督副参謀に命じられる。長州藩勢は、伏見口のところでを保護、約1万の幕府軍遊撃隊)を引き払った。その後、山田と麾下の部隊は、大坂、京の守備にあたり、4月、三田尻に凱旋した。その頃、江戸城明け渡しを果たし、上野戦争彰義隊に勝利した新政府軍官軍)は、会津藩を中心とする奥羽越列藩同盟諸藩との戦いに入った。東北から新潟方面で起きた北越戦争は、北陸道鎮撫総督参謀になったばかりの黒田清隆山縣有朋(山県)が奇兵隊を率いて、5月に長岡城を占拠した。しかし、アームストロング砲ガトリング砲エンフィールド銃スナイドル銃シャープス銃(軍用カービン)で武装した長岡藩兵を主軸とする精鋭兵に手古摺り、長岡軍がアームストロング砲で、榴散弾を発射して奇兵隊ら新政府軍の頭上で爆発させる戦術を用いて、多大な損害を与えた。新政府軍はやもなく守勢に置かされた。それを克服するため、山田は先年にイギリスで完成した長州藩の艦艇、第一丁卯に乗船を命じられ、5月に薩摩艦「乾行丸」、筑前艦「大鵬丸」も同行し馬関(現下関)を出発。越後海域に向かった[10]。(山田は山県に協力して、海軍の戦闘を助力した。)

明治元年(1868年)5月、柏崎を拠点に新政府軍は、奥羽越列藩同盟の海からの補給路を完全に遮断するために、新潟港を手中に収める必要があった為、山田は「衝背作戦」を発案し実行した。この作戦のための兵士を乗せた輸送艦が柏崎に入港した7月、越後口海軍参謀(陸軍参謀兼海陸軍参謀)に命じられる。25日、官軍は占拠した長岡城を長岡軍に奪還されるが、同日、新政府軍が阿賀野川口東にある松ヶ崎大夫浜に上陸。その間、同盟軍の退路を断つとともに新潟の占領に成功。また、29日には再度長岡城を占拠することに成功した。8月末頃、山田は援軍要請のために赴いたが、長州藩の衰退で増援はできなかった。9月4日に米沢藩、9月10日に仙台藩、9月22日に会津藩が相次いで降伏し、他、東北諸藩もこれに続いたため、新政府軍の戦略計画は変更になった。幕府海軍副総裁・榎本武揚は、指揮下の艦隊を率いて江戸を脱出、会津藩などの残存兵を吸収して、10月に蝦夷地に上陸。榎本軍は新政府(箱館府)が置かれていた五稜郭を占拠した。新政府は、榎本軍と対戦するため青森に兵力を集めた。11月、青森口陸軍参謀(海軍参謀含)に命じられる。榎本軍・旧幕臣・同盟軍は蝦夷島政府(蝦夷共和国)を樹立して、新政府からの独立を試みた。明治2年(1869年)4月、新政府軍は箱館攻撃を開始、輸送艦三隻(一隻1,500名程)に乗り青森を出発し、江差北方の乙部村に上陸。五稜郭の戦い[11]で勝利し、戊辰戦争は終結した[10]

明治維新[編集]

軍服姿の山田顕義

明治2年(1869年)6月、宮中において黒田清隆らとともに明治天皇に謁見、戦功を賞される。陸海軍参謀の任を解かれ、新官制(太政官制)施行による兵部大丞に就任。長州藩少参事兼任を命ぜられる。8月、山口凱旋。顕義と改名。9月、維新の軍功により新政府から永世600石の禄を下賜される。しかし、大村益次郎の暗殺未遂により、藩命で急ぎ上京。病床の大村より日本近代軍制の創設について指示を受け、11月には兵部少輔久我通久と連署で大村の遺策をまとめた『兵部省軍務ノ大綱』を太政官に提出した。大村の継承者として大坂を中心とした兵部省確立に尽力する。

大村は大阪を視察中の同年9月に襲撃されて負傷し、11月に没した。大村の遺志を継ぎ、同じ長州出身の前原一誠、山田らが国軍の建設を進めようとしたが、省内の統制がとれず、仕事が停滞していた。国軍の建設が進展をみせたのは、欧州視察から帰国した山県有朋が兵部少輔(国防次官補)に、西郷従道が権大丞(局長の次)に就いてからであった[12]

明治3年(1870年)、大村の計画に従い、大坂城跡に設置された大坂兵部省出張所と東京の本省とを往復する日々を過ごす。5月頃から畿内限定の徴兵制(辛未徴兵)施行の政府有力者に働き掛けを開始する。これも大村の計画によるものであった。9月には普仏戦争の観戦を強く希望するが、川村純義等他の兵部省員等も希望した為、省務の停滞を危惧した大久保利通等の指示により許可されなかった。この年、井上馨の養女で湯田温泉瓦屋の鹿島屋喜右衛門の長女龍子と結婚。

明治4年(1871年)1月、大坂にて辛未徴兵を開始するも、5月には事実上延期となる[注 4]。 これは徴兵の質及び、指導士官や施設の不足等の根本的な問題の為だった。7月、陸軍少将に任命された。

幕末に欧米諸国との不平等な条約を改正することが、新政府の重要課題で、欧米と対等な交渉をするためにも、日本は近代法の整備が急務となった。

同年11月、岩倉使節団に軍事制度調査のため、兵部省理事官として随行[13]サンフランシスコソルトレイクシティシカゴを経由し、ワシントンD.C.に到着。明治5年2月(1872年3月)、岩倉らと別れて原田一道ら兵部省一行とともにフィラデルフィアの海軍施設等を見学後、渡仏。パリを中心に、ベルリンオランダベルギーローザンヌブルガリアロシア等欧州各国で軍制を調査。ウィーン万国博覧会にも立ち寄り、明治6年(1873年)5月、マルセイユ港から帰途に着く[14]

欧米視察後[編集]

明治6年(1873年)6月、岩倉使節団の一員として欧米視察から帰国。9月、「兵は凶器なり」と指摘した上申書(理事官功程)提出、自身が遊学中に施行された徴兵令の延期を求めた[15]。7月、東京鎮台司令長官に任命されるが、11月には同職を解かれ清国特命全権公使に任命される。山田本人に渡清の意思はなく、木戸孝允も大久保利通に対して同職の解任の働き掛けをしている。しかし、清国駐在に至る前の明治7年(1874年)2月、佐賀の乱が勃発し、同職を解かれ、士族反乱鎮圧のために九州へ出張した[16]。士族反乱は翌3月に平定。同年7月、佐賀の乱を治めた戦功を賞され、一方で伊藤博文等の説得により、現役陸軍少将のまま司法大輔次官)の職に就任した。以後日本の近代法の整備に務めるが帰国以来、山縣有朋との徴兵令施行等の意見衝突によって対立していた山田は陸軍少将の肩書きのみで陸軍に実質的な地位はなく、政府内で微妙な立場であった為、方向転換せざるを得なかった[17]

明治8年(1875年)9月、刑法編纂委員長に就任。明治10年(1877年)3月、西南戦争勃発により、司法大輔を辞職する覚悟で単身京都に出張し、鎮圧出征を懇願する。木戸孝允等の協力の末、別働第二旅団長として出征を命ぜられる。同年9月、西南戦争終結し、同年11月、戦功によって勲二等を賜る。明治11年(1878年)2月、刑法草案審査委員として旧刑法明治13年公布)及び治罪法(明治13年公布、のちの刑事訴訟法)の編纂に従事。

同年11月、陸軍中将に任ぜられる。明治12年(1879年)7月、長男・山田金吉誕生。9月、参議兼工部卿に任ぜられる。11月、工部大学校第一回卒業式で卒業生一人一人に証書を手渡す。明治13年(1880年)2月、専任参議に任ぜられる。3月、長男・金吉死亡。明治14年(1881年)10月、参議兼内務卿に就任。明治16年(1883年)4月、東京府の都度重なるコレラの流行などを受け、衛生上の理由から東京府知事芳川顕正に対し、「水道溝渠等改良の儀」を示達、神田下水着工の端緒を開く[18]

同年12月、内務卿を辞任し、司法卿兼参議に就任。以降、法典編纂事業を主導。裁判官の資格制度を整理し、判事登用規則を実現させることで無資格の縁故採用を廃止し、法学教育を受けた人材を採用する法制が具体化された。明治17年(1884年)、勲功により伯爵を叙爵[19]

憲法私案「私擬憲法」を提出[編集]

明治14年(1881年)の8月から9月頃に、山田独自の憲法草案である「憲法私案[20]」を左大臣有栖川宮熾仁親王に提出し、さらに改定したものを右大臣岩倉具視に提出した[21]。山田が憲法私案を出した同時期には、菊池虎太郎黒崎大四郎伊藤東太郎らの「大日本帝国憲法草案」、山県有朋の命を託されて西周が起草した「憲法草案」等々がある。

しかし、山田以外にも以前から幾つもの独自の私擬憲法が挙げられていた。代表的に、明治3年(1870年大木民平の「建国法意見書」や江藤新平の「国法会議案」。明治5年(1872年木戸孝允の命を託されて青木周蔵が起草した「帝号大日本政典」や民撰議院「仮規則及議事上院略規」。明治10年(1877年元老院「日本国憲案」。明治13年(1880年)「国憲草案」及び筑前共愛公衆会による「大日本帝国憲法見込書草案」や元田永孚の「国憲大綱」などが挙げられる。

当時の伊藤渡欧決定については判然としない部分が多く、参議であった者のなかで少なくとも、佐佐木高行大木喬任、山田顕義は伊藤の憲法調査に対して懐疑的ないし反対であったといわれる。また、右大臣の岩倉具視も当初極めて消極的だった。そのような雰囲気の中で伊藤渡欧が実現したのは、井上馨の陰からの働きかけがあったものと考えられている。佐佐木が記したもので、同年11月23日に大木喬任、福岡孝弟は、井上の官宅に呼ばれ、井上から伊藤渡欧の了解を求められたという[22]

伊藤博文の欧米視察後、井上毅伊東巳代治金子堅太郎らは憲法起草に参画し、明治22年(1889年)2月11日に大日本帝国憲法(明治憲法)を公布することに至ったが、当初の日本(明治初期・以前)はまだ法典整備されておらず、民間が成熟しきっていない無法地帯の国家であり、日本の憲法制定に大きく携わることとなった、ルドルフ・フォン・グナイストローレンツ・フォン・シュタインの言及に「その頭脳の中には黄色人には憲法は不適当なり、寧ろ生意気なる所業なりとの観念を有したるが如し」との言葉がある、明治15年に当人について学んだ伊東巳代治の意見である。憲法は国民本位に託されたものであり、憲法が国民の権利を決める(保障する)ものではないことを示している。

司法大臣として[編集]

日本大学法学部の山田胸像

明治18年(1885年)12月に内閣制度が発足し、第1次伊藤内閣初の司法大臣に就任する。明治20年(1887年)、大日本私立衛生会会頭に就任し、10月には外務省が一時所管した法律取調委員会を再び司法省に戻した法律取調委員会の委員長に就任する。民法フランス人ボアソナードが、商法ドイツ人ロエスレルが原案の起草にあたり、法律取調委員会では民法商法民事訴訟法裁判所構成法などの草案が審議され、山田が議事を整理するほど事業に明け暮れた[23]

明治21年(1888年)4月、引き続き黒田内閣の司法大臣に留任。12月に民法、商法の各法案を黒田首相及び内閣に提出した[21]

司法大臣として法典整備を進めるなかで、日本の人種習慣風俗言語など国家成立の要因、すなわち国体を明らかにするため、その基礎となる国典の研究の重要性を認識したことにより、明治22年(1889年)1月、皇典講究所所長に就任したうえで皇典講究所の改革を推し進めた。10月4日、同所内に日本古来の法と外国の法を研究する教育機関として、日本大学の前身である日本法律学校を創設した。12月、引き続き第1次山縣内閣の司法大臣に留任[21]

明治23年(1890年)4月、民法中の財産編・財産取得編・債権担保編・証拠編、民事訴訟が公布。7月 、皇典講究所内に国文国史国法を研究する教育機関として國學院を創設した。貴族院議員に互選される。10月、民法人事編・財産取得編中贈与・遺贈・夫婦・財産契約が公布されるも、「民法出デテ、忠孝亡ブ」との民法典論争が巻き起こり、施行が延期される。12月、商法施行延期の責任をとって2度にわたり、司法大臣の辞表を提出するが慰留される[21]

山田が力を注いで編纂事業に携わった民法商法民事訴訟法は明治23年(1890年)に公布されたが、欧米と日本では習慣が異なり、特に民法は日本の伝統・習慣に合わせてから施行すべきという延期派の主張で、いわゆる法典論争が起きる。この論争で延期派の勝利となり、明治25年(1892年)に、ついに議会の否決により民法・商法の施行は延期となってしまった。山田が直接関わった民法・商法が施行されなかったとはいえ、死没後、明治31年(1898年)に新民法、明治32年(1899年)に新商法が施行されたが、旧法という検討の基となる原稿・原案なくしては、その後の日本における新法の実現を考えると、山田の近代日本の成立に残した功績は大きいものといえる[23]

明治24年(1891年)2月、司法大臣に復職。5月、第1次松方内閣の司法大臣に留任。直後にロシア帝国皇太子・ニコライ(後のニコライ2世)が襲われて負傷する大津事件が発生し、犯人・津田三蔵への死刑適用に奔走した。6月、病気療養を理由に司法大臣を辞任[注 5]。以後、翌年まで三崎の別荘などで療養と謹慎の生活を送る[21]

晩年[編集]

明治25年(1892年)1月、枢密顧問官に就任する。同年11月、但馬(兵庫県北部)にて幕末の生野の変に敗れ21歳で自刃した再従兄弟の河上弥市(変名:南八郎、奇兵隊第2代総監)の最期の地に建立された碑に参拝した後、生野銀山を視察中に卒倒しそのまま立てずに没した[注 6]。享年49。正二位。勲一等旭日桐花大綬章。法名は顕忠院殿釈義宣空斎大居士[24]

死後[編集]

山田顕義の墓

葬儀は母鶴子により仏葬で営まれたが、本人は生前から神葬を希望していた。それを汲んでか、皇典講究所の有志によって「皇典講究所葬」として神式の葬送も行われた。墓所は東京都文京区大塚護国寺日本大学豊山高校所在地)にある[25]

昭和54年(1979年)、日本大学が建学90周年を記念し山口県萩市の誕生地に「顕義園」が設けられた。園内には「山田顕義先生之像」などが設けられている[26]

経歴[編集]

※日付は明治5年までは旧暦。

  • 安政3年(1856年)3月、長州藩校・明倫館に入校。
  • 安政4年(1857年)、松下村塾に入塾。
  • 文久2年(1862年)12月5日、上洛。
  • 元治元年(1864年
    • 1月28日、高杉晋作とともに脱藩し、大坂に移動。
    • 2月、江戸に移動。
    • 7月19日、上洛し、禁門の変に参戦。
  • 慶応3年(1867年)5月27日、長州藩整武隊総督に就任。
  • 慶応4年(1868年
    • 1月4日、維新政府の軍事副参謀に就任。
    • 4月27日、丁卯丸に乗船し同船の司令となる。
    • 7月21日、海軍参謀に異動。
    • 11月9日、陸奥青森口陸軍参謀に異動。
  • 明治2年(1869年
    • 4月4日、海軍参謀を兼帯。
    • 6月12日、陸軍海軍両軍参謀を罷免。
    • 7月8日、兵部大丞(明治4年(1871年)7月28日迄在任)
    • このころ、五位叙位か。
  • 明治4年(1871年
  • 明治6年(1873年
    • 6月24日、帰国。
    • 7月7日、東京鎮台司令長官(1873年11月迄在任)
    • 11月24日、清国特命全権公使(明治7年(1874年)7月2日迄在任。但し、着任せず)。このころ従四位昇叙か。
  • 明治7年(1874年
    • 2月9日、西海鎮台司令長官に異動。
    • 7月5日、司法大輔に異動。(陸軍少将を兼帯。司法大輔は明治12年(1879年)9月10日迄在任)
  • 明治8年(1875年
  • 明治10年(1877年
    • 3月28日、別働第二旅団司令長官を兼帯。(西南戦争
    • 4月18日、別働第二旅団司令長官から別働旅団総轄に異動。
  • 明治11年(1878年
    • 2月27日、刑法草案審査委員を兼帯。
    • 3月5日、議定官を兼帯。
    • 11月20日、陸軍中将に転任し司法大輔・議定官従前通り兼帯。
  • 明治12年(1879年
    • 9月10日、参議に異動し、工部卿を兼帯(工部卿は、明治13年(1880年)2月28日迄兼帯。参議は、明治18年(1885年)12月22日迄在任)。議定官は従前通り兼帯。
    • 11月1日、勲一等旭日大綬章を受章。
    • 11月15日、正四位に昇叙。
  • 明治14年(1881年
    • 8月23日、皇典講究所設立(現在は学校法人國學院大學が、皇典講究所の登録商標を保有。同所設立に関与)
    • 9月、皇典講究所賛襄に推挙。
    • 10月21日、内務卿を兼帯(明治16年(1883年)12月12日迄兼帯)
  • 明治16年(1883年)12月22日、内務卿の兼帯を解き、司法卿を兼帯(明治18年(1885年)12月22日迄兼帯)
  • 明治17年(1884年
  • 明治18年(1885年)12月22日、司法大臣就任(第1次伊藤内閣。明治21年(1888年)4月30日迄在任)
  • 明治20年(1887年
    • 10月21日、法律取調委員会委員長を兼帯。
    • 月日不詳、大日本私立衛生会(財団法人日本公衆衛生協会の前身)会頭を兼帯(明治25年(1892年)11月11日迄兼帯)
  • 明治21年(1888年
    • 4月30日、司法大臣就任(黒田内閣。明治22年(1889年)10月24日迄在任)
    • 12月25日、予備役編入。
  • 明治22年(1889年
    • 1月10日、皇典講究所所長を兼帯(明治25年(1892年)迄在任)
    • 8月17日、現行法律規則調査委員長を兼帯。
    • 10月4日、日本法律学校(日本大学の前身)を設立し、同校の評議員を兼帯。
    • 12月24日、司法大臣就任(第1次山縣内閣。明治23年(1890年)12月25日迄在任。病により山縣首相に辞表を提出するも保留扱いとなる)
  • 明治23年(1890年
    • 7月10日、伯爵議員を兼帯(明治25年(1892年)11月11日まで兼帯)
    • 10月23日現在、従二位(叙位の年月日は不詳)。
    • 11月22日、設立に関与した國學院(國學院大學の前身)開院。
  • 明治24年(1891年
    • 2月8日、司法大臣就任(第1次山縣内閣。4月9日迄在任)
    • 4月7日、正二位に昇叙。
    • 5月5日、法律取調委員会委員長を免ず。
    • 5月6日、司法大臣就任(第1次松方内閣。6月1日迄在任)
  • 明治25年(1892年

※参考:日本大学編『山田顕義傳』(1963年、非売品)

栄典[編集]

親族[編集]

長男の夭折後、甥の山田久雄が選定相続人となって伯爵位を継ぐが若くして死亡。これにより、久雄の実父で山田の実弟である河上繁栄夫婦が再び山田家に戻って継承し、三代目伯爵となる。その後は山田の長女梅子(山田死亡当時6歳。龍子が養育)が成人後、会津松平家より、松平容保の三男・松平英夫を婿取った。英夫は陸軍歩兵中佐に進み病のため現役を離れ、貴族院議員を務めた。英夫の次男・貞夫インパール作戦に参加し戦死した陸軍大尉[注 7]。なお、薩摩治郎八の妻千代子は山田の孫娘にあたる。曾孫にあたる山田顕喜日本大学芸術学部映画学科で教授を務めている。

残していった言葉[編集]

若かりし頃の山田

山田が残した言葉

  • 「軍とは何のためにあるか。帝室を守衛し人民を安全にするためである。しかし他にも、国には法があり律があり、教育の道がある[注 8]
  • 「欧米諸国の国法と我人民慣習の法とを斟酌し国法の条目を審議し、国法に依り以て国律を確定すべし[注 9]
  • 「英雄は死す。されど凱旋門は残る。英雄の名声と遺産によって、市民はその豊かさを享受する[注 10]
  • 「兵は凶器なり[注 11]
  • 「法律は軍事に優先する[注 12]
  • 「生きた。闘った。使命を全うした。人生に悔いはない[注 13]

山田に残した言葉

  • 高杉晋作
    • 高杉晋作が亡くなる時に、「奇兵隊を引き継ぐ人物は?」と問われて、晋作が名を挙げたのは、大村益次郎であった。しかし、大村は元々、村医者だった為「その次は?」と問うと「山田市之允」と答えたという。この時、山田顕義はまだ23歳の青年であった[4]
  • 西郷隆盛
    • 小柄で背が低く童顔だった山田に対して西郷は「よか稚児」と残している。
    • 「神算鬼謀の将[4]
    • 「あの小わっぱ(小童)、用兵の天才でごわす」
    • 「用兵の妙、神の如し[4]

山田顕義を扱った作品[編集]

小説[編集]

  • もりたなるお 『抵抗の器―小説・山田顕義』 文藝春秋、1987年9月。
  • もりたなるお 『後生畏るべし』 講談社、1989年8月。
  • 『志士の肖像』二版目、文庫発行
  • 『剣と法典―小ナポレオン山田顕義』二版目、文庫発行
    • 古川薫 『剣と法典―小ナポレオン山田顕義』 文藝春秋、1994年11月。
    • 古川薫 『剣と法典―小ナポレオン山田顕義』 文春文庫、1997年12月。
  • 秋山香乃 『獅子の棲む国』 文芸社、2002年11月。
  • 秋山香乃 『五稜郭を落した男』 文芸社、2004年3月。
  • 秋山香乃 『山田顕義-法治国家への歩み』 萩市(萩ものがたり)、2006年10月。
  • 佐藤三武朗 『日本巨人伝山田顕義』 講談社、2011年1月。

テレビ番組[編集]

幼少期のエピソード[編集]

  • 庭の木に登って小便をしていたら母親に命中[4]
  • 塾の帰りに遊んでいたら、武士の命である自分の刀を忘れてしまう[4]

脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

  1. ^ 学術誌、研究書、文部科学省検定教科書における歴史人物としての表記は「山田顕義」、新聞報道や『職員録』など存命中の印刷物における表記は「山田顯義」、御署名原本(法令などの天皇署名の原本)における山田本人の署名は「山田顕義」である。
  2. ^ 山田本人が明治政府に提出した『履歴書』では「長門国阿武郡松本村」と記している
  3. ^ 現代語訳すると以下の通り。

    立志尚特異  志を立てるためには 人と異なることを恐れてはならない
    俗流與議難  世俗の意見に惑わされてもいけない
    不思身後業  世の中の人は 死んだ後の業苦のことを思うこともなく
    且偸目前安  ただ目の前の安逸を貪っているだけなのである
    百年一瞬耳  人の一生は長くても百年 ほんの一瞬である
    君子勿素餐  君たちは どうか徒に時を過ごすことのないように

  4. ^ 実際には8月まで募兵は続いている
  5. ^ 実情は大津事件で犯人を死刑に処せとの明治天皇の指示に副えなかった責任をとっての辞任であった
  6. ^ 死因は脳溢血と見られている。
  7. ^ 高木俊朗によればその死は花谷正に強要された自決である。
  8. ^ 顕義が建白書に書いた一節。この建白書を見た木戸孝允は顕義に軍事から法律の世界へ転身することを強く勧めた。
  9. ^ 不平等条約改正の交渉をするのに、日本に憲法も法律もないことが足かせになることを、身をもって経験しているので日本の慣習や文化を踏まえた法律をつくる必要性を力説した。
  10. ^ 岩倉使節団に参加した際、パリ凱旋門の前でつぶやいたとされる言葉。(凱旋門はナポレオンが戦勝記念に建設を開始したものであるが、皇帝ナポレオンは凱旋門の完成を見ずにこの世を去っている。)
  11. ^ 軍事力がつきすぎると脅威にかわるという意。
  12. ^ 国家は争いや武力よりも、法律が人を守り国家を豊かにするという意味が込められた言葉。
  13. ^ 顕義が良く口にしていた言葉。

出典[編集]

  1. ^ タウン情報 萩(山口県). “【新日本の設立者】 山田顕義 【小ナポレオン】”. 山口県萩市のタウン情報サイト. 2015年9月29日閲覧。
  2. ^ 秋山香乃 (2006, pp. -)、古川薫 (1994, pp. -)
  3. ^ 萩市観光協会公式サイト「ぶらり萩あるき」. “山田顕義誕生地 (顕義園)”. 萩市観光協会公式サイト. 2015年9月29日閲覧。
  4. ^ a b c d e f 萩観光情報サイト 萩ナビ. “山田顕義 ~用兵の天才から法典伯へ”. 萩焼会館. 2015年10月1日閲覧。
  5. ^ a b 日本大学広報部広報課. “山田顕義 略年表 安政3 1856 ~ 安政4 1857”. 日本大学広報部広報課. 2015年9月29日閲覧。
  6. ^ 萩博物館. “生誕170年記念特別展 山田顕義と近代日本”. 萩博物館 展覧会情報 山田顕義と近代日本. 2015年9月29日閲覧。
  7. ^ a b c d e 日本大学広報部広報課. “山田顕義 略年表 文久2 1862 ~ 慶應3 1867”. 日本大学広報部広報課. 2015年9月29日閲覧。
  8. ^ 日本大学広報部広報課. “大村益次郎から兵学の知識を学ぶ”. 日本大学広報部広報課. 2015年10月1日閲覧。
  9. ^ 日本大学広報部広報課. “陸軍創設への貢献”. 日本大学広報部広報課. 2015年10月1日閲覧。
  10. ^ a b c 日本大学広報部広報課. “戊辰戦争での活躍”. 日本大学広報部広報課. 2015年10月1日閲覧。
  11. ^ 秋山香乃 (2004, pp. -)
  12. ^ 黒野耐 (2004年3月20日). “参謀本部と陸軍大学校”. 講談社. 2016年2月13日閲覧。
  13. ^ 日本大学広報部広報課. “山田顕義 略年表 明治2 1869 ~ 明治4 1871”. 日本大学広報部広報課. 2015年9月30日閲覧。
  14. ^ 日本大学広報部広報課. “欧米への視察(岩倉使節団)”. 日本大学広報部広報課. 2015年9月30日閲覧。
  15. ^ ダイヤモンド・オンライン. “「兵ハ凶器ナリ」--法整備の重要性を説いた山田顕義”. ダイヤモンド社. 2015年9月30日閲覧。
  16. ^ 日本大学広報部広報課. “士族反乱を鎮圧”. 日本大学広報部広報課. 2015年10月1日閲覧。
  17. ^ もりたなるお. “抵抗の器―小説・山田顕義”. 文藝春秋. 2015年9月30日閲覧。
  18. ^ 東京都下水道局. “神田下水の紹介”. 東京都下水道局. 2015年9月30日閲覧。
  19. ^ 日本大学広報部広報課. “山田顕義 略年表 明治6 1873 ~ 明治17 1884”. 日本大学広報部広報課. 2015年9月30日閲覧。
  20. ^ 布施弥平治 (1980年8月). “私擬憲法--山田顕義伯の憲法草案を中心として”. 日本大学法学会論文. 2015年9月30日閲覧。
  21. ^ a b c d e 幕末歴史研究会. “山田顕義~民法・商法など日本の近代法の整備に尽力”. 幕末・維新風雲伝. 2016年1月26日閲覧。
  22. ^ 瀧井一博 (1997年3月). “伊藤博文滞欧憲法調査の考察”. 京都大学. p. 38. 2015年9月30日閲覧。
  23. ^ a b 日本大学広報部広報課. “司法への道と法典編纂”. 日本大学広報部広報課. 2015年9月30日閲覧。
  24. ^ 大学史編纂課. “学祖位牌と山田農場”. 大学史編纂課だより. 2015年9月30日閲覧。
  25. ^ ウィキペディア内にある護国寺を参照。
  26. ^ 萩市観光協会. “「ぶらり萩あるき」公式サイト”. 萩市観光協会. 2015年9月30日閲覧。
  27. ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
  28. ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
  29. ^ 『官報』第2816号「叙任及辞令」1892年11月15日。

参考文献[編集]

  • 日本大学編『山田顕義傳』(1963年、非売品)
  • 日本大学史編纂室編集『山田伯爵家文書(宮内庁書陵部蔵筆写本)』全8巻(1991年、新人物往来社)
  • 日本大学総合科学研究所編集発行『山田顕義――人と思想』(1992年、非売品)
  • 新井勉著『大津事件の再構成』(1994年、御茶の水書房)
  • 萩市観光課推進、萩博物館展示『生誕170年記念特別展「山田顕義と近代日本」』(平成26年4月19日~6月22日)

外部リンク[編集]


公職
先代:
-
日本の旗司法大臣
初代:1885年12月22日 - 1891年6月1日
次代:
田中不二麿
先代:
大木喬任
日本の旗司法卿
第5代:1883年12月12日 - 1885年12月22日
次代:
-
先代:
松方正義
日本の旗内務卿
第8代:1881年10月21日 - 1883年12月12日
次代:
山縣有朋
先代:
井上馨
日本の旗工部卿
第3代:1879年9月10日 - 1880年2月28日
次代:
山尾庸三
爵位
先代:
創設
伯爵
山田(顕義)家初代
1884年7月7日 - 1892年11月11日
次代:
山田久雄(甥)