渋沢栄一

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しぶさわえいいち
渋沢 栄一
(澁澤 榮一)
Eiichi Shibusawa.jpg
生誕天保11年2月13日
(1840年3月16日)
Flag of Japan (WFB 2000).svg 日本武蔵国榛沢郡血洗島村
(現・埼玉県深谷市血洗島
死没1931年11月11日(満91歳没)
日本における郵船商船規則の旗 日本東京府下北豊島郡滝野川村元西ヶ原(王子飛鳥山邸)[1]
(現・東京都北区西ヶ原
職業幕臣官僚実業家教育者
配偶者千代(1858年 - 1882年)
兼子(1882年 - 1934年)
子供渋沢篤二渋沢武之助渋沢正雄渋沢秀雄穂積歌子阪谷琴子明石愛子(下記参照)
父・渋沢市郎右衛門
母・渋沢ゑい
栄誉正二位
JPN Toka-sho BAR.svg 勲一等旭日桐花大綬章
子爵
黄綬褒章紺綬褒章

渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、旧字体澁澤 榮一天保11年2月13日1840年3月16日〉 - 昭和6年〈1931年11月11日)は、江戸時代末期に農民名主身分)から武士幕臣)に取り立てられ、明治大正昭和期にかけて活躍した日本実業家で、近代日本資本主義の指導者である[2]位階勲等爵位正二位勲一等子爵雅号青淵(せいえん)。

明治政府では、民部省を経て直属の上司である大蔵大輔井上馨の下で大蔵少輔吉田清成らと共に造幣・戸籍・出納など様々な政策立案を行い、初代紙幣頭、次いで大蔵省三等官の大蔵少輔事務取扱となる。

井上馨と共に退官後は実業界に転じ、第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京商法会議所(現・東京商工会議所)、東京証券取引所といった多種多様な会社、経済団体の設立・経営に関わった。それらの功績を元に「日本資本主義の父」と称される。

同時に東京養育院等の福祉事業、東京慈恵会等の医療事業、商法講習所(現・一橋大学)、大倉商業学校(現・東京経済大学)、高千穂高等商業学校(現・高千穂大学)等の実業教育、東京女学館などの女子教育、台湾協会学校(現・拓殖大学)の設立、二松學舍(現・二松学舎大学)第3代舎長就任等による私学教育支援や、理化学研究所設立等の研究事業支援、国際交流、民間外交の実践等にも尽力した。また「論語と算盤」の言葉に代表されるその道徳経済合一の思想でも広く知られている[3]。合計で約1000もの銀行・会社を設立している。

経歴[編集]

郷里にて 1840年 -[編集]

武蔵国榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深谷市血洗島)に渋沢市郎右衛門元助(1809年 - 1872年)[4] とゑい(1811年 - 1874年)の長男として天保11年(1840年)2月13日に誕生した。

渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける豪農だった。原料の買い入れから製造、販売までを担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。栄一も父と共に、信州上州まで製品の藍玉を売り歩くほか、原料の藍葉の仕入れ調達にも携わった。14歳のころからは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、こうした経験がヨーロッパ視察時に、近代的な経済システム、諸制度を理解吸収する素地となり、また後の現実的な合理主義思想の形成にも繋がったともいわれる。

一方で5歳のころより父から漢籍の手ほどきを受け、7歳の時には従兄の尾高惇忠の許に通い、『論語』を始め四書五経や『日本外史』を学ぶ。剣術は元川越藩剣術師範で近隣に在郷の大川平兵衛より神道無念流を学んだ。安政3年(1856年)16歳の時、領主代官のいる岡部藩岡部陣屋で御用金の上納を命じられ、大いに反発したと伝わる。安政5年(1858年)、惇忠の妹で従妹にあたる尾高千代と結婚する。

尊攘派志士から、一橋慶喜の家臣へ 1861年 -[編集]

文久元年(1861年)、江戸に出て海保漁村の門下生となる。また北辰一刀流千葉栄次郎の道場(お玉が池の千葉道場)に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶ。その影響から尊皇攘夷の思想に目覚め、文久3年(1863年)に共に従兄弟である尾高惇忠渋沢喜作らと、高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜外国人居留地を焼き討ちにしたのち長州藩と連携して幕府を倒すという計画を立てる。事前に藍を売った金を使って武器まで揃えたが、同じく従兄(惇忠の弟)の尾高長七郎の懸命な説得により中止する。

親族に累が及ばぬよう父より勘当を受けた体裁を取り、喜作と連れ立って京都に出るが、八月十八日の政変直後であったため、勤皇派が凋落した京都での志士活動に行き詰まり、江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣・平岡円四郎の推挙により喜作と共に一橋慶喜に仕えることになる(士分となった栄一は篤太夫、喜作は成一郎の通称を名乗る)。当時、慶喜は朝議参与として京都に常駐していた。仕官後、慶喜が朝廷から禁裏御守衛総督を拝命するが、御三卿は自前の兵力を持っていないため、兵力調達が急務となり、栄一らが一橋家領内を巡回し農兵の募集で手腕を発揮した。

幕臣となりヨーロッパへ 1867年 -[編集]

1866年頃の幕臣・渋沢栄一

慶応2年(1866年)12月、主君の慶喜が将軍となったことに伴って幕臣となる。パリで行われる万国博覧会(1867年)に将軍の名代として出席する慶喜の異母弟・清水家当主の徳川昭武の随員として御勘定陸軍付調役の肩書を得て、フランスへと渡航する。パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行する。その際に通訳兼案内役として同行していたアレクサンダー・フォン・シーボルトより語学や諸外国事情を学び、シーボルトの案内で各地で先進的な産業・諸制度を見聞すると共に、近代社会のありように感銘を受ける。フランス滞在中に、幕府における役職は御勘定格陸軍付調役から外国奉行支配調役となり、その後開成所奉行支配調役に転じている[5]。パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、昭武はパリに留学する予定であったが、大政奉還に伴い、慶応4年(1868年)5月には新政府から帰国を命じられ、昭武の水戸徳川家相続の件もあり、昭武と共に9月4日(1868年10月19日)にマルセイユから帰国の途につき、同年11月3日(12月16日)に横浜港へ帰国した。

静岡藩、民部省・大蔵省時代 1869年 -[編集]

大蔵省時代

帰国後は、駿府宝台院(現・静岡市葵区常磐町二丁目)に謹慎していた徳川慶喜と面会し「これからは、お前の道を行きなさい」との言葉を拝受するも、旧恩に報いるため、駿府(静岡)に留まり静岡藩に出仕した。静岡ではフランスで学んだ株式会社制度を実践することや、新政府からの借入金返済のために、勘定頭の平岡準に相談し、明治2年(1869年)1月には商法会所を設立した。この商法会議所では銀行的業務と物産販売を兼ね、小野組で糸店を担う古河市兵衛に取り扱いを依頼することもあった[6]

1869年(明治2年)10月、明治新政府からの招状が静岡藩庁に届き、栄一は大久保一翁に相談し東京へ向かうと民部省租税正の辞令書を受ける。一度は辞任を決意するも、大隈重信らの説得で11月に出仕する。民部省内に改正掛が置かれると掛長となり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わった。明治4年(1871年)年7月27日に民部省が大蔵省に統合されることに伴い、芳川顕正紙幣頭の下で大蔵権大丞となり、次いで大蔵大丞となる。1872年(明治5年)には大蔵省三等出仕となり、紙幣寮の頭に就任(同三等出仕は上野景範)。大蔵大輔井上馨や大蔵少輔吉田清成と連携して造幣寮の事務に勤しみ、また、ドイツで印刷された明治通宝(通称ゲルマン紙幣)を取り扱ったが、贋札事件の発生も少なくなかった。さらに、同年2月におきた東京での大火からの再建を大蔵省が主導することとなり、井上馨、東京府参事の三島通庸らとともに煉瓦造りの街並みを計画した。しかし、予算編成を巡って、大久保利通や大隈重信と対立し、1873年5月7日、大蔵大輔井上馨や大蔵少輔吉田清成と共同で財政改革意見を建議し、建議書を『日新真事誌』などに掲載し論議を喚起した。明治6年(1873年)5月14日に井上馨と共に退官した。

この間、旧幕府側で戦い投獄されていた、従兄の渋沢喜作の出獄を引き受け、大蔵省への仕官を世話し、養蚕製糸事業調査の名目でヨーロッパ視察に送り出している。同じく戊辰戦争を幕府側で戦った従兄の尾高惇忠には富岡製糸場の初代場長として事業立ち上げを託している。

実業家時代 1873年 -[編集]

銀行[編集]

大蔵省を辞職した栄一は、井上馨アレクサンダー・フォン・シーボルト、その弟のハインリヒ・フォン・シーボルトの協力も得ながら、明治6年(1873年)自ら設立を指導した第一国立銀行(後の第一銀行第一勧業銀行、現:みずほ銀行)の総監役に就任する。大株主の三井組小野組の頭取2名の上に立って、日本最初の銀行の創業を担う。明治7年(1874年)に二大株主の一つ小野組が破綻したことで、新銀行は経営危機に陥った。三井組は単独経営を志向するが、栄一は小野組の古河市兵衛の誠実な対応にも助けられ、被害を最小限に留め、三井組による銀行経営の独占を退けた。自ら単独の頭取となり、公益に資する民間取引を軸に据えた銀行の路線を確立する。財閥の機関銀行的な運営とは一線を画し、新興の商工業者の創業指導や資金支援を積極的に展開する。

また、全国に設立された多くの国立銀行の指導、支援を第一国立銀行を通じて行った。明治10年(1877年)、宇和島伊達家を主な出資先とする第二十国立銀行(後、第一銀行と合併)の設立には相談役を引受け、最終的には第一銀行が吸収合併し経営を引き取り、その深川支店を栄一自邸跡地に移した。

明治25年(1892年)、小口の貯蓄を集める貯蓄銀行の制度ができると、栄一はじめ第一銀行役員の出資により、東京貯蓄銀行(後の協和銀行、現:りそな銀行)を設立し、栄一は取締役会長を務めた。

郷里の埼玉では、明治26年(1894年)に熊谷銀行(後、武州銀行埼玉銀行、現:埼玉りそな銀行)の設立発起人、明治32年(1899年)設立の黒須銀行(後、武州銀行、埼玉銀行、現:埼玉りそな銀行)では顧問役を引受けている(栄一の頭取退任後ではあるが、大正8年(1919年)の武州銀行(後、埼玉銀行、現:埼玉りそな銀行)設立にあたり、第一銀行は栄一の甥で娘婿の尾高次郎監査役を初代頭取に送り出し、設立を支援した。その後、武州銀行は栄一が設立を支援した熊谷銀行、黒須銀行を合併している)。

半官半民の特殊銀行が開設されるようになると、明治29年(1896年)日本勧業銀行(後、第一勧業銀行、現:みずほ銀行)、明治33年(1900年)日本興業銀行(現:みずほ銀行)、北海道拓殖銀行、いずれにおいても設立委員として開業を指導した。

事業会社[編集]

明治6年(1873年)、大蔵省在職時から計画を練っていた抄紙会社(現:王子ホールディングス日本製紙)の設立認可を得て、経営を始める。同年、東京府の瓦斯掛(現:東京ガス)の委員となりガス事業を計画。明治8年(1875年)廻米、生糸貿易の澁澤喜作商店の開業を支援。明治9年(1876年)平野富二の石川島平野造船所(現:IHIいすゞ自動車立飛ホールディングス)に対し個人出資や第一国立銀行の融資で創業を支援。同年、秀英舎(現:大日本印刷)の印刷業創業や、中外物価新報(現:日本経済新聞)の創刊を支援。

明治12年(1879年)東京海上保険会社(現:東京海上日動火災保険)創立発起人、相談役に就き保険業創業を支援。明治14年(1881年)日本鉄道会社(現:東日本旅客鉄道)理事委員となり設立に参画。明治15年(1882年)倉庫会社・均融会社の設立出願総代、監査役。同年、共同運輸会社の創立発起人となり三菱財閥日本郵船による海運独占に対抗(後に両社は合併)、東京電灯会社(現:東京電力ホールディングス)発起人、委員、大阪紡績会社(現:東洋紡)発起人、相談役。明治16年(1883年)工部省深川工作分局の浅野総一郎への払下げによる、浅野セメント工場(現:太平洋セメント)創業を支援。明治18年(1885年)ジャパンブリュワリー(現:キリンホールディングス)設立の理事員。

明治20年(1887年)清水組(現:清水建設)の後継者が幼少のため相談役に就き経営にあたる。同年、高峰譲吉の東京人造肥料会社(現:日産化学)創立を創立委員長として支援、東京製綱会社(現:東京製綱)創立委員、日本煉瓦製造会社理事長、東京ホテル(現:帝国ホテル)発起人総代、理事長、札幌麦酒会社 委員長、後に札幌麦酒㈱ 取締役会長(現:サッポロホールディングス)、後に大日本麦酒㈱(現:サッポロホールディングスアサヒグループホールディングス)設立総会議長 取締役、日本土木会社(現:大成建設)発起人総代、委員長。明治21年(1888年)古河市兵衛の足尾鉱山組合(現:古河機械金属古河電気工業富士通富士電機横浜ゴム)の設立を支援。明治25年(1892年)東京帽子(現:オーベクス)取締役会長。明治28年(1895年)東洋経済新報の創刊を支援、日本精糖(現:大日本明治製糖)発起人、取締役。明治29年(1896年)汽車製造(現:川崎重工業)創立委員、監査役、浦賀船渠(現:住友重機械工業)相談役、東京建物設立発起人。

明治30年(1897年)澁澤倉庫部(現:澁澤倉庫)を自邸倉庫を使った家業として創業。

明治31年(1898年)十勝清水町熊牛地区に開墾を目的とした十勝開墾合資会社を設立。明治39年(1906年)京阪電気鉄道(現:京阪ホールディングス)創立委員長、帝国劇場会社(現:東宝東京会館)創立委員長。

明治40年(1909年)日本皮革(現:ニッピ)発起人、相談役。この他にも多種多様な企業の設立や運営に関わり、その数は500以上といわれている。

経済団体[編集]

明治10年(1877年)択善会(後に東京銀行集会所、東京銀行協会に発展)を組織して、銀行経営者の連携により、政府に対して各種の提言を実施。明治11年(1878年)には渋沢喜作大倉喜八郎三野村利助益田孝らの財界人を誘い、東京商法会議所(後に東京商工会議所に発展)を設立し、会頭に就任し、広く商工業者の輿論を形成し多様な財界活動を展開する。広く資本を集め事業を起こす合本主義の考え方を実践するためには、株式市場の創設が必須と明治11年(1878年)東京株式取引所を設立。当初は債券取引が中心で、株式を公開する企業が少ない中、第一国立銀行の株式を率先して上場。

福祉・医療[編集]

明治7年(1874年)より、生活困窮者救済事業である養育院(現:東京都健康長寿医療センター)の運営に携わり、後に事務長、院長となり、幼少年、長期療養者毎の分院や、感化が必要な少年への学校を設置する等、終生この事業に係わり運営に心を砕いた。明治10年(1877年)には佐野常民西南戦争の傷病兵を敵味方無く救護する目的で博愛社が創立されると社員となり、後に同社が日本赤十字社と改称されると常議員となり、引き続き運営に係わった。明治17年(1884年)高松凌雲が生活困窮者に無料で診療治療を行う事業のために設立した同愛社の幹事となり事業に協力した。

明治40年(1907年)東京慈恵医院(現:東京慈恵会)の相談役、委員長となり、財団化に尽力。明治41年(1908年)癌研究会(現:がん研究会)の設立にも尽力し副総裁となる。

教育[編集]

明治8年(1875年)、当時は実学教育に関する意識がまだ薄く、実学教育を実施する機関が無い事から、森有礼の興した商業講習私塾を東京会議所が所管する商法講習所東京商科大学を経て、現一橋大学)とし、経営委員として運営を支援した。明治14年(1881年)から明治16年(1883年)まで東京大学において自ら講師として日本財政論を講義。明治21年(1888年)には工手学校(現工学院大学)設立に際しても賛助員となり支援を行い、明治33年(1900年)には大倉喜八郎の大倉商業学校(現東京経済大学)にも創立委員として協するなど実業教育の充実発展を継続して支援した。

また、まだ男尊女卑の風が強い当時にあっても、女子への高等教育の必要性を唱え、明治20年(1887年)伊藤博文勝海舟らと共に、女子教育奨励会を設立し、これを母体として東京女学館を設立。明治34年(1901年)日本女子大学の創立においても支援を行った。なお実業界引退後は、それぞれ館長、校長も引き受けている。

その他にも、私学設立、運営への協力にも積極的で、明治21年(1888年)には、新島襄同志社の大学設立の基金の募集や管理に尽力。明治31年(1908年)早稲田大学の理工系への事業拡大計画に際しても、基金管理委員長として協力した。明治33年(1900年)台湾協会学校(現拓殖大学)の学校設立委員会委員に就任、学校設立に尽力し、設立後の明治36年(1903年)大講堂において学生向けに演説を行った記録がある。

国際交流・民間外交[編集]

明治12年(1879年)アメリカ前大統領グラント夫妻の訪日に際して、東京商法会議所、東京府会に働きかけ、接待委員会を組織。福地源一郎と共同で接待委員総代を務め、歓迎行事を準備、飛鳥山の自邸(迎賓接待用の別邸)でも歓迎会を実施。明治14年(1881年)にはハワイ王国カラカウア王の招待会を飛鳥山邸にて開催。

明治26年(1893年)海外からの賓客に対応するための組織として、貴賓会を設立し幹事長となる。(こうした事業は1912年のJTB設立に繋がる)明治31年(1898年)韓国を実地視察、韓国皇帝高宗に謁見。韓国のインフラ整備を支援し近代化を進め、両国間の貿易を通じて、善隣友好関係を結ぼうとの考えから、京釜鉄道、京仁鉄道の敷設に尽力[7]

明治35年(1902年)アメリカ、ヨーロッパを実地視察し、各地の商工会議所メンバーと交流する他、ルーズベルト米国大統領とも会談。明治36年(1903年)大隈重信らと共に日印協会の設立に携わる[8]。後に実業界引退後は第三代会長も務めた。明治41年(1908年)キリスト教系慈善団体の救世軍創設者のウィリアム・ブース来日時には、飛鳥山邸で歓迎午餐会を開催。

実業界引退後 1909年 -[編集]

明治42年(1909年)6月6日、数え70歳の古稀に達し、実業界引退を表明。第一銀行と東京貯蓄銀行(第一銀行系の貯蓄銀行)を除く61の会社役員を辞任した[9]。銀行経営は後継者の佐々木勇之介が担い、渋沢は民間外交や教育、福祉、医療等に軸足を移した。大正5年(1916年)数え77歳の喜寿には、第一銀行頭取も辞任[10]。その後は社会事業や道徳普及運動、民間外交などに注力していく[10]。1912年には帰一協会の発起人のひとりとなった[10]

民間外交[編集]

渋沢栄一、ニューヨーク市(1915年)

明治42年(1909年)渡米実業団を組織し団長として、全国の商業会議所会頭を率いて訪米。タフト大統領と会見する他、3ヵ月かけてアメリカ各地を訪ね、貿易摩擦の解消、相互理解の進展に努めた。明治45年(1912年)ニューヨーク日本協会協賛会創立、名誉委員長を引受ける。同年のアメリカ・カリフォルニア州における外人土地所有禁止法に見られる日本移民排斥運動などに対し、アメリカ人の対日理解促進のためアメリカ報道機関へ日本のニュースを伝える通信社の設立を提案した。日本を植民地とするロイターの障壁の前に実現は見なかったが、設立した国際通信社は現在の時事通信社共同通信社の起源となった。

大正2年(1913年)来日した中華民国国民党党首孫文を民間を代表して出迎える。大正3年(1914年)日中経済界の提携のため中国を訪問。

大正4年(1915年)パナマ太平洋博覧会のため渡米し、各地を歴訪。ウィルソン大統領と会見。大正5年(1916年)日米関係委員会発足、常務委員就任。大正6年(1917年)日米協会創立、名誉副会長就任。大正9年(1920年)国際連盟協会創立、会長就任。大正10年(1921年)ワシントン軍縮会議出席のため訪米、ハーディング大統領と会見。

震災復興院委員: 左から渋沢、伊東巳代治加藤高明
渋沢と青い目の人形

大正13年(1924年)ポール・クローデル駐日大使と協力して日仏交流の拠点として日仏会館を発足させ、理事長となる。大正15年(1926年)日本太平洋問題調査会創立、評議員会会長。昭和2年(1927年)日本国際児童親善会を設立し、アメリカの人形(青い目の人形)と日本人形(市松人形)を交換し、親善交流を深めることに尽力している。昭和6年(1931年)には中国で起こった水害のために、中華民国水災同情会会長を務め義援金募集に尽力。

渋沢は大正15年(1926年)と昭和2年(1927年)のノーベル平和賞の候補にもなっている。

教育[編集]

明治42年(1909年)東京商科大学辛酉事件の調停を行い、東京大学への統合から同大学を守り、後援組織としての如水会の名誉会員となる。大正3年(1914年)高千穂高等商業学校(現:高千穂大学)の設立に際して評議員として協力、実業教育発展への思いを持ち続けた。

大正8年(1919年)栄一に論語を講じた三島中洲没後、三島が創立した二松学舎の舎長、理事に就任。大正10年(1921年)私塾 国士舘(現・国士舘大学)の維持委員に就任。

女子教育についても、大正13年(1924年)東京女学館館長、昭和6年(1931年)日本女子大学校長と、創立から関わった2校のトップも引き受けている。

福祉・医療[編集]

明治44年(1911年)済生会の寄附金募集世話人、顧問、評議員となり恩賜財団設立に尽力。大正2年(1913年)北里柴三郎の日本結核予防協会に評議員として協力。大正3年(1914年)聖路加国際病院の評議会副会長、会計監督に就く。大正9年(1920年)知的障がい児の保護教育事業を行なう滝乃川学園の理事長に就任。

その他の活動[編集]

大正6年(1917年)自然科学の研究機関、理化学研究所設立に際し、設立者総代となる。大正7年(1918年)旧主の事績を正確に後世に伝えたいとの思いから、「徳川慶喜公傳」を龍門社より刊行。大正7年(1918年)田園都市株式会社設立(現:東急電鉄)の発起人となり、都市近郊の住宅開発の事業化を後援。大正8年(1919年)労働争議の活発化が想定される中、労使協調を推進するための官民組織として、協調会を設立し副会長となる。大正12年(1923年)漢学振興を目的に帝国議会で設立が決議された大東文化協会(現:大東文化大学)の評議員に就任。

震災復興[編集]

大正12年(1923年)関東大震災に際し、政府、東京市に臨時対応を献策しつつ、自ら被災者に供給するための食糧を自費で近県から取り寄せ配給を行った。協調会を通じた罹災者収容、炊き出し、災害情報板設置、臨時病院確保等の対策を実行。また、救済事業資金調達のため、大震災善後会を結成し、義援金集めにも奔走し、栄一と交流のあった米国の実業家からも多くの義援金が寄せられた。政府帝都復興審議会の委員にも就き、議論をリードし復興都市計画をまとめる事にも尽力した。

死去 1931年[編集]

昭和6年(1931年)11月11日死去。享年92(満91歳没)。

数カ月前より大腸狭窄症を発症しており、10月には自邸で開腹手術を受けていた。逝去の報に接し、弔問の客がひきもきらなかったと伝えられている。当日午後には、天皇の勅使、皇后・皇太后の使者が差し遣わされた。

14日通夜に際しても勅使、御使が遣わされ、栄一の事績を称えた御沙汰書が下賜された。葬儀は15日に青山葬儀場にて執り行われ、飛鳥山邸から青山までの葬送の列を沿道で多くの人が見送った。

法名は泰徳院殿仁智義譲青淵大居士。墓所は谷中霊園渋沢家墓地。

帝国議会議事録[注 1]

名前[編集]

幼名は市三郎、栄二郎[11]、栄次郎もしくは栄治郎。のちに美雄、栄一郎、仁栄、篤太夫、篤太郎などと名乗る。栄一の読みが「ひでかず」とされることもある[12]。尾高惇忠から青淵の号をもらい、生涯用いた。

人物と思想[編集]

議員活動と政治との関わり[編集]

渋沢栄一
澁澤榮一
しぶさわ えいいち
生年月日 1840年3月16日
出生地 日本の旗 日本 武蔵国榛沢郡血洗島村
(現埼玉県深谷市血洗島)
没年月日 (1931-11-11) 1931年11月11日(91歳没)
称号 正二位
帝都復興記念章
紺綬褒章
従二位
旭日桐花大綬章
正三位
旭日大綬章
大礼記念章
一等嘉禾章
勲一等瑞宝章
従三位
勲三等瑞宝章
正四位
王冠第三等勲章
勲四等瑞宝章
金製黄綬褒章
従四位
正五位
従五位
正六位
従六位
正七位
配偶者 渋沢千代
渋沢兼子
子女 長女・穂積歌子
次男・渋沢篤二
五男・渋沢武之助
六男・渋沢正雄
七男・渋沢秀雄
養子・渋沢平九郎
親族 娘婿・穂積陳重(枢密院議長)
娘婿・阪谷芳郎(大蔵大臣)
娘婿・大川平三郎(貴族院議員)
孫・穂積重遠(貴族院議員)
孫・穂積真六郎(参議院議員)
孫・阪谷希一(貴族院議員)
孫・渋沢敬三(大蔵大臣)
孫婿・石黒忠篤(農商大臣)
孫婿・中村貫之(貴族院議員)
孫婿・壬生基泰(貴族院議員)
来孫・橋本岳(衆議院議員)

在任期間 1890年11月29日 - 1891年10月29日

深川区会議長

深川区会議員
在任期間 1889年 - 1904年
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明治9年(1876年)居宅を深川区福住町に定め、その後の転居後もここを終生本籍地としており、明治22年(1889年)から同37年(1904年)の15年間に渡り、深川区会議員、区会議長を務め、地域の発展に深く意を用いた。

日本で初めての国会開催に先立つ、明治23年(1890年)7月の第一回衆議院議員選挙では、本人は立候補していなかったものの、人気は高く東京5区(本所区、深川区)にて94有効票を獲得し、次点となった[13]。一方で、同年9月には勅選で貴族院議員に選ばれる事となり[14]、同年12月15日の第1回帝国議会には貴族院議員として貴族院本会議に出席した。しかし、以降は一切議会には出席せず、翌年明治24年(1891年)10月29日[15] には辞任している。

明治34年(1901年)5月16日、旧知の井上馨組閣の大命が下った際には、真っ先に大蔵大臣としての入閣を求められたが、これも辞退している[16]。断られた井上は渋沢が蔵相でなければ首相を引き受ける自信がないとして直ちに大命を拝辞、井上内閣は幻に終わっている。

龍門社[編集]

明治19年(1886年)深川福住町の渋沢邸に寄宿し栄一に私淑する青年達が勉学に努め、成果を発表する場として龍門社が結成されたが、やがて栄一の思想に賛同し、栄一を慕う経営者や企業幹部が加入し、昭和初期には数千名の会員組織となった[17]

排閥と渋沢財閥[編集]

栄一は事業活動においても、広く国民全体が豊かになる事を希求し、一部特定の人々の利益を求める閥を成すことを嫌った。「渋沢財閥」という語が使われる事があるが、これは、栄一が死後の一族の財産争いを避けるため、渋沢同族会の資産管理会社として、実業界引退後の大正4年(1915年)に設立した渋沢同族株式会社を戦後GHQが財閥解体施策の中で、財閥の持株会社として誤認指定した事によるもの。その持株比率の実体は、家業として経営していた渋沢倉庫株の26%以外は、第一銀行株でも3%、他も数パーセントの保有に過ぎず、財閥と言われるようなものではなかった。

合本主義[編集]

公益を追及するという使命や目的を達成するのに最も適した人材と資本を集め事業を推進させるという考え方。広く資本を糾合するという事から、狭義には株式会社制度の意に使われるが、栄一は私益のための資本の集中では無く、公益の追及、より良い社会の実現のために、資本や人材を合わせる事の重要性を説いたものと解される。

道徳経済合一説[編集]

大正5年(1916年)に『論語と算盤』を著し、「道徳経済合一説」という理念を打ち出した。幼少期に学んだ『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に自身にも心がけた。 『論語と算盤』にはその理念が端的に次のように述べられている。

富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。[18]

そして、道徳と離れた欺瞞、不道徳、権謀術数的な商才は、真の商才ではないと言っている。また、同書の次の言葉には、栄一の経営哲学のエッセンスが込められている。

事柄に対し如何にせば道理にかなうかをまず考え、しかしてその道理にかなったやり方をすれば国家社会の利益となるかを考え、さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。そう考えてみたとき、もしそれが自己のためにはならぬが、道理にもかない、国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨てて、道理のあるところに従うつもりである。[19]

幕末に栄一と同じ観点から備中松山藩藩政改革にあたった陽明学者山田方谷の門人で、「義利合一論」(義=倫理・利=利益)を論じた三島中洲と知り合うと、両者は意気投合して栄一は三島と深く交わるようになる。栄一は、三島の死後に彼が創立した二松学舎の経営に深く関わることになる。

生前のエピソード[編集]

新選組[編集]

幕末期に一橋家に仕官し京都に居たころ、新選組近藤勇土方歳三らとも、在京薩摩藩士と内通している疑惑の有った大沢源次郎の捕縛の件で、接点があった事を自ら語っている[20]土方歳三とは、もともとどちらも農民であったことを語り合ったこともあるという[要出典]

シーボルト[編集]

幕末期に栄一がパリ万博派遣使節の一員として渡欧した際に、同行して語学を教えた通訳は、長崎出島商館医で多くの蘭学者を育てたシーボルトの長男で当時在日英国公使館通訳をしていたアレクサンダー・フォン・シーボルトであった。栄一が日本に帰国後も交友を続け、弟のハインリッヒと共に日本赤十字社設立を始め、たびたび栄一に協力をする間柄となった。

紙幣肖像(韓国)[編集]

1902年から1904年にかけて、大韓帝国にまだ中央銀行が無かった時代に、第一銀行は在韓支店において第一銀行券を発行していた。

その1円、5円、10円券には頭取の渋沢の肖像が描かれていた。韓国統監となった伊藤博文は韓国に中央銀行(後の朝鮮銀行)を設立して、中央銀行に発券機能を担わせる施策への転換を図るべく渋沢に協力を求め、渋沢もそれに応じた[21]

日露開戦[編集]

明治37年(1904年)日露戦争の開戦の際には陸軍参謀本部の児玉源太郎から財界としての支援を依頼される。20億円という莫大な戦費の国民経済への影響から当初は難色を示していたが、児玉の話しからロシアの極東政策の意図を素早く的確に理解し、開戦止む無しとの考えに転換している。[22]

関東大震災後の天譴論[編集]

関東大震災後の日本の言論界には、世の風潮が利己的で傲慢になったために、天が罰として自然災害を起こして警鐘を鳴らしたと受け止めるべきであるという、「天譴論」が流行したが、その口火を切ったのは渋沢だった[23]。「天譴論」は腐敗したブルジョアや近代産業文明への批判と平等主義や自然回帰への賛美の思潮ともつながり、一種の流行語ともなった。皆が口にするに至って、返って不自然さや偽善性を指摘する者も現れ、最初の主唱者渋沢も「天譴だという人は、本当にこれを天譴と思っているのでは無いかも知れませぬ」と苦言を呈する程になった。

没後のエピソード[編集]

紙幣肖像[編集]

2024年度発行予定の一万円札見本

日本を代表する経済人として、また初代紙幣頭(後の印刷局長)として日本銀行券紙幣)の肖像の候補者として何度も選ばれ、日本銀行券C千円券(1963年11月1日発行開始)では肖像候補として最終選考にまで残ったが、当時は偽造防止のため肖像には髭のある人物を使っていたことから、髭のない渋沢を採用することは難しく採用されることはなかった。この際に作成された候補案のデザインお札と切手の博物館で展示されている。後に偽造防止の技術が向上し、髭の無い女性も使えるようになったこともあり、令和6(2024)年度上半期に執行予定されている紙幣改定により、一万円札に渋沢の肖像が採用されることになった[24][25][26]

韓国では、日本の新1万円札に渋沢栄一の肖像が採用されるというニュースが伝わると、韓国マスコミがこぞって過敏な反応を見せた。2019年4月10日のハンギョレ新聞では「日本の新紙幣の人物は経済侵略の張本人」と報じ、日本政府が紙幣の肖像に渋沢栄一を採用したことが韓国人の感情を刺激するだろうと問題視している。また、保守系の中央日報でも同様に批判的な論調でこれを取り上げた[27]

深谷市[編集]

出身の深谷市では、栄一の命月の11月が「渋沢栄一記念月間」に指定され、毎年イベントが催されている。

埼玉県[編集]

埼玉県教育委員会が製作し、埼玉県子ども会育成連絡協議会が発行する『彩の国21世紀郷土かるた』の、「に」の札は「日本の産業育てた渋沢翁」となっており、埼玉を代表する歴史上の偉人、畠山重忠塙保己一を詠んだ札と合わせて、三人札(役札:三枚揃えると10点となる札)とされている。また「え」の札は「栄一も食べたネギ入り煮ぼうとう」となっており、これは深谷ねぎが栄一の故郷の深谷の特産品であることと、煮ぼうとうが埼玉県北部の郷土料理であることにちなんでいる。

埼玉県では渋沢の功績にちなみ、健全な企業活動と社会貢献活動に取り組んでいる、全国の企業経営者に「渋沢栄一賞」を授与している。

小惑星「sibusawaeiichi」[編集]

2021年9月2日、火星と木星の間にある小惑星に渋沢栄一の名前がつけられた[28]

評価[編集]

ピーター・ドラッカー(経営学)は、渋沢の業績について「誰よりも早く1870年代から80年代にかけて、企業と国家の目標、企業のニーズと個人の倫理との関係という本質的な問いを提起した」と高く評価し、「20世紀に日本は経済大国として興隆したが、それは渋沢栄一の思想と業績によるところが大きい」(『マネジメント務め、責任、実践』)と言及している[29]。彼によれば、「岩崎弥太郎と渋沢栄一の名は、国外では、わずかの日本研究家が知るだけである。しかしながら彼らの偉業は、ロスチャイルド、モルガン、クルップ、ロックフェラーを凌ぐ」(『断絶の時代』)とのことである[29]

栄典[編集]

位階

爵位

勲章等

外国勲章

賞杯等

  • 1877年(明治10年)4月27日 - 銀盃一個[30]
  • 1878年(明治11年)4月30日 - 銀盃一個[30] 8月 - 銀盃一個[30]
  • 1879年(明治12年)12月 - 銀盃一個[30]
  • 1880年(明治13年)4月 - 銀盃一個[30] 12月 - 木杯一組・銀盃一個[30]
  • 1881年(明治14年)3月 - 銀盃一個[30] 9月 - 銀盃一個[30]
  • 1885年(明治18年)10月13日 - 木杯一個[30]
  • 1886年(明治19年)12月7日 - 木杯一組[30] 12月24日 - 木杯一組・木杯一個[30]
  • 1887年(明治20年)12月20日 - 木杯一個[30]
  • 1888年(明治21年)5月31日 - 木杯一組・木杯一個[30]
  • 1890年(明治23年)3月27日 - 木杯一個[30] 4月3日 - 銀盃一組[30] 12月15日 - 木杯一個[30]
  • 1891年(明治24年)7月8日 - 木杯一組[30] 11月30日 - 木杯一組[30]
  • 1892年(明治25年)3月11日 - 木杯一組[30] 6月15日 - 木杯一個[30]
  • 1893年(明治26年)6月6日 - 木杯一組[30]
  • 1894年(明治27年)4月13日 - 木杯一組[30] 4月17日 - 木杯一組[30]
  • 1895年(明治28年)3月1日 - 木杯一個[30]
  • 1896年(明治29年)3月2日 - 銀牌[30]
  • 1897年(明治30年)6月1日 - 銀盃一個[30]
  • 1899年(明治32年)10月24日 - 銀盃一組[30] 12月6日 - 銀盃一組[30] 12月19日 - 木杯一組[30]
  • 1910年(明治43年)1月21日 - 金杯一組[55]

系譜[編集]

渋沢氏甲斐源氏の流れをくみ、甲州征伐を期に血洗島村へ逃れ帰農したという。[56] 江戸末期には、血洗島村には渋沢姓を名乗る家が17軒あった。このため、家の位置によって「中ノ家(なかんち)」「前ノ家」「東ノ家」「古新宅」「新屋敷」などと呼んで区別した。

  • 「中ノ家」:宗家であったが、江戸時代初期の明暦年間には家勢が振るわなくなっていた。栄一の父・市郎右衛門は「東ノ家」の当主2代目渋沢宗助宗休渋沢儀刑の子である初代渋沢宗助宗安の子)の三男として生まれたが、「中ノ家」に養子として入り家勢を立て直し、栄一が生まれるころには村の中で「東ノ家」に次ぐ富農となっていた。栄一が故郷を出てからは妹の貞子が「中ノ家」を守り、須永家より渋沢市郎を婿養子にむかえ4代目とした。貞子・市郎夫妻の長男元治は栄一長女の歌子の娘である孝子と結婚、東京大学工学部長を経て初代名古屋大学総長となり、次男治太郎が地元にとどまり、八基村村長、県会議員を務めた。
  • 「東ノ家」:栄一が生まれるころには一族で一番繁栄していたため、こちらが本家と呼ばれることもある。栄一の父も、栄一の従兄で論語の師でもある尾高惇忠の母も「東ノ家」出身。フランス文学者澁澤龍彦は3代目渋沢宗助(栄一の父・市郎右衛門の兄)の玄孫。
  • 「新屋敷」:「東ノ家」から江戸時代末期に分家した。2代目となる喜作(成一郎)は、従弟である栄一と共に故郷を出て、将軍徳川慶喜の奥祐筆、彰義隊頭取、明治維新後は、実業家として活躍した。
  • 渋沢家(中ノ家)
 ∴
渋沢市郎右衛門
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 ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━┓
 ┃                                     ┃       ┃
渋沢栄一                                渋沢市郎(婿養子) 貞子
 ┃                                     ┃
 ┣━━━━┳━━━━━━━┳━━━━━━━┳━━━┳━━┳━━┓     ┃
 ┃    ┃       ┃          ┃   ┃  ┃  ┃     ┃
渋沢篤二 渋沢武之助   渋沢正雄       渋沢秀雄 歌子 琴子 愛子 渋沢元治
 ┃            ┃          ┃
 ┣━━━━┳━━━━━┓ ┣━┳━┳━┓  ┣━━━━━┓
 ┃    ┃     ┃ ┃ ┃ ┃ ┃  ┃     ┃
渋沢敬三 渋沢信雄 渋沢智雄 女 正一 純子 女 華子   渋沢和男
 ┃
 ┣━━━━┳━━━━━┓
 ┃    ┃     ┃
渋沢雅英  紀子    黎子
 ┃
 ┣━━━━┓
 ┃    ┃
 男    女

家族・親族[編集]

最晩年に自宅でラジオ放送に臨む栄一と付添う家族と関係者。栄一の左後ろに次男の篤二、右端に後妻の兼子、子供たちは栄一の孫たち(1931年9月6日)
先妻の千代
少女時代の長女歌子と二女琴子。1879年ごろ
  • ちよ[57][58](1841年 - 1882年) - 千代、千代子[59] とも表記される。歌子、琴子、篤二の母。尾高惇忠の妹であり、栄一とは従兄妹同士。コレラで死亡。
  • 兼子[57](1852年[60]- 1934年) - かね[61] とも表記される。武之助正雄、愛子、秀雄の母。兼子は水戸藩の公金御用達も務めた江戸屈指の豪商、深川油堀の伊勢八こと伊藤八兵衛の娘。当初は婿を取って家を継いでいたが、明治維新後に横浜居留地の外国商人との為替取引が一因で家業が傾き、夫を離縁していた。家の没落のために芸妓をしていたときに栄一と知り合い[62]、1883年(明治16年)先妻と死別していた渋沢の後添えとなる。奇しくも当時深川にあった渋沢の邸宅は兼子の実家が没落時に手放したものだったという[63]。日本画家の淡島椿岳は叔父、淡島寒月は従弟になる。
  • 大内くに(1853年 - ?[64])- 京都生まれ。大工の夫が鳥羽伏見の戦いに出たまま行方知れずとなったため、女中となった。大蔵省で働いていた時、大阪造幣局へ出張中に三野村利左衛門が設けた宴席でたまたま女中として働いていたために出会った。2人の娘は親戚の尾高次郎大川平三郎に嫁いだ。
夭逝した子供、庶子を含めると多数の子女がいたが[注 2]、嫡出の7人の子女とその配偶者およびその子女によって渋沢同族会が組織された[67]
  • 長男:市太郎[57](1862年) - 母は千代。夭逝[57][58]
  • 長女:歌子[57](1863年 - 1932年) - 母は同上。宇多[58] とも表記される。法学者で後に東京大学法学部長、男爵、枢密院議長となる穂積陳重に嫁ぐ。著書に『穂積歌子日記』みすず書房。
  • 二女:琴子[57](1870年 - 1939年) - 母は同上。こと[58] とも表記される。大蔵官僚で後に大蔵次官、大蔵大臣、東京市長、子爵、龍門社理事長となった阪谷芳郎子爵に17歳で嫁ぐ。
  • 三女:伊登[57](1871年 - 1872年) - 母は同上。夭逝[57][58]
  • 次男:篤二[57] (1872年 - 1932年) - 母は同上。澁澤倉庫会長、妻は公家華族橋本実梁伯爵の娘敦子。渋沢家嫡男であったが1913年に廃嫡となり、18歳となった長男の敬三が嫡孫となる。理由は諸説あり定かではない。新橋の芸者・玉蝶との遊蕩を理由との説[68] もあるが、事業家というより感性豊かな芸術家肌で、一族を統べるには蒲柳の質が心配されており、栄一は自身の没後の異母弟らとの家督を巡る争いの芽を事前に摘むための措置を取ったとも考えられている[69]
  • 三男:無相真幻大童子[61](1883年) - 母は兼子。生後すぐに逝去[61]
  • 四男:敬三郎[57] (1884年‐1885年) - 母は同上。夭逝[57][61]
  • 五男:武之助[57] (1886年‐1946年) - 石川島飛行機製作所2代目社長[70]。母は同上。妻は資生堂創業者福原有信の四女美枝。
  • 四女:止観妙心大童女[61](1887年) - 母は同上。死産[61]
  • 六男:正雄[57](1888年 - 1942年) - 母は同上。日本製鐵副社長。石川島飛行機製作所初代社長[70]石川島造船所専務。
  • 五女:愛子[57](1890年 - 1977年) - 母は同上。愛[61] とも表記される。銀行家で後に澁澤倉庫会長、第一銀行頭取、龍門社理事長となった明石照男に嫁ぐ。
  • 七男:秀雄[57](1893年 - 1984年) - 母は同上。田園都市開発取締役、東京宝塚劇場会長、東宝取締役会長。庶子を除き子女の中では、唯一長寿を全うした。また、兄・武之助と共に第二次世界大戦を生き抜いた人物でもある。
  • 八男:遍照芳光大童子[61](1895年) - 母は同上。死産[61]
  • 九男:忠雄[57](1896年 - 1897年)。母は同上。夭逝[61][71]
  • 庶子:文子(1871年-?) - 母は大内くに。後に東洋生命社長、武州銀行頭取となった尾高次郎に嫁ぐ。次郎は栄一の妻千代の兄尾高惇忠の子。
  • 庶子:照子(1875年- 1927年) - 母は同上。後に富士製紙社長、武州銀行頭取となった大川平三郎に嫁ぐ。平三郎は栄一の妻千代の姉の子。
  • 庶子:星野辰雄(1893年 - ?) - 東京印刷社長・星野錫の養子となる。立教大学教授、専門は商法、フランス法。栄一の長女歌子の夫穂積陳重の弟穂積八束の次女と結婚。
  • 庶子:長谷川重三郎(1908年 - 1985年) - 第一銀行頭取。
  • 養子:平九郎[57](1847年 - 1868年) - 栄一の妻千代の弟[57]。栄一が幕末の洋行に際し不測の事態でも家系が断絶しないように見立て養子としたが、栄一帰国前に飯能戦争で新政府軍に敗れて自決。
  • 穂積重遠 - 歌子の長男。男爵、法学者、東京大学法学部長、最高裁判事、東宮大夫。「日本家族法の父」と呼ばれる。
  • 穂積律之助 - 歌子の次男。海軍造船少将、退役後、石川島造船所(現IHI)取締役。
  • 渋沢孝子 - 歌子の長女。東京大学工学部長、名古屋大学総長、渋沢元治の妻。
  • 石黒光子 - 歌子の次女。農林省次官、農商大臣、参議院議員、石黒忠篤の妻。
  • 穂積真六郎 - 歌子の四男。朝鮮総督府殖産局長から朝鮮商工会議所会頭。のち参議院議員。
  • 市河晴子 - 歌子の三女。東京大学教授、日本英文学会会長、市河三喜の妻。
  • 阪谷希一 ‐ 琴子の長男。子爵、日本銀行から関東庁に転じ、退官後は満州国総務庁次長中国聯合準備銀行顧問。
  • 堀切敏子 - 琴子の長女。拓務次官、法制局長官、内相、堀切善次郎の妻。
  • 高嶺和子 - 琴子の次女。物理学者、東京大学教授、高嶺俊夫の妻。
  • 中村八重子 - 琴子の三女。銀行家、貴族院議員、男爵中村貫之の妻。
  • 渋沢敬三 - 篤二の長男。子爵、民俗学者、澁澤同族社長、澁澤倉庫取締役、第一銀行副頭取、日銀総裁、大蔵大臣。父・篤二の廃嫡後に祖父・栄一より後継者に指名される。
  • 渋沢信雄 - 篤二の次男。貿易商。澁澤倉庫監査役、妻は音楽教育家齋藤秀雄の妹。
  • 渋沢智雄 - 篤二の三男。澁澤倉庫常務。
  • 壬生博子 - 正雄の長女。伯爵壬生基泰(公家華族、陸軍軍人)の妻
  • 渋沢正一 - 正雄の長男。アジア経済研究所理事長。
  • 鮫島純子 - 正雄の次女。鮫島員重(岩倉具視の曽孫、海軍中将鮫島具重の子)の妻。『祖父・渋沢栄一に学んだこと』『なにがあっても、ありがとう』『97歳、幸せな超ポジティブ生活』など著書あり。
  • 明石景明 - 愛子の長男。商工中金理事。
  • 塙百子 - 愛子の次女。武蔵大学教授、塙遼一の妻。
  • 明石正三 - 愛子の三男。足利銀行監査役。
  • 明石武和 - 愛子の七男。味の素副社長。
  • 土屋喜久子 - 愛子の娘。第一ホテル社長土屋計雄の妻。
  • 渋沢一雄 - 秀雄の長男。アコーディオン演奏者、音楽家。
  • 横山栄子-秀雄の長女。三井物産、三井船舶勤務、横山鉄男の妻。
  • 渋沢華子 - 秀雄の三女。小説家。
  • 尾高豊作 - 文子の長男。実業家、埼玉銀行頭取。日本技術教育協会会長。
  • 尾高朝雄 - 文子の次男。法哲学者、東京大学法学部教授。
  • 尾高邦雄 - 文子の三男。社会学者。東京大学文学部教授。妻は哲学者和辻哲郎の娘。
  • 尾高尚忠 - 文子の四男。指揮者、作曲家。
  • 田辺孝子 - 照子の娘。本州製紙会長・田辺武次の妻。
曽孫
玄孫
  • 渋沢健 - 智雄の長男芳昭の子。シブサワ・アンド・カンパニー代表取締役、コモンズ投信会長。
  • 長谷川三千子 - 市河晴子の娘である三枝子と野上耀三の娘。哲学者、評論家。
  • 鮫島弘子 -鮫島純子の孫。 andu amet(アンドゥ・アメット)代表取締役兼チーフデザイナー。2012年、日経ウーマンオブザイヤーキャリアクリエイト部門賞、2013年、APEC若手女性イノベーター賞。
  • 鮫島圭代 - 鮫島純子の孫。美術ライター、翻訳家。
来孫

姻族関係系図[編集]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
後藤猛太郎
 
 
後藤保弥太
 
 
 
後藤省三
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
川添紫郎
 
 
 
 
川添象郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
川添光郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大江小苗
 
 
原智恵子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
斎藤博
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大江卓
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長與延子
 
 
 
斎藤美代子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
犬養仲子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長與中庵
 
長與專齋
 
 
 
長與稱吉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
犬養道子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
犬養毅
 
 
犬養健
 
 
 
 
犬養康彦
 
 
 
 
 
 
 
 
 
島津斉興
 
島津久光
 
 
 
島津珍彦
 
 
岩崎孝子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
後藤正晴
 
後藤象二郎
 
 
 
 
岩崎早苗
 
 
 
岩崎小弥太
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩崎俊弥
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩崎弥之助
 
 
 
岩崎輝弥
 
 
 
 
岩崎毅太郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩崎英二郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
櫻井房記
 
 
岩崎須美
 
 
 
 
岡部妙子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岡部長発
 
 
岡部長職
 
 
 
岡部長章
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
村山長挙
 
 
村山美知子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
村山富美子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
村山龍平
 
 
 
 
村山藤於
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岡部長景
 
村山良介
 
 
 
 
 
 
 
 
岩崎弥次郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
加藤春路
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岡部悦子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
加藤高明
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
幣原雅子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
幣原喜重郎
 
 
 
 
昭和天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
島津忠義
 
 
 
邦彦王妃俔子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
香淳皇后
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
貞敬親王
 
邦家親王
 
 
 
朝彦親王
 
 
 
久邇宮邦彦王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
能久親王
 
 
 
竹田宮恒久王
 
 
 
 
竹田恒徳
 
竹田恒正
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
保科武子
 
 
 
 
 
竹田恒治
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
竹田恒和
 
竹田恒泰
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
保科正昭
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
保科正益
 
 
 
 
岩崎寧子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩崎弥太郎
 
 
 
岩崎久弥
 
 
 
 
福沢綾子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
福沢百助
 
 
福沢諭吉
 
 
 
福沢捨次郎
 
 
 
 
福沢堅次
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
志立瀧子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
木内多代
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
志立鉄次郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
木内磯路
 
 
 
 
 
木内信胤
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大宮以季
 
 
木内重四郎
 
 
 
 
 
渋沢登喜子
 
 
渋沢雅英
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
橋本実梁
 
 
渋沢敦子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
紀子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
渋沢敬三
 
 
黎子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
渋沢宗助(4)
 
 
 
渋沢篤二
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
渋沢宗助(3)
 
 
 
渋沢宗助(5)
 
 
 
渋沢宗助(6)
 
 
 
 
渋沢長康(7)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
渋沢武
 
澁澤龍彥
 
 
 
 
徳川治済
 
 
徳川斉匡
 
 
徳川慶頼
 
 
 
徳川達孝
 
 
 
 
徳川達成
 
徳川宗賢
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
松方冬子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
浅尾荘一郎
 
陽子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(長女)
 
 
 
 
 
 
 
河田政直
 
 
児玉忠碩
 
 
 
児玉源太郎
 
 
 
 
穂積ナカ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
穂積重行
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
阪谷朗廬
 
 
 
阪谷芳郎
 
 
 
 
 
穂積重遠
 
 
岩佐美代子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
穂積律之助
 
磯野富士子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
阪谷琴子
 
 
 
 
 
穂積真六郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
磯野誠一
 
 
 
 
 
 
須永惣次郎
 
 
 
須永伝蔵
 
 
 
芳賀矢一
 
 
 
 
 
穂積敏子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
渋沢市郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
芳賀檀
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(女子)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
渋沢元治
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
渋沢貞子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
渋沢孝子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
渋沢市郎右衛門
 
 
 
渋沢栄一
 
 
 
 
石黒忠悳
 
 
 
 
 
 
石黒忠篤
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
穂積歌子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石黒孝次郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
渋沢千代
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石黒光子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尾高やへ
 
 
 
渋沢平九郎
 
 
 
 
穂積陳重
 
 
 
 
 
 
尾高咲子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尾高長七郎
 
 
 
 
尾高文子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
久留都茂子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尾高勝五郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尾高朝雄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尾高惇忠
 
 
 
 
尾高次郎
 
 
 
 
 
 
尾高豊子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尾高豊作
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尾高邦雄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尾高煌之助
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
和辻哲郎
 
 
 
 
 
尾高京子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尾高尚忠
 
尾高惇忠
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大川照子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尾高忠明
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大川みち子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大川義雄
 
大川慶次郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大川平三郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大川平兵衛
 
 
大川修三
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
市河晴子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
野上三枝子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
市河寛斎
 
 
市河米庵
 
 
 
 
市河万庵
 
 
 
 
市河三喜
 
 
 
 
 
 
長谷川三千子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
野上豊一郎
 
 
野上耀三
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小手川角三郎
 
 
 
 
野上弥生子
 
 
野上素一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
千葉亀之助
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(女子)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
渋沢文平
 
 
渋沢成一郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(女子)
 
 
野上茂吉郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高野房太郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高野岩三郎
 
 
野上正子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
バルバラ・カロリナ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
星野辰雄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
穂積重樹
 
 
 
穂積重頴
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
桜井小太郎
 
 
 
 
 
 
星野万亀子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
穂積八束
 
 
 
 
 
 
穂積安芸子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
穂積マツ
 
 
 
 
 
穂積重威
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
浅野泰治郎
 
 
 
 
 
穂積秀二郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
板垣退助
 
 
浅野千代子
 
 
 
 
 
箕作寿賀子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
箕作秋坪
 
 
菊池大麓
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
箕作佳吉
 
 
 
 
箕作新六
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
箕作元八
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
永田アヤ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
諸井勝之助
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
永田甚之助
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
諸井佐久
 
 
 
諸井恒平
 
 
諸井貫一
 
 
 
 
 
 
 
諸井三佐保
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
諸井時三郎
 
 
 
諸井三郎
 
 
 
諸井虔
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
諸井泉衛
 
 
 
諸井四郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
諸井誠
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
諸井六郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

(参考文献)『財界家系図』、『日本の有名一族』、『御侍中先祖書系圖牒』、『土佐の墓』、『日本人なら知っておきたい名家・名門』、『閨閥』、『板垣精神』、『平成新修旧華族家系大成

登場作品[編集]

関連文献[編集]

史料[編集]

  • 『渋沢栄一伝記資料集』〈第1 - 58巻〉(渋沢栄一伝記史料刊行会、1955年 - 1965年)
  • 『渋沢栄一伝記資料集』〈別巻第1 - 10巻〉(渋沢青淵記念財団竜門社、1966年 - 1971年)
  • 『渋沢栄一滞仏日記』〈日本史籍協会叢書〉(日本史籍協会、1928年)

主な著書[編集]

  • 述『官板 立会略則』、明治4年9月 - 会社の設立にかんする説明
  • 『渋沢栄一全集』 平凡社(全6巻)、1930年
  • 『青淵百話』 同文舘、1931年/国書刊行会、1986年
    • 『渋沢百訓 論語・人生・経営』 角川ソフィア文庫、2010年
    • 『渋沢栄一「青淵論叢」 道徳経済合一説』鹿島茂編訳、講談社学術文庫、2020年
  • 『渋沢栄一訓言集』 渋沢青淵記念財団 竜門社編、国書刊行会、1986年
  • 雨夜譚 渋沢栄一自伝』 岩波文庫長幸男校注)、1984年、新版2019年
  • 『論語と算盤』(梶山彬編) 国書刊行会、1985年/角川ソフィア文庫、2008年 ほか再刊
  • 『論語講義』 二松学舎大学出版部、1975年/講談社学術文庫(全7巻)、1977年
  • 『渋沢栄一自伝 雨夜譚・青淵回顧録(抄)』 角川ソフィア文庫、2020年、井上潤解説(渋沢史料館館長)

伝記・評伝研究[編集]

歴史小説[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 1890年12月15日、第1回帝国議会の貴族院予算委員会に出席すると同時に休暇を願い出て認められている。
  2. ^ 作家の佐野眞一は『渋沢家三代』のなかで「一説には、栄一が生涯になした子は二十人近くにのぼるといわれている」と記している[65]。歴史研究家の河合敦は、栄一が花柳界でも知られた存在だった点を挙げ、「20人の子がいたとされるが、一説には50人」と記している[66]

出典[編集]

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  2. ^ 第2版,世界大百科事典内言及, 日本大百科全書(ニッポニカ),朝日日本歴史人物事典,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,知恵蔵mini,デジタル版 日本人名大辞典+Plus,旺文社日本史事典 三訂版,精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,世界大百科事典. “渋沢栄一とは” (日本語). コトバンク. 2021年9月22日閲覧。
  3. ^ 2021年大河ドラマ「青天を衝け」主演は吉沢亮、主人公は渋沢栄一” (日本語). ライブドアニュース. 2019年9月9日閲覧。
  4. ^ 世界帝王事典
  5. ^ 『渋沢栄一伝記資料』第1巻 - 渋沢栄一記念財団。
  6. ^ 宮本又郎 (2016-11-21). 日本の企業家1 渋沢栄一: 日本近代の扉を開いた財界リーダー. PHP研究所 
  7. ^ 木村昌人『渋沢栄一 ―日本のインフラを創った民間経済の巨人―』(筑摩書房、2020年9月10日)155、187頁
  8. ^ “【ボースの遺骨を守ってもう一つの日印交流】(3)日印協会の変遷”. 産経新聞. (2008年9月28日) 
  9. ^ 渋沢栄一伝記資料29 渋沢青淵記念財団竜門社編
  10. ^ a b c 見城悌治「渋沢栄一の宗教観と道徳観」
  11. ^ 小貫修一郎 筆記、渋沢栄一 談、『渋沢栄一自叙伝』、渋沢翁頌徳会、1938年、生立ちのころ(1頁)。
  12. ^ 渋沢栄一。本当は「エイイチ」ではなく「ヒデカズ」だった!? 大物は細かいことは気にしない!(2021年10月12日)
  13. ^ 衆議院編『衆議院議員総選挙一覧』衆議院事務局、1912年、p.2
  14. ^ 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
  15. ^ 『官報』第2503号、明治24年10月31日。
  16. ^ 『渋沢栄一伝記資料』第27巻 - 渋沢栄一記念財団。]
  17. ^ 島田昌和『明治後半期における経営者層の啓蒙と組織化―渋沢栄一と龍門社―』(『経営論集』10巻1号、 2000年12月)
  18. ^ 渋沢栄一『論語と算盤』(角川ソフィア文庫)(角川学芸出版 ISBN 978-4044090012 2008年10月25日)、22頁。
  19. ^ 渋沢栄一『論語と算盤』(角川ソフィア文庫)(角川学芸出版 ISBN 978-4044090012 2008年10月25日)、49頁(一部の漢字を現代語風にひらがなに改めて引用)。
  20. ^ デジタル版「実験論語処世談」(35)/渋沢栄一|公益財団法人渋沢栄一記念財団
  21. ^ 多田井喜生『朝鮮銀行―ある円通貨圏の興亡―』 (PHP新書、2002年2月1日)
  22. ^ https://www.ifsa.jp/index.php?Gkodamagentaro
  23. ^ 筒井清忠『帝都復興の時代:関東大震災以後』中央公論新社<中公新書>、2011年、ISBN9784121100030 pp.114-120.
  24. ^ “新しい日本銀行券及び五百円貨幣を発行します” (日本語) (HTML) (プレスリリース), 財務省, (2019年4月9日), https://www.mof.go.jp/currency/bill/20190409.html 2019年4月9日閲覧。 
  25. ^ “新紙幣を正式に発表 一万円札の裏は東京駅”. 産経ニュース. 産業経済新聞社. (2019年4月9日). https://www.sankei.com/economy/news/190409/ecn1904090008-n1.html 2019年4月9日閲覧。 
  26. ^ 「渋沢紙幣」大韓帝国下で発行 韓国メディアは反発” (日本語). 日本経済新聞 (2019年4月9日). 2021年3月1日閲覧。
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  31. ^ デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第2巻 p.359(DK020051k)
  32. ^ 『官報』第1475号「叙任及辞令」1888年6月1日。
  33. ^ 官報7804号 明治42年7月1日
  34. ^ 官報2080号 大正8年7月11日
  35. ^ 官報857号 昭和4年11月6日
  36. ^ 官報1462号 昭和6年11月12日
  37. ^ 渋沢栄一伝記資料 57巻 p219
  38. ^ 『官報』第2719号「叙任及辞令」1892年7月21日。
  39. ^ 『官報』第5589号「叙任及辞令」1902年2月24日。
  40. ^ 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。
  41. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  42. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1915年11月10日。
  43. ^ 『官報』号外「授爵・叙任及辞令」1928年11月10日。
  44. ^ 『官報』第1016号「彙報 - 褒章」1930年5月22日。
  45. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
  46. ^ 『官報』第1782号「叙任及辞令」1889年6月10日。
  47. ^ デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第29巻 p.264(DK290086k)
  48. ^ デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第29巻 p.264-265(DK290087k)
  49. ^ 『官報』第825号「叙任及辞令」1915年5月5日。
  50. ^ デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第57巻 p.211(DK570102k)
  51. ^ デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第57巻 p.211-212(DK570103k)
  52. ^ デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第57巻 p.212(DK570104k)
  53. ^ デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第57巻 p.212(DK570105k)
  54. ^ デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第57巻 p.212-215(DK570106k)
  55. ^ 『官報』第7977号「叙任及辞令」1910年1月28日。
  56. ^ 織田完之『青淵先生六十年史』
  57. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 韮塚一三郎「渋沢家本支系図」『埼玉の先人 渋沢栄一』さきたま出版会、1983年、巻末。ISBN 4-87891-023-2
  58. ^ a b c d e 第1巻(DK010009k) 本文”. デジタル版『渋沢栄一伝記資料』. 公益財団法人渋沢栄一記念財団. 2021年4月11日閲覧。
  59. ^ 渋沢 千代子”. デジタル版『渋沢栄一伝記資料』. 公益財団法人渋沢栄一記念財団. 2021年4月11日閲覧。
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  62. ^ 阪谷芳郎の家庭教育 伊藤真希、愛知淑徳大学大学院現代社会研究科、現代社会研究科研究報告6、2011-03-04
  63. ^ 『明治美人伝』長谷川時雨、1921
  64. ^ 日記に見る雪中行軍の時代 青弓社、2010-08
  65. ^ 佐野眞一『渋沢家三代』文藝春秋〈文春新書〉、1998年、192-195頁。ISBN 4-16-660015-X
  66. ^ “実は恐るべき性豪…渋沢栄一と北里柴三郎「新札の顔」の意外な共通点”. 週刊現代. (2019年7月30日). https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66091?page=4 2021年2月14日閲覧。 
  67. ^ 澁澤雅英オーラルヒストリー 澁澤栄一記念財団理事長 政策研究大学院大学
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  69. ^ 鹿島茂『渋沢栄一 論語篇』文藝春秋、2011年1月。
  70. ^ a b 渋沢正雄 谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー
  71. ^ 第29巻(DK290014k)本文”. デジタル版『渋沢栄一伝記資料』. 公益財団法人渋沢栄一記念財団. 2021年4月11日閲覧。
  72. ^ 2021年大河ドラマ「青天を衝け」 製作開始と主演・吉沢亮さんを発表!”. NHK (2019年9月9日). 2019年9月9日閲覧。

関連項目[編集]

旧三田綱町邸(渋沢公園内)
  • 古牧温泉 - 渋沢公園内に旧渋沢邸が移築保存されていた。当初深川福住に建てられ、三田綱町を経て現地へ移築保存されていた。清水建設により東京都江東区へ移築準備中。
  • 竜門社 - 渋沢栄一を慕い、その理念に共鳴した経済人の会員制組織。現在は渋沢栄一記念財団。
  • 渋沢史料館 - 渋沢栄一の生涯と事績に関する博物館。現存する旧本邸の建物(晩香廬、青淵文庫)を公開。渋沢記念財団が運営。
  • 渋沢財閥 - 本来の意味での財閥では無かったが、戦後の財閥解体で指定を受けることとなった。
  • 澁澤倉庫 - 渋沢栄一が渋沢家の直営事業として自邸施設を使って創業した企業
  • 渋沢栄一記念館 - 生誕地の深谷市北部にある。
  • 誠之堂 - 渋沢栄一の喜寿を記念し第一銀行行員が行員運動施設である清和園内に建設したもの。深谷市に移築保存されている。
  • 南湖神社 - 栄一が尊崇していた、江戸時代の老中松平定信が祭神。栄一も設立に当たり支援をしている。
  • 本山白雲 - 彫刻家。高村光雲の弟子。渋沢栄一はじめ明治の偉人の銅像作品が多い。
  • 吉田清成 -元薩摩藩士、大蔵省、農商務省役人。書簡等が 吉田清成関係文書として整理されており、栄一との書簡も多く伝わっている。
  • 蜂須賀茂韶 - 渋沢の旧三田綱町邸の近くに本邸があった華族侯爵)。徳島藩最後の藩主、貴族院議長も務め、旧大名華族の資産の活用にも意を用い、栄一とは鉄道事業、損害保険事業、国際親善、教育等で幅広い交流があった。
  • 瀧川辨三 - 神戸実業界の重鎮。事業活動の他、教育事業等にも取り組んだ。笑山寺に置かれている瀧川辨三の彰功碑は栄一が揮毫。
  • 澁澤龍彦
  • 澁澤莉絵留

外部リンク[編集]

日本の爵位
先代:
(陞爵)
子爵
渋沢家初代
1920年 - 1931年
次代:
渋沢敬三
先代:
叙爵
男爵
渋沢家初代
1900年 - 1920年
次代:
(陞爵)
ビジネス
先代:
三井高福
第一銀行(旧第一国立銀行)頭取
第3代
1875年 - 1916年
次代:
佐々木勇之助
先代:
(新設)
王子製紙会長
初代
1893年 - 1898年
次代:
朝吹英二
先代:
(新設)
帝国ホテル会長
初代
1907年 - 1909年
次代:
大倉喜八郎
その他の役職
先代:
(新設)
東京市養育院
1890年 - 1931年
東京養育院長
1885年- 1890年
東京府養育院長
1879年 - 1885年
次代:
田中太郎
先代:
(新設)
中央社会事業協会会長
1924年 - 1931年
社会事業協会会長
1921年 - 1924年
中央慈善協会会長
1908年 - 1921年
次代:
清浦奎吾
先代:
三島復
二松學舍長
財団法人二松學舍長
1919年 - 1931年
次代:
金子堅太郎
先代:
小林彦五郎
滝乃川学園理事長
第3代:1921年 - 1931年
次代:
沢田廉三
先代:
芳川顕正
日本結核予防協会会頭
1921年 - 1931年
次代:
徳川圀順
先代:
(新設)
日仏会館理事長
1924年 - 1931年
次代:
古市公威
先代:
神田乃武
東京女学館長
財団法人東京女学館
1930年 - 1931年
東京女学館長事務取扱
1924年 - 1930年
次代:
桜井錠二
先代:
(新設)
修養団後援会会長
初代:1925年 - 1931年
次代:
小倉正恆
先代:
麻生正蔵
日本女子大学校
1931年
次代:
井上秀
先代:
(新設)
癩予防協会会頭
1931年
次代:
清浦奎吾
先代:
小松原英太郎
日華学会会長
1919年
次代:
徳川慶久