旗本

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

旗本(はたもと)とは、本来は戦場で主将の旗下にあって主将を護衛する武士団のことを指すが、一般的には江戸時代徳川将軍家直属の家臣のうち石高が1万未満で御目見以上の家格だった武士の身分を指す[1]。御目見以下の家臣は御家人という[1]

戦国時代の旗本[編集]

戦国時代には、主君の指揮下に属する直属部隊の家臣を指す場合もある。おもに譜代の家臣で編成され、戦闘時には主君の本陣備を構成した。

戦国大名家における幕下層(国人領主等)は軍事的に大名家に従属していたものの独立的軍団を構成しており、領国経営においても独立性が強く、離反も珍しくなかった。これに対し、直属の家臣であった旗本は主君にとって信頼できる存在で、戦国大名家の政治権力においても中心的な役割を果たしたと考えられる。例えば、上杉謙信の家臣の千坂景親のように戦闘時に常に本陣周辺に配置されるため、華々しい戦果を残すことはあまりないが、大名家の家臣団の中枢を担ったのは旗本家臣層であった。

江戸幕府の旗本[編集]

定義[編集]

江戸時代における旗本とは将軍の直臣で禄高1万石未満のうち、将軍への謁見が許される「御目見」以上の家格の者を指す。一方「御目見」が許されない直臣は御家人という。旗本と御家人を合わせて直参(じきさん)と総称した[2][1]

江戸時代初期には「旗本」の語は幕臣一般の総称として使われていたので、旗本と御家人の区別は明確ではなかったが、17世紀後半以降に「御目見」以上か以下で両者を明確に区分する風潮が定着した[1]

数と構成[編集]

旗本の数には変遷があるが、寛政年間には5300人ほどであった。俗に「旗本八万旗」などと呼ばれたのは幕府の軍役規定に基づき旗本たちが召し抱えることになっていた陪臣6万7500人を含めたものだと考えられる[2]

旗本の出自は三河以来の譜代の家臣を中心として、戦国期の徳川家の膨張により支配下に組み込まれた駿河国甲斐国信濃国などの武士団、大名や旗本の分家、名家の子孫、御家人などから登用された者など様々であった[2]

また特殊な旗本として旗本でありながら参勤交代を行った交代寄合[3]、旗本の中でも家柄がいい家を集めて儀式典礼や朝幕関係を司らせた高家があった[4]。交代寄合と高家は一般旗本より家格が高かった。

旗本の役職[編集]

旗本の役職は軍事を司る番方と行政を司る役方に分かれており、はじめは番方の方が重視されたが、幕府行政の複雑化に伴い役方が重視されるようになった[2]。番方は江戸城や二条城、大阪城の警衛、将軍への随従、大番・書院番・小姓頭・新番・小十人組の五番方があった[2]。役方は町奉行勘定奉行など行政・司法・財政などに関する諸役である[2]。こうした役職に就くと足高や役料が支給される場合がある[2]。また役職に付随する形で侍従諸大夫布衣という官位や服制が付与された[5]

家禄3000石以上および布衣以上の役職にあった無役の旗本は寄合、それ以下の無役の旗本は小普請に列した[2]。寄合と小普請は役職に付かない代償として禄高に応じた小普請金を幕府に上納させられた[2](100石までは1両、それ以上は100石増すごとに1両2分加算[6])。

俸禄[編集]

旗本の俸禄は200石以上であることが多く、それ以下だと御家人か一代抱えであることが多いが、例外もある[7]

旗本の俸禄には知行取と蔵米取の別があった。知行取は実際に領地が与えられてそこから年貢を徴収する者である。一方蔵米取は幕府が直轄領から徴収した蔵米の内から決まった額の米を支給される者である[1]

知行3000石以上の旗本は領地に陣屋を設置して直接に領地支配にあたった。 一方3000石以下の旗本は領地支配は幕府の代官に委ねて年貢だけ収納した[1]

蔵米取には切米取、現米取、扶持米取の3種が存在するが、もっとも多かったのが俵高で表示される切米取である。1俵は3斗5升の割合で計算されるので切米100俵であれば35石の米が幕府の米蔵から支給される[1]

旗本は知行取が多く、18世紀後半の知行取の旗本は2908人で都合275万石余、蔵米取の旗本は2030人で都合45万俵余となっている[1]。一方領地を直接支配した3000石以上の旗本となると全旗本5000家中250家程度にとどまる[1]

なお100石の知行所の広さとは土地の状況によっても異なるが、上田一反三石として、これを五合摺として一石五斗なので、おおよそ七前後の田んぼである。付随した畑や山林も含めると十町の2倍から3倍ぐらいの土地が100石になると思われる。土地持百姓を一軒一町と計算すれば六、七軒の土地持百姓がいることになるが、実際には数町歩の百姓もいれば小作百姓もいるので、だいだい100石の土地には十軒前後の百姓が生活していると思われる[8]

軍役や暮らし向き[編集]

旗本は原則として江戸在住が義務づけられていた[1]。またすべての旗本は幕府の軍役規定により一定の人馬と武器を負担しなければならなかった[2]

100石級[編集]

100石級は諸藩では中士と呼ばれることが多いが、江戸幕府では100石級は「御目見」以下の御家人であることが多く、「御目見」以上の旗本であることは稀である。小十人組は百俵でも「御目見」以上であるので旗本というのであろうが、小十人組は勤めなので十人扶持がもらえる。なので小十人組は非役の百石・百俵よりはだいぶマシだったが、それでも「百俵六人の泣き暮し」と陰口されるほど倹約しても悲惨な生活を送った[9]

交代寄合に120石の岩松家がある。同家は新田家の支流にあたり(そのため明治以降に新田に改姓して華族男爵家に列す)、家格だけは一般旗本より上位だったが、家禄は120石と旗本の中でも最低水準に近く、極貧生活を送った。幕末期の当主岩松俊純(維新後の新田俊純男爵)は糊口を稼ぐためにネズミ除けの猫の絵を描くなどしていたという[10]

百俵御家人は組屋敷(御家人は組頭の下に固まって一か所に固まって「組屋敷」と呼ばれる屋敷町を作っていた)だが、旗本であれば百石でも開き門(両扉のある門)の構えである。ただし門番はいない。屋敷は旗本でも御家人でもない御目見以下の抱筋の130俵か230俵の町奉行配下与力が二百、三百坪ぐらいなので御目見の小十人組だともう少し広い屋敷を拝領したらしい[11]

100石取りは軍役により槍1本を持ち、登城には槍持と中間を連れて行かねばならず、家庭内にも下女や下男を使うことになっているのだが、収支の均衡から考えてそんな人数を使うのは不可能である。たいていは中間1人と下女1人ぐらいである[9]

200石級[編集]

例外もあるが、基本的に200石取り以上が旗本であることが多い。200石級の旗本であれば軍役規定により侍1人、甲冑持1人、槍持1人、馬の口取1人、小荷駄1人の計5人の使用人と主人用の馬1匹を用意し、事があればそれを引き連れて戦場に参じなければならない。が、実際には200石程度の旗本では馬を持つのは困難であり、5人の使用人も用意できる者は少なかった[12]

拝領する屋敷は600坪位で門は片番所付の長屋門である[12]

200石級旗本の生活は極めて苦しく、借金生活を送ることが多い[13]。槍持と草履取は登城に欠かせないことから切り詰めることはできないが、若党中間は経済状況に応じてよく減らされたため、200石の旗本の屋敷の門は門番無しのことが多く、徳利門番(潜りの脇門に緒をつけた徳利を釣瓶式に仕掛けて置く)の風習も生まれた[14]

非役であれば槍持、草履取りに中間下男の役を兼ねさせて2、3人の使用人で足りさせなければ、とても生活してゆけなかった[14]。槍持、草履取らの給料が合わせて8両で下女が1両2分とすると、調味副食糧で7両で合計16両2分。残り48両で妻子入用、主人の交際費、吉凶費、武具武器の修理、家の修繕費等を出さねばならない。馬を飼ったりしたら飼育料だけで10両、さらに馬の口取の給料と食扶持がかかるので、馬一匹を持つ立場でありながら、そんなことはとても不可能だった[14]

生活困窮者の多い小旗本は六公四民などの高年貢を取り立てたり、その中間や若党たちが領地の百姓の倅を引きずり出して、ただ働きさせるといった悪領主となることが多かった[14]

300石級[編集]

300石取りの軍役は侍1人、甲冑持1人、槍持1人、馬の口取1人、小荷駄1人、草履取1人の計6人である[15]

300石でこんなに抱えるのは困難であり、たいていは渡り用人や渡り小姓を使い、1人ぐらいが譜代の侍である。こうした小禄旗本に仕える侍が町人から「三一(さんぴん)」と陰口された三両二分一人扶持の最貧層の武士である[15]。三一侍は女も買えないし、結婚もできないし、現代と違って年々昇給などしないので、もっと率のいい仕官口を見つけないと死ぬまで三一の極貧生活である[16]。若党や中間はさらに薄給で、下女に至ってはせいぜい1両といったところである[16]。江戸中期以降には物価が上がって茄子鴨焼の初物が7両するのに三一侍たちは相変わらず年収三両二分一人扶持だった。彼らは一本3両する初鰹など見たこともなく、せいぜい豆腐を拍子木に揚げたあぶたまを菜に酒2合と飯の120文を御馳走とする生活である。それ以下の若党や中間はさらに悲惨を極め、16文の夜鷹蕎麦屋か、8文の金時蕎麦と、したみ酒くらいしか知ることはなく死んでいく[17]

ここまで人件費を切り詰めても300石級旗本ではぎりぎりの生活であり、使用人にも内職をさせねば、とてもやってはいかれない[13]。また300石旗本は往々にして借金生活を送った[13]

200石級旗本よりはわずかに暮らし向きは良かったものの生活困窮ぶりに大差はない[15]。300石や400石程度の旗本では娘を吉原に売る例も見られる[15]

400石級[編集]

400石取りの軍役では侍が2人になり、以下合計9人である[18]。が、実際には用人・若党で3人も常傭していたらいい方である[18]

屋敷は片番所付きの長屋門の屋敷六七百坪ぐらい[18]。400石程度の旗本では門番を数人も雇うのは無理なので二人が交代で務めることが多い(家によっては特定の門番はなく侍若党が交代で務めたり中間が代行するところもある)[18]

用人・若党は3、4人使うが、だいたいは2、3人に倹約する。槍持、挟箱持、草履取は登城に必要であり、400石級となれば馬も飼わねばならないので馬の口取も必要である。さらに下男炊飯、下女2人くらいを置くとなると10人くらいの使用人を持つことになる[18]。しかし年収160両程度にはなる400石級旗本なら使用人を減らしたり、切り詰めた生活を送れば、何とか回していけるといったところである。ただ江戸中期以降は諸物価が高騰していたので大して楽というわけでもない[19]

500石級[編集]

500石取りの軍役は侍2人、甲冑持1人、槍持1人、馬の口取2人、小荷駄2人、草履取1人、挟箱持1人、立弓1人の計11人である[14]。馬の口取2人ということは馬2頭を飼わねばならないということである[20]。しかし500石の旗本ですら馬1頭飼っていればいい方だったらしく、中には馬に乗れない未熟者もあったという[21]

500石以上はあまり共連れを省略してしまうと家禄が低いように思われて世間体に響くのでなるべく軍役通りの共ぞろえをしようとする[22]。平時の登城では侍2人(やはり最貧の三両二分)、槍持、草履取、馬の口取、挟箱持、中間の7人ぐらいの共連れをした[20]。屋敷内には用人、門番、若党、炊飯下男、そして下女の4、5人はいないと500石の格がつかなかった[20]

元禄期に500俵以上の蔵米取は知行所に変えられたため、500石以上は大半が所領持ちである[20]。500石以上になると知行所への連絡事務や収貢の取り扱いの係が存在した。このように500石以上になってくると使用人たちの職務分担がされはじめるので簡単に使用人を略すということができなかった[22]

旗本は500石前後が一番中堅で、役職もこの階級あたりからいい役職に付ける場合が出てくる[20]。500石高の小納戸衆に500石の旗本がなることが多かったが、これは持高勤めにでき、役職手当を出さなくていいからだと思われる[23]

600石級[編集]

600石取りの軍役は侍3人、甲冑持1人、槍持1人、馬の口取2人、小荷駄2人、草履取1人、挟箱持1人、立弓1人、鉄砲1人の計13人である[23]

600石ともなると用人は支配人兼家老の立場で家政を取り仕切るようになり、使用人たちの取り締まりが厳しくなってくる。侍も4、5人はいるので3両2分しか払ってなくても食扶持だけで負担は大きい[22]。馬も2頭持つ必要が出てくる[22]。門番は二人から四人ぐらいで交代でつかせる[22]。奥の女中も奥様に付いたり諸雑用をやる者が2人ぐらい、下女は台所と洗濯掃除で3人ぐらい、炊飯下男1人ぐらいがある[22]

600石級の屋敷はだいたい七百、八百坪ぐらいで片番所付きの長屋門である。中間も5、6人はいるから中間部屋が大きくなる[24]。中間は主に知行所の水呑百姓の倅を強制連行してきて働かせて給料を略し、副食代も知行所から出させるから様々なところで経費が浮くはずだが、江戸中期以降は物価高と旗本の諸色万事派手のせいでなかなか厳しい財政だったようである[24]

700石級[編集]

700石取りの軍役は侍4人、甲冑持1人、槍持2人、馬の口取2人、小荷駄2人、草履取1人、挟箱持1人、立弓1人、鉄砲1人の計15人である[25]

平時の登城では侍3人から4人、挟箱持、中間、草履取、馬の口取、槍持ち2人が必要で槍は本来は2本だが、ほとんど1本槍でもう1人は手替になっている。合計10人ぐらいの供ぞろえである[25]

屋敷内では用人、侍、馬の口取、門番、女中、飯炊きなどで16、7人ぐらいは使う[25]。600石・700石あたりは比較的余裕があり、なまじ堅苦しい1000石以上よりも気楽な生活が遅れたという。小普請に入れば年に14両の小普請金を収めているだけで、年貢を4公6民で取るとして実収280石、金にして280両の消費生活ができる。先祖の家柄の上に寝そべって毎日遊んで暮らせるというもので、それゆえに江戸幕府の中級の士は役に立たない者が多かった[26]

800石級[編集]

800石取りの軍役は侍4人、甲冑持2人、槍持2人、馬の口取2人、小荷駄2人、草履取1人、挟箱持1人、立弓1人、鉄砲1人、沓箱持1人の計17人である[27]

800石あたりからは知行所が2カ村以上に渡り始めるので、なるべく使用人を多くの知行所から使って安上がりにする[28]

800石級の拝領屋敷はおおむ八百、九百坪で長屋門の門番所付である。中間階級も10人近くいるので大部屋が存在する[28]

900石級[編集]

900石取りの軍役は侍5人、甲冑持2人、槍持2人、馬の口取2人、小荷駄2人、草履取1人、挟箱持2人、立弓1人、鉄砲1人、沓箱持1人の計19人である[27]

登城は侍4人、槍持2人、馬の口取、挟箱持2人、草履取、中間の11人ぐらいを共連れにする[29]。しかし侍の給料はやはり三一である。使用人は最底辺賃金で働かせる一方主人は猟官運動に借金しても金を使う。そのためこうした旗本家の雇人は中間部屋で内職をしたり、武家屋敷に町奉行所の手が入らぬことを利用して賭場を提供したりした。大身旗本や大名家の屋敷だと出入りに厳しいが、この規模の旗本屋敷は出入りが比較的緩いので賭場にするのに持って来いだった[17]

こういう輩が多い階級なので劣悪な無能が多く、幕府が瓦解した後、新政府の兵学校生徒募集試験の折、応募してきた元900石級旗本が「酒井雅楽頭」「井伊掃部頭」の文字を読めず「がらくのかみ」「はらいべのかみ」と呼んだりして失笑を買ったりしていた[30]

1000石級[編集]

1000石取りの軍役は侍5人、立弓1人、鉄砲1人、槍持2人、甲冑持2人、草履取2人、長刀1人、挟箱持2人、馬の口取2人、押足軽1人、沓箱持1人、小荷駄2人の計21人である[31]。馬は主人の乗用と乗換用2頭に小荷駄用2頭を用意しておくことになっていたが、大半はせいぜい乗馬2頭だけ用意した[31]

拝領する屋敷はおおむね三十間四方九百坪ぐらいで門は門番所付長屋門である[31]。家臣の侍のうちから用人が選ばれて主人出勤中の屋敷の表を取り仕切り、奥には女中が奥様付きの老女を筆頭に5、6人いた[32]

1000石取りは四公六民とすれば400石の収入であり、使用人を三十人ぐらいとして、それらへの食量を53石程度と見積もると347石が残り、使用人への給料や諸経費を賄っても生活は比較的安定していた階級だったといえる[32]

またこの階級は幕府要職に就くことも多く、目付使番などが適当な勤め場所だった[33]

2000石級[編集]

2000石取りだと軍役は侍8人、立弓1人、鉄砲2人、槍持5人、手明1人、甲冑持2人、手替1人、長刀1人、草履取1人、挟箱持2人、手替1人、馬の口取4人、沓箱持2人、雨具持1人、押足軽2人、小荷駄4人の合計38人である[34]。平時はこんなに男性は使わないが、その代わりに女の使用人が多く、合わせるとだいたい30人ぐらいの使用人があった[35]

このあたりの階級からは数が少なくなるので、たいてい何かしらの役職を務めるようになる[35]

屋敷はだいたい三十三間四方役千坪くらいであり、門は門番所付長屋門である[36]

3000石級[編集]

3000石取りの軍役は侍10人(馬上共)、数弓2人、鉄砲3人、槍持5人、手替1人、立弓1人、長刀1人、馬印2人、草履取1人、挟箱持2人、手替1人、雨具持1人、馬の口取4人、沓箱持2人、押足軽3人、二騎口付2人、若党2人、具足持2人、槍持2人、箭箱1人、玉箱1人、小荷駄4人の合計56人である。人数で言えば軍隊における一個小隊とほぼ同数である[37]

また主人の他、侍2人にも200石級に当たる者が2騎いなければならない[38]。しかし実際には騎士2人が200石もらうことはまずなく、せいぜい100俵くらいが支給されたにすぎない。これが家臣の中で主だった者となり、大名家で言えば家老に当たる。この下にも50俵や何両という下級侍が8人いる。そのため屋敷内には彼ら用の長屋がある[38]

屋敷はだいたい四十間四方位で門は屋根の出張った門番所付長屋門である[38]

この階級からは領地に陣屋を設けて直接領地の支配にあたる[1]。またこの階級から無役の場合も小普請ではなく寄合と呼ばれるようになる[38]

4000石級[編集]

4000石取りの軍役は騎士3人、数弓2人、鉄砲3人、槍持5人、手替2人、侍9人、立弓1人、甲冑持2個4人、長刀1人、馬印3人、挟箱持4人、草履取1人、茶弁当1人、坊主1人、馬の口取4人、沓箱持2人、雨具持1人、押足軽4人、箭箱2人、玉箱2人、三騎の口付3人、若党3人、長持一棹4人、小荷駄五疋5人、槍持3人、具足持3人、小者3人の計79人となっている[39]。戦時に主人に茶弁当と坊主がつくのはこの階級からである。馬は10頭飼うことになっていたが、実際には3、4頭といったところである[39]

この階級から主人の登城は駕籠になり、4人に担がせる。共連れの侍は6人から7人、押足軽1人、草履取1人、挟箱持1人、雨天の時は傘持1人、共槍は1、2本、若党2、3人ぐらいを連れる[39]

忠臣蔵で著名な高家旗本の吉良義央が4200石でこの階級である。赤穂浪士の本所吉良邸討ち入り時に吉良邸にいた家臣の数は諸説あるが、家老から中間小者まで含めて60から70人ぐらいではないかと推測されている[40]。幕府の調べでは「中間小物共八十九名」とあり、桑名藩所伝覚書では「侍分の者四十人程。雑兵百八十程」としているが、4200石の吉良家では多すぎるので疑わしい[41]。なお召使の下女や妾は討ち入り時には不在だった[42]。本所の吉良邸見取り図はここを参照。

4000石の実習はだいたい1600石として、家族使用人を55人とみてその食扶持100石を差し引いても1500石残る。主だった侍の家臣に少しばかり高い禄を払ったとしても侍全部で500石か600石ぐらいで、さらに扶持諸雑費引いても450両ぐらいは残ろうから、主人側の暮らしは楽な階級である[43]

拝領される屋敷は2000坪ぐらいである。知行所は場所にもよるがだいたい8ヶ村ぐらいである。余裕のある階級なので遊惰な旗本が多く、天明5年(1785年)には藤枝教行というこの階級の旗本が新吉原大菱屋お抱えの遊女綾衣と情死する事件なども起きている[43]

5000石級[編集]

5000石取りの軍役は騎士5人、数弓3人、鉄砲5人、槍持10人、手替3人、旗指6人、侍9人、立弓1人、手筒1人、長刀1人、甲冑持4人、馬印3人、草履取1人、挟箱持4人、茶弁当1人、坊主1人、馬の口取4人、沓箱持2人、雨具持1人、押足軽4人、箭箱2人、玉箱2人、五騎の口付5人、若党5人、槍持5人、具足持5人、小者5人、長持一棹4人、小荷駄五疋5人の計103人となっている[44]

5000石級の旗本家の騎士は家老格の用人でよくて200俵で、大半の騎士は100俵前後だった。侍9人は3両2分1人扶持(三一)か、それに毛が生えた程度である[44]。四五十間四方の屋敷を拝領し、知行地にも陣屋を持つ[44]

5000石以上の役高の職で旗本になれる役はなく、この階級からはほとんどが持高勤めとなる。そのため昇進を心掛けなくなり、無能者が多かった[45]

9000石級[編集]

9000石取りの軍役は騎士8人、手替3人、数弓10人、鉄砲15人、槍持20人、手替3人、旗指6人、宰領1人、侍14人、立弓2人、手筒二挺2人、手替1人、長刀2人、甲冑持4人、茶弁当1人、坊主1人、雨具持1人、押足軽5人、箭箱2人、草履取1人、馬の口付6人、沓箱持3人、手替1人、玉箱2人、八騎の口付8人、若党8人、槍持8人、具足持8人、小者8人、長持一棹4人、宰領1人、小荷駄九疋9人の計193人となっている[46]

1万石を超えると大名になるので旗本としては最高峰が9000石代となる。とはいっても該当するのは9500石の横田家1家のみである。ここまでくると1万石級小大名との差はわずかであり、横田家の家政組織も小大名に準じており、家政、家老がおり、奥には奥用人、老女がおり、ほとんどが小大名並みである[46]

明治維新後[編集]

旗本の封建領主の地位と家禄の解体過程[編集]

王政復古後、明治元年(1868年)5月15日に彰義隊が起こした上野戦争までの間に朝廷に帰順した旗本は明治天皇より本領を安堵され、朝臣(天皇の家臣)に編入された。朝臣となった旗本は中大夫(高家及び交代寄合)、下大夫(1000石以上の一般旗本)、上士(1000石以下100石までの一般旗本)の三階級に区分された[47]。早期帰順した旗本は新政府の支配力が行き届いていた西国の領地持ちか、室町時代の守護の末裔や近世大名の分家筋などで徳川家臣というより独立的な領主だった家が多く、こうした旗本家は勤王に転じやすかった[48]。一方5月15日の上野戦争以降に恭順して朝臣となった旗本家は原則として所領は収公され、蔵米取に変更された[48]

旧幕臣(旗本と御家人)にはこの朝臣となる道以外に明治元年5月24日に70万石の静岡藩(駿府藩)の藩主に任じられた徳川宗家16代当主徳川家達に従って静岡に移住して同藩藩士になる道、暇乞いして帰農商する道もあった[49][50]

内訳は朝臣に転じたのが5,000戸ほど、駿府へ移住したのが12,000戸ほど、帰農商したのが3,600戸ほどだった(帰農商組の中は生活の困難や当初の計画通りに行かなくなったことなどで後に静岡藩に帰参した者もある)[50]。500石以上の旗本の大半は朝臣に転じており、静岡藩士になるのは小禄の者が多かった[51]

静岡藩士および帰農商した旗本家の家禄は政府により収公された[52]。代わって静岡藩士たちには静岡藩より旧禄高3000石以上は五人扶持、1000石以上は四人扶持、500石以上は三人扶持、100石以上は二人半扶持、20俵以上は二人扶持、20俵以下は一人半扶持というわずかな扶持米が支給されたが、下級藩士の多くはこれだけではやっていかれないので農工商業に従事したり、内職して生計をつないだ[53][49]。上級藩士も楽ではなかったらしく、駿府病院の病院頭並だった坪井信良は兄に宛てた手紙の中で、これまで男女数十人を召し使ってきた旗本の奥方が自分で豆腐や酒、油を買い歩いていることを記している[51]

一方政府は朝臣に転じた旗本や大名家の家禄の廃止も目指していた。国家的課題である殖産興業と富国強兵を推進する財源を確保するには、全人口のわずか5%でありながら歳出の中で異常に高い批准を占める武士たちへの家禄の廃止は必要不可欠だった[54]

朝臣に転じた旗本たちは明治元年8月22日の鎮守府達で本領安堵の早期帰順者や有功者を除き禄高を三割に抑制され、ついで明治2年(1869年)12月2日の布告により本領安堵されていた旗本の所領も府県に回収されて現米支給に切り替えられ(これにより領地を持つ旗本は消滅した。大名家は明治4年の廃藩置県まで封建領主として存続したが、旗本はそれより早い明治2年の段階で封建領主としては解体された)、さらにその計算に上損下益の削減率が採用されたことで、高禄の旗本では最大で1割にまで支給が減らされた[49]。最もこの上損下益の削減率は諸藩でも禄制改革の目安となったので旗本ばかりが苛酷に扱われているわけではない[49]。またこの際に中大夫以下の称が廃止されて旗本たちは士族として一本化された[49]

旗本の家臣(東京・京都両府合わせて2万人あったといわれる)には最大5年分で奉公の代数や忠勤に応じた扶助金が支給された。しかし宮家や公家の家臣団とは異なり士族卒には編入されなかった[55]

こうした一連の禄制改革の結果、政府財政に重くのしかかっていた旧幕臣への家禄支給は中村哲の計算によれば維新前の五分の一以下にまで圧縮することに成功したという[55]

諸藩でも政府の禄制改革に倣って上損下益の削減率で藩士たちの家禄の削減を断行している。明治4年(1871年)の廃藩置県で全藩が解体され、これをもって領地や所領といった概念はすべて消滅したが、大名や藩士たちの家禄は廃藩置県後も政府が引き受けることになった。そのため家禄は依然として政府の歳入の3分の1を費やす存在だった[56]

徴兵令が布告されて国民皆兵となると働きもせず家禄を支給され続ける穀潰しの旧武士に対する国民の風当たりはますます強くなっていく。「居候」「座食」「平民の厄介」「無為徒食」などの悪罵が続々と旧武士に投げつけられるようになり、新聞の投書や政府への建白書も家禄批判がどんどん増えていく[57]

大蔵卿大隈重信はこれを憂慮し、明治9年(1876年)に禄制の完全廃止への着手を求める提案を大蔵省として出した。大隈は、そもそも家禄なる物は旧武門政権の封建主義の中での約定でしかなく、武門政権が崩壊した今、そんな約定は紙くずも同然であることを指摘し、政府の歳入は生産振興や運輸拡充など国家有用の事業に用いられるべきであるのに、その最大の障害となっているのが歳入の3分の1を費やす家禄であることを批判する。ただし無償でそれを剥奪するわけにもいかないので政府の負債と見なして30年間で金禄公債によりこれを償却すべきことを主張した。大隈はこの提案を「有用の財を以て無用の人を養う弊を刈り、又無益な人をして有益の業に就かせることができる」ものであると表現している[56]。ここに何らの生産もせず家禄にのみ頼って生きる人間は「無用の人」と国家機関の大蔵省からも位置付けられることになった[58]。政府内では内閣顧問の木戸孝允が保護策も確立していない中で家禄を廃止すれば士族が困窮し国内に不融通が生じ、全国の知力も閉塞し、国家全体に与える損失は大きいとして性急な家禄廃止に反対したが、政府内で孤立していた木戸以外に大蔵省案に反対する者はなく、政府内の最大の実力者である内務卿大久保利通も大蔵省案を支持したため秩禄処分が行われることに決した[59]

1876年(明治9年)8月の秩禄処分により金禄公債と引き換えに家禄制は完全廃止となった。この後にはもはや旧大名家・旧旗本家・旧藩士というだけで寝てても家禄が支給されるということはなくなり、自分自身の力で収入口を見つけねばならなくなった。旧大名家は旧公家と共に華族に再編されて皇室の取り巻きの貴族となったが、士族となった旧旗本の方は明治前期の士族特権の削除と共に事実上平民と差異のない一般人と化した。旧旗本たちは、各々自分で仕事を探し、ある者は政治家や官僚、ある者は軍人、ある者は実業家、ある者は農家、ある者は文化人、ある者は聖職者、ある者は無職のまま生活困窮など、各人新たな道を歩みだしていった。

華族に列した旧旗本家[編集]

交代寄合のうち明治元年に戊辰戦争の戦功で政府から加増を受けたり、高直しが政府に認められたことで万石を超えて大名に列した所謂「維新立藩」をした6名、すなわち本堂親久本堂家8000石→常陸志筑藩1万110石)[60]生駒親敬生駒家8000石→出羽矢島藩1万5200石)[61]山名義済山名家6700石→但馬村岡藩1万1000石)[62]池田喜通池田家6000石→播磨福本藩1万573石)[63]平野長裕平野家5000石→大和田原本藩1万1石)[64]山崎治正山崎家5000石→備中成羽藩1万2746石)[65]は、華族に列し明治17年の華族令施行と共に男爵家となっている[66]。また岩松俊純岩松家120石)は南北朝時代の南朝方武将新田義貞正統の末裔と認められ、新田に復姓のうえ明治16年に華族に列し[67]米良家(5000石格の無高)も南朝方武将菊池武時正統の末裔と認められ菊池に復姓のうえ同年に華族に列し[68]、いずれも華族令施行後男爵家に列した[69]。他に交代寄合から菅沼定長菅沼家7000石)も明治3年1月に藩列請願書を出しているが、不許可となっており同家は華族にはなれなかった[70]

高家からは大沢基寿大沢家3550石)が高直しで1万6石になったとの諸侯昇格願いを出して認められ堀江藩を立藩することで一時的に華族に列したが、明治4年(1871年)に石高偽装が発覚したため華族から士族に降格され、当主は禁固1年に処された[71][72]。また中条信礼中条家1373石)も明治元年11月に諸侯昇格請願をしているが、不許可に終わっている[73]

一般旗本からは横田栄松横田家9500石)[74]水野貞尚水野家7233石)[75]岡田善長岡田家5300石)[76]能勢頼富能勢家4008石7斗5升2合)[77]池田頼誠池田家3000石)[78]などが維新立藩と華族編入を狙って明治元年から明治2年にかけて万石以上になったと主張する諸侯昇格願いを出しているが、全員不許可となり、士族に編入された[79]。また甲斐庄正光甲斐庄家4531石)も明治2年1月に諸侯昇格願いを出しているが、同家は他家と違い石高の多寡ではなく南朝武将楠木正成の子孫であることを理由に諸侯への昇格を求めている。直後に正光が死去し、跡を継いだ養子の正秀が諸侯昇格運動、廃藩置県後は叙爵請願運動を大正期に至るまで継続したが、系図に疑問があるとされて不許可に終わった[80]。一般旗本から維新立藩が認められて華族に列した家は存在しないものの、明治20年(1887年)5月には勲功華族として一般旗本家だった勝家勝海舟の功により)が伯爵榎本家榎本武揚の功により)と大久保家大久保一翁の功により)、山岡家山岡鉄舟の功により)が子爵赤松家赤松則良の功により)が男爵に叙されている[81]

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e f g h i j k 日本大百科全書(ニッポニカ)・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典 第2版『旗本』 - コトバンク
  2. ^ a b c d e f g h i j 竹内誠 2003, p. 52.
  3. ^ 竹内誠 2003, p. 54.
  4. ^ 笹間良彦 1999, p. 165.
  5. ^ 竹内誠 2003, p. 39.
  6. ^ 笹間良彦 1999, p. 37.
  7. ^ 笹間良彦 1999, p. 20.
  8. ^ 笹間良彦 1999, p. 26.
  9. ^ a b 笹間良彦 1999, p. 23.
  10. ^ 萩原進 1975, p. 237.
  11. ^ 笹間良彦 1999, p. 23-24.
  12. ^ a b 笹間良彦 1999, p. 28.
  13. ^ a b c 笹間良彦 1999, p. 32.
  14. ^ a b c d e 笹間良彦 1999, p. 29.
  15. ^ a b c d 笹間良彦 1999, p. 31.
  16. ^ a b 笹間良彦 1999, p. 34.
  17. ^ a b 笹間良彦 1999, p. 48.
  18. ^ a b c d e 笹間良彦 1999, p. 36.
  19. ^ 笹間良彦 1999, p. 36-37.
  20. ^ a b c d e 笹間良彦 1999, p. 38.
  21. ^ 笹間良彦 1999, p. 36/38.
  22. ^ a b c d e f 笹間良彦 1999, p. 41.
  23. ^ a b 笹間良彦 1999, p. 40.
  24. ^ a b 笹間良彦 1999, p. 42.
  25. ^ a b c 笹間良彦 1999, p. 43.
  26. ^ 笹間良彦 1999, p. 44.
  27. ^ a b 笹間良彦 1999, p. 45.
  28. ^ a b 笹間良彦 1999, p. 46.
  29. ^ 笹間良彦 1999, p. 47.
  30. ^ 笹間良彦 1999, p. 49.
  31. ^ a b c 笹間良彦 1999, p. 50.
  32. ^ a b 笹間良彦 1999, p. 51.
  33. ^ 笹間良彦 1999, p. 52.
  34. ^ 笹間良彦 1999, p. 56-57.
  35. ^ a b 笹間良彦 1999, p. 57.
  36. ^ 笹間良彦 1999, p. 58.
  37. ^ 笹間良彦 1999, p. 59.
  38. ^ a b c d 笹間良彦 1999, p. 60.
  39. ^ a b c 笹間良彦 1999, p. 62.
  40. ^ 斎藤茂 1975, p. 323.
  41. ^ 斎藤茂 1975, p. 323-324.
  42. ^ 斎藤茂 1975, p. 324.
  43. ^ a b 笹間良彦 1999, p. 62-63.
  44. ^ a b c 笹間良彦 1999, p. 64.
  45. ^ 笹間良彦 1999, p. 67.
  46. ^ a b 笹間良彦 1999, p. 71.
  47. ^ 落合弘樹 1999, p. 41.
  48. ^ a b 落合弘樹 1999, p. 42.
  49. ^ a b c d e 落合弘樹 1999, p. 43.
  50. ^ a b 原口清 & 海野福寿 1982, p. 24.
  51. ^ a b 原口清 & 海野福寿 1982, p. 25.
  52. ^ 竹内誠 2003, p. 55.
  53. ^ 原口清 & 海野福寿 1982, p. 24-25.
  54. ^ 落合弘樹 1999, p. 74.
  55. ^ a b 落合弘樹 1999, p. 47.
  56. ^ a b 落合弘樹 1999, p. 163.
  57. ^ 落合弘樹 1999, p. 146.
  58. ^ 落合弘樹 1999, p. 164.
  59. ^ 落合弘樹 1999, p. 168-169.
  60. ^ 松田敬之 2015, p. 654.
  61. ^ 松田敬之 2015, p. 86.
  62. ^ 松田敬之 2015, p. 767.
  63. ^ 松田敬之 2015, p. 83.
  64. ^ 松田敬之 2015, p. 608.
  65. ^ 松田敬之 2015, p. 762.
  66. ^ 浅見雅男 1994, p. 37-38.
  67. ^ 松田敬之 2015, p. 556-558.
  68. ^ 松田敬之 2015, p. 239.
  69. ^ 小田部雄次 2006, p. 339/341.
  70. ^ 松田敬之 2015, p. 381-382.
  71. ^ 浅見雅男 1994, p. 39.
  72. ^ 松田敬之 2015, p. 155.
  73. ^ 松田敬之 2015, p. 457.
  74. ^ 松田敬之 2015, p. 778.
  75. ^ 松田敬之 2015, p. 704.
  76. ^ 松田敬之 2015, p. 173.
  77. ^ 松田敬之 2015, p. 562.
  78. ^ 松田敬之 2015, p. 84.
  79. ^ 松田敬之 2015, p. 7.
  80. ^ 松田敬之 2015, p. 7/194-199.
  81. ^ 小田部雄次 2006, p. 39/40.

参考文献[編集]

  • 浅見雅男 『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。 
  • 落合弘樹 『秩禄処分 明治維新と武士のリストラ』中央公論新社中公新書1511〉、1999年(平成11年)。ISBN 978-4121015112 
  • 小田部雄次 『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366 
  • 斎藤茂 『赤穂義士実纂』赤穂義士実纂領布会、1975年(昭和50年)。 
  • 笹間良彦 『江戸幕府役職集成』雄山閣出版、1999年(平成11年)。ISBN 978-4639000587 
  • 竹内誠 『徳川幕府事典』東京堂出版、2003年(平成15年)。ISBN 978-4490106213 
  • 萩原進 (1975). “群馬県人” (PDF). 日本人国記 (新人物往来社). https://motojimaclinic.com/history/170531pdf/02kenjin.pdf. 
  • 原口清海野福寿 『静岡県の百年』山川出版社〈県民100年史22〉、1982年。ISBN 978-4634272200 
  • 松田敬之 『〈華族爵位〉請願人名辞典』吉川弘文館、2015年(平成27年)。ISBN 978-4642014724 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]