旧渋沢家住宅

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旧渋沢家 住宅の位置(東京都内)
旧渋沢家 住宅
旧渋沢家
住宅
位置図。

旧渋沢家住宅(きゅうしぶさわけじゅうたく)は東京都江東区潮見に所在する渋沢栄一敬三雅英らが居住した住宅[1]

かつては同区深川にあったが数度にわたり移築されており[1][2]2023年(令和5年)に青森県上北郡六戸町から江東区潮見二丁目8-20に再築された。「旧渋沢家住宅」として江東区指定有形文化財(建造物)に指定されている[2][3]。一般には旧渋沢邸とも呼ばれている[3]清水建設が所有している[2]

歴史[編集]

渋沢栄一
栄一の後継者・渋沢敬三

渋沢栄一は1876年(明治9年)4月に深川福住町(現・江東区永代2-37)に土地と家作を購入し、同年8月に転居した[1][4]。当初から改修を考えていた栄一は清水組(現・清水建設)二代目の清水喜助に依頼し、これを受けて喜助は1877年(明治10年)10月に既存の住宅とは別に木造2階建ての表座敷の建設に着手し、翌1878年(明治11年)11月に落成した[1][4]

1888年(明治21年)に栄一は後妻の兼子と共に日本橋区兜町(現・中央区日本橋兜町)に転居した。

以後は栄一と前妻の千代との間の長男(嫡男)である篤二と篤二の子供である敬三信雄智雄の住居になった[1][4]。その後、1891年(明治24年)から1900年(明治33年)頃の増改築で表座敷東側に2階建ての離れが建設された[1][4]

しかし、当時の深川は水害が多かったため、1905年(明治38年)に芝区三田綱町(現・港区三田2)に土地を購入し、1908年(明治41年)に深川福住町の建物を移築した[1][4]。大規模な増改築を伴った工事だったとされ、竣工時期は資料によって差異があるが、表座敷はほぼ原形のまま移築されたとみられる[1]

病弱な篤二に代わり、渋沢子爵家の後継者となった敬三(篤二の長男、栄一の嫡孫)は1929年(昭和4年)から1930年(昭和5年)にかけて改造を行い、表座敷を除く和館の多くが解体され、客間、書斎、食堂などを設けた洋館が増築された[1][4]。敬三の長男・雅英(のちに渋沢家当主となる)も幼少期から第二次大戦で徴兵されるまで同邸宅で過ごした[5]

栄一没後、渋沢子爵家当主を引き継いだ敬三は、第二次大戦直後の幣原内閣で大蔵大臣に就任していた。敬三は財産税の導入に当たって、1946年(昭和21年)にこの建物を国に物納した[1][4]。その後は大蔵大臣公邸や三田共用会議所などとして使用された[1][4]

敬三は物納後の1963年に死去したが、敬三の葬儀の為に政府が公邸となった旧・渋沢邸を葬儀の期間のみ敬三の長男・雅英に貸し出す事を決定したため、敬三の葬儀を生まれ育った旧・渋沢邸にて行う事が出来た[5]

そのような中で、渋沢家で執事を務め、敬三の指示で渋沢農場(青森県)に移住していた杉本行雄が建物の払い下げを願い出たことから、現状のまま保存することを条件に1991年(平成3年)に青森県上北郡六戸町古牧温泉敷地内に移築された[1][4]

2018年(平成30年)に清水建設が建物を購入して解体・移送され、部材の状態で「旧渋沢家住宅(部材)」として江東区指定有形文化財となった[1]

2023年(令和5年)に江東区潮見2-8-20において再築が完了し、文化財指定名称も「旧渋沢家住宅」に改められた(2024年1月10日に指定内容を「建造物」に変更)[2][3]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 下町文化No.289”. 江東区地域振興部文化観光課文化財係. 2024年3月7日閲覧。
  2. ^ a b c d 有形文化財(建造物)”. 江東区地域振興部文化観光課文化財係. 2024年3月7日閲覧。
  3. ^ a b c 渋沢栄一が暮らした「旧渋沢邸」、青森から東京・江東区へ里帰り…来年から一般公開を検討”. 読売新聞. 2024年3月7日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i 特別展 江東の魅力”. 公益財団法人特別区協議会. 2024年3月7日閲覧。
  5. ^ a b 父・渋沢敬三 〔6〕 / 渋沢雅英 渋沢敬三アーカイブ

関連項目[編集]

座標: 北緯35度39分36.3秒 東経139度49分11.0秒 / 北緯35.660083度 東経139.819722度 / 35.660083; 139.819722