渋沢財閥

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渋沢財閥(しぶさわざいばつ)は、渋沢栄一により設立された財閥十五大財閥の1つ。ただし、連合国軍最高司令官総司令部財閥解体を実施した時資本金は1,000万円[1]、払込金は625万円であるにすぎず[1][脚注 1]、GHQから再調査の上渋沢同族は財閥に相当せずとの通告をしてきた[2]。だが当時の当主・渋沢敬三が「それでは世間が承知せんだろう」と言ってこれを放置したため結局財閥指定を受けた[2]

概要[編集]

渋沢栄一は、1873年第一銀行(後の第一勧業銀行。現在のみずほ銀行の前身の一つ)を創設。以後500にのぼる企業の創設、育成に携わった。ただし、栄一は日本の近代化のために企業を起こして軌道に乗せることを自分の責務と考え、起業・経営によって個人的な利益を得ることを嫌った。このため、自ら設立した企業の役職を長く務めたり、大量の株式を保有して企業を支配することには関心が無かった。

とはいえ、起業した企業の成長に伴って栄一の資産は結果的に膨らむことになり、栄一の死後にそれを巡って財産争いが起こることも考えられるようになった。そのため、1891年に同族会を組織して、栄一及び一族の財産の管理・運営方法を定め、栄一が財界を完全に引退する前年の1916年持株会社である渋沢同族株式会社(資本金330万円)を設立した。これが財閥形成の契機とされている。

なお、この会社の系列企業の対する株式保有率は極端に低く、栄一の死から5年後の1936年の資料によれば中核企業である第一銀行(嫡孫で社長の渋沢敬三が常務、取締役で娘婿の明石照男頭取を務める)で2.9%[1]石川島造船所で1.9%[3]東京貯蓄銀行で16.5%、最も比率の高い澁澤倉庫でも26.2%に過ぎず、他の財閥のように発行株式の過半数を保有する企業が存在しなかった。従って、財閥としての形態は他と比べると薄く、財閥の主要要素である系列企業の支配が貫徹されていない。

1943年三井銀行と第一銀行の合併(帝国銀行となる)により中核企業を失う。

戦後の財閥解体に伴い1946年12月7日に持株会社指定を受け、翌年10月に解散した。

1948年帝国銀行が分割し旧第一銀行が独立、行名も合併前の旧名である第一銀行に復した。その後第一銀行及びその後身である第一勧業銀行を中核として渋沢財閥の流れを汲む企業が結集し第一勧銀グループが結成された[4]

2015年現在渋沢の名を残す主な企業は、澁澤倉庫のみである。

現存する渋沢財閥の流れを汲む主な企業[編集]

第一勧銀グループのメンバー[編集]

その他の企業[編集]

参考文献[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 渋沢財閥との比較のため他の財閥の資本金と払込金を記述すると、三井財閥の場合は資本金は30億円[1]、払込金は3億6,280万円にものぼり[1]三井十一家三井物産三井鉱山三井不動産帝国銀行東京芝浦電気等三井系16社の発行株式の過半数を所有していた[1]
  2. ^ みずほコーポレート銀行はみずほ銀行と合併した。但し存続会社はみずほコーポレート銀行で、合併後「みずほ銀行」に行名を変更した。
  3. ^ 前身の秩父セメントの設立に栄一が関わっている[5]。また、旧秩父小野田の合併相手となった日本セメントにも渋沢も経営支援していた。
  4. ^ 第一原子力グループのメンバー。
  5. ^ 直近の史実では日本曹達旧財閥に帰属。但し、母体としては東京製綱の資本からが源流と記念財団公式所管の史料等にある。
  6. ^ 前身の東京海上火災保険の設立に栄一が関わっている[5]
  7. ^ 前身の住友海上火災保険は栄一の関与した損害保険会社の一社、扶桑海上火災保険が母体。
  8. ^ 前身の同和火災海上保険は栄一が母体会社の設立に関わった。
  9. ^ 前身の十條製紙は栄一が設立に関わった初代王子製紙の後継会社として設立された。
  10. ^ 設立の母体は福岡の地で渋沢が設立に関与した戸畑鋳物で、日産自動車の前身企業である「自動車製造株式会社」(ダットサン)を設立したことで知られる。
  11. ^ 渋沢の資本参加した「国際通信会社」が別の国策会社と合併して国際電気通信として設立、戦後に一旦解散し半官半民で設立した旧KDD(国際電信電話)が実質的な継承会社となる。
  12. ^ 片倉製糸紡績(後の片倉工業)より旧岩代事業所を現在の日東紡に継承された。
  13. ^ 財閥の母体となった官営時代の富岡製糸場に渋沢栄一らが関与していた。片倉家による買収以降については同項を参照。
  14. ^ 旧大和紡績の設立母体の一社に渋沢が関与していた「日出紡織」がある。
  15. ^ 旧三井製糖の合併相手が渋沢が旧大日本製糖とは別に関与した台糖(旧台湾製糖)である。
  16. ^ 三菱の会社であった横浜船渠に渋沢が関与した。
  17. ^ 理化学研究所と旧山之内製薬(現アステラス製薬)の合弁で製造販売事業を継承。
  18. ^ 渋沢らが設立した日本染料製造を旧住友化学が救済合併。また、関連の住友ベークライトも化学系の発明家である高峰譲吉の影響から、住友系になる前から旧三共を母体企業として設立されていた。
  19. ^ 同社の母体となる日本初の商社先収会社に渋沢も設立関与。
  20. ^ 形式上では第一勧銀グループの一員に入るが、融資的には旧勧銀側にあったため関係は異なる。
  21. ^ 母体会社のうち、存続会社に栄一の関与した損害保険会社がある(旧帝国火災保険)。
  22. ^ 渋沢は旧社の設立に当初から関与。三菱資本の傘下に入るのは大正以降(厳密にはその5年前の明治40年頃に日本国籍として後身の旧麒麟麦酒が新設。)。
  23. ^ 渋沢の総合保険会社・明教保険会社の生保事業を継承した明教生命保険が旧帝国生命保険(後の旧朝日生命保険)に救済合併された。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f 『渋沢家三代』、248頁。
  2. ^ a b 『渋沢家三代』、249頁。
  3. ^ 『渋沢家三代』、248-249頁。
  4. ^ a b c d e f g 六大企業集団の無機能化 (PDF) - 同志社大学学術情報検索システム内のページ。筆者は経済学者田中彰
  5. ^ a b c d e f g 『渋沢家三代』、10-11頁。
  6. ^ 渋沢の関与した汽車製造事業を神戸川崎財閥の祖業である川崎造船所が救済合併。

関連項目[編集]