白石喜太郎
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白石 喜太郎(しらいし きたろう、明治20年(1887年)1月7日 - 昭和20年(1945年)7月28日)は、高知県出身の日本の実業家、計理士。第一銀行勤務の後、渋沢事務所へ転じ、約18年間、渋沢の秘書役を務めた。
生涯[編集]
誕生から第一銀行時代[編集]
明治20年(1887年)、先代喜太郎と丑の長男[1]として高知県安芸郡田野村(現・田野町)に生まれる。明治29年(1896年)先代喜太郎が病没、家督相続し、又喜を改め、襲名。[1]明治38年(1905年)、高知県立中学海南学校を卒業後、官立東京高等商業学校(高等商業学校を改称、東京高商、現・一橋大学)に入学。渋沢事務所の八十島親徳に保証人を依頼。在学中は、休暇の前後に八十島親徳を訪問し、種々教えを受ける。[2]
明治42年(1909年)、本科2年生の時、文部省の方針に反対する学園紛争(申酉事件)が起きた。5月6日、文部大臣小松原英太郎が東京高商専攻部廃止を決定したことに抗議するため、5月11日、学生大会にて全学生総退学を決議した。退学届には、保証人の調印が必要なため、八十島親徳へ調印を依頼した。喜太郎の母の依頼により保証人になったのだから、明瞭に退学を同意すれば、調印すると回答。その間も、八十島親徳らは事態収拾に奔走。中野武営、島田三郎、東京高商の商議員である渋沢栄一の調停により、文部省が原案を撤回した。5月24日、喜太郎を含む全学生は復学。[2]
明治43年(1910年)、卒業後の進路について、八十島親徳へ相談。「商事会社や工業会社は適当ではないと思うから、銀行方面に就職してはどうか」と助言を得、八十島親徳の周旋により、卒業後の7月、第一銀行(現・みずほ銀行)へ入行。入行時も八十島親徳が保証人を引きける。入行後、総支配人佐々木勇之助の面接を受ける。[2]明治44年(1910年)、八十島親徳の親友で、東京高商先輩の石井健吾が支配人に就任。新支配人歓迎会で、白虎隊の活人画を行う。明治45年(1911年)、渋沢栄一の娘婿である明石照男が入行し、割引掛で机を並べる。[2]
渋沢事務所へ[編集]
大正3年(1914年)2月、八十島親徳の自宅に呼ばれ、渋沢事務所への転勤を勧められる。「渋沢同族株式会社の設立準備のため、増田明六に加えて、もう1名を欲しい。東京高商の在学当時から、人となりを知っている」のが理由。「事前に第一銀行の同僚明石照男に相談したところ賛成とのこと。渋沢栄一の同意を得たので、第一銀行総支配人佐々木勇之助、石井健吾の了解を得た」と説明があった。「渋沢事務所へ転勤を命ず」という辞令を受け、3月20日、兜町の渋沢事務所の書斎にて、渋沢栄一と面会。[2]
大正3年(1914年)3月25日、渋沢事務所へ初出勤、八十島親徳から、数日前に事務所へ入った渋沢武之助、事務所の従業員である増田明六、上田彦次郎、鈴木勝、中野時之を紹介される。当初の担当は、信書の受付。受け付けた信書を親展書以外は開封し、用件を摘記し、秘書役の増田明六へ提出することであった。八十島親徳が諸種の記述にあたり、文案作成も用務のひとつであった。法学の大家穂積陳重に師事した八十島親徳の教えを請い、得るところがあった。我が国最初の対外通信社である国際通信社の規約作成に従事。同社は渋沢栄一らがジョン・ラッセル・ケネディ の意見を受け入れ、設立。八十島親徳が理事のため、喜太郎も用務を務めることになった。[2]
大正4年(1915年)4月、渋沢同族株式会社が設立。社長に渋沢敬三、専務に八十島親徳、取締役に明石照男、監査役に阪谷芳郎が就任。増田明六は主事、喜太郎は上田彦次郎、鈴木勝と共に書記に任用された。4月1日の辞令により、渋沢事務所員と渋沢同族株式会社社員となった。1年余り同室に机を並べた渋沢武之助が株式会社東京石川島造船所に勤務することになったため、渋沢武之助が担当していた十勝開墾合資会社の事務を引き継ぐことになった。同社の社長は、植村澄三郎、八十島親徳が業務担当社員であった。同年12月、渋沢栄一の関西・九州出張に随行し、「青淵先生西南紀行」を記す。[2]
渋沢栄一の実業界引退[編集]
大正5年(1916年)7月、渋沢栄一は、第一銀行の定時株主総会において第一銀行頭取を辞するとともに実業界から引退することを発表。帝国ホテルにて引退披露会が開催された。引き続き神戸、大阪、名古屋にて披露披露会が開催されるため、喜太郎のほかには、渋沢武之助、尾高次郎、山下亀三郎、八十島親徳、前原厳太郎が随行した。[2]
大正6年(1917年)3月、渋沢栄一は、再び神戸、大阪、奈良、京都、名古屋へ出張し、喜太郎は随行した。往路で偶然同車していた尾高次郎、蓮沼門三と歓談。神戸では、須磨の内田信也邸を訪問。奈良には、伊藤伝七、佐々木清麿、第一銀行京都支店長明石照男、大阪支店長野口弥三、神戸支店長杉田富が同行。京都では田中源太郎などと面談。名古屋ではいとう呉服店などを表敬訪問。[2]
大正6年(1917年)10月、渋沢栄一は、北越および奥羽へ出張し、喜太郎は随行した。長岡、新潟、会津若松、米沢、山形、秋田、青森、盛岡、仙台、福島の各市を訪問。「青淵先生北越及奥羽旅行」と題した随行記を著した。[2]
喜太郎が渋沢事務所へ転じてからの数年間、渋沢栄一は精力的に実業界および教育機関・社会公共事業の支援並びに民間外交を推進した。大正3年(1914年)8月16日、首相大隈重信は渋沢栄一ほか実業家を官邸に招き、第一次世界大戦への参戦を説明。同月、第一次世界大戦の影響を受け苦しんだ蚕糸業者の救済について尽力、10月には国産奨励会を組織、連合軍傷病兵救援会を設け、12月、明治神宮奉賛会の設立を計画した。同年秋ごろから翌大正4年(1915年)、東京市内に電灯及び電力を供給している東京市電気局・東京電灯株式会社及び日本電灯株式会社の統一に尽力。同年3月、蚕糸業者救済のため、帝国蚕糸会社の設立に努め、4月、サンフランシスコで開かれるパナマ太平洋万国博覧会に気勢を添えるため、観覧協会を組織。7月、日本郵船会社と東洋汽船会社との合併につき調停を行い、同月、中国広東水害救援に尽力した。大正5年(1916年)2月、日米関係委員会を組織、8月、東洋製鉄会社を発起し、10月、理化学研究所の創立に着手した。大正6年(1917年)1月、連合国傷病兵罹災者訪問会を設立、5月、日本郵船会社の紛擾を調停し、8月米国鉄材禁輸解除につき努力し、9月、早稲田大学維持員となり、10月、東京風水害救済会を設立し、11月、天津水害義助会を設立した。[2]
これに加えて、訪米、訪中、前述を含む国内出張を試みたのみならず、来日外国要人との接遇を務めた。渋沢栄一の精力的な活動に伴い、八十島親徳、増田明六はもとより渋沢事務所は極めて多忙な日々を送った。大正8年(1919年)秋、神田乃武の推薦により、小畑久五郎が渋沢栄一の英文秘書役と日米関係委員会幹事として、渋沢事務所に参加。この間、八十島親徳、増田明六は他の会社にも顔を出すようになり、渋沢事務所の繁忙に拍車がかかった。[2]大正9年(1920年)3月18日、学生時代からの恩人である八十島親徳が病没。八十島親徳の没後、増田明六は一層多忙になり、渋沢栄一の秘書役よりも渋沢同族株式会社の事務に時間を割かれ、取締役に選任されてからは更に繁劇となった。喜太郎は、渋沢栄一の秘書役となった。同年6月、第一銀行福岡支店支配人であった渡辺得男が渋沢同族株式会社に転じ、7月の株主総会で取締役に選任された。[2]
関東大震災[編集]
大正12年(1923年)9月1日、関東大震災が発生した時、渋沢栄一は渋沢事務所にいた。喜太郎が、渋沢栄一の命により日本工業倶楽部書記長の喜多貞吉と電話中に第一震があった。その後、本震があり、喜太郎の背後にある大金庫が大音響とともに倒れ掛かってきたが、間一髪で逃れた。渡辺得男とともに渋沢栄一の個室へ駆けつけたところ、渋沢栄一は、たまたま同室していた増田明六に助けられたところであった。上田彦次郎の没後、第一銀行から転じて用度掛を担当していた井田善之助も渋沢栄一らに合流し、前庭へ脱出。第一銀行へ避難した後、渋沢栄一は自動車で飛鳥山邸へ向かった。喜太郎は、小石川区駕籠町の自宅に徒歩で向かった。地震により発生した火災により、渋沢事務所や第一銀行も焼け、下町全部は焦土となった。翌日、飛鳥山邸に集まったのは、喜太郎のほかは、渡辺得男と井田善之助に限られ、残りの事務所員の消息は不明であった。当面は、飛鳥山邸に事務所を移し、青淵文庫の閲覧室をこれに充てると決まった。9月3日、渋沢栄一の命により、自動車で渋沢事務所の焼け跡を視察した。5日、渋沢事務所の全員が無事であることが判明。10日に古河合名会社内に渋沢事務所を移した。この前後、渋沢栄一は内務大臣後藤新平の求めにより、協調会を通じて罹災者支援を開始する。9日には大震災善後会を発足させた。渋沢栄一が後藤新平を訪問する際、喜太郎は随行する。[2] [3]
渋沢栄一の晩年[編集]
大正15年(1926年)4月、渋沢栄一の娘婿である枢密院議長穂積陳重男爵が生涯を閉じた。阪谷芳郎男爵が渋沢栄一近親の年長者となり、数多い渋沢栄一の事業と健康をいかに調和させるか配慮することになった。「常時病気であるつもりで、具体的には37~8度の発熱ある心得で」のモットーに基づき、秘書役の喜太郎は、渋沢栄一の日々のプログラムを編成することになった。昭和4年(1929年)夏、喜太郎が渋沢事務所に入ってから十数年間机を並べた増田明六が病没した。[2]
同年晩秋、経済知識社社長の後藤登喜男から渋沢栄一の自叙伝編述について相談された。かねて喜太郎が書きかけていた草稿のことを漏らしたところ、経済雑誌「経済知識」に「人間渋沢栄一」と題した連載を行うことになった。しかし、渋沢栄一の余りに側近く仕える者が筆者として名を著すことを勘案し、「和泉清」のペンネームにすることになった。昭和5年(1930年)1月号から連載が開始された。後藤登喜男から同誌を贈られた渋沢栄一も読んだ。号を重ね、叙述が進むにつれ、渋沢栄一は次第に興味を覚え、思いのほかに事実を詳しく知っている筆者が何者か確かめようとした。まず喜太郎に質問したが、匿名にした趣旨に従い、明瞭な回答は避けた。その後、渋沢栄一は、各種方面から調べたようだが、ついには明石照男に調べさせた。後藤登喜男は明石照男に問い詰められ、ついに事情を明かすことになった。明石照男の報告により、一層興味を深めた渋沢栄一は、校閲のため初めから読み返し、記述の不備などを喜太郎に指摘した。この時は、昭和になってから渋沢事務所に入った佐治祐吉に記事を読み上げさせた。[2]
昭和5年(1930年)秋、江口定條を勅選議員にするため、渋沢栄一は濱口雄幸首相を訪問した。また、書状を喜太郎に届けさせた。首相は多忙なため、秘書官であり、海南学校同窓の中島弥団次に託した。昭和6年(1931年)1月、渋沢栄一は、第一銀行の定時株主総会に出席。佐々木勇之助が頭取を辞し、石井健吾が頭取に就任する記念すべき会であった。同年10月に入り、渋沢栄一は体調を崩し、14日に手術を受けた。手術時から渡辺得男と喜太郎は交替で宿直を務めた。11月11日、渋沢栄一は没した。[2]
渋沢敬三が同族会社社長へ [編集]
渋沢栄一の没後は渋沢敬三に仕え、関連会社・団体の役員を務めた。昭和20年(1945年)7月28日、病気療養先の神奈川県箱根仙石原にて死去[4]。
家族[編集]
- 父・喜太郎(先代)
- 母・丑
- 姉・正榮
- 妻・辰(多津子)
1901年(明治34年)6月生まれ、東京、中川清太郎四女。東京府立第一高等女学校出身。
- 長女・喜久子
- 次女・喜美子
1926年(大正15年)9月生まれ。
- 長男・喜一郎
- 次男・喜義
1932年(昭和7年)4月生まれ。
- 三男・喜男
1934年(昭和9年)7月生まれ。
- 四男・喜昭
1937年(昭和12年)12月生まれ。
歴任した役職[編集]
- 渋沢同族株式会社 専務取締役[5]
- 魚介養殖株式会社 代表取締役社長[1]
- 上北農林株式会社 代表取締役社長[1]
- 東京貯蓄銀行株式会社 監査役[1]
- 沖電気株式会社 監査役[1]
- 仙石原地所株式会社 監査役[1]
- 品川白煉瓦株式会社 監査役[1]
- 沖電気証券株式会社 監査役[1]
- 東京帽子株式会社 監査役[1]
- 東京帽子販売株式会社 監査役[1]
- 日新護謨株式会社 監査役[6]
- 日本醋酸製造株式会社 監査役[1]
- 飯塚鐵鑛株式会社 監査役[1]
- 箱根温泉供給株式会社 取締役[1]
- 西武農蚕倉庫株式会社 監査役[1]
- 社団法人如水会 理事[4]
- 財団法人龍門社 常務理事[4]
- 公爵徳川家 会計監督[4]
著書[編集]
- 渋沢栄一翁(刀江書房、1933年/国書刊行会(4分冊)、2020-21年) 「和泉清」のペンネームで経済雑誌「経済知識」に「人間渋沢栄一」で連載した記事をもとに、渋沢栄一没後に出版。連載を読み、筆者を知るところになった渋沢栄一自身が添削した伝記である[7][8]。
- 渋沢翁の面影(四条書房、1934年)[9]
- 渋沢翁と青淵百話(日本放送出版協会「ラヂオ新書」、1940年)
渋沢事務所関係人物[編集]
- 渋沢秀雄 (渋沢栄一の四男 渋沢栄一翁(刀江書院、1933)の装幀を担当)
- 渋沢敬三 (渋沢同族株式会社社長[10]、子爵、日本銀行総裁、大蔵大臣)
- 増田明六 (渋沢同族株式会社専務取締役[11]、日新護謨株式会社取締役)
- 明石照男 (渋沢同族株式会社取締役[10]、第一銀行頭取)
- 阪谷芳郎 (渋沢同族株式会社監査役[10]、子爵、大蔵大臣)
- 渋沢武之助 (渋沢同族株式会社監査役[10])
- 渡辺得男 (渋沢同族株式会社取締役[10]、大日本麦酒常務)
- 井田善之助 (渋沢同族株式会社主事[5]、渋沢事務所庶務課長)
- 鈴木勝 (渋沢事務所会計課長)[4]
- 小畑久五郎 (渋沢事務所通訳)[4]
- 中野時之 (渋沢事務所)[4]
- 戸塚保吉 (渋沢事務所)[4]
- 小川功暉 (渋沢事務所)[4]
- 高田利吉 (渋沢事務所)[4]
- 杉本行雄 (渋沢事務所給仕、渋沢敬三秘書、十和田開発社長)[4]
関連人物[編集]
- 後藤登喜男 (経済雑誌「経済知識」を創刊)
- 武井大助 (東京高等商業学校同窓、海軍主計大佐)
- 久我貞三郎(東京高等商業学校同窓、三菱商事パリ支店長)
- 小平省三 (東京高等商業学校同窓、第一銀行常務)
- 森村謙三 (東京高等商業学校同窓、森村同族監査役)
- 内田敬三 (東京高等商業学校同窓、内田醤油社長、興中公司取締役)
脚注[編集]
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『人事興信所第14版上』人事興信所、1943年、シの部105頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『渋沢翁の面影』四条書房、1934年、3-6頁。
- ^ “渋沢栄一と関東大震災”. 渋沢史料館. 2021年2月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k 『白石辰の生涯』紀伊國屋書店、1992年。
- ^ a b 『帝国銀行会社要録. 昭和18年(31版)』帝国興信所、1943年、118頁。
- ^ “白石喜太郞 (第8版) - 『人事興信録』データベース”. jahis.law.nagoya-u.ac.jp. 2021年2月14日閲覧。
- ^ 『渋沢栄一92年の生涯春の巻』国書刊行会、2020年、5,9,332。
- ^ “情報資源センター・ブログ”. 公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センター. 2021年2月18日閲覧。
- ^ “情報資源センター・ブログ”. 公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センター. 2021年2月18日閲覧。
- ^ a b c d e 『帝国銀行会社要録. 第23版(昭和10年)』帝国興信所、1935年、422頁。
- ^ 『帝国銀行会社要録 : 附・職員録. 大正13年度(第12版)』帝国興信所、1924年、404頁。
参考文献[編集]
- 人事興信録データベース 第8版 昭和3(1928)年7月(名古屋大学)
- 人事興信録 第14版 人事興信所 編 1943年 国立国会図書館書誌ID 000000850499
- 全國主要銀行會社職員録 交詢社 編 1934年 国立国会図書館書誌ID 000000767408
- 白石辰の生涯 : 明治・大正・昭和・平成を生きた女 白石辰追悼出版記念会 著 紀伊国屋書店 1992年 国立国会図書館書誌ID 000002173384