高峰譲吉

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高峰 譲吉
(たかみね じょうきち)
Jokichi Takamine.jpg
生誕 1854年12月22日
嘉永7年11月3日
日本の旗 日本 越中国高岡(現・富山県高岡市
死没 (1922-07-22) 1922年7月22日(満67歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ ニューヨーク
居住 日本の旗 日本
国籍 日本の旗 日本
研究機関 東京人造肥料会社
三共株式会社
出身校 工部大学校
主な業績 タカヂアスターゼアドレナリンの発明
主な受賞歴 帝国学士院賞1912年
正四位勲三等瑞宝章1922年
プロジェクト:人物伝

高峰 譲吉(たかみね じょうきち、嘉永7年11月3日1854年12月22日) - 大正11年(1922年7月22日)は、日本の科学者実業家工学博士薬学博士タカジアスターゼアドレナリンを発明し、アメリカ合衆国で巨万の財を成した[1]三共創業者。現在の富山県高岡市生まれ。現在の東京大学工学部の前身の一つである工部大学校卒。理化学研究所の設立者の一人。1912年帝国学士院賞受賞、1913年帝国学士院会員。

経歴[編集]

幼少からアメリカ永住まで[編集]

1854年越中国高岡(現・富山県高岡市)の山町筋と呼ばれる御馬出町(おんまだしまち)の漢方医高峰精一の長男として生まれる。翌年、父の学問所「壮猶館」の勤務のため加賀国金沢城下の梅本町(現・石川県金沢市梅本町)へ移住。幼い頃から外国語と科学への才能を見せ、加賀藩御典医であった父からも西洋科学への探求を薦められた。母は造り酒屋(鶴来屋)津田家(塩屋弥右衛門)の娘で名を幸子(ゆき)と言う、後年の清酒醸造のの改良にも繋がっている。

1865年慶応元年)、12歳で加賀藩から選ばれて長崎に留学し海外の科学に触れたのを最初に、1868年(明治元年)、京都兵学塾大阪緒方塾(適塾)に入学、翌年16歳のとき大阪医学校、大阪舎密(せいみ)学校に学ぶ。工部大学校(後の東京大学工学部)応用化学科を首席で卒業。

1880年から英国グラスゴー大学への3年間の留学を経て、農商務省に入省。1884年アメリカニューオリンズで開かれた万国工業博覧会に事務官として派遣され、そこで出会ったキャロライン・ヒッチと婚約。博覧会取材のラフカディオ・ハーン に会う。帰国後の1886年専売特許局局長代理となり、欧米視察中の局長高橋是清の留守を預かって特許制度の整備に尽力。1887年に結婚[2]1890年に渡米しアメリカへ永住することになる。

研究とビジネス[編集]

1886年、東京人造肥料会社(後の日産化学)を設立。会社が軌道に乗り始めた折、かねてより米国で特許出願中であった「高峰式元麹改良法」(ウイスキーの醸造に日本のを使用しようというもので、従来の麦芽から作ったモルトよりも強力なでんぷんの分解力を持っていた)を採用したいというアメリカの酒造会社より連絡があり、1890年に渡米する。東京人造肥料会社の株主であった渋沢栄一に渡米を止めるように言われ、譲吉は当初渡米を渋っていたが、益田孝の強い勧めもあって、渡米を決意する。渡米後、木造の研究所をこしらえ研究を続けるが、麹を利用した醸造法が採用されたことでモルト職人が儲からなくなり怒りを買うが、新しい醸造工場にモルト職人を従来より高い賃金で雇うことで和解した。しかし、モルト工場に巨額の費用をつぎ込んでいた醸造所の所有者達が、譲吉の新しい醸造法を止めようと、夜間に譲吉、キャロライン夫妻の家に武装して侵入し、譲吉の暗殺を試みた。その時譲吉は隠れていたので見つからず、そのまま醸造所の所有者たちは譲吉の研究所に侵入、結局譲吉を発見できなかった所有者たちは、研究所に火を放って研究所を全焼させた。

1894年、デンプンを分解する酵素、いわゆるアミラーゼの一種であるジアスターゼを植物から抽出し「タカジアスターゼ」を発明する。タカジアスターゼは消化薬として非常に有名となった。

譲吉が最初に居住したシカゴは当時アメリカでも有数の肉製品の産地で多数の食肉処理場が存在していた。この時廃棄される家畜の内臓物を用いてアドレナリンの抽出研究をはじめ、1900年に結晶抽出に成功。世界ではじめてホルモンを抽出した例となった。アドレナリンは止血剤としてあらゆる手術に用いられ、医学の発展に大きく貢献した。

1912年には帝国学士院賞を受賞している。1913年6月26日、帝国学士院会員となる[3]。同年、日本における「タカジアスターゼ」の独占販売権を持つ三共(現在の第一三共)の初代社長に就任する。

また、アメリカの会社のアルミニウム製造技術と原料を使い、富山県黒部川の電源開発による電気を利用した日本初のアルミニウム製造事業の推進に取り組み、1919年高峰譲吉らによって 東洋アルミナムを設立。アルミ精錬に必要な電源確保のため黒部川に発電所を建設することになり、その資材輸送手段として鉄道建設も計画し黒部鉄道を設立、1921年鉄道免許状が下付された。また宇奈月温泉の礎となった黒部温泉株式会社や、黒部水力株式会社を立ち上げている。

1922年7月22日、腎臓炎のためニューヨークにて死去[4]。日本人は帰化不能とされていたため、当時の移民法により生涯アメリカの市民権は得られなかった[5]。また黒部鉄道の開業が同年11月5日だったため、目にすることは叶わなかった[6]

栄典[編集]

家族[編集]

  • 父・高峰精一(1827-1900)
  • 母・津田幸子(1835-1894)
  • 妻・キャロライン・ヒッチ(Caroline Field Hitch, 1866-1954)- ファルマス (マサチューセッツ州)で生まれ、ルイジアナ州ニューオーリンズで育つ[9]。父親は南北戦争の北軍義勇兵として歩兵隊長を務めたのち、税務局勤務 書店員、部屋貸しなどをしていた[10][11]。母親はクレオール[12]。アメリカがイギリスに綿を初めて輸出した百周年を記念して1884年にニューオーリンズで開催された博覧会World Cotton Centennial で譲吉と知り合う。ヒッチ家で開かれた若い博覧会スタッフの打ち上げパーティに譲吉が出席したことが縁とも[13]、譲吉がヒッチ家に下宿したとも言われる[9]。1887年にニューオーリンズで結婚[13]。キャロラインの母は高峰がアメリカに設立したジアスターゼ製造会社の初代社長に就任、以降キャロラインの両親が高峰の事業の重役を務める[13]。譲吉没後、キャロラインは地所を処分し、1926年にアリゾナのランチハンド(牧場労働者、カーボーイ)だった歳若いチャールズ・ビーチ(Charles Pablo Beach、1889-1967、カンザス生まれカルフォリニア育ち。アリゾナ大学農学部卒)と再婚、農場を次々と購入し大牧場主となった(所有地はキャロライン没後1956年に夫により売却)[14][15][16]。1935年に農場で働くメキシコ人労働者のために地元の町Valiにカトリック教会「Santa Rita in the Desert」を建設、のちにキャロライン、チャールズとも同教会で葬られた[17]。キャロラインの妹(Marie Morel Septima Hitch)の夫(Henry George Jr.)と、ウィリアム・C・デミルの妻(Anna Angela de Mille)はともにヘンリー・ジョージの子であるため、高峰家とデミル家は親戚にあたる[18][19][20]
  • 長男・譲吉II(Jokichi Jr., 1888-1930)[21] - 名門ホレース・マン・スクールイエール大学卒業後、ドイツに化学留学、パリパスツール研究所でも学ぶ[22]。帰国後父の会社で働き、1915年に引退した父親に代わり代表となる[22]。Hilda Petrie(スコットランドとノルウェーの混血)と結婚し、2人の子をもうける[22]。父親の没後、全事業を引き継いだが、41歳でニューヨークのルーズベルト・ホテルの14階から転落死した[22]。母キャロラインは高峰が発明した麹によるウィスキー醸造の反対派による殺人と断定したが(以前にも放火され会社が全焼している)、公式発表では飲酒による事故死とされた[22]
  • 次男・エーベン・孝(Ebenezer Takashi, 1890-1953)[21] - イエール大学卒業。1916年にEthel Johnsonと結婚。披露宴はニューヨークの社交クラブコスモポリタン・クラブで400人を招いて盛大に行われたが、1925年に離婚[23]。健康のためアリゾナに移住し、のちに母親の再婚相手となるチャールズ・ビーチと同居していた[17](キャロラインとの離婚を望んでいた父の譲吉は日本にいることが多く、エーベンは孤独な母のために若い友人をよく紹介しており、ピーチもその一人だった[24])。1928年にジーグフェルド・フォリーに出演していたショーガールのOdette Jeanと駆け落ちし結婚[22]。兄没後事業を引き継ぎ、さらに発展させた[22]。日本生まれだったためアメリカの市民権が得られず第二次大戦勃発で財産没収の可能性があったが特例で許され、ペニシリン製造などでアメリカ軍を支援した[22]。1943年にイギリス女性Catherine MacMahonと結婚。エーベン没後、妻が事業を売却し、財産は散逸したが、寄付により、サンフランシスコゴールデンゲート公園高峰庭園が造られた[22][25]
  • 孫・ジョーキチ・タカミネIII( Jokichi “Joe” Takamine III, 1924- 2013) - 5歳で父である二代目譲吉を亡くし、母方で育つ。マサチューセッツ州のウイリアムス・カレッジ (Williams College) とニューヨーク大学医学部を卒業後、ニューヨークとロサンゼルスの病院勤務を経て、1957年に開業。1974年に仲間とセント・ジョンズ化学物質依存症治療センターを立ち上げ、アルコール中毒と薬物依存症の分野での指導的な役割を果たした[26]

評価と志を継ぐ事業[編集]

生涯に亘り科学者、かつ企業人として、数々の国際的業績をあげてその生涯を全うした。1922年譲吉没後、正四位勲三等瑞宝章を授与。また、「ニューヨークタイムズ」は「光輝ある故高峰博士」と題した社説を掲載し、譲吉の業績を大きく称えた。

高峰譲吉博士顕彰会[編集]

金沢ふるさと偉人館に立つ高峰譲吉像

1950年昭和25年)、高峰譲吉博士顕彰会が金沢市に結成され、1952年高峰賞を制定し、在米高峰家拠出の奨学金により10年間、その後更に10年間は在米マイルス製薬会社の高峰研究所取締役L.A.アンダーコフラー博士に引き継がれ、現在は顕彰会の事業費とも三共からの交付金と金沢市の補助金をもって賄っている。個人賞である高峰賞は地元の優れた学生の勉学を助成し、2006年度(第56回)までの受賞者は742名にのぼり各界で活躍している。

107年目の名誉回復、2006年4月[編集]

アドレナリン1900年に高峰譲吉と助手の上中啓三がウシの副腎から世界で初めて結晶化した。一方、エピネフリン抽出をした米国研究者が高峰譲吉は研究上の盗作を行ったと、事実誤認の非難をした事も災いし、また高峰譲吉は醸造学者であり薬学での業績が少なかったことなどの経緯もあり、ヨーロッパではアドレナリンと呼ばれる薬は日本と米国では、副腎髄質ホルモン「エピネフリン」と長らく呼ばれてきた。

しかし、高峰譲吉の業績に詳しくその著書もある菅野富夫北海道大学名誉教授)らが、日本は発見者高峰譲吉の母国であり、「エピネフリン」に代わり正式にアドレナリンの呼称として欲しいとの厚生労働省への要望が実り、2006年(平成18年)4月、107年目の名誉回復として、日本国内では晴れて「アドレナリン」と呼ばれる事となった。アドレナリンの発見およびエピネフリン参照。

その他[編集]

  • ワシントンD.C.ポトマック川にある美しい並木は、1912年に東京市が寄贈したが、高峰譲吉は寄贈の計画発案当初から参画、尾崎行雄東京市長らとともに実現に大きな役割を果たした。今日では寄贈を記念して毎年全米桜祭りが行われている。
  • 1905年にはニューヨークに日系アメリカ人と日本人のための紳士クラブ「Nippon Club」を設立した。
  • 菩提寺は金沢市寺町5丁目にある臨済宗国泰寺である。塀の瓦に高峰家の家紋「八ツ矢車」が彫られている。譲吉自身は亡くなる前に病床でカトリックに改宗した[17]
  • 金沢市梅本町(現在の大手町)にあった実家の離れが丸の内の黒門前緑地に移築されている。
  • 高峰譲吉は後に、生誕の地である自らの土地を高岡市に寄付、同市では生家跡を現在「高峰公園」として整備し顕彰碑と胸像が建つ。毎年同日時 生誕祭が行われている。

脚注[編集]

  1. ^ 「松楓殿」今昔NPO法人高峰譲吉博士研究会、
  2. ^ キャロラインはアメリカ滞在中に譲吉が肝臓病の再発で倒れた時にイリノイ州ピオリアの自宅そばを通る汽車を止めて、大病院のあるシカゴまで運んでもらったことが有名。
  3. ^ 『官報』第273号、大正2年6月27日(国立国会図書館デジタル化資料)
  4. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)166頁
  5. ^ Jokichi Takamine (1854-1922) and Caroline Hitch Takamine (1866-1954), p12
  6. ^ 「越中エル・ドラド(黄金郷) ふるさとの歴史秘話-8- 高峰譲吉が造った黒部鉄道」北日本新聞 2014年8月28日13面
  7. ^ 『官報』第6838号「叙任及辞令」1906年4月19日。
  8. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1915年11月10日。
  9. ^ a b ゆかりの人‥‥キャロライン・高峰NPO法人高峰譲吉博士研究会
  10. ^ Ebenezer Vose HitchMikeHitch.com
  11. ^ Jokichi Takamine (1854-1922) and Caroline Hitch Takamine (1866-1954) , p10, 24, 225
  12. ^ Jokichi Takamine (1854-1922) and Caroline Hitch Takamine (1866-1954), p181
  13. ^ a b c Jokichi Takamine (1854-1922) and Caroline Hitch Takamine (1866-1954) William Shurtleff, Akiko Aoyagi, Soyinfo Center, 2012, p174
  14. ^ Caroline Field HitchMikeHitch.com
  15. ^ Caroline Fields BeachGeni
  16. ^ Jokichi Takamine (1854-1922) and Caroline Hitch Takamine (1866-1954) By William Shurtleff, Akiko Aoyagi, p12, 100, 152, 248
  17. ^ a b c Vail and Colossal Cave Mountain Park By Sharon E. HuntArcadia Publishing, 2007, p103
  18. ^ 活動の王國ハリーウツド『あめりか写真紀行』北尾鐐之助 著 (大阪毎日新聞社[ほか], 1926)、p89
  19. ^ Marie Morel Septima HitchMikeHitch.com
  20. ^ Henry GeorgeGeni
  21. ^ a b Jokichi TakamineGeni
  22. ^ a b c d e f g h i THE GREAT UNKNOWN AND THE UNKNOWN GREAT: The Takamine family’s three generations of marvels in health scienceNichi-Bei, October 17, 2013
  23. ^ Jokichi Takamine (1854-1922) and Caroline Hitch Takamine (1866-1954) By William Shurtleff, Akiko Aoyagi, p131
  24. ^ Jokichi Takamine (1854-1922) and Caroline Hitch Takamine (1866-1954), p175
  25. ^ Strybing Arboretum and Botanical GardensJapanese Garden Research Network, Inc.
  26. ^ 高峰夫妻の一人の孫が逝去NPO法人高峰譲吉博士研究会

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]