高峰譲吉
高峰 譲吉 (たかみね じょうきち) | |
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| 生誕 |
1854年12月22日 (嘉永7年11月3日) 越中国高岡(現:富山県高岡市) |
| 死没 |
1922年7月22日(67歳没) ニューヨーク州ニューヨーク |
| 居住 |
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| 国籍 |
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| 研究機関 |
東京人造肥料会社 三共株式会社 |
| 出身校 | 工部大学校 |
| 主な業績 | タカヂアスターゼ、アドレナリンの発明 |
| 主な受賞歴 |
帝国学士院賞(1912年) 正四位・勲三等瑞宝章(1922年) |
| プロジェクト:人物伝 | |
高峰 譲吉(たかみね じょうきち、嘉永7年11月3日[注釈 1](1854年12月22日) - 大正11年(1922年)7月22日)は、日本の化学者、実業家。工学博士号と薬学博士号を受ける。タカジアスターゼ、アドレナリンを発見し、アメリカ合衆国で巨万の財を成した[3]。日本人による開発型ベンチャー企業やスタートアップの先駆者とされる。理化学研究所の設立者の一人。1912年帝国学士院賞受賞、1913年帝国学士院会員。
経歴
[編集]幼少からアメリカ永住まで
[編集]1854年に越中国高岡(現:富山県高岡市)の山町筋と呼ばれる御馬出町(おんまだしまち)の漢方医高峰精一の長男として生まれる。翌年、父が洋学校「壮猶館」教授に登用されるに伴い加賀国金沢城下の梅本町(現:石川県金沢市大手町)へ移住。幼い頃から外国語と科学への才能を見せ、加賀藩の御典医であった父からも西洋科学への探求を薦められた。母は造り酒屋(鶴来屋)津田家(塩屋弥右衛門)の娘で名を幸子(ゆき)と言う、後年の清酒醸造の麹の改良にも繋がっている。
1865年(慶応元年)、12歳で加賀藩から長崎留学生に抜擢され、英語を学ぶ。1868年(明治元年)には、京都の安達兵学塾、大阪の適塾に転学、翌年には大阪医学校、さらに大阪舎密局にて化学を学んだ。1872年(明治5年)に上京して勧工寮技術見習、1874年には工部省工学寮(のち工部大学校に改称)に第一期生として入学、1879年に工部大学校化学科(現・東京大学工学部応用化学科)を首席で卒業した。
1880年から英国グラスゴー大学への3年間の留学を経て、農商務省に入省。1884年にアメリカ合衆国ニューオリンズで開かれた万国工業博覧会に事務官として派遣され、そこで出会ったキャロライン・ヒッチと婚約。博覧会取材のラフカディオ・ハーンに会う。
帰国後の1886年、専売特許局局長代理となり、欧米視察中の局長・高橋是清の留守を預かって特許制度の整備に尽力。1887年に結婚[注釈 2]、やがて1890年に渡米したのちは永住する。
研究とビジネス
[編集]
1886年、東京人造肥料会社(後の日産化学)を設立[4]。高峰は政府派遣員3人のリーダーとしてニューオーリンズ産業万国博覧会の日本展示館に赴いた期間にリン鉱石を買い付け、1884年に持ち帰った。
当時、日本の農業改良をめぐり井上馨と論じていた三井財閥大番頭の益田孝は北海道に硫黄を産する山を持っており、リン鉱石を硫酸に溶かすと過リン酸石灰を得て肥料に使えると聞き、益田から渋沢栄一に紹介を受けた高峰は肥料の生産にこぎつけた。
過リン酸石灰は酸性の火山灰土に効果が高く、関東から東北地方で良く売れた。肥料には窒素も需要が見込めることから、全国から原料となる女性の髪の毛や屠殺場の廃棄物(血液残渣や臓器)、さらに動物性繊維のモスリンや羅紗などを買い集めると、硫酸で煮て窒素分を取り出し[注釈 3]、高峰はそれに過リン酸石灰を混合して「完全肥料」として売り出した。
なお米国からリン鉱石を輸入すると原料費が高くつき、後には[いつ?]日本とオーストラリアの間に位置する「オーシャン島」(現・バナバ島)から調達した[注釈 4]。
会社が軌道に乗り始めた折、かねてよりアメリカの特許を出願中であった「高峰式元麹改良法」[注釈 5]を採用したいという現地の酒造会社より打診された当初、高峰は東京人造肥料会社の株主でもあった渋沢に止められて渡航を渋ったが益田孝の強い勧めを受け、1890年にアメリカに着くと、木造の研究所をこしらえて研究を続ける[要出典]。
ところが麹を利用した醸造法が採用されると収入が減ったモルト職人の怒りを買ってしまい、その人々を新しい醸造工場で雇い入れて従来より賃金をあげる交渉が成り立ち、いったんは和解した。しかし、モルト製造工場に巨額の費用をつぎ込んでいた醸造所の所有者達の反発は収まらず、高峰の醸造をやめさせようと暗殺を企て、夜間に譲吉とキャロライン夫妻の家に武装して押し入った。その時、高峰は身を隠して難を逃れたものの、侵入者は研究所に侵入して放火し、全焼させた。

1894年、高峰はデンプンを分解する酵素、いわゆるアミラーゼの一種であるジアスターゼを植物から抽出し「タカジアスターゼ」を発見する。タカジアスターゼは消化酵素として非常に有名となった。
高峰が最初に居住したシカゴは当時、アメリカでも有数の肉製品の産地で多数の食肉処理場が存在して、家畜の内臓ほかを廃棄していた。高峰は産業廃棄物の内臓ほかを用いてアドレナリンの抽出研究をはじめ、1900年に結晶抽出に成功[6]。世界で初めてホルモンを抽出した例となった。アドレナリンはアナフィラキーショック治療や昇圧剤、止血剤として用いられ、医学の発展に大きく貢献した。
日本の学位令(勅令)に基づき、高峰は1899年に工学博士号[9]を、1906年には薬学博士号[10]を文部大臣より授与された。さらに1912年にはアドレナリン発見の功績から帝国学士院賞を受賞し[11]、1913年6月26日、帝国学士院会員となる[12]。同年、日本における「タカジアスターゼ」の独占販売権を持つ三共(現在の第一三共)の初代社長に就任する。
また、日本初のアルミニウム製造事業に取り組んだ際はアメリカ企業のアルミニウム製造技術を援用して原料を取り寄せると、富山県黒部川の電源開発による電力を活用して事業を推進して、1919年、高峰らは東洋アルミナムを設立した。
アルミ精錬に取り組む高峰は、電源確保のため黒部川に発電所建設が決まると、その資材を輸送する鉄道建設を計画して黒部鉄道を起こし、1921年に鉄道免許状を下付された。また傘下の黒部温泉株式会社は宇奈月温泉の礎となり、同じく黒部水力株式会社も立ち上げている。
無冠の大使
[編集]1904年の日露戦争中、日本はアメリカのセントルイス万国博覧会に日本式の建物「日本館」を出展、しかし終了後、解体して日本に送り返す資金がなく、高峰が譲り受け、ニューヨーク近郊の別荘地メリーウォルド・パークに移築[13]。その際、日本から洋画家牧野克次を招き、室内装飾を依頼、これは後に「松楓殿(しょうふうでん)」と名付けられ、日米の政界・財界の要人のサロンとなった[13]。「松楓殿」について、所有者から高峰の生誕地の高岡へ寄付したいとの申し出もあり、2020年より高岡商工ビル1階ロビーで一部が再現公開されたりもしている[14]。
1905年、在留邦人の連帯とアメリカ人との交流のため、高峰はニューヨークに日本倶楽部(現・日本クラブ)を組織、初代会長となる。1907年には、日米間の文化交流と親善を目的とした日本協会 (ジャパン・ソサエティー)が創設される。ニューヨークの親日派財界人が中心となったこの協会で、高峰は名誉副会長に就任する。日本を紹介する 英文雑誌“The Oriental Economic Review(東洋経済評論)”を発刊。 1912年、日本から桜の苗木を取り寄せてニューヨーク市に寄贈、苗木はハドソン河畔に植樹されサクラ・パークとなった。同時期にワシントンのポトマック河畔に寄贈された桜も、東京市からの寄贈となっているが、高峰も尽力している。両所は現在も桜の名所となっている[15]。
これらの功績から、高峰を「無冠の大使」と呼ぶこともある。
死去
[編集]1922年7月22日、腎臓炎のためニューヨークにて死去[16]。日本人は帰化不可とされていたため、当時の移民法により生涯アメリカの市民権は得られなかった[17]。また黒部鉄道の開業は同年11月5日だったため、目にすることは叶わなかった[18]。墓所は青山霊園(1ロ15-3)とニューヨークブロンクスのウッドローン墓地にある。
栄典
[編集]家族
[編集]- 父・高峰精一 (1827-1900)
- 母・津田幸子 (1835-1894)
- 弟・藤井栄三郎 (1865-1949) - 貨幣収集家。東洋貨幣協会副会長を務めた[22]。
- 妻・キャロライン・ヒッチ (Caroline Field Hitch, 1866-1954) - ファルマス (マサチューセッツ州)で生まれ、ルイジアナ州ニューオーリンズで育つ[23]。父親は南北戦争の北軍義勇兵として歩兵隊長を務めたのち、税務局勤務 書店員、部屋貸しなどをしていた[24][25]。母親はクレオール[26]。アメリカがイギリスに綿を初めて輸出した百周年を記念して1884年にニューオーリンズで開催された博覧会World Cotton Centennial で譲吉と知り合う。ヒッチ家で開かれた若い博覧会スタッフの打ち上げパーティに譲吉が出席したことが縁とも[27]、譲吉がヒッチ家に下宿したとも言われる[23]。1887年にニューオーリンズで結婚[27]。キャロラインの母は高峰がアメリカに設立したジアスターゼ製造会社の初代社長に就任、以降キャロラインの両親が高峰の事業の重役を務める[27]。譲吉没後、キャロラインは地所を処分し、1926年にアリゾナのランチハンド(牧場労働者、カウボーイ)だった歳若いチャールズ・ビーチ(Charles Pablo Beach、1889-1967、カンザス生まれカリフォルニア育ち。アリゾナ大学農学部卒)と再婚、農場を次々と購入し大牧場主となった(所有地はキャロライン没後1956年に夫により売却)[28][29][30]。1935年に農場で働くメキシコ人労働者のために地元の町Valiにカトリック教会「Santa Rita in the Desert」を建設、のちにキャロライン、チャールズとも同教会で葬られた[31]。キャロラインの妹(Marie Morel Septima Hitch)の夫(Henry George Jr.)と、ウィリアム・C・デミルの妻(Anna Angela de Mille)はともにヘンリー・ジョージの子であるため、高峰家とデミル家は親戚にあたる[32][33][34]。
- 長男・譲吉II:ジョーキチ・ジュニア(Jokichi Jr., 1888-1930)[35] - 名門ホレース・マン・スクール、イエール大学卒業後、ドイツに化学留学、パリのパスツール研究所でも学ぶ[36]。帰国後父の会社で働き、1915年に引退した父親に代わり代表となる[36]。Hilda Petrie(スコットランドとノルウェーの混血)と結婚し、2人の子をもうける[36]。父親の没後、全事業を引き継いだが、41歳でニューヨークのルーズベルト・ホテルの14階から転落死した[36]。母キャロラインは高峰が発明した麹によるウィスキー醸造の反対派による殺人と断定したが(以前にも放火され会社が全焼している)、公式発表では飲酒による事故死とされた[36]。
- 次男・エーベン・孝(Ebenezer Takashi, 1890-1953)[35] - イエール大学卒業。1916年にEthel Johnsonと結婚。披露宴はニューヨークの社交クラブコスモポリタン・クラブで400人を招いて盛大に行われたが、1925年に離婚[37]。健康のためアリゾナに移住し、のちに母親の再婚相手となるチャールズ・ビーチと同居していた[31](キャロラインとの離婚を望んでいた父の譲吉は日本にいることが多く、エーベンは孤独な母のために若い友人をよく紹介しており、ビーチもその一人だった[38])。1928年にジーグフェルド・フォリーに出演していたショーガールのOdette Jeanと駆け落ちし結婚[36]。兄没後事業を引き継ぎ、さらに発展させた[36]。日本生まれだったためアメリカの市民権が得られず第二次大戦勃発で財産没収の可能性があったが特例で許され、ペニシリン製造などでアメリカ軍を支援した[36]。1943年にイギリス女性Catherine MacMahonと結婚。エーベン没後、妻が事業を売却し、財産は散逸したが、寄付により、サンフランシスコのゴールデンゲート公園に高峰庭園が造られた[36][39]。
- 孫・ジョーキチ・タカミネIII( Jokichi (“Joe”) Takamine III, 1924- 2013[40]) - 5歳で父である二代目譲吉を亡くし、母方で育つ。マサチューセッツ州のウイリアムス・カレッジ (Williams College) とニューヨーク大学医学部を卒業後、ニューヨークとロサンゼルスの病院勤務を経て、1957年に開業。1974年に仲間とセント・ジョンズ化学物質依存症治療センターを立ち上げ、アルコール中毒と薬物依存症の分野での指導的な役割を果たした[41]。
- 親戚・南桂子 - 妹・節子の孫
- 養子・高峰英三 ‐ 三共創始者の一人である塩原又策の六男。[42]
生家等
[編集]金沢市梅本町(現在の大手町)にあった実家の離れが丸の内の黒門前緑地に移築されている。
また、生誕の地である高岡の土地は高岡市に寄贈、同市は生家跡を「高峰公園」として整備。園内には顕彰碑と胸像が建ち、毎年生誕祭が行われている[43]。また、高峰公園に隣接する、高岡信用金庫本店別館内に高峰譲吉の功績を紹介するコーナー「たかしん高峰譲吉記念館」が2017年(平成29年)12月1日に開館した(入館無料)。
菩提寺は金沢市寺町5丁目にある臨済宗国泰寺である。塀の瓦に高峰家の家紋「八ツ矢車」が彫られている。高峰自身は亡くなる前に病床でカトリックに改宗した[31]。
評価と志を継ぐ事業
[編集]生涯に亘り科学者、かつ企業人として、数々の国際的業績をあげてその生涯を全うした。1922年高峰没後、正四位勲三等瑞宝章を授与。また、「ニューヨーク・タイムズ」は「光輝ある故高峰博士」と題した社説を掲載し、高峰の業績を大きく称えた。
高峰譲吉博士顕彰会
[編集]
1950年(昭和25年)、高峰譲吉博士顕彰会が金沢市に結成され、1952年高峰賞を制定し、在米高峰家拠出の奨学金により10年間、その後更に10年間は在米マイルス製薬会社の高峰研究所取締役L.A.アンダーコフラー博士に引き継がれ、現在は顕彰会の事業費とも三共からの交付金と金沢市の補助金をもって賄っている。個人賞である高峰賞は地元の優れた学生の勉学を助成し、2023年度(第73回)までの受賞者は925名に上り各界で活躍している。
107年目の名誉回復、2006年4月
[編集]1900年に高峰譲吉と助手の上中啓三が、ウシの副腎から血圧を下げる作用のある物質(副腎髄質ホルモン)を抽出して世界で初めて結晶化し、アドレナリンと命名した。一方、アメリカの研究者ジョン・ジェイコブ・エイベルは、ヒツジの副腎から抽出した物質にエピネフリンと命名したが、エイベルは、高峰が研究上の盗作を行ったと事実誤認の非難をした。高峰譲吉は醸造学者で薬学での業績が少なかったことなどもあり、副腎髄質ホルモンは長らく、日本とアメリカでは「エピネフリン」と呼ばれてきた。
しかし、高峰譲吉の業績に詳しくその著書もある菅野富夫(北海道大学名誉教授)らが、日本は発見者高峰譲吉の母国であり、「エピネフリン」に代わり正式にアドレナリンの呼称として欲しいとの厚生労働省への要望が実り、2006年(平成18年)4月、107年目の名誉回復として、日本国内では晴れて「アドレナリン」と呼ばれることとなった。
日米親善への貢献
[編集]日米親善にも尽力したことで知られる[44]。
- ワシントンD.C.のポトマック川にある美しい桜並木は、1912年に東京市が寄贈したものであるが、この寄贈には高峰、米国人紀行作家エリザ・シドモア、東京市長の尾崎行雄、植物学者のデヴィッド・フェアチャイルドが大きな役割を果たした[44]。川沿いに設置されていた4人を顕彰する写真付きパネルは劣化が進んでいたため、2024年(令和6年)4月上旬に元の位置から400メートルほど離れた場所に新たに設置された[44]。現地では寄贈を記念して毎年全米桜祭りが行われている。
- 1905年にはニューヨークに日系アメリカ人と日本人のための紳士クラブ「Nippon Club」を設立した。
関連文献(新版)
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ↑ 嘉永5年9月22日(西暦1852年11月3日)生まれとする公文書もあり、叙勲裁可書に添えた履歴書[1]には「石川縣士族 嘉永五年壬子九月廿二日」とある。また、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』[2]には、1日違いの記載「嘉永五年九月廿三日越中高岡ニ生ル」がある。
なお、嘉永5年9月22日は明治天皇生誕日でもある。 - ↑ 妻キャロラインは高峰がアメリカ滞在中に肝臓病の再発で倒れた時、当時、イリノイ州ピオリアにかまえた自宅のそばを通る汽車を止めて、大病院のあるシカゴまで運んでもらったという逸話を残した[要出典]。
- ↑ 高峰が窒素肥料の製造に取り組んだ当時は、空中窒素固定法の発明以前である。
- ↑ 旧称オーシャン島はアホウドリの骨の化石が変化したリン鉱を産出する[5]。
- ↑ 高峰譲吉が特許を願い出た「高峰式元麹改良法」とは、ウイスキーの醸造に日本の麹を使用する醸造法で、従来の麦芽から作ったモルトよりも強力なデンプンの分解力を備えていた[要出典]。
出典
[編集]- ↑ 国立公文書館所蔵・叙勲裁可書「正七位工学博士高峰譲吉」明治39年4月17日の添付履歴書。
- ↑ 「高峰譲吉博士ノ略歴」『〔参考〕『理化学研究所彙報』第1輯第2号・前付写真裏 大正11年10月刊 』(デジタル版) 47巻〈渋沢栄一伝記資料〉、1922年10月。DK470001k-0014。
- ↑ 『「松楓殿」今昔』NPO法人高峰譲吉博士研究会。
- ↑ 高峰譲吉博士顕彰会 編『高峰譲吉博士略年譜』金沢市。
- ↑ 高峰譲吉博士研究会: “高峰譲吉をめぐる逸話(その2)”. 特定非営利活動法人 高峰譲吉博士研究会. 2024年12月24日閲覧。
- ↑ 高峰 1902, pp. 416–425
- ↑ 「彙報・学事 / ○ 学位授与」『官報』1899年3月28日。「文部大臣ハ昨32年勅令第344号学位令第2条ニ依リ昨二27日左記ノ者ニ学位ヲ授与セリ其区別左ノ如シ(文部省)/帝国大学大学院ニ入リ定規ノ試験ヲ経タル者(略:3名)/論文ヲ提出シテ学位ヲ請求シ帝国大学分科大学教授会ニ於テ其大学院ニ入リ定規ノ試験ヲ経タル者ト同等以上ノ学力アリト認メタル者(略:7名)/博士会ニ於テ学位ヲ授クヘキ学力アリト認メタル者(中略:15名)工学博士 石川縣士族正七位 高峰譲吉(後略)」
- ↑ Pulvers, Roger (2009年6月28日). “Jokichi Takamine: a man with fire in his belly whatever the odds” (英語). The Japan Times
{{cite news}}:|date=の日付が不正です。 (説明)⚠ - ↑ 『官報』1899年3月28日[7]。及び『ジャパン・タイムズ』[8]。
- ↑ 「彙報・学事 / ○ 学位授与」『官報』1906年10月30日。「文部大臣ハ…昨29日左記ノ者ニ学位ヲ授与セリ(略:3名)学位記/石川県士族 正七位勲五等工学博士 高峰 譲吉/右論文ヲ提出シテ学位ヲ請求シ東京帝国大学医科大学教授会ニ於テ其大学院ニ入リ定規ノ試験ヲ経タル者ト同等以上ノ学力アリト認メタリ仍テ明治31年勅令第344号学位令ニ依リ茲ニ薬学博士ノ学位ヲ授ク/論文審査ノ要旨/副腎主成分『アドリナリンママ』及其製法(後略)」
- ↑ 下川耿史『環境史年表』《明治・大正編(1868-1926)》河出書房新社、2003年11月30日、289頁。全国書誌番号:20522067。
- ↑ 『官報』第273号、大正2年6月27日(国立国会図書館デジタル化資料)
- 1 2 “国際結婚第1号!?日本のバイオテクノロジーの父、高峰譲吉の偉業と生涯 | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!”. 小学館. 2024年12月24日閲覧。
- ↑ “松楓殿再現事業”. 高岡商工会議所. 2024年12月24日閲覧。
- ↑ “サムライ化学者 高峰譲吉(1854-1922)”. 神奈川県立図書館・県立川崎図書館. 2024年12月24日閲覧。
- ↑ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)166頁
- ↑ Jokichi Takamine (1854-1922) and Caroline Hitch Takamine (1866-1954), p12
- ↑ 「越中エル・ドラド(黄金郷) ふるさとの歴史秘話-8- 高峰譲吉が造った黒部鉄道」北日本新聞 2014年8月28日13面
- ↑ 『官報』第6838号「叙任及辞令」1906年4月19日。
- ↑ 『官報』号外「叙任及辞令」1915年11月10日。
- ↑ Jokichi TakamineNational Inventors Hall of Fame
- ↑ https://tksosa.dijtokyo.org/?page=collection_detail.php&p_id=363&lang=ja
- 1 2 ゆかりの人‥‥キャロライン・高峰 NPO法人高峰譲吉博士研究会
- ↑ Ebenezer Vose Hitch MikeHitch.com
- ↑ Jokichi Takamine (1854-1922) and Caroline Hitch Takamine (1866-1954), p10, 24, 225
- ↑ Jokichi Takamine (1854-1922) and Caroline Hitch Takamine (1866-1954), p181
- 1 2 3 Jokichi Takamine (1854-1922) and Caroline Hitch Takamine (1866-1954) William Shurtleff, Akiko Aoyagi, Soyinfo Center, 2012, p174
- ↑ Caroline Field Hitch MikeHitch.com
- ↑ Caroline Fields Beach Geni
- ↑ Jokichi Takamine (1854-1922) and Caroline Hitch Takamine (1866-1954) By William Shurtleff, Akiko Aoyagi, p12, 100, 152, 248
- 1 2 3 Vail and Colossal Cave Mountain Park By Sharon E. Hunt Arcadia Publishing, 2007, p103
- ↑ 活動の王國ハリーウツド『あめりか写真紀行』北尾鐐之助 著 (大阪毎日新聞社[ほか], 1926)、p89
- ↑ Marie Morel Septima Hitch MikeHitch.com
- ↑ Henry George Geni
- 1 2 Jokichi Takamine Geni
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 THE GREAT UNKNOWN AND THE UNKNOWN GREAT: The Takamine family’s three generations of marvels in health science Nichi-Bei, October 17, 2013
- ↑ Jokichi Takamine (1854-1922) and Caroline Hitch Takamine (1866-1954) By William Shurtleff, Akiko Aoyagi, p131
- ↑ Jokichi Takamine (1854-1922) and Caroline Hitch Takamine (1866-1954), p175
- ↑ Strybing Arboretum and Botanical Gardens Japanese Garden Research Network, Inc.
- ↑ Dr. Jokichi Takamine III, 1924-2013 Malibu Beach Recovery Center, December 25, 2013
- ↑ 高峰夫妻の一人の孫が逝去 NPO法人高峰譲吉博士研究会
- ↑ 塩原又策と高峰譲吉 その2 高峰譲吉博士研究会、2023年5月10日
- ↑ 『高峰譲吉の功績たたえる 高岡で生誕祭』北日本新聞 2018年11月4日29面
- 1 2 3 高峰桜の絆、輝き再び 米首都のパネル修復 高岡の顕彰プロジェクト働き掛け - 富山新聞・2024年5月24日
参考文献
[編集]本文脚注に使った典拠。主な執筆者、編者の順。
- 上山明博「アドレナリンの父、高峰譲吉」『ニッポン天才伝 : 知られざる発明・発見の父たち』朝日新聞出版、2007年。
- 上山明博「アドレナリンを発見した日本人 : 世紀を超えた高峰譲吉・上中啓三の功績」『化学』2012年12月号、化学同人、2012年。掲載誌別題『CHEMISTRY』。
- 「正七位工学博士高峰譲吉(添付履歴書)」『国立公文書館所蔵・叙勲裁可書明治39年4月17日』、内閣、1906年4月17日。国立公文書館収蔵資料の画像。
- 牧野輝智「世界的発明家、高峰讓吉君」『現代発明家伝』帝国発明協会、1911年、1-20,58,229頁。doi:10.11501/777757。NDLJP:777757/1/12、全国書誌番号:40015960。明治44年9月発行、全300ページ、判型は22cm、図版あり。国立国会図書館デジタルコレクション「近代デジタルライブラリー」。以下、丸カッコ内の付番は、掲載する画像データの見開き単位を示す。
- 図版(0012.jp2)左ページに肖像写真。
- p.1-〔1. 日本人の智能的代表者〕(0013.jp2-0018.jp2)人物伝の本文。p.2 タカジアスターゼ、アドリナリン等の發明者たる工學博士藥學博士高峰讓吉。
- p.3-〔2. 高峰博士の前半生〕p.4 富山県高岡市御馬出町生まれ、太陰暦の生年月日、父の元睦の出自。医学から化学に転じて工部省の技術見習生をつとめ明治7年工部大学に入学、応用化学をおさめ同12年11月首席で卒業。工部省に奉職し2年目にグラスゴー大学に3年間、官費留学、農商務省工部局に配転。明治18年に専売特許局で高橋是清の配下となる。
- p.6〔3. 人造肥料会社の設立〕明治21年、万博から帰国して起業。渋沢栄一、益田孝、大原喜八郎の賛同を得る。
- p.6〔4. 米国ウイスキー・トラストと高峰式醸造法〕
- p.8〔5. タカヂアスターゼの発明〕
- p.11〔6. タカヂアスターゼ発明の経路〕
- p.14〔7. アドレナリン製出の由来〕
- p.16〔8. アドレナリンの性状と効能〕
- p.19〔9. 現今の高峰博士〕ニューヨーク市の本邸。22(0022.jp2)サリバン郡メリーウォールド・パークの別荘。
- p.29(0026.jp2)〔山田猪三郎〕叙勳の榮典に浴した人は(略)君以前にはまず髙峰讓吉君がある(略)
- 〔豊田佐吉君〕髙峰讓吉君(タカチアスターゼ・アドリナリン)67(0067.jp2)
- p.58〔真崎照郷君〕高峰讓吉君の如き(略)は後者に属す(略)96(0096.jp2)
- p.229 〔岡島千代造君〕(略)発明が生んだのである、之を我國に求めたならば高峰讓吉君然り、新田長次郞君然り、御木本幸吉君然り(略)132(0132.jp2)
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 高峰博士の略歴 - NPO法人 高峰譲吉博士研究会
- Jokichi Takamine (1854-1922) and Caroline Hitch Takamine (1866-1954) : Biography and Bibliography William Shurtleff, Akiko Aoyagi, Soyinfo Center, 2012
- 高峰譲吉博士顕彰会 - 金沢市 Archived 2025-03-25 at the Wayback Machine.
- 高峰譲吉博士顕彰会 – 高岡市 Archived 2026-02-16 at the Wayback Machine.
- 山本綽、アメリカのバイオテクノロジーの父は日本人だった -IUMS(国際微生物学連合2011会議札幌)にて開催された「高峰譲吉・北里柴三郎展およびシンポジウム」を振り返って-『日本醸造協会誌』 2012年 107巻 7号 p.499-506, doi:10.6013/jbrewsocjapan.107.499
- 山本綽、「人柄、人徳を偲ばせる遺書 財産処分に見る高峰譲吉の律儀」 『近代日本の創造史』 2006年 2巻 p.3-10, doi:10.11349/rcmcjs.2.3, 近代日本の創造史懇話会