高橋是清
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たかはし これきよ
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| 生年月日 | 1854年9月19日 (旧暦嘉永7年閏7月27日) |
| 出生地 | |
| 没年月日 | 1936年2月26日 |
| 死没地 | |
| 出身校 | ヘボン塾(現・明治学院大学) |
| 前職 | 官僚 |
| 所属政党 | 立憲政友会 |
| 称号 | 大勲位菊花大綬章(死後贈位) 子爵(1924年隠居) |
| サイン | ![]() |
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| 内閣 | 高橋内閣 |
| 在任期間 | 1921年11月13日 - 1922年6月12日 |
| 天皇 | 大正天皇 |
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| 内閣 | 第1次山本内閣 |
| 在任期間 | 1913年2月20日 - 1914年4月16日 |
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| 内閣 | 原内閣、高橋内閣 |
| 在任期間 | 1918年9月29日 - 1922年6月12日 |
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| 内閣 | 加藤高明内閣 |
| 在任期間 | 1924年6月11日 - 1925年4月1日 |
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| 内閣 | 加藤高明内閣 |
| 在任期間 | 1925年4月1日 - 同年4月17日 |
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その他の職歴
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(田中義一内閣) (1927年4月20日 - 同年6月2日) |
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(犬養内閣、斎藤内閣) (1931年12月13日 - 1934年7月8日) |
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(岡田内閣) (1934年11月27日 - 1936年2月26日) |
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(勅選議員) (1905年1月29日 - 1924年3月24日) |
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(旧岩手1区) (1924年5月10日 - 1928年1月21日) |
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高橋 是清(たかはし これきよ、1854年9月19日〈嘉永7年閏7月27日〉 - 1936年〈昭和11年〉2月26日)は、日本の幕末の武士(仙台藩士)、明治、大正、昭和時代初期の官僚、政治家。立憲政友会第4代総裁。第20代内閣総理大臣(在任 : 1921年〈大正10年〉11月13日 - 1922年〈大正11年〉6月12日)。栄典は大勲位子爵。幼名は
目次
経歴[編集]
1854年9月19日(嘉永7年閏7月27日)幕府御用絵師・川村庄右衛門(47歳)ときん(16歳)の子として、江戸芝中門前町(現在の東京都港区芝大門)に生まれた。きんの父は芝白金で代々魚屋を営んでいる三治郎という人で、家は豊かであったが、妻と離別していたので、きんは中門前町のおばのところへ預けられたこともあり、行儀見習いのために川村家へ奉公していた 。庄右衛門の妻は庄右衛門の手が付き身重になったきんに同情し、こっそり中門前町のおばの家へ帰して静養させ、ときどき見舞って世話をしたという[1]。是清は生後まもなく仙台藩の足軽高橋覚治の養子になる。
その後、横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾であるヘボン塾(現・明治学院大学)にて学び、1867年(慶応3年)に藩命により、勝海舟の息子・小鹿と海外へ留学した。しかし、横浜に滞在していたアメリカ人の貿易商、ユージン・ヴァン・リード[2]によって学費や渡航費を着服され、さらにホームステイ先である彼の両親に騙され[3]年季奉公[4]の契約書にサインし、オークランドのブラウン家に売られる。牧童や葡萄園で奴隷同然の生活を強いられ[注釈 1]、いくつかの家を転々とわたり、時には抵抗してストライキを試みるなど苦労を重ねる。この間、英語の会話と読み書き能力を習得する。
1868年(明治元年)、帰国する。帰国後の1873年(明治6年)、サンフランシスコで知遇を得た森有礼に薦められて文部省に入省し、十等出仕となる。英語の教師もこなし、大学予備門で教える傍ら当時の進学予備校の数校で教壇に立ち、そのうち廃校寸前にあった共立学校(現・開成中学校・高等学校)の初代校長をも一時務めた。教え子には俳人の正岡子規やバルチック艦隊を撃滅した海軍中将・秋山真之がいる。その間、文部省、農商務省(現・経済産業省および農林水産省)の官僚としても活躍、1884年(明治17年)には農商務省の外局として設置された特許局の初代局長に就任し、日本の特許制度を整えた。1889年(明治22年)、官僚としてのキャリアを中断して赴いたペルーで銀鉱事業を行うが、すでに廃坑のため失敗。1892年(明治25年)、帰国した後に川田小一郎に声をかけられ、日本銀行に入行[3]。
日露戦争 (1904 - 1905) が発生した際には日銀副総裁として、同行秘書役深井英五を伴い、戦費調達のために戦時外債の公募で同盟国の英国に向かった。投資家には兵力差による日本敗北予想、日本政府の支払い能力、同盟国英国が建前として局外中立の立場で公債引受での軍費提供が中立違反となる懸念があった。それに対し、高橋は、
- この戦争は自衛のためやむを得ず始めたものであり日本は万世一系の皇室の下で一致団結し、最後の一人まで闘い抜く所存である。
- 支払い能力は関税収入である(1986年(昭和61年)完済)。当時の国家予算の60年分の借金で英露の代理戦争を担った。
- 中立問題については米国の南北戦争中に中立国が公債を引き受けた事例がある。
と反論。関税担保において英国人を派遣して税関管理する案に対しては「日本国は過去に外債・内国債で一度も利払いを遅延したことがない」と拒絶した。交渉の結果、ジェイコブ・シフなどの人脈が外債を引き受け、公債募集は成功し、戦費調達が出来た。1905年(明治38年)、貴族院議員に勅選。1911年(明治44年)に日銀総裁となる[3]。
1913年(大正2年)、第1次山本内閣の大蔵大臣に就任、この時立憲政友会に入党する。政友会の原敬が組閣した際にも大蔵大臣となり、原が暗殺された直後、財政政策の手腕を評価され第20代内閣総理大臣に就任、同時に立憲政友会の第4代総裁となった。しかし高橋自身思わぬ総裁就任だったため、大黒柱の原を失い混乱する政友会を立て直すことはできず、閣内不統一の結果内閣は半年で瓦解している。
政友会はその後も迷走し、清浦奎吾の超然内閣が出現した際には支持・不支持を巡って大分裂、脱党した床次竹二郎らは政友本党を結成し清浦の支持に回った。一方高橋率いる政友会は、憲政会および革新倶楽部と護憲三派を結成し、第二次護憲運動を起こした。これに対して清浦は衆議院解散に打って出た(「懲罰解散」)が、これにより告示された第15回総選挙に高橋は隠居して爵位を嫡男に襲わせた上で、原の選挙区だった盛岡の旧岩手1区から出馬することにした。爵位を譲ったのは有爵者には衆議院議員としての被選挙権がなかったためもあるが、清浦内閣を「貴族院内閣」「特権内閣」などと攻撃する手前、その総裁が子爵のままではやはり都合が悪かったこともその背景にある。政友会の現総裁として、盟友だった前総裁の選挙区から出馬したいというのは高橋たっての願いだったが、高橋は与党政友本党の対立候補田子一民に予想外の苦戦を強いられた。結局高橋は49票の僅差で当選を勝ち取り[5]、選挙は護憲三派の圧勝に終わった。清浦内閣はここに総辞職を余儀なくされる。
新たに総理大臣となった憲政会総裁の加藤高明は、高橋を農商務相に任じた。
ともに滞米経験がある高橋と斎藤は、個人的に親しい友人でもあった。画像は1936年2月20日、斎藤が蔵相官邸に高橋を訪れた際に撮影されたもの。この六日後に両者は悲劇的な最期をむかえる(→ 詳細は「二・二六事件」を参照)。
その後、高橋は政友会総裁を田中義一に譲り政界を引退するが、1927年(昭和2年)に昭和金融恐慌が発生し、瓦解した第1次若槻内閣に代わって組閣した田中に請われ自身3度目の蔵相に就任した。高橋は日銀総裁となった井上準之助と協力し、支払猶予措置(モラトリアム)を行うと共に、片面だけ印刷した急造の200円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて、預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させた。
1931年(昭和6年)、政友会総裁・犬養毅が組閣した際も、犬養に請われ4度目の蔵相に就任し、金輸出再禁止(12月13日)・日銀引き受けによる政府支出(軍事予算)の増額、時局匡救事業で、世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させた(リフレーション政策)。五・一五事件で犬養が暗殺された際に総理大臣を臨時兼任している。続いて親友である斎藤実が組閣した際も留任(5度目)。また1934年(昭和9年)に、共立学校出身に当たる岡田啓介首班の内閣にて6度目の大蔵大臣に就任[3]。当時、リフレーション政策はほぼ所期の目的を達していたが、これに伴い高率のインフレーションの発生が予見されたため、これを抑えるべく(出口戦略参照)軍事予算の縮小を図ったところ軍部の恨みを買い、二・二六事件において、赤坂の自宅二階で反乱軍の青年将校らに胸を6発撃たれ、暗殺された。享年82(満81歳没)。葬儀は陸軍の統制によって、1か月後に築地本願寺で営まれた[3]。
逸話[編集]
- そのふくよかな容貌から「ダルマ蔵相」、「ダルマさん」と呼ばれて親しまれた[3]。国会での三木武吉によるヤジは特に有名。
- 在任中は主に積極財政政策をとり、井上準之助が行った緊縮財政としばしば対比される。また、公債発行による財政政策、乗数効果をプリミティブな形とはいえケインズに先だって説き、実践した。
- 現在一般化している一般歳入の補填を目的とした国債発行を日本で初めて実行したことでも知られており、それを含め現在の日本の金融政策にも大きな影響を及ぼしている。
- 高橋が岡田内閣に入閣した際に、既に同内閣に対して野党宣言をしていた立憲政友会総裁の鈴木喜三郎は同内閣に入閣した政友会党員4名全員を除名しようとした。だが、元総裁の高橋を除名した際の党内に与える動揺を恐れて、高橋を「離別」すると宣言(あとの3名は除名処分)してお茶を濁した。
- 歴代日銀総裁のなかで唯一その肖像が日本銀行券に使用された人物。1951年(昭和26年)から1958年(昭和33年)にかけて発行された五十円券がそれである。
- 高橋是清は、赤坂御所に対面する青山通り沿いに、敷地約2,000坪の広大な屋敷を構えていた[6]。邸宅跡は現在、高橋是清翁記念公園として整備されており、建物の一部は江戸東京たてもの園(東京都小金井市)に移築されて公開されている[3][注釈 2]。
- 酒好きとして有名であり、国会本会議場の席でも堂々と茶碗酒をすすっていたが、誰も咎める者はなかった。
年譜[編集]
※日付は1872年まで旧暦
- 1854年(嘉永7年)閏7月27日:江戸芝中門前町(現東京都港区)に幕府絵師川村庄右衛門の私生児として生まれ、間もなく仙台藩の足軽高橋覚治の家に里子に出され後養子となる。
- 1864年(元治元年):横浜のヘボン夫人家塾に学ぶ。
- 1866年(慶応2年):イギリス人シャンドのボーイとなる。
- 1867年(慶応3年):渡米しオークランドで奴隷労働しながら勉強する。
- 1869年(明治元年)旧暦12月:帰国し森有礼家の書生となる。
- 1869年(明治2年)
- 旧暦1月:大学南校に入学。
- 旧暦3月:大学南校教官三等手伝。
- 1870年(明治3年)秋頃:放蕩生活に入り教官を辞める。
- 1871年(明治4年):唐津藩の英語学校耐恒寮の教員となる。この時の教え子に、辰野金吾、曽禰達蔵、天野為之、掛下重次郎らがいる。
- 1872年(明治5年)秋:耐恒寮の教員を辞めて上京する。駅逓寮で翻訳の仕事をするが間もなく辞職。開成学校に入学する。
- 1873年(明治6年)7月:文部省督学局十等出仕としてモーレー博士の通訳をする。
- 1876年(明治9年)5月:官立東京英語学校教員に雇われる。
- 1877年(明治10年)3月:東京英語学校教員を辞める。翻訳・予備校(共立学校)教師などをする。
- 1878年(明治11年)9月:東京大学予備門英語教員として雇われる。
- 1881年(明治14年)
- 4月:文部省御用掛に転じ東京大学予備門教員を兼務。
- 5月:農商務省御用掛に転じる。
- 1884年(明治17年)
- 7月:任農商務権少書記官。
- 10月:農商務省工務局商標登録所長。
- 1885年(明治18年)
- 4月:専売特許所長兼務。
- 11月:商標登録専売特許制度視察のため欧米各国へ差遣。
- 1887年(明治20年)12月:特許局長。
- 1889年(明治22年)
- 1890年(明治23年)
- 1月:ペルーのカヤオ港着。
- 2月:カラワクラ鉱山開坑式を行う。
- 3月:鉱山が廃坑であることが分かる。
- 4月:帰国の途に就く。
- 1892年(明治25年)6月:日本銀行建築所事務主任。
- 1893年(明治26年)9月:日銀支配役・西部支店長。
- 1895年(明治28年)8月:横浜正金銀行本店支配人。
- 1897年(明治30年)3月:横浜正金銀行副頭取。
- 1899年(明治32年)2月:日本銀行副総裁となる。
- 1904年(明治37年)2月 日露戦争始まる。戦時公債募集のため渡米英。
- 1905年(明治38年)
- 1907年(明治40年)9月:公債募集の勲功により男爵授爵。
- 1911年(明治44年)6月:日本銀行総裁となる。
- 1913年(大正2年)2月:第一次山本内閣の大蔵大臣に就任。立憲政友会入党。
- 1914年(大正3年)4月:第一次山本内閣総辞職。
- 1918年(大正7年)9月:原内閣の大蔵大臣に就任(2度目)。
- 1920年(大正9年)9月:子爵陞爵。
- 1921年(大正10年)11月:原総理暗殺により後継の内閣総理大臣に就任し、大蔵大臣を兼任(3度目)。政友会総裁となる。
- 1922年(大正11年)6月:高橋内閣総辞職。
- 1924年(大正13年)
- 1925年(大正14年)4月:農商務省の分割再編にともない農林大臣兼商工大臣に横滑り。約2週間後両大臣を依願免職。政友会総裁を田中義一に譲る。
- 1927年(昭和2年)
- 1931年(昭和6年)12月:犬養内閣の大蔵大臣に就任(4度目)。
- 1932年(昭和7年)5月:犬養総理暗殺(五・一五事件)により内閣総理大臣を10日間臨時兼任。斎藤内閣の大蔵大臣に留任(5度目)。
- 1934年(昭和9年)
- 1936年(昭和11年)2月26日:赤坂表町三丁目の私邸で叛乱軍襲撃部隊に胸に6発の銃弾を撃たれ、暗殺される(二・二六事件)。享年82(満81歳没)。
栄典[編集]
- 位階
- 1900年(明治33年)6月6日 - 従五位[9]
- 1905年(明治38年)2月7日 - 従四位[10]
- 1913年(大正2年)2月28日 - 正四位[11]
- 1919年(大正8年)9月30日 - 従三位[12]
- 1934年(昭和9年)5月1日 - 従二位[13]
- 1936年(昭和11年)2月26日 - 正二位[14]
- 勲章等
- 1889年(明治22年)
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲一等瑞宝章[17]
- 1907年(明治40年)9月23日 - 男爵[18]。
- 1911年(明治44年)8月24日 - 金杯一組[19]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[20]
- 1920年(大正9年)9月7日 - 子爵・旭日大綬章[21]
- 1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[22]
- 1927年(昭和2年)6月3日 - 旭日桐花大綬章[23]
- 1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章[24]
- 1936年(昭和11年)2月26日 - 大勲位菊花大綬章[25]
- 外国勲章佩用允許
| 受章年 | 国籍 | 略綬 | 勲章名 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 1908年(明治41年)4月1日 | 勲一等太極章[26] | |||
| 1922年(大正11年)2月7日 | レジオンドヌール勲章グランクロワ[27] | |||
| 1924年(大正13年)7月3日 | レジオンドヌール勲章グランクロワ[28] | 2回目 |
家族・親族[編集]
川村家[編集]
- 是清の生家川村家は代々狩野派の絵師で八世庄右衛門守房の代になっては、江戸本丸の御屏風係を務め、芝の露月町(ろげつちょう)に屋敷を構えていた。是清の実父庄右衛門はでっぷり太った、性格の明るい、非常に責任感の強い人だったらしく、職務に精励したので、のちに身一代三人扶持にとりあげられている。明治維新後は深川閻魔堂橋側に団子店をだした。是清の生母きんは、やがて浜松町の塩物屋に嫁いで女の子を生んだが、二十四歳で死んだという[30]。
高橋家[編集]
- 二女の和喜子は明治の元勲大久保利通の八男・利賢に嫁ぐ。和喜子の息子がロッキード事件で有罪判決を受けた丸紅専務の大久保利春である。
- 長男 高橋是賢(実業家・貴族院子爵議員)
- 孫の高橋賢一(長男・是賢の長男)は農林省で官僚を務めたのち北海道議会議員となり、議長も務めた。他方で是清が北海道伊達市に創業した高橋農場の3代目場主として農場をサラブレッド競走馬の牧場に転換し、1977年(昭和52年)の東京優駿(日本ダービー)優勝馬のラッキールーラなどを生産した。また高橋豊二(是賢の次男)は東京帝国大学サッカー部に所属し、1936年(昭和11年)のベルリンオリンピック・サッカー競技に出場した日本代表に名を連ねた。
- 孫娘の福子が初代内閣総理大臣伊藤博文の孫・博精に嫁いでいる。博精の娘文子は出雲国造家の千家達彦に嫁いでいる。
著作[編集]
- 『高橋是清、山県有朋経済問題論争』
- 『立身の径路』(丸山舎書籍部、1912年)
- 『高橋是清―立身の経路』(「人間の記録81」日本図書センター、1999年)、ISBN 978-4820543275
- 『処世一家言 半生の体験』(今日の問題社、1936年)
- 『半生の体験 世に処する道』(今日の問題社、1936年)
- 『随想録』(上塚司編、千倉書房、1936年)
- 『高橋是清-随想録』(上塚司編、本の森、1999年)、ISBN 978-4938965150
- 『随想録』(解説井上寿一、中央公論新社[中公クラシックス]、2010年11月)、ISBN 978-4121601216
- 『高橋是清自伝』(上塚司編、斗南書院、1936年)
- 『高橋是清自伝』(上塚司編、中央公論社〈中公文庫〉上・下、初版1976年)
上巻 ISBN 978-4122003477、下巻 ISBN 978-4122003613 - 『高橋是清伝』(高橋是清口述・上塚司筆録、矢島裕紀彦現代語訳、小学館地球人ライブラリー、1997年)
- 『高橋是清自伝』(上塚司編、中央公論社〈中公文庫〉上・下、初版1976年)
- 『高橋是清経済論』(上塚司編、千倉書房、1936年)
- 『経済論』(中央公論新社[中公クラシックス]、2013年12月)
- 『国策運用の書』(山崎源太郎編、斗南書院、1936年)
- 『高橋是清の日本改造論―“デフレ大恐慌”のいま、死中に活路を見い出す』
(山崎源太郎編、矢島裕紀彦・再々編、青春出版社、1998年)、ISBN 978-4413031240
- 『高橋是清の日本改造論―“デフレ大恐慌”のいま、死中に活路を見い出す』
- 『是清翁遺訓 日本国民への遺言』(大久保康夫編)
(三笠書房、1936年、小冊子版、1938年/皇文社、1938年)
高橋是清を演じた俳優[編集]
- 岡譲司 - 映画『高橋是清自伝』(1936年11月19日公開)※青年・壮年期
- 山本嘉一 - 同上、※老年期
- 国広富之 - TBSドラマ『熱い嵐』(1979年2月26日放送、3時間ドラマ)[1][2]※青年期(ペルーでの銀山開発失敗、日銀入りまで)
- 森繁久彌 - 同上、※壮年期(日銀総裁)以降
- 入江正夫 - NHK大河ドラマ『山河燃ゆ』(1984年)
- 神山繁 - テレビ朝日開局50周年記念ドラマスペシャル『落日燃ゆ』(2009年)
- 西田敏行 - NHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』(全3回、2009年-2011年)
- オダギリジョー - NHK放送90年ドラマ『経世済民の男』(2015年)
小説作品[編集]
- 松浦行真『熱い嵐 高橋是清の生涯』集英社、1979年。TBSドラマ原作小説
- 長野広生『波瀾万丈 高橋是清 その時代』東京新聞出版局(上下)、1979年
- 津本陽 『生を踏んで恐れず 高橋是清の生涯』 幻冬舎、1998年/幻冬舎文庫、2002年
- 片岡英『赤と白 小説高橋是清』 文芸社、2009年
- 三橋貴明『コレキヨの恋文』小学館、2012年、ISBN 978-4093863261
- 幸田真音『天佑なり 高橋是清・百年前の日本国債』(上下)。角川書店、2013年/角川文庫、2015年。2011年から中日新聞・東京新聞系列で連載
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ 『高橋是清―財政家の数奇な生涯』7頁
- ^ (Eugene M. Van Reed)
- ^ a b c d e f g “高橋是清邸で実感する2・26事件”. NHKニュース (日本放送協会). (2013年2月22日). オリジナルの2013年2月24日時点によるアーカイブ。 2013年2月24日閲覧。
- ^ (Indentured servant)
- ^ 望月和彦「大正デモクラシー期における政界再編」2010年3月(『桃山法学 15』)
- ^ アイランズ 『東京の戦前 昔恋しい散歩地図 2』 草思社 平成16年10月30日発行第1刷
- ^ 『官報』第1712号「叙任及辞令」1889年3月18日。
- ^ 『官報』第6474号、明治38年2月1日。
- ^ 『官報』第5077号「叙任及辞令」1900年6月7日。
- ^ 『官報』第6480号「叙任及辞令」1905年2月8日。
- ^ 『帝国議会会議録』貴族院議員の異動
- ^ 『帝国議会会議録』貴族院議員の異動
- ^ 『官報』第2205号「叙任及辞令」1934年5月11日。
- ^ 『官報』第2747号「叙任及辞令」1936年3月2日。
- ^ 『官報』第1901号「叙任及辞令」1889年10月29日。
- ^ 『官報』第1935号「叙任及辞令」1889年12月9日。
- ^ 『帝国議会会議録』貴族院議員の異動
- ^ 『官報』第7273号「授爵・叙任及辞令」1907年9月25日。
- ^ 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第2431号「叙任及辞令」1920年9月8日。
- ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
- ^ 『官報』第128号「叙任及辞令」1927年6月4日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ^ 『官報』第2747号「叙任及辞令」1936年3月2日。
- ^ 『官報』第7437号「叙任及辞令」1908年4月15日。
- ^ 『官報』第2854号「叙任及辞令」1922年2月8日。
- ^ 『官報』第3560号「叙任及辞令」1924年7月5日。
- ^ 『官報』第3325号「叙任及辞令」1923年8月29日。
- ^ 大島清著『高橋是清―財政家の数奇な生涯』7-9頁
参考文献[編集]
- 大島清 『高橋是清 ― 財政家の数奇な生涯』 中央公論社[中公新書]、1969年、復刊1999年
- 北脇洋子『棺を蓋いて事定まる―高橋是清とその時代』東洋経済新報社、1999年
- 松元崇『大恐慌を駆け抜けた男 高橋是清』中央公論新社、2009年/中公文庫、2012年
- リチャード・J・スメサースト『高橋是清―日本のケインズ その生涯と思想』
鎮目雅人・早川大介・大貫摩里訳、東洋経済新報社、2010年
関連項目[編集]
- 明六社
- 財務官-帝国憲法下では「政府財政委員」(初代)
- 佐々木多門 - 高橋の政策顧問。心を許す人物で、高橋の海外要人への手紙を代筆した。
- 水田三喜男 - 高度経済成長期に大蔵大臣を数度務めた。その経済手腕から「戦前は高橋是清、戦後は水田三喜男」と評された。
- 宮澤喜一 - 高橋同様、総理退任後数度にわたって大蔵大臣・財務大臣に就任、「平成の高橋是清」と呼ばれた。
- 麻生太郎 - 総理退任後、第2次安倍内閣で財務大臣に就任。デフレーション脱却を目指す点でも共通する。
- ジェイコブ・シフ - 高橋を世話した銀行家「クーン・ローブ商会」
外部リンク[編集]
- 第7代総裁:高橋是清 - 日本銀行
- 高橋是清経歴
- 初代特許庁長官高橋是清について
- 高橋是清の墓
- 高橋是清:作家別作品リスト - 青空文庫
- 国立国会図書館 憲政資料室 高橋是清関係文書(所蔵)
- 国立国会図書館 憲政資料室 高橋是清関係文書(MF:首都大学東京図書情報センター蔵)
- 「朝礼訓話」高橋是清蔵相 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代: 原敬 |
第20代:1921年 - 1922年 |
次代: 加藤友三郎 |
| 先代: 若槻禮次郎 勝田主計 片岡直温 井上準之助 藤井真信 |
第16代:1913年 - 1914年 第21代:1918年 - 1922年 第28代:1927年 第31代:1931年 - 1934年 第33代:1934年 - 1936年 |
次代: 若槻禮次郎 市来乙彦 三土忠造 藤井真信 町田忠治 |
| 先代: 創設 |
初代:1925年 |
次代: 岡崎邦輔 |
| 先代: 創設 |
初代:1925年 |
次代: 野田卯太郎 |
| 先代: 前田利定 |
第35代:1924年 - 1925年 |
次代: 廃止 |
| 党職 | ||
| 先代: 原敬 |
立憲政友会総裁 第4代 : 1921年 - 1925年 |
次代: 田中義一 |
| その他の役職 | ||
| 先代: 松尾臣善 |
日本銀行総裁 第7代:1911年 - 1913年 |
次代: 三島彌太郎 |
| 第19代 原敬 |
第20代 1921年11月13日 - 1922年6月12日 |
第21代 加藤友三郎 |
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