富山県

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とやまけん
富山県
呉羽丘陵から望む立山連峰と富山市街
呉羽丘陵から望む冬の立山連峰と富山市街
富山県の旗
富山県旗
(1988年12月27日制定)
日本の旗 日本
地方 中部地方北陸地方
団体コード 16000-8
ISO 3166-2:JP JP-16
面積 4,247.61km²
(境界未定部分あり)
総人口 1,065,427
推計人口、2016年2月1日)
人口密度 251人/km²
隣接都道府県 新潟県石川県長野県岐阜県
県の木 タテヤマスギ
県の花 チューリップ
県の鳥 ライチョウ
他のシンボル 県の獣:ニホンカモシカ
県の魚:ブリシロエビホタルイカ
県の歌:富山県民の歌
富山県庁
知事 石井隆一
所在地 930-8501
富山県富山市新総曲輪1番7号
北緯36度41分43.1秒東経137度12分40.7秒座標: 北緯36度41分43.1秒 東経137度12分40.7秒
富山県庁
外部リンク 富山県
富山県の位置

富山県行政区画図

― 市 / ― 町 / ― 村

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富山県(とやまけん)は、日本の一つ。北陸地方に属し、日本海に面する。令制国越中国に相当する。県庁所在地富山市

概要[編集]

富山県は、四方を海と山脈で区切られた越中国と領域を同じくする。

東の新潟県との県境は難所親不知として知られる。長野県との県境には北アルプスが聳える。

西部は倶利伽羅峠を挟んで石川県と接しており、戦国末期には両国の前田利長佐々成政が争った。その後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)によって越中は前田利長に与えられ、江戸時代の越中は加賀藩とその支藩である富山藩に統治されていた。廃藩置県では一時的に新川県が成立するも、人口が過小と見なされたことと歴史的経緯により、同じく人口が過小と見なされた石川県に併合されてしまう。しかし、石川県議会では越中の水害復旧が放置される上に必要経費を石川側が独占する形となり、治水はおろか生活や教育も苦しい状況となっていた。このような越中軽視の姿勢が目立ったことから分県運動が起こり[1]、全越中が分離独立する形で富山県が成立した。

南には飛騨山脈(日本アルプス)が控え、山間部には「白川郷・五箇山の合掌造り集落」として世界遺産に登録されている五箇山立山信仰などの山岳信仰で有名な立山連峰、山岳観光ルートの立山黒部アルペンルートなどがあり、日本で唯一氷河が現存する[2]。隣接する岐阜県飛騨地方は、山々に遮られる形で太平洋側との交通の便が悪く、富山県南部との経済的・文化的な結び付きが強い。そのため、越中と飛騨をまとめて飛越地方とも呼ばれる[3]

北は世界で最も美しい湾クラブに加盟する富山湾日本海)に面している。国際拠点港湾伏木富山港は、北陸工業地域や環日本海貿易の拠点として発達した伏木港、富山港、富山新港の総称である。また、魚津滑川氷見などでは豊富な海産物が水揚げされる。うち、魚津から滑川にかけてはホタルイカの群遊海面、蜃気楼の見える海岸で有名である。

加賀藩の支配を脱した明治から産業の発展が続き、北陸工業地帯を形成。YKK三協立山アルミなど発祥の地として知られる。北陸銀行北陸電力などの本拠地でもある。

2009年現在、「近世高岡の文化遺産群」と「立山黒部 〜防災大国日本のモデル -信仰砂防発電- 〜」を世界遺産(文化遺産)に登録することを目指している。もし登録が実現すれば、1つの県に3つの世界遺産を保有する県となる。また、立山連峰黒部峡谷などを自然遺産に登録することを目指す動きもあるが、同地域の文化的側面と合わせて複合遺産としての登録を目指す可能性もある。

方言としては富山弁があり、地域によって呉東方言、呉西方言、魚津弁などに分かれる。富山弁は北陸方言に属し、特に能登弁と類似性がある。「新鮮」を意味する「きときと」をはじめ、『広辞苑』に収められている言葉もある。

前述の「きときと」と表現される魚介類に加え、名水百選平成の名水百選にそれぞれ県内から4か所が選ばれるなど、名水の産地として知名度が高い。

富山県全域、新潟県上越地方(特に上越市以西)および岐阜県飛騨地方(特に北部)では、「富山」の地名を「やま」ではなく「とやま」と平板に発音する。また、石川県(特に加賀地方)では「とま」と発音する。

地理・地域[編集]

地形図

※長野県とは険しい山脈に阻まれていて直結道がなく直接的な行き来が出来ない。しかし新潟県糸魚川市経由などで道路が確保されているため長野県へのアクセスはそれほど困難ではない。
県の中部には、概ね複数の河川が形作った沖積平野富山平野があり、山麓部には複数の川の扇状地が重なり合ってできた「複合扇状地」が見られる。

自然公園[編集]

剱岳(中部山岳国立公園)
ジオパーク
国立公園
国定公園
県立自然公園

気候[編集]

日本海側気候であり、県内全域が豪雪地帯(一部地域は特別豪雪地帯)に指定されている[4]。夏はフェーン現象の影響で気温が上がり、高温多湿。標高の高い南部の山岳地帯は亜寒帯湿潤気候に属し寒さが厳しい。特に立山連峰は世界有数の豪雪地帯であり、立山および剱岳周辺には、日本では唯一の現存する氷河が確認されている。

富山県内各地の平年値(統計期間:1971年 - 2000年、出典:気象庁・気象統計情報
平年値
(月単位)
沿岸部 内陸部
氷見 高岡市
伏木
富山 魚津 朝日町
富山市
秋ケ島
上市 富山市
八尾
砺波 南砺市
南砺高宮
平均
気温
(°C)
最暖月 25.4
(8月)
26.3
(8月)
26.1
(8月)
25.5
(8月)
26.1
(8月)
23.9
(8月)
25.6
(8月)
25.4
(8月)
25.0
(8月)
最寒月 2.1
(2月)
2.6
(2月)
2.5
(1,2月)
2.4
(2月)
3.0
(2月)
0.2
(2月)
1.8
(2月)
1.8
(2月)
1.6
(2月)
降水量
(mm)
最多月 245.3
(12月)
249.4
(12月)
255.4
(1月)
265.8
(7月)
295.5
(11月)
330.9
(7月)
304.7
(1月)
265.8
(1月)
302.3
(1月)
最少月 111.1
(4月)
115.7
(4月)
122.5
(4月)
145.5
(4月)
141.2
(4月)
181.7
(4月)
127.4
(4月)
115.6
(4月)
126.6
(5月)

地域区分[編集]

伝統的に富山平野の中央部にある呉羽丘陵を境に東を呉東(ごとう)、西を呉西(ごせい)と呼んでいた。現在では市町村界によって区切った県東部・県西部という名称も使われている。おおむね呉東・呉西に一致するが、富山市呉羽地区は呉西でありながら県東部に属する。また、富山市婦負地区(旧婦負郡)は、かつて気象庁の地方区分では県西部(西部婦負)に属していたが、行政区分との統一を図るため2006年3月1日より同市他地区と同じ県東部(東部南)へ管轄変更となった。

さらに、県東部を富山地区・新川地区、県西部を高岡地区・砺波地区に細分することがある。

  • 以下の10市2郡4町1村がある(平成の大合併以前は9市18町8村)。町の読みは「ちょう」ではなくどれも「まち」。しかし、地元の人々の中で「ちょう」と読む人が多くいる。ちなみに自治体の数は日本で一番少ない。

自治体[編集]

市町村の数は15であり、これは都道府県の中で一番少ない。

富山県東部(呉東)[編集]

富山地区
新川地区

富山県西部(呉西)[編集]

高岡地区
砺波地区

歴史[編集]

先史[編集]

  • 富山県では旧石器時代遺跡は140以上も確認されている。それらの大半は3万年前までの後期旧石器時代のものである。そして、約2万2000年前頃までの前半期には東日本に分布する立つ野ヶ原型ナイフ形石器と呼ばれる石器群が、後半期には国府型ナイフ形石器と呼ばれる瀬戸内系石器群が出土している。本県では、東西の石器文化の影響を受けたことが分かる。また、これらの石器の材料は本県の西部の頁岩系石材とともに、瀬戸内系安山岩であり、当時の人々の広範囲な活動や交流が認められる。
  • 縄文時代 氷見市の大境洞窟で新石器時代の遺物が発見される。

上代[編集]

  • 紀元前88年(崇神天皇10年)7月 - 四道将軍大彦命高志道を綏撫したといわれる[5]
  • 紀元前7年(垂仁天皇23年) - 山辺之大鶙が垂仁天皇の命ずるところによって鵠を追うて高志国に至ったといわれる[6][7][8]
  • 95年(景行天皇25年)7月3日 - 武内宿禰が北陸巡察を行う[9]
  • 131年190年(成務天皇年間) - 高志国造に市入命を、伊弥頭国造として大河音足尼を任ずる[10]
  • 192年(仲哀天皇元年)閏11月4日 - 越国より仲哀天皇へ白鳥を貢ずる[11]。この時、蒲見別王がこれを越国人より奪ったので、仲哀天皇は兵を遣わしこれを誅殺した[11]
  • 573年(敏達天皇2年)5月3日 - 高麗の使人が越海に漂着し、船破れて溺死者が多かったといわれる[12]
  • 574年(敏達天皇3年)5月5日 - 再び高麗の使人が越海に泊り、7月20日上京したといわれる[13]
  • 588年(崇峻天皇2年)7月1日 - 阿部臣が越国国境を視察する[14]
  • 642年(皇極天皇元年)9月21日 - 越国蝦夷が帰順したといわれる[15]
  • 658年(斉明天皇4年)4月 - 越国守阿倍比羅夫粛慎の征討を開始し[16]、660年(斉明天皇6年)2月には二百艘の船を率いて陸奥・渡島まで遠征したという[17]
  • 大宝年間 - この頃までに越国を分かって越前越中越後とする[18]。越国の分立国は『日本書紀』持統天皇6年9月癸丑条に「越前国司献白蛾」とあるのを初見としていることから、692年(持統天皇6年)以前に越中国も成立した可能性が高いとされている[19]。また、婦負郡新川郡射水郡礪波郡もこの頃までには成立していたといわれ、703年(大宝2年)以前には頸城郡古志郡蒲原郡魚沼郡も越中の版図に含まれていた[19]
  • 701年(大宝元年) - この頃、越中国の国司である佐伯有頼またはその父佐伯有若によって立山が開山し、雄山神社が開かれたと伝えられる[19]。開山縁起についての最古の文書である『類聚既験抄』には「文武天皇御宇大宝元年始所建立也。相伝云、於立山狩人有之。熊射矢ヲ射立追入出処。其熊乍立矢死了。見之皆金色阿弥陀如来也。仍此山云立山権現也。顕現地獄云々」とあるのみで、誰が開山したかということは記されていない[20]。『伊呂波字類抄』では単に狩人ではなくて熊を射った人物を越中守佐伯有若とし、阿弥陀如来を射てしまったことを契機に出家し諸寺を建立したということになっているが[21]、佐伯有頼を開山の祖とする文献も多く、『和漢三才図会』では佐伯有頼が白鷹を追って奥山に入った際、襲いかかってきた熊を弓で射たところ逃げていったので、これを追っていったところ血を流している阿弥陀如来に出逢い、如来より有頼へ立山を開くようにお告げのあったのが立山開山の謂れであるとしており[22][23]、『立山大縁起』はこの佐伯有頼の出来事を大宝2年のこととしている[24]。また『神道集』は立山開山は大宝3年に教導聖人によって行われたとしている[25]。かくの如く立山開山譚は一様ではないが、佐伯有頼を開山の祖とする縁起が多い[19][26]
  • 703年(大宝2年)3月甲申 - 越中国に属していた四郡(頸城郡、古志郡、蒲原郡、魚沼郡)を越後国に所属させる[27]
  • 706年(慶雲3年)2月26日 - 越中国の神社が祈年幣帛の例に入る[28]
  • 709年(和銅2年)3月5日 - 越中等諸国より兵を徴発して越後の蝦夷征討を行う[29]
  • 719年(養老3年)
    • 7月9日 - 北陸道等の民二百戸を遷し出羽柵に配する[30]
    • 7月13日 - 初めて按察使を置き、越前国守正五位下多治比広成に能登、越中、越後を管轄させる[31]
  • 725年(神亀2年) - 寺伝によると、北陸巡錫中の僧侶行基によって国内最大の石仏である不動明王像が彫られ真言密宗大岩山日石寺が開かれたという[19][32]
  • 732年(天平4年)9月5日 - 越中守として田口年足を任ずる(文献上初の越中国国司)[33]
  • 741年(天平13年)12月10日 - 能登国羽咋郡珠洲郡能登郡鳳至郡)を越中国に併合する[34][35]
  • 744年(天平16年)9月15日 - 初めて巡察使を畿内七道に派し、従五位下石川東人を北陸道使となす[36]
  • 746年(天平18年)
    • 4月5日 - 初めて鎮撫使を置き、北陸山陰両道に巨勢奈氐麻呂を任ずる[37]
    • 6月21日 - 越中国の国司として歌人でもある大伴家持が任ぜられる[38]。後に大伴家持が中心となり編纂した『万葉集』には富山県の風景や伝説を詠んだ歌が全4536首のうち337首収められている[39]
    • 8月7日 - 家持邸にて歌会を開き、史生土師宿祢道良が〽ぬばたまの夜はふけぬらし玉くしげ二上山に月傾きぬ(巻十七)と作歌する[40]
  • 748年(天平20年)
    • 春 - 出挙のため家持が諸郡を巡行し〽立山の雪し消らしも延槻の川の渡り瀬鐙漬かすもや〽雄神川紅にほふ娘子らし葦付取ると瀬に立たすらし(巻十七)などの歌を作る[41][40]
    • 3月23日 - 左大臣橘家より使者あり、大伴家持を訪う[40]。家持饗応して作歌あり、〽奈呉の海に船しまし貸せ沖に出でて波立ち来やと見て帰り来む(巻十八)[40]
  • 749年(天平感宝元年/天平勝宝元年)5月5日 - 大伴家持が東大寺占墾地視察のため、東大寺占墾地使僧平栄を饗し、〽焼き太刀を礪波の関に明日よりは守部遣り添へ君を留めむ(巻十八)の歌をなす[40]
  • 751年(天平勝宝3年)7月17日 - 大伴家持が少納言に任ぜられ、越中より離れる[40]。悲別の歌を作って曰く、〽しなざかる越に五年住み住みて立ち別れまく惜しき夕かも(巻十九)[40]
  • 757年(天平宝字元年)5月8日 - 越中国より能登国を分離する[42]
  • 758年(天平宝字2年)9月28日 - 初めて越中国に駅鈴を頒つ[43]
  • 775年(宝亀6年)3月2日 - 初めて越中に大少のを置く[44]
  • 780年(宝亀10年)12月14日 - 射水郡二上神社及び礪波郡高瀬神社を従五位下に叙する[45]
  • 784年(延暦3年)3月3日 - 気多神社を正三位に叙する[46]
  • 795年(延暦14年)8月18日 - 高瀬神社、雄神神社、二上神社を従五位上に叙する[47]
  • 804年(延暦23年)6月10日 - 越中国を上国とする[48]

中古[編集]

  • 806年(大同元年)5月24日 - 初めて観察使を置き、秋篠安人が北陸道観察使に任ぜられる[49][50]
  • 810年(弘仁元年)5月27日 - 越中国に滞在した渤海国使首領である高多仏により、習語生等に対する渤海語の修習が行われる[51]
  • 815年(弘仁6年)2月9日 - 越中国介大伴黒成、越中国多治比清雄、越中国少目和邇真嗣等を官物を横領した罪により免官する[52]。なお、当時越中国司であった藤原鷹養及び越中国大目上村主加豆良は既に卒去していたため罪を問われなかった[52]
  • 840年(承和7年)9月29日 - 高瀬神社及び二上神社を従四位上に叙する[53]
  • 845年(承和12年)9月1日 - 婦負郡鵜坂神社及び新川郡日置神社を従五位下に叙する[54]
  • 854年(斉衡元年)
    • 3月7日 - 高瀬神社及び二上神社を従三位に叙する[55]
    • 12月27日 - 高瀬神社及び二上神社の禰宜及び祝に笏を把るを勅許する[56]
  • 859年(貞観元年)1月27日 - 高瀬神社及び二上神社を正三位に叙する[57]
  • 860年(貞観2年)5月29日 - 鵜坂神社を従四位下、日置神社を正五位上に叙する[58]
  • 862年(貞観4年)10月9日 - 鵜坂神社を従四位上に叙する[59]
  • 863年(貞観5年)
    • 6月17日 - 越中、越後で大地震が発生し、圧死者多数[60]
    • 9月25日 - 雄山神社を正五位下に叙する[61]
  • 867年(貞観9年)
    • 2月27日 - 鵜坂神社を従三位に、日置神社を従四位上に、新川神社を従四位下に叙する[62]
    • 10月5日 - 御田神社を従五位上に叙する[63]
  • 873年(貞観15年)12月15日 - 賀積(加積)神社を従五位下に叙する[64]
  • 876年(貞観18年)7月11日 - 新川神社を従四位上、櫛田神社を従五位下に叙する[65]
  • 878年(元慶2年)5月8日 - 手向神社を従五位下に叙する[66]
  • 879年(元慶3年)
    • 2月8日 - 御田神社を正五位下に叙する[67]
    • 10月29日 - 雄神神社を従四位上、石武雄神社を従五位下に叙する[68]
  • 883年(元慶7年)1月26日 - 新治神社を従五位下に叙する[69]
  • 886年(仁和2年)12月18日 - 新川郡擬大領伊禰頭真益が私物を以て官用を助けた功により従五位下に叙せらる[70]
  • 889年(寛平元年)8月22日 - 雄山神社を従四位下、熊野神社及び脇子八幡宮を従五位下に叙する[71]
  • 894年(寛平6年)7月16日 - 越中等諸国において諸院宮の使等、及び往還の人馬舟車を無理やり雇うことを禁ずる[72]
  • 延喜年間 - この頃『延喜式』成り、越中国の税率及びその期限(巻24主計寮上及び巻26主税寮上)、健児の人員及び武器、また各駅の地所とその伝馬数(巻28兵部省)等を定める[73]
  • 908年(延喜8年)8月16日 - 気多神社官幣に預る[46]
  • 970年(天禄元年) - 『今昔物語集』巻十四所載の越中国僧海蓮が寂滅する[74]
  • 1017年(寛仁元年)8月5日 - 越中の百姓が国司の善状(重任要望)を提出する[75]
  • 1038年(長暦2年)8月25日 - 伊勢斎王の大神宮参入に伴い、北陸道諸国司に太政官符を宛て大中臣為輔を派す[18]
  • 1064年(康平7年) - 源義家征夷の功により越中守に任ぜられることを請う[76]
  • 1065年(治暦元年)9月1日 - 太政官符を越中国司に下し新たに荘園を立てることを停める旨令する[18]
  • 1067年(治暦3年)10月7日 - 越中国司豊原奉季が橋を造った功績によりその任期を延長される[77]
  • 1080年(承暦4年)6月10日 - 白河天皇不予あり、卜奏によって諸国社司に中祓を科し、越中においては鵜坂、気多、白鳥、三宅の諸社が指定される[78]
  • 1103年(康和5年)6月10日 - 堀河天皇不例あり、卜奏によって諸国社司に中祓を科し、越中においては高瀬、鵜坂、白鳥、速川の諸社が指定される[78]
  • 1139年(保延5年)8月4日 - 『朝野群載』や『懐中暦』を著した越中国射水郡出身の算博士三善為康が卒去する[79][8]
  • 1154年(久寿元年)8月10日 - 新川郡新治村、津波によって水没する[8]。『大日本史』曰く「久寿中海溢れて全村海に没す。纔かに社址(引用者註:新治神社)見ゆ。後世退潮し、乃ち更に荒蕪を治め、生地村と名づく」と[80]

近古[編集]

  • 1183年(寿永2年)
    • 5月9日 - 越中国礪波郡般若野において今井兼平が6千騎を以て平家と戦いこれを破る(般若野の戦い[8]
    • 5月11日 - 源義仲が越中国豪族石黒太郎光弘らを従えて越中国礪波山の倶利伽羅峠平維盛を破る(倶利伽羅峠の戦い[8][81][82]。『平家物語』には「源氏はか様にして日をくらし、平家の大勢を倶利伽羅が谷へ追ひおとさうどたばかりけるを、すこしもさとらずして、共にあひしらひ日をくらすこそはかなけれ。次第にくらうなりければ、北南よりまはツつる搦手の勢一万余騎、倶利伽羅の堂の辺にまはりあひ、箙の方立打ちたゝき、時をどツとぞつくりける。平家うしろをかへり見ければ、白旗雲のごとくさしあげたり(中略)平家、したいにくらうはなる。前後より敵はせめ来る。「きたなしや、かへせ〳〵」といふやからおほかりけれども、大勢の傾きたちぬるは、左右なうとツてかへす事かたければ、倶利伽羅が谷へわれ先にとぞおとしける。まツさきにすすんだる者が見えねば、此谷の底に道のあるにこそとて、親おとせば子もおとし、兄おとせば弟もつづく」と、平家の軍勢が谷底へ落ちていった描写はあるものの有名なる火牛の計の話はみえない[83]。火牛の話がみえるのは『源平盛衰記』であり、「四五百余頭ノ牛ノ角ニ松明ヲ燃シテ、平家ノ陣ヘ追入、胡頽子木原柳原上野辺ニ扣ヘタル軍兵三万余騎、鬨ヲ合喚叫、黒坂表ヘ押寄ル。前後四万騎ガ鬨山モ崩岩モ摧ラント夥シ。(中略)我先我先ト諍ヘ共、西ハ搦手也。東ハ追手也。北ハ岩石高シテ上ルヘキ様ナシ。南ハ深キ谷也、下スヘキ便ナシ。闇サハクラシ案内ハ知ラス、如何カスヘキト方角ヲ失ヘリ(中略)爰ニ不思議ソ有ケル。白装束シタル人三十騎ハカリ南黒坂ノ谷ヘ向テ落セ殿原、アヤマチスナ〳〵トテ深谷ヘコソ打入ケレ、平家是ヲ見テ五百余騎連テ落シタリケレハ、後陣ノ大勢是ヲ見テ、落足カヨケレハコソ先陣モ引カヘサザルラメトテ劣シ劣シト父落セハ子モ落ス云々」とある[8]
    • 8月18日 - 義仲、越中国宮崎に居た北陸宮を皇儲につけようと謀るも失敗する[84][82][85]
  • 1186年(文治2年)
    • 6月21日 - 頼朝義経及び行家捜索のための越中含む諸国における武士の濫行を禁ずる旨訓令する[86]
    • 11月26日 - 義経を捕縛する旨、令下る[87]。『義経記』によれば義経一行は倶利伽羅峠を越えて越中に入ったが、如意の渡しにおいてその渡の守に一行が義経を引連れているのではないかと嫌疑をかけられた[88]。そこで武蔵坊弁慶は「あれは白山より連れたる御坊なり。年若きにより人怪しめ申す無念さよ。これより白山に戻り候へ」と言って、義経を船から引き摺り下ろし、扇を以て散々に打ちのめした[88]。渡の頭はこれを見て「判官殿にてましまさずは、さにてこそあるべきよ。か程いたはしげもなく、散々に当たり申されし事、併ら私が打ち申したるなり。御いたはしくこそ候へ」と言ってあわれがり、一行は無事渡海して彼岸の六渡寺に着くことができたが、そこで弁慶は「何時まで君を庇ひ申さんとて、現在の御主を打ち奉りつるぞ。天の恐れも恐ろしや。八幡大菩薩も許し御納受し給へ」といって号泣したと言われている[88]。その後、義経等は「いかせ(岩瀬)の渡り、宮崎の岩戸の崎」を経て越後に入ったという[88]
  • 1187年(文治3年)3月2日 - 頼朝が吉田経房より院旨を伝える書状のあったのを以て、越中国吉岡庄の地頭を交替するよう令する[89][90]
  • 1200年(正治2年) - 院宣を以て越中国堀江荘を不輸の地とし神事に勤行させる[91]
  • 1205年(元久2年)9月16日 - 太政官符を以て祇園社領であった越中国黒川郷堀江保の国役等を免ずる[92]
  • 1221年(承久3年)
    • 5月30日 - 承久の変による戦乱で京方の市河六郎刑部の軍勢を越後国蒲原において鎌倉方が撃破し、越中国宮崎を攻略したという[93]
    • 6月8日 - 同日般若野荘、のち礪波山において官軍賊軍相戦う[18][93]。『吾妻鏡』によると鎌倉方は北条朝時を北陸道大将軍として4万余騎を率いたといい[94]、京方は宮崎定範等北陸の国人が参加していたという[95]。『承久記』曰く、「越中ト加賀ノ堺ニ砥並山ト云所有。黒坂・志保トテ二ノ道アリ。トナミ山ヘハ仁科次郎・宮崎左衛門向ケリ。志保ヘハ糟屋有名左衛門・伊王左衛門向ケリ。加賀国住人林・富樫・井上・津旗、越中国住人野尻・河上・石黒ノ者共、少々都ノ御方人申テ相戦フ。志保ノ軍破ケレバ、京方皆落行ケリ」と[96]
  • 1299年(正安元年) - 慈雲妙意によって臨済宗国泰寺派摩頂山国泰寺が開かれる[97]。初め1296年(永仁4年)慈雲妙意が射水郡二上山に菴居していたところへ孤峯覚明の来り、相伴って紀伊国興国寺に参禅したのを契機に開山されたという[97]
  • 1333年(元弘3年/正慶2年)
    • 2月19日 - 北条高時恒性皇子を越中国に配流しまた同地において守護名越によって弑される[8][98]
    • 5月17日 - 二塚に官軍を邀撃しようと企図した越中国守護名越時有が、大軍来襲の報に接した郎党の落伍によりこれを断念し放生津城に自刃する[99]。『太平記』曰く、「去程ニ、敵ノ早寄来ルヤラン、馬煙ノ東西ニ揚テ候ト騒ゲバ、女房・少キ人々ハ、泣々皆舟ニ取乗テ、遥ノ澳ニ漕出ヌ。ウラメシノ追風ヤ、シバシモヤマデ、行人ヲ波路遙ニ吹送ル。情ナノ引塩ヤ、立モ帰ラデ、漕舟ヲ浦ヨリ外ニ誘ラン。彼松浦佐用姫ガ、玉嶋山ニヒレフリテ、澳行舟ヲ招シモ、今ノ哀ニ被知タリ。水手櫓ヲカイテ、船ヲ浪間ニ差留メタレバ、一人ノ女房ハ二人ノ子ヲ左右ノ脇ニ抱キ、二人ノ女房ハ手ニ手ヲ取組デ、同身ヲゾ投タリケル。紅ノ衣絳袴ノ暫浪ニ漂シハ、吉野・立田ノ河水ニ、落花紅葉ノ散乱タル如ニ見ヘケルガ、寄来ル浪ニ紛レテ、次第ニ沈ムヲ見ハテヽ後、城ニ残留タル人々上下七十九人、同時ニ腹ヲ掻切テ、兵火ノ底ニゾ焼死ケル」と[99]
  • 1334年(建武元年)4月12日 - 建武の新政により旧規に従って諸国にを課し、為に蔵人所よりその旨書状いたる[8]
  • 1335年(建武2年)
    • 8月18日 - 越中国国司たる源定清が北条時行に呼応して挙兵した名越時兼を加賀に討つ(中先代の乱[8][100]
    • 12月12日 - 越中国守護普門利清が足利高氏の叛乱に呼応して越中国国司源定清を石動に攻殺する(延元の乱[100]。『太平記』曰く「越中守護普門蔵人利清、并井上、野尻、長澤、波多野ノ者共、将軍ノ御教書ヲ以テ両国ノ勢ヲ集、叛逆ヲ企ル間、国司中院少将定清、要害ニ就テ、当山ニ楯籠ラルヽニ、今月十二日彼逆徒等雲霞ノ勢ヲ以テ押寄ル間、衆徒等義卒ニ与シテ、身命ヲ軽ストイヘトモ、一陣全キ事ヲ得スシテ遂ニ定清戦場ニ於テ命ヲ隕サル」[100]
    • この年、魚津に松倉城魚津城の築城ありと伝え、『三州志』松倉城條に「元弘中椎名孫八入道居タリ(一作孫六太平記)、建武二年乙亥名越時兼越中ニ起ル時野尻尻玄畜允ヲ嘱ミ兵子ヲ募キ杉本城(此城地新川郡杉本カ然レトモ今無遺蹟)ニ據テ椎名孫八ノ魚津城ヲ攻ムトアリ魚津城ハ松倉城ト云説アリ」といい、また魚津城條に「建武二年名越兼時起ル時椎名孫八入道一城ヲ築キ南朝方ニテ保ム」とある[101][102]
  • 1341年(興国2年/暦応4年)8月12日 - 護国興化寺の開基僧運良寂す[103]
  • 1342年(興国3年/暦応5年・康永元年)春 - 宗良親王越中国名子に駐留され、同地における作歌たる〽かへる雁こしぢの嶺のへだてをも我こえてこそ思しりぬれ、〽今は又とひくる人もなこの浦にしほたれて住あまとしら南などの歌が『李花集』に収められている[104]
  • 1344年(興国5年/康永3年)10月25日 - 幕府が越中国にあった南軍の攻撃を吉見頼隆に命ずる[105]
  • 1345年(興国6年/貞和元年)
    • 3月10日 - 吉見頼隆、越中国に発向する[105]
    • 6月3日 - 国泰寺開基僧妙意寂す[106]
    • 7月11日 - 南軍井上俊清、越中国滑川において吉見頼隆と戦い敗れる[106]
  • 1346年(正平元年/貞和2年)3月6日 - 越中国の南軍井上俊清、新田貞員、粟澤政景等が能登国に入り木尾嶽城に據る[106]。幕軍吉見氏頼これを攻め、同年3月16日より相戦い、同年5月4日落城する[106]
  • 1350年(正平5年/観応元年)
    • 10月23日 - 直義方の桃井直常、越中国氷見湊を攻略し能登に進撃する(観応の擾乱[107]
    • 11月3日 - 桃井直常に和した井上布袋丸、富来彦十郎等が能登国花見槻に戦って敗れ越中に遁走する[107]
  • 1351年(正平6年/観応2年)1月15日 - 桃井直常、越中国人等を率いて上洛し、四条河原に高氏及び義詮と戦ってこれを破る[108]
  • 1352年(正平7年/観応3年・文和元年)6月6日 - 高氏方の吉見氏頼、能登国より越中国に攻入るを、桃井直常・直信邀撃して敗れる[109]
  • 1362年(正平17年/康安2年・貞治元年)
    • 1月23日 - 桃井直和越中に所在の北軍を攻撃する[110]
    • 5月22日 - 桃井直常等石動山に北軍と戦う[110]。激戦による損耗のため、北軍は義詮が援軍を派遣してこれを督励し、7月に至って桃井直広その軍門に降る[110]
  • 1390年 本願寺5代目法主である綽如によって瑞泉寺が建立され、門徒による土一揆が増える。

戦国時代[編集]

江戸時代[編集]

明治時代(置県以前)[編集]

明治時代(置県以後)[編集]

大正 - 第二次世界大戦前[編集]

第二次世界大戦後[編集]

平成[編集]

人口[編集]

富山県市町村人口増減率分布図(2005年度と2010年度国勢調査から算出)
増加
  10.0 % 以上
  7.5 - 9.99 %
  5.0 - 7.49 %
  2.5 - 4.99 %
  0.0 - 2.49 %
減少
  0.0 - 2.5 %
  2.5 - 5.0 %
  5.0 - 7.5 %
Demography16000.svg
富山県と全国の年齢別人口分布(2005年) 富山県の年齢・男女別人口分布(2005年)
紫色 ― 富山県
緑色 ― 日本全国
青色 ― 男性
赤色 ― 女性
富山県(に相当する地域)の人口の推移
1970年 1,029,695人
1975年 1,070,791人
1980年 1,103,459人
1985年 1,118,369人
1990年 1,120,161人
1995年 1,123,125人
2000年 1,120,851人
2005年 1,111,729人
2010年 1,093,365人
総務省統計局 国勢調査より

政治・行政[編集]

富山県庁

行政機構[編集]

歴代知事(公選)[編集]

  • 初代 館哲二(1947年4月19日〜1947年11月15日、1期)
  • 2代 高辻武邦(1948年11月23日〜1956年9月30日、2期)
  • 3代 吉田実(1956年9月30日〜1969年12月1日、4期)
  • 4代 中田幸吉(1969年12月30日〜1980年9月18日、3期)
  • 5代 中沖豊(1980年11月11日〜2004年11月8日、6期)
  • 6代 石井隆一(2004年11月9日〜、2期目)

県議会[編集]

財政[編集]

平成24年度[編集]

平成23年度[編集]

  • 財政力指数 0.44

平成22年度[編集]

  • 財政力指数 0.46

平成21年度[編集]

  • 財政力指数 0.48

平成20年度[編集]

  • 財政力指数 0.48

平成19年度[編集]

  • 財政力指数 0.45

平成18年度[編集]

  • 財政力指数 0.4159
  • 標準財政規模 2647億円
  • 普通会計歳入 5206億円
  • 経常収支比率 94.5%
  • 人口一人当たり地方債残高 89万6267円 普通会計分のみ
  • 実質公債費比率 16.3%
  • ラスパイレス指数 96.3

地方債等の残高

  • 1普通会計分の地方債 9954億円
  • 2上記以外の特別会計分の地方債 902億円
  • 3第3セクター等の債務保証等にかかわる債務 264億円

地方債等の合計 1兆1120億円 (連結会計)

平成17年度[編集]

  • 財政力指数 0.37

広域行政[編集]

富山県内における広域行政の主な形態は以下の通り。

東部
  • 富山地区広域圏事務組合(富山市・滑川市・上市町・立山町・舟橋村) - ごみ処理
  • 中新川広域行政事務組合(上市町・立山町・舟橋村) - 下水道・介護保険
  • 新川広域圏事務組合(魚津市・黒部市・入善町・朝日町) - ごみ処理・し尿処理・斎場ケーブルテレビ
西部
  • 砺波広域圏事務組合(砺波市・南砺市) - ごみ処理・救急医療・上水道・ケーブルテレビ事業(ケーブルテレビ事業に限り小矢部市も含む)
  • 砺波地区消防組合(砺波市・南砺市・小矢部市) - 広域消防
  • 高岡地区広域圏事務組合(高岡市・小矢部市・氷見市) - ごみ処理・ソフト事業(広域観光等)

姉妹州省・提携州省、姉妹都道府県[編集]

経済・産業[編集]

産業[編集]

越中は古来より米所であった。特筆すべき資源として、豊富な水資源とそれを利用した水力発電がある。富山県は明治から昭和にかけてこの電力を生かして第一次産業から第二次産業、つまり日本海側屈指の工業地域(北陸工業地域)へと産業転換を果たした。第三次産業の情報処理業はインテックなど企業向けが中心である。一方で地方としては珍しいアニメ制作会社P.A.WORKS)がある。

一次産業[編集]

農地は減少傾向にあるが、耕作地における水田率は全国1位 (95.9%)。砺波地区においては明治時代から続くチューリップの栽培が盛んであり、異彩を放っている。北部に占める富山湾の恩恵により、漁業も盛んであったが、近年定置網漁を除く、その他の漁業は衰退の傾向にある。しかし、国民のグルメ指向と輸送時間の短縮化により、従来は移送が不可能であったシロエビなど、今まで売れなかった商品が注目されている。

  • 農業:米、砺波のチューリップ、福光の干し柿、入善のジャンボ西瓜
  • 漁業 - 豊かな漁場である富山湾を有し発達している。他県に無い特色としては伝統的なブリ定置網漁、日本唯一の群泳海域を持つホタルイカ漁、保存技術の発達で可能になったシロエビ漁など。また、元々は捨てられていた幻魚(ゲンゲ)は網に掛かったものが食用とされている。
  • 林業 - 山の大半が国立公園のため、あまり盛んではない

二次産業[編集]

富山県は、日本海側最大の工業集積地であり、北陸工業地域の中核である。

立山連峰の豊富な水資源と水力発電を利用して産業が発達している。特に電気料金は北陸電力が日本で最も安い電気料金を実現しており[116]、多量の電気を必要とするアルミ精錬とその関連産業が栄えてきた。臨海部を中心として石油精製、重化学工業、各種電気製造が発達している。特定重要港湾伏木富山港では大量の原料の輸入と製品の輸出が行われている。

越中の薬売り」の伝統から医薬品の製造・販売が盛んである。製薬業は景気後退や高齢化の進行に強い。ジェネリックブームの恩恵もあり、平成不況の中でも安定している。

三次産業[編集]

商業[編集]

県外への輸出は伝統的に富山の売薬やブリ街道が有名である。古くから北前船で知られる日本海側貿易の中継拠点であったが、現代ではさらに環日本海貿易の拠点として発達し、中古車などの取引拠点となっている。

県内商業としては伝統的には総曲輪周辺の中心市街地が栄えていた。近年では車社会化が進行し、幹線道路沿いの郊外店が主流となっている。それに伴い大型店舗化が進行している[117]。富山市と高岡市の商圏は県内のみならず岐阜の北部や新潟県上越地方をも収めるが、隣県の金沢市の商圏と競合関係にある。

その他産業[編集]

生活・交通[編集]

警察[編集]

消防[編集]

単独設置
組合設置

交通[編集]

空港[編集]

道路[編集]

道路整備率は75.7%(2006年)と全国で最高水準にある[118]。その一方で混雑率は大都市圏よりずっと低く(1,079台/124時間)[118]、全国で最も快適に自動車生活を送れる地域の一つである。

鉄道[編集]

全国の都道府県で唯一、県内全ての市町村に鉄道駅が存在するなど、地方としては鉄道網が発達していたが、モータリゼーションの進行で在来線が衰退傾向にある。その一方で、ライトレール専用路線が新設されるなど先進的な試みもなされている。また北陸本線がJRから経営分離されて以降は、沖縄県を除く46都道府県で唯一JR在来線の幹線が存在しない県となった[119]

港湾[編集]

富山湾に設けられた湾港群。古くより沿岸貿易路の中継拠点であった。現代では環日本海貿易の中経路として、そして北陸工業地帯と世界をアクセスする。

富山湾は黒潮親潮潮境が生み出す豊穣な漁場であるため、漁港としても重要である。

医療・福祉[編集]

災害拠点病院
保育所

教育[編集]

専修学校
特別支援学校
高等学校
中学校
小学校
幼稚園

メディア・芸能[編集]

新聞社[編集]

補足

放送局[編集]

テレビ
※富山県にはANN系列の放送局は無いものの、取材拠点として富山市テレビ朝日富山支局北陸朝日放送富山営業支局が設置されている。また、県内のケーブルテレビ局では北陸朝日放送 (5ch) が区域外再放送により視聴可能。
TXN系列は県内をエリアとする放送局が無い上、ケーブルテレビ局においてテレビ東京 (7ch)・テレビ大阪 (7ch)・テレビ愛知 (10ch) の区域外再放送は一切行われていない。
ラジオ
ケーブルテレビ

映像[編集]

雑誌[編集]

文化・スポーツ[編集]

県民性[編集]

貯蓄率は高く、「越中の一つ残し」と言われるほどである。自分の家を持って一人前という風潮があり持ち家率は全国最高である[120]。次男以下が結婚すると家を建ててあげるのが当たり前になっている。さらに家の大きさ(延べ床面積)も全国一大きい[121]

子弟の教育にも熱心な傾向があり全国学力調査など教育関係の統計で、上位に位置することが多い[122]

大家族傾向がある[123]ため、世帯収入が全国最高水準である[124]。逆に生活保護家庭の割合は極端に低く、全国最低である[125]

乳幼児を祖父母等に預けることが比較的容易なこともあって共働き率が全国最高水準である[126]。石川の「嫁は越中から貰え」という格言は、富山の女性は働き者とされるところからきている。コロッケの消費が多いのも共働きが多いからとされる。

「サラリーマン小説」を得意にした富山市出身の源氏鶏太は「富山県人である宿命」(『わが文壇的自叙伝』集英社)に同窓会に出てみんな泥くさいとし「私自身、極めて泥くさい人間であることを知っているし、それが富山県人の特性であると信じている。ただし、あえて弁解すれば、泥くさいということは、軽薄でないということだ」と書いている。

富山で過ごしたことがある宮本輝天の夜曲 流転の海・第四部 』には主人公の友人・久保敏松が富山人というのは、地味ではあっても、進取の気概を内に秘めていて、粘り強く自分の仕事に工夫を凝らすという特質を持っているような気がする、という。

この勤倹克己を地で行くような県民性は、安田財閥安田講堂に名を残す安田善次郎浅野財閥浅野総一郎ホテルニューオータニ大谷米太郎のような経済的成功者を多く生み出してきた。

海産物を好む食文化を持っており魚介類の消費額が全国一大きい[127]。特にコンブブリイカの消費額が群を抜いて大きい[128]

北陸地方は一向一揆で知られる浄土真宗が盛んで、越中の価値観にも強い影響を与えてきた。たとえば堕胎・間引きを忌んだことから、江戸時代から人口増加率が特に高く、全国に移住者を出していた[129]。関東での銭湯経営者も新潟と同様に富山出身社が多いが、これは厳しい仕事だからとされる。北海道開拓においても、富山県出身者が有意に多く[130]北方領土からの引揚者も北海道に次ぎ2番目に多い。富山を本社とする北陸銀行も小樽をはじめとして北海道に支店が多い。

県内全域から見られる立山連峰は、山岳信仰の舞台になっていて立山は富士山、白山と日本三霊山の一つである。

プロ野球の父と呼ばれる正力松太郎の出身地であることから読売ジャイアンツファンと北陸中日新聞の発行エリアなため中部地方地域唯一の球団である中日ドラゴンズファンが多い特徴がある。ちなみに、フジテレビアナウンサーの石本沙織は読売ジャイアンツファン、千葉ロッテマリーンズの石川歩は中日ドラゴンズファン、鹿島アントラーズの柳沢敦は阪神タイガースのファンを公言している。これは、富山県民は人と違うことをしたがらないという県民性があるからである。

県民性に関する本の多くは真宗信者の勤勉さと家族の絆、富山の売薬によるパイオニア精神などを通して、勤勉でありながら、結婚式などでお金を蕩尽する部分に焦点を当てている。NHKなどの県民調査では石川県とのライバル意識が強いとされる。

食文化[編集]

郷土料理

伝統工芸[編集]

経済産業大臣指定伝統的工芸品
伝統工芸品

スポーツ[編集]

観光[編集]

国宝
  • 瑞龍寺 仏殿、法堂、山門(高岡市)
重要伝統的建造物群保存地区

観光PRマスコット[編集]

元気とやまマスコット 「きときと君

富山県を舞台とした作品[編集]

太字は映画化またはテレビドラマ化された作品。

文学[編集]

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

漫画[編集]

アニメ[編集]

ゲーム[編集]

音楽[編集]

富山県出身の人物[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ http://www.t-hito.or.jp/kids/yumeoi/zoom/5-1.pdf 富山県の生みの親米沢紋三郎
  2. ^ 北アルプス立山連峰で発見の氷の塊が日本初の氷河の可能性高いと、立山カルデラ砂防博物館学芸員。 2010/11/30 17:05 共同通信配信
  3. ^ 飛越協議会「飛越地方とは」
  4. ^ 豪雪地帯の地域指定図 - 富山県(地域指定状況) - 国土交通省(2011年8月3日閲覧)
  5. ^ 『日本書紀』崇神天皇10年秋7月条(『国史大系第一巻 日本書紀』、1897年(明治30年)2月、経済雑誌社)
  6. ^ 『国史大系第七巻』所収「古事記中巻」垂仁天皇条、1898年(明治31年)7月、経済雑誌社
  7. ^ 『古事記伝』二十五巻にこれを「越中国婦負郡白鳥神社」、「新川郡鳥取郷」に比定する説あり(本居宣長、『古事記伝三』、1930年(昭和5年)5月、日本名著刊行会)
  8. ^ a b c d e f g h i 富山県編、『越中史料』第1巻、1909年(明治42年)9月、富山県
  9. ^ 『日本書紀』景行天皇25年7月3日条(『国史大系第一巻 日本書紀』、1897年(明治30年)2月、経済雑誌社)
  10. ^ 『先代旧事本紀』巻十「国造本紀」より(『国史大系第七巻』、1898年(明治31年)8月、経済雑誌社)
  11. ^ a b 『日本書紀』仲哀天皇元年閏11月4日条(『国史大系第一巻 日本書紀』、1897年(明治30年)2月、経済雑誌社)
  12. ^ 『日本書紀』敏達天皇2年5月3日条(『国史大系第一巻 日本書紀』、1897年(明治30年)2月、経済雑誌社)
  13. ^ 『日本書紀』敏達天皇3年5月5日条(『国史大系第一巻 日本書紀』、1897年(明治30年)2月、経済雑誌社)
  14. ^ 『日本書紀』崇峻天皇2年7月1日(壬辰)条(『国史大系第一巻 日本書紀』、1897年(明治30年)2月、経済雑誌社)
  15. ^ 『日本書紀』皇極天皇元年9月21日条(『国史大系第一巻 日本書紀』、1897年(明治30年)2月、経済雑誌社)
  16. ^ 『日本書紀』斉明天皇4年4月条(『国史大系第一巻 日本書紀』、1897年(明治30年)2月、経済雑誌社)
  17. ^ 『日本書紀』斉明天皇6年2月条(『国史大系第一巻 日本書紀』、1897年(明治30年)2月、経済雑誌社)
  18. ^ a b c d 富山県、『越中史料』第1巻、1909年(明治42年)9月、富山県
  19. ^ a b c d e 高瀬重雄、『日本歴史地名大系第16巻 富山県の地名』、2001年(平成13年)7月、平凡社
  20. ^ 『続群書類従第三輯上神祇部』所収「類聚既験抄」、1924年(大正13年)2月、続群書類従完成会
  21. ^ 『古事類苑地部二』、1913年(大正2年)7月、神宮司庁
  22. ^ 佐伯有義編、『富山県神社祭神御事歴』、1924年(大正13年)5月、富山県神職会
  23. ^ 寺島良安、『和漢三才図会第三冊』、1901年(明治34年)11月、中外出版社
  24. ^ 神道大系編纂会編、『神道大系神社編三十四 越中・越後・佐渡国』、1986年(昭和61年)7月、神道大系編纂会
  25. ^ 神道大系編纂会編、『神道大系文学編一 神道集』、1988年(昭和63年)2月、神道大系編纂会
  26. ^ 富山大百科事典編集事務局編、『富山大百科事典』、1994年(平成6年)8月、北日本新聞社
  27. ^ 『続日本紀』大宝2年3月甲申条(『国史大系第二巻』、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
  28. ^ 『続日本紀』慶雲3年2月26日条(『国史大系第二巻』、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
  29. ^ 『続日本紀』和銅2年3月壬戌条(『国史大系第二巻』、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
  30. ^ 『続日本紀』養老3年7月9日条(『国史大系第二巻』、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
  31. ^ 『続日本紀』養老3年7月13日条(『国史大系第二巻』、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
  32. ^ 文部省編、『史蹟調査報告第六輯』、1932年(昭和7年)2月、文部省
  33. ^ 『続日本紀』天平4年5月乙巳条(『国史大系第二巻』、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
  34. ^ 『国史大辞典第二巻』、1980年(昭和55年)1月、吉川弘文館
  35. ^ 『続日本紀』天平13年12月丙戌条(『国史大系第二巻』、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
  36. ^ 『続日本紀』天平16年9月甲戌条(『国史大系第二巻』、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
  37. ^ 『続日本紀』天平18年4月丙戌条(『国史大系第二巻』、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
  38. ^ 『続日本紀』天平18年6月壬寅条(『国史大系第二巻』、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
  39. ^ http://www.manreki.com/arekore/utameguri/utam0100.html (高岡市万葉歴史館ホームページ)
  40. ^ a b c d e f g 佐伯昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校註、『萬葉集四』、2003年(平成15年)10月、岩波書店
  41. ^ 森斌、「家持天平二十年出挙の諸郡巡行歌の特質」、『広島女学院大学日本文学』第12号、2002年(平成14年)7月、広島女学院大学
  42. ^ 『続日本紀』天平宝宇元年5月8日条(『国史大系第二巻』、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
  43. ^ 『続日本紀』天平宝字2年9月28日条(『国史大系第二巻』、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
  44. ^ 『続日本紀』宝亀6年3月2日条(『国史大系第二巻』、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
  45. ^ 『続日本紀』宝亀10年12月14日条(『国史大系第二巻』、1897年(明治30年)4月、経済雑誌社)
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  128. ^ 統計局家計調査
  129. ^ 中川正「関東における北陸人集落の繁栄」『とやま経済月報』平成14年3月号
  130. ^ 明治25年至同29年府県別北海道移住者人員 道庁殖民部拓殖課『明治29年来住戸口表』富山県出身者が全体の1割以上を占めていたことが分かる

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

行政

観光

先代:
富山藩
行政区の変遷
1871年
(第1次富山県)
次代:
新川県
先代:
石川県の一部
越中国
行政区の変遷
1883年 -
(第2次富山県)
次代:
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