渋沢篤二
渋沢 篤二(澁澤 篤二[1]、しぶさわ とくじ、1872年(明治5年)10月16日[1] - 1932年(昭和7年)10月6日[2])は、日本の実業家[1]。渋澤倉庫取締役会長[2][3][4]。族籍は東京府華族[3][4]。
人物[編集]
東京府出身[1]。子爵・渋沢栄一の長男で渋沢武之助、渋沢正雄、渋沢秀雄の兄[3][4][5]。10歳ぐらいの時に母を失い、年上の姉たちに育てられる[6]。1886年、「龍門雑誌」の刊行を始める[7]。
学習院を経て熊本第五高等中学校に学ぶが、病のため退学する[1]。血洗島で蟄居謹慎という処分を命じられる[7]。家庭に良師を招聘して、英漢及び法律経済の学を修める[1]。1899年、欧米諸国を歴遊して、その制度文物を視察する[1]。帰朝後に東京毛織取締役に挙げられる[1]。
1911年、篤二と芸者玉蝶のスキャンダルが表面化[7]。1912年1月、篤二の廃嫡方針が同族会で決定される[8]。1913年1月、篤二の廃嫡が正式に決定[8]。『東京朝日新聞』は「澁澤男の廢嫡訴訟 篤二氏身體纎弱の故を以て」という見出しで「篤二氏は明治40年3月頃より脳神経を病み、暫く治療服薬する内腎臓炎を併発し、それよりやや異状を呈し時折暴言を吐くなどの事があった」などと伝えている[7]。
渋澤倉庫専務取締役や監査役に就任し、一時病のため休養したが、長きにわたり経営の重責に当たる[2]。1932年の夏に健康をそこない、以来引きこもり専ら療養につとめるが、10月6日に重態になり、同日午後3時終に永眠する[2]。
趣味は義太夫、常磐津、清元、小唄、謡曲、写真、記録映画、乗馬、日本画、ハンティング、犬の飼育と多岐にわたる[7]。住所は東京市芝区三田綱町[1][4][5]、同区白金三光町[3]。
弟の秀雄は篤二について「長兄は好きなセッターの優良種を数匹飼ったり、気の合った知友を夕食に招いたり、生活を楽しむことだけが商売みたいな、世にも気楽な一生を送った」と述べている[7]。佐野眞一は篤二を「巨人栄一の重圧から逃げるため放蕩に走った悲劇の人物」と評している[7]。
家族・親族[編集]
- 渋沢家
- 父・栄一(1840年 - 1931年、埼玉県大里郡八基村出身、子爵、第一銀行相談役、東京市養育院長) - 住所は東京府北豊島郡滝野川町西ケ原[5]。
- 妻・敦子(1880年 - ?、伯爵・橋本実梁の娘、橋本実頴の妹)[5] - 夫篤二の廃嫡が正式に決まった直後に敬三ら3人の子供を連れて三田綱町の屋敷を出て、数年間にわたり本郷西方町、高輪車町、駒込神明町などの小さな借家を転々とする[7]。
- 長男・敬三[3](1896年 - 1963年、子爵、渋沢同族社長[9]、日本銀行総裁、大蔵大臣) - 東京深川生まれ[6]。
- 男・信雄[3](1898年 - 1967年、福本書院、独逸書輸入書籍商[9])
- 三男・智雄[3](1901年 - ?)
- 親戚
脚注[編集]
- ^ a b c d e f g h i 『大正人名辞典』405頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年2月23日閲覧。
- ^ a b c d 『澁澤倉庫株式會社創立三十周年記念小史』45 - 48頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年2月23日閲覧。
- ^ a b c d e f g 『人事興信録 第9版』シ42頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年2月23日閲覧。
- ^ a b c d 『人事興信録 第8版』シ47頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年2月23日閲覧。
- ^ a b c d 『大衆人事録 昭和3版』シ61 - 62頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年2月25日閲覧。
- ^ a b 渋沢雅英『父・渋沢敬三』24 - 46頁。
- ^ a b c d e f g h 『渋沢家三代』123 - 190頁。
- ^ a b 『渋沢栄一 社会企業家の先駆者』122頁。
- ^ a b 『人事興信録 第11版 上』シ67 - 68頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年2月23日閲覧。
参考文献[編集]
- 東洋新報社編『大正人名辞典』東洋新報社、1917年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 昭和3版』帝国秘密探偵社ほか、1927年。
- 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
- 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
- 人事興信所編『人事興信録 第11版 上』人事興信所、1937 - 1939年。
- 『澁澤倉庫株式會社創立三十周年記念小史』澁澤倉庫、1939年。
- 佐野眞一『渋沢家三代』文藝春秋、1998年。
- 島田昌和『渋沢栄一 社会企業家の先駆者』岩波新書、2011年。