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北白川宮能久親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
北白川宮能久親王
北白川宮
続柄

身位 親王
敬称 殿下
出生 1847年4月1日
(弘化4年2月16日)
江戸幕府・山城国愛宕郡京都御車通今出川下(現:京都府京都市上京区河原町通今出川下ル梶井町)伏見宮別邸
死去 (1895-10-28) 1895年10月28日(48歳没)
大日本帝国の旗 日本統治下台湾・台南民政支部台南府城荘雅橋街(現:中華民国の旗 中華民国・台南直轄市中西区忠義路)呉汝祥邸
埋葬 1895年11月11日
豊島岡御陵
配偶者 山内光子
  島津富子
子女 竹田宮恒久王(第1王子)
北白川宮成久王(第3王子)
輝久王(第4王子)
保科武子(第3王女)
父親 伏見宮邦家親王
母親 堀内信子
栄典 大勲位菊花章頸飾
大勲位菊花大綬章
功三級金鵄勲章
役職 貴族院皇族議員
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北白川宮能久親王
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴 1874年 - 1895年
最終階級 陸軍大将
指揮 近衛師団長
第4師団長
第6師団長
戦闘
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称号:親王

北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさしんのう、1847年4月1日〈弘化4年2月16日〉- 1895年〈明治28年〉10月28日)は、日本の皇族。北白川宮第2代当主。陸軍軍人。幼名は満宮(みつのみや)。北軽井沢開発の祖とよばれ、現在は群馬県長野原町北軽井沢の牧宮神社に祀られている。

最後の輪王寺宮(りんのうじのみや)として知られる。伏見宮邦家親王の第9王子。

生母は堀内信子。幕末に活躍した山階宮晃親王と久邇宮朝彦親王の弟で、仁孝天皇の猶子にもなっているため、孝明天皇の義弟、明治天皇の義理の叔父に当たる。また、弟で義父に当たる北白川宮智成親王が孝明天皇の猶子に当たるため、明治天皇の義理の甥でもある。

略歴

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幕末

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嘉永元年8月3日(1848年8月31日)、1歳で青蓮院宮の附弟となり亡き仁孝天皇の猶子とされ、嘉永5年(1852年)に梶井門跡の附弟となる。安政5年10月22日(1858年11月27日)に親王宣下を受け能久の諱を与えられ、翌月の11月23日(12月27日)には輪王寺宮慈性入道親王(有栖川宮幟仁親王の弟)の附弟となり、兄の青蓮院宮尊融入道親王(後の久邇宮朝彦親王)を戒師として得度し、公現(こうげん)の法諱を称する[1][2]。

慶応3年(1867年)5月、江戸に下って上野の寛永寺に入り、同月の慈性入道親王の隠退に伴って、寛永寺貫主・日光輪王寺門跡を継承した。院号は「鎮護王院宮」、歴代門主と同じく「輪王寺宮」と通称された。慈性入道親王は天台座主であったが、座主職は梶井門跡の昌仁入道親王が再継承している。

慶応4年(明治元年/1868年)1月に戊辰戦争が始まり鳥羽・伏見の戦いの後、輪王寺宮は前将軍徳川慶喜の依頼を受けて輪王寺宮執当の覚王院義観ら側近とともに2月21日(3月14日)に江戸を出発し、3月7日(3月30日)に東征大総督・有栖川宮熾仁親王を駿府城に訪ね、新政府に慶喜の助命と東征中止の嘆願を行った。しかし、助命については条件を示されたものの東征中止は一蹴されたため6日後の13日(4月5日)に寛永寺へ戻った。

父や熾仁親王からは京都へ帰還を勧められるも拒絶した。彰義隊が寛永寺に立て篭もった後の5月4日(6月23日)には熾仁親王が江戸城に招いているが、この使いには病であると称して会わなかった[3]。5月15日(7月4日)に上野戦争が発生したが、彰義隊の敗北により寛永寺を脱出、25日(7月14日)に羽田沖に停泊していた榎本武揚率いる幕府海軍の手引きで長鯨丸へ乗り込み東北に逃避、平潟に到着した。東北では覚王院義観ら側近とともに会津、米沢を経て仙台藩に身を寄せ、7月12日(8月29日)に白石城へ入り奥羽越列藩同盟の盟主に擁立された。輪王寺宮自身も「会稽の恥辱を雪ぎ、速に仏敵朝敵退治せんと欲す」と述べるなど、新政府軍に対して強い反感を持っていた[4]。奥羽越列藩同盟側は輪王寺宮に対し、軍事的要素も含む同盟の総裁への就任を要請した。しかし輪王寺宮は「君側の奸」を除くことには同意し、政治面での盟主にはなるが、出家の身であるために軍事面では指導できないとした[5]。結局6月16日(8月4日)に盟主のみの就任に決着、7月12日(8月29日)には白石城に入り列藩会議に出席した。以後降伏まで白石城と天台宗仙岳院を行き来していた[6][7]。

「東武天皇」説

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輪王寺宮が戊辰戦争中の慶応4年に彰義隊に擁立された頃、または奥羽越列藩同盟に迎えられた頃、東武皇帝あるいは東武天皇として皇位に推戴されたという説がある。

上野戦争の頃から輪王寺宮が天皇として擁立されるという噂は流れており[8]、輪王寺宮の江戸脱出に手を貸した榎本武揚も「南北朝の昔の如き事を御勤め申す者が有之候とも御同意遊ばすな」と忠告している[4]。

法学者であり、歴史関係の著書もある瀧川政次郎はこの際輪王寺宮が同盟の「天皇」として推戴された可能性があると指摘し[9]、その後、武者小路穣[10]、鎌田永吉[11] と続いた。また遠藤進之助、亀掛川博正らも追随している[4]。藤井徳行はこの説をさらにすすめ[12]、当時の日本をアメリカ公使は本国に対して、「今、日本には二人の帝(ミカド)がいる。現在、北方政権のほうが優勢である。」と伝えており、新聞にも同様の記事が掲載されている[13] ことや、この「朝廷」が「東武皇帝」を擁立し、元号を「大政」と改め、政府の布陣を定めた名簿が史料として残っている。「菊池容斎史料」「蜂須賀家史料」「日光屋史料・鶴ヶ島」「旧仙台藩士資料」がそれであり、 これらを藤井徳行は「東北朝廷閣僚名簿」と表現している[4]。藤井はこれらを踏まえ、「東北朝廷」の存在はほぼ確定的になったと主張した[4]。このほか星亮一、小田部雄次なども東北朝廷説を支持している[4]。

雑誌「新潮」の1950年(昭和25年)10月号に瀧川政次郎が「知らざる天皇」という論考を載せており、能久親王は、彰義隊隊長天野八郎に薩長討伐の令旨を出し、さらに彰義隊は日光山に隠されていた錦の御旗を掲げていたといい、瀧川は子供の時に上野の山に錦旗がひらめく錦絵を見たという[14]。

独自元号としての「大政」は蜂須賀家資料と郷右近馨氏資料には即位は6月15日(8月3日)とある部分でこの時すでに「大政」と改元されているかのように読めるが、菊池容斎資料では六月十六日に「大政」と改元したとある。還俗後の諱(俗名)は「陸運(むつとき)」としたという。また覚王院義観の日記には、輪王寺宮を天皇に擬するような表現が度々使われており、藤井徳行など東北朝廷説論者が根拠とすることもあるが、藤井自身も認めるように、義観の日記には「宮御方」など親王に対する用語が併用されていた[5]。

一方で石井孝、佐々木克、工藤威は現実性をもたない、構想のみのものであったと批判している[4]。輪王寺宮は列藩会議出席に先立つ7月5日には「今上皇帝 玉体清寧」を祈る祈禱も行っており[5]、7月9日に秋田藩、7月10日には仙台藩に対し「幼君」のため、「久壊凶悪」な「薩賊」を除くとした「輪王寺宮令旨」を下している[15]。さらに7月10日には動座について説明し、「薩賊」を除くために輪王寺宮が決起したという布告文が公議府から出されている[15]。この布告文には目的を達成したあと輪王寺宮が東叡山(寛永寺)に戻るとされた上、「南北朝ノ故事ヲ附会シテ、宮様ノ御神意ヲ弁ヘス、誣罔ノ説ナサンコトヲ恐ル」と説明されている[15]。石井孝はこの布告文から東北朝廷の存在は成り立たないとしている[5]。工藤威は即位や改元が実際には行われておらず、還俗した様子も見られないと指摘している[4]。また東北朝廷の存在を示す「東北朝廷閣僚名簿」の諸史料は、作成された経緯が不明確であると指摘されている[5]。

明治時代

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北白川宮能久親王(1890年頃)
陸海軍連合大演習を期して名古屋の春琴楼に集まった軍首脳部と外国武官団。最前列右から五人目が能久親王(1890年4月3日)

9月15日(10月30日)、仙台藩は新政府軍に降伏し、公現入道親王も仙台藩からの連絡を受け取り18日(11月2日)に降伏文を奥羽追討平潟口総督四条隆謌へ提出、10月12日(11月25日)には仙岳院を出発して途中の江戸で官軍に護送され、11月19日(1869年1月1日)に京都に到着、そこで蟄居を申し付けられ実家の伏見宮家へ預けられた。更に仁孝天皇猶子と親王の身分を解かれる処分も受けた。

明治2年9月4日(1869年10月8日)に処分を解かれ[16]、伏見宮に復帰し終身禄三百石を賜った[17]。この頃は幼名の伏見満宮(ふしみ みつのみや)で呼ばれた。明治3年10月10日(1870年11月2日)に熾仁親王との同居を命じられ[18]、閏10月28日(12月20日)には太政官に対してイギリスへの海外留学を願い出ている[19]。11月4日には宮号を称することが認められ、能久の諱に戻った[19][20][21]。12月にプロイセン(後のドイツ帝国)留学に出発した[22][23]。留学中の明治5年3月23日(1872年4月30日)、早世した弟の北白川宮智成親王の遺言により北白川宮家を相続した。

ドイツではドイツ語を習得、ドイツ軍で訓練を受けた後にプロイセン陸軍大学校で軍事を学習した。1874年(明治7年)9月25日には陸軍少佐に任官している[24]。

1876年(明治9年)12月にドイツの貴族の未亡人ベルタ(ブレドウ・ヴァーゲニッツ男爵の娘、テッタウ男爵の寡婦)と婚約。

翌1877年(明治10年)4月に明治政府に対し結婚の許可を申し出るが、政府は難色を示し帰国を命じる。帰国直前に能久親王は自らの婚約をドイツの新聞等に発表したため問題となったが[25]、結局7月2日にインド洋経由で日本に帰国し[26]、岩倉具視らの説得で婚約を破棄、7月26日から京都でまた謹慎することになる[27][28]。

3ヶ月後に謹慎解除された後は陸軍で職務に励み、1878年(明治11年)8月26日に仁孝天皇の猶子であることと、親王位に復帰[29]

1882年(明治15年)、軍馬の養育地として、大日本農会の会長だった北白川宮能久親王が群馬県に放牧場「浅間牧場(吾妻農林牧場)」を開設。北白川宮家と北軽井沢の関係が始まる。

1884年(明治17年)に陸軍少将、さらに1892年(明治25年)に中将に昇進し、第6師団長長となる[30]、[31]。また、獨逸学協会の初代総裁となり、後に獨逸学協会学校設立に尽力した。同年4月、創設された大日本農会の初代総裁となった。1890年(明治23年)2月、貴族院皇族議員に就任[32]。1891年(明治24年)に大津事件が発生すると明治天皇の命を受け名代としてその日のうちに京都に向かって事件の対応に務めた[33]。

台湾出征と陣没

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北の丸公園内にある北白川宮能久親王像。新海竹太郎が製作し1903年建立。

1893年(明治26年)11月10日、第4師団長となる。

1895年(明治28年)、日清戦争によって日本に割譲された台湾を占領するために、近衛師団長として出征した。台湾征服戦争の中でマラリアに罹り、10月28日、台湾全土平定直前に台南にて薨去。48歳没。

遺体は安平から西京丸で本土に運ばれた。この際、表向きには「(能久親王は)御病気ニテ御帰京遊バサル」ということになっていた。日本到着後、陸軍大将に昇進が発表された後に、薨去が告示された。国葬に付され[34][35]、豊島岡御陵に葬られた。

皇族としては初めての外地における殉職者となったため、国葬時より神社奉斎の世論が沸き起こり、台北に台湾神宮(台湾神社)、終焉の地には台南神社が創建された。

また通霄神社[36]をはじめとする台湾各地に創建された神社で主祭神とされたが、敗戦後にこれら能久親王を祀った60の神社はすべて廃社となり、現在は靖国神社と群馬県長野原町北軽井沢にある牧宮神社に、祀られている(戦後の1957年(昭和32年)10月4日、筑波藤麿宮司(当時)の指揮により合祀される。1959年(昭和34年)には孫の北白川宮永久王も合祀)。

親王家の庶子として生まれ、幼くして都を遠く離れた江戸の地で僧侶として過ごし、一時は「朝敵」の盟主となって奥州の地を転々とし、後には陸軍軍人として台湾平定に出立するも同地で不運の病死を遂げた、この流転多い人生は古代の英雄日本武尊の人生に例えられた。

北白川宮能久親王没後、273ヘクタールの牧草地が北白川宮家から草軽電鉄と浅間牧場の所有へと変わり、別荘地である北軽井沢大学村の開村へと繋がった。

エピソード

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澳底で露営する近衛師団長の北白川宮能久親王一行。この写真をもとに描かれた「台湾御露営の図」と題する絵画が、靖国神社の遊就館に能久親王に関する展示物とともに展示されている。

1893年(明治26年)6月19日より第6師団長として大和艦で沖縄県各島を視察。民情をよく下問して、玉城村での宴席では県民の常食たるサツマイモを用意させ食事とした[37]。

台湾でチフスに罹ったが、幕僚の帰国療養の勧めを断り、40度の熱と戦いながら台南の決戦場に進み、薨去。宮を祀った台湾神社は台北郊外の丘にあり、日本統治時代末期まで参詣者が絶えなかった[38]。

1896年(明治29年)8月1日に発行された「日清戦争勝利記念」の記念切手には、有栖川宮熾仁親王とともに肖像が意匠に採用された。

1911年(明治44年)、北白川宮家の273ヘクタールの牧草地が草津軽便鉄道株式会社に払い下げられ、1920年(大正9年)に法政大学学長であった松室致が草津軽便鉄道株式会社から譲り受け、いまの北軽井沢大学村が開村された。また、今の浅間牧場は北白川宮能久親王によるものである。

栄典・授章・授賞

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勲章等
受章年 略綬 勲章名 備考
1875年(明治8年)12月31日 勲一等旭日大綬章[39]
1886年(明治19年)12月29日 大勲位菊花大綬章[40]
1889年(明治22年)11月29日 大日本帝国憲法発布記念章[41]
1890年(明治23年)5月22日 日本赤十字社名誉社員章[42]
1895年(明治28年)11月1日 菊花章頸飾[43] (没後叙勲)
1895年(明治28年)11月1日 功三級金鵄勲章[43] (没後叙勲)
外国勲章佩用允許
受章年 国籍 略綬 勲章名 備考
1881年(明治14年)6月9日 ドイツの旗 ドイツ帝国 王冠章第一等勲章(英語版)[44]
1883年(明治16年)3月27日 ハワイ王国 カメハメハア大綬章(英語版)[44]
1885年(明治18年)2月10日 メクレンブルク=シュヴェリーン大公国 メクレンブルク=シュヴェリーン大公国 グライヘン勲章(英語版)グロースクロイツ[44][45]
1889年(明治22年)12月2日 ドイツの旗 ドイツ帝国 赤鷲大綬章(英語版)[44][46]
1892年(明治25年)4月11日 ロシア帝国の旗 ロシア帝国 アレキサンドルネウスキ勲章[44][47]
1893年(明治26年)8月21日 オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国 レオポール勲章大綬章(英語版)[44]
1895年(明治28年)4月24日 メクレンブルク=シュヴェリーン大公国 メクレンブルク=シュヴェリーン大公国 ウェンヂセングローネ勲章(英語版)鉄冠付大十字章[44]

血縁

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能久親王は、1877年(明治10年)にベルリンでドイツ貴族のベルタ・フォン・テッタゥ(Bertha von Tettau)男爵夫人と結婚したが日本で認められず[48][49]、1878年(明治11年)に旧土佐藩15代藩主山内容堂の長女・光子と結婚した。7年後、光子妃の病気を理由に離婚、その翌年に伯爵伊達宗徳の次女・富子をいったん公爵島津久光の養女とした上で後室に迎えている。この富子妃との間に儲けた第三王子の成久王が北白川宮を継承した。親王はこのほかにも家女房や外妾など計5名の側室に都合10人の庶子を産ませており、そのうちの8人が成人している。第四王子の輝久王は臣籍降下して侯爵小松輝久となった[50][51]。

親王の薨去後にその後胤と認定された五男の芳之と六男の正雄もそれ以後は北白川宮家に引き取られ他の庶子と同様に養育されたが、この両名は皇族の王としてではなく当初から華族の伯爵として処遇されている。

第四王子の輝久王は伯父の小松宮彰仁親王が幼少の頃より我が子同然に可愛がっており、親王たっての願いにより小松宮の祭祀の継承と財産の相続が認められた。これにより明治43年(1910年)に輝久王が臣籍降下した際には異例の侯爵に叙すとともに新たに「小松」の家名が下賜された[52][53]。 → 詳細は「小松宮彰仁親王」項を参照。

落胤

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能久親王の不慮の薨去後、その外妾だった申橋カネと前波栄がそれぞれ所生の芳之と正雄が親王の後胤だと名乗り出てきた。そこで宮内省が入念な調査を行ったところ、果たして両名とも確かに親王の五男と六男であり、親王も生前その事実を把握していたことが判明した。しかし親王はすでに鬼籍にあり、この両名を認知する旨を記した遺言書もなかったことから、彼らを法的には親王の子として認知することはできず、したがって皇族の一員として王となすこともできなかった。一般の臣民であれば父親の死後でもその子が原告として検察官を相手取るかたちで強制認知の形成を提起する民事訴訟に持ち込むこともできたが、皇室典範にはこうした事態を想定した条文はなく対応する手段を欠いたのである。それでも北白川宮家では他の庶子と同様に富子妃がこの両名を引き取って養育することにした。そこで平民の子供が宮家の一員として生活するという不都合を回避するため、翌1897年(明治30年)に明治天皇は優諚によりまだ満8歳と満7歳のこの両名を特に華族に列して伯爵に叙すとともに、それぞれに新たに「二荒」と「上野」の家名を下賜した[54][55][56]。当時は皇族の内規により、原則として宮家に生まれた王は、その宮家の継嗣となるか、あるいは皇女と結婚することで天皇の婿として新たに一宮家を創始することができない限り、成人に達した後に臣籍降下し華族に列して一家を起こすことになっていたが、この両名も王に準じるということで実質的にこの内規を前倒しにして適用したものとみられる。

なお二荒芳之は病弱で子をなさぬまま満21歳で卒去したが、生前からのたっての願いを容れてその跡目には芳之の異母妹である擴子女王を富子妃の実弟にあたる伊達宗徳の九男・芳徳にめあわせ、このふたりを夫婦養子に迎えるかたちで二荒伯爵家を継がせているが、そこには芳之が幼い頃の自身を受け入れてくれた北白川宮家や嫡母として親身に子育てをしてくれた富子妃に対して最期までたいへん気を遣っていた様子が見て取れる。

脚注

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出典

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  1. ↑ 広岡 1998, pp. 21–24.
  2. ↑ 浅見 2008, p. 182.
  3. ↑ 「大総督宮上野輪王寺宮ヲ江戸城ニ招ク」 アジア歴史資料センター Ref.A15071493000 「輪王寺宮病ト称シ登城セス参謀西四辻卿朝命ヲ奉シ上野ヘ出張シタルモ宮病ト称シ対面ナシ故ニ卿空シク帰城ス」 アジア歴史資料センター Ref.A15071493100 
  4. 1 2 3 4 5 6 7 8 熊野秀一 2013, p. 40.
  5. 1 2 3 4 5 熊野秀一 2013, p. 42.
  6. ↑ 広岡 1998, pp. 25–34.
  7. ↑ 浅見 2008, pp. 182–183.
  8. ↑ 慶応4年閏4月29日(1868年6月19日)、勝海舟は日記に「此頃彰義隊の者等、頻に遊説し、其黨倍多く、一時の浮噪軽挙を快とし、官兵を殺害し、東臺に屯集殆ど四千人に及ぶ、其然るべからざるを以て、頭取已下に説諭すれども、敢て是を用ひず、虚勢を張て、以て群衆を惑動す、或は陸奥同盟一致して、大挙を待と唱へ、或は 法親王を奉戴して、義挙あらむと云、無稽にして無着落を思はず、有司もまた密に同ずる者あり、甚敷は 君上の御内意なりと稱して、加入を勸むる者あり、是を非といふ者は、虚勢を示して劫さむとす。」と記し、この時点で彰義隊は「陸奥同盟」と一緒に新政府に反乱を起こすことや、輪王寺宮を奉戴して政権奪取することを企図していたことが分かる。また慶応4年閏4月29日の時点で江戸の勝海舟はすでに「陸奥同盟」という言葉を用いており、輪王寺宮を奉戴してのクーデター構想もすでに彰義隊が江戸で喧伝していたことが分かる。 国立国会図書館デジタルコレクション『海舟全集 第九巻 (海舟日記其他)』144~145頁 「海舟日記」閏4月29日 (著者:勝安芳 出版者:改造社 発行:1928年(昭和3年)11月5日 (2018年10月8日閲覧。)
  9. ↑ 瀧川『日本歴史解禁』1991年、138-142頁。
  10. ↑ 武者小路穣「戊辰役の一資料」『史学雑誌』第61編8号、1953年。
  11. ↑ 鎌田永吉「いわゆる大政改元史料をめぐって」『秋大史学』14号、1967年。
  12. ↑ 藤井徳行「明治元年 所謂「東北朝廷」成立に関する一考察」『近代日本史の新研究1』北樹出版、1981年。
  13. ↑ ニューヨーク・タイムズ 1868年10月18日号に「JAPAN: Northern Choice of a New Mikado(北部日本は新たなミカドを擁立した)」とある。
  14. ↑ 中山 2010, p. 50‐51.
  15. 1 2 3 熊野秀一 2013, p. 41.
  16. ↑ 「輪王寺宮履歴」 アジア歴史資料センター Ref.A15070052000 
  17. ↑ 「輪王寺宮ノ幽閉ヲ解キ実家ニ復帰セシメ終身禄ヲ賜フ」 アジア歴史資料センター Ref.A15070051800 
  18. ↑ 「公現親王ヲ有栖川家ニ同居セシム」 アジア歴史資料センター Ref.A15070040700 
  19. 1 2 「伏見若宮上表 御改名御聴許」太政官日誌、1870.11.4新聞集成明治編年史. 第一卷、林泉社、1936-1940
  20. ↑ 「伏見能久ニ官号ヲ賜フ」 アジア歴史資料センター Ref.A15070052300 
  21. ↑ 「伏見宮四男公現ヲ名ヲ能久ト改ム」 アジア歴史資料センター Ref.A15070052200 
  22. ↑ 広岡 1998, pp. 34–36.
  23. ↑ 浅見 2008, pp. 184–185.
  24. ↑ 「式部寮より北白川宮陸軍少佐に任せらる」 アジア歴史資料センター Ref.C04025412100 
  25. ↑ 小田部雄次『皇族 天皇家の近現代史』(中央公論新社〈中公新書〉、2009年)p.70
  26. ↑ 「北白川宮御帰朝」朝野新聞、1877.6.27新聞集成明治編年史. 第三卷、林泉社、1936-1940
  27. ↑ 広岡 1998, pp. 36–38.
  28. ↑ 浅見 2008, pp. 185–191.
  29. ↑ 「往入2681 三品能久王外4方御養子并御名付等の義宮内省廻達」 アジア歴史資料センター Ref.C09101269100 
  30. ↑ 広岡 1998, p. 38.
  31. ↑ 浅見、P148 - P149。
  32. ↑ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』2頁。
  33. ↑ 伊藤之雄『明治天皇』ミネルヴァ書房 2006年9月10日、303頁。
  34. ↑ 広岡 1998, pp. 41–44.
  35. ↑ 浅見 2008, pp. 154–156.
  36. ↑ “日本統治時代に建てられた苗栗の通宵神社は日本建築と中華建築の融合”. 台湾マガジン. 2015年4月20日. 2015年5月3日時点のオリジナルよりアーカイブ. 2015年5月3日閲覧.
  37. ↑ 明治二十六年六月二十五日笹森儀助『南嶋探験』恵愛堂、1894年
  38. ↑ 伊藤正徳『軍閥興亡史 新装版 第一巻』潮書房光人社、2016年11月13日、204頁。
  39. ↑ 中野文庫 - 旧・勲一等旭日大綬章受章者一覧(戦前の部)
  40. ↑ 『官報』第1051号「叙任及辞令」1887年1月4日。
  41. ↑ 『官報』第1928号「宮廷錄事」「彙報 - 大日本帝国憲法発布記念章送付」1889年11月30日。
  42. ↑ 『官報』第2068号「彙報 - 陸海軍 - 日本赤十字社録事」1890年5月24日。p303
  43. 1 2 『官報』第3707号「叙任及辞令」1895年11月5日。
  44. 1 2 3 4 5 6 7 刑部芳則『明治時代の勲章外交儀礼』明治聖徳記念学会紀要、2017年、21頁。
  45. ↑ 『官報』第483号「賞勲叙任」1885年2月13日。
  46. ↑ 『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。
  47. ↑ 『官報』第2635号「辞令」1892年4月14日。
  48. ↑ "The Japanese Community in Pre-War Britain: From Integration to Disintegration" p96 Keiko Itoh, Routledge, 2013/07/04
  49. ↑ 『近代日本研究』第11号、慶應義塾福澤研究センター、1994年、153頁。
  50. ↑ 広岡 1998, pp. 38–40.
  51. ↑ 浅見 2008, pp. 191–192.
  52. ↑ 浅見 2008, pp. 61–66.
  53. ↑ 浅見 2008, pp. 191–196.
  54. ↑ (1903) 4月、(2025年11月30日データベース閲覧)
  55. ↑ 『人事興信録』初版、明治36年 (1903) 4月、(2025年11月30日データベース閲覧)
  56. ↑ 『官報』第4199号「授爵叙任及辞令」1897年7月2日、NDLJP:2947486/2(2025年11月30日閲覧)

参考文献

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北白川宮能久親王を題材とした作品

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関連項目

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外部リンク

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北白川宮能久親王
北白川宮家

1847年4月1日 - 1895年10月28日

先代
智成親王
北白川宮
第2代:1872年4月30日 - 1895年10月28日
次代
成久王
軍職
先代
彰仁親王
近衛師団長
第2代:1895年1月28日 - 同10月28日
次代
野津道貫
先代
黒川通軌
第4師団長
第3代:1893年11月10日 - 1895年1月28日
次代
山沢静吾
先代
野崎貞澄
第6師団長
第3代:1892年12月8日 - 1893年11月10日
次代
黒木為楨
先代
(新設)
歩兵第1旅団長
初代:1885年5月21日 - 1892年12月8日
次代
乃木希典
先代
野津道貫
東京鎮台司令官
第2代:1884年11月19日 - 1885年5月21日
次代
三浦梧楼
先代
堀江芳介(→欠員)
陸軍戸山学校次長
1883年4月28日 - 同9月21日
次代
(欠員→)堀尾晴義
学職
先代
(新設)
東京地学協会会長
初代:1883年 - 1895年
社長
1879年 - 1883年
次代
載仁親王
その他の役職
先代
(新設)
大日本農会会頭
初代:1881年4月5日 - 1895年10月28日
次代
彰仁親王
先代
慈性入道親王
寛永寺貫主
第15世:1867年6月25日 - 1869年1月1日
次代
松山徳門
先代
慈性入道親王
輪王寺門跡
第67世:1867年6月25日 - 1869年1月1日
次代
慈亮