戊辰戦争

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戊辰戦争
Boshin war.svg
戦線の変遷
戦争鳥羽・伏見の戦い東北戦争箱館戦争 ほか
年月日
旧暦慶応4年1月3日 - 明治2年5月18日
グレゴリオ暦1868年1月27日 - 1869年6月27日
場所日本の旗 日本
結果新政府軍の勝利、江戸幕府の完全解体。
交戦勢力
Flag of the Japanese Emperor.svg 新政府軍
東征大総督府
Mon-Tokugawa.png 旧幕府軍
Flag of Ouetsu Reppan Domei or the Northen Alliance in Japan.svg 奥羽越列藩同盟
Flag of the Republic of Ezo.svg 蝦夷共和国
指揮官
Imperial Seal of Japan.svg 有栖川宮熾仁親王 Mon-Tokugawa.png 徳川慶喜
Flag of Ouetsu Reppan Domei or the Northen Alliance in Japan.svg 輪王寺宮能久親王
Flag of the Republic of Ezo.svg 榎本武揚
戊辰戦争

戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。

明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められることとなった。

以下の日付は、断りのない限り旧暦で記す。

概要[編集]

戊辰戦争中の薩摩藩の藩士(着色写真)。フェリーチェ・ベアト撮影

江戸時代の日本は徳川幕府と諸大名による封建国家であったが、戊辰戦争を経て権力を確立した明治新政府によって行われた諸改革(明治維新)により、近代的な国民国家の建設が進んだ。

戊辰戦争は研究者によって次のように規定されている。 「日本の統一をめぐる個別所有権の連合方式と、その否定及び天皇への統合を必然化する方式との戦争」(原口清)、「将来の絶対主義政権をめざす天皇政権と徳川政権との戦争」(石井孝

石井はさらにこれを次の三段階に分けた。

  1. 「将来の絶対主義的全国政権」を争う「天皇政府と徳川政府との戦争」(鳥羽・伏見の戦いから江戸開城
  2. 「中央集権としての面目を備えた天皇政府と地方政権“奥羽越列藩同盟”との戦争」(東北戦争
  3. 「封禄から外れた旧幕臣の救済」を目的とする「士族反乱の先駆的形態」(箱館戦争

薩摩藩など新政府側はイギリスとの好意的な関係を望み、トーマス・グラバー(グラバー商会)等の武器商人と取引をしていた。また旧幕府はフランスから、奥羽越列藩同盟・会庄同盟はプロイセンから軍事教練や武器供与などの援助を受けていた。戦争が早期に終結したため、欧米列強による内政干渉や武力介入という事態は避けられた。

戊辰戦争開始までの経緯および個々の事象については、幕末明治維新および個々の語句を参照。

鳥羽・伏見の戦い[編集]

戊辰戦場址碑
戊辰戦争で新政府軍が用いた錦旗(錦の御旗)の模写図。

開戦に至る経緯[編集]

慶応3年(1867年)10月14日に江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜は日本の統治権返上を明治天皇に奏上、翌15日に勅許された(大政奉還)。慶喜は10月24日に征夷大将軍職の辞任も朝廷に申し出る。朝廷は上表の勅許にあわせて、国是決定のための諸侯会議召集までとの条件付ながら緊急政務の処理を引き続き慶喜に委任し、将軍職も暫時従来通りとした。つまり実質的に慶喜による政権掌握が続くこととなった。慶喜の狙いは、公議政体論のもと徳川宗家が首班となる新体制を作ることにあったと言われる。

しかし、予定された正式な諸侯会議の開催が難航するうちに、雄藩5藩(薩摩藩越前藩尾張藩土佐藩安芸藩)は12月9日にクーデターを起こして朝廷を掌握、王政復古の大号令により幕府廃止と新体制樹立を宣言した。新体制による朝議では、薩摩藩の主導により慶喜に対し内大臣職辞職と幕府領地の朝廷への返納を決定し(辞官納地)、禁門の変以来京都を追われていた長州藩の復権を認めた。

慶喜は辞官納地を拒否したものの、配下の暴発を抑えるため二条城から大坂城に移った。経済的・軍事的に重要な拠点である大坂を押さえたことは、その後の政局において幕府側に優位に働いた。12月16日、慶喜は各国公使に対し王政復古を非難、条約の履行や各国との交際は自分の任であると宣言した。新政府内においても山内容堂(土佐藩)・松平慶永(越前藩)ら公議政体派が盛り返し、徳川側への一方的な領地返上は撤回され(新政府の財源のため、諸侯一般に経費を課す名目に改められた)、年末には慶喜が再上洛のうえ議定へ就任することが確定するなど、辞官納地は事実上骨抜きにされつつあった。

新政府内で孤立を深めた薩摩藩は、旧幕府勢力と戦端を開くことを欲し、各地で騒擾工作を行った。江戸市中においても薩摩藩士及び彼らと通じた浪士により放火・強盗などが繰り返され、江戸の町は混乱に陥った。12月23日には江戸城西ノ丸が焼失するが、これも薩摩藩と通じた奥女中の犯行と噂された。同日夜、江戸市中の警備にあたっていた庄内藩の巡邏兵屯所への発砲事件が発生、これも同藩が関与したものとされ、老中・稲葉正邦は庄内藩に命じ、江戸薩摩藩邸を襲撃させる(江戸薩摩藩邸の焼討事件)。この事件の一報は、江戸において幕府側と薩摩藩が交戦状態に入ったという解釈とともに、大坂城の幕府首脳のもとにもたらされた。

一連の事件は大坂の旧幕府勢力を激高させ、勢いづく会津藩らの諸藩兵を慶喜は制止することができなかった。慶喜は朝廷に薩摩藩の罪状を訴える上表(討薩の上表)を提出、奸臣たる薩摩藩の掃討を掲げて、配下の幕府歩兵隊・会津藩・桑名藩を主力とした軍勢(総督・大河内正質)を京都へ向け行軍させた。

臣慶喜、謹んで去月九日以来の御事体を恐察し奉り候得ば、一々朝廷の御真意にこれ無く、全く松平修理大夫(薩摩藩主島津茂久)奸臣共の陰謀より出で候は、天下の共に知る所、殊に江戸・長崎・野州・相州処々乱妨、却盗に及び候儀も、全く同家家来の唱導により、東西饗応し、皇国を乱り候所業別紙の通りにて、天人共に憎む所に御座候間、前文の奸臣共御引渡し御座候様御沙汰を下され、万一御採用相成らず候はゞ、止むを得ず誅戮を加へ申すべく候。

討薩表(部分)

戦闘の勃発[編集]

小枝橋にて激突する幕府軍と新政府軍。絵の左側に薩摩藩の旗 Flag of Satsuma domain.svg 、右下に長州藩の旗 Flag of Choshu domain.svg が見える。
豊後橋で発生した戦闘

慶応4年1月2日(1868年1月26日)夕方、幕府の軍艦2隻が、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃、事実上戦争が開始される。翌3日、慶喜は大坂の各国公使に対し、薩摩藩と交戦に至った旨を通告し、夜、大坂の薩摩藩邸を襲撃させる。同日、京都の南郊外の鳥羽および伏見において、薩摩藩・長州藩によって構成された新政府軍と旧幕府軍は戦闘状態となり、ここに鳥羽・伏見の戦いが開始された。両軍の兵力は、新政府軍が約5,000人、旧幕府軍が約15,000人と言われている。

新政府軍は武器では旧幕府軍と大差なく、逆に旧幕府軍の方が最新型小銃などを装備していたが、初日は緒戦の混乱および指揮戦略の不備などにより旧幕府軍が苦戦となった。また、新政府が危惧していた旧幕府軍による近江方面からの京都侵攻もなかった。翌1月4日も旧幕府軍の淀方向への後退が続き、同日、仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍と為し錦旗節刀を与え出馬する朝命が下った。薩長軍は正式に官軍とされ、以後土佐藩も迅衝隊・胡蝶隊・断金隊などを編成し、錦旗を賜って官軍に任ぜられた。逆に旧幕府の中の反乱勢力は賊軍と認知されるに及び、佐幕派諸藩は大いに動揺した。こういった背景により1月5日、藩主である老中・稲葉正邦の留守を守っていた淀藩は賊軍となった旧幕府軍の入城を受け入れず、旧幕府軍は淀城下町に放火しさらに八幡方向へ後退した。1月6日、旧幕府軍は八幡・山崎で新政府軍を迎え撃ったが、山崎の砲台に駐屯していた津藩が旧幕府軍への砲撃を始めた。旧幕府軍は山崎以東の京坂地域から敗北撤退し大坂に戻った。

この時点では未だに総兵力で旧幕府軍が上回っていたが、1月6日夜、慶喜は自軍を捨てて大坂城から少数の側近を連れ海路で江戸へ退却した。これは敵味方を問わず慶喜の敵前逃亡として認識された。慶喜の退却により旧幕府軍は戦争目的を喪失し、各藩は戦いを停止して兵を帰した。また戦力の一部は江戸方面へと撤退した。

鳥羽・伏見の戦いの与えた影響[編集]

5日、山陰道鎮撫総督・西園寺公望及び東海道鎮撫総督・橋本実梁が発遣された(西国及び桑名平定)。7日、慶喜追討令が出され、次いで旧幕府は朝敵となった。10日には藩主が慶喜の共犯者とみなされた会津藩桑名藩高松藩備中松山藩伊予松山藩大多喜藩の官位剥奪と京屋敷の没収[1]及び藩兵が旧幕府軍に参加した疑いが高い小浜藩大垣藩[2]宮津藩延岡藩鳥羽藩が藩主の入京禁止の処分が下され、これらの藩も「朝敵」とみなされた。11日には改めて諸大名に対して上京命令が出されるが、これはそれまでの諸侯による「公平衆議」の開催を名目にした上京命令とは異なり朝敵とされた「慶喜追討」を目的とするものであった。これによって新政府はこれまで非協力であった藩に対して、恭順すれば所領の安堵などの寛大な処分を示す一方で、抵抗すれば朝敵(慶喜及び旧幕府)の一味として討伐する方針を突きつける事になった。特に西日本では慶喜討伐令と上京命令と鎮撫軍の派遣の報を立て続けに受ける事になり、所領安堵と追討回避のために親藩・譜代藩も含めて立て続けに恭順を表明し、鳥羽・伏見の戦いに関わったとして「朝敵」の認定を受けた藩ですら早々に抵抗を諦めて赦免を求める事となった。1月末には藩主が慶喜とともに江戸に逃亡した桑名藩ですら、重臣や藩士達が城を新政府軍に明け渡し、3月には近畿以西の諸藩は完全に新政府の支配下に入った[3]

9日、長州軍が大坂城を接収、大坂は新政府の管理下に入った。同日東山道鎮撫総督に岩倉具定が任命された。11日、神戸事件が起こり条約諸国と新政府が対峙するが、交渉は成立し25日に条約諸国は局外中立宣言を行った。20日、北陸道鎮撫総督・高倉永祜が発遣された。また、神戸事件に誘発される形で、堺事件も発生した。

幕府及び旧幕府勢力は近畿を失ない薩長を中心とする新政府がこれに取って代わった。また旧幕府は国際的に承認されていた日本国唯一の政府としての地位を失った。また新政府の西国平定と並行して東征軍が組織され、東山道・東海道・北陸道に分かれ2月初旬には東進を開始した。

西国及および東海の状況[編集]

西日本では、新政府軍と佐幕派諸藩との間ではほとんど戦闘が起きず、諸藩は次々と新政府に降伏、協力を申し出た。東海地方および北陸地方では尾張藩が勤皇誘引使を諸藩代官へおくり勤皇証書を出させ日和見的立場から中立化に成功した。

東海[編集]

鳥羽・伏見の戦直前の1月2日、新政府は近江方面から旧幕府軍に京都を挟み撃ちにされることを警戒して橋本実梁に大津防衛を命じて、先発として大村藩兵が3日に大津に入る。旧幕府軍は大津侵攻を回避したために挟み撃ちの危険性が減少した5日、新政府は改めて橋本実梁を東海道鎮撫総督に任じた。ところが、東海道沿いの佐幕藩として新政府に警戒されていた彦根藩がこの段階で尊王に藩論を転換させて大津防衛の援軍を派遣しており同藩への出兵の必要性がなくなったことから、9日には大津にて桑名藩の征討に移った。膳所藩水口藩の協力もあって大津など南近江一帯が新政府の掌握下に置かれると、本格的な東進が開始され、22日に四日市に東海道軍が到着すると桑名藩は戦わずに開城した。藩主の座から追われた松平定敬は国許には帰らず箱館まで戦争を続けた。尾張藩は20日、藩主の父・徳川慶勝の「勅命により死を賜る」との命により青松葉事件がおき、藩論は勤皇に一本化された。2月になると東海道鎮撫総督は東海道先鋒総督兼鎮撫使と改められて東進を開始、東海道最大の雄藩である尾張藩が尊王に転じた事をきっかけに2月末までに小田原藩以西の全ての藩が恭順を誓ったこともあり、大きな衝突もなく東進することが出来た。

東山道(中山道)[編集]

1月9日岩倉具定を東山道鎮撫総督に任じ、21日に京都を出発した。なお、大垣藩は鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍に属していたが、直後に新政府に対して異心が無いことを表明して東山道軍の先鋒となっている。東山道(中山道)筋の諸藩は定府大名が多く、江戸の居住そのものが旧幕府への加担としての疑惑を持たれたことから、沿道諸藩は対応に苦慮した。だが、多くの藩では国元では抵抗を行わず、藩主が鎮撫総督に恭順の意思を示したことで一旦下された謹慎や所領没収などの処分は解除されている。むしろ、北関東に入ると、諸藩への対応よりも同地において発生した世直し一揆などの動きへの対応に迫られることになった。

丹波・山陰道[編集]

すでに鳥羽・伏見の戦中の5日、新政府は西園寺公望を山陰道鎮撫総督に任じて薩摩・長州藩兵を添えて丹波国に進軍させていた。これは佐幕派の丹波亀山藩の帰順及び鳥羽・伏見に敗戦した場合の退路の確保を目的としたものだったが、園部藩篠山藩田辺藩福知山藩などが次々と新政府軍に降伏。そのまま丹後国に入り宮津藩を開城させたのち、因幡国を通って出雲国に進み、2月下旬には佐幕派の松江藩をも降伏させ、山陰を無血で新政府の傘下に従えた。

四国の状況[編集]

公議政体派から勤皇を旨とする武力討幕派へ藩論を統一した土佐藩士・板垣退助迅衝隊を主力部隊として、丸亀藩多度津藩が協力して、讃岐国の旧幕府方高松藩に進軍。戦意を喪失した高松藩側が家老2名に切腹を命じ、正月20日に降伏に及んだ。27日には残る伊予松山藩も開城し、四国を無血開城せしめて勤皇支持に統一された。

ところが、翌28日になって伊予松山城に近い三津浜堅田大和杉孫七郎率いる長州藩軍が上陸した。これは征討府における土佐藩と長州藩の合意に基づく出兵であったが、この情報を知らされていなかった土佐藩本国の部隊は同藩が四国進出を目論むものと考えて激しく反発して協力を拒絶した。新政府内部の調整によって最終的に四国に関しては土佐藩に一任することとなり、3月3日に長州藩軍は三津浜から撤退して本州に帰還した[4]

中国路の状況[編集]

長州藩兵は上京の途中の正月9日に備後福山藩領に侵入し、福山城に籠城する福山藩兵と銃撃戦を開始するが、家老・三浦義建及び御用係・関藤藤陰は長州に恭順の意を示したことから、勤王の誓詞を提出させた。また新政府の征討令を受けた備前藩が15日に備中松山藩に派兵するが、執政・山田方谷は城を無血開城した。姫路藩は藩主・酒井忠惇(老中)が慶喜とともに江戸へ脱走して留守だったが、在藩家臣が降伏している。

九州の情勢[編集]

正月14日、長崎奉行河津祐邦は秘かに脱走し、佐賀藩大村藩薩摩藩福岡藩などの諸藩により長崎会議所が構成され、治安を担当した。新政府からは沢宣嘉が派遣され、九州鎮撫総督兼外国事務総督に任ぜられて長崎に入った。日田代官所にあった西国郡代窪田鎮勝は17日に脱走。周辺諸藩が接収し、閏4月には日田県が設置された。老中・小笠原長行を世子とする唐津藩は討伐の対象となったが、松方正義がこれを抑え、藩主・小笠原長国が長行との養子関係を義絶するとともに降伏を願い出た。天草の幕府領も程なく薩摩・肥後藩によって接収されている。また、これとは別に薩摩藩は勤王と新政府への支持を表明する誓書の提出を対馬藩以外の九州全藩に求め、2月末までに唐津藩や鳥羽・伏見の戦いで敵対したとされた延岡藩、他の佐幕派である高鍋藩府内藩も含めた全藩がこれに応じており、この時点で九州諸藩は全て勤王に転じたと言える[5]。残された延岡藩の朝敵認定の解除問題も4月に藩主・内藤政挙が上京して短期の謹慎の後に赦免されたことで解決されることになった。

江戸への進軍[編集]

甲州勝沼および野州梁田の戦い[編集]

錦絵『勝沼駅近藤勇驍勇之図』

江戸へ到着した徳川慶喜は、1月15日、幕府主戦派の中心人物・小栗忠順(小栗上野介)を罷免。さらに2月12日、慶喜は江戸城を出て上野寛永寺に謹慎し、明治天皇に反抗する意志がないことを示した。

一方、明治天皇から朝敵の宣告を受けた松平容保は会津へ戻った。容保は新政府に哀訴嘆願書を提出し天皇への恭順の姿勢は示したが、新政府の権威は認めず、武装は解かず、求められていた出頭も謝罪もしなかった。その一方で、先の江戸での薩摩藩の騒乱行為を取り締まったため新政府からの敵意を感じていた庄内藩主・酒井忠篤と会庄同盟を結成し、薩長同盟に対抗する準備を進めた。旧幕府に属した人々は、あるいは国許で謹慎し、またあるいは徳川慶喜に従い、またあるいは反新政府の立場から会津藩等を頼り東北地方へ逃れた。

新政府は有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍をつくり、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍した。

旧幕府軍は近藤勇らが率いる甲陽鎮撫隊(旧新撰組)をつくり、甲府城を防衛拠点としようとした。しかし東山道を進み信州にあった土佐藩士・板垣退助、薩摩藩士・伊地知正治が率いる新政府軍は、板垣が率いる迅衝隊が甲州へ向かい、甲陽鎮撫隊より先に甲府城に到着し城を接収した。甲陽鎮撫隊は甲府盆地へ兵を進めたが、慶応4年3月6日(同3月29日)、新政府軍と戦い完敗した。近藤勇は偽名を使って潜伏したが、のち新政府に捕縛され処刑された。

一方、東山道を進んだ東山道軍の本隊は、3月8日に武州熊谷宿に到着、3月9日に近くの梁田宿(現・足利市)で宿泊していた旧幕府歩兵隊の脱走部隊(後の衝鋒隊)に奇襲をかけ、これを撃破した。

江戸城無血開城[編集]

駿府に進軍した新政府は3月6日(同3月29日)の軍議で江戸城総攻撃を3月15日とした。しかし条約諸国は戦乱が貿易に悪影響となることを恐れ、イギリス公使ハリー・パークスは新政府に江戸攻撃・中止を求めた。新政府の維持には諸外国との良好な関係が必要だった。また武力を用いた関東の平定には躊躇する意見があった。江戸総攻撃は中止とする命令が周知された。

恭順派として旧幕府の全権を委任された陸軍総裁勝海舟は、幕臣・山岡鉄舟を東征大総督府参謀の西郷隆盛に使者として差し向け会談、西郷より降伏条件として、徳川慶喜の備前預け、武器・軍艦の引渡しを伝えられた。西郷は3月13日(同4月5日)、高輪の薩摩藩邸に入り、同日から勝と西郷の間で江戸開城の交渉が行われた。なお交渉した場所は諸説あり、池上本門寺の東屋でも記録が残っている。翌日3月14日(同4月6日)、高輪の薩摩藩邸で勝は「慶喜は隠居の上、水戸にて謹慎すること」「江戸城は明け渡しの後、即日田安家に預けること」等の旧幕府としての要求事項を伝え、西郷は総督府にて検討するとして15日の総攻撃は中止となった。結果、4月4日 (旧暦)(同4月26日)に勅使(先鋒総督・橋本実梁、同副総督・柳原前光)が江戸城に入り、「慶喜は水戸にて謹慎すること」「江戸城は尾張家に預けること」等とした条件を勅諚として伝え、4月11日(同5月3日)に江戸城は無血開城され、城は尾張藩、武器は肥後藩の監督下に置かれることになった。同日、慶喜が水戸へ向けて出発した。4月21日(同5月13日)には東征大都督である有栖川宮熾仁親王が江戸城に入城して江戸城は新政府の支配下に入った。

船橋の戦い[編集]

慶応4年(1868年)4月11日に行われた江戸城無血開城に従わぬ旧幕臣の一部が千葉方面に逃亡、船橋大神宮に陣をはり、閏4月3日5月24日)に市川鎌ヶ谷船橋周辺で両軍は衝突した。この戦いは最初は数に勝る旧幕府軍が有利だったが、戦況は新装備を有する新政府軍へと傾き、新政府側の勝利で幕を閉じた。この戦いは、江戸城無血開城後の南関東地方における最初の本格的な戦闘(上野戦争は同年5月15日)であり、新政府側にとっては旧幕府軍の江戸奪還の挫折と関東諸藩を新政府への恭順に動かした点での意義は大きい。

宇都宮城の戦い[編集]

江戸城は開城したものの旧幕府方残党勢力は徳川家の聖地である日光廟に篭って兵を募り、そこで新政府軍と戦うつもりで大挙して江戸を脱走、下野国日光山を目指していた。一方、時を同じくして当時下野国で起きていた世直し一揆を鎮圧するために東山道総督府が下野国宇都宮に派遣していた下野鎮撫・香川敬三(総督府大軍監)は、手勢を引き連れ日光道中を北上中、武蔵国粕壁下総国流山新撰組が潜んでいる噂を聞き有馬藤太を派遣して近藤勇を捕縛した。近藤は板橋に送られたが、香川はそのまま行軍を続け宇都宮に駐屯した。世直しが沈静した直後の4月12日、大鳥圭介伝習隊、幕府歩兵第七連隊、回天隊、新撰組など総勢2,000人の軍隊を引き連れて下総国市川を日光に向けて出発、途中松戸小金宿から2手に分かれ、香川の駐屯する宇都宮城の挟撃に出立した。これを聞いた宇都宮の香川敬三は、一部部隊を引き連れてこれを小山で迎え撃った。兵数と装備で勝る旧幕府軍はこれに勝利、4月19日には宇都宮で旧幕府軍と新政府軍勢力が激突した。翌日には旧幕府軍が宇都宮城を占領するも、宇都宮から一時退却し東山道総督府軍の援軍と合流、大山巌や伊地知正治が統率する新政府軍に奪い返され、もともと目指していた聖地日光での決戦に備えるべく退却した。

上野戦争[編集]

上野戦争の図。画題は『本能寺合戦の図』となっているが、実際には上野の戦闘を描いている。
赤熊の被り物をして戦う土佐藩の迅衝隊(上野合戦

徳川慶喜が謹慎していた上野・寛永寺には、江戸無血開城によって江戸の治安を統括する組織として認定されていた旧幕府勢力・彰義隊があった。この存在は幕府主戦派から“裏切り者”呼ばわりをされていた勝にとって、一定の成果ではあった。しかし実際は彼らは新政府への対抗姿勢を示し、新政府軍兵士への集団暴行殺害を繰り返した。江戸城会談での当事者となった西郷隆盛は、勝との関係から彰義隊等への対応が手ぬるいとの批判を受けた。大総督府は西郷を司令官から解任し、長州藩士・大村益次郎を新司令官に任命。5月1日、大村は旧幕府による江戸府中取締の任を解いた。

東北地方・北海道・新潟で仙台藩藩主・伊達慶邦らにより奥羽列藩同盟が樹立された2週間後の5月15日(同7月4日)、新政府軍は彰義隊を攻撃し上野戦争が始まった。兵砲学者出身の大村益次郎は佐賀藩が製造した新兵器・アームストロング砲を活用し、彰義隊を狙い撃ちにした。彰義隊はなす術もなく崩壊し、上野戦争はたった1日で新政府軍の圧勝となった。

東北戦争[編集]

会津若松の祭典にて列藩同盟旗を掲げる旗手

新政府の会津藩・庄内藩の処遇[編集]

文久の改革後、京都守護職及び京都所司代として京都の治安を担当していた会津藩主・松平容保及び桑名藩主・松平定敬は、京都見廻組及び新撰組を用い尊王攘夷派の弾圧を行い、尊王攘夷派・後の新政府の怨嗟を買っていた。また鳥羽・伏見の戦いにおいてこの両藩は旧幕府軍の主力となり、この敗北によって朝敵と認定されていた。

また江戸薩摩藩邸の焼討事件での討伐を担当した庄内藩は、新政府によって会津藩と同様の処置がなされることを予期し、両藩は以後連携し新政府に対抗することとなった(会庄同盟)。両藩はそれぞれ蝦夷地に領地を有し、密かにこれをプロイセンに割譲するかわりに援軍を要請しようとしたが、普仏戦争直前で余裕のなかったビスマルクにより断られている[6]

奥羽越列藩同盟の成立[編集]

慶応4年(1868年)1月17日、鳥羽・伏見の戦いで勝利した新政府は仙台藩に会津藩への追討を命令した。しかし仙台藩は行動しなかった。

2月25日、庄内藩は使者を新政府に派遣した。新政府は徳川慶喜あるいは会津藩に対する追討軍への参加を要求し旗幟を鮮明にすることを迫ったが、使者は軍への参加を拒絶した。会津藩も嘆願書で天皇への恭順を表明したが、新政府の権威は認めず謝罪もせず武装も解かなかった。これらの行動を会津の天皇への“武装・恭順”なのだと主張する説もある。しかし新政府へ対してはこの行為は“武装・敵対”でしかなかった。[要出典]

3月22日、新政府への敵対姿勢を続けていた会津藩及び庄内藩を討伐する目的で奥羽鎮撫総督及び新政府軍が仙台に到着した。主要な人物としては総督・九条道孝、副総督・沢為量、参謀・醍醐忠敬下参謀世良修蔵大山綱良を数えることができる。3月29日、仙台藩・米沢藩をはじめとする東北地方の諸藩に会津藩及び庄内藩への追討が命令された。

4月19日、藩主・伊達慶邦の率いる仙台藩の軍勢は会津藩領に入り戦闘状態になった。一方で仙台藩は3月26日、会津藩に降伏勧告を行い4月21日に一旦合意に達した。会津藩が武装を維持し新政府の立ち入りを許さない条件で松平容保が城外へ退去し謹慎すること及び会津藩の削封という内容だった。4月23日、沢為量及び大山綱良の率いる新政府軍は庄内藩を攻撃した。しかし庄内藩が勝っており閏4月4日、庄内藩が天童城を攻め落とした。

4月19日(閏ではなく閏4月1日以前の事件)、関東で大鳥圭介らの率いる旧幕府軍が宇都宮城を占領した。この報が東北に伝わると仙台藩では会津藩・庄内藩と協調し新政府と敵対すべきという意見が多数となった。閏4月4日、仙台藩主席家老・但木成行の主導で奥羽14藩は会議を開き、この状態での会津藩・庄内藩への赦免の嘆願書を提出した。要求が入れられない場合は新政府軍と敵対し排除するという声明が付けられていた。会津藩・庄内藩は恭順の姿勢を見せていなかったため閏4月17日に新政府は嘆願書を却下した。奥羽14藩はこれを不服として征討軍の解散を決定した。そして藩の決定として新政府軍への宣戦布告のない殺戮が始まった。

閏4月20日、仙台藩で藩家老の命令によって世良修蔵が殺害され、続いて新政府軍部隊も殺害された。九条総督・醍醐参謀らは仙台城下に軟禁された。これと並行して仙台藩・米沢藩を中心に、会津藩・庄内藩赦免の嘆願書のための会議を新政府と敵対する軍事同盟へ改変させる工作が行われた。赦免の嘆願書は新政府によって拒絶されたので天皇へ直接建白を行う方針に変更された。閏4月23日、新たに11藩を加えて白石盟約書が調印された。さらに後に25藩による奥羽列藩盟約書を調印した。会津・庄内両藩への寛典を要望した太政官建白書も作成された。奥羽列藩同盟には、武装中立が認められず新政府軍との会談に決裂した長岡藩ほか新発田藩等の北越同盟加盟6藩が加入し、計31藩によって奥羽越列藩同盟が成立した。なお、会津・庄内両藩は列藩同盟には加盟せず会庄同盟として列藩同盟に協力した。

ここに旧幕府とも新政府とも異なる軍事同盟が誕生したが、これは天皇への嘆願目的の各藩のルーズな連合であり、また、恭順を勧めるための会議が途中で反新政府目的の軍事同盟に転化したため、本来軍事敵対を考えていなかった藩など各藩に思惑の違いがあり、統一された戦略を欠いていた。[7]

輪王寺宮と幻の仙台朝廷[編集]

6月に上野戦争から逃れてきた孝明天皇の弟・輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)が、列藩同盟の盟主として据えられた。当初は軍事的要素も含む同盟の総裁への就任を要請されたが、6月16日に盟主のみの就任に決着した。

また仙台藩と会津藩には輪王寺宮を「東武皇帝」として即位させる構想があったとされるが、史料が限られており、輪王寺宮の即位の有無は議論がある。また仙台藩主・伊達慶邦は征夷大将軍に、会津藩主・松平容保は征夷副将軍に就任する予定であったとされる(詳しくは北白川宮能久親王#「東武天皇」即位説の項を参照)。

秋田・庄内戦線(庄内戦争)[編集]

列藩同盟の成立[編集]

新政府から派遣された奥羽鎮撫総督府は庄内藩を討つため沢為量及び大山綱良の率いる新政府軍を仙台から出陣させた。しかし本間家からの献金で洋化を進めていた庄内藩は戦術指揮も優れていたため新政府軍を圧倒した。その後列藩同盟の成立に際し、仙台に駐屯していた世良修蔵を始めとする新政府軍は仙台藩によって殺害され九条道孝総督・醍醐忠敬参謀らは軟禁された。

新政府は仙台藩によって軟禁状態にある九条総督救出のため佐賀藩士・前山長定(前山清一郎)率いる佐賀藩兵及び小倉藩兵を仙台藩に派遣した。閏4月29日、前山の新政府部隊が船で仙台に到着すると、この両藩は薩長両藩ではなかったために仙台藩は軟禁していた鎮撫総督府要人を前山の部隊に引き渡した。

5月18日、前山と救出された総督府の一行は盛岡藩に到着した。藩主・南部利剛は1万両を献金したが態度は曖昧なままだった。続いて7月1日、総督府一行は久保田藩に入った。久保田藩は平田篤胤の出身地という影響もあって攘夷派が勢力を保っていた。総督府一行は庄内藩討伐のために仙台に居らず生存していた沢為量及び大山綱良ら総督府残存部隊と合流した。沢為量副総督は分隊を率い弘前藩説得のために弘前藩に入ろうとしたが、弘前藩の列藩同盟派によって矢立峠は封鎖されており、そのため奥州鎮撫総督府及びその部隊は久保田藩にとどまることになった。そのため、結果的に総督府一行は久保田藩で合流することになった。

秋田戦争[編集]

久保田藩の新政府への接近を察知した仙台藩は久保田藩に使者7名を派遣した。しかし九条総督軟禁時に仙台藩に同僚らを殺害されていた大山綱良・桂太郎らの説得もあり、久保田藩の尊皇攘夷派は7月4日、仙台藩の使者と盛岡藩の随員を全員殺害した。こうして久保田藩は奥羽越列藩同盟を離脱して東北地方における新政府軍の拠点となった。

久保田藩に続いて新庄藩本荘藩矢島藩亀田藩が新政府軍に恭順した。新庄藩の新政府軍への恭順に対して戦力の充実していた庄内藩は7月14日、新庄藩主戸沢氏の居城・新庄城を攻め落とした。さらに、庄内藩、仙台藩の軍勢は連戦連勝に近い状態で久保田城の目前にまで迫った。

また、盛岡藩は列藩同盟と新政府側のどちらの陣営に属すかで長く議論が定まらなかったが、家老の楢山佐渡が帰国すると列藩同盟に与することを決定し、8月9日に盛岡藩は久保田藩に攻め込み、大館城を攻略した。

9月22日、会津藩が降伏して「東北戦争」の勝敗がほぼ決すると、9月24日庄内藩は降伏した。盛岡藩兵は久保田藩に援軍が到着すると、藩境まで押し戻され、その後奥羽越列藩同盟の敗北に伴い降伏した。

白河戦線[編集]

白河市は関東地方と東北地方の結節点であり、この地の白河城は両地方間の交通を管理可能な拠点だった。江戸無血開城以降の時点でこの地は新政府の管理下となっていた。仙台藩が列藩同盟設立の姿勢を顕にし総督府の世良修蔵を殺害、九条道孝総督・醍醐忠敬参謀らを仙台城下に軟禁したのと同日の閏4月20日、会津軍と仙台藩は呼応して白河城を新政府から奪い取った。

しかし5月1日、伊地知正治率いる新政府軍・約500人は、列藩同盟軍から白河城を奪還した。

以後100日余りに渡って攻防戦(白河口の戦い)が行われた。新政府軍側には増援は一向に到着しなかったが、会津藩・仙台藩を主力とする列藩同盟軍4500人弱は7次にわたって白河城の奪取を試み失敗に終わった。この戦いで両軍併せ約1,000人の死者が出た。

北越戦争[編集]

北越戦争における薩摩藩戦死者の墓(新潟県上越市金谷山)

越後には慶応4年(1868年)3月9日に開港された新潟港があった。戊辰戦争勃発に伴い新政府は開港延期を要請したがイタリアとプロイセンは新政府の要請を無視し、両国商人は新潟港で列藩同盟へ武器の売却を始めた。このため新潟港は列藩同盟の武器の供給源となった。5月2日、新政府軍の岩村精一郎は恭順工作を仲介した尾張藩の紹介で長岡藩の河井継之助と会談した。河井は新政府が他藩に負わせていた各種支援の受け入れを拒否し、獨立特行の姿勢と会津説得の猶予を嘆願したが、岩村はこれを新政府への権威否定及び会津への時間稼ぎとして即時却下した。これにより長岡藩及び北越の諸藩計6藩が列藩同盟へ参加したため、新政府軍と同盟軍の間に戦端が開かれた。長岡藩は河井継之助により兵制改革が進められ武装も更新されていた。同盟軍は河井継之助の指揮下で善戦したが7月に長岡城が落城した。7月25日同盟軍は長岡城を奪還し新政府軍を敗走させたがこの際指揮をとっていた河井継之助が負傷(のち死亡)した。新政府軍は長岡城を再奪取し、7月29日長岡藩兵は撤退した。一方、新政府軍が軍艦で上陸し米沢藩兵・会津藩兵が守る新潟も陥落したため、8月には越後の全域が新政府軍の支配下に入った。これによって奥羽越列藩同盟は洋式武器の供給源を失い深刻な事態に追い込まれた。同盟軍の残存部隊の多くは会津へと敗走した。

平潟戦線[編集]

平潟戦線における列藩同盟軍の主力は仙台藩であった。6月16日から20日にかけて官軍・約750人が海路常陸国茨城県平潟港に上陸した。列藩同盟軍は上陸阻止に失敗した。

当時、榎本武揚の旧幕府艦隊は健在であったが官軍の軍艦を用いた上陸作戦を傍観した。その後も順次上陸作戦は実行され、官軍の兵力は約1,500人となった。

6月24日、総督・板垣退助が率いる官軍迅衝隊が白河から平潟との中間にあった棚倉城を接収した。さらに7月14日、迅衝隊は海岸に近い平城を占領した(平城の戦い)。7月16日、断金隊々長・美正貫一郎の尽力によって、三春藩が迅衝隊に進んで降伏し無血開城し、三春城は官軍の病院としての一翼をになった。7月29日、二本松城を官軍が占領した(二本松の戦い)( 二本松少年隊)。8月7日、相馬藩が官軍に降伏した。

白河周辺に大軍を駐屯させ南下を伺っていた列藩同盟軍は、より北の浜通り及び中通りが官軍の支配下に入ったことに狼狽し、会津領内を通過して国許へと退却した。また仙台藩は列藩同盟の盟主でありながら恭順派が勢いを増していて、藩領外への進軍は中止された。官軍総司令官・大村益次郎長州藩)は仙台藩の攻撃を優先することを主張していたが、現地の司令官・伊地知正治(薩摩藩)、板垣退助(土佐藩)の会津進攻策が通り、会津戦争が行われることになった。

東北戦争の終結[編集]

損傷した若松城(降伏後に撮影)

8月22日二本松周辺まで北上していた新政府軍は、同盟軍の防備の薄かった母成峠から会津盆地へ侵攻し、母成峠の戦いが行われた。当地には大鳥圭介ら旧幕府軍が防衛していたが兵力が小さく、敏速に突破され若松への進撃を許した。当時会津軍の主力は関東に近い領内南部の日光口(会津西街道)や領外の遠方にあり、若松に接近している新政府軍への備えが劣っていた。またこれらの軍は侵攻してきた新政府軍を側面から牽制することもなく若松への帰還を優先した。こうして会津藩兵と旧幕府方残党勢力は若松城に篭城した。この篭城戦のさなか白虎隊の悲劇などが発生した。9月4日米沢藩が新政府に降伏し、米沢藩主・上杉斉憲は仙台藩に降伏勧告を行った。その結果もあり9月10日仙台藩は新政府に降伏した。9月22日会津藩が新政府に降伏した。会津藩が降伏すると庄内藩も久保田領内から一斉に退却し、9月24日新政府に降伏した。

箱館戦争[編集]

蝦夷へ向かう旧幕府軍
五稜郭本陣 (明治元年冬撮影)
新政府軍が箱館に迫ると、この本陣の鐘楼が艦砲射撃の標的となり、旧幕府軍では慌てて鐘楼を取り壊した。

榎本武揚ら旧幕府海軍を主体とする勢力は、もはや奥羽越列藩同盟の敗色が濃い8月19日になって江戸を脱出した。出航が遅れたのは、徳川慶喜への新政府の処置を見届ける必要を感じていたからと説明されている。8月26日仙台藩内の浦戸諸島・寒風沢島ほか(松島湾内)に寄港し、同盟軍及び大鳥圭介土方歳三等の旧幕府軍の残党勢力、約2,500人を収容し、10月12日に蝦夷地北海道)へと向かった。北海道の松前藩は奥羽越列藩同盟側に属していたが、7月28日に尊王を掲げた正議隊による政変が発生し、以後は新政府側に帰順していた。10月26日榎本は箱館五稜郭などの拠点を占領し、12月5日に北海道地域に事実上の権力を成立させた(通称、榎本政権または蝦夷共和国)。

榎本らは北方の防衛開拓を名目として、朝廷の下での自らの蝦夷地支配の追認を求める嘆願書を朝廷に提出したが、新政府はこれを認めず派兵した。旧幕府軍は松前、江差などを占領する際に軍事力の要となる開陽丸を悪天候で座礁沈没させており、海軍兵力の低下は否めず、宮古湾海戦を挑んだものの敗れた。その後、新政府軍は、青森に戦力を築き、旧幕府軍の不意を突いて明治2年4月9日(1869年5月20日)江差の北、乙部に上陸する。その後、進軍され5月18日(同6月27日)、土方歳三は戦死し、榎本武揚らは新政府軍に降伏し戊辰戦争は終結した。

戦後処理[編集]

慶応4年5月24日、新政府は徳川慶喜の死一等を減じ、田安亀之助徳川宗家を相続させ、駿府70万石を下賜することを発表した。

また、諸藩への戦功賞典及び処分のうち主なものを挙げる

戦功賞典
永世禄
処分された藩
  • 仙台藩 - 28万石に減封(62万石)。藩主・伊達慶邦は死一等を減じられ謹慎。家老6名のうち2名が処刑、さらに2名が切腹させられた。
  • 会津藩 - 陸奥斗南藩3万石に転封(23万石)。藩主父子は江戸にて永禁固(のち解除)。家老1名が処刑された。
  • 盛岡藩 - 旧仙台領の白石13万石に転封(20万石)。家老1名が処刑された。
  • 米沢藩 - 14万石に減封(18万石)
  • 庄内藩 - 12万石に減封(17万石)
  • 山形藩 - 近江国朝日山へ転封、朝日山藩を立藩。石高は5万石から変わらず。家老1名が処刑された。
  • 二本松藩 - 5万石に減封(10万石)
  • 棚倉藩 - 6万石に減封(10万石)
  • 長岡藩 - 2万4千石に減封(7万4千石)。すでに死亡していた処刑が相当の家老2名は家名断絶とされた。
  • 請西藩 - 改易(1万石)、藩重臣は死罪。藩主・林忠崇は投獄。のち赦免されるが士族扱いとなる。後年、旧藩士らの手弁当による叙勲運動により、養子が他の旧藩主より一段低い男爵に叙任された。戊辰戦争による除封改易はこの一家のみ。
  • 一関藩 - 2万7000石に減封(3万石)
  • 上山藩 - 2万7000石に減封(3万石)
  • 福島藩 - 三河国重原藩2万8000石へ転封(3万石)
  • 亀田藩 - 1万8000石に減封(2万石)
  • 天童藩 - 1万8000石に減封(2万石)
  • 泉藩 - 1万8000石へ減封(2万石)
  • 湯長谷藩 - 1万4000石へ減封(1万5000石)
所領安堵となった藩
  • 八戸藩 - 藩主・南部信順が島津氏の血縁ということもあり、沙汰無しとなったと言われる。また、本家盛岡藩の久保田藩に対する戦闘では、遠野南部氏共々尊皇攘夷思想に参加していない。また、陰で久保田藩と通じる文書を交わしていることが明らかになっている。
  • 村松藩 - 家老1名が処刑された。
  • 村上藩 - 家老1名が処刑された。
  • 磐城平藩 - 新政府に7万両を献納し、所領安堵となった。
  • 相馬中村藩 - 新政府に1万両を献納し、所領安堵となった。
  • 三春藩
  • 新発田藩
  • 三根山藩
  • 黒川藩
  • 下手渡藩 - 下手渡の陣屋が仙台藩に攻撃されたため、旧領である筑後国三池に陣屋を戻して三池藩を立藩。石高は1万石から変わらず。

明治2年(1869年)5月、各藩主に代わる「反逆首謀者」として仙台藩首席家老・但木成行、仙台藩江戸詰め家老・坂英力、会津藩家老・萱野長修、盛岡藩家老・楢山佐渡が東京で刎首刑に処された。続いて仙台藩家老の玉虫左太夫若生文十郎切腹させられた。しかし思想家・大槻盤渓は死を免れた。

会津藩と庄内藩の処分については対照的な結果となった。会津藩に対する処分は「斗南3万石に転封」というものだった[8]。斗南は元々南部藩時代より米農家以外は金・銭での納税が認められている土地で、実際に年貢として納められた米は7310石であった。収容能力を超えて移住した旧藩士と家族は飢えと寒さで病死者が続出し、日本全国や海外に散る者もいた。

庄内藩に対する処分は西郷隆盛らによって寛大に行われた。前庄内藩主・酒井忠篤らは西郷の遺訓『南洲翁遺訓』を編纂し、後の西南戦争では西郷軍に元庄内藩士が参加している。

奥羽越列藩同盟から新政府に恭順した久保田藩・弘前藩・三春藩は功を労われ、明治2年(1869年)には一応の賞典禄が与えられた。しかし、いずれも新政府側からは同格とは見なされず望むほどの恩恵を得られなかった。この仕置きを不満とした者の数は非常に多く、後に旧久保田藩領では反政府運動が、旧三春藩領では自由民権運動が活発化した。

箱館戦争が終結すると首謀者の榎本武揚・大鳥圭介・松平太郎らは東京辰の口に投獄されたが、黒田清隆らによる助命運動により、明治5年(1872年)1月に赦免された。その後、彼らの多くは乞われて新政府に出仕し、新政府の要職に就いた。

遺恨[編集]

戊辰戦争では戦争の様々な事柄や理由において、その原因を遺恨と結びつけて説明される事がある。京都守護職だった会津藩の京都における勤王・倒幕浪士の捕殺や、庄内藩による薩摩藩邸の焼き討ち、禁門の変による長州藩への「朝敵」指定や長州征討会津戦争での新政府軍による暴行略奪などが各藩の「恨み」の理由として挙げられる。また実際に、長州藩は立場が転じて官軍になると旧幕府側を敵意をこめて「朝敵」と呼称した山縣有朋のような人物が見られ、俗説ほど多くないにせよ鹿児島で起きた西南戦争においては旧幕府側出身の抜刀隊員のなかには、賊軍の汚名をそそぐべく「戊辰の仇、戊辰の仇」と叫んで斬り込んでいった者もいた。

戊辰戦争をテーマにする作品[編集]

アニメ[編集]

TV ドラマ[編集]

ゲーム[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 3月7日に姫路藩が追加される(水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)P178)。
  2. ^ ただし、大垣藩は10日の時点で藩主が謝罪と恭順の誓約を出していたことから、13日に新政府軍(中山道総督)の先鋒を務める事を条件に朝敵から外す確約を与えられて4月15日に正式に解除、更には戊辰戦争の功によって賞典禄まで与えられている。なお、同藩の場合、新政府参与に同藩重臣(小原忠寛)がおり、彼のとりなしを新政府・大垣藩双方が受け入れた事が大きい(水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)P220-224)。
  3. ^ 水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)P8-12・22-24・55
  4. ^ 水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)P391-394
  5. ^ 水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)P399-403
  6. ^ 「歴史館-幻の会津プロイセン連合」 NHK 2011年
  7. ^ 石井孝, 『戊辰戦争論』, 2008年
  8. ^ 明治2年8月、当時若松県大参事であった岡谷繁実による猪苗代での会津藩5万石の再興の提言を受け、明治政府は明治2年9月11日に会津松平家を3万石で存続させることを許し、11月3日に封地を陸奥に決定した。下北半島の郷土史家の笹沢魯羊によると、転封地に関して新政府が斗南か猪苗代の選択肢を示し、会津藩内の議論の末、広沢安任の主張を採択して斗南を選択したと記述し(『田名部町誌』(1935年))、それが多くの書籍で引用されている。しかしながら野口信一によると、猪苗代説の元史料の存在が認められず、議論は南部領への移住そのものに対する議論であるとの見解を示している(野口信一P.240~246)。

参考文献[編集]

  • 大山柏 『戊辰戦役史 上下』 時事通信社、1968年
  • 菊地明(他)編,『戊辰戦争全史』〈上・下〉, 新人物往来社 (1998/04), ISBN 4404025726, ISBN 4404025734
  • 佐々木克,『戊辰戦争』, 中公新書 (1977), ISBN 4121004558
  • 保谷徹,『日本の戦争18 戊辰戦争』, 吉川弘文館, ISBN 4642063285
  • 野口武彦,『幕府歩兵隊―幕末を駆けぬけた兵士集団』, 中公新書 (2002/11), ISBN 4121016734
  • 稲川明雄(他)編,『北越戊辰戦争史料集』, 新人物往来社 (2001/11), ISBN 4404029233
  • 中須賀哲朗(訳),『英国公使館員の維新戦争見聞記』, 校倉書房 (1974)
  • 『会津戦争-痛憤 白虎隊と河合継之助』, 学習研究社 (1994/9), ISBN 9784056005868
  • 川崎三郎、『戊辰戦史』、博文館、1894年[1]
  • 『長岡藩戊辰戦争関係史料集』〈長岡市史双書 No.31〉、長岡市、1995年
  • 野口信一『会津えりすぐりの歴史―資料から読み解く真実の歴史』歴史春秋社刊 (2010), ISBN 978-4897577531
  • 水谷憲二,『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』, 八木書店 (2011), ISBN 978-4840620444