新庄城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
logo
新庄城
山形県
石垣
石垣
別名 沼田城、鵜沼城
城郭構造 輪郭式平城
天守構造 不明
築城主 戸沢政盛
築城年 1625年寛永2年)
主な改修者 戸沢政盛
主な城主 戸沢氏
廃城年 1868年明治元年)
遺構 土塁、堀
指定文化財 新庄市史跡
位置 北緯38度46分1.27秒
東経140度17分36.61秒
土塁と堀
武器櫓跡
本丸と二の丸を結ぶ土橋
武器櫓の土塁
大納戸櫓跡

新庄城(しんじょうじょう)は、山形県新庄市堀端町にあった日本の城(中世の平城)である。別名沼田城(ぬまたじょう)、鵜沼城(うぬまじょう)と呼ばれる。新庄市指定史跡。

概要[編集]

新庄城は、新庄藩6万石(のちに6万8200石)の本拠として寛永2年(1625年)、戸沢政盛により現在の山形県新庄市堀端町に築城された平城。本丸の南側に出丸のように小さな二の丸が並列状に配置され、その外側を三の丸が囲む形である。本丸及び二の丸、三の丸の堀の水は城の北を流れる差指野川(さすのかわ)から引かれた。三の丸堀(二の堀)の反対側に当たる現在の堀端町は、家老などが住む侍屋敷があった。 最上氏改易後に入封した戸沢政盛は当初真室城鮭延城)に入城したが、手狭であることと、山城のための不便さから幕府に願い出て、当地に築城した。なお、縄張は同一時期に山形城に入封した鳥居忠政によるものである。

1636年(寛永13年)に、火災によって天守が焼失したが再建されなかった。

慶応4年(1868年)の戊辰戦争では戦闘の舞台となった。当初、新庄藩奥羽越列藩同盟に参加していたが、久保田藩(秋田藩)が新政府側へ変節したのに同調し、奥羽越列同盟から離脱した。これに激怒した庄内藩は新庄藩へと攻め入り、庄内藩兵と新庄藩兵の間で攻城戦が行われたが新庄城は陥落して、その大部分が焼失した。当時の藩主、戸沢正実は久保田藩へ落ち延びた。新庄城は同年のうちに廃城となった。

現在は、新庄城の建物のほとんどが失われ、本丸址に戸澤神社、護国神社、稲荷神社、天満神社がある。このうち、天満神社は城を創建した戸沢氏の氏神で、藩政時代から現存している唯一の建造物であり、県指定文化財(昭和63年(1987年)8月25日指定)になっている。新庄市老人福祉センターや新庄市保健センター付近では三の丸堀跡も確認できる。本丸跡、二の丸跡を含めた城跡は最上公園として市民に開放されており、新庄市出身の折下吉延による心字池がある。また、最上地方随一の桜の名所として知られ、毎年4月20日前後に見頃を迎え、「カド焼きまつり」の会場となる。夏は天満神社の縁の祭りである新庄まつりが開催される。

城郭[編集]

本丸には御殿(天守は落雷で焼失)、三の丸にはの政庁が置かれた。

本丸
設備:御殿、土塁、濠、天守(落雷で焼失)、二重櫓3棟
二の丸
設備:土塁、濠
三の丸

城下[編集]

城下町羽州街道に沿って商家が集まり、城下各地に職人町が造られた。羽州街道は元々「東の道」と呼ばれて神室連峰の山裾を縫っており、城域から少々離れていたが、築城を機に城下を通るように変更された。同様に庄内地方からの道路も、本合海から新田川の川沿いを通って宮野、角沢、鳥越に至るルートであった(源義経の「東下り」もこのルートである)が、新庄藩によって長坂峠(現在の八向中学校前の坂)越えの道が開削され、福田、二軒(仁間)から城下へと向かう道になった。

現在も城下町当時の町割が残る地域があり、城下町によく見られるような曲がり道や丁字路が多い。

定期市が立つ町
五日町(南本町)、十日町(北本町)
馬市が立つ町
馬喰町(馬口労町) 藩主が馬で城外に出る「御馬出口」もここにあった。
職人町
鍛冶町
城下で最も栄えていた商家街
北本町、南本町 新庄城の正門に当たる大手門には、北本町と南本町の間から入る構造であった。
その他
鉄砲町、御長柄町、茶屋町
街道
羽州街道

関連項目[編集]

外部リンク[編集]