自由民権運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

自由民権運動(じゆうみんけんうんどう、Jiyū Minken Undō, The Freedom and People's Rights Movement, Liberty and Civil Right Movement)とは、明治時代日本において行われた憲法制定、国会開設のための政治運動社会運動

概要[編集]

明治6年(1873年征韓論を主張して敗れた板垣退助らが、野に下り征韓派勢力を結集し、明治7年(1874年1月12日愛国公党を結成し、1月17日民撰議院設立建白書』を左院に提出し東アジアで初となる国会開設の請願を行ったことに始まる運動である[1]藩閥政府による専制政治を批判し、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約の撤廃、言論の自由集会の自由の保障などの要求を掲げ、明治23年(1890年)の帝国議会開設頃まで続いた。

自由民権運動は三つの段階に分けることができ、第一段階は1874年(明治7年)の『民選議院設立建白書』の提出から1877年(明治10年)の西南戦争頃までであり、第二段階は西南戦争以後、1884・1885年(明治17・8年)頃までが、この運動の最盛期である。第三段階は条約改正問題を契機として、この条約改正に対する条件が日本にとって屈辱的であったため反対した民党が起こしたいわゆる大同団結運動を中心とした明治20年前後の運動である[2]

日本における独自性[編集]

幟仁親王の揮毫による御誓文の原本[3]

日本における自由民権運動(The Liberty and Civil Right Movement)は、維新回天元勲板垣退助億兆安撫国威宣揚の御宸翰の意を拝し尊皇思想を基礎とし、明治天皇五箇条の御誓文を柱として発展したもので、世界の自由主義思想とは潮流を異にする[4]。特に御誓文の第一条「広く会議を興し万機公論に決すべし」の文言は重視され、国会開設および憲法制定の根拠とされた[4]

朕、幼弱を以て猝(には)かに大統を紹(つ)ぎ、爾来、何を以て万國に對立し、列祖に事へ奉らんかと朝夕恐懼に堪ざる也。竊(ひそか)に考(かんがふ)るに、中葉、朝政衰(おとろへ)てより、武家、権を専(もっぱ)らにし、表には朝廷を推尊して實は敬して是を遠け、億兆の父母として、絶て赤子の情を知ること能(あたは)ざるやふ計りなし、遂に億兆の君たるも、唯、名のみに成り果て、其が爲に今日、朝廷の尊重は古へに倍せしが如くして、朝威は倍(ますます)衰へ、上下相離ること霄壌(しょうじょう)の如し。かゝる形勢にて何を以て天下に君臨せんや。今般、朝政一新の時に膺(あた)り、天下億兆一人も其處を得ざる時は、皆、朕が罪なれば、今日の事、朕、躬(みづか)ら身骨を勞し、心志を苦(くるし)め、艱難(かんなん)の先に立(たち)、古(いにしへ)列祖の盡(つく)させ給ひし蹤(あと)を履(ふ)み、治蹟を勤めてこそ、始(はじめ)て天職を奉じて億兆の君たる所に背(そむ)かざるべし。往昔、列祖萬機を親(みづか)らし不臣のものあれば自(みづか)ら將として、これを征し玉(たま)ひ、朝廷の政(まつりごと)、總(すべ)て簡易にして如此(かくのごと)く尊重ならざるゆへ、君臣相親(あひしたし)みて上下相愛し、德澤天下に洽(あまね)く、國威海外に輝きしなり。然るに近來宇内大(おほい)に開け、各國四方に相雄飛するの時に當(あた)り、獨(ひとり)我邦(わがくに)のみ世界の形勢にうとく、旧習を固守し、一新の効をはからづ、朕、徒(いたづ)らに九重中に安居(あんきょ)し、一日の安きを偸(ぬす)み、百年の憂(うれひ)を忘(わする)る時は、遂に各國の凌侮(あなどり)を受け、上は列聖を辱しめ奉り、下は億兆を苦めんことを恐る。故に朕こゝに百官諸侯と廣く相誓ひ、列祖の御偉業を繼述し、一身の艱難辛苦を問(とは)ず、親(みづか)ら四方を經營し、汝、億兆を安撫し、遂には万里の波涛を拓開し、國威を四方に宣布し、天下を富岳の安きに置(おか)んことを欲して、汝、億兆旧來の陋習に慣れ、尊重のみを朝廷の事となし、神州の危急をしらず、朕一(ひと)たび足を擧(あげ)れば非常に驚き、種々(さまざま)の疑惑を生じ、萬口紛紜(ばんこうふんうん)として、朕(ちん)が志をなさゞらしむ時は、是、朕をして君たる道を失はしむるのみならづ、從て列祖の天下を失はしむる也。汝、億兆能々(よくよく)朕が志を躰認(たいにん)し、相率(あいひきゐ)て私見を去り、公義を採(と)り、朕が業を助(たすけ)て神州を保全し、列祖の神靈を慰し奉らしめは生前の幸甚ならん[5] — 『億兆安撫國威宣揚の(明治天皇)御宸翰

自由民権家が例外なく尊皇家であったのは、その主導者である板垣退助の影響が大きい[6]。板垣は「君主」は「」を本とするので、「君主主義」と「民本主義」は対立せず同一不可分であると説いた[7]。これらの論旨の説明には「天賦人権説」がしばしば用いられている[8]東北地方では河野広中北陸では杉田定一九州では頭山満らが活躍したが、初期において自由民権運動に参加した者は、いずれも板垣の薫陶を受けたものから派生している[9]。世界の自由主義思想は、キリスト教神学聖書解釈や個人主義などを伴って発展したものが多い中で、日本の自由主義は愛国主義(Patriotism)と密接に結びついており、単純にリベラリズム(Liberalism)と翻訳出来ない特徴を有する[6][9]

NaitoRoichi Zou.jpg Kataoka Kenkichi.jpg SUGITA Teiichi.jpg Hironaka Kono.JPG Toyama Mitsuru.jpg
内藤魯一(三河交親社)
杉田定一(自郷学社)
河野広中(三師社)

前史[編集]

書契事件[編集]

明治政府が樹立されると、日本はその旨を伝えるため、朝鮮に対し国書を送るが朝鮮は江戸時代を通じて、宗氏を通して伝達が行われていたため受け取りを拒否。そこで、改めて対馬藩宗氏を介し送った。しかし、従来使用されていなかった印鑑が使われ、国書の中に「左近衛少将」、「朝臣」、「皇」、「奉勅」などの用語が使用されていたことや「礼曹参判」への呼称などが従来の書契形式と異なることなどに対して朝鮮側が難色を示し、国書の受理を拒否した[10]

当時、日本は西欧列強が迫っていた東アジア諸国の中で、いちはやく開国し明治維新によって近代国家を目指し、西欧諸国のみならず、自国周辺のアジア諸国とも近代的な国際関係を樹立しようとして送った国書であったが、開明的な考え方の日本に比べ、閉鎖的、旧時代的な考え方にたつ朝鮮は、日本が送った国書の書式(書契)に「皇」や「勅」の文字があったため、日本の意図を曲解して受け取りを拒否したのである。中華思想における冊封体制下では「皇上」や「奉勅」という用語は中国の王朝にのみ許された用語であって、日本がそれを使用するということは、冊封体制の頂点に立ち朝鮮よりも日本の国際地位を上とすることを画策したと朝鮮は捉えたのである[9]。(書契事件)

朝鮮外交問題[編集]

書契問題が膠着するなか、朝廷直交を実現すべく朝鮮外交の権限を外務省に一元化し、対馬宗氏を除外して皇使を派遣すべきだとの意見が維新政府内に強まった。その前提として調査目的に佐田白茅らが派遣されたが、彼は帰国ののち1870年(明治3年)「30大隊をもって朝鮮を攻撃すべきだ」という征韓の建白書を提出する[1]

局面の打開のため、外務省は対馬宗氏を通して朝鮮外交の一本化を進める宗氏派遣計画(1871年(明治4年)2月)や柳原前光の清国派遣(1871年(明治4年)8月政府等対論)など複数の手立てを講じ、同年9月13日には清国日清修好条規が締結されるにおよんだ。 しかしながら、1871年(明治4年)4月にアメリカ艦隊が江華島の砲台を占領、朝鮮側がこれを奪還する事態が生じ(辛未洋擾[11])、朝鮮が攘夷の意思を強めていたこともあって交渉は進展しなかった。1871年(明治4年)の末からは岩倉使節団が西欧に派遣されることとなり、国政・外交に関する重要な案件は1873年(明治6年)秋まで事実上の棚上げとなった[1]

征韓論争[編集]

欧米近代国家の政治や産業の発展状況を視察し、明治6年(1873年9月13日に帰国した岩倉具視らは、帰国後の会議で、留守政府の首脳であった西郷隆盛板垣退助らが朝鮮開国問題解決のためには武力行使もあえて辞さないという強硬論(征韓論)を唱えたのに対し、海外事情を実見した大久保や木戸らは内治優先論を唱えて反対、征韓論は否決になった。そのため、西郷・板垣・後藤象二郎江藤新平副島種臣ら征韓派の参議がそろって辞職、官僚600余名も征韓論の否決に抗議して一斉に官を辞した[9]。(明治六年政変)。

経緯[編集]

運動の始まり[編集]

民撰議院設立建白書・序文

下野した征韓派は五箇条の御誓文の第一條「広く会議を興し万機公論に決すべし」の文言を基に有司専制を批判して結集を呼び掛け、明治7年(1874年1月12日板垣退助後藤象二郎江藤新平副島種臣らが愛国公党を結成。1月17日民撰議院設立建白書を政府左院に提出した[1]

臣等伏して方今(ほうこん)政権の帰する所を察するに、上は帝室(すめらみこと)に在らず、下は人民(おほみたから)に在らず、而(しか)も独り有司に帰す。夫れ有司、上は帝室を尊ぶと曰(い)はざるに非(あら)ず、而して帝室漸く其尊栄を失ふ。下は人民を保つと曰はざるに非らず、而も政令百端、朝出暮改、政情実(まこと)に成り、賞罰愛憎に出づ。言路壅蔽、困苦告(つぐ)るなし。夫(そ)れ如是(かくのごとく)にして天下の治安ならん事を欲す。三尺の童子も猶(なほ)其不可なるを知る。因仍改めずば、恐くは国家土崩の勢を致(いた)さん。臣等愛国の情自ら已む能はず、乃(すなは)ち之(これ)を振救するの道を講求するに、唯天下の公議を張る在る而已(のみ)。天下の公議を張るは、民撰議院を立つるに在る而已(のみ)。則(すなは)ち有司の権を限(かぎ)る所あつて、而して上下安全、其の幸福を受る者あらん。請(こ)ふ遂に之(これ)を陳(ちん)ぜん。 — (『民撰議院設立建白書』冒頭)

板垣退助らの建白書は、時期尚早として却下されたが、この建白書がイギリス人のブラックによる新聞『日新真事誌』に載せられたことで、国会開設の問題が世間に知られることになり、民選議院を設立すべきか否かの論戦が新聞紙上で交わされることとなった[12]

愛国公党の諸氏は、互いに地元に帰り、先ず自分の地盤を固めることから活動することに決し、板垣ら土佐勢は高知に戻って立志社を設立した[9]

大阪会議[編集]

大阪会議開催の地にある大久保利通(上左)・木戸孝允(上中央)・板垣退助(上右)・伊藤博文(下左)・井上馨(下右)のレリーフ
大阪府大阪市中央区北浜

明治8年(1875年)、板垣退助は、国会開設運動を全国組織に拡大することを目指し、大阪で愛国社の結成に奔走。その中で、「国会開設を本気で目指すのであれば、なぜ参議を辞職したのか、政府の中で改革すれば良かったのではないか」との批判もあり、大阪会議の結果、板垣は政府内から国会開設の目的を果たす戦略を考え、参議に復職。この時、板垣は西郷隆盛も同時に参議に復職することを大久保らに約束させる。しかし、西郷は板垣からの書簡の受け取りを拒否し、さらに書簡を持参した使者に居留守を使ってまで追い返すという謎の行動に出たため、西郷は参議に復帰しなかった[9]

一定の成果を上げるが、愛国社は中心となる板垣が公職に就いたため活動が出来ず資金難により、一旦消滅する。

不平士族の乱[編集]

明治10年(1877年)、西郷隆盛が西南に兵を挙げると、立志社内部でも西南戦争に乗じて挙兵しようとする勢力があり幹部が逮捕されてしまう。(立志社の獄

江藤新平が建白書の直後に士族反乱佐賀の乱(1874年)を起こし、死刑となっていることで知られるように、この時期の自由民権運動は政府に反感を持つ士族らに基礎を置き、士族民権と呼ばれる。武力を用いる士族反乱の動きは明治10年(1877年)の西南戦争まで続くが、士族民権は武力闘争と紙一重であった。

運動の高揚[編集]

伊勢暴動(1876年)

明治11年(1878年)、板垣退助は愛国社を再興し、明治13年(1880年)の第四回大会で国会期成同盟が結成され、国会開設の請願・建白が政府に多数提出された。地租改正を掲げることで、運動は不平士族のみならず、農村にも浸透していった。特に各地の農村の指導者層には地租の重圧は負担であった。これにより、運動は全国民的なものとなっていった。

この時期の農村指導者層を中心にした段階の運動を豪農民権という。豪農民権が自由民権運動の主体となった背景には、明治9年(1876年)地租改正反対一揆が士族反乱と結ぶことを恐れた政府による地租軽減と、西南戦争の戦費を補うために発行された不換紙幣の増発によるインフレーションにより、農民層の租税負担が減少し、政治運動を行う余裕が生じてきたことが挙げられる[13]。実際交通事情が未整備な当時、各地の自由民権家との連絡や往復にはかなりの経済的余裕を必要としていた。これら富農層が中心となった運動だけに、政治的な要求項目として民力休養・地租軽減が上位となるのは必然であった。また、士族民権や豪農民権の他にも、都市ブルジョワ層や貧困層、博徒集団に至るまで当時の政府の方針に批判的な多種多様な立場からの参加が多く見られた。

民権運動の盛り上がりに対し、政府は明治8年(1875年)には讒謗律新聞紙条例の公布、明治13年(1880年)には集会条例など言論弾圧の法令で対抗した。

私擬憲法[編集]

国会期成同盟では国約憲法論を掲げ、その前提として自ら憲法を作ろうと、翌明治14年(1881年)までに私案を持ち寄ることを決議した。板垣退助私擬憲法の作成意図について『我國憲政ノ由來』で次のように述べている。

國家の根本法たる憲法は、君主と人民との一致に基(もとづ)いて定むべく、國約憲法とは之(これ)を謂(い)ふなり。即ち知るべし國約憲法とは君民同治の神髄なることを。故(ゆえ)に苟(いやし)くも我國の憲法を制定せんと欲せば先づ憲法制定の為めの國民議会を開かざる可からずと。真に皇室の安泰人民の福祉を慮(おもんぱか)り、この金甌無欠の國家を永遠に維持せんが爲めに、萬世不易の根本法を定めんとするもの。 — 『我國憲政ノ由來』板垣退助

これらの影響により憲法草案を考えるグループが全国的に誕生し、明治14年(1881年)に交詢社は『私擬憲法案』を編纂・発行し、植木枝盛私擬憲法東洋大日本国国憲按』を起草した。昭和43年(1968年)に東京五日市町(現・あきる野市)の農家の土蔵から発見されて有名になった『五日市憲法』は地方における民権運動の高まりと思想的な深化を示している。

明治十四年政変と政党結成[編集]

明治14年(1881年)、10年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、国会期成同盟第三回大会で自由党が結成され推されて板垣退助総理(党首)となる。

また参議・大隈重信は、政府内で国会の早期開設を唱えていたが、明治14年(1881年)に起こった明治十四年の政変で、参議・伊藤博文らによって罷免され、下野していたが、大隈も明治15年(1882年)に立憲改進党を組織し総理(党首)となった。

自由党の尊王論[編集]

板垣退助は、明治15年(1882年)3月、『自由党の尊王論』を著し、自由主義は尊皇主義と同一であることを力説し自由民権の意義を説いた。

世に尊王家多しと雖(いえど)も吾(わが)自由党の如き(尊王家は)あらざるべし。世に忠臣少からずと雖も、吾自由党の如き(忠臣)はあらざるべし。(中略)吾党は我 皇帝陛下をして英帝の尊栄を保たしめんと欲する者也。(中略)吾党は深く我 皇帝陛下を信じ奉る者也。又堅く我国の千歳に垂るるを信ずる者也。吾党は最も我 皇帝陛下の明治元年三月十四日の御誓文(五箇条の御誓文)、同八年四月十四日立憲の詔勅、及客年十月十二日の勅諭を信じ奉る者也。既に我 皇帝陛下には「広く会議を興し万機公論に決すべし」と宣(のたま)ひ、又「旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし」と宣(のたま)ひたり。吾党、固(もと)より我 皇帝陛下の之(これ)を履行し、之(これ)を拡充し給ふを信ずる也。又、立憲の政体を立て汝衆庶と俱(とも)に其慶幸に頼(たよ)らんと欲す。(中略)既に立憲政体を立てさせ給ひ、其慶幸に頼らんと宣ふ以上は、亦吾党に自由を与へ吾党をして自由の民たらしめんと欲するの叡慮なることを信ずる也。(中略)況や客年十月の聖諭の如きあり。断然二十三年を以て代議士を召し国会を開設せんと叡断あるに於ておや。(中略)故に吾党が平生自由を唱え権利を主張する者は悉く仁慈 皇帝陛下の詔勅を信じ奉り、一点(の)私心を(も)其間に挟まざる者也。(中略)斯(かく)の如くにして吾党は 皇帝陛下を信じ、我 皇帝陛下の意の在る所に随ふて、此立憲政体の慶幸に頼らんと欲する者也。(中略)方今、支那、魯西亜(ロシア)、土耳古(トルコ)諸邦の形状を察すれば、其帝王は驕傲無礼にして人民を軽侮し土芥之を視、人民は其帝王を畏懼し、或は怨望し雷霆の如く、讎敵の如くし、故に君民上下の間に於て曾(かつ)て其親睦愛情の行はるる事なし。(中略)今、吾党の我日本 皇帝陛下を尊崇する所以(ゆえん)は、固(もと)より支那、土耳古(トルコ)の如きを欲せざる也。又、大(おおい)に魯西亜(ロシア)の如きを好まざる也。吾党は我人民をして自由の民たらしめ、我邦をして文明の国に位し、(皇帝陛下を)自由貴重の民上に君臨せしめ、無上の光栄を保ち、無比の尊崇を受けしめんと企図する者也。(中略)是吾党が平生堅く聖旨を奉じ、自由の主義を執り、政党を組織し、国事に奔走する所以(ゆえん)也。乃(すなわ)ち皇国を千載に伝へ、皇統を無窮に垂れんと欲する所以(ゆえん)なり。世の真理を解せず、時情を悟らず、固陋自ら省みず、妄(みだ)りに尊王愛国を唱へ、却(かえっ)て聖旨に違(たが)ひ、立憲政体の準備計画を防遏(ぼうあつ)し、皇家を率ゐて危難の深淵に臨まんと欲する者と同一視すべからざる也。是れ吾党が古今尊王家多しと雖(いえど)も我自由党の如くは無し、古今忠臣義士尠(すくな)からずと雖も我自由党諸氏が忠愛真実なるに如(し)かずと為(な)す所以(ゆえん)なり。 — 『自由党の尊王論』板垣退助

板垣退助岐阜遭難事件[編集]

板垣退助の岐阜遭難事件

板垣退助は全国を遊説して回り、党勢拡大に努めていた明治15年(1882年)4月6日岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷した(岐阜事件)。その際、板垣は襲われたあとに竹内綱に抱きかかえられつつ起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言い[14][15]、これがやがて「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることになった。この事件の際、板垣は当時医者だった後藤新平の診療を受けており、後藤は「閣下、御本懐でございましょう」と述べ、療養後に彼の政才を見抜いた板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と語っている[16]

「板垣死すとも自由は死せず」という有名な言葉は、板垣が襲撃を受けた際に叫んだものである。

板垣自身が記しているものによれば、

「予(板垣)は人々に黙礼して二、三歩を出づるや、忽ち一壮漢あり『国賊』と呼びつつ右方の横合より踊り来つて、短刀を閃かして予の胸を刺す。(中略)内藤魯一、驀奔し来り兇漢の頸(くび)を攫(つか)んで仰向に之(これ)を倒す。白刃闇を剪いて数歩の外に墜つ。予(板垣)、刺客を睥睨して曰く『板垣死すとも自由は死せず』と。刺客は相原尚褧といふ者…(以下略)」 — (『我國憲政の由來』板垣退助著[17])

4月6日の事件後すぐに出された4月11日付の『大阪朝日新聞』は、事件現場にいあわせた小室信介が書いたものであるが「板垣は『板垣は死すとも自由は亡びませぬぞ』と叫んだ」と記されており[18]、他紙の報道も同様で、東京の『有喜世新聞』では「兇徒を睨みつけ『板垣は死すとも自由の精神は決して死せざるぞ』と言はるゝ[19]」等とある。

また政府側の密偵で自由民権運動を監視していた立場の目撃者・岡本都與吉(岐阜県御嵩警察署御用掛)の報告書においても、板垣自身が同様の言葉を襲撃された際に叫んだという記録が発見され今日に至っている[20]

  • 「板垣ハ死スルトモ自由ハ亡ヒス」(自由党の臨時報より)
  • 「吾死スルトモ自由ハ死セン」(岐阜県御嵩警察御用掛(政府密偵)・岡本都與吉)の上申書より)
  • 「我今汝カ手ニ死スルコトアラントモ自由ハ永世不滅ナルヘキゾ」(岐阜県警部長の報告書より)
  • 「嘆き玉ふな板垣は死すとも自由は亡びませぬぞ」(『大阪朝日新聞』明治15年(1882年)4月11日号)- 事件現場にいた小室信介の筆記
  • 「板垣は死すとも自由の精神は決して死せざるぞ」(『有喜世新聞』明治15年(1882年)4月11日号)
  • 「たとい退助は死すとも自由は死せず[21]」 - 事件現場にいた岩田徳義の筆記

運動内の分裂[編集]

明治十四年の政変によって、自由民権運動に好意的と見られてきた大隈をはじめとする政府内の急進派が一掃され、政府は伊藤博文を中心とする体制を固める事に成功して、結果的にはより強硬な運動弾圧策に乗り出す環境を整える事となった。また伊藤らは民権運動家の内部分裂を誘う策も行った。後藤象二郎を通じて自由党総理板垣退助に洋行を勧め、板垣がこれに応じると、民権運動の重要な時期に政府から金をもらって外国へ旅行する板垣への批判が噴出。批判した馬場辰猪大石正巳末広鉄腸らを板垣が逆に自由党から追放するという措置に出たため、田口卯吉中江兆民らまでも自由党から去ることとなった。また改進党系の郵便報知新聞なども自由党と三井との癒着を含め、板垣を批判。板垣・後藤の出国後には自由党系の自由新聞が逆に改進党と三菱との関係を批判するなど泥仕合の様相を呈した[22]

激化事件と運動の衰退[編集]

加波山事件志士の墓(茨城県筑西市)

大井憲太郎内藤魯一など自由党急進派は政府の厳しい弾圧にテロや蜂起も辞さない過激な戦術をも検討していた。また、松方デフレ等で困窮した農民たちも国会開設を前に準備政党化した自由党に対し不満をつのらせていた[23]

こうした背景のもとに1881年(明治14年)には秋田事件1882年(明治15年)には福島事件1883年(明治16年)には高田事件1884年(明治17年)には群馬事件加波山事件秩父事件飯田事件名古屋事件1886年(明治19年)には静岡事件等と全国各地で「激化事件」が頻発した。また、大阪事件もこうした一連の事件の延長線上に位置づけられている。なお、政府は1885年(明治18年)1月15日に爆発物取締罰則を施行した。

1884年には自由党は解党し、同年末には立憲改進党も大隈らが脱党し事実上分解するなど打撃を受けた。

運動の再開から国会開設へ[編集]

国会議事堂(第一次仮議事堂)

1886年には星亨らによる大同団結運動で民権運動は再び盛り上がりを見せ、中江兆民徳富蘇峰らの思想的な活躍も見られた。翌1887年(明治20年)には、さらに井上馨による欧化主義を基本とした外交政策に対し、外交策の転換・言論集会の自由・地租軽減を要求した三大事件建白運動が起こり、民権運動は激しさを増した。これに対し政府が保安条例の制定や改進党大隈の外相入閣を行うことで運動は沈静化し、1889年(明治22年)の大日本帝国憲法制定を迎えた。翌1890年(明治23年)に第1回総選挙が行われ、帝国議会が開かれた。以降、政府・政党の対立は議会に持ち込まれた。

成果[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 『自由黨史』板垣退助監修、五車楼
  2. ^ 丸山真男「自由民権運動史」(丸山真男著『戦中と戦後の間 1936-1957』みすず書房 1976年)309ページ
  3. ^ 高松宮家『幟仁親王行実』1933年、184頁、NDLJP:1212495/158
  4. ^ a b 『我國憲政の由來』板垣退助著(所収『明治憲政経済史論』国家学会編、東京帝国大学)
  5. ^ 『億兆安撫國威宣揚の(明治天皇)御宸翰』早稲田大学所蔵(所収『板垣精神(解説)』一般社団法人板垣退助先生顕彰会編纂、髙岡功太郎解説)
  6. ^ a b 鈴木安蔵は「板垣(退助)君並に立志社先輩諸氏は武士階級の教育を受け育った人々であり、彼等の述べるところの自由主義とは『泰西大家の新説』と日本文化によって醸熟された武士道精神の融合により誕生したものである」とする。
  7. ^ 『立国の大本』板垣退助著、第三章・君民二致なし「元來、世の聵々者流は、君主々義といひ、民本主義といふが如く、各其一方に偏し、始めより兩者を相對立せしめて議論を立つるが故に、理論上兩者相敵對するが如き形を生じ、其爭の結果、社會の秩序を紊亂するに至る也。抑も予(板垣退助)の見る所を以てすれば、君主人民とは決して相分つべきものにあらず。何となれば君主といひ人民といふも、決して單獨に存在するものにあらずして、人民ありての君主、君主ありての人民なるを以て也。則ち既に君主といふうちには、人民の意志の綜合、換言すれば輿論の結晶體といふ意味が含まれ、人民といふうちには又た之を統治して其秩序を維持する所の、最高權を執る者の存在すといふ意味が含まる。是故に民無くして君在るの理無く、人民無きの君主は一個の空名たるに過ぎず。(中略)專制君主と雖も其理想は實に人民を撫育し、其安寧幸福を求むるに在り。是故に君主と人民とは二にあらずして一也。決して始めより相敵對すべき性質のものにあらず。兩者は始めより其目的を同うし、利害を齊うせるものにして、恰も唇齒輔車の關係に在り。(中略)君主々義の神髓は卽ち取りも直さず民本主義の神髓たる也。(中略)君主々義といひ若くは民本主義と稱して、互に相爭ふが如きは、抑も誤れるの甚だしきものにして、君民は同一の目的を以て相契合融和し、共同して經綸を行ふべきものたることを知るに難からざるべし。而かも特に我邦の體制に於ては、君民の關係は恰かも親子の關係の如く、先天的に既に定まり(中略)我邦に於ては建國の始めより、君民一體にして、君意と民心は契合して相離れず。之が爲めに我邦に在ては毫も禪讓若くは選擧の形式を躡むの必要無く、人民の總意、輿論は直ちに君主によりて象徴せられ民意は卽ち君意、君意は卽ち民意にして君民は一にして決して二致無き也」より。
  8. ^ 坂野潤治田原総一朗『大日本帝国の民主主義』小学館,2006年,190頁
  9. ^ a b c d e f 『板垣精神』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2020年11月1日閲覧。
  10. ^ 原田1997、142-150頁。
  11. ^ 朝鮮政府の抗戦の意思は明確で、日本に仲介を求める動きも期待できず、アメリカ艦隊が長崎から出航している状況のなかでは日本への猜疑が強まる可能性もあった。
  12. ^ 丸山真男著『戦中と戦後の間 1936 - 1957』みすず書房 1976年 310ページ
  13. ^ 犬塚 2005、pp.5-9。
  14. ^ 当時、岐阜県御嵩(みたけ)警察署御用掛であった岡本都與吉が、3月26日から4月8日までの板垣一行の動静をまとめて4月10日に御嵩警察署長に提出した「探偵上申書」に記載されている。また岐阜県警部長の川俣正名が岐阜県令に対して提出した供覧文書には、板垣が刺客に対して、自分が死ぬことがあったとしても「自由は永世不滅ナルベキ」と笑った、と記録されている。
  15. ^ 知っていましたか? 近代日本のこんな歴史|板垣退助暗殺未遂事件〜「板垣死すとも自由は死せず」〜
  16. ^ 『日本の有名一族』小谷野敦、幻冬舎新書、2007
  17. ^ 所収『明治憲政経済史論』国家学会編、東京帝国大学、238頁
  18. ^ 原文「大野宰次郎氏が馳せ来たつてただちに板垣君にひしと抱きつき、「嗚呼残念なるかな」と一声叫びて落涙雨の如く右の袖を(板垣)君の身体より滴る血潮にひたして泣きしたうさま、熱心哀情が面に溢れて殆ど名状すべからざる有様なり。板垣君はこの哀声を聞かるゝに頭を廻らして静かに曰く「嘆き玉ふな板垣は死すとも自由は亡びませぬぞ」と。嗚呼、この一言は我々自由家の記念として、以て後世に傳ふべきものなり」(『大阪朝日新聞』明治15年(1882年)4月11日号)
  19. ^ 原文「尚褧、再び突かんとして君(板垣)と共に倒れしが、君はとくはね起きて、兇徒を睨みつけ『板垣は死すとも自由の精神は決して死せざるぞ』と言はるゝ言葉の果てざるに、またもや面部へ切り掛りたり」(『有喜世新聞』明治15年(1882年)4月11日
  20. ^ 板垣退助暗殺未遂事件 ~「板垣死すとも自由は死せず」~ アジア資料歴史センター
  21. ^ 原文「君神色自若、毫も平生に異ならず、顧みて諸氏を労りかつ謂て曰く「たとい退助は死すとも自由は死せず。誰がわが党を指して「過激なり」といふ。彼、かえつてこの過激のことを成す」と」(『板垣君岐阜遭難記録』岩田徳義著、明治26年(1893年)
  22. ^ 「詳説 日本史研究」:353ページ、山川出版社
  23. ^ 松方デフレにより、経済的余裕のあった富農層も次第に運動への熱意を失いつつあった。稲田 2009、p.125。
  24. ^ 昭和天皇、1977年(昭和52年)8月23日の会見
  25. ^ 『昭和天皇発言録―大正9年~昭和64年の真実』高橋紘編、小学館、1989年、241頁

参考文献[編集]

  • 稲田雅洋自由民権運動の系譜 近代日本の言論の力』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー 281〉、2009年10月。ISBN 978-4-642-05681-6
  • 犬塚孝明編著『明治国家の政策と思想』吉川弘文館、2005年10月。ISBN 4-642-03773-X
  • 田村安興ナショナリズムと自由民権』清文堂出版、2004年3月。ISBN 4-7924-0549-1
  • 坂野潤治明治デモクラシー』岩波書店〈岩波新書 新赤版939〉、2005年3月。ISBN 4-00-430939-5

関連項目[編集]

外部リンク[編集]