浅野長勲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
 
浅野長勲
Nagakoto Asano.jpg
浅野長勲(『歴史写真』昭和7年8月号より)
時代 江戸時代後期 - 昭和時代
生誕 天保13年7月23日1842年8月28日
死没 昭和12年(1937年2月1日
改名 喜代槌(幼名)→為五郎→長興(初名)→茂勲→長勲
神号 浅野長勲命
墓所 東京都渋谷区神宮前竜巌寺
広島県広島市西区山手町の新庄山墓地
官位 従五位下、紀伊守、従四位下、侍従、左近衛少将、安芸守、従二位、権中納言従一位
幕府 江戸幕府
安芸広島新田藩主→広島藩[1]→広島藩知事
氏族 浅野氏
父母 父:浅野懋昭[1]、母:沢義質の娘
養父:浅野長訓(茂長)[1]
兄弟 長勲阿部正桓、喜久子(伯爵南部利恭夫人)、雪年長道養長
正室:綱姫山内豊熈の娘)
養子:長道 (実弟)、
長厚長之益子(いずれも浅野懋績の子女で長勲の従兄弟にあたる。益子は松浦厚の夫人となる。)
浅野長勲

浅野 長勲(あさの ながこと)は、日本江戸時代末から昭和初期の大名政治家外交官実業家社会事業家

安芸広島新田藩第6代藩主、のち広島藩第12代(最後の)藩主[1]。浅野宗家13代当主。勲等爵位は勲一等侯爵

生涯[編集]

浅野懋昭(としてる。第7代広島藩主・浅野重晟の四男・浅野長懋(ながとし)の八男)の長男[1]安政3年(1856年)2月、伯父・浅野長訓の養嗣子となる[1]。安政5年11月4日、養父長訓の本家相続に伴って青山内証分家(広島新田藩の別称)の家督を継いだ[1](この後、弟の元次郎阿部家を継ぎ、雪年(ゆきとし、1861-1936)は同様に長訓の養子、長道(ながみち、1865-1886)は自身の養子となったため、最終的には末弟の養長(やすなが、1872-1941)が懋昭の跡を継ぐこととなった)。従五位下石見守に任官し、後に近江守[1]に改めた。なお新田藩主在任中は初名の長興(ながおき)[1]を名乗っていた。

文久2年(1862年)12月24日、今度は宗家の当主となった長訓(茂長)の養嗣子となり[1]、青山内証分家の家督は従弟の浅野長厚(正室は長勲の姉妹)に譲った。通称を紀伊守に改める。文久3年(1863年)2月11日、従四位下侍従に任官し、将軍・徳川家茂より偏諱を授与されて茂勲[1](もちこと)に改名した。元治元年(1864年)4月28日、左少将に任官した。

幕末期の動乱の中で養父の補佐を務め、江戸幕府朝廷間の折衝に尽力した[1]慶応3年(1867年)には大政奉還の建白書を土佐藩長州藩と共に幕府に提出した。同年10月30日長州藩嫡子・毛利元徳と会見し、同年11月28日藩兵を率いて上洛した。その後の王政復古の大号令で議定となり、小御所会議では御所の封鎖に兵を出して協力し、出席している。同会議では対立する薩摩藩岩倉具視と土佐藩を仲介した。慶応4年1月17日、会計事務総督兼任となる。同年2月20日、会計事務局補兼任となる。5月20日、免職となる。明治2年2月4日、参与に就任した。同年3月6日、議定に就任する。同年5月17日、免職となる。

明治元年(1868年)、明治新政府に恭順の意を示すため、徳川将軍からの偏諱を棄てて、長勲(ながこと)に改名した。明治2年(1869年)正月24日、長訓の隠居により家督を継いだ[1]。通称を安芸守に改めた。同年3月6日、従ニ位中納言に任官した。同年6月17日に版籍奉還知藩事[1]となり、その後は藩政改革に努めた。同年9月26日、正ニ位に昇進する。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官され[1]東京へ移った。この時に百姓一揆(武一騒動)が起こっている。これは長勲の治政に不満があったわけではなく、武家華族は明治3年(1870年)の太政官令により東京在住となったが、新体制の年貢増、外国人のキリスト教布教などの不安から前藩主長訓の東京移住を阻止しようとした、という性格の一揆であった。

明治5年(1872年)、日本最初の洋紙製造工場「有恒社」(大正13年(1924年)に王子製紙に吸収合併)を設立、明治7年(1874年)稼動する。洋紙の生産には成功するが、生産当初は国内に洋紙の需要が無く、赤字続きであった。しかし長勲は日本の近代化により必ず洋紙の需要が増えるとし、そのまま経営を続けた。

明治11年(1878年)、私財を投じて一時閉鎖されていた広島藩校修道館を再興し、広島市流川町の泉邸(現在の縮景園)に「浅野学校」を開校。明治14年(1881年)校名を「修道学校」と改め、校長には藩校出身で海軍兵学校の教官であった山田十竹を抜擢した[2]。その後この学校は修道中学校・修道高等学校として現在まで続き、各界に多くの人材を輩出している[3][4]

明治政府の下では、明治14年(1881年)に元老院議官[1]、同年に外国公使就任の命を受け翌明治15年にイタリア公使[1]となり、同年に妻の綱姫を伴って渡欧した。横浜港から香港シンガポールなどを経由してイタリアのナポリに到着した。この間、白人の支配を受けている香港やシンガポールのアジア人現地民、という植民地の実情を知る。 ナポリにて妻と共にイタリア王国国王ウンベルト1世およびマルゲリータ・ディ・サヴォイア=ジェノヴァ王妃に拝謁、明治天皇からの国書を届けた。帰国時は勲章を受けている。その後フランスやイギリスなど欧州各国を見聞し、産業や技術力をもって発展する列強各国を視察した。ロシアにて白夜を経験している。のち欧州を離れ、アメリカ合衆国を経由して帰国した。ニューヨーク滞在時は電車に乗車している。これらの経験により、のちに旧藩内の若者を数名、イギリスやフランスに留学させ、また養子の長道をもイギリスに留学させた。

明治17年に宮内省華族局長官、明治23年に貴族院議員に就任している[1]。その間、明治17年(1884年)に侯爵となる[1]。また、明治天皇の命により、幼少期の昭和天皇の養育係を務めた。

明治19年(1886年)、養子としていた実弟の長道(妻は加賀金沢藩前田斉泰の娘)が単身留学先のイギリスのロンドンで死去。21歳。このため、もう一人養子としていた長厚の実弟・長之(ながゆき、1864-1947)が浅野宗家の嫡子となる。

上記の製紙会社以外にも、明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法発布の日に創刊された新聞『日本』に出資する。さらに、華族銀行と呼ばれた十五銀行の大株主の1人でもあり、明治26年(1893年)に取締役、明治28年(1895年)に頭取となった。

昭和11年(1936年)の二・二六事件の際には、事件を起こした青年将校らの助命願いに田中光顕と動いたが、叶わなかった。

昭和12年(1937年)2月1日、94歳の長寿をもって死去した。養子の長之が跡を継いだがその10年後に亡くなり、その後は長武、長愛、長孝と続いている。

栄典[編集]

備考[編集]

  • 「最後の藩主」「最後の大名」と呼ばれることがある。
    実際には旧近江大溝藩主の分部光謙が藩主経験者としては最後まで生きていたが、満7歳で4日間しか藩主を務めていない(家督相続の4日後に版籍奉還があった)。他の藩主経験者としては旧上総請西藩主の林忠崇が長勲より長生きしたが、請西藩は忠崇の戊辰戦争への参加により改易されたため、大藩の最後の藩主として長勲が「最後の大名」として注目された。
  • 現在の広島には長勲と関係深いものがいくつか存在する。
    • 広島城 - 旧居城。現在は城址公園および博物館として公開されている。
    • 縮景園 - 旧別邸「泉邸」。長勲没後、浅野家から県へ寄贈される。
    • 修道中学校・修道高等学校 - 旧藩校「修道館」。長勲が私財を投じ、私立学校として再興した。
    • 広島市立中央図書館 - 前身は長勲が作らせた私立図書館「浅野図書館」。長勲晩年に市に寄贈している。
    • 広島県立美術館 - 元々この地には長勲が作らせた私立美術館「観古館」が建てられていた。長勲没後、浅野家から県に寄贈され被爆により壊滅、跡地に建てられたのがこの美術館。
    • 中国新聞 - 創刊紙である日刊「中國」は、長勲が作らせた地方政党「政友会」(立憲政友会とは無関係)の幹部が作っている。

著書[編集]

  • 『維新前後』手島益雄編 東京芸備社・芸備叢書、1921年。
    • 『幕末維新史料叢書 第4』人物往来社、1968年。
  • 『王政復古の事情』東京芸備社、1921年。
  • 『浅野侯爵御講話速記録』大阪芸備会、1936年。
  • 『浅野長勲自叙伝』手島益雄編、平野書房、1937年。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『江戸時代人物控1000』、山本博文監修 小学館2007年、14頁。ISBN 978-4-09-626607-6 
  2. ^ 学校法人修道学園ホームページ 修道ヒストリア 第2回 山田十竹先生 (下)
  3. ^ 学校法人修道学園ホームページ
  4. ^ 修道中学校・高等学校の人物一覧
  5. ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
  6. ^ 『官報』第2195号「叙任及辞令」1890年10月22日。
  7. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  8. ^ 『官報』号外「授爵・叙任及辞令」1928年11月10日。

関連書籍[編集]

  • 江宮隆之『昭和まで生きた最後の大名浅野長勳 安芸広島四十二万六千石十四代藩主』グラフ社、2008年。
  • 江宮隆之『浅野長勳』パンダ・パブリッシング、2015年。

関連項目[編集]