日高信六郎

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日高 信六郎(ひだか しんろくろう、1893年4月10日 - 1976年6月18日)は、日本の外交官登山家。駐イタリアイタリア社会共和国大使、日本山岳会会長。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

日本郵船社員であり、後に若松築港会社(後の若築建設)支配人を務めた高橋達の次男として、横浜市に生まれる。6歳の時、祖母の実家である福岡市の日高家の養子となる。福岡県立中学修猷館在学中に、九州の山々を一人で登山することを楽しみ、日本山岳会に入会。その後、旧制第一高等学校英法科を首席で卒業し、1919年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。

外務省[編集]

同年、高等試験外交科試験に合格し、外務省に入省。1920年、フランス大使館に配属され、1921年1月、ユングフラウに登頂し、同年8月、モンブランの日本人初登頂を成し遂げる。その後、スウェーデン公使館、1924年、亜細亜局第一課に配属され、1927年、国際連盟事務局事務官としてパリに在勤。

1937年4月、南京の在華大使館参事官となり、盧溝橋事件に際しては、外務大臣広田弘毅の要請により、その不拡大のため国民政府外交部長の王寵恵との和平交渉を行う。その後、第二次上海事変に遭遇している。1938年3月、上海総領事、同年、興亜院経済部長、そして1940年には、在華大使館参事官となり、特派全権大使阿部信行の随員として、日華基本条約締結交渉に参与。その後、1941年、駐華特命全権公使も兼務した。

イタリア大使[編集]

第二次世界大戦中の1942年10月、駐イタリア大使に任命される。1943年7月には、失脚する直前のベニート・ムッソリーニと会談しており、ムッソリーニと最後に会った外交官とされている。

なお日本はイタリア社会共和国を承認したため、イタリア降伏後も大使の業務を継続したが、連合軍の接近により、1943年9月にはローマからヴェネツィアに大使館を移している。しかし更に連合軍が迫り、スイスへ逃亡を試みるも、スイスが入国を拒否したため、進出してきたアメリカ軍に捕らえられる。

大戦後[編集]

帰国後は、公職追放のため外務省を退官し、実業界に移り民間企業の社長となる。1951年に公職追放が解かれると外務省に復帰し、1955年には外務省研修所長を務め、1959年退官。1958年10月、日本山岳会会長に就任し、その後、日本国際連合協会常務理事、同副会長などを歴任する。

著書[編集]

共編著

翻訳[編集]

関連項目[編集]