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珍田捨巳

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旭日桐花大綬章ほか多数の勲章を佩用した珍田捨巳(1920年代)
珍田捨巳

珍田 捨巳(ちんだ すてみ、1857年1月19日安政3年12月24日) - 1929年昭和4年)1月16日)は、日本外交官侍従長枢密顧問官外務次官位階勲等爵位従一位勲一等伯爵キリスト教牧師メソジスト派)。

生涯

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弘前藩の下級藩士・珍田有孚の長男として、現在の青森県弘前市で生まれる。藩校稽古館を経て、東奥義塾に学び、本多庸一の薫陶を受けて学び卒業。本多庸一校長の下で1874年(明治7年)東奥義塾の職員になる。1877年明治10年)勇躍渡米しインディアナ・アスベリー大学で4年間学び、25歳のときに帰国した。当時、アメリカ事情と語学への通暁者は貴重な存在だった。1886年(明治19年)メソジスト弘前教会(現在の日本基督教団弘前教会教会堂)の副牧師になった[1]

帰国翌年の1882年(明治15年)に元弘前藩家老である山中逸郎の娘・いわと結婚。妻の甥は外交官山中千之で、珍田の長女・さだはこの山中に嫁いだ。妻の兄・佐藤愛麿も外交官である[2]1885年(明治18年)に知遇を得ていた大隈重信の推挙で外務省に入り、イギリス大韓帝国オランダ書記官領事総領事を歴任した。

1890年(明治23年)、在サンフランシスコ日本領事に就任。日系人排斥運動がアメリカに起こるであろうことを早くから予想し、賭博場売春宿などの問題を指摘、日本本国に報告するなどして移民制限を促した[3]。また、現地での排日の動きには抗議を行っている。1901年(明治34年)11月27日には外務総務長官となり、1903年(明治36年)12月5日から1906年(明治39年)6月6日までは総務長官から改称された初代の外務次官を務めている。日露戦争後の講和条約締結交渉で、外務大臣小村壽太郎ロシアとの交渉に手古摺っていたが、珍田は桂太郎の補佐をしながら小村に適切な訓令・資料を送り、交渉を支えた。その功績が認められ1907年(明治40年)に男爵となった。

同年の日米紳士協約成立にも関与している。1913年(大正2年)のカリフォルニア州外国人土地法論議の際には、ウッドロウ・ウィルソン米大統領に法案通過阻止を陳情するなど尽力している。また、現地で日本人会を組織しコミュニティーの形成にも寄与した。その後、ブラジル公使やオランダ、ロシア公使、ドイツ大使を務め、1911年(明治44年)からは駐米特命全権大使となり、子爵へ陞爵。1912年(明治45年)3月には東京市(現在の東京都区部)からの苗木が送られ、植樹式では珍田の夫人とウィリアム・タフト米大統領夫人ポトマック川畔に植樹を行っている[4]。なお、これを記念して毎年全米桜祭りが行われている。

第一次世界大戦では連合国との協議に深く関与し、1919年大正8年)のパリ講和会議には駐英大使として全権委員の一人となった。その功で伯爵に陞爵した。この年、外務省を退官し10月22日には枢密顧問官となっている。

1921年(大正10年)の皇太子裕仁親王の欧州訪問に際しては、宮内大臣牧野伸顕が「霞ヶ関で一番の切れ者」との評価を得ていた珍田に訪欧供奉長の重責を任せる決定をした。

訪欧後はその流れで宮中に入り、東宮大夫などの立場で皇太子の指導教育に携わった。昭和天皇は幼少期から少年期に足立たかクエーカークリスチャン、後に鈴木貫太郎の後妻)、少年期から皇太子期に山本信次郎カトリック海軍少将、訪欧供奉員、別名「軍服を着た修道士」)、そして、皇太子期終盤から天皇即位後にかけて珍田(メソジスト派牧師)というように全く切れ目なくクリスチャンによる教育を受けたことになる。

訪欧から5年後の1926年(大正15年)12月25日大正天皇崩御に伴い、摂政宮・皇太子裕仁親王が天皇に即位したときに、珍田は皇后宮大夫として皇后香淳皇后)に仕えたが、3か月後の3月3日侍従長に就任した。即位の大礼を経て、1929年(昭和4年)1月16日、在任中のまま脳出血薨去。満73歳没。墓所は青山霊園(1ロ8-1)

母校の東奥義塾でチャプレン(牧師)を務めた経歴もあり、メソジスト派の牧師という肩書きもあった。

栄典

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ベルリン公使時代
外国勲章佩用允許

家族

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脚注

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  1. ^ 米田勇『中田重治伝』22ページ
  2. ^ 人事興信録第4版 [大正4(1915)年1月]
  3. ^ 水谷憲一 2000, pp. 108–109.
  4. ^ 日米桜寄贈100周年-外務省
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as 珍田捨巳」 アジア歴史資料センター Ref.A06051176900 
  6. ^ 『官報』第1031号「叙任」1886(明治19)年12月6日。
  7. ^ 『官報』第2545号「叙任及辞令」1891(明治24)年12月22日。
  8. ^ 『官報』第3671号「叙任及辞令」1895(明治28)年9月21日。
  9. ^ 『官報』第3704号「叙任及辞令」1895(明治28)年11月1日。
  10. ^ 『官報』第4242号「叙任及辞令」1897年8月21日。
  11. ^ 『官報』第4499号「叙任及辞令」1898年6月30日。
  12. ^ 『官報』第5272号「叙任及辞令」1901年2月1日。
  13. ^ 『官報』第5598号「叙任及辞令」1902(明治35)年3月6日。
  14. ^ 『官報』第6815号「叙任及辞令」1906年3月22日。
  15. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907(明治40)年1月28日。
  16. ^ 『官報』第7578号・付録「辞令」1908(明治41)年9月28日。
  17. ^ 『官報』第7266号「授爵・叙任及辞令」1907(明治40)年9月16日。
  18. ^ 『官報』第7272号「授爵、敍任及辞令」1907(明治40)年9月23日。
  19. ^ 『官報』第7752号「叙任及辞令」1909年5月1日。
  20. ^ 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911(明治44)年8月25日。
  21. ^ 『官報』第534号「叙任及辞令」1914(大正3)年5月12日。
  22. ^ a b 『官報』第2431号「授爵、叙任及辞令」1920(大正9)年9月8日。(NDLJP:2954545/3
  23. ^ 『官報』第2648号「叙任及辞令」1921年5月31日。
  24. ^ 『官報』第3717号「宮廷録事 - 恩賜」1925年1月15日。
  25. ^ 『官報』第525号「叙任及辞令」1928(昭和3)年9月24日。
  26. ^ 『官報』第613号「叙任及辞令」1929(昭和4)年1月17日。
  27. ^ 『官報』第2003号「叙任及辞令」1890(明治23)年3月7日。
  28. ^ 『官報』第5531号「叙任及辞令」1901(明治34)年12月9日。
  29. ^ 『官報』第5650号「叙任及辞令」1902(明治35)年5月8日。
  30. ^ 『官報』第6893号「叙任及辞令」1906(明治39)年6月22日。
  31. ^ 『官報』第7200号「叙任及辞令」1907(明治40)年7月1日。
  32. ^ 『官報』第7969号「叙任及辞令」1910(明治43)年1月19日。
  33. ^ 『官報』第1990号「叙任及辞令」1919(大正8)年3月25日。
  34. ^ 『使徒座公報』: Commentarium Officiale, Annus XIII - Vol. XIII, 1921, pages. 403
  35. ^ “珍田氏(弘前藩士) - Reichsarchiv ~世界帝王事典~”, 世界帝王辞典, https://reichsarchiv.jp/家系リスト/珍田氏(弘前藩士) 2022年12月24日閲覧。 

参考文献

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  • 水谷憲一『同志社アメリカ研究』第36巻、同志社大学、2000年、105-117頁、NAID 110000198964 

評伝

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  • 『伯爵珍田捨己伝』菊池武徳主編、共盟閣、1938年
    • 復刻「日本外交史人物叢書 第7巻」ゆまに書房、2002年 
  • 外崎克久『ポトマックの桜 津軽の外交官珍田夫妻物語』サイマル出版会、1994年

関連項目

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外部リンク

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公職
先代
大森鍾一
日本の旗 皇后宮大夫
1926年 - 1927年
次代
河井弥八
日本の爵位
先代
陞爵
伯爵
珍田(捨巳)家初代
1920年 - 1915年
次代
珍田千束
先代
陞爵
子爵
珍田(捨巳)家初代
1911年 - 1920年
次代
陞爵
先代
叙爵
男爵
珍田(捨巳)家初代
1907年 - 1911年
次代
陞爵