手島冷志

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手島 冷志(てじま れいし、1927年 - )は、日本外務官僚外交官外務省経済局長、外務審議官(経済担当)などを歴任し、GATT35条援用(GATT協定不適用)問題等に関わった。

略歴[編集]

1927年、石川県金沢市生まれ。父は手島治雄(元日本陸軍情報将校)で、戦後は出光興産専務を務め日章丸事件に関わった[1]東京府立一中[注 1]一高陸軍士官学校を経て東大法学部入学。東大在学中の1950年3月に外交官領事官採用試験に合格し外務省入省。一高では英語・独語クラスに入ったが独語は理解能力を超えると自覚し、アテネフランセに通い、陸士では語学の授業は全く無かったが英文法の本を持参し、空襲退避中に自習した。大学も外務省もフランス語で受験し、入省後は「フレンチスクール」とされたが、外務省研修所ではフランス語の授業はなく、在外研修制度もなく仏留学の機会も無かった。その代わりガリオアで、1年間ジョージタウン大学に留学した。同大学「言語及び言語学研究所」に籍を置くこととなり、米国務省を目指す学生が多い同大学で日本語授業を手伝う代わりに好きな学部での聴講を認められ、フランス語とスペイン語の授業を主に聴講した [2]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1940年入学の同中学同期生に、山口光秀(大蔵事務次官)、杉山和男(通産事務次官)、筧栄一(検事総長)、柳健一(駐韓大使)、岡島和男(中国財務局長、日本たばこ産業役員、日住金会長。大蔵官僚)、出光昭介出光興産会長)らがいる。
  2. ^ 一方で米国は、GATT35条援用を見送る代わりに、繊維から自動車に至る日米貿易摩擦を通じた通産省や外務省などとの日米間交渉で、日本側による輸出自主規制からMOSS協議(en, 米国による日本側の非関税障壁を議題にした個別分野ごとの米国製品の対日輸出のための市場開放策。後の日米構造協議に繋がる)まで勝ち取ってきた[3]

出典[編集]

  1. ^ a b オーラルヒストリー 手島 冷志(てじま れいし)〔元イタリア大使、元外務審議官〕政策研究大学院大学 政策研究大学院大学オーラルヒストリープロジェクト 1999年5月 - 2000年5月
  2. ^ 「激浪猛威を振るうとも」東京府立一中六十七回生編 1995年5月31日 p332-334
  3. ^ 7.対日ガット35条援用問題 -国際経済関係- 第2章 国際経済関係 第1節 ガット(関税および貿易に関する一般協定)における国際協調」外務省、
    GATT 最大の受益国か? 季刊国際貿易と投資2018年111号 特集日中韓台の経済相互依存関係の変容」畠山襄 一般財団法人国際貿易投資研究所 (ITI) 、
    日本のGATT加入問題と中国WTO加入との対比 日本とGATT/WTO体制」荒木一郎 経済産業研究所 2003年7月30日
先代
本野盛幸
外務省経済局長
1978年-1982年
次代
村田良平