小和田恆

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小和田 恆
おわだ ひさし
Hisashi Owada 2005.jpg
法服姿の小和田(2005年)
生年月日 (1932-09-18) 1932年9月18日(84歳)
出生地 日本の旗 日本新潟県新発田市
出身校 東京大学教養学部卒業
ケンブリッジ大学修了
前職 日本国際問題研究所理事長
称号 教養学士(東京大学・1955年
法学士ケンブリッジ大学1956年
名誉博士敬和学園大学2000年
名誉法学博士バーナラス・ヒンズー大学2001年
名誉博士(法学)(早稲田大学2004年
配偶者 小和田優美子
子女 皇太子徳仁親王妃雅子
池田礼子
渋谷節子
公式サイト Membres actuels:   Cour internationale de Justice

国際連合の旗 第22代 国際司法裁判所所長
在任期間 2009年2月6日 - 2012年2月5日

在任期間 2003年2月6日 - (現職)
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小和田 恆(おわだ ひさし、1932年昭和7年〉9月18日 - )は日本の元外交官国際司法裁判所判事

外務事務次官国連大使財団法人日本国際問題研究所理事長、国際司法裁判所所長(第22代)等を歴任。皇太子徳仁親王妃雅子の実父。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

1932年(昭和7年)、新潟県新発田市に生まれた[1]。小和田毅夫・静夫妻の次男で、8人きょうだいの4番目にあたる[2]。生家の跡地は現在清水園の駐車場となっている[3]本籍地は新潟県村上市

学歴[編集]

旧制新潟県立柏崎中学校(現新潟県立柏崎高等学校)2年のとき、父の転勤により旧制新潟県立高田中学校に転校した[2]

新潟県立高田高等学校を経て、1955年(昭和30年)に 東京大学教養学部を卒業した(教養学士)。1955年から1959年にかけてケンブリッジ大学にて学び、Bachelor of Laws(法学士)を取得した[4]

職歴[編集]

ICJでオランダ首相マルク・ルッテを案内する小和田(2011年)

1955年 (昭和30年)に外務省に入省する。英語研修(ケンブリッジ大学大学院)、条約局法規課、在ソ連大使館、国連政府代表部などを経て、1971年(昭和46年)に欧亜局大洋州課長、外務大臣秘書官事務取扱、1972年(昭和47年)に国際連合局政治課長、1974年(昭和49年)に条約局条約課長、1976年(昭和51年)に 福田赳夫内閣総理大臣秘書官になる。秘書官には他に福田康夫保田博棚橋祐治らがいる。以後、在米大使館公使(ハーバード大学ロー・スクール客員教授)、在ソ連大使館公使、1984年(昭和58年)[いつ?]に条約局長、1987年(昭和62年)に外務大臣官房長1988年(昭和63年)にOECD政府代表部大使1989年(平成元年)に外務審議官1991年(平成3年)に外務事務次官1994年(平成6年)に国連大使などを歴任する。外務事務次官であった1991年(平成3年)の湾岸戦争の際には、自衛隊の派遣に反対の立場をとった。

1999年(平成11年)に退官した。退官後は、コロンビア大学ニューヨーク大学などで客員教授として国際法教授にあたった。国内では、2000年から早稲田大学大学院アジア太平洋研究科客員教授(国際機構論)[5][6]。(財)日本国際問題研究所理事長(1999年3月 - 2003年1月)。外務省顧問、世界銀行総裁上級顧問、2002年(平成14年)からは広島大学学術顧問も兼任した。

2003年(平成15年)に国際司法裁判所(ICJ、オランダ・ハーグ)判事に任命された。前任は、小田滋1976年 - 2003年まで3期27年間)。2009年(平成21年)国際司法裁判所所長に選出された。ICJの所長に日本人が就任するのは初めて[7]。所長任期は3年で、2012年(平成24年)2月に退任した[8]。所長選挙は、15人の判事による互選方式で実施された。2010年(平成22年)7月22日セルビアからのコソボの独立の是非に関して、国際法違反には当たらないとの判断を下した(コソボ#コソボの独立も参照)。所長退任後は判事を継続。

人物像[編集]

兄のも柏崎中学校(現柏崎高等学校)の関係者の間で語り伝えられるほどの秀才であったが、弟の恆も同様に大変優秀であった[2]。恆は天才タイプではなく、人知れず早起きをして猛勉強をするという努力家タイプであったとされる[2]

池田勇人大平正芳が率いた「宏池会」の名付け親である陽明学者・安岡正篤が主宰する「而学会」に江藤淳らとともに参加した[9]

外務省官房長だった1988年に創価学会からの要請に応じて、池田大作名誉会長らの外国訪問旅行に便宜供与を図ったとして、国会で追及されている[10]

評論家の渡部昇一は、中曽根内閣の時に小和田が「日本の外交は、東京裁判を背負っているハンディキャップ外交である」と答弁したことを、「国賊と言ってもいいでしょう」と強い調子で非難している[11]

家族・親族[編集]

小和田家[編集]

新潟県村上市東京都
作家の神一行によれば、「雅子妃の実家の小和田家であるが、そのルーツは現在の新潟県村上市を治めていた村上藩内藤家五万石の下級武士とされる[12]。代々下横目(目付)、奥方付きお庭番などの役職につき柔術“制剛流”の達人の家柄だったというがはっきりした系譜曽祖父にあたる金吉からしかわかっていない[12]」という。小和田家を含め村上藩史は戊辰戦争以来の3度にわたる火災で重要資料が焼失しているため調査が困難であったが[13]山本茂の調査によれば、同心・新六匡安(しんろくただやす)の子で郡方懸りの道助匡春(1858年安政5年〉11月11日64歳没)という人物がおり[14]、その兄弟・兵五郎が分家し[14]、兵五郎の嫡男・道蔵匡利(1874年明治7年〉7月28日没)の三男が金吉である[15]。毎日新聞記者の取材では、小和田家は下級武士であったためか、金吉氏の父も含めて、金吉氏以前の系譜は、はっきりしないという。村上市の西真寺の過去帳には小和田兵五郎の名もあるが、これらの人物と金吉氏の関係は定かではない[16]。1993年に小和田家の菩提寺である新潟市の泉性寺を取材した河原敏明によれば、住職は小和田金吉の墓はないと答えたという。30年くらい前に毅夫氏が金吉の墓を移したことも全く知らなかったという[17]。金吉の長男である毅夫の代までは、旧村上藩士が権利を持っていたサケの漁業権収入を相続している[18]
金吉は明治の半ば頃、税務署に勤務していたという説と[19]、聾唖学校の教師を務めていたという説がある[20]。金吉は1900年明治33年)に没した[21]
父・毅夫(たけお)
1898年明治31年)[21] - 1993年平成5年)[22]
広島高等師範学校広島大学の前身)を卒業[1]国語漢文の教師になる[1]。旧制福島県立相馬中学校をかわきりに各地の旧制中学で教鞭をとり[12]1958年(昭和33年)に新潟県立高田高等学校校長を最後に勇退[12]。その後、市の教育委員長を務めるなど一貫して教育者として活躍した[12]
母・静(しずか)
1904年明治37年)[21] - 1997年平成9年)[23]
教育者田村又四郎(旧姓嵩岡)の娘。
静の生家の田村家は越後南魚沼郡中村(現新潟県南魚沼市)で代々商家を営む家系であった[24]。静の義理の内祖父にあたる田村寛一郎(新潟県議、塩沢町長)は嵩岡又四郎の人柄を見込んで養子とした[25]。又四郎の父で静の祖父にあたる人物は村上藩士の嵩岡可笑であった[26]。明治時代、新潟市に新潟中学校(現新潟県立新潟高等学校)が創設されると、又四郎は招かれて国語漢文の教員となった[26]
兄・(あきら)
1926年大正15年)[27] - 2008年平成20年)。長男。漢文学者
姉・節子(せつこ)
長女。1993年時点で故人であった[28]
姉・恭子(やすこ)
次女。元播磨耐火煉瓦常務・片田 中の夫人[28]
弟・鎌田 隆(かまた たかし)
三男。鎌田家養子。弁護士[28]
弟・統(おさむ)
1938年昭和13年)生[29] -
四男。官僚・元海上保安庁次長、国際観光振興会理事[28]。2008年秋の叙勲において瑞宝中綬章を受章。
妹・紀子(としこ)
三女。日本興業銀行常務・柏原一英夫人[28]
弟・亮(まこと)
五男。運輸省港湾局港湾計画審査官[28]
妻・優美子(ゆみこ)
1938年昭和13年)生[29] -
チッソ元会長江頭豊の長女、日本ユニセフ協会評議員。
父方祖父は海軍中将江頭安太郎、母方祖父(母・寿々子〈すずこ〉の父)は海軍大将山屋他人[28]
長女・雅子(まさこ)
皇太子徳仁親王妃、皇太子妃
次女・礼子(れいこ)
国連難民高等弁務官事務所ハノイ事務所勤務。ニューヨーク州弁護士池田祐久夫人。
三女・節子(せつこ)
翻訳家文化人類学者[30]。医師・東京大学医学部教授の渋谷健司夫人。

主な著書[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ a b c (川口 2001, p. 43)
  2. ^ a b c d (川口 2001, p. 69)
  3. ^ 清水園と小和田家”. 北方文化博物館ブログ. 一般財団法人北方文化博物館 (2009年5月13日). 2016年2月13日閲覧。
  4. ^ "President Hisashi Owada", Current Members | International Court of Justice, International Court of Justice.
  5. ^ こんな授業!どんなゼミ?No.912 2000.10.12(7)小和田恆(ひさし)先生「国際機構論」(2000年春学期)を受講して(2000年10月12日)、早稲田大学、2015年12月28日閲覧。
  6. ^ 特派員・現場レポート、早稲田大学、2015年12月28日閲覧。
  7. ^ 国際司法裁判所公式サイト歴代所長リスト
  8. ^ “国際司法裁所長にトムカ氏 小和田氏の後任”. 共同通信. (2012年2月7日). http://www.47news.jp/CN/201202/CN2012020701001261.html 2012年2月7日閲覧。 
  9. ^ 青年の旗No.185-3
  10. ^ 第134回国会 宗教法人等に関する特別委員会 第3号 参議院会議録情報 1995年11月27日
  11. ^ 渡部昇一・石平『歴史通』2011年3月号「一体どこが「侵略」だというのか[要ページ番号]
  12. ^ a b c d e (神 2002, p. 399)
  13. ^ (山本 1993, pp. 18-19)
  14. ^ a b (山本 1993, pp. 66-73)
  15. ^ (山本 1993, pp. 171-177)
  16. ^ 『皇太子殿下と雅子さま ご結婚記念保存愛蔵版豪華写真集』、毎日新聞社、1993年、133頁
  17. ^ 河原敏明『皇太子妃雅子さま』P162
  18. ^ (山本 1993, pp. 135-139)
  19. ^ (川口 2001, p. 40)「金吉氏は新潟県下で税務署員として勤務するかたわら聾唖教育にも理解を示していたとされる」とある
  20. ^ 週刊文春』1993.1.21には「その後、金吉氏は新潟市高田市と移り住みながら聾唖教育に携わっていた」。河原敏明『皇太子妃雅子さま』P126には「その後金吉氏は新潟市、高田市(現・上越市)と移り住みながら聾唖学校の教師を務めた」とある
  21. ^ a b c (川口 2001, p. 199)
  22. ^ (川口 2001, p. 206)
  23. ^ (川口 2001, p. 207)
  24. ^ (川口 2001, p. 88)
  25. ^ (川口 2001, p. 100)
  26. ^ a b (川口 2001, p. 98)
  27. ^ (川口 2001, p. 76)
  28. ^ a b c d e f g 「小和田家系図」、『毎日グラフ臨時増刊 皇太子さま雅子さま ご成婚記念特別号』、毎日新聞社1993年6月26日、 161頁。
  29. ^ a b (川口 2001, p. 202)
  30. ^ 『アウシュビッツの小さな天使』文藝春秋2009年4月号84頁

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

先代:
ロザリン・ヒギンズ英語版
国際司法裁判所長
2009年 - 2012年
次代:
ペテル・トムカ