エフゲニー・プリマコフ
エフゲニー・プリマコフ Евгений Примаков | |
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生年月日 | 1929年10月29日 |
出生地 |
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没年月日 | 2015年6月26日(85歳没) |
死没地 |
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出身校 | モスクワ大学大学院・経済学博士 |
所属政党 |
ソビエト連邦共産党 祖国・全ロシア |
配偶者 |
ローラ・ヴァシリエフナ・カラゼ イリーナ・ボリソフナ・プリマコワ |
子女 | 2人 |
在任期間 | 1998年9月11日 - 1999年5月12日 |
大統領 | ボリス・エリツィン |
在任期間 | 1996年1月10日 - 1998年9月11日 |
大統領 | ボリス・エリツィン |
在任期間 | 1991年12月26日 - 1996年1月9日 |
大統領 | ボリス・エリツィン |
エフゲニー・マクシモヴィチ・プリマコフ(ロシア語: Евге́ний Макси́мович Примако́в、ラテン文字転写の例:Evgenii Maksimovich Primakov)、1929年10月29日 - 2015年6月26日)は、ソビエト連邦及びロシア連邦の政治家、経済学者である。ソビエト連邦及びロシア科学アカデミー会員であり、ロシア有数の中東・アラブ問題の専門家だった。初代ロシア対外情報庁長官[1]・ボリス・エリツィン政権にて第2代ロシア連邦外務大臣と第3代ロシア連邦首相を歴任した。
略歴[編集]
生い立ちと教育[編集]
1929年10月29日にソビエト連邦のウクライナ社会主義ソビエト共和国の首都であるキエフの家庭に誕生する。父はロシア人で母がユダヤ系だったとされる[2][3][4]。当時のグルジア・ソビエト社会主義共和国の首都であるトビリシで少年時代を過ごした。1953年にモスクワ東洋学大学を卒業。1956年にモスクワ大学大学院を修了し、経済学博士号を取得する。1997年に法政大学名誉博士の学位を授与される。
ソビエト連邦共産党入党[編集]
1956年から1970年まで国家ラジオテレビ委員会のラジオ放送記者を務めたのを皮切りに特派員・外国向けラジオ放送編集者・編集長などの経歴を積む。1959年にソビエト連邦共産党に入党。1962年よりソビエト連邦共産党中央委員会の機関誌である『プラウダ』紙に勤務する。この間アジア・アフリカ局評論員、副編集長、中東特派員などを歴任した。中東特派員時代にサッダーム・フセインと親交を結ぶ。
1970年にソ連最高のシンクタンクとして名高いソ連科学アカデミー付属世界経済国際関係研究所(IMEMO)の副所長となる。1977年から1985年までソ連科学アカデミー東洋学研究所の所長を務め、同年にIMEMO所長となる。
プリマコフが政治に関わるようになるのはミハイル・ゴルバチョフ政権からである。1988年2月にソビエト連邦最高会議の議員に選出された。さらにゴルバチョフが新設した人民代議員大会においても、1989年にソ連人民代議員に選出された。同年から1990年までソ連最高会議連邦会議議長。ソ連共産党政治局員候補にも選出された。外交面でも湾岸危機ではゴルバチョフの特使としてバクダードを訪問し、イラクのサッダーム・フセイン大統領との交渉で「対話による平和解決」を引き出した。
ロシア対外情報庁[編集]
1991年8月のソ連8月クーデター事件後にソビエト連邦国家保安委員会第一副議長兼中央諜報庁(第一総局)長官を務め、KGB議長のワジム・バカーチンによるKGBの解体でロシア連邦保安庁(FSB)とロシア対外情報庁、ロシア連邦国境庁などに分離してからはロシア対外情報庁の初代長官としてロシアの対外情報活動の指揮者となる。
第2代ロシア連邦外務大臣[編集]
1996年1月には第2代ロシア連邦外務大臣に就任し、親西ヨーロッパ派であった前任のアンドレイ・コズイレフの路線を修正し、多極体制を目指したユーラシア主義的外交路線を取り[5]、同年4月に中華人民共和国や中央アジア諸国とともに後の上海協力機構(SCO)の前身である上海ファイブを結成した。また1997年4月にはロシアのボリス・エリツィン大統領と中国の江沢民国家主席は「世界の多極化と国際新秩序確立に関する共同宣言」に署名した[6]。
3代目ロシア連邦首相[編集]
1998年9月にロシア財政危機を受けてロシアのセルゲイ・キリエンコ首相が解任されると、プリマコフが後任に就任する。プリマコフは当時第1党のロシア連邦共産党所属でキリエンコ内閣の産業貿易大臣だったユーリ・マスリュコフを第1副首相に大抜擢して共産党を名実ともに与党にするなど老練な政治手腕を発揮した。金融危機後、プリマコフは早速国際通貨基金(IMF)に融資を要請し、ロシアを訪問したカムドシュ専務理事とモスクワで会談した際に「貴君の尺度でロシアを推し量ろうとしてもだめだ」と強談判し、全額融資にこぎつける。金融危機に伴うハイパーインフレによるルーブルの大幅な下落及び通貨切り下げによる信用低下からロシア国債の価値が激減するが、最悪の状況は回避し、1999年3月には原油価格の高騰でロシアで初めてのプラスの経済成長を達成した。
1999年3月24日、プリマコフは公式訪問で米国に向かう途中の飛行機の機内でNATOがコソボ空爆を開始したことを知り、その場で訪問の中止を決定し、パイロットに飛行機を旋回してロシアに戻ることを命じた。この決定は「プリマコフ・ループ」として知られるようになった[7]。
経済再建に成功し、政敵でCIS(独立国家共同体)のボリス・ベレゾフスキー執行書記を失脚させた。しかし次第に政権内で重みを増し、国民からも支持の高いプリマコフに対してエリツィンも危機感を抱く。また、プリマコフも次期大統領に対する野心を剥き出しにし、両者の対立は激化した。エリツィンの病気入院中の機会を捉え、ロシア連邦大統領の国家院解散権及び閣僚の人事権凍結と、さらに憲法改正により大統領制から日本のように議院内閣制に移行し、大統領にはプリマコフが、首相には共産党委員長のゲンナジー・ジュガーノフが就く密約を共産党側と交わし、プリマコフは共産党員[8]で検事総長のユーリ・スクラトフを動員してエリツィン周辺の「セミヤー」やオリガルヒの汚職問題を追及してエリツィン失脚を画策するも逆に察知され、プリマコフは1999年5月12日にロシア連邦首相を解任され、政権から放逐された。
ロシア連邦首相解任後[編集]
下野したプリマコフは政治ブロックを結成し、政治的復権を狙う。1999年8月17日にプリマコフはモスクワのユーリ・ルシコフ市長とタタールスタン共和国のミンチメル・シャイミーエフ大統領らとともに政治ブロック「祖国・全ロシア」(OVR)を結成し、調整会議議長(代表)に就任した。同年12月の下院国家会議選挙で「祖国・全ロシア」は第3党となり、プリマコフも比例代表で立候補し、下院議員に当選した。その後大統領選挙に出馬を模索したが、プリマコフと同じソビエト連邦国家保安委員会出身でFSB長官だったウラジーミル・プーチンがチェチェン紛争を利用して国民の支持を獲得したため、プーチンとの直接会談で立候補を断念してプーチンを支持した。2001年には、政権与党の「統一」とプリマコフらの「祖国・全ロシア」が統一ロシアとして合同する動きを見せたため、「祖国・全ロシア」代表と下院議員の職も辞任した。
政界引退後の2001年12月にロシア商工会議所会頭に就任して経済界の重鎮となり、2002年からはロシアの政治家や実業家などを集めた「マーキュリー・クラブ」の創設者かつ議長としてプーチン大統領本人も認めているように度々助言を政府に与え、プーチン政権の特徴である西側諸国を牽制する外交政策・国家が統制する経済政策などはプリマコフが先鞭をつけたとも評されている[9][10]。
その外交手腕をプーチン大統領から買われ、国際政治の舞台にもしばしば登場していた。2003年2月と3月にはプーチン大統領の特使としてイラクを訪問してイラクのサッダーム・フセイン大統領と会談しており、フセインの亡命を勧めたともされる。プリマコフは大量破壊兵器を国際連合に引き渡すよう求めたが、フセインはプリマコフの肩を軽く叩いて部屋を出て行ったという[11]。また、コソボ空爆時にNATOと対峙したロシア連邦首相であったため[12]、2004年11月には旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷にユーゴスラビアのスロボダン・ミロシェヴィッチ元大統領の弁護人として出廷した[13]。
2015年6月26日死去[14]。85歳没。プーチン大統領は盛大な国葬を営んだ[15]。
2019年10月29日にはモスクワのロシア連邦外務省前にプリマコフの銅像が建てられ、完成式典でプーチン大統領は「プリマコフ外交のおかげで、ロシアは世界の敬意を取り戻した」と称えた[16]。
私生活[編集]
妻帯(3度目)。1男1女と孫2人を有する。
受賞・勲章[編集]
労働赤旗勲章(1975年)、人民友好勲章(1979年)、「名誉記章」勲章(1984年)、三等「祖国に対する貢献に対する」勲章(1995年)、二等「祖国に対する貢献に対する」勲章(1998年)を受章。
ソ連国家賞(1980年)、ナセル賞(1974年)、アヴィツェナ賞(1983年)、ジョージ・ケナン記章(1990年)、ロモノーソフ金メダル(2008年)を受賞。
エピソード[編集]
ロシア連邦首相時代にプリマコフはユーリ・スクラトフ検事総長を動員し、エリツィンファミリーの汚職摘発を敢行。プリマコフの人気は急騰し、次期大統領候補とまで言われるようになった。これに危機感と嫉視を感じたエリツィンが「いまプリマコフはよくやっている。役に立っているようだ。でも明日のことはわからない。様子を見てみよう」と解任をほのめかした。この翌日、プリマコフはすかさずテレビ演説を行った。プリマコフは「私は大統領職に野心を持っていない。首相の地位に固執するつもりもない。私は役に立っているようだが、明日のことはよくわからないらしいのでね。まあ、こちらも様子を見てみましょう」と老練さをみせた。
著書[編集]
- 『エネルギー危機と国家独占資本主義』(合同出版, 1977年)
- 『だれが湾岸戦争を望んだか――プリマコフ外交秘録』(日本放送出版協会, 1991年) ISBN 978-4140087800
- 『クレムリンの5000日――プリマコフ政治外交秘録』(NTT出版, 2002年) ISBN 978-4757140387
関連項目[編集]
脚注[編集]
- ^ Ion Mihai Pacepa, A Terrorist State in the G8?, Human Events, December 3, 2007
- ^ “Yevgeny Primakov: Wily Soviet spy chief who began as a journalist but went on to serve as Russia's Foreign Minister and Prime Minister”. インデペンデント (2015年6月28日). 2016年8月25日閲覧。
- ^ “Former Russian PM Yevgeny Primakov dies at 85”. The Times of Israel (2015年6月26日). 2016年8月25日閲覧。
- ^ Primakov, Yevgeny (2004). Russian Crossroads: Towards the New Millennium. Yale University Press. ISBN 0-300-09792-1. p. 17.
- ^ “ロシア・ユーラシアニズムと「反西欧」の構図”. フォーリン・アフェアーズ (1999年4月). 2016年9月10日閲覧。
- ^ Yelena Ovcharenko, “Comrade Jiang will Visit the Kremlin and Yasnaya Polyana while inRussia,” Moscow Komsomo skaya Pravda (April 22, 1997), FBIS-SOV-97-078
- ^ “Russia's former PM Yevgeny Primakov dies aged 85” (英語). BBC News. (2015年6月26日) 2022年3月13日閲覧。
- ^ Список членов Центрального Комитета КПРФ
- ^ “THE CASPIAN BREAKTHROUGH”. WPS Russian Media Monitoring Agency (2002年5月16日). 2017年5月21日閲覧。
- ^ “Putin's Godfather”. インデペンデント (2015年6月29日). 2017年5月21日閲覧。
- ^ "Евгений Примаков: Саддаму не дали последнего слова", Becти Heдeли, January 14, 2007.
- ^ "Primakov: Milosevic ready in principle to talk peace". CNN. 30 March 1999.
- ^ Simons, Marlise (7 December 2004). "A Warmer Tone in Court as Milosevic Pursues His Defense". The New York Times.
- ^ プリマコフ元首相死去=ロシア 時事通信 2015年6月26日閲覧[リンク切れ]
- ^ http://kremlin.ru/events/president/news/49773
- ^ “モスクワにプリマコフ元首相像 プーチン大統領、国益追求と称賛”. 中日新聞 (2019年10月30日). 2019年10月30日閲覧。
公職 | ||
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先代 ヴィクトル・チェルノムイルジン (代行) |
![]() 第3代:1998年9月11日 - 1999年5月12日 |
次代 セルゲイ・ステパーシン |
先代 アンドレイ・コズイレフ |
![]() 第2代:1996年1月10日 - 1998年9月11日 |
次代 イーゴリ・イワノフ |
先代 (創設) |
![]() 初代:1991年12月26日 - 1996年1月9日 |
次代 ヴャチェスラフ・トルブニコフ |