ボリス・エリツィン
ボリス・ニコラエヴィチ・エリツィン(ロシア語: Бори́с Никола́евич Е́льцин
発音、ラテン文字表記の例:Boris Nikolayevich Yel'tsin、1931年2月1日 - 2007年4月23日)は、ソビエト連邦及びロシアの政治家。ロシア連邦の初代大統領(1991年 - 1999年)および同国初代ロシア連邦閣僚会議議長(首相)(1991年 - 1992年)など、その他ソビエト連邦でも数多くの役職を務めた。
概要
[編集]建設官僚出身のソ連共産党員で、スヴェルドロフスク州党委員会第一書記としての功績が評価され、ミハイル・ゴルバチョフのペレストロイカ期に中央政界に進出する。1985年にはモスクワ市委員会第一書記を務め、翌年にはソ連共産党政治局員候補に選出された。1990年にソ連共産党を離党し、無所属のままロシア・ソビエト連邦社会主義共和国(ロシア共和国)の最高会議議長(国家元首に相当)に選出された。翌1991年に行われたロシア憲政史上初の大統領選出国民選挙では、国民の圧倒的な支持を得て大統領に就任し、ロシアの社会・政治・経済体制の改革に努めた。
ソビエト連邦の崩壊後、エリツィンは独立したロシア連邦の大統領として、ショック療法を実施し、全国的な企業の民営化、価格統制の撤廃を通じて、ソ連時代の計画経済から資本主義市場経済への移行を主導した。その結果、経済の低迷と変動性、インフレーションが生じ、経済変革の中で少数の新興財閥であるオリガルヒが、国家財産と富の大半を掌握するようになり、ロシア政治にも多大な影響を与えることになる。1993年には議会と対立し、エリツィンは議会を解散したが、これは憲法違反であり、エリツィンは議会に弾劾された。しかし、エリツィンは軍や内務省等のシロヴィキの支持を背景に、議会派による蜂起を武力鎮圧した。蜂起鎮圧後、エリツィンは大統領権力を強化するべく、新憲法を採択し、この新ロシア連邦憲法に基づいて、エリツィンはロシアを議会制民主主義から大統領制国家へと移行した。(10月政変)対外的にはヨーロッパ諸国やアメリカとの協力関係再構築を推進し軍備管理協定を締結した。しかし、経済不安による国民の不満は、エリツィンが最も恐れるロシア連邦共産党への支持の高まりを助長させ、第一党となった共産党との対立は大統領選にまで影響を与えた。また、第一次チェチェン戦争の泥沼化やタタールスタンなどの地方政府の自立傾向は、中央政府との緊張を加速させた。そうした中でエリツィンは、首相としてチェチェン紛争に対処したソ連国家保安委員会(KGB)出身のシロヴィキであるウラジーミル・プーチンを後継者に内定した。大統領退任後は公の場での発言を避け、2007年に死去した。葬儀は国葬で執り行われた。
エリツィンは、ソ連8月クーデターに対する抵抗と、ソビエト連邦の解体と民主化(=ソビエト連邦の崩壊)の推進、資本主義経済の導入などで高い評価を得ている一方、ロシアの国際的威信の低下を招き、腐敗した縁故資本主義の拡大、議会に対する強権的な政治手法と大統領令の乱用、第一次チェチェン紛争の泥沼化など、批判的な評価も少なくない[1]。また、酒豪でも知られており、それが仇となり、訪米中に泥酔してパンツ一丁でタクシーに乗ろうとしたり、アスカル・アカエフキルギスタン大統領(当時)の頭をローシュキ(スプーン型のロシアの伝統楽器)で叩いたりするなど、飲酒に関する豪快なエピソードが多く知られている[2]。
エリツィンは、マルクス・レーニン主義による共産党体制下で政治的立場を高めていたが、徐々にペレストロイカの遅れと共産党体制そのものに不満を抱くようになって反体制派に転向し、1990年代前半には自由主義と民主主義、市場経済化、ヨーロッパに開かれたロシア国家の建設を目指していたが、治世後半期には外交でNATO(北大西洋条約機構)との摩擦が増え、内政では議会との対立を深めて大統領権限の強い国家体制を成立させ[3][4][5][6][7][8][9]、民主政治と強権体制が両立する半権威主義体制を敷いた。
来歴
[編集]青年期
[編集]1931年2月1日にソビエト連邦内のロシア共和国、ウラル州ブトカ地区ブトカ村(あるいはバスマノフスコエ村[10])に誕生する。エリツィンの自伝によれば、彼は幼年期にキリスト教ロシア正教会で幼児洗礼を受けたという。
エリツィン家はソビエト政府のクラーク撲滅運動により土地を奪われた農民の家系であり、父方の祖父であるイグナティは、1930年に公民権を剥奪され、1934年には妻アンナ(エリツィンの父方の祖母)とともにウラル地方ナデジンスク(現在のセロフ)に追放され、2年後に同地で亡くなった。イグナティとアンナの息子であり、エリツィンの父であるニコライは、建設労働者であったが、労働者階級の分裂を組織化し、法秩序に不満を抱いた罪(無実の罪)により、収容所生活を送っていた。ニコライの妻でエリツィンの母であるクラウディアは、文盲の農民で、裁縫師として働いていた。
1932年、エリツィン家はカザンに引っ越した[11]。しかし、1934年に父ニコライは、兄アンドレアンと他の4人の労働者とともに逮捕され、国家政治保安部の特別法廷により[11]3年間の労働刑を宣告され、モスクワ運河の建設作業に従事させられた。父親が逮捕された夜、エリツィンは眠りつくまで泣き続けたという[11]。
父ニコライが釈放された後の1937年に、ニコライとクラウディアの間に次男ミハイルが誕生する[11]。エリツィンの弟ミハイル誕生後、エリツィン家はウラル地方からペルミ地方ベレズニキに移った。同地でニコライは工場に勤務した[11]。1944年7月、ニコライに長女が生まれ、ヴァレンティーナと名付けられた。2人の弟、妹の兄として育ったエリツィンは、母や自分たちを頻繁に殴る父ニコライよりも、自分たちに優しく接する母クラウディアの方に親しみを感じていた[11]。
第二次世界大戦中に武器庫から盗んだ手榴弾を分解している最中に、手榴弾が爆発し、左手の親指と人差し指が失われた。指が欠損していたため、エリツィンは兵役を免除され、エリツィンは学業を修めた。1939年から1945年まで鉄道学校で学び、その後4年間はベレズニキ (Berezniki) にあるプーシキン高校 (Pushkin High School) に通った。エリツィンの公式伝記やメディアによれば、彼は学業で成功を収め、クラスの首席だったが、素行が咎められ、喧嘩好きだったという。 1945年には共産党青年団体であるコムソモールに入会し、様々な集会やサークルに出席したが、指導的な立場にはいなかった[11]。1949年にスヴェルドロフスクのウラル工科大学建築科に入学する。同学校でエリツィンはスポーツに専念し、1952年にはペルミ州(ペルミ州)の女子バレーボールチームでコーチを務め、ロシア共和国選手権の地域予選に出場した。1954年には、ソ連バレーボール選手権のクラス「A」に出場し、都市代表チーム「ブレビストニク」に入団した[12]。1952年には病気で大学を休学していたが、1955年には工業・土木建築を専門とする建設技師の資格を取得し、卒業した。なお、卒業時の卒業論文は、全国バレーボール選手権大会への参加のため、規定の3ヶ月ではなく1ヶ月で執筆した[13]。大学で同級生のナイーナと交際を始め、1956年に彼女と結婚した。
建設エンジニア
[編集]1955年9月からエリツィンは、セヴェルスク建設管理局の職長として働いた。エリツィンは後に、最初の1年間で建設関連の様々な専門技術を習得したと回想している[14]。1957年には現場監督に任命され、翌年には上級現場監督を務めた。1961年3月、ソビエト連邦共産党地区委員会事務局は、エリツィンに党員資格を与え、エリツィンはソ連共産党員になった。1965年にはスヴェルドロフスク住宅建設コンビナートの所長に任命され[15]、1968年まで務めたた。
スヴェルドロフスクでの勤務
[編集]1961年にソビエト連邦共産党に入党したエリツィンは、1968年から党活動に専従し、スヴェルドロフスク州地方委員会に異動し、建設部門の責任者を務めた。1975年にはスヴェルドロフスク州地方書記に選出され、同地方の産業開発を担当した。彼の前任者であるヤーコフ・リャボフは後年に、エリツィンは威圧的だが非常に有能な人物だと回想している[16]。またエリツィンは、党の仕事において各州委員会の書記たちに対しても粗暴で、厳しい態度を取り、自身の欠点を指摘した人物たちに仕事を与えないようにしていたという。
1976年にエリツィンは、スヴェルドロフスク州中央委員会政治局の推薦により、同州党委員会第一書記(スヴェルドロフスク州の実質的な指導者)に選出され[16]、1985年までその地位にあった。彼の統治により、スヴェルドロフスクには市内で最も高い23階建ての委員会ビルが建設された[17]。1970年代後半には、スヴェルドロフスクと州北部を結ぶ高速道路の建設や[18]、バロック様式の住宅から新しい住宅への住民の再定住を促進した。1977年には政治局の決定により、旧ロシア皇帝ニコライ2世一家殺害現場のイパチェフ館を取り壊している。一方でスヴェルロフスクに地下鉄を建設したり、州の食糧供給を大幅に改善し、養鶏場や農場の建設を実行した。バルティムの文化スポーツ施設は類を見ない建築物と評価され、州の誇りとなった[19]。スヴェルドロフスク州での働きぶりは中央にも評価され、レオニード・ブレジネフにより1981年に第26期党中央委員に選出され、1990年まで務めた。なお、エリツィンはこの時、ソビエト連邦軍の予備役大佐の軍事階級を与えられている。

1978年から1989年にかけて、スヴェルドロフスク州セロフ選挙区選出のソビエト連邦最高会議議員に選出され[20][21]、1984年から1988年までは常設機関の最高会議幹部会のメンバーを務めた。
ミハイル・ゴルバチョフの書記長就任後の1985年に、エリツィンはエゴール・リガチョフの推薦により、党中央委員会政治局員候補兼書記に就任。4月には中央委員会建設部の責任者となり、7月には中央委員会建設担当書記に選出された。
モスクワでの勤務
[編集]ブレジネフ派の大物であるヴィクトル・グリシンが首都モスクワの党第一書記を解任されると、エリツィンは1985年12月に後任の第一書記に任命された。就任後、彼は首都の党組織とソビエト機構の幹部人事移動を開始し、多くのモスクワ市委員会の幹部と地区委員会の第一書記を解任した。また、個人的に店舗や倉庫を検査し、モスクワで食品サンプル展を開催した。エリツィンの下で、モスクワの新しい総合開発計画が策定され始め、歴史的建造物の取り壊しが禁止され、シティーデー(都市の日)が祝われるようになった。
1986年2月の共産党第27回党大会で、彼は中央委員会ソ連共産党政治局員候補に選出され、1988年2月18日までその地位にあった。ゴルバチョフの下では改革派として行動したが、彼が推進したペレストロイカの遅れを強く非難した。中央委員会総会での演説ではリガチョフ率いる中央委員会事務局を批判し、改革の遅さとゴルバチョフの「個人崇拝」の発生について警告した。エリツィンとリガチョフは激しく議論し、リガチョフはエリツィンの政治局員候補とモスクワ市第一書記の辞任を求めた。エリツィンの支持者で「ペレストロイカの立役者」と呼ばれていたアレクサンドル・ヤコヴレフでさえも、エリツィンの反ゴルバチョフ演説を批判し、結局、エリツィンも自分の誤りを認め悔い改めることを余儀なくされた。
中央委員会総会でエリツィンの即時解任と処罰を求める声は止まらず、カザフ・ソビエト社会主義共和国閣僚会議議長ヌルスルタン・ナザルバエフは、「エリツィンの政治局とソ連共産党中央委員会書記局に対する誹謗中傷」を理由に、エリツィンを中央委員会から即時解任するよう提案した。ゴルバチョフは冷静な判断を党指導部に呼びかけたが、結局、エリツィンの発言は「不適切」と判断され、各党機関はエリツィンの辞任を検討する指示を党中央から受け取った[22]。
11月3日、エリツィンはゴルバチョフに書簡を送り、モスクワ市第一書記の留任を求めた[23]。11月9日に心臓発作のため入院した[24]。後のゴルバチョフやヴィタリー・ウォロトニコフの証言によると、自殺未遂あるいは自殺未遂を装ったものとされる[25][26][27]。
1987年11月11日に中央委員会はエリツィンの発言を「不適切」と判断し[28]、エリツィンは自身の誤りを認めさせられた上で、モスクワ市第一書記を解任された。さらに翌年2月には政治局員候補からも解任されている。しかし、この一連の解任劇は、エリツィンを反対派の殉教者として描かせ、国民的人気を獲得した。なお、書記長のゴルバチョフはエリツィンの解任を阻止しようとしており、エリツィン解任後に彼のために無任所大臣とソ連国家建設委員会第一副委員長のポストを設けた。
1988年夏にエリツィンはカレリア共和国共産党から第19回全ソ連党大会の代表に選出された。7月1日にエリツィンは党大会で演説し、再びリガチョフの政治局からの解任を提案し、党幹部の特権を批判し、「停滞」の責任はブレジネフ一人にあるのではなく、政治局全体にあると主張した。最後にエリツィンは、10月の中央委員会総会での「不適切な」演説と自己批判を撤回するよう求めた。
人民代議員
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1989年3月26日にエリツィンは、モスクワ選挙区第1区からソビエト連邦人民代議員大会代議員に選出され、モスクワ市民の91.53%の票を獲得した。当選に伴い、エリツィンはソ連無任所大臣を解任されたが、建設委員会第一副委員長の立場は維持した[29]。選挙期間中、エリツィンは最高会議議員には選出されなかったが、議員アレクセイ・カザニクが辞任したため、そのポストを埋める形でエリツィンは最高会議議員に選出された。ガザニクはその後1993年10月にエリツィンによってロシア連邦検事総長に任命されている。
1989年6月から1990年12月26日まで、エリツィンはソビエト連邦最高会議民族評議会の議員に選出され[30]、地域間代議員グループを形成している。また、最高会議では建設建築委員会委員長を務める。
1990年3月4日にエリツィンはスヴェルドロフスク州からロシア共和国人民代議員大会議員に選出された。同年4月29日、スペインで開催された「国境のないヨーロッパと新しいヒューマニズム」会議へ参加するために飛行機を使用したが事故に遭い、脊椎を負傷した[31]。レニングラードの新聞機関紙「スメナ」は、この事故はKGBによって仕組まれたものだという記事を掲載した。しかし、この噂がむしろエルツィンに人気に有利に働いたとの見方も示されている。
ロシア共和国最高会議議長
[編集]1990年5月、ロシア共和国人民代議員大会はロシア共和国の国家元首である最高会議議長を選出しなければならなかった[32]。当選するためには代議員から少なくとも531票を獲得する必要があった[32]。選挙ブロック「民主ロシア」は大統領候補にエリツィンを指名した[33]。エリツィンの対立候補は保守派代表で同年形成されたロシア共和国共産党第一書記のイワン・ポロスコフであった。ポロスコフは第1回投票と第2回投票でエリツィンに13票から15票の差をつけていたが、中央委員会政治局で彼は立候補の取り下げを命じられた[34]。ポロスコフの代わりに「クレムリンの候補」として指名されたのは、元ロシア内務大臣のアレクサンドル・ウラソフであった。しかし、ウラソフは5月29日の第3回投票でエリツィンに68票差で敗れ[24]、エリツィンが当選した。
エリツィンの指導の下、最高会議は「財産法」など、国のさらなる発展に影響を与える法律を数多く可決した。1990年6月12日にロシア共和国人民代議員大会は「ロシア共和国の国家主権宣言」を採択し、連邦法(ソ連法)に対するロシア共和国の法律の優位性を規定した。ロシア共和国の国家主権宣言により、今まで連邦において実権を持たなかった最高会議議長の政治的影響力が高まり、ゴルバチョフ率いる連邦中央との対立が深まった。同年7月13日の共産党第28回党大会でエリツィンは、ゴルバチョフと党指導部を批判し、ソ連共産党を離党した。以後は無所属政治家として活動する。
1990年8月から10月にかけて、ロシア連邦構成共和国内で相次いで主権宣言が採択された。カレリアASSPの国家主権宣言が採択され、コミASSP、タタールASSP、ウドムルトASSP、ヤクートASSP、 チュヴァシASSPの国家主権が宣言された。アディゲASSP、 ブリヤートASSP、バシキールASSP、カルムイクASSP、マリASSP、チュヴァシASSP、ゴルノ=アルタイスクAO、 ヤマロ・ネネツAO、ゴルノ=アルタイスクACCP、イルクーツク州などの共和国も主権宣言をしている。しかし、国家の完全な独立や連邦からの分離独立の問題は原則として提起されず、連邦中央との関係は将来、連邦中央と協定を結ぶことによって解決されることになっていた。
1991年の6月12日は、ロシア連邦最高会議の決議により、ロシア連邦の祝日となった。
1990年12月、ゴルバチョフは新連邦条約の草案を提案した。1990年12月24日には、ソビエト連邦を対等な主権共和国からなる新たな連邦として維持することが必要であり、そこではいかなる人権も自由も完全に保障されるものとみなすことが規定された[35]。
1991年2月7日、ロシア共和国最高会議は決議第581-I号「1991年3月17日のソビエト連邦の国民投票およびロシア共和国の国民投票を確保するための措置について」を採択し、ソビエト連邦の存続を問う全ソビエト連邦の国民投票とロシア共和国の国民投票を共和国全土で実施することを命じ、ロシア共和国に大統領が設置されることが採択された。
1991年2月19日、リガとビルニュスでの暴動の際、エリツィンはソ連指導部が軍を導入したことを、テレビ演説で批判し、ゴルバチョフの辞任と構成共和国首脳で構成される連邦評議会への権力移譲を初めて要求した。その2日後、ロシア共和国最高会議が開かれ、ラマザン・アブドゥラチーポフやヴィタリー・シロヴァトコ らは、エリツィンの権威主義的な最高会議運営は批判した。しかし、第一副議長のルスラン・ハズブラートフがエリツィン擁護の発言を積極的に行ったため、他の代議員たちはこの批判を無視した。
3月17日の1991年のソビエト連邦国民投票では、ロシアの有権者の71.34%がソビエト連邦の維持・更新を支持した。同日、全ロシア国民投票では、ロシアの有権者の69.85%がロシアにおける大統領職の導入に賛成した[36]。
1991年4月5日、ロシア人民代議員会議は、ロシア共和国の大統領選挙を1991年6月12日に実施することを決定した[37]。同年4月24日、最高会議は国民投票の結果を受け、「ロシア共和国大統領に関する法律」と「大統領選挙に関する法律」を採択した[38][39]。
ソ連の崩壊
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同年8月にソ連のゲンナジー・ヤナーエフ副大統領を擁立する保守派が起こしたソ連8月クーデターの際には戦車の上からロシア国民に対し、ゼネストを呼びかけるなど徹底抗戦した。ゼネストは不徹底であったものの、軍と治安機関の大勢はクーデター派を支持せず、結果としてクーデターを失敗に終わらせ、この事件によりゴルバチョフの求心力が大きく失われ、代わってエリツィンの影響力が増大する。
1991年11月6日、エリツィンはソ連共産党系のロシア共産党が活動することを禁止し、首相(ロシア共和国閣僚会議議長)を兼任した。同年12月8日、エリツィンはウクライナのレオニード・クラフチュク大統領、ベラルーシのスタニスラフ・シュシケビッチ最高会議議長と秘密会談を行い、ロシア・ウクライナ・ベラルーシのソ連からの離脱と独立国家共同体 (CIS) の樹立を宣言することで合意した(ベロヴェーシ合意)。ソビエト連邦の崩壊は避けられなくなり、12月25日にゴルバチョフはソ連大統領を辞任。ソビエト連邦はその歴史に幕を下ろした。
ロシア大統領就任
[編集]1991年6月12日、エリツィンが57.30%の得票率で当選。1991年7月10日に正式にロシア共和国大統領に就任し、ロシア初の民選国家元首となった。
1991年10月28日、エリツィンは第5回人民代議員会議において今後の経済改革の方針を発表する[40] 。1991年11月1日、議会はエリツィンに1年1ヶ月間(1992年12月1日まで)の大統領直轄の緊急勅令の権限を与えた[41][42]。この特権により、エリツィン自身が閣僚評議会議長(首相)に就任した[43]。1992年1月、経済の自由化が開始され、旧連邦国営企業の民営化を推進した。
1992年1月2日、首相を兼任したエリツィンは貿易・価格・通貨の自由化を命じた。同時にマクロ経済安定化の経済政策を採用し、厳格な緊縮財政を行った。財政均衡を実現するため、エリツィンは金融を引き締め、産業への補助金や福祉支出などを大幅に削減した。しかし、この急激な市場経済への移行は市民の貯蓄、資産に打撃を与え、ソ連時代の生活水準は破壊された[44]。同年6月に首相代行に指名したエゴール・ガイダルやアナトリー・チュバイスに経済政策のイニシアティヴを取らせ、国際通貨基金 (IMF) 等の国際機関の助言に従って「ショック療法(英語版記事)」と呼ばれる急進的な経済改革で完全な資本主義の導入を図った。市場経済化への一環として行われた価格自由化と国債濫発は1992年に前年比2510パーセントものハイパーインフレーションを引き起こし、1992年の国内総生産 (GDP) は前年比マイナス14.5パーセントとなってしまった。1990年代を通じてロシアのGDPは50パーセント減少し、不平等と失業は激増し、収入は劇的に減少した[45][46]。一部のエコノミストは、1990年代にロシアが経験した経済危機は1930年代にアメリカやドイツで起きた大恐慌に匹敵するとも評した[44]。
1992年2月にアレクサンドル・ルツコイ副大統領もエリツィンの経済改革を「経済的ジェノサイド」と批判した[47]。1992年12月にエリツィンは経済改革で失敗したガイダルを解任し、代わりにガスプロム社長のヴィクトル・チェルノムイルジンを首相に指名した。12月、チェルノムイルジンは議会の信任を得て首相に就任した。一方、10月から国民一人ひとりに国有企業の株式を与えて自由に売買をさせるバウチャー方式による民営化も行われていたが、これを上手く利用して国有資産だった会社を手に入れ、莫大な富を築き上げる新興財閥(オリガルヒ)も出現した[48][49][50]。
社会経済発展の方法とロシアの憲法構造の改革に関する見解の相違は、ロシアの政治危機(1992-1993年)の一因となった。この政治危機は、前者では大統領と政府、後者では最高会議の代議員と人民代議員大会の代議員の多数派との鋭い対立によって特徴づけられた。1993年4月25日、ロシア全土で国民投票が実施され、投票者の大多数がエリツィンと彼の政策を支持すると表明したが、人民代議員選挙の早期実施を主張した[51]。しかし、新たな選挙を招集するためには、投票権を有する国民の半数以上の支持が必要であり、その同意を得ることはできなかった[52][51]。
1993年12月には、強力な大統領権限を持つ新憲法が採択され、連邦会議と国家会議から成る両院制議会、ロシア連邦議会にする事を定めた新しいロシア連邦憲法が制定された。

1993年1月にアメリカ合衆国と第二次戦略兵器削減条約 (START II) を正式に調印し、外交政策では西側諸国との関係改善を推し進める一方で同年9月にはエリツィンの経済政策に反発していたルスラン・ハズブラートフ最高会議議長から「大統領は当てにできない。どうしようもないどん百姓だ。(人差し指で喉をたたきながら=酔っ払いのジェスチャー)これさえあれば、あいつはどんな大統領令にも署名する」と非難されたことに激怒したエリツィンは、「大統領令1400号」を公布して超法規的に現行憲法を停止した上でロシア人民代議員大会及び最高会議を強制的に解体し、議会を中心とする反エリツィン陣営の除去に取りかかった。これに対してハズブラートフもエリツィンを弾劾し、最高会議の緊急会議を召集し、ルツコイ副大統領に大統領全権を付与し、10月3日、最高会議ビルに立てこもって抵抗した。翌10月にはハズブラートフらがたてこもる最高会議ビルを戦車で砲撃し、議会側は降伏し(10月政変)、ルツコイを解任すると同時に副大統領の職も廃止した。この危機はモスクワの路上での武力衝突を引き起こし、少なくとも158人が死亡、423人が負傷した[53][51]。この後、エリツィンはロシア憲法裁判所の封鎖も命じ、1995年2月まで開かれることはなかった[54]。


1993年12月には大統領に強大な権限を与え、連邦会議と国家会議から成る両院制議会、ロシア連邦議会にする事を定めた新しいロシア連邦憲法が制定された。西側諸国はエリツィンを支持した。しかし、ロシア国内ではその経済政策で生活を困窮に追いやられた多くの民衆の反感を買い、同年12月の1993年ロシア連邦議会選挙で超国家主義的なウラジーミル・ジリノフスキー率いる極右のロシア自由民主党が第一党となってロシアの議会政治が綻びを見せ始めた。
1994年にデノミを行うなど経済の混乱が続き、また第一次チェチェン紛争でのチェチェン侵攻が失敗した結果、エリツィンの支持率は低下した。
1995年の下院選挙では極右のロシア自由民主党に代わって極左のロシア連邦共産党が第一党となり、エリツィンの経済政策で貧困に喘ぐ民衆の支持でソ連崩壊で過去のものとなったはずの共産主義が復権しつつあった。さらに1996年にソ連崩壊後初めて行われたロシア大統領選挙の第1回投票ではそのロシア連邦共産党のゲンナジー・ジュガーノフ候補に得票数で僅差に追い込まれ、大苦戦する。当時の世論調査ではジュガーノフの約21%に対してエリツィンは僅か8%で第3党の自由民主党のジリノフスキーより低い支持率しかなく[55]、側近のアレクサンドル・コルジャコフが画策した大統領選延期の計画も失敗したため、劣勢を逆転させたい一念でアメリカから選挙キャンペーンの専門家を呼んでおり[56][57][58]、これはのちにアメリカでスピニング・ボリスとして映画化された。さらにジュガーノフ当選による共産主義への回帰を恐れたボリス・ベレゾフスキー、ウラジーミル・グシンスキーなど新興財閥から巨額の選挙資金を捻出させ、新興財閥支配下のメディアにエリツィン支持のキャンペーンを張らせるなどしてなり振りかまわぬ選挙戦を展開した[59][60]。ジュガーノフとの決選投票の前には、第1回投票で3位につけたアレクサンドル・レベジ退役大将を安全保障会議書記に任命して取り込み、決選投票でエリツィンは53.8パーセントを獲得し結果的に再選を果たした[61]。しかし、のちのロシアの第3代大統領であるドミートリー・メドヴェージェフは「我々は皆1996年にエリツィンは勝てなかったことを知っている」と述べて不正選挙が行われた可能性を指摘されている[62]。
大統領選挙において新興財閥の力に大きく頼ったために第2次エリツィン政権では新興財閥の影響力が増した[63]。また、大統領選前の1995年にエネルギー産業などの国営企業が株式を担保に金融機関から融資を受けられるようにする有償民営化が行われていたことで、新興財閥は結果として石油産業他多くの国営企業を手に入れ、さらに国有資産を私物化し[64]、二女のタチアナ・ディアチェンコらエリツィンの親族とともに「セミヤー」と呼ばれる側近集団を形成するようになる。このような「セミヤー」との癒着によりエリツィン政権は政治腐敗が蔓延していき、特にベレゾフスキーを筆頭とするセミバンキルシチナと呼ばれた新興財閥が1996年から2000年までにロシアの富の50パーセントから70パーセントを支配していたともされる[65][66]。
選挙前の1995年7月と10月には虚血性心疾患とみられる症状で入院。1996年11月に冠動脈バイパス手術を受けた[67]。

1998年5月、経済復興を実現するには力不足だとして、チェルノムイルジン首相を解任した。同首相は5年間に渡る長期首相だったが、一説によると病身の大統領に代わり副大統領然として振舞っていたこと、あるいは経済界との腐れ縁を大統領が嫌っての解任とも言われる。後任には35歳のセルゲイ・キリエンコ第一副首相兼燃料エネルギー相が就任したが、8月17日にロシア財政危機が発生。短期国債の取引を停止し、事実上の債務超過に陥った。就任直後の出来事だったが、責任を取らされて解任された。
1998年9月11日に首相に任命されたのは諜報機関KGB出身のエフゲニー・プリマコフであった。プリマコフはエリツィン政権で対外情報庁長官や外相を歴任した実力者であった。プリマコフ首相は、大統領よりも議会重視のスタンスを打ち出し、キリエンコ内閣で産業貿易大臣だった共産党のユーリ・マスリュコフを第一副首相に大抜擢したことで第一党の共産党を名実ともに与党にさせ、議会の支持に依拠した珍しい内閣であり、プリマコフはソ連時代に計画経済の司令塔であるゴスプラン最後の議長だったマスリュコフとともにIMFと交渉して金融危機の対処に当たった[68]。
1999年3月にエリツィンはコソボ紛争に介入した北大西洋条約機構 (NATO) を「侵略者」であると批判し[69]、外交政策ではプリマコフとともにアンドレイ・コズイレフ外相時代のNATOに融和的な路線も修正した。NATOがコソボに地上部隊を配備した場合のロシアの介入の可能性を警告し、「私はNATO、アメリカ、ドイツに言った。軍事行動に向かわせないでくれと。さもなければヨーロッパで戦争は確実に起き、世界大戦の可能性もある」と述べた[70][71]。
1999年5月には経済を安定化させて大統領よりも支持を集めていたプリマコフ首相を解任した[72]。さらに後任のセルゲイ・ステパーシン首相も僅か3ヶ月で解職し、首相を短期間で次々に挿げ替えて自らの権力を維持するためになりふり構わぬようにも見える行動を繰り返して政権はレームダックの様相を呈し、議会では第一党の共産党によって「ソ連解体、10月政変、チェチェン侵攻、軍事力の弱体化、ロシアの人口減少に対する責任」を理由にした弾劾の手続きも始まっていた[73]。
1999年8月16日にはエリツィン大統領の汚職を追及していたユーリ・スクラトフ検事総長を女性スキャンダルで解任に追い込んだロシア連邦保安庁(FSB)の長官でプリマコフと同じKGB出身のウラジーミル・プーチンを首相に任命し、31日のロシア高層アパート連続爆破事件をきっかけにして勃発した第二次チェチェン紛争の制圧に辣腕を振るったプーチン首相は「強いリーダー」というイメージを高めて後の大統領当選を支える国民からの人気を得ることとなった[74][75]。
1999年11月、欧州安全保障協力機構(OSCE)の会議でアメリカのクリントン大統領はエリツィンに指を差して多くの民間人犠牲者を出しているチェチェンへの空爆を止めるよう要求するとエリツィンは席から立ち去った[76]。翌12月9日から10日にかけて、チェチェンでの軍事作戦への支持を求めて訪れて最後の外遊先となった中国で李鵬国務院総理や江沢民国家主席と会談したエリツィンは「クリントンはロシアが核兵器の完全な備蓄を保有する偉大な大国であることを忘れているようだ」と述べてかつては蜜月を築いていたアメリカに対して核戦争を示唆して恫喝した[77][78][79]。
晩年
[編集]
1999年12月31日正午のテレビ演説(エリツィン大統領の新年の挨拶)で辞意を表明し、全体主義を脱して明るい未来への期待を抱いた国民に応えられなかったことへの自省の念や民主主義の原則を守って辞任する旨を述べ、新世紀である21世紀が始まる2000年を迎えるに当たって新しい指導者がロシアに求められていると語った[80][81]。後継の大統領として、プーチン首相を指名し、プーチンの最初の大統領令はエリツィンを生涯にわたって刑事訴追から免責するというものだった[82]。
大統領辞任後は表舞台からは姿を消し、悠々自適の年金生活を送ったという[83]。プーチン政権については、2004年のベスラン学校占拠事件発生後に知事を大統領による任命制に改めたことに対しては批判をする一方、2006年2月にプーチンはロシアにとって正しい選択だったと賞賛している。同年6月3日、パリで開催されていた全仏オープン7日目を夫妻で観戦し、マリア・シャラポワから帽子にサインしてもらう姿が撮られている。これが最後の公の姿となった。
2007年4月23日、長年の心臓疾患による多臓器不全(一部報道では心血管不全症と言われている)によりモスクワの病院で死去。76歳だった。4月25日に救世主ハリストス大聖堂にて国葬が行われ、プーチンはこの日を「国民服喪の日」とすることを宣言した。葬儀にはプーチン、ジョージ・H・W・ブッシュ、ビル・クリントンらが参列した。なお、日本からは要人が派遣出来ず、駐ロシア大使だった齋藤泰雄が葬儀に参列した。葬儀後、遺体はノヴォデヴィチ修道院の墓地に埋葬された。
人物
[編集]性格
[編集]政治学者やメディアはエリツィンをカリスマ的な性格と評し、彼の行動の異常で予測不可能な性質、偏屈さ、権力に対する野心、頑固さ、狡猾さ、曖昧で無定形なイデオロギー的見解を指摘した[84]。一方エリツィンの反対派は、彼の残酷さ、臆病さ[85]、執念深さ、知的・文化的レベルの低さを指摘した。
エリツィン政権で財務大臣を務めたミハイル・ザドルノフの回想録によれば、エリツィンは決して悪態をつかず、部外者から「あなた」と呼ばれることもなかった[86]。しかし、この発言には元共産党中央委員会書記ヴァレンティン・クプツォフが異議を唱えている[87]。
逸話
[編集]- 1989年、エリツィンは、ずぶ濡れの下着姿でモスクワ郊外の交番にたどり着いた経緯をソビエト最高会議に説明しなければならなかった。エリツィンは「何者かに襲われ、橋から川に投げ込まれた」と主張したが、共産党幹部らはエリツィンが酒に酔って恋人と逢瀬に出かける途中だったと述べた[2]。
- 身辺警護責任者だったアレクサンドル・コルジャコフによれば、エリツィンはアルコールを乱用しており、側近たちはウォッカに水を混ぜてアルコール度数を下げていた[88]。
- 1994年8月、ベルリンで行われたドイツ駐留ロシア軍の撤収記念式典で、困惑するドイツ警察音楽隊[注釈 2]の指揮者からタクトを奪い、時折ふらつきながらダイナミックに演奏を指揮した[2][89]。同式典ではマイクを握り締め「カリンカ」を熱唱しているが、この頃すでに体調が悪化していたとされる[90]。
- 1994年9月、米国訪問後のエリツィンを乗せたイリューシン86は、アルバート・レイノルズアイルランド首相との首脳会談のためシャノン空港上空を1時間ほど旋回してから着陸したが、レイノルズら政府高官と100名以上の儀仗兵と軍楽隊、車両31台を滑走路で20分以上待たせた挙げ句に会談をキャンセルして批判を浴びた。ロシア側当局者は、エリツィンは機内で泥酔していたのではなく、「とても疲れていた」と説明した。この一件の後「シャノン上空を旋回する」というフレーズが「酔いを覚まそうとする泥酔者」の婉曲表現としてアイルランドで流行した[91]。一方で帰国したエリツィンは「寝過ごした。起こしてくれなかった担当者を処罰するつもり」と答えている[92]。(エリツィン・シャノン空港事件)
- 『The Clinton Tapes: Wrestling History with the President』でビル・クリントンが著者に語った話によると、1995年に訪米中のエリツィンが深夜に泥酔してブレアハウスからホワイトハウスの周辺を下着姿で徘徊し、「ピザはどこだ」と叫びながらタクシーに乗ろうとしていたところをシークレットサービスに保護されたという[93]。ただし、ロシア側からは異論もある[94]。
- 1998年の来日時には、橋本龍太郎首相とともに和太鼓の演奏に挑戦している。
エリツィンは破天荒な行動と酔っ払いのキャラクターが定着しており、この他にも多くの都市伝説的なエピソードやアネクドートがあるが、真偽不明のものも多い。また、心疾患の持病があったことも留意する必要がある。
著書
[編集]- 『告白』(小笠原豊樹訳、草思社、1990年)
- 『エリツィンの手記――崩壊・対決の舞台裏』(中沢孝之訳、同朋舎出版〈上下〉、1994年)
- 『ボリス・エリツィン 最後の証言』(網屋慎哉・桃井健司訳、NCコミュニケーションズ、2004年)
評伝
[編集]
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
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関連項目
[編集]外部リンク
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- ボリス・エリツィン
- ロシアの大統領
- 20世紀ヨーロッパの統治者
- 20世紀アジアの統治者
- ロシア連邦の国防相
- ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国最高会議議長
- ソビエト連邦最高会議幹部会の人物
- ソビエト連邦共産党中央委員会書記
- ソビエト連邦共産党モスクワ市委員会第一書記
- ソビエト連邦共産党スヴェルドロフスク州委員会第一書記
- 第10回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第11回ソビエト連邦最高会議の代議員
- ロシアからのソビエト連邦人民代議員
- レーニン勲章受章者
- 赤旗勲章受章者
- 名誉記章勲章受章者
- 祖国功労勲章受章者
- オリンピック功労章受章者
- チェチェン紛争の人物
- 20世紀ロシアの政治家
- 21世紀ロシアの政治家
- 弾劾された公務員
- ロシアの正教徒
- 20世紀の正教徒
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- スヴェルドロフスク州出身の人物
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- 1931年生
- 2007年没