ビル・クリントン

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ビル・クリントン
Bill Clinton
Bill Clinton.jpg

任期 1993年1月20日2001年1月20日
副大統領 アル・ゴア

Flag of Arkansas.svg アーカンソー州
第40・42代州知事
任期 1979年1月9日1981年1月19日
任期 1983年1月11日1992年12月12日

Flag of Arkansas.svg アーカンソー州
第50代司法長官
任期 1977年1月3日 – 1979年1月9日

出生 1946年8月19日(70歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国アーカンソー州ホープ
政党 民主党
配偶者 ヒラリー・ローダム・クリントン
署名 Bill Clinton signature2.png

ウィリアム・ジェファーソン・"ビル"・クリントン(William Jefferson "Bill" Clinton, 1946年8月19日 - )は、アメリカ合衆国政治家アーカンソー州司法長官アーカンソー州知事、第42代アメリカ合衆国大統領を歴任。愛称はババ(Bubba, 南部英語で「兄弟」)。身長185cm。左利き

略歴[編集]

生い立ちから弁護士時代[編集]

1946年8月19日、アーカンソー州ホープに生まれる。ビルが生まれる約3ヵ月前に自動車事故で死去した父ウィリアム・ジェファーソン・ブライス・ジュニア(William Jefferson Blythe, Jr.)と同じ名を与えられ、ウィリアム・ジェファーソン・ブライス3世と呼ばれた。ビルが生まれた後、母のヴァージニア・キャシディ・ブライスは、看護師の勉強のためニューオーリンズへと移り、ビルは4歳になるまでホープにある母方の祖父母のもとで育つ。1950年ニューオーリンズから戻った母が、自動車販売店を営むロジャー・クリントンと再婚し、義父、母と3人で暮らし始めた。1953年一家は同州ホットスプリングスへ移り住む。義父は強度のアルコール中毒であり、自宅内で頻繁に暴力を振るった。ビルが小学生の頃、酒に酔った義父が発砲した弾丸がビルの耳元をかすめる事件がおきるなど不遇の少年時代であった。1956年には異父弟のロジャー・キャシディ・クリントンが誕生する。その後ビルは自ら姓をブライスからクリントンへ正式に改めている。

高校在学中の1963年の夏、ボーイズ・ステイトで選出されたアーカンソー州上院議員としてボーイズ・ネイションに参加、ホワイトハウスに招かれてケネディ大統領と握手する機会を得た。1964年ジョージタウン大学外交学部に入学、在学中フルブライト上院議員のもと外交委員会で働いた。大学4年生の時義父が死去している。1968年同大学を卒業、22歳の時にホワイトハウス実習生になる。フルブライト議員の選挙運動に参加した後、ローズ奨学生としてオックスフォード大学へ2年間留学で、徴兵を免れた。英国ではしばしばベトナム反戦運動に参加していた。帰国後イェール・ロー・スクールに入学。在学中にヒラリー・ローダムと出会う。1972年の大統領選ではジョージ・マクガバン民主党候補の選挙運動に参加。1973年法務博士号(ジュリス・ドクター、J.D.)を取得し卒業した。その後、アーカンソー大学フェイエットビル校ロースクールで教鞭を取った。

政治家・大統領職[編集]

1978年の知事初当選時。カーター大統領(左)と。
第2期の大統領就任式に出席するため、妻のヒラリー、娘のチェルシーらと共に行進するクリントン(1997年1月20日)

1974年の中間選挙で連邦下院議員選挙に出馬し、アーカンソー州3区の民主党予備選で勝利する。本選挙ではウォーターゲート事件による追い風があったものの、共和党の現職候補に対して僅差で敗北する。1975年ヒラリー・ローダムと結婚。1977年にはアーカンソー州司法長官選挙に出馬し、民主党予備選で勝利。本選挙では共和党からの対抗候補が出ず、無投票で当選した。同年の大統領選では民主党候補のジミー・カーターの選挙運動に参加した。

1978年にアーカンソー州知事選挙の民主党予備選に勝利した後、新人同士の本選挙を制して初当選。32歳の若手知事として話題となった。知事としては同州の教育水準の向上や道路の整備などに取り組んだ。1980年娘のチェルシーが生まれる。同年の春、他州に収容されていたキューバ人難民をアーカンソー州の州軍施設に移したいというカーター大統領からの要請があり、これについて市民から不安の声が上がったものの、州軍指揮者たるクリントン知事はこれを容認した。しかし難民がアーカンソーに移された後に暴動を起こしたことから、クリントンにとって政治的ダメージとなった。これに加えて道路整備の財源確保のための自動車登録料値上げを行ったことも災いし、再選をかけた同年の知事選に敗れた(当時のアーカンソー州知事の任期は2年)。次の1982年の知事選では当選してカムバックを果たした。以後1984年1986年1990年と連続当選を果たした。アーカンソー州知事時代には南部成長政策理事会理事長、全米知事協会副会長、全米知事協会会長、全州教育委員会委員長を歴任。

大統領選挙戦では、前大統領のネガティブ・キャンペーンに敗れたマイケル・デュカキスの選挙スタッフを重用し、守りを固めた。1992年の大統領選挙で当選し、翌1993年アメリカ合衆国大統領に就任。第二次世界大戦後のベビーブーム世代初の大統領。1996年アメリカ合衆国大統領選挙で再選を果たし、大統領の職を2期8年間にわたり務めた。永年の平和活動への貢献に対しガンディー平和賞が与えられているが、この賞の創設者が逮捕・起訴されたため後に返上している。日本では1992年の大統領選挙の際、CMでケネディ大統領と握手をしたシーンがたびたび放送された。

政策[編集]

内政[編集]

一般教書演説、1997年、上段左はアル・ゴア上院議長(副大統領)、右はニュート・ギングリッチ下院議長
2001年12月13日、アンソニー・ギデンズ

大統領選挙では中道や保守派からその左派的色彩を批判され、徐々に中道よりへの修正を図った。1994年の中間選挙以後は政策の一貫性のなさがしばしば批判の対象にされる。民主党では相対的にやや右寄りに位置するが、これは党内のスタンスであって、あくまで彼自身は第三の道サミット[1][2]に参加していることなどから中道左派である。もっとも、パメラ・ハリマン英語版から政治資金の提供を受けており、彼女の属する閨閥に施政を左右された[3]。急進リベラルからは歴代の民主党政権の中では最も保守的とされたが、一方で保守派からは「社会主義者」と呼ばれる。

ジョージ・H・W・ブッシュ大統領を、大統領選挙で「It's the economy, stupid! (経済こそが問題なのだ、愚か者!)」と揶揄したように経済最優先を掲げたクリントン政権はその当初から経済政策に力を入れる。アメリカ経済の中心を重化学工業からIT・金融に重点を移し、第二次世界大戦後としては2番目に長い好景気をもたらし、インフレなき経済成長を達成した。また、1994年のギングリッチ率いる共和党が上下院を奪還すると、共和党のお株を奪うべく、財政赤字削減に動き出す。アラン・グリーンスパンFRB議長の助言の下に、均衡財政をめざし、巨額の財政赤字を解消して、2000年には2300億ドルの財政黒字を達成した。これらの経済政策は、ロナルド・レーガン政権で行われたレーガノミクスに対し、クリントノミクスと呼ばれる。

教育を重視し、学校へのPC導入など、IT教育を推進した。その他、就学前児童の早期教育プログラムの拡大、移民の英語教育の充実を図った。後期には「強いドル」政策を実行し、他国の通貨に対してドル高を維持し、海外からの投資を呼び込んだ。また、アル・ゴアの提唱した「情報スーパーハイウェイ構想」を推進し、IT産業の育成と、IT化による生産性向上(ニューエコノミー)を押し進めた。

税制では、レーガノミックスで引き下げられた高額所得者の所得税率を引き上げた。また、『忘れ去られた中間層』というキャッチフレーズの下、中間層の減税を実施し貧困層をターゲットにした民主党の方針を大幅に転換した。妻のヒラリーが提案した医療保険制度改革を試みたが、民間保険会社や企業などからの法案反対活動でこの国民皆保険制度は成立させることは出来なかった[4]

外交[編集]

ブッシュ政権が国内問題・経済問題を軽視していると批判し、ホワイトハウスに上り詰めたクリントンだったが、その公約の通り外交は不得意分野だった。彼の政治キャリアはアーカンソーの地方政治に限定されており、また、彼が頼りにすべき民主党も外交に関する人材は不足していた。その外交姿勢は、場 当たり的だという批判にさらされている。政権の後期には外交に力を入れ、中東和平や朝鮮半島問題などに尽力したが、さしたる成果のないまま時間切れに終った。

南北アメリカ[編集]

北米地域では、アメリカ合衆国、メキシコカナダが自由貿易圏をつくり、関税障壁をなくすというNAFTA(北米自由貿易協定)に調印した(1994年1月1日発効)。

アジア太平洋[編集]

経済関係においては、親中国の傾向が強く、今後の主要な貿易相手国としての重要性を認める一方、日本などの同盟国には貿易問題などで厳しい態度を取った。在任中には中国政府から選挙資金を得た疑惑からの批判もあった。

自動車を中心とした貿易摩擦を契機として、すでにパパ・ブッシュ政権時代の1989年から日米構造協議がもたれるようになっていたが[5]、クリントン政権では、ロイド・ベンツェン財務長官の主導により円高政策が強力に推し進められ、日本の輸出産業に円高不況と呼ばれる程の深刻な打撃を与えた。日本政府に対しては減税や銀行への公的資金の投入、スーパー301条に基づいた市場開放を高圧的に内政干渉にも近い形で要求した。アメリカ政府による日本政府への「日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく要望書(年次改革要望書)」もクリントン政権からである。

1998年の中国訪問時には、江沢民総書記(当時)との会談で「台湾の独立不支持、二つの中国及び一中一台の不支持、台湾の国連等国際機関への加盟不支持」を表明したが、帰国後しばらくして対台湾問題についてはアメリカ国内法である台湾関係法が優先するとした。この訪中では、クリントンが日本に立ち寄ることなく9日間にわたって中国に滞在したため、日本からは「ジャパン・パッシング」(日本無視政策)と非難され、日本の政財界に戦後共有されていた「民主党=反日親中」という認識を改めて再確認させることとなった[6]

しかし、政権の後半にかけては対日関係の修復に動き、とりわけ日米の安全保障問題に関して、概ね伝統的な日米関係を基軸としながら、その深化を図った。1995年に策定された、ジョセフ・ナイ国防次官補らによるいわゆる「ナイ・イニシアティヴ」に基づき冷戦後におけるアジア太平洋への関与を再定義、日米同盟をその機軸と位置づけた。1996年には日米防衛協力のための指針(新ガイドライン)を策定、冷戦後における日米同盟の新たな定義付けを行った。

政権末期には、『ニューヨーク・タイムズ』や『ワシントン・ポスト』などによる反捕鯨キャンペーンに応じる形で、日本が調査捕鯨をやめないのならば、ノーマン・ミネタ商務長官(日系アメリカ人)が大統領に対して行った勧告に従って、日本を世界貿易機関に提訴すると表明した。しかし、これは政務手続き上あり得ないものであり、関税貿易問題でもないため、日本では一部のマスコミや政治家が批判的に反応しただけで、日米捕鯨摩擦に発展することなく収束した。

北朝鮮との間では、核兵器の開発放棄と引き換えにKEDOを発足させたが、監視体制などを厳密に構築せず、結果的に北朝鮮の核武装の防止に失敗した。その後、共和党政権となり、アメリカの北朝鮮政策は転換された。

ベトナムとの間では1994年に、ベトナム戦争終結の1975年4月から19年間におよんだ、ベトナムに対する貿易禁止の撤廃を発表し、1995年に米国とベトナムを国交正常化させた。

大統領としての訪日[編集]

大統領として、5度訪日している[7]

中東[編集]

中東地域では、湾岸戦争後に中東和平に尽力したブッシュ前大統領の貢献もあり和平の機運が高まる中、ノルウェーの仲介により、いわゆるオスロ合意が締結され、クリントンはその立会人となった。また、1994年のイスラエル・ヨルダン平和条約を後押しした。

しかしパレスチナ暫定自治政府が成立すると、イスラエル・パレスチナ双方で強硬派がオスロ合意に反対し、ラビン首相が暗殺されると、和平継続反対派のベンヤミン・ネタニヤフが首相に選出され和平は頓挫した。1999年エフッド・バラクがイスラエルの首相になると、和平交渉は再開された。しかし2000年3月イスラエルとシリアの和平交渉を仲介するも失敗に終わる。そして7月、キャンプデービットにバラク首相とアラファト議長を招いて中東和平交渉を仲介するも、聖地・エルサレムの帰属権などをめぐり両者が対立。クリントンとしては、残り半年の任期中に交渉を結実させようと15日間に及び徹夜で両者を説得したが、バラク、アラファト双方の溝は最後まで埋まらず、中東和平交渉は決裂した。その後、9月にパレスチナ自治区にて第2次インティファーダ(民衆蜂起)が起こり情勢が悪化する。2001年2月に、対パレスチナ強硬派のアリエル・シャロンが首相になり、パレスチナ暫定自治政府にたいして武力攻撃を行い、再びオスロ合意は頓挫した。

また、クリントンはブッシュ親子同様にサダム・フセインを敵視しており、国連安保理の承認を得ないまま、1998年には米英軍により、イラクの首都バグダットなどの軍事施設に対する巡航ミサイル「トマホーク」などを使った大規模な空爆を開始し、砂漠の狐作戦を行った。

ヨーロッパ[編集]

ヨーロッパ地域では、ロシアとの融和や西欧諸国の協調などをベースに行動し、旧ユーゴスラヴィアで発生したボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の和平調停に乗り出して、和平協定締結に成功した。だが、コソボ紛争に対するNATO軍単独での武力介入(1999年)は、ロシアや中華人民共和国との協調関係に亀裂を生じさせた。また、このユーゴ空爆は、「人道のためには国連決議無しで武力行使しても良い」とする「前例」を産み出した。ただし、介入それ自体は未だに賛否両論である。

アフリカ[編集]

アフリカ地域では、1993年に、第二次国際連合ソマリア活動の一員としてソマリア内戦に介入した。これは、前任者のブッシュが第一次国際連合ソマリア活動で人道支援(人道的介入)を掲げたのに対して無政府状態を解消する国家建設(Nation-building、State-building)を目的とした平和強制の最初の例である。これにより、一時的に援助物資の輸送路が確保され、1日平均の餓死者を1/3以下に激減させる効果を上げた。だが、モガディシュの戦闘では多数の死傷者を出したため、世論の反発から、アメリカ軍ソマリアから撤退することとなった。そして結局、アメリカ軍主導であった国連ソマリア活動そのものも失敗に終わった。この事件は、アメリカが国連平和維持活動に消極的となった一因とされる。その結果、ルワンダ虐殺などの非人道的行為に関してクリントン政権は傍観したと批判されるようになった。

また、1998年には、アルカーイダの関与したアメリカ大使館爆破事件への報復を名目として、アフガニスタンとともにスーダンミサイル攻撃した。この際、スーダンの医薬品の5割以上を供給していた工場が、「化学兵器工場」であるとして破壊された。

その他[編集]

他には、政権末期において、レームダックから来る政治的空白から、世界貿易機関(WTO)シアトル会議を決裂させたなどの点が一部で指摘されている。

また、退任直前に176人の服役囚に対し恩赦を実施(特赦140人、減刑36人)したが、この中に脱税などの容疑がかけられ逮捕直前に国外逃亡していた実業家マーク・リッチなどが含まれていたため批判の対象になっている[8]

閣僚[編集]

職名 氏名 任期
大統領 ビル・クリントン 1993 - 2001
副大統領 アル・ゴア 1993 - 2001
国務長官 ウォーレン・クリストファー 1993 - 1997
マデレーン・オルブライト 1997 - 2001
財務長官 ロイド・ベンツェン 1993 - 1994
ロバート・ルービン 1995 - 1999
ローレンス・サマーズ 1999 - 2001
国防長官 レス・アスピン 1993 - 1994
ウィリアム・J・ペリー 1994 - 1997
ウィリアム・コーエン 1997 - 2001
司法長官 ジャネット・レノ 1993 - 2001
内務長官 ブルース・バビット 1993 - 2001
農務長官 マイク・エスピー 1993 - 1994
ダニエル・R・グリックマン 1994 - 2001
商務長官 ロナルド・H・ブラウン 1993 - 1996[9]
ミッキー・カンター 1996 - 1997
ウィリアム・M・ダレー 1997 - 2000
ノーマン・ミネタ 2000 - 2001
労働長官 ロバート・B・ライシュ 1993 - 1997
アレクシス・M・ハーマン 1997 - 2001
保健福祉長官 ドナ・E・シャララ 1993 - 2001
教育長官 リチャード・ウィルソン・ライリー 1993 - 2001
住宅都市開発長官 ヘンリー・G・シスネロス 1993 - 1997
アンドリュー・クオモ 1997 - 2001
運輸長官 フェデリコ・F・ペーニャ 1993 - 1997
ロドニー・E・スレーター 1997 - 2001
エネルギー長官 ヘイゼル・オレリー 1993 - 1997
フェデリコ・F・ペーニャ 1997 - 1998
ビル・リチャードソン 1998 - 2001
退役軍人長官 ジェッセ・ブラウン 1993 - 1997
トーゴー・D・ウェスト・ジュニア 1998 - 2000
ハーシェル・W・ゴッバー (act.) 2000 - 2001


スキャンダル[編集]

クリントンには1992年の大統領選挙から多くの疑惑やスキャンダルが存在していた。

  • ホワイトウォーター疑惑英語版 - アーカンソー州知事時代、知人と不動産開発会社「ホワイトウォーター」を共同経営、不正土地取引や不正融資を行った疑惑。「ウォーターゲート事件以来の大統領不正疑惑」と騒がれたが、結局確かな証拠は見つからなかった。ちなみに後述のモニカ事件で有名になったケネス・スター独立検察官は、このホワイトウォーター疑惑の追及の中心人物である。
  • トラベルゲート - 知人の旅行業者をホワイトハウスの旅行事務所の責任者にするため、ヒラリーが「不正な経理が行われている」という理由でホワイトハウス旅行事務所の全員を解雇した。このため、解雇された元事務員らから告訴されている。
  • ファイルゲート - FBIが持つ共和党の要人の個人情報を不正に入手し、政治的攻撃に利用していた疑い。これもヒラリーが中心人物と見なされている。
  • 大統領次席法律顧問の自殺 - 次席法律顧問のヴィンセント・フォスターが、公園で口にくわえたピストルを発射させて自殺した。フォスターはホワイトウォーター疑惑やトラベルゲートについて、最も真相に近い人間とされていた。ちなみにフォスターはかつてヒラリーと同じ法律事務所にいて、彼女の愛人とも言われていた。
  • ベトナム徴兵忌避疑惑 - ベトナム戦争時、英オックスフォード大学に留学しており、召集令状をかけられたのにも関わらず徴兵忌避した疑惑。その後、1973年に徴兵制が廃止された後に軍役が「抽選制」になり、クリントンがこの抽選に応募したところ、順位が非常に低く徴兵されなかった。

また、クリントンは大統領就任以前から多くの女性と交際があり、これは大統領選挙の最中から政敵の攻撃材料にされていたが、1998年にはモニカ・ルインスキー事件が発覚した。ルインスキー事件では、当初は肉体関係を否定していたものの、「ルインスキーさんと不適切な関係を持った」(I did have a relationship with Ms. Lewinsky that was not appropriate.) と告白せざるを得ない状況に追い込まれ、「不適切な関係(relationship that was not appropriate.)」は同年の流行語となった。大統領の「品格」を問われる事態に世論からも批判が沸き起こり、アメリカ大統領としては第17代のアンドリュー・ジョンソン以来の弾劾裁判にかけられた。

下院による訴追で行われた上院での弾劾裁判では、50:50、45:55と有罪評決に必要な2/3には達せず、かろうじて大統領罷免は免れた。しかし、アメリカ大統領は多民族国家であるアメリカ合衆国を束ねる大司祭[10]という面があるとされ、このスキャンダルの過程で、クリントンが聖域であるはずの大統領執務室に隣接した書斎でオーラルセックスに及んだこと、その際に大統領執務室に常備されていた葉巻を持ち込んで使ったこと、ルインスキーの衣服を汚したことなどがマスコミに暴露され[11]、大統領職としての権威を大きく失墜させたと非難された。

ヒラリーの寛大な援護[12]と民主党の根強い支持によって、これを乗り切ったがクリントン政権は、このルインスキー事件の進展にタイミングを合わせるかのようにアフガニスタンやスーダンへの爆撃を行い、「スキャンダルから目をそらさせるための爆撃」だと批判された。しかし、9.11テロ後、これが1993年2月26日ニューヨークで起きた世界貿易センター爆破事件やその後のテロ未遂事件に対する報復・牽制的な攻撃であり、後のアルカイダなどとの対テロ戦争の前哨戦的なものであったと評価されるようになった。

とはいえ、このスキャンダルが2000年アメリカ合衆国大統領選挙に与えた影響は大きく、自身の政権で副大統領を務めたアル・ゴアが敗北する一因ともなった。

大統領退任後[編集]

大統領退任後は退任直前に上院議員となったヒラリーの選挙区であるニューヨーク市のハーレムにオフィスを構え、世界中で講演会活動などを行っている。

なお、クリントン政権のスタッフは、ブッシュ前大統領からホワイトハウスを引き渡された際に、コンピュータハードディスクを全て取り外されるといういやがらせを受けており、その息子であるジョージ・W・ブッシュのスタッフと交代するときに、キーボードから“W”のキーだけを抜き取るという意趣返しをした。

2003年にはケント・ナガノ指揮ロシア・ナショナル管弦楽団プロコフィエフ「ピーターと狼」のCDでミハイル・ゴルバチョフソ連大統領らとともに朗読を担当し(正確にはカップリングされているフランスの作曲家、ジャン=パスカル・バンテュスの「狼のたどる道」の朗読を担当)、グラミー賞の最優秀児童向け朗読アルバム賞を受賞した。

2004年6月には先述のモニカ・ルインスキーとの不倫事件のことなども綴った回顧録『マイ・ライフ』を出版。発売日には一部の書店に行列が出来るほどの売れ行きを示した。

同年9月に体調不良を訴え、冠状動脈の異常が見つかり、バイパス手術を受けている。

現在では、「平和と好景気の時代の大統領」として記憶されており、その人気は非常に高い。2004年7月にボストン市で行なわれた民主党全国大会の演説で登壇した際には、満場の拍手と喝采で迎えられた。2012年7月にギャラップが行った世論調査では、彼に好感を持っていると答えた人は回答者の66%に上り、共和党の支持者でも50%が好ましいと答えている[13]

ウィリアム・J・クリントン大統領センター

2004年11月18日には、地元アーカンソー州のリトルロックに「ウィリアム・J・クリントン大統領センター(大統領図書館)」がオープン。

2007年1月、妻であるヒラリーが2008年の大統領選挙への出馬を正式に表明した。民主党の候補者指名獲得に向けて、前大統領という抜群の知名度と人気を最大限に利用し、ヒラリーの選挙運動を支援した。時には対立候補のバラク・オバマを非難するコメントを出すこともあったがオバマが民主党の候補者となると徐々に協力する姿勢を明らかにし、オバマがヒラリーを国務長官に指名する際には自らの財団が外国政府から受けた寄付の状況などを公表している。

2009年5月、国連よりハイチ担当特別大使に任命された。ハイチは2008年、ハリケーンで甚大な被害を受けており、西半球の最貧国でもある。

2009年8月、平壌を訪問し北朝鮮当局に拘束されている米女性記者2人の解放に向けて交渉し、合意に達した[14]。米大統領経験者の訪朝は1994年6月に金日成主席と会談したカーター以来、2人目。

2010年2月11日、胸に違和感を訴え、ニューヨーク市内の病院で、冠動脈の狭窄(きょうさく)部を広げる手術を受けた。経過は良好で、2月12日朝に退院した。2月15日からは、ハイチ地震の復興支援活動を続けた。

2013年には複数回来日している。2月3日、公益財団法人米日カウンシル-ジャパンと米国大使館が主導する官民パートナーシップ「TOMODACHI」のイベントのため大阪に来訪して大学生と交流し、日本と世界の将来について話し合った[15]11月16日、半田晴久(深見東州)の招聘により、千葉県浦安市で行なわれた「第二回世界オピニオンリーダーズサミット」に出席。「世界における今後の日本の役割」を話し、アベノミクスへの理解を示した[16][17][18]

2013年11月20日、米市民として最高位の大統領自由勲章を受賞した[19][20]

2015年、妻であるヒラリーが2016年アメリカ大統領選挙に立候補することを表明した。

人物[編集]

人物像[編集]

クリントンは多くのアレルギーを持った人物であり、大統領就任中はホワイトハウスで猫を飼っていたが、猫アレルギーであった。このほかにも牛乳、チーズ、豚肉、植物等々にアレルギー反応がでてしまったといわれている。特に、植物アレルギーは重度のものでホワイトハウスでは芝の花粉に悩まされており、花粉の飛ぶ季節は居住部の窓は締め切り、刈り取り時には外出する等の対策を講じていた[21]

語録[編集]

  • "It's the economy, stupid!"「経済こそが問題なのだ、愚か者!」(1992年大統領選挙の際のスローガン)
  • "When I was in England I experimented with marijuana a time or two, and I didn't like it. I didn't inhale."「イギリスにいたとき、マリファナを1回か2回試してみた。でも、好きじゃなかった。吸い込まなかったんだ。」(最初の大統領選で、マリファナ吸引疑惑をかけられた時)
  • "I was opposed to the war but I love my country."「私はベトナム戦争には反対だが、自分の国を愛している」(ベトナム戦争徴兵忌避疑惑を問われて)
  • "I did have a relationship with Ms Lewinsky that was not appropriate. In fact, it was wrong. It constituted a critical lapse in judgment and a personal failure on my part for which I am solely and completely responsible."「私はルインスキーさんと、適切でない関係を持った。実際、それは間違ったことだった。重大な判断の誤りであり、私一人が完全に責任を負うべき個人的な失敗である。」(1998年8月、モニカとの関係を認める釈明スピーチで)
  • 「この島(沖縄)での我々の足跡を減らしていくためにできるだけのことをしていく。『良き隣人』であるための責任を真剣に受け止めている」(2000年7月21日、サミットに出席するため沖縄に来たとき、平和の礎で演説)。なお、ハワイには触れない形で沖縄の独立についても言及した。(日本では第2次世界大戦で沖縄に多大な犠牲を強いた歴史に鑑みて、当時は沖縄県民以外から沖縄の独立に触れることは社民党や共産党、朝日・毎日新聞でもしないことだったため、報道するマスコミは少なかった)
  • 「我々は、紛争よりも協力関係のほうが有効だと証明するために生きている」(2012年 CGI年次会議の開会式にて)
  • 森喜朗と会談した際、森の How are you ? というあいさつが誰にも Who are you ? と聞こえたため、I am Hillary's husband. というジョークでその場をしのいだと報道された(Who are you ?捏造報道)。
  • 1999年に、新世紀を迎えるにあたって「次のミレニアムの人類の未来は我々の世代が決める」と発言した。

脚注[編集]

  1. ^ The Clinton Wars, Sidney Blumenthal, Farrar, Straus and Giroux, 2003
  2. ^ BBC News - EUROPE - 'Third Way' gets world hearing”. bbc.co.uk. 2016年2月29日閲覧。
  3. ^ 広瀬隆 『世界石油戦争 燃えあがる歴史のパイプライン』 2002年6月 (NHK出版) 系図17 イギリスの中東イスラム支配者の大系図
  4. ^ オバマの医療改革の行方(富士通総研2009年3月2日)2012年5月31日
  5. ^ 日米構造協議 - 深刻化する日米自動車摩擦 - トヨタ自動車75年史・第5節第2項。
  6. ^ 冷泉彰彦『「反米」日本の正体 』、文春新書(2015年)P.28
  7. ^ 歴代米国大統領の訪日
  8. ^ クリントンがハーレムにお引越し 恩赦疑惑はどうなった?WORLD NEWS cafe、2001年3月2日
  9. ^ 在職中、1996年4月3日に発生したアメリカ空軍IFO-21便墜落事故で逝去。
  10. ^ 宗教・宗派によって呼び方が異なるため大司祭とした。
  11. ^ スキャンダルの暴露はマスコミによって濃淡があり、メロン財閥に親和的なマスコミが最も積極的だったとされる。; 『アメリカの経済支配者たち』 広瀬隆著、集英社新書(1999年12月) ISBN 9784087200072
  12. ^ ヒラリーとの関係は、後に戦略的パートナーシップと呼ばれるようになった。
  13. ^ クリントン元大統領の人気、就任当初並みの高さに 米(CNN 2012年7月31日
  14. ^ 2009年の訪朝秘話公開…クリントン元大統領の硬い表情の理由 中央日報
  15. ^ 大使館からのニュース -米国大使館 2013年2月6日
  16. ^ “クリントン元米大統領らが熱弁”. スポーツ報知 (報知新聞社). (2013年11月18日) 
  17. ^ “クリントン元米大統領「日本に必要なのは平和への存在感」”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ社). (2013年11月19日) 
  18. ^ “Bill Clinton, Not Hun Sen, Booked to Speak at Tokyo Summit”. The Cambodia Daily (The Cambodia Daily). (2013年11月5日). http://www.cambodiadaily.com/news/bill-clinton-not-hun-sen-booked-to-speak-at-tokyo-summit-46603/ 
  19. ^ オバマ大統領、クリントン元大統領を含む16人に自由勲章を授与 ウォール・ストリート・ジャーナル日本版
  20. ^ Obama, Bill Clinton pay tribute to John F. Kennedy USA TODAY
  21. ^ マイケル・ユー「ホワイトハウスの職人たち」新潮社 2006 p.177より出典

関連項目[編集]

外部リンク[編集]


公職
先代:
ジョージ・H・W・ブッシュ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国大統領
第42代:1993年 - 2001年
次代:
ジョージ・W・ブッシュ
先代:
フランク・W・ホワイト (en)
Flag of Arkansas.svg アーカンソー州知事
第40代:1983年 - 1992年
次代:
ジム・タッカー (en)
先代:
ジョー・パーセル (en)
(代行)
Flag of Arkansas.svg アーカンソー州知事
第42代:1979年 - 1981年
次代:
フランク・W・ホワイト (en)
先代:
ジム・タッカー (en)
Flag of Arkansas.svg アーカンソー州司法長官
第50代:1977年 - 1979年
次代:
スティーブ・クラーク
先代:
アンドリュー・ラマー・アレクサンダー
テネシー州
全米知事協会会長
1986年 - 1987年
次代:
ジョン・スヌヌ (en)
ニューハンプシャー州
外交職
先代:
ジャック・シラク
フランス
先進国首脳会議議長
1997年
次代:
トニー・ブレア
イギリス
党職
先代:
マイケル・デュカキス
民主党大統領候補者
1992年1996年
次代:
アル・ゴア
先代:
デービッド・プライアー (en)
民主党アーカンソー州知事候補者
1978年、1980年、1982年、1984年、1986年、1990年
次代:
ジム・タッカー (en)
先代:
サム・ナン (en)
民主党指導者会議議長
1990年 - 1991年
次代:
ジョン・ブロー (en)