ロシア高層アパート連続爆破事件

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ロシア高層アパート連続爆破事件
RIAN archive 140276 Removing rubble at site of damaged apartment house on Kashira Highway.jpg
爆破テロで瓦礫と化した集合住宅と救助作業にあたる人達。(1999年9月14日)
場所 ロシア連邦モスクワブイナクスクヴォルゴドンスクなど
標的 集合住宅など
日付 1999年8月31日 - 9月
概要 爆弾テロ事件
武器 時限爆弾車爆弾
死亡者 約300人
犯人
対処 チェチェン独立派による犯行と見なしチェチェンへロシア軍が侵攻
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ロシア高層アパート連続爆破事件(ロシアこうそうアパートれんぞくばくはじけん)とは、1999年ロシアで発生した爆弾テロ事件。

概要[編集]

同年8月終わりから9月にかけて、首都モスクワなどロシア国内3都市で爆発が発生し、計300人近い死者を出した。

8月に首相となったウラジーミル・プーチンは、チェチェン独立派武装勢力のテロと断定。本事件と、チェチェン独立派のダゲスタン侵攻を理由にチェチェンへの侵攻を再開し、第二次チェチェン戦争の発端となった。プーチンの強硬路線は反チェチェンに傾いた国民の支持を大きく集め、彼を大統領の座に押し上げた。

しかし、その実態は、当時自身の膨大な汚職を隠蔽してくれる後任を探していたボリス・エリツィン大統領と、KGB出身で既にサンクトペテルブルク市政で悪質な汚職を重ね、市長の重大な汚職逃れにも手を貸していたプーチンの権力の座を狙う目論みが一致し、無名であった彼を国民的英雄に仕立て上げ、選挙で勝たせるために、またエリツィンの膨大な汚職を、戦争の非常事態によってうやむやにしたまま大統領職を引き継ぐために、FSBによって仕組まれた自作自演である可能性が、関係者等の証言から高いものとなっている。この事件の真相を調べていた記者や政治家が何人も不審死している[1]

事件の発生[編集]

事件の影響[編集]

9月23日 - ロシア軍、チェチェンの首都グロズヌイに対する無差別爆撃[要出典]を開始。

10月1日 - ロシア軍地上部隊、チェチェン侵攻を開始。

2002年 - イギリスに亡命していたFSBの元職員アレクサンドル・リトビネンコは、自著『Blowing Up Russia: Terror From Within』のなかで、「事件はチェチェン侵攻の口実を得ようとしていたプーチンを権力の座に押し上げるため、FSBが仕組んだ偽装テロだった」と証言している。その後、リトビネンコは2006年放射性物質を盛られて暗殺された(リトビネンコ事件)。

公式説[編集]

2000年8月7日、FSBは記者会見を開き、事件の捜査状況について説明した。事件の捜査中、33人が拘束され、爆弾がチェチェンからスタヴロポリ地方ミールヌイ、キスロヴォツク、モスクワに運ばれたと断定した。

2001年6月29日、スタヴロポリにおいて、事件の事前審理が行われた。事件では、カラチャイ・チェルケス共和国の住民5人、アスラン(Аслан)とムラート・バスタノフ(Мурат Бастанов)兄弟、ムラトビ・トゥガンバエフ(Муратби Туганбаев)、タイカン・フランツーゾフ(Тайкан Французов)、ムラトビ・バイラムコフ(Муратби Байрамуков)の5人が起訴された。裁判は、当初カラチャイ・チェルケス共和国で行われる予定だったが、同地では陪審員制度がまだなかったため、スタヴロポリ地方裁判所において非公開で行われることとなった。

リャザン事件[編集]

9月22日の午後10時30分頃、リャザンの集合住宅の地下で、ナンバープレートの最後の2桁の部分に紙が貼ってある不審車に乗った男女3人を住民が目撃し、警察に通報。駆け付けた地元警察が時限爆弾を発見した。不審車のナンバープレートに貼られた紙には、リャザンを示す数字が書かれていたが、その下に透けて見える実際の数字はモスクワのものであった。警察の爆弾処理班はガス探知機で、蒸気からプラスチック爆弾の原料としても使われる非常に強力な軍用爆薬、RDXの反応があることを確認し、爆弾を処理した。地元警察は非常線を張り、道路と鉄道を封鎖した。

通報した住民は「不審者3人はロシア人だった。チェチェン人ではない」と証言した。その後、「リャザンから脱出できない」とモスクワへ長距離電話をかけた男の会話の一部を地元電話局のオペレータが偶然耳にし、警察に通報。警察が通話記録を調べたところ、通話先はFSBだったことが判明した[2][3]。警察がその後不審者2人を逮捕したものの、モスクワからの命令により釈放された。

事件から2日後の24日、FSBのニコライ・パトルシェフ長官(当時)は「RDXは訓練のために仕掛けたダミー爆弾であり、火薬のように見えた袋詰めの白い粉は砂糖だった。警察の爆薬探知機は故障していた。」と発表した[4]。 RDXの見た目は確かに砂糖と酷似しているものの、爆弾処理にあたった警察官は、事件の数ヶ月後に新聞社のインタビューで、「爆弾は間違いなく本物」、「信管と時限発火装置は軍用」、「探知機は間違いなくRDXの反応を確認」、「2万ドルもする爆薬探知機は世界クラスであり、命にかかわることなので専門の職員が日頃から厳重に点検・テストしており、故障はありえない」と証言した。また、当時のロシアにはRDXを製造する工場が2ヵ所あったが、いずれもFSBの厳重な監視下にあった。2000年1月18日付のロシアの英字紙『モスクワタイムス』は、FSBがロシア人の反チェチェン感情を煽る目的で実行した可能性があると指摘した。

アパート爆破事件の直前に発生し、ロシア軍のチェチェン侵攻のきっかけの一つとなったダゲスタン侵攻に関しては、独立派指導者シャミル・バサエフが関与を認めているが、アパート爆破事件に関しては関与を否定している[要出典]

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ プーチンの道 ~その権力の秘密に迫る~ | BS世界のドキュメンタリー | NHK BS1” (2022年5月16日). 2022年5月16日閲覧。
  2. ^ David Satter (2002年4月30日). “The Shadow of Ryazan Is Putin’s government legitimate?”. National Review. 2002年5月2日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2022年3月22日閲覧。
  3. ^ [1]
  4. ^ [2]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]