新連邦条約

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主権国家連邦

Союз Суверенных Государств
標語: Пролетарии всех стран, соединяйтесь!
万国の労働者よ、団結せよ!
1991年3月の国民投票の結果
1991年3月の国民投票の結果
首都
かつ最大都市
モスクワ
公用語 ロシア語
加盟共和国(予定) ソビエト連邦[1]
ロシア連邦共和国
ウクライナ共和国
白ロシア共和国
アゼルバイジャン共和国
カザフ共和国
ウズベク共和国
トルクメン共和国
タジク共和国
キルギス共和国
統治体制 連邦制
ミハイル・ゴルバチョフ(就任予定)
経緯
• 条約締結の提案
1990年11月23日
1991年3月17日
1991年4月23日
1991年12月8日
1991年12月21日
面積
• 合計
22,402,200 km2 (8,649,500 sq mi)
人口
• 1991年の推計
293,047,571
• 人口密度
13.1/km2 (33.9/sq mi)
通貨 ソビエト連邦ルーブル(руб、SUR)
先行
継承
ソビエト連邦
独立国家共同体
ロシア
ベラルーシ
ウクライナ
アゼルバイジャン
カザフスタン
ウズベキスタン
トルクメニスタン
キルギス
タジキスタン

新連邦条約(しんれんぽうじょうやく、ロシア語: Новый союзный договор)は、ソビエト連邦において1991年8月20日に正式調印が予定されていた条約である。

概要[編集]

新連邦条約は1922年の第1回ソビエト連邦ソビエト大会ロシア語版で締結されたソビエト連邦結成条約(連邦条約)英語版ロシア語版に代わるものとして、ソ連のミハイル・ゴルバチョフ大統領が1990年11月23日に提案し、1991年7月の段階で条約調印の最終合意が成されていたが、8月クーデターによって事実上破棄された。その結果、ソ連は1つの国家としての形態を維持できなくなり、解体へと向かった。

条約は、形式的には連邦制だが実際には中央集権体制だったソ連を、より緩やかな国家連合へと再編することで、崩壊の過程をたどっていた連邦を維持しようという内容となっていた。

その中では、国名をソビエト社会主義共和国連邦Союз Советских Социалистических Республик)からソビエト主権共和国連邦Союз Советских Суверенных Республик)と改称し、連邦を構成していた15の構成共和国の大幅な権限強化が謳われていたほか、自治共和国自治管区にも新連邦条約に調印する権利が保障されていた[2]

1991年3月17日には新連邦条約を締結するための布石として、連邦制維持の賛否を問う国民投票英語版ロシア語版が各共和国で行われ、投票者の76.4%が連邦制維持に賛成票を投じることとなった。ロシア連邦共和国で71%(自治共和国でも全て70%を超えた[3])、ウクライナ共和国で70%、白ロシア共和国で83%、カザフ共和国で94%、ウズベク共和国で90%、キルギス共和国で95%、タジク共和国で96%、トルクメン共和国で98%、アゼルバイジャン共和国で93%が連邦制維持に賛成票を投じた。

しかし、既に分離独立を宣言していたバルト三国エストニア共和国ラトビア共和国リトアニア共和国)、モルダビア共和国(現在のモルドバ)、グルジア共和国アルメニア共和国は投票をボイコットした。

8月クーデターによって、8月20日に予定されていた条約の調印は行われず、条約締結のため交渉がやり直されることになった。この交渉は11月になって妥結し、7つの共和国が連邦結成条約(案)に同意し、国名を主権国家連邦Союз Суверенных Государств)とすることが決まった。

しかし、ウクライナが国民投票で自国の独立が賛成多数で承認されたことを理由に参加せず、エリツィンはロシアの利益を求めてこの同意を破棄した。結果としてソビエト連邦は1991年12月25日に消滅した。

新連邦条約に基づく新連邦への加盟(移行)を予定していた共和国・自治共和国[編集]

連邦[編集]

共和国[編集]

自治共和国[編集]

ロシア連邦共和国[編集]

アゼルバイジャン共和国[編集]

ウズベク共和国[編集]

新連邦条約に基づく新連邦への加盟をボイコットした共和国[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 新条約が発効されれば、国名をソビエト社会主義共和国連邦(Союз Советских Социалистических Республик)からソビエト主権共和国連邦(Союз Советских Суверенных Республик)、または主権国家連邦(Союз Суверенных Государств)に改称することになっていたため。
  2. ^ 実際にこの権利を8月20日に予定されていた条約の調印式で行使することを決定したのは、ロシア共和国構成の自治共和国ではバシキール自治共和国ブリヤート自治共和国カレロ=フィン共和国タタール自治共和国ウクライナ共和国構成の自治共和国ではクリミア自治共和国のみ。
  3. ^ Sowjetunion, 17. März 1991 : Weiterbestand der UdSSR als Föderation gleichberechtigter und souveräner Staaten -- [in German]
  4. ^ On 20 November 1991 at convened by the Union of Cossacks of Southern Russia, the Great Cossack Circle of Southern Russia in the city of Novocherkassk, it was declared unification of those republics into the Union of Cossack Republics of Southern Russia (SKRYuR) with the capital in the city of Novocherkassk and with status of a union republic in the proposed Union of Sovereign States (SSG). There were established bodies of government power of the Union, created Ambassadorial stanitsa in Moscow, appointed Extraordinary and Plenipotentiary Ambassador of the SKRYuR. The creation of Cossack "republics" was supported by the 2nd Great Circle of the Union of Cossacks of Southern Russia that took place on November 7–10, 1991 in Stavropol. [20 ноября 1991 года, на созванном Союзом казаков Юга России Большом казачьем круге Юга России в г. Новочеркасске, было провозглашено объединение этих республик в Союз Казачьих Республик Юга России (СКРЮР) со столицей в г. Новочеркасске и со статусом союзной республики в предполагавшемся Союзе суверенных государств (ССГ). Были учреждены органы власти Союза, образована Посольская станица в Москве, назначен чрезвычайный и полномочный посол СКРЮР. Создание казачьих «республик» поддержал II Большой Круг Союза казаков Юга России, прошедший 7–10 ноября 1991 в г. Ставрополе.] Cossack Separatism: Contemporary situation (КАЗАЧИЙ СЕПАРАТИЗМ: СОВРЕМЕННОЕ СОСТОЯНИЕ). Scientific Society of Cossack Studies. 5 September 2013
  5. ^ Сахаров А. Д. Конституция |Союза Советских Республик Европы и Азии (проект) (рус.). Сахарова. Фонд Андрея Сахарова. Архивировано из первоисточника 15 февраля 2012.

外部リンク[編集]