グルジア・ソビエト社会主義共和国
საქართველოს საბჭოთა სოციალისტური რესპუბლიკა
国の標語: 万国の労働者よ、団結せよ! 国歌 : グルジア・ソビエト社会主義共和国国歌
註1 : 首相 の肩書は1946年 までは人民委員会議 議長、それ以降は閣僚会議 議長である。
グルジア・ソビエト社会主義共和国 (グルジア語 : საქართველოს საბჭოთა სოციალისტური რესპუბლიკა [1] ;ロシア語 : Грузинская Советская Социалистическая Республика [2] )は、ソビエト連邦構成共和国 の一つである。現在のジョージア の前身に当たり「グルジア共和国 」[3] と略称される。
1921年 2月25日 に「グルジア社会主義ソビエト共和国」として設立された。1922年 3月12日 から1936年 12月5日 までは、アルメニア 、アゼルバイジャン とともにザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国 の一部となった。1936年にザカフカース共和国は解体された。ヨシフ・スターリン の統治のもと、数多くのグルジア人たちが処刑された。この間、この地方はグルジア共産党第一書記のラヴレンチー・ベリヤ に主導されていた[4] 。
フルシチョフ 体制期には、行政権は分権化され、グルジア共産党はその力を強めた。この動きと併行して、地下経済が活発化し汚職が横行した。エドゥアルド・シェワルナゼ は数年にわたってこの汚職と闘った。その期間は1960年代中頃から1985年までで、1985年にはソビエト連邦外相に任命されている。
1990年 10月28日 、民主的な議会選挙が実施され、「円卓=自由グルジア」が6割以上の得票により第1党となり、グルジア共産党は第2党に転落した[5] 。11月14日 、最高会議はガムサフルディアを議長に選出し、また同日に国名より社会主義を削除して「グルジア共和国 」[3] と改称し、国旗・国章・国歌もグルジア民主共和国 時代のものを復活させた[6] 。1991年 4月1日、独立の是非を問う国民調査が実施され、有権者の95.5%が投票し、99.4%が独立を支持した[7] 。これを受けて4月9日 に最高会議は「独立回復に関する決定」を全会一致で採択し、独立を宣言した[8] 。しかしソビエト政府は1991年9月までこれを承認しなかった。
その後グルジア民主共和国 の復活を図り、アブハズ自治ソビエト社会主義共和国 の併合、南オセチア自治州 の廃止等を行ったため、1991年 11月28日 に南オセチア が、1992年 7月23日 にアブハジア がそれぞれ独立を宣言し、この混乱の中アジャリア自治共和国 が1992年から2004年 まで事実上独立状態になるなど内政は混沌とした。その後アブハジア紛争 、南オセチア紛争 と立て続けに内戦も起こり、やがてソビエト連邦の中心的存在であったロシア とも対立することとなった。ロシア語 由来(異説あり)とされる国名の「グルジア」(Грузия )を排除して英語 名の「ジョージア」(Georgia)を「基準的な外名 」とする方針を積極的に打ち出し、日本を含む各国に「グルジア」系統の外名使用取りやめを要請しているのはその最たるものである。
^ ラテン文字表記の例 :Sak'art'velos Sabčota Soc'ialisturi Respublika
^ ラテン文字表記の例:Gruzinskaya Sovetskaya Sotsialisticheskaya Respublika
^ a b 「グルジア共和国」という語は、日本語においてしばしばグルジア・ソビエト社会主義共和国の略称として用いられるが、ソビエト連邦からの独立後の1990年(もしくは1991年)から1995年までは正式な国名であった。1995年の憲法採択以降は「共和国」などの政体を含まないのが正式名称である。
^ Geronti Kikodze (1954) Notes of a Contemporary, first published in 1989, Mnatobi, Issue 1, Tbilisi, Georgia.
^ 「グルジアの共産党、第2党転落が確定 最高会議代議員選」 『朝日新聞』 1990年11月13日夕刊
^ 「グルジア国名 社会主義削除 「独立へ移行期」宣言」 『朝日新聞』 1990年11月15日夕刊
^ 「首都で共和国の独立賛成が95%超す グルジアの国民調査 ソ連」 『朝日新聞』 1991年04月02日
^ 「グルジア共和国が独立宣言 ソ連政権に新たな障害」 『朝日新聞』 1991年04月10日