ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国

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ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国
Российская Советская Федеративная Социалистическая Республика
ロシア臨時政府 1917年 - 1991年 ロシア
ロシア共和国の国旗 ロシア共和国の国章
国旗 国章
国の標語: Пролетарии всех стран, соединяйтесь!
万国の労働者よ、団結せよ!
国歌: 労働者のラ・マルセイエーズ
(1917年 - 1918年)
インターナショナル(1918年 - 1944年)
ソビエト連邦国歌(1944年 - 1990年)
愛国歌(1990年 - 1991年)
ロシア共和国の位置
1956年以降のロシア共和国
公用語 ロシア語
首都 モスクワ
元首等
1990年 - 1990年 ボリス・エリツィン(最高会議議長)
1991年 - 1991年 ボリス・エリツィン(大統領)
面積
17,075,200km²
人口
147,386,000人
変遷
成立 1917年11月9日
ソ連が発足
同連邦の構成国となる
1922年12月30日
国家主権宣言の採択 1990年6月12日
ベロヴェーシ合意批准 1991年12月12日
ソ連崩壊により
ロシア連邦へ移行
1991年12月25日
通貨 ソビエト連邦ルーブル
時間帯 UTC +2 - +11

ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国(ロシア・ソビエトれんぽうしゃかいしゅぎきょうわこく、ロシア語: Российская Советская Федеративная Социалистическая Республика、略称:РСФСР)は、1917年から1991年まで存在していた、世界初社会主義国家

また、複数の自治共和国自治州自治管区[1]や、その他の地方区画から構成されていた連邦国家でもある。

1922年以降は、ソビエト社会主義共和国連邦(以下「ソ連」)の構成国のひとつとなった。

現在のロシア連邦の前身国家に当たる。

概要[編集]

1917年11月7日(旧暦10月25日)、ロシア社会民主労働党が分裂して形成された左派勢力ボリシェヴィキは、十月革命を引き起こしてロシア臨時政府を打倒。11月9日ソビエト・ロシア共和国として成立した。

ロシア内戦を経て、1922年、ロシア共和国、ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国ウクライナ社会主義ソビエト共和国白ロシア・ソビエト社会主義共和国の4ヵ国によってソ連が成立した。

面積、人口共にソ連構成国では最大であった。

ソ連構成共和国の中で唯一独自の国歌を持たず、ソビエト連邦の国歌を使用していた。

国名[編集]

正式名称は、Российская Советская Федеративная Социалистическая Республика である。略称は РСФСР

日本語では、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国と表記する。また、ロシア・ソビエト社会主義連邦共和国とも訳される。

通称はロシア共和国、あるいはロシア連邦共和国

国名にある「ソビエト」(: Совет)とは、「評議会」という意味である。

英語での表記は、Russian Soviet Federative Socialist Republic であり、略称はRussian SFSR(ロシアSFSR)、またはRSFSR

なお、1917年の建国時の国名は、ソビエト・ロシア共和国 (ロシア語: Советская Российская Республика; Sovetskaya Rossiyskaya Respublika)であった。

1918年7月19日、ロシア共和国憲法の制定により、ロシア社会主義連邦ソビエト共和国ロシア語: Росси́йская Социалисти́ческая Федерати́вная Сове́тская Респу́блика)へ改称。この国名は1936年まで使用された。

政治体制[編集]

間接代表制を拒否し、労働者の組織「ソビエト」(協議会、評議会)が、各職場の最下位単位から最高議決単位(最高ソビエト)まで組織されることで国家が構成されていた。

ただし、ソビエト制度が有効に機能した期間はほとんどないに等しく、ソビエトの最小単位から最高単位まで全てに浸透した私的組織(非・国家組織)であるソビエト連邦共産党(以下「ソ連共産党」)が全てのソビエトを支配した、一党独裁制国家であった。党による国家の各単位把握およびその二重権力体制はしばしば「党-国家体制」と呼ばれている。

他のソ連構成共和国と異なり、長い間共和国単位の共産党組織を持たず、ソ連共産党が直接指導にあたっていた。ソ連末期の1990年6月に、ソビエト連邦共産党のロシア支部という位置づけで、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国共産党(以下「ロシア共産党」)が設置された。

最高国家権力として成立当時は、全ロシア・ソビエト大会およびロシア中央執行委員会が設置されていた。その後、ソ連成立にともない、ソ連全体を統括する最高国家権力機関であるソビエト連邦ソビエト大会、およびソ連中央執行委員会へ移行。1936年制定のソ連憲法により、ソ連最高会議へ変更された。

1937年に制定されたロシア共和国憲法により、ロシア共和国内にも最高会議が設置されたものの、ソ連最高会議の決定した内容を追認する機関であった。また、ロシア最高会議幹部会議長(ロシア共和国国家元首)はソ連最高会議幹部会の副議長を兼任する慣例となっていた。

そのため、ソ連は連邦制を採るものの、実際は各構成国がソ連の国家権力に従う、中央集権体制であった。特にソ連共産党が直接指導していたロシア共和国は、ソ連内で長らく形骸化した存在であった。

その後、ソ連末期の1990年初頭になってからは、ボリス・エリツィンら急進改革派が台頭し、主権宣言を行うなど、ソ連内で急激に影響力を持つようになった。最終的にはソ連崩壊ならびにロシア連邦の成立へ至ることになる。

連邦構成主体[編集]

1922年以降は、連邦国家であるソ連の中に連邦国家のロシア共和国が含まれ、さらにその中に共和国等があるという、奇異な国家構成を採っていた。

1991年のソ連崩壊時点で、16の共和国(自治共和国含む)、自治州、自治管区とその他の地方区画から構成されていた。

領土の遍歴[編集]

1922年(ソ連成立)当時のロシア共和国
1924年当時のロシア共和国
1929年当時のロシア共和国
1936年当時のロシア共和国
1940年当時のロシア共和国
1956年当時のロシア共和国

領土については、20世紀半ばまで何度か変化していた。

1924年10月27日、領内にあったトルキスタン自治ソビエト社会主義共和国ブハラ人民ソビエト共和国ホラズム人民ソビエト共和国と合併し、ウズベク・ソビエト社会主義共和国トルクメン・ソビエト社会主義共和国としてロシア共和国から独立。ソ連構成国となった。

1936年12月5日、領内にあったカザフ自治ソビエト社会主義共和国キルギス自治ソビエト社会主義共和国が、それぞれカザフ・ソビエト社会主義共和国キルギス・ソビエト社会主義共和国としてロシア共和国から独立。ソ連構成国となった。

1945年6月30日クリミア自治ソビエト社会主義共和国クリミア州へ変更され、1954年2月19日にウクライナ共和国へ委譲された。

他国からの編入[編集]

第二次世界大戦では、枢軸国などの他国へ侵攻して占領、戦後処理で自国の領土として編入している。

かつてロシア帝国領であったフィンランドに、戦前より領土割譲を強要したが拒否される。1939年から1940年にかけて、フィンランドへ侵略目的に起こした冬戦争に勝利。産業の要所であるカレリアなど、フィンランド領の約10%を割譲させた。1940年3月31日カレリア自治ソビエト社会主義共和国と、冬戦争時にソ連の傀儡政権として建国されたフィンランド民主共和国が合併し、カレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国(12番目のソ連構成共和国)として独立した。1941年から1944年にかけて、領土回復を目指すフィンランドと行われた継続戦争でもソ連は勝利。フィンランドに再び領土を割譲させてカレロ=フィン共和国に併合した。1956年7月16日、カレロ=フィン共和国はカレリア自治ソビエト社会主義共和国へ降格となり、ロシア共和国へ編入された。

1945年4月、独ソ戦ケーニヒスベルクの戦いにより、ドイツ領のケーニヒスベルクを占領。同地にケーニヒスベルク特別管区が設置され、その後ケーニヒスベルク州としてロシア共和国へ併合した。1946年4月6日に、ロシア共和国の政治家ミハイル・カリーニンにちなみ、カリーニングラード州へ改称。この州は、現在のロシア連邦を通じて、国内唯一の飛地となっており、かつては「ソビエトの不沈空母」と呼ばれたほどの軍事的に重要な拠点となっている。

また、第二次世界大戦末期の1945年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を破棄[2]し、大日本帝国へ侵攻南樺太北方四島を含む千島列島を占領した。1946年2月2日、南樺太と千島列島は「南サハリン州の設置に関するソ連邦最高会議幹部会令」に基づき、ロシア共和国に編入された[3]

以降はソ連崩壊まで領土自体に増減の変化はなかった。

歴史[編集]

ボリス・エリツィンの台頭[編集]

ソ連邦人民代議員大会・モスクワ市選挙区の候補者に選ばれたエリツィン(1989年2月21日)

ミハイル・ゴルバチョフは、1985年ソ連共産党書記長に就任して以降、一党独裁体制下で腐敗した政治体制を一新するべく、ペレストロイカグラスノスチなどの改革運動を進めた。その一環として、1988年にはそれまでのソ連最高会議に代わり人民代議員大会の創設が決定された。

1989年3月26日第1回人民代議員大会選挙が実施され、ソ連共産党内で失脚していたボリス・エリツィンら急進改革派が多数当選した。

1990年5月に、エリツィンはロシア共和国の最高会議議長に就任する。6月12日には、第1回ロシア共和国人民代議員大会国家主権宣言が採択された。7月13日、エリツィンは共産党からの離党を宣言する。

大統領就任式に臨むエリツィン(1991年7月10日)

1991年6月12日に行われた大統領選挙で、エリツィンは無所属で当選し、ロシア共和国大統領に就任した。

また、1990年にソ連大統領となったゴルバチョフは、ソ連の各構成国の主権を強化し、バルト三国の独立宣言などにより崩壊が進みつつあったソ連を繋ぎ止めようと考えていた。各構成国と調整したうえで、国名を「ソビエト社会主義共和国連邦」から「ソビエト主権共和国連邦(Союз Советских Суверенных Республик)」に改めた、連邦から緩やかな国家連合へ移行する新連邦条約の調印を、1991年8月20日に予定していた。

8月クーデターからソ連崩壊まで[編集]

ソ連8月クーデターの際にロシア最高会議ビルの前で戦車の上に立って演説を行うエリツィン大統領ら改革派

1991年8月19日、翌20日に調印予定だった新連邦条約に反発するゲンナジー・ヤナーエフ連邦副大統領ら守旧派はクーデターを起こしたが、エリツィンら改革派や市民の抵抗に遭って失敗。クーデターの首謀者はゴルバチョフソ連大統領の側近達であったため、ソ連の権威が失墜。ロシア共和国がソ連より優位に立つことを決定する出来事となった。

8月24日、ゴルバチョフはソ連共産党書記長を辞任し、同時に共産党中央委員会の解散を勧告、8月28日、ソ連最高会議はソ連共産党の活動を全面的に禁止する決議を採択し、ソ連共産党は事実上の解体に追い込まれた。

現在使われていない歴史的な旗 1991年8月22日から1991年12月25日までのロシア共和国国旗

ロシア共和国はソ連から一層離反した独自路線に走ることになった。まず8月22日に、ロシア共和国最高会議は「水平方向に白、瑠璃色、緋色の帯を等幅に配した布」をロシア共和国の新たな国旗とする、と決定した[4]。同年12月1日、ロシア共和国憲法にも国旗の変更が反映された (ru, ru)。

8月25日にエリツィンはロシア共産党の活動の一時停止を定めた法令を出し、また同党の資産を没収した。さらにエリツィンは11月6日、同党の活動を全面的に禁止し、ロシア共産党は崩壊に追い込まれた。

11月14日、8月20日に予定されていた新連邦条約の交渉が改めて行われ、ロシア共和国とベラルーシ共和国、そして中央アジアの5つの共和国の元首との間で主権国家連邦を創設することで合意し、ソ連の国名を「主権国家連邦(Союз Суверенных Государств)」とすることが決まった。

しかし12月1日に、ウクライナ共和国で独立の是非を問う国民投票が実施され、投票者の90.3%が独立を支持した。当初は連邦制維持に賛成していたエリツィンも、5000万の人口を擁しソ連第2位の工業国であるウクライナが加盟しない主権国家連邦に、ロシア共和国が加入することは利益にならないとして、12月3日にウクライナ独立を承認した。

12月8日のベロヴェーシ合意において、ロシア共和国、ウクライナ共和国、ベラルーシ共和国はソ連を離脱して、新たに独立国家共同体(CIS)を創設に合意。残るソ連構成国もそれに倣ってCISに加入した。

ゴルバチョフは協定について「3共和国の首脳のみで決定できることではない」と批判し、ソ連最高会議による新連邦条約及びベロヴェーシ合意の審議、臨時人民代議員大会の招集と国民投票の実施を呼びかけた。連邦最高会議の憲法監視委員会も12月11日、「合意は法的に無効である」とする声明を発表した。

しかし翌12日、ロシア共和国最高会議はこれらの声を無視し、ベロヴェーシ合意を批准する決議を行った。

アルマ・アタ宣言の調印式

12月17日、ゴルバチョフは1991年中にソ連政府が活動を停止することを宣言。12月21日、グルジアと既に独立したバルト3国を除く11のソ連構成共和国元首がCIS発足やソ連解体を決議したアルマ・アタ宣言英語版を採択。

これを受けて12月25日にゴルバチョフはソ連大統領を辞任し、ソ連は崩壊した。同日、ロシア共和国は正式にソ連から独立し、ロシア共和国最高会議決議によって「ロシア連邦」へ改称。以降、ソ連の継承国となった。

脚注[編集]

  1. ^ 1977年制定のソ連憲法以前は「民族管区」と呼ばれていた。
  2. ^ ソ連側は、1941年7月に関東軍日本軍)が実施した関東軍特種演習の段階で、同条約が事実上破棄されたものとしている。
  3. ^ これは日本側が関知しない手続きである。なお、日本は編入された地域のうち、北方四島の領有権を主張し、ソ連及びロシア連邦に返還を要求している。
  4. ^ Постановление Верховного Совета РСФСР от от 22 августа 1991 г. № 1627 / I—I Об официальном признании и использовании Национального флага РСФСР”. BestPravo.ru. 2016年1月30日閲覧。