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ポーランド

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ポーランド共和国
Rzeczpospolita Polska
ポーランドの国旗 ポーランドの国章
国旗 (国章)
国の標語:なし1
国歌ドンブロフスキのマズルカ
ポーランドの位置
公用語 ポーランド語
首都 ワルシャワ
最大の都市 ワルシャワ
政府
大統領 アンジェイ・ドゥダ
首相 ベアタ・シドゥウォ
面積
総計 312,679km270位
水面積率 2.6%
人口
総計(2014年 38,485,779人(34位[1]
人口密度 123人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2013年 1兆6,357億[2]ズウォティ
GDP (MER)
合計(2013年 5,177億[2]ドル(24位
GDP (PPP)
合計(2013年 8,968億[2]ドル(25位
1人あたり 23,273[2]ドル
独立 ロシア帝国から
1918年11月11日
通貨 ズウォティ (PLN)
時間帯 UTC +1(DST:+2)
ISO 3166-1 PL / POL
ccTLD .pl
国際電話番号 48
注1: ポーランドには公式な標語は存在しないが、過去、国家のシンボルに、Bóg, Honor, Ojczyzna(神、名誉、祖国)などの標語が書かれたことがあった。

ポーランド共和国(ポーランドきょうわこく、ポーランド語: Rzeczpospolita Polska)、通称ポーランドは、中央ヨーロッパに位置する共和制国家欧州連合 (EU) 、北大西洋条約機構 (NATO) の加盟国。通貨はズウォティ。首都はワルシャワ

北はバルト海に面し、北東はロシア飛地カリーニングラード州リトアニア、東はベラルーシウクライナ、南はチェコスロバキア、西はドイツと国境を接する。

10世紀に国家として認知され、16世紀から17世紀にかけヨーロッパで広大な国の1つであったポーランド・リトアニア共和国を形成。18世紀、4度にわたり国土が隣国によって分割され消滅

第一次世界大戦後、1918年に独立したが、第二次世界大戦時、ナチス・ドイツソビエト連邦からの事前交渉を拒否し両国に侵略され、再び国土が分割された。戦後1952年ポーランド人民共和国として国家主権を復活、1989年民主化により共和国となった。冷戦時代は、ソ連の影響下に傀儡政権[3]共産主義国とし最大で最も重要なソ連の衛星国の一国となり[4]、政治的にも東側諸国の一員となった。国内及び東側諸国の民主化とソ連の崩壊と東欧革命を経て、中欧または中欧のうち過去に東欧であった地域の中東欧として再び分類されるようになっている。

目次

国名[編集]

ポーランド

正式名称はポーランド語で Rzeczpospolita Polskaジェチュポスリタ・ルスカ 発音 [ʐɛt͡ʂpɔˈspɔʎit̪a ˈpɔlska] ( 聞く)。通称 Pl-Polska.ogg Polska。略称 RP

日本語の正式表記はポーランド共和国、通称はポーランド。また、漢字表記波蘭で、と略記される。

ポーランドの国名の「ポルスカ」[5]は野原を意味する「ポーレ」[6]が語源と言われている。最初にポーランドを建国した部族は「レフ族」「レック族」[7](Lechici)といい、また同時に「ポラン族[8]とも称した。「レフ」「レック」[9]は古代ポラン族の伝説上の最初の族長の名前であるが、レックはポーレと同じく「野原」を原義とするともいわれる。日本語に直訳すれば「ポラン」族は「原」族となる。すなわちポルスカはこの「ポラン族の国」というのが元来の意味となる。

共和国」に相当する「ジェチュポスポリタ」は、「公共のもの」を意味するラテン語の「レス・プブリカ」[10]翻訳借用である。レスには「物」や「財産」という意味があり、ポーランド語ではジェチュがこれに当たる。プブリカは「公共の」という意味で、ポーランド語ではポスポリタに当たる。

歴史[編集]

ポーランド王国成立以前[編集]

プシェヴォルスク文化(黄緑)とザルビンツィ文化(赤)

ポーランドは西(ドイツ)と東南(ウクライナ)の2つの方向が平原となっている地形のため先史時代から陸上での人の往来が多く、東西の文化が出会い融合する文化的刺激の多い土地だったようである。たとえば、7500年前の「世界最古のチーズ」製造の痕跡がポーランドで発見されている[11][12]ことや、インド・ヨーロッパ語族の言語やその話し手のヨーロッパにおける発展の非常に重要な段階とみられる球状アンフォラ文化やそれを継承した縄目文土器文化ルサチア文化(ラウジッツ文化とも)の中心地がポーランドである事実、などが挙げられる。

ポーランド人の基幹部族となったレフ族/ポラン族については、古代ローマ時代の歴史家タキトゥスの本『ゲルマニア』の中で現在のポーランド南西部に住んでいたと書かれている「ルギイ族英語版[13]との関連が指摘されている。彼らは「プシェヴォルスク文化」と呼ばれる、周辺のゲルマン諸部族とは異なる独特の文化を持つ集団で、ルギイ族はヴァンダル族の別名か、あるいはヴァンダル族は複合部族でルギイ族はその一つではないか、とされている。プシェヴォルスク文化は、当時ゴート族のものと推定されるヴィスワ川東岸付近一帯のヴィェルバルク文化を挟んではるか東方にあった原スラヴ人の「ザルビンツィ文化」と似通っていることが考古学調査で判明しているため、原スラヴ系の文化の一つといえる(詳しくは、プシェヴォルスク文化ザルビンツィ文化ヴィェルバルク文化の記事を参照)。プシェヴォルスク文化とザルビンツィ文化は共通した文化圏で、元は一つであり、ヴィスワ川河口付近からゴート族が入り込み間に割って入って川を遡上しながら南下していったためこの文化圏が西方のプシェヴォルスク文化と東方のザルビンツィ文化に分裂したものと考えられる。インド・ヨーロッパ語族のイラン系民族サルマタイ人スキタイ人が定住していた。バルト人トルコ人もこの地域に住んでいた。

レフ族(ポラン族)の長ピャスト

4世紀、プシェヴォルスク文化の担い手は、西のオドラ川(オーデル川)と東のヴィスワ川が大きく屈曲して作った平野の、当時は深い森や入り組んだ湿原(現在はかなり縮小したとはいえいまだ広大な湿原が残っている)だった場所に住んでいた。その地理的な理由からフン族の侵入を免れ、ゲルマン民族の大移動の後に東方からやってきて中欧に定住した「プラハ・コルチャク文化 (Prague-Korchak culture)」を持つ他のスラヴ諸部族と混交して拡大していったものが中世にレフ族 (Lechici) あるいはポラン族 (Polanie) としてヨーロッパの歴史書に再登場したとされる。この説ではルギイはレフ、レックのラテン語における転訛となる。なお、他のスラヴ語、たとえばロシア語では今でも「ルーク」[14]と「ポーレ」[15]はどちらも「野原」を原義とする言葉である。ロシア人を含む東スラヴ人はもともとポーランド人をリャキ (Lyakhi) と呼んでいた(現在はパリャキPalyakhiと呼ぶ)。リトアニア人はポーランド人をレンカイ (Lenkai)、ハンガリー人はポーランド人をレンジェレク (Lengyelek) と呼ぶ。

6世紀までにはこの地に現在のスラヴ民族が定住し、一種の環濠集落を多数建設した。遅くとも8世紀までには現在のポーランド人の基となる北西スラヴ系諸部族が異教(非キリスト教)の諸国家を築いていた。

8世紀、それまでレフ族/ポラン族 (Lech/Polanie) とゴプラン族 (Goplanie) を治めていた、後に「ポピェリド朝」(Popielidzi) と呼ばれることになった族長家の最後の当主ポピェリド (Popielid) が没し、「車大工のピャスト (Piast Kołodziej)」と呼ばれた、おそらく荷車馬車などを製造する原初的マニュファクチュアを経営していた人物(一説にはポピェリドの宮宰だったともされる)がレフ族/レック族の族長に選出され、「ピャスト朝」(Piastowie) を創始した。

王国の黎明期[編集]

濃いピンクは992年にボレスワフ1世が確定したポーランド公国領 赤太線は1025年に確定したポーランド王国の国境線
王国の国境線の外側にある濃いピンク、濃い黄色、青の地域はボレスワフ1世が治めていた王国外の属領
建国の父ミェシュコ1世
初代国王ボレスワフ1世のキエフ入城
グニェズノ大聖堂の扉
10世紀、レフ族・レヒト人・レヒ人

966年ピャスト朝レフ族/レック族(ポラン族/ポラニェ族)の5代目の族長ミェシュコが近隣のヴィスワ諸部族 (Wiślanie)、ポモージェ諸部族 (Pomorzanie)、マゾフシェ諸部族 (Mazowszanie) などをレフ族に統合させ、自らキリスト教に改宗してミェシュコ1世公となり、国家はポーランド公国として西欧キリスト教世界に認知された。

992年にミェシュコ1世の息子ボレスワフ1世が後を継ぐと、この新しいポーランド公は西欧キリスト教世界におけるポーランド公国の領土を画定し、中央政府の権力を強め、武力によって国家を統合した。彼が確定したポーランド公国領は現在のポーランド領とほぼ一致する。彼はオットー3世ハインリヒ2世神聖ローマ帝国クヌーズ2世デンマークと積極的に外交した。1000年、オットー3世はポーランド公国の首都ポズナニ近郊のグニェズノへ自ら赴いてボレスワフ1世と会談し、そこに大司教座を置くことに合意した。ポーランド大司教座は以後現在に至るまでグニェズノにあり、グニェズノ大聖堂の扉はこの時代に製作されたものである。ボレスワフ1世は必ずしも神聖ローマ皇帝の権威を受け入れたわけではなかった。彼は神聖ローマ帝国領であった南のボヘミアへ軍を進めて1004年に自らボヘミア公となり、1018年に東へ軍を進めてキエフ・ルーシを攻略した同年、今度は西の神聖ローマ帝国領内に侵攻しバウツェン(ブジシン)の講和 (en) によりマイセン(ポーランド語でミシニャ)とラウジッツ(ポーランド語でウジツェ)を獲得、その結果中欧に広大な新領土を確保した。その間、1015年には、若い友であり、また同時に妹の息子すなわち甥でもあったデンマーク王クヌーズ2世のイングランド遠征の援助をするため、自らの軍の一部を貸し出し、北海帝国の建設を援助した。1020年にはクラクフのヴァヴェル大聖堂の着工が開始されたとされる。

1025年、ボレスワフ1世の死の直前に、ローマ教皇ヨハネス19世によってポーランド公国は王国として認知されてポーランド王国となり、国境を確定した。王国領は西ポモージェ地方を除く現在のポーランド、チェコモラヴィア地方、スロヴァキアのほぼ全域、オーストリアの一部、ハンガリーの一部、ドイツのラウジッツ地方、ウクライナの「赤ルーシ」地方となる。ボレスワフ1世が治めた属領も含めて全てを合わせると西ポモージェ地方も含めた現在のポーランドのほぼ全域、チェコのほぼ全域、スロヴァキアのほぼ全域、オーストリアの一部、ハンガリーの一部、ウクライナ西部の赤ルーシ地方、ベラルーシ(白ルーシ)のブレスト地方、ドイツのラウジッツ地方とマイセン地方となる。

ポーランドが王国と認知されて間もなくボレスワフ1世が没したため、最初の戴冠式を受けたのは息子のミェシュコ2世である。しかし王国内の各地の諸侯は王権のこれ以上の拡大に危惧を抱いた。1034年、ミェシュコ2世は謎の死を遂げた。その後数年間は政治的な混乱の時代が続いた。

1038年、時のポーランド公カジミェシュ1世は政治が滞っていた首都ポズナニを離れ、クラクフへと事実上の遷都をした。正式な戴冠はしていなかったがポーランド王国の事実上の君主であった公は、混乱を収拾して王国を再び纏め上げた。また、公はヴァヴェル大聖堂を大改築し、クラクフとヴロツワフ司教座を置いた。その長男で1058年に公位を継いだボレスワフ2世は神聖ローマ皇帝とローマ教皇との間で起きていた叙任権闘争をうまく利用し、1076年にポーランド王位に就いた。

長い分裂時代[編集]

ボレスワフ3世が4人の息子と后に分割相続させたポーランド:
  クラクフ大公領
  シロンスク公領
  マゾフシェ公領
  ヴィエルコポルスカ公領
  サンドミェシュ公領
  后の相続領
  ポモージェにおけるポーランド王国の直轄領

1138年、ボレスワフ3世は王国の領土を7つに分割してそのうち5つを后と4人の息子たちにそれぞれ相続させ、そのうちの長男ヴワディスワフ2世にはさらにクラクフ大公領を与えてクラクフ大公とし、以後はクラクフ大公に就いた者がポーランドの王権を継ぐこととした。残りのポモージェ地方はポーランド王国の直轄領とし、現地の諸侯に実質的支配を任せた。1079年に大公位についたヴワディスワフ2世は国家の統一を画策し、大公の権力強化に反対するグニェズノの大司教と対立して大公支持派と大司教支持派の間で内戦となった。戦争は長引き、王国はどんどん小さな領邦に分裂していった。

1146年、時の大公ヴワディスワフ3世はフリードリヒ・バルバロッサ(のちの神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世)からの援助を得る見返りに、当時の神聖ローマ皇帝ロタール3世に臣従し、これによってシロンスク公領の支配権を得た。「シロンスク・ピャスト朝」の始まりである。これによってシロンスク公領は当地のピャスト家が支配したままポーランド王国からは独立した状態となった。グニェズノ大司教をないがしろにした上シロンスク地方をポーランド王国から独立させたことがポーランド国内で大問題となり、ヴワディスワフ3世は大司教から破門され、神聖ローマ帝国へ亡命して後にフリードリヒ1世の居城で客死した。シロンスク公国は以後もシロンスク・ピャスト家の者が後を継いでいくことになり、そのうちの一族は17世紀まで続いた(庶子の系統は地方領主として18世紀まで続いた)。以後もクラクフ大公の位は継続したが、その権威は地に墜ち、ポーランド王国は王位を継ぐものがいないまま、各地の領邦にどんどん分裂していった。

左:10世紀レフ人・レヒト人(ポーランド人)、右:チェコ人

1226年、ポーランドのコンラト1世 (マゾフシェ公)は隣国の異教徒プルーセン人に対する征討と教化に手を焼いて[16]、クルムラント領有権と引き換えに当時ハンガリーにいたドイツ騎士団を招聘した。1228年、皇帝フリードリヒ2世のリミニの金印勅書により騎士団のプロイセン領有が認められ、1230年クルシュヴィッツ条約に基いてコンラート1世は騎士団にクルムラントおよびプロイセンの全ての権利を認め騎士団はプロイセンの領有権を得た。教皇の名の下、騎士団はプロイセンを東方殖民として統治し、近代化、開拓、商業的発展、布教、教育などに従事した。


モンゴル帝国の侵攻、ドイツ騎士団(東方殖民)、ユダヤ人移民[編集]

レグニツァ/ワールシュタットの戦いに臨むヘンリク2世

1241年にはモンゴルのバトゥの軍の一部がポーランド南部に来襲し、サンドミェシュ英語版クラクフなど南部の諸都市を襲ってシロンスクに侵攻した。モンゴルのヨーロッパ侵攻英語版は全ヨーロッパを震撼させた。グレゴリウス9世教皇は、全キリスト教徒に対し、ポーランドを救援してこの異教徒襲来と戦うべしという詔書を発している[17]。教皇にプロイセンのドイツ騎士団は、ポーランド諸王侯と共同防衛をするよう命じられる。主力のドイツ騎士団は前衛と後詰めに配し抗戦した。時のシロンスク公でクラクフ公も兼ねていたヘンリク2世はドイツ騎士団とポーランド連合軍に参加、レグニツァでモンゴル軍を迎え撃った(レグニツァの戦い)。装備・物量で劣っていた連合軍は果敢に戦ったが敗北しヘンリク2世は戦死した。モンゴル軍が連合軍を破った事は、東欧史上の大事件であった。

まもなくモンゴル軍はアジア撤退するがクラクフ公領とシロンスク公領の南部はモンゴル軍に略奪され、逃げ遅れた住民は殺され、これらの地方はほぼ無人となり荒廃してしまっていた。以後、モンゴル軍に襲われた地方の復興がこの地域の諸侯の最優先課題となった。モンゴル軍のいる間は疎開していたポーランド人住民もやっと戻ってきたが、それでは人手が全く足りなかった。国王による都市化促進政策の一環として、ユダヤ人もドイツ人と一緒に招聘された。ドイツ騎士団主導により近代化として都市建設とドイツ法のマクデブルク法、習慣、制度、文字を導入した(ポーランドのマクテブルク法を用いた法はドイツ法式とは異なり、古代ローマの法を使用し、その土地にドイツ定住者がいない場合はドイツ語記載の法を理解できなかった[18]、他の事実としてユダヤ人などもポーランドでマクデブルク法により商業的に有利な優先的条件と権利を保護されていた為にユダヤ人にとり魅了があったため移民した[19])彼らは都市を築き、商業や銀行業を始め、彼らのビジネスや文学や進んだ技術や高い能力を認められ大公などの側近を勤めポーランド経済の柱となり、ポーランド初のヘブライ語が印刻された硬貨の発行などに携わった[20])。この地域における本格的なドイツの東方殖民(植民と近代化と発展)の始まりである。彼らは特にシロンスクとその周辺に定住し、多くの街を作った。これらの街では従来のポーランドの法律でなくドイツの都市法であるマクデブルク法が使用された。当時の領主たちが西方からの植民者に与えた(商業的)優先条例と権利であった。

ヴワディスワフ1世

ドイツ騎士団の支配と共にドイツ都市法の適用も盛んに行われるようになり、都市法その他の特許状は、ポーランドの伝統的な慣習法よりもとても進んでいた。新居住地にはドイツ都市法を基盤とした新しい特許状が与えられた。また、多くのポーランド人の集落もドイツ法の適用を受けるようになった。西からの移民到来のおかげでポーランドは農業生産を回復し、都市や学校も建設され、肥沃な土壌と元々恵まれていた地理的条件の下で経済的繁栄を回復しつつあった。彼らはドイツ法に基づいて自治を行い、首長と選ばれた判事が司法を掌った。自治都市の公文書は時にラテン文字のドイツ語で記録され、ポーランドにおける法的語彙はドイツ語の影響で発達した。ドイツ人は宗教学校を建設し騎士団はそこの教授となり、ポーランド人達は聖職者になるために進学でき、古典ラテン書物を学べる機会を得、後にそれがポーランド文学の発展に役立った。 ユダヤ人は都市を築き、商業や銀行業を始め、彼らのビジネスノウハウや文学や進んだ技術や高い能力を認められ大公などの側近を勤めポーランド経済の柱となり、ポーランド初のヘブライ語が印刻された硬貨の発行などに携わった[20]


ヘンリク4世(在位1289年 - 1290年)は、ドイツ系住民の支持を受けクラクフ公になった。東方植民でドイツ人の影響力が強まっていった。クラクフでは住民税と所得税の完全免除を求めるポーランド人住民たちによる暴動がおこったりした。こういったドイツ人との分離主義的な運動に強く対抗する運動もまた起きて、次の14世紀にはドイツ系と非ドイツ系の2勢力の反目が、ポーランド史の基軸となった。この当時のポーランド人による文書には、「連中(ドイツから来た人々のこと)はグダンスクを(訛って)ダンチヒと呼んでいる」などと書いてある。ドイツ人商工業者たちが彼らかを統治を行うドイツ人王侯貴族(ドイツ騎士団など)による支配よりも元々のポーランドの王侯貴族による支配を選択したからである。後にポーランドのバルト海側におけるドイツ騎士団の十字軍、そして南部におけるモンゴル襲来後のドイツ入植者の受け入れはこれらの地域の経済や文化の発展をもたらした反面、19世紀から20世紀にかけてのポーランド人とドイツ人との間の激しい民族紛争の遠因ともなった。

黄金時代[編集]

中世ヨーロッパにおけるペストの伝播
生活習慣や都市構造に関する嗜好が独特なポーランドはペスト禍を免れ、国全体がまるでオアシスのようになっている
名君カジミェシュ3世「大王」
ヤドヴィガとヤギェウォ(ヨガイラ)の夫妻の記念像(クラクフ旧市街)
グルンヴァルトの戦い
ポーランド軍の農民兵がドイツ騎士団総長ウルリッヒ・フォン・ユンギンゲン(中央左の馬上の白黒の衣装の人物)を討つ瞬間
ルブリン合同
ポーランド=リトアニア共和国の誕生
ポーランド王国の最大版図

14世紀にはヨーロッパ大陸での反ユダヤ主義から、ポーランド国内法の宗教的・民族的寛容さから多数移住してきた。14世紀当時は、ヴワディスワフ1世の子で、軍事、外交、内政に巧みな手腕を発揮したカジミェシュ3世「大王」がポーランド王国を治めており、彼の治世にポーランドは経済的な大発展をした。1339年、ドイツ騎士団に対し、かつてポーランドの領土であったことを理由に一部の土地の返還を求め抗戦した。ルーシ族ヴァリャーグ)のハールィチ・ヴォルィーニ大公国(西部ウクライナ)を占領し領土を広めていった。また、後には反王権的性格を表す重要な意味合いを持つ「ポーランド王国の王冠」という言葉もこの頃に土地の主権を主張する時の言葉として出始めた。1355年にはマゾフシェ公ジェモヴィトが大王に対し臣従した。1364年、大王はクラクフ大学(ヤギェウォ大学)を創立し、これ以後ポーランドの学術文化が華麗に開花していく。

ヤギェウォ朝[編集]

王朝が変わり、ルートヴィクの時代に入ると王の権威は衰えた。ルートヴィク死去後の二年間の空位や立場の弱い女王がこれを更に加速させる。1385年、ポーランド女王ヤドヴィガとリトアニア大公ヨガイラ(ポーランド語名ヤギェウォ)が聖職者とバロン、シュラフタなどの意志の元、結婚し、ポーランド王国とリトアニア大公国人的同君連合をした。ポーランド=リトアニア連合を形成した(クレヴォの合同)。1399年にヤドヴィガ女王が没するとヤギェウォがポーランド王に即位し、以後ポーランド、リトアニア、ボヘミア王国およびハンガリー王国の王朝であるヤギェウォ朝がポーランドを統治することになった。1410年、ポーランド=リトアニア連合はグルンヴァルトの戦いドイツ騎士団を討った。

1414年コンスタンツ公会議ではグルンヴァルトの戦いの戦後処理について話し合われ、会議では当時異教徒の国であったリトアニアとキリスト教徒の国であるポーランド王国が同盟して、キリスト教徒のドイツ騎士団と戦争をした点が大問題となり、これについてポーランドに対してドイツ騎士団側からの激しい非難があった。ドイツ騎士団は「異教徒と同盟してキリスト教徒のドイツ騎士団を討伐したポーランドの行動は罪であり、この罪によって、ポーランド人は地上から絶滅されるべきである。」と主張した。ポーランド全権クラクフ大学校長であったパヴェウ・ヴウォトコヴィツラテン語名パウルス・ウラディミリ)は「リトアニア人のような異教徒であっても我々キリスト教徒と全く同じ人間である。したがって彼らは自らの政府を持つ権利(国家主権)、平和に暮らす権利(生存権)、自らの財産に対する権利(財産権)を生まれながらに保有する。よってリトアニア人がこの権利を行使し、自衛するの(自衛権)は全く正当である」。教皇マルティヌス5世は異教徒の人権についての決定はしなかった。

1430年にリトアニア大公のヴィータウタス(ポーランド語名ヴィトルト)が没すると、ポーランド=リトアニア連合内はよりポーランド王の権威と権限を強め、事実上ポーランド王国の支配下に入り、全てのリトアニア貴族はポーランド語とポーランドの習慣を身につけてポーランド化していった。ただし宗教や宗派については、ある場所ではローマ・カトリック、ある場所ではプロテスタント、ある場所では正教会、ある場所(リプカ・タタール人共同体)ではイスラム教、といった具合にそれぞれの地方共同体の伝統的な宗教や宗派を守っていることが多かったとされるようである。

第二次トルンの和約
コペルニクス
巨大化した第1共和国
ポーランド王国(濃いピンク)/リトアニア(薄紫)/プロシア公領(肌色)/リヴォニア(グレー)/クールラント(薄いグレー)/エストニア(黄緑)

1440年、ドイツ騎士団領内の諸都市で、ポーランド王とプロイセン連合を結成し、ポーランド王国とプロイセン連合はドイツ騎士団との間で再び戦争となった。1466年第二次トルンの和約によりドイツ騎士団領は敗戦した。プロイセンはポーランド王国の封土となり、ポーランド=リトアニア連合を宗主国とする属国となり、多くの政治的権限がポーランドに移された。ポーランドはこの第二次トルンの和約に基づき、ポーランド国会(セイム)への代議員を送ってポーランドを構成する全ての地域を扱う政治(いわゆる国政)に直接参加するようドイツ騎士団に命じたが、騎士団は拒否した。を起こした。ヴァルミア司教の叙任を巡って、これをポーランドのグニェズノの大司教が裁可するが、ドイツ騎士団は独自の候補を擁立して意義を申し立て騎士団側の候補者をヴァルミア司教にとし、今後グニェズノ大司教が主権を握る事で和解した。

名君ジグムント2世アウグスト
国王ヘンリク・ヴァレジの逐電
ワルシャワ国立博物館蔵
名君ステファン・バートリ

1543年トルン出身でクラクフ大学卒業生のミコワイ・コペルニク(ラテン語ニコラウス・コペルニクス)は著書『天球の回転について (De revoltionibus orbium coelestium)』を出版、地動説を提唱した。彼は父親がクラクフ公国出身のポーランド人で銅の取引業を営み、母親はドイツ人。母の実家のあるトルンで生まれ、父母を早く亡くした後は母方の叔父でヴァルミア司教のルーカス・ヴァッツェンローデ(前の段落参照)に育てられた。なお、クラクフ大学におけるコペルニクスの恩師である人気教授アルベルト・ブルゼフスキ軌道計算で世界的に名を挙げ、月が楕円軌道を描いていること、そして常に同じ面を地球に向けていることを指摘している。

1569年、国王ジグムント2世アウグストの幅広い尽力により、ポーランドはリトアニアを併合(ルブリン合同)してポーランド王を統一君主とする物的同君連合で制限つきながらも議会制民主主義を採る「ポーランド=リトアニア共和国」(第1共和国)となり、欧州の広大な国の1つとして君臨した。

ジグムント2世アウグストの死後ポーランド=リトアニア連合王国は全てのシュラフタ(ポーランド貴族)が参加する選挙(国王自由選挙)によって国王を決定する「選挙王政」を採る貴族共和国になった。ポーランド貴族の人数は常に人口の1割を超えておりその全てに平等に選挙権が付与されていた。アメリカ合衆国が18世紀末に独立してからしばらくの間選挙権を持つ者が合衆国全人口の1割に満たなかったことを考慮すると、当時のポーランド=リトアニア連合王国では後のアメリカ合衆国に比べ選挙権を持つ国民の割合が大きかったことになる。

1573年、全てのシュラフタが一人一票を持つというかなり民主的な原則で行われることになったポーランドの国王自由選挙で選ばれた最初のポーランド国王はフランス王アンリ2世イタリア人の王妃カトリーヌ・ド・メディシスの息子であるフランス人ヘンリク・ヴァレジ(アンリ、後のフランス王アンリ3世)であった。しかし国王戴冠の条件として署名を余儀なくされた「ヘンリク条項」によりポーランドで事実上の立憲君主制シュラフタ層の大幅な権力拡大および王権の大幅な制限)が成立したため、バイセクシュアルであった自身の性癖がポーランドでは以前からずっと白い目で見られていたことや、ジグムント2世アウグストの妹ですでに年老いていたアンナを女王でなく国王とした政略結婚が求められたこともあり、ポーランドでの生活を窮屈と感じ嫌気がさしたヘンリクは1574年6月18日、突然フランスへと逐電してしまう。

ポーランド・リトアニア共和国[編集]

ヤン・ザモイスキ1578年に大法官(内閣総理大臣)に就任し、1580年にはクラクフ城代を兼任、そして1581年にはポーランド・リトアニア共和国全軍の事実上の最高司令官(名目上の最高司令官はポーランド国王兼リトアニア大公)である王冠領大ヘトマン(大元帥)を兼任し、現在の立憲君主制の国家の首相に相当する強大な行政権を持ち、その優れた政治的見識と実務的能力で1605年6月3日に死去するまでポーランドを率いた。彼の穏健な自由主義穏健主義)の政治はより多くの人の教育と政治参加を目指したもので、国政の場で多くの支持を集め、特にインテリ層や中小規模のシュラフタたちからは圧倒的支持を得ていた。彼の同調者は「ザモイスキたち(ザモイチュチ)」と呼ばれ、緩やかな政治グループを形成しており、彼を先生・師匠と思い慕っていた。また、ザモイスキは自分の領地においては農奴制を禁止し、全ての住民に基礎教育を施し、それぞれの住民の立場に応じて何らかの形で地方政治に参加させた非常に開明的な領主でもあった。人間の解放を唱えるルネサンス思想にも同調し、イタリアから建築家を呼び寄せて当時の世界の最新デザインの都市「ザモシチ」を建設し、周辺の地方の経済や開明的文化の中心地としてこの都市を発展させた。ジグムント2世アウグスト王やステファン・バートリ王を支えたこの宰相ヤン・ザモイスキこそ、この時代のポーランドの政治・経済・軍事の全ての成功を実現した稀代の大政治家であると考えられている。「黄金の自由」に関するヤン・ザモイスキの開明的思想や政治態度はその後もザモイスキ家を始めとした多くの人々に受け継がれ、彼の時代から2世紀の後にポーランドが存亡の危機に面した際ヨーロッパ初の民主主義成文憲法(5月3日憲法)を制定した基礎となっていった。

対外戦争の時代[編集]

ポーランド=リトアニア=スウェーデン同君連合
ジグムント3世
ワルシャワ王宮前の王柱頂上の立像
1619年のポーランド=リトアニア共和国の版図(赤い太線内の5色の地方)と現在の国々の国境線
ウイーン防衛を果たしローマ教皇に使者を送り出すヤン3世

ドイツ騎士団と苦戦が続き、トルコ人のオスマン帝国クリミア・タタール人クリミア・ハン国と領土をめぐり何世紀にもわたり抗戦となり、そしてモスクワ大公国と何度も対戦するリトアニアを援護した。当時ヨーロッパにおいて大きな国家の一つであったリトアニア大公国は自国を防衛する必要に迫られた。この時期の戦争と外交政策は大規模な領土拡張を生むことはなかったが、国家を深刻な戦乱に巻き込まなかった、国は封建制となり農業国として発展した。1533年にオスマン帝国との「恒久平和」で侵略の脅威を免れることができた。この時期にシュラフタが発展した[21]1592年、ポーランド=リトアニア共和国はスウェーデン王国同君連合となった。時の国王ジグムント3世(スウェーデン国王としての名はジギスムント)はスウェーデン生まれであるが、母がヤギェウォ家のポーランド人だったこともあって若いときからポーランドに住み、ポーランドの教育を受けていた。彼は、軍隊のような高い規律意識を持つ組織行動によって全世界における対抗宗教改革の尖峰となっていたイエズス会によって教育され、歴代の王のうちで最も熱狂的なローマ・カトリックの闘士となった。戴冠した当初は当時の首都であったクラクフに居を構えていたが、1596年には将来のスカンジナヴィア諸国バルト海沿岸地域ルーシ諸国、といったヨーロッパ北方全域のカトリック化を念頭に置いた最前線基地としてワルシャワ遷都した。以後現在までワルシャワがポーランドの首都となる。彼は常にイエズス会の代表者的な立場にあった。彼が同時に王位に就いていたスウェーデンでは、彼の留守中に叔父で摂政を務めていたプロテスタント教徒のカールの反乱が起き、ジグムント3世は反乱鎮圧とスウェーデンのカトリック化を目指してスウェーデンに軍を進めたが鎮圧に失敗、1599年にスウェーデン王位をカールに簒奪され、ポーランド=スウェーデン同君連合は解消した。

1611年、ジグムント3世はモスクワ大公国の自由主義的な大公国貴族(ボヤーレ)たちの求めに応じて東方へと侵攻しモスクワ市を占領した(ロシア・ポーランド戦争)。ジグムント3世が占領中に「ロシア皇帝位にはカトリック教徒のポーランド国王あるいはその王太子のみが就く」という布告を出したことから正教徒であるロシア人との間で宗教的対立を生じ、ロシア保守主義者が一般市民を巻き込んで住民蜂起を起こした。モスクワ市内の占領軍は孤立し、籠城の末に玉砕し大公国にいた残りのポーランド軍は1612年までに撤退した。後たび重なる戦争(ポーランド・スウェーデン戦争[要曖昧さ回避]大洪水時代)によりポーランド=リトアニア連合王国の政府財政は急速に悪化していった。

1683年オスマン帝国による第二次ウィーン包囲を撃退し、全ヨーロッパの英雄となったヤン3世ソビエスキ王は以後、行き過ぎた地方分権による無政府状態化の阻止を目指し、中央政府の権力を強めるため世襲王政の実現と、王およびセイム(国会)のそれぞれの権限の明確化による立憲君主制の確立を画策するなど王国再興を目指して奔走したが、志半ばで没した。その後、王国の中央政府の権限は急速に弱まり、国庫は逼迫し、国力は衰退していった。

近代民主主義成文憲法の成立とポーランド分割[編集]

5月3日憲法案の公布のため聖ヨハネ大聖堂へ入るポーランド国王スタニスワフ2世(帽子とマントの男性)
プリンス・ユゼフ・ポニャトフスキ将軍
タデウシュ・コシチュシュコ将軍
コシチュシュコがアメリカ独立戦争時代に住んでいた家で、現在はコシチュシュコ将軍記念館
アメリカ、フィラデルフィア
コシチューシュコ蜂起
五月三日憲法時代のポーランド
グダンスク(ダンツィヒ)が飛び地になっている
ポーランド分割

18世紀に入ると国王選挙に対する外国の干渉が深刻になり、大北方戦争やポーランド継承戦争(1733年 - 1735年)をはじめとする戦争や内戦が繰り返されるようになった。ポーランドに隣接するロシア帝国、プロイセン王国、オーストリアの三強国は、ポーランドを1772年、1793年、1795年、1815年の4度に渡ってポーランド分割を行った。

18世紀後半にはポーランド=リトアニア共和国の国土が他国に分割占領(ポーランド分割)された。1772年に第一次ポーランド分割が行われた後、スタニスワフ2世王と支持者は、ポーランド=リトアニア連合王国の衰退を止めようと国内の大改革を断行しようとした。1791年、王はヨーロッパ初の成文憲法案を提出し、議会(セイム)はこれを可決した(「5月3日憲法」)。この憲法によって王権世襲制(選挙王政ではあるが以前のように個人選出ではなく王家の一家を選出する)とともに立憲君主制が成立し、それまで名目的には緩やかな連邦制をとっていて行政が非効率だったポーランド=リトアニア共和国は名実ともに単一国家となった。1793年、議会によりワルシャワに国民教育委員会 (Komisja Edukacji Narodowej, KEN) が設立された。

立憲君主制民主主義王政に反対し貴族の既得権益を維持しようとする改革抵抗勢力はロシアエカチェリーナ2世と結託した。ロシア軍はポーランドに干渉戦争を起こした(ポーランド・ロシア戦争ポーランド語版ロシア語版英語版)。この直後の1793年、第二次ポーランド分割が行われた。1793-94年、コシチューシュコが蜂起を起こしたが鎮圧された(コシチュシュコの蜂起英語版)。1795年、第三次ポーランド分割が行われ、ポーランド国家は消滅した。)の広大な領地はそのほとんどがポーランド東部に集中しており、この地域はロシア帝国に組み込まれた。マグナートの領地は、各領主がロシア皇帝に臣従を誓うことを条件に守られた。その後スタニスワフ2世はロシアの首都サンクトペテルブルクに連行され、妻子と共に半ば軟禁生活を送った。ポニャトフスキとコシチュシコはフランスへ亡命し、再起を図ることにした。

ナポレオン戦争中の1807年にはナポレオンによってワルシャワ公国が建国された。貴族共和制の復活を望む一部のポーランド人は公国を支持したが、実態はフランス帝国の衛星国に過ぎなかった。1815年、ウィーン議定書に基づきワルシャワ公国は解体され、その4分の3をロシア皇帝の領土としたうえで、ロシア皇帝が国王を兼務するポーランド立憲王国を成立させた。南部の都市クラクフとその周辺は、クラクフ共和国として一定の自治が容認された。西部はポズナン大公国としてプロイセンの支配下におかれた。

束の間の再興[編集]

叙事詩『パン・タデウシュ』第三巻より「きのこ狩り」の場面
コシチュシュコが亡くなるまで住んでいた家
スイスゾロトゥルン

ポーランド王位継承権を持つポニャトフスキはナポレオン戦争にフランス軍の将軍として参加、1807年にポーランドはワルシャワ公国として再び独立した。しかしその後ロシアに侵攻したフランス軍の戦況は悪化し、撤退するフランス軍がプロイセンのライプツィヒで敗れると、ポニャトフスキはフランス軍の殿軍の総大将として果敢に戦い、全身に5発の銃弾を受けて華々しく戦死した。ナポレオンが失脚すると、1815年ウィーン会議によって、ポーランドはロシア皇帝を元首とするポーランド立憲王国(会議王国)となった。多くのポーランド人が国外、特にフランス亡命した。

独立運動の時代[編集]

ワルシャワ、ワジェンキ水上宮殿の庭園にあるショパン像

十一月蜂起[編集]

ポーランド立憲王国における憲法はロシアによって無視された。フランスベルギーの革命にポーランド軍を派遣して介入しようとしたことにポーランド全土で反対運動が起こり、1830年、ロシア帝国からの独立および旧ポーランド・リトアニア共和国の復活を目指して「十一月蜂起」が起こったが、翌年鎮圧され エミリア・プラテルシュラフタ士族、ポーランド貴族)

一月蜂起[編集]

ロシアに鎮圧された一月蜂起
擬人化されたポーランド(手前の女性)とリトアニア(奥の女性)

1856年にロシア帝国がクリミア戦争に敗れて国力が弱体化すると、これを機にポーランド・リトアニア連合王国の復活を目指す人々が結集し、1863年、旧ポーランド王国領と、旧リトアニア大公国領で同時に「一月蜂起」を起こしたが、これもロシア帝国によって鎮圧された。数百人のポーランド貴族が絞首刑にされ、十数万人がシベリアイルクーツクなどに流刑となった[22]

ビスマルクによるポーランド人抑圧政策と幻のポーランド王国[編集]

プロイセン王国内の旧ポーランド王国領であるポーゼン州(旧ポズナン大公国)では、1871年からはビスマルク文化闘争により、ポーランド人に対する抑圧政策が行われた。文化闘争はドイツ人も含めプロイセン王国内の全てのカトリック教徒を対象としポーランド人は圧倒的多数がカトリック教徒であったため、特に抑圧の対象になった。カトリック教徒に対する文化闘争は1878年に頓挫したが、ビスマルクはその後もポーランド人抑圧政策を続けた。ポーランド人は抑圧に対してポーランド文化をもって徹底抵抗した。抑圧政策によってかえってポーランド人の「連帯」とカトリック信仰は確固たるものになった。ポーランド人抑圧政策はヴィルヘルム2世がビスマルクを解任した後も続けられ、ドイツ帝国第一次世界大戦で敗北した1918年に終了した。

ポーランド王国の3人の摂政と衛兵

1916年、第一次世界大戦の最中にドイツ帝国によってその衛星国としてのポーランド王国が建国された。国王が決まるまでの間としてハンス・ハルトヴィヒ・フォン・ベセラーが総督となり、3人のポーランド人が摂政を務め、6人のポーランド人政治家が歴代首相となった。2人の娘がいずれもポーランドの名門大貴族に嫁いでおり、自らもポーランドのジヴィエツに住み流暢なポーランド語を話したオーストリア=ハンガリー帝国の皇族カール・シュテファン大公(ポーランド名:カロル・ステファン・ハプスブルク)がポーランド国王の最有力候補で、カール本人も積極的であった。しかしこの案にはオーストリア皇帝カール1世が乗り気でなく、結局最後までポーランド王国の国王となる人物はついに決まらなかった(カール・シュテファンは1918年にポーランドが独立した後もポーランドに帰化してジヴィエツに住み続け、1933年に当地で死去した。子孫はポーランド人として今もガリツィア地方に住んでいる[23]

反ポーランド主義[編集]

1795年ロシア帝国プロイセン王国オーストリア帝国によって第三次ポーランド分割が行われてから1918年ポーランド共和国が復活するまで、ポーランドの人々は全くの外国人の国家に支配され、政治的に差別されていた。この間、ポーランドの人々は数々の蜂起や社会発展運動(「有機的労働運動」や「ポーランド実証主義運動」と呼ばれる一連の運動)など様々な方法で独立運動を行ってきた。また、多くのポーランド人は抑圧された祖国を離れて外国へ移民し、そこで懸命に働き勉強して社会進出を図った。この2つの要素は支配者たる外国人のポーランド人への政治的敵意(独立運動のため)と民族的嫉妬(ポーランド人たちが自分たちを追い越して社会に適応するため)を掻き立て、非常に陰湿な「反ポーランド主義の運動」を形成するに至った。

ポーランド人にとっての近代や現代は、見方を変えれば、外国人による反ポーランド主義運動と、その屈辱に耐え続けた歴史ともいえる。反ポーランド主義運動の流れは、つぎの4つに大別され、これらは互いに深く絡み合って、複雑な構造を呈している:

  1. ポーランド人への土地譲渡の禁止、政治的権利の剥奪、財産の収奪、強制移住、さらには支配国家によるポーランド人を狙った組織的な民族絶滅政策や大虐殺政策、などあからさまな「差別的政策」の運動(この運動はドイツオーストリアロシアで盛んだった)(詳細はポーランドの歴史を参照
  2. ポーランド人のうちの極右思想(実際には他国よりはるかに稀で、ほとんどないのであるが、どんな民族にも全くないというわけでもない)を、客観的な統計上のデータではなく、主観的選択によって個々の事件をあげつらい詳述することで印象が強調される効果を狙い、ポーランド人がいかにも「野蛮で未開な人々」であるかのようなイメージを植え付ける陰湿な「理論的印象操作」の運動(こういう反ポーランド主義の「理論化」運動はドイツフランスでは現代でも盛んに行われ、当地の一流メディアインテリ層が中心となり、現在でも熱心に行っている。政治的運動としての特徴的な証拠として、先述のように、どの論文も客観な統計データが欠けているか、もしくは用いるデータの手法および解釈において客観性に欠けていることであり、これによって、彼らのあげつらう事例が、彼らの反ポーランド主義の正当化に用いられていることが分かる。たとえば、戦後のいわゆる「回復領」に関してポーランドを非難する際に必ず行われるのが、ポーランドの西側国境線が西方に移動ドイツ人が追放されるに至った経緯の説明の「除外」であり、このことによって一連のできごとに関して、そもそもの原因をつくったナチス・ドイツおよびドイツ人の道義的問題よりもポーランド側のそれが強調される政治的操作が行われている。さらに同件に関してよく引用されるデータが第二次世界大戦前までの民族的な構成であるが、ドイツ語を日常的に話し現地のドイツ文化に適応している現地のポーランド人やチェコ人である「シレジア人」、「ポメラニア人」、「マズーリ人」と呼ばれる人々がどの程度統計上の「ドイツ人」に含まれているのか明確にされていない。さらに、地域の帰属国家をめぐる希望について尋ねた住民投票でも、彼らはドイツへの帰属を望んだから彼らはもともとのドイツ人なのだ、という決めつけが見られ、個人的な生活の事情からどの程度の非ドイツ系の人々がドイツへの帰属を望んだのかが明らかにされておらず、このように、これらのデータ分析の際にはその基盤のあやふやな「民族」という「集団」の強調のみがあり、「個人」というものに対する尊重がないため、ドイツの民族主義者の側による主観的な正当化に利用されている。また、中世のポーランド王国でユダヤ人が温かく迎え入れられ、自由な定住を許され、かつ1264年の基本法によって1795年にポーランド王国が滅亡するまでユダヤ人の人権と安全が保護されたことは、彼らによると、当時のポーランドの支配者が私利私欲でユダヤ人とその財産をうまい具合に利用することが第一の動機だったのだ、という解釈になる[24][25]
  3. いわゆるポーリッシュ・ジョークと呼ばれる一連のもので、ポーランド人を笑いものにするジョークを無数に作成し、ポーランド人が不潔でだらしなく無能で頭の悪い人々であるかのようなイメージを社会に植え付けようとする陰湿な「非理論的印象操作」の運動(この運動はアメリカにおいてドイツ系アメリカ人が広めたといわれる[26]。しかし現代のアメリカ人はこれらのジョークが一部の人間によりポーランド人に対する不純な動機から意図的に作られたものであることに、だいぶ前から気づいているので、こういうジョークにはアメリカでは教養ある人々は興味を示さない[27])。

反ポーランド主義はそれを熱心に行う人々自身の内に隠れている極右思想・排外思想と密接な関係がある。彼らが反ポーランド主義の運動を行う際に、作り上げ、利用しているのが、「ポーランド人の恩知らず」、「ポーランドの極右思想」、「ポーランド人の暴力性」、「ポーランドによる自国の侵略」、「ポーランド人の不潔さ」、「ポーランド人の性的なだらしなさ」、「ポーランド人の知能的欠陥」などといった、彼らが作り上げる、現実とかけ離れた恐ろしい「異種(エイリアン)」のイメージなのである。

独立と第二共和国[編集]

1918年11月11日第一次世界大戦が終結すると、ヴェルサイユ条約民族自決の原則により、旧ドイツ帝国ソビエト連邦から領土が割譲され、ユゼフ・ピウスツキ国家元首として共和制のポーランド国家が再生した。、

現ポーランド領におけるドイツ帝国領だった地域
ユゼフ・ピウスツキ

1920年にはソビエト連邦に対する干渉戦争の一環としてソビエトへ侵攻し、ポーランド・ソビエト戦争が発生した。緒戦には欧米、とりわけフランスからの援助を受け、ウクライナのキエフ近郊まで迫ったが、トゥハチェフスキー率いる赤軍が反撃。逆にワルシャワ近郊まで攻め込まれた。しかしユゼフ・ピウスツキ将軍の採った思い切った機動作戦が成功してポーランド軍がソ連軍の背後に回ると、ワルシャワ近郊のソ連の大軍は逆にポーランド軍に包囲殲滅されかねない状態となった。これにたじろいだトゥハチェフスキーのソ連軍は一斉退却を開始、ポーランド軍は赤軍を押し返すことに成功し、これは「ヴィスワ川奇跡」と呼ばれた。この戦争は翌年に停戦した。

この戦いで、ソビエト各地にいたポーランド人が迫害の危機に陥り、子供達だけは母国へ戻したいとウラジオストクのポーランド人により「ポーランド救済委員会」が設立された。1919年にポーランドと国交を結んだばかりだった日本は、人道的な見地から救済に乗り出した[28]。同時期に、シベリアやソ連に居たユダヤ系ポーランド人により「ユダヤ人児童・孤児の救済」全世界に向け救援援護を発信していた。ソ連の占領下では、100万人以上がシベリアや中央アジアに強制移住させられた。

1922年に国家元首職を引退したピウスツキは、その後の政界の腐敗を憂い、1926年クーデターを起こして政権を奪取した。ピウスツキはポーランド国民の圧倒的支持のもと、開発独裁を主導した。この時期にポーランドの経済は急速に発展し、国力が強化された。国民のカリスマであったピウスツキが1935年に死亡すると、ユゼフ・ベックを中心としたピウスツキの部下たちが集団指導体制で政権を運営したが、内政・外交で失敗を繰り返し、その点をナチス・ドイツソビエト連邦につけ込まれるようになった。独ソには蹂躙されるだけに見えて、1926年までポーランドの暗号解読者は両国の傍受に完全に成功していた。エニグマ (暗号機) のレプリカ15台を作製して用い、1938年まではドイツから傍受した通信の3/4を解読していた。ポーランドは解読器ボンバを開発のうえ、設計図を英仏に提供した。ポーランドはエニグマに対する暗号文単独攻撃に成功していた。

第二次世界大戦[編集]

ドイツ軍に攻撃されるワルシャワ王宮

1939年8月、ナチス・ドイツソビエト連邦が締結した独ソ不可侵条約の秘密条項によって、国土はドイツとソビエトの2か国に分割され、ポーランドは消滅することになる。1939年9月1日グダニスク近郊のヴェステルプラッテのポーランド軍陣地への砲撃を手始めにドイツ軍とスロヴァキア軍が、9月17日にはソ連軍が東部国境を越えてポーランド侵攻を開始してポーランド軍を撃破し、ポーランド領土はナチスドイツ、スロヴァキア、ソビエト連邦、そしてソビエト占領域内からヴィリニュス地域を譲られたリトアニアの4か国で分割占領された。ポーランド亡命政府は当初パリ次いでロンドンに拠点を移し、戦中のポーランド人は国内外で様々な反独闘争を展開した。

独ソ戦でソ連が反撃に転ずるとドイツ占領地域はソ連軍によって解放されていった。1944年8月にソ連軍の呼びかけによりレジスタンスポーランド国内軍やワルシャワ市民が蜂起するワルシャワ蜂起が起こったが、亡命政府系の武装蜂起であったためにソ連軍が救援せず、約20万人が死亡して蜂起は失敗に終わった。1945年にポーランドはソ連の占領下に置かれた。ポツダム会談の決定によりポーランド人民共和国に定められた領土は、東部のウクライナ・ベラルーシ西部をソ連に割譲し代わりにオドラ川以西のドイツ領であるシロンスクなどを与えられるというものであった。

ポーランド人民共和国[編集]

旧国境と新国境

1945年5月8日から1989年9月7日までの44年間は、マルクス・レーニン主義のポーランド統一労働者党(PZPR)寡頭政治を敷くポーランド人民共和国の共産主義時代であった。

1945年5月8日、ドイツ降伏によりポーランドは復活、その国の形は米・英・ソのヤルタ会談によって定められた。

カティンの森事件ポーランド亡命政府は、ソ連の発表の受け入れを拒否。スターリンは亡命政府と関係を断絶した。ソ連主導のルブリン政権が新たなポーランド国家となった。また領土が戦前と比べて大きく西方向に平行移動した。ソ連はポーランド侵攻以来占拠していたポーランド東部を正式に自国へ併合した代わりに、ドイツ東部をポーランドに与えた。これはスターリンが、992年ボレスワフ1世が確定したポーランド公国国境の回復に固執した結果で新しい国境線はボレスワフ1世時代の国境線の位置に非常に近いものとなった。軍事的理由から、ドイツとの国境線はほぼ最短となるように調整された。これにより、敗戦国ドイツは戦前の領土の25%を失なった。現在の領土の西側3分の1近くが戦前のドイツ領である。

1952年ポーランド人民共和国PZPR一党独裁制の政党となり、ソ連の最大で最も重要な衛星国となった。恐怖を伴ったポーランドのソ連型化が執行され、政治、教育、文化、一般市民の生活などソ連をモデルに構造改革された[29]

1950年代~1980年代の典型的なポーランドの様子、国営商店に並ぶ市民

政府は主に西側諸国からの借入れを繰り返し、無計画な経済政策と国家の物財バランスに基づいた計画によって配分される体制の計画経済により急激なインフレ急騰をまねき、食料・物資不足が長く続いた。1973-74年のオイルショックもかさなり、借入れによる市場拡大や経済成長は短期間で終わる。その国内経済を補う為、更なる借金をして、政府は1980年までに230億ドルの膨大な負債をかかえる。この様な状況により、闇市が盛んになり欠乏経済(英語版)を発達させ、市民によるデモ、ストライキ、暴動などが頻繁に起こった[29]。社会退廃は、生物学的環境と心身の健康上で酷い悪化を伴い死亡率は上昇した。PZPRは、高インフレや貧困な生活水準、市民の怒りと不満により再び社会的爆発の勃発を恐れた政権は、自ら統制できないシステムで困惑し力の無さを感じた[30]

1981年-1983年ポーランドの戒厳令英語版の期間に政府は反政府を潰す為に戒厳を導入、市民の通常の生活は劇的に制限され[31]、数千人のジャーナリストや反対勢力活動家は投獄、他100人[31]ほど抹殺された。夜間外出禁止令、国境封鎖、空港閉鎖、電話回線の遮断、政府による郵便物内容検査などが執行。軍裁判所は、偽造情報発信者達を逮捕した[32]。 戒厳令後も、市民の自由権は酷く制限された。軍事政権により価格は引き上げられ、深刻な経済危機となる。 経済危機は、主な食料・日用品・生活必需品・物資の配給制となり平均所得は40%下落した[33]。西洋の娯楽品の入手は非常に厳しかったが、それも一層困難化した[34]

共産主義政権により、民族を問わずポーランドに居住する住民全てを対象に財産の国有化が行われ、これらドイツ人が残した不動産も国有化された。ソ連、チェコスロバキア東ドイツハンガリーなどの同じ東側諸国の様に集団農場と個人農地は国有化された[35]。小規模個人農家や多品種少量生産を主とする農業も定着していたため現在もほぼこの構造は変わっていない。しかしEU加盟後、ポーランド政府により個人農家の縮小と廃業化が行われている。

一方、ソ連に併合された旧ポーランド東部地域では、国境変更にともないポーランド系住民120万人が退去してポーランドに移住してきた(ポーランド人人口の移動(1944-1946)英語版)。

ポーランドを訪問する教皇ヨハネ・パウロ2世

冷戦中、ワルシャワ条約機構や、1949年1月、西側のマーシャル=プランに対抗するものとして設立されたコメコン(経済協力機構)に参加。

ワルシャワ大学前での「連帯」運動

ソ連の支配する体制による抑圧に抵抗する市民による民主化運動はこの時期拡大していった。1979年6月にポーランド人ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が故国ポーランドを訪れ、マルクス・レーニン主義無神論英語版の政府に宗教を弾圧されていた国民は熱狂的に迎えた。1980年9月17日には独立自主管理労働組合「連帯」が結成された。

第三共和国[編集]

レフ・ヴァウェンサ(ワレサ)第三共和制初代大統領

1989年6月18日円卓会議を経て実施された総選挙(下院の35%と上院で自由選挙実施)により、ポーランド統一労働者党はほぼ潰滅状態に陥り、1989年9月7日には非共産党政府の成立によって民主化が実現し、ポーランド人民共和国と統一労働者党は潰滅した。この1989年9月7日から現在までは、「第三共和国」と呼ばれる国家であり、民主共和政体を敷く民主国家時代である。

行政マネージメントの欠如、生産構造の悪さ、物資の欠乏は労働者のモラルを低下させ、働き盛り年代である640,000人が1981年-1989年の間に難民となり他国へ移民した[36]

共産主義政権からの膨大な借金と経済危機がますます深刻化、政治を不安定化させた[37]。西側諸国の機関は、すでに破産しているポーランド政府には貸付を延長しなかった、ヤルゼルスキの下、借金は1980年までの230億ドルが400億ドルになった[38]

ポーランド政府は、西側諸国や日本などの先進国に食糧や経済・技術支援を強く要請し国民の飢餓を逃れた。

1990年11月14日には統一ドイツとの間で国境線を最終確認する条約が交わされ(旧西ドイツは、旧東ドイツとポーランド人民共和国が1950年7月6日に交わした国境線画定条約の効力を認めていなかった)、ドイツとの領土問題は終了した。

1993年、第二次世界大戦からポーランドに駐留していたロシア連邦軍(旧ソビエト連邦軍)が、ポーランドから全面撤退した。

1997年には憲法の大幅な改正が行われ、行政権が大統領から首相へ大幅に委譲され、首相が政治の実権を握ることとなった。

1999年NATOに加盟した。

2004年5月1日欧州連合 (EU) に加盟した。

レフ・カチンスキ第三共和制第4代大統領

2005年欧州連合 (EU) の権限拡大に懐疑的で、経済における自国民の利益擁護と、共産主義時代から引き継がれたシステムや人事の完全撤廃を掲げた、高齢者、低学歴層、小規模農家、国営大企業の経営者や従業員からの支持の強いキリスト教民主主義カトリック保守主義政党「法と正義」が総選挙で勝利し、農村型の大衆主義政党「自衛」、カトリックのレデンプトール会系の国民保守主義の小政党「ポーランド家族同盟」とともに保守・大衆主義連立政権を発足させた。

同時に行われた大統領選挙では最大のライバルであるドナルド・トゥスク(「市民プラットフォーム」)との間で決選投票を行った、レフ・カチンスキ(「法と正義」)が当選した。

しかし、ヤロスワフ・カチンスキ率いる連立政権は政治路線を巡ってなかなか足並みがそろわず、政権運営が難航するとともに、国際社会においても欧州連合ロシアと軋轢を起こした。その後連立政党「自衛」の党首アンジェイ・レッペルの収賄疑惑がカチンスキ首相に伝えられると、首相は政権維持を惜しまず2007年9月7日に議会を解散する。

この解散を受けて2007年10月21日に行われた総選挙では、欧州連合 (EU) との関係強化、ユーロ導入に積極的で若者、高学歴層、商工民、新興企業の経営者や従業員からの支持が強い都市中道右派政党「市民プラットフォーム」が勝利を収める。

一方で、大きく議席数が変化することが少ないと言われるドント方式比例代表制の選挙にもかかわらず、それまでの政権運営に失望した有権者によって「法と正義」は大幅に議席を失ってしまう。また、連立政権に参加すると急速に有権者の支持を失っていった「自衛」と「ポーランド家族同盟」といった国民保守主義大衆主義的な小政党は、この2007年選挙で議会における全ての議席を喪失した。

ブロニスワフ・コモロフスキ第三共和政第5代大統領

この選挙の結果、ポーランド議会(セイム)の会派は議席の多い順に、

  1. 都市型中道右派政党の「市民プラットフォーム」(209議席)
  2. キリスト教民主主義保守主義政党の「法と正義」(166)
  3. 中道左派中道の政党連合「左翼と民主」(53)
  4. 農村型中道右派政党の「ポーランド農民党」(31)
  5. ドイツ民族政党の「ドイツ少数民族」(1)

と、整理された。

最大政党の「市民プラットフォーム」の議席は過半数(231議席)に満たなかったため、中規模専業農家の支持する農村型中道右派政党「ポーランド農民党」と連立政権を発足。首相は「市民プラットフォーム」の若い党首ドナルド・トゥスクが就任。

2009年9月1日には、二次大戦勃発70周年式典が開かれ、ポーランドからはドナルド・トゥスク首相が出席した[39]。同じ2009年11月27日には、「法と正義」のヤロスワフ・カチンスキ党首が提案した、「鎌と槌」や「赤い星」など共産主義のマークを禁止する法律が可決された[40][41]。しかしこれは公的機関における使用禁止措置であり、民間では制限されておらず、自由に使える。たとえば観光都市クラクフでは共産主義的な雰囲気の残っているところを観光客が楽しむための旅行会社さえあり、共産主義のマークを問題なく使用している[42]

2010年4月10日カティンの森事件70周年の追悼式典に出席するため向かったレフ・カチンスキ大統領夫妻、それに94人の政府高官の代表団は、ロシア西部のスモレンスク郊外で発生した政府専用機墜落事故で死亡した。

この事故を受けて、ポーランド下院(セイム)議長で「市民プラットフォーム」所属のブロニスワフ・コモロフスキ憲法に従い大統領代行に就任。大統領選挙6月に急遽行われることになった。

EU加盟[編集]

ヨーロッパ連合(EU)
シェンゲン協定加盟国

2004年5月1日、ポーランドは欧州連合 (EU) に加盟した。

2007年12月21日には国境審査が完全に撤廃されるシェンゲン協定に加盟し、他のシェンゲン協定加盟諸国とポーランドの間での陸路での国境審査が撤廃された。2008年3月30日には空路での国境審査が撤廃され、これで他のシェンゲン協定加盟諸国とポーランドの間での全ての国境審査が撤廃されたことになる。

現在では、ポーランド人ならばパスポートなしでシェンゲン協定加盟国同士の往来が可能であり、シェンゲン協定加盟国に一度入国した旅行客はどのシェンゲン協定加盟国からでも国境審査なしでポーランドに自由に出入国をすることができる。

2014年12月1日ドナルド・トゥスクEU大統領に就任。

政治[編集]

制度[編集]

大統領宮殿(ルボミルスキ家ラジヴィウ家旧邸)
ポーランド下院(セイム)

政治体制共和制国家元首大統領(任期5年)であり、直接投票によって選出される。かつては大きな政治権力を託されていたが、1997年憲法改正により政治の実権は首相に移り、現在は外交の場で象徴的に出席する程度である。下院で可決した法案の拒否権があるが、下院が再度可決した場合にはその法案は成立する。軍の最高司令官でもあるが、これも象徴的な役職にすぎない。

行政は、1997年制定の憲法では閣僚評議会(内閣)が「ポーランド共和国の内政及び外交政策を実施する」(第146条1項)、「政府行政を指揮する。」(第146条3項)となっているため[43]閣僚評議会議長(首相の正式名称)が強大な政治的権力を有して実際の国政を行う議院内閣制になっている。首相は大統領が任命するが、14日以内に議会の下院に当たるセイム (sejm) の信任を受ける必要があるため(憲法第154条2項)、実際には議会の多数派から選ばれる。閣僚は議会の多数派から、首相の提案に基づき大統領が指名する。現在の首相はベアタ・シドゥウォ

立法はセイム(議会)とセナト(元老院)の二院制議会 (Zgromadzenie Narodowe) によって行われる。

下院(セイム、Sejm)
議会」の意。定数460名。下院は立法の役割が主体であり、政党の資質や能力が大事であるとの考えからドント方式非拘束名簿式比例代表制。議席獲得には全国投票の合計で政党が5%以上、選挙委員会(政党連合)は8%以上の得票が必要。シングルイシュー政党(全体の政策や理念でなく特定の政策のみで集まった人々の政党)の出現や少数政党の乱立、といった事態を未然に防止するため。少数民族の大半を占めるドイツ系住民の民族優先枠として、ドイツ民族政党は最高2議席まではこの最低得票率ルールから除外される(ドイツ民族政党は前回の総選挙で獲得票数が少なかったため、現在は1議席のみ確保している)。立法府として、セイムは日本の衆議院に相当し、上院より優先される。
各党の議席数(定数460)[44]
上院(セナト、Senat)
元老院」の意。定数100名。上院は立法や行政の監査の役割が主体であり、政党よりも議員個人の資質や能力が重要であるとの考えから、完全小選挙区制
各党の議席数(定数100)[45]
  • 法と正義 (Prawo i Sprawiedliwość, PiS) - 63
  • 市民プラットフォーム (Platforma Obywatelska, PO) - 33
  • ポーランド国民党 (Polskie Stronnictwo Ludowe, PSL) - 1
  • 無所属 - 3

カチンスキ大統領の飛行機事故死で大統領選挙の決選投票が2010年7月4日行われた。中道右派「市民プラットフォーム」のブロニスワフ・コモロフスキ下院議長が、故大統領の兄で保守政党「法と正義」のヤロスワフ・カチンスキ前首相を破り当選した。就任する8月11日までは後任の下院議長のグジェゴシュ・スヘティナが大統領代行を務めた。

ポーランド政治知識[編集]

  • 1791年に、ポーランドは世界初の教育省を設置した。[要出典]
  • 同年5月3日にポーランドの議会(セイム)で採択されたことからこの名がある5月3日憲法は、近代的な成文国民憲法としてヨーロッパで最初のものであり、世界でも米国憲法に次ぐ2番目のものとして知られている。[要出典]
  • 1918年にポーランド人のイレーナ・コスモフスカは世界初となる女性大臣(社会相)に任命された。[要出典]

国際関係[編集]

国際連合 (UN)、欧州連合 (EU)、シェンゲン協定シェンゲン情報システム (SIS)、北大西洋条約機構 (NATO)、経済協力開発機構 (OECD)、世界貿易機関 (WTO)、欧州安全保障協力機構 (OSCE)、欧州電気標準化委員会 (CENELEC) に加盟している。

中欧の大国であり、ヨーロッパの東西・南北双方の中央に位置し、バルト海の南岸という要衝にあることから、ヴァイマール三角連合 (Weimar Triangle)、ヴィシェグラード・グループ (V4)、環バルト海諸国評議会 (CBSS)、中欧イニシアティヴ (CEI) 、東ヨーロピアン・グループ(EEG)英語版 といった地域国際機関にも加盟している。

ロシア連邦との関係[編集]

中世から、侵略し侵略されるという関係。何度もポーランド・ロシア戦争が起こり、ポーランドは1度モスクワを占拠した。20世紀にはソ連の衛星国としソビエト化された共産主義時代を経て、年代により反ロシア主義的な風潮もあった。しかし、2014年のウクライナ危機以降、ロシア連邦の強大な軍事力に対する虞が高まっている[46]

近現代史における日本との関係[編集]

日本学[編集]

1919年ワルシャワ大学に日本語講座が開かれた。以来、同大学東洋学部の「日本韓国学科」は、中国研究と中国語学科の一分野として、韓国語学科と共に学科は維持され、日本語が教えられている。2002年には、同学科は天皇皇后の行幸啓を受けたほか、2008年には日本テレビ放送網の「1億人の大質問!?笑ってコラえて!」の「世界日本語学校の旅で」でポズナン大学日本語学科とともに、日本語を学ぶ大学生たちが紹介された。

また、ポーランド第二共和国初代国家元首ユゼフ・ピウツスキの兄ブロニスワフ・ピウスツキは、樺太流刑になったことを契機に、樺太から北海道へ渡り、多くの日本の文化人、政治家と交流しつつ、アイヌの研究に業績を残した。

日本による戦間期のポーランド人孤児救出[編集]

日本は戦間期、765人のポーランド人の孤児をシベリアから助けたことがある[47]。当時、多くのユダヤ系ポーランド人孤児らもシベリアに搬送されていた。

ポーランド人聖職者の訪日[編集]

また、カトリック教会聖職者のマキシミリアノ・コルベは、日本で布教活動を行い「けがれなき聖母の騎士会」を日本に導入した。同会の出版社「聖母の騎士社」や、コルベに続いて布教に訪日したポーランド人宣教師によって創設された仁川学院聖母の騎士高等学校は21世紀を迎えた現在も存続している。

コルベと共に、布教のために訪日したゼノ・ゼブロフスキー修道士は、長崎で原爆に被爆したのちも日本に留まり、戦災孤児など貧民救済に尽力した。同じポーランド人の教皇ヨハネ・パウロ2世1981年に訪日した際、病床のゼノに面会し、功績を称賛した。初めて訪日したローマ教皇ヨハネ・パウロ2世はポーランド人であり、東京では「世界最初の原子爆弾の傷跡がいまだにはっきり残るこの国で、『あなたがたに平和』と言うキリストの言葉は、特別に力強く響きます。この言葉に私たちは答えなければなりません」と日本語で挨拶し[48]広島市長崎市を訪問。広島においては「戦争は死です。生命の破壊です」と世界平和の構築を訴えた。

軍隊[編集]

ポーランド軍は

ポーランド陸軍主力戦車
レオパルト2A5

の4軍種と憲兵隊の合計5グループから構成され、4軍種では常時約10万人が活動し、予備役は約24万人。国防省が統括し、憲法で規定された最高司令官はポーランド大統領である。

このうちポーランド特別軍は機動的活動を主要任務とする軍で、作戦機動部隊 (GROM)、第1奇襲部隊 (1 PSK)、海兵隊 (Formoza)、特別兵站部隊の4つから構成される。

徴兵制は廃止され、志願制が導入されている。これによってコンパクトながら高度な専門知識と技術を持つ国軍を作り上げることを目指している。

2009年の予算は118億ドルでこれは世界第19位、国内総生産 (GDP) の2%弱を占める。1989年の民主化後もソ連から購入していた装備を引き継いだが、自国を含む北大西洋条約機構 (NATO) 同盟国で製造される最新装備への完全転換を急いでいる。

地方行政区分[編集]

著名な経済学者イェジ・レグルスキの構想の下1999年イェジ・ブゼク政権が行った地方自治の大改革において県 (województwo) が整理され、ポーランドではそれまであった49県が16県にまで一気にまとめられて穏健な地方分権が成立した。県の下位自治体として郡 (powiat) が合計373、グミナと呼ばれる地方自治体基礎組織 (gmina) が合計2489ある。

ポーランドの県区分図

(アルファベット順)

主要都市[編集]

Map of Poland ja.png
都市 人口
1 ワルシャワ マゾフシェ県 1 710 055
2 クラクフ マウォポルスカ県 754 624
3 ウッチ ウッチ県 747 152
4 ヴロツワフ ドルヌィ・シロンスク県 633,000
5 ポズナン ヴィエルコポルスカ県 556 022

地理[編集]

マズールィ湖水地方
ヴィエブジャ大湿地帯の風景
ポーランドはコウノトリの国
全世界のコウノトリの4分の1がポーランド国内で繁殖する
世界でもビャウォヴィエジャの森にのみ生息する野生のヨーロッパバイソン

西でドイツ、南でチェコスロヴァキア、東でウクライナベラルーシリトアニアと接していて、北東ではロシアカリーニングラード)とも国境を接している。北はバルト海 (Morze Bałtyckie) に面している。

南部を除き国土のほとんどが北ヨーロッパ平野であり、全体が非常に緩やかな丘陵地帯となっていて独特の景観を有する。平均高度は173 mである。南部は山岳地帯で、タトラ山脈にはポーランドで最も高いリシ山(標高2499 m)がある。南部の国境近くにはカルパティア山脈タトラ山脈ベスキディ山脈英語版を含む)やスデート山地(ポーランド語およびチェコ語でスデーティ (Sudety) を含む)がある。深いが多く国立公園や県立公園として維持管理されている。東北部からベラルーシにかけて広がる「ビャウォヴィエジャの森」は「ヨーロッパ最後の原生林」とされる、北部ヨーロッパには珍しく全体に広葉樹が生い繁る巨大な森で、ヨーロッパバイソン(ポーランド語で「ジュブル」)やヘラジカ(ポーランド語で「ウォシ」)をはじめとした多数の大型野生動物が生息する。ポーランドにある9300もののうち大きなもののほとんどは北部と中西部に集中している。北東部、北西部、中東部、中西部、南西部には特に湖が集中する湖水地方があり、美しい景観を有する。また湿原が特に多く、そのうち最大のものは「ヴィェブジャ大湿原」で、釧路湿原の10倍以上の面積がある。これらの湿原は国立公園や県立公園として維持管理されている。多くの水鳥が生息する。

西南部にはヨーロッパ最大の砂漠がある。

河川は以下の通り。

  • ヴィスワ川 (Wisła)
  • オドラ川 (Odra)(オーデル川)
  • ヴァルタ川 (Warta)
  • ブク川 (Bug)
  • ナレフ川 (Narew)
  • サン川 (San)
  • ノテチ川 (Noteć)
  • ピリツァ川 (Pilica)
  • ヴィェプシュ川 (Wieprz)
  • ブブル川 (Bóbr)
  • ウィナ川 (Łyna)
  • ヌィサ・ウジツカ川/ナイセ川 (Nysa Łużycka)
  • フクラ川 (Wkra)
  • ドゥナイェツ川 (Dunajec)
  • ブルダ川 (Brda)
  • プロスナ川 (Prosna)
  • ドゥルフェンツァ川 (Drwęca)
  • ヴィスウォク川 (Wisłok)
  • フタ/チャルナ・フタ川 (Wda/Czarna Wda)
  • ドラヴァ川 (Drawa)
  • ヌィサ・クウォヅカ川 (Nysa Kłodzka)
  • ポプラト川 (Poprad)
  • パスウェンカ川 (Pasłęka)
  • レガ川 (Rega)
  • ブズラ川 (Bzura)
  • ヴィスウォカ川 (Wisłoka)
  • オブラ川 (Obra)
  • ビェブジャ川 (Biebrza)
  • ニーダ川 (Nida)

地質[編集]

クラクフ=チェンストホヴァ高原のオイツフ国立公園

ポーランドの地質構造は、6000万年前に起きたヨーロッパ大陸とアフリカ大陸の衝突と、北ヨーロッパの第四氷期によって形成された。このときスデート山地カルパティア山脈が形作られている。北部ポーランドのモレーンの景観は主にロームから成る土壌によるものである。氷河期に形成された南部の河川の谷は黄土を含んでいる。クラクフ=チェンストホヴァ高原ピェニヌィ山地西タトラ山地は石灰岩で構成される。高タトラ山地ベスキド山地カルコノシェ山地花崗岩玄武岩で構成される。南部のクラクフ=チェンストホヴァ高原はジュラ紀の石灰岩から成る。

気候[編集]

バルト海に面した北西部は温帯気候であるが、東部や南部の山岳地帯では、冬季の間は河川が凍結する亜寒帯気候となる。降水量は平均しており、季節による変動が少ない。

経済[編集]

古い街並みの向こうに高層ビルが並ぶ首都ワルシャワ
ポーランドのGDP (PPP) 推移。1990年代には2千億ドル台だったGDP、2013年には4倍以上の9千億ドル近くまで上昇している

ポーランド経済は、2004年EUメンバーシップ獲得後、EU内の先進地域と貧しい地域の格差を縮める目的であるEU構造ファンド (EU Structural Funds) の融資獲得により経済成長を遂げている。失業率はEU平均を超えながら、経済の豊かさを比較する指標とされる1人当たりの国内総生産額のGDPは、著しくEU平均以下のままとなっている[49]

世界金融危機の余波[編集]

若年人口の多さに支えられて、近年は毎年4~6%前後の高成長を見せていたが、世界的な金融危機の余波を受けたため、2009年の成長率は、欧州委員会 (EC) の予測では−1.4%、国際通貨基金 (IMF) の予測では−0.7%、欧州復興開発銀行 (EBRD) の予測では0%、ロイター通信調査のポーランド国内外の民間金融機関の平均的な予測では+0.8%、ポーランド財務省の予測では+1%前後とされていた。

ヨーロッパ域内各国については軒並み大幅なマイナス成長が見込まれているが、GDPに対する対外債務残高や短期対外債務残高、金融機関の不良債権、個人の外貨建てローン残高が少なく(家計向けローンに占める外貨建のシェアは約40%、家計向け外貨建てローンは名目GDPの15%未満[2])、国内人口が大きいため輸出依存度が比較的低く国内需要が大きいという特徴があるポーランドは、通貨ズウォティの急落によって輸出競争力も回復してこの景気後退をうまく切り抜けると予想されており、ヨーロッパの国々のうちでは最も高い数値の成長率予測をあらゆる調査で得ている国の一つであった。

2009年の結果[編集]

その後ポーランドの2009年成長率については、経済協力開発機構 (OECD) の発表によると、大方の予想をはるかに上回る1.7%と判明(のちに1.8%へ上方修正)し、この年の欧州連合 (EU) 加盟国でプラス成長率を達成した唯一の国であることが明らかになった。OECD加盟34カ国においても、ポーランドの他にプラス成長率を達成したのは韓国 (0.2%) とオーストラリア (1.3%) の2カ国のみであり、2009年のポーランドはOECD加盟国最高の成長率を叩き出したことになる。中央銀行であるポーランド国立銀行が世界金融危機の前の世界金融バブルの時代の非常に早い時期(2001年頃)にはすでにバブルの到来を察知し、それ以来市中銀行に対して様々な貸し出し規制策を導入していた[50]

2009年、ポーランド政府は大きく被害を受けた国内経済のために、IMFから205億ドルを借り入れた[51]。ポーランド・ウクライナ開催UEFAユーロカップ2012では、関連施設・インフラ建設準備や住宅バブルに向け、西欧や諸外国から大きな投資を受けた、このインフラ投資事業により世界金融危機の大きな被害を免れた[52]。だが世界的な金融危機も反映し、住宅投資バブルは不発となり投資家の予測に反する結果に終わった。

2010年は世界中で行われている景気対策を目的とした大規模な金融緩和のため、ポーランドの第二四半期成長率は+3.5%を記録したため、ポーランド政府とポーランド国立銀行は景気の過熱と資産価格上昇の可能性やそれに伴う高いインフレの可能性を懸念し始め、公的部門の財政再建路線の強化、金融引き締め政策、貸出規制の強化、といった対応策を考慮している。2014年、GDP成長は1.3%。

展望[編集]

2004年EU加盟後、ポーランドはEU内でも西欧諸国より低い賃金水準を持つことから、他の中東欧国同様にEU内の「工場」、そして。さらに、現在ではその高い教育水準を生かして研究開発施設をポーランドに設けようとする企業もあるようである。[要出典]

また、EU加盟後、さらにポーランドから多くの労働者が主にEUの先進諸国に出稼ぎに行っている。他のEUの中東欧国同様、主に単純労働者としての雇用が先行している。一部ではホワイトカラーとしての雇用もみられ、財を成すものも現れた。これまで本国経済の堅調に支えられてポーランドへ帰国する者が徐々に増加していたが、昨今の世界的な金融危機の余波で国内外の経済情勢が激変しているため、ポーランド本国でも就職の機会が少ないのではないか、職を得ても収入が低いのではないか、あるいはポーランド国内であっても自分の出身地とは離れた地方でないと求人していないのではないか、と考えて帰国をためらう動きも出てきた[3]。しかし、ポーランド政府は国内産業の長期的な発展を確実にするため道路や通信などといったインフラの整備を急ピッチで進めているため[4]、外国へ出ている出稼ぎのうち未熟練労働者の祖国へのUターンを積極的に奨励している。ポーランドにおけるインフラ整備や教育など経済発展の基礎作り事業は、規模が巨大であるにもかかわらず資金リスクがないのが特徴である。これは政府や民間からの資金調達に加えて、EUからインフラ整備や教育などポーランド事業を支援するために膨大な補助金(EU構造ファンド、英:EU structural funds)が下りているからである。政府は2010年度より緊縮財政を行っているが、これは主に国営企業民営化による新規株式公開 (IPO) で多くを賄うことになっており、歳出規模を削減するというわけではない。また、インフラ整備プロジェクトは主にEUなどから資金が確定して拠出されている。これまで国内で9万のプロジェクトに86億ユーロの支援が行われ、13000もの一般企業、数千キロの道路建設、鉄道路線や各地の主要駅の改修や建て替え、無数の歴史的建造物や遺跡の整備といった事業がEUから潤沢な資金援助を受けている。また、61万人のポーランド人学生、260万人の一般のポーランド人がEU資金の恩恵を受けている。2007年から2013年にかけての間でポーランドがEUから補助金を受け取る事業の総数は、ドイツに次いでヨーロッパ第2位である[5]。このほかにEUからは農業補助金や行政補助金などがポーランドへ渡されている。ポーランド政府が、「ポーランドへ帰ろう!」キャンペーンを張って国外にいるポーランド人の帰国を熱心に促しているのは、これらの大事業のために膨大な人手が要るためである[6]

評価順位[編集]

2010年、ECER-Banque Populaireが18カ国37都市の4500人のCEOを含む17万人の企業家を対象に調査では、欧州で最もビジネスに適した都市の第3位にワルシャワがランクインした(1位はフランクフルト、2位はマルメ、4位はロンドン、5位はブリュッセル)。この調査では各都市の企業家精神育成、起業支援、経営支援、私的な金融体制、公的な金融体制、助成金、不動産、生活の質、道路、通信インフラ、などの項目で調査された。ワルシャワは全般的に高得点を挙げたが、特に起業家への支援体制が優れていると評価され、企業家精神育成部門(経営相談、経営者組織、ウェブ、メディア)で6位、起業した経営者に対する支援部門(法律相談、税務相談、業務支援)で4位、評価が最も低かったのは環境部門で、評価の対象となった全37都市のうち16位であった。ポーランドでは現在のドナルド・トゥスク政権と与党「市民プラットフォーム」の方針として国を挙げて特に起業支援と中小企業の育成に力を注いでおり、その数は国内全企業の半分で、全就労者の3分の2を雇用し、GDPの80%を占めている[53][54]

2015年版、フォーブスの「ビジネスに理想的な国ランキング」、世界146の国と地域を対象に、財産権の保証、イノベーションの多寡、税率テクノロジーの発展具合、汚職の有無、個人的自由、通商の自由、通貨の自由、官僚主義の度合い、投資家の保護、株価実績からなる全11の分野で評価した結果、ポーランドは40位となった[55]

2011年、国際連合は、平均余命、識字率、就学率、国内総生産により評価する人間開発指数 (HDI)、加盟193カ国の内187カ国中、39位[要出典]

税制[編集]

法人税は19%である。所得税は非常に簡単な2段階の累進課税方式で、課税所得に応じて18%あるいは32%となっている。国内経済悪化のため税率改正され、付加価値税2011年1月1日より23%を基本税率とした複数税率で、ほかに食品、農産物、医薬品、建築資材、観光サービス、書籍等にかかる8%、7%、5%の3つの税率があり、対象の品目によって税率が異なる。

工業[編集]

PESA(ペサ)社製ED-161型
インターシティー用の大型旅客電車
クリスマスツリーの飾り物の一つ「ボンプカ(英語:ボーブル)」

EU内の「工場」として、非常に多岐にわたる第二次産業が行われている。特にパーソナルコンピュータテレビなどの情報家電の生産は盛んで、ヨーロッパのテレビ生産の3割をポーランドが占めている。乗用車トラックバス路面電車鉄道車両などの生産も盛んで、ソラリスPESANewagなどといったポーランド地場企業が積極的に外国へ進出している。

小規模の手工業においては、琥珀製品やクリスマスツリーのガラスの飾り物[56]の生産は世界一で、日本もこれらの製品を多量に輸入している。

農業[編集]

付加価値の高い品目の生産[編集]

国土面積のうち、農地の占める面積は42.1%である。ポーランドの農業は伝統的に大規模化されておらず、約90%が個人農家である。共産主義時代には集団農場化と農地の国有化が行われた[35]

特筆すべき農産品目[編集]

ヨーロッパの実に90%を占めるヤマドリタケ(本ポルチーニ茸)、327万トン(2010年)で世界第1位の生産量を誇るライ麦[57]、それぞれ高いシェアを持つフランス向けエスカルゴや日本向け馬肉および羽毛、ポーランドが世界の収穫高の半分を占め同時に世界最大の輸出国となっているカシス(ブラックカラント、クロスグリ)や世界最大の輸出高を挙げるイチゴといったベリー類(他にラズベリーは世界4位、ビルベリーは欧州2位、その他セイヨウスグリクランベリーブラックベリーブルーベリーなどで世界トップクラスの生産高)、などがある。

鉱業[編集]

ポーランドは鉱物資源が豊富であり、石炭を中心として多種多様の非鉄金属に恵まれている。石炭の生産量は世界第8位である。ポーランドのバルト海沿岸は琥珀の世界最大の産地で、グダンスクには世界の琥珀製品製造業の85%が集中している。

ヨーロッパではロシアに次いで豊富な石炭や、自国の消費量の2/3をまかなう天然ガスなどを有する。他にも重要な鉱物資源において世界シェアを有している。また、国内に豊富に存在する石炭のガス化技術(石炭ガス)の研究開発にも熱心に取り組んでいる。

また、西南部ドルヌィ・シロンスク県のクレトノ鉱山などではウランを豊富に埋蔵しており国内の原子力利用を長期的に賄える。ポーランド国内ではこれまで原子力発電は行われていなかったが、近年は原子力発電計画が具体化しつつあり、2020年までに最初の原子力発電所が稼働する見込みとなっている。

また、近年ポーランドで巨大なシェールガス埋蔵量が確認されている。その量は少なく見積もってポーランドにおける天然ガス消費量の300年分に相当する5.3兆m3に上ると見られている。現在、国内外の複数のエネルギー企業が試掘を申請している。ポーランドのシェールガスは経済だけでなく国際政治における勢力地図を根底から塗り替える可能性がある。

日系企業の現地進出状況[編集]

2014年、ポーランドに進出している日系企業はトヨタブリヂストン味の素シャープ東芝、など約261社。その他のEU中東欧国への進出は、チェコ 約186社、ハンガリー 約140社、ルーマニア 約100社[58]

ポーランドへの移民労働者[編集]

ウクライナ人[編集]

公式な統計では2009年には12万人のウクライナ人がポーランドで就業登録している。しかしこれは氷山の一角に過ぎず、後述のように正規であっても未登録だという場合もあるので正確な規模は分からない。ワルシャワ大学の調査によるとポーランド国内最大の移民グループはウクライナ人女性で、彼女たちに家計の全てを頼る家庭がウクライナには多いという。彼女たちのほとんどは家政婦清掃婦、農産物収穫などの単純労働に就いている。2007年にはポーランドの家庭の実に15%がウクライナ女性を正規のメイドとして雇ったという。ウクライナロシアベラルーシモルドバの4カ国の国民は6か月を上限として、ポーランド政府からの労働許可がなくてもポーランド国内において無条件・無登録で就業することが許されている[59]。2013年には、17万人のウクライナ人が就労目的で1年未満滞在し、永住は633人[60]

ポーランドが近々ロシアのカリーニングラード州から、ロシア人の入国に対しビザ無し渡航を許可することをEUが懸念している。イギリスのテレグラフ新聞によると、EU条例に反し、ロシア人をビザなしで入国許可することで、国境検査が撤廃されたシェンゲン協定他国地域へもロシア人の不法入国不法移民不法就労が増加し、そしてロシアなどからの格安タバコ密輸により、EUは税金約85億ポンドを損失する。いっぽうポーランドは、以前からウクライナに対し全面的なビザ無し渡航許可をしている、「これによってウクライナからの密輸やウクライナ人による犯罪行為や違法就労がポーランド国内で増加したのは小規模でローカルだ。ビザなし渡航を許可しただけで犯罪が増えることはない、彼らが行う犯罪はせいぜいズボンにロシアのウォッカを隠し持って密輸するぐらいのことであり、ましてやこのビザ無し渡航実施によるロンドンパリへの悪影響など微々たるものだ」とポーランド政府は主張した[61]

観光[編集]

クラクフ旧市街の中央広場
マウォポルスカ県の山間部のホテル
西ポモージェ県ジュツェヴォの城館ホテル

治安状況[編集]

2013年における経済協力開発機構 (OECD) 加盟国の治安ランキングによると、ポーランドの治安の安全性は、36カ国中日本に次いで2位、3位はイギリス。[62]

OECD加盟国内、人口10万人当たりの殺人発生率の比較は、ポーランド(2010年)17位、1.3件。(日本、0.5件)[63]

国連UNODCによる人口10万人当たりの発生率では、強盗率(2012年)70カ国中、37位 43.67件。(日本、64位 2.87件)[64] 

暴力行為の発生率も低く、OECD加盟国中で最も少ないほうから3位[65]

観光ガイドブックや外務省の海外渡航情報のウェブサイトではポーランドの治安が悪いような印象を読者に与えるような記述がなされていることが多いが、実際のところは上記のようにポーランドの犯罪被害は稀で、アイルランドイギリスアイスランドエストニアオランダデンマークスイスベルギースウェーデンノルウェーといった、一般に「治安が良い」と考えられている国々よりも犯罪被害率が低いことは2000年代前半から事実である[66]

このすでに低い犯罪被害率でさえも年々さらに急速に低下しており(2004年から2010年にかけての7年間で25%の減少)、ポーランドの警察への国民の信頼度は非常に高い[67]。犯罪被害率は2013年から2014年にかけての1年間でもマイナス14%と劇的な低下が見られ、特に暴行、器物損壊、強盗はいずれも1年間でマイナス約20%の大幅な低下を続けている[68]

ポーランド人にはヨーロッパ人のうち犯罪被害に遭うのを最も恐れる用心深い気質があるとされており[69]、ポーランドの刑法では他人を大声で罵ったり侮蔑的な言葉を投げかけたときは暴行罪が成立する[70]

ヨーロッパ人の間に定着した偏見デマの類として、「ポーランドでは自動車の盗難が多い」と言われるが、実際のところポーランドの自動車の盗難率はイギリスデンマークアイルランドスペインポルトガルオランダアイスランドイタリアノルウェーなどといった国々より低い[66]

国民[編集]

民族構成(ポーランド)
ポーランド人
  
94%
シレジア人
  
6%
43. TKB - Pilsko z Żywca 05.JPG
Z krakowskie.jpg
43. TKB - Pilsko z Żywca 04.JPG

2011年の国勢調査で人口約3851万人、93.52%がポーランド人カシュープ人グラル人を含む)。中世、ヤギェウォ朝ポーランド・リトアニア共和国などの東欧諸国の連合国時代には多民族国家であった。少数民族は、1番人口の多いシレジア人、主に東部に在住するウクライナ人(ルーシー人)、リトアニア人ベラルーシ人(ルーシー人)、ルシン人リプカ・タタール人などがいる。

ユダヤ人の本格的なポーランド移住は第1回十字軍の行われた11世紀初頭に始まった。都市化促進政策の一環として、ユダヤ人もドイツ人と一緒に招聘された。ヨーロッパ各国や中東で非キリスト教徒であるために激しく迫害され、13世紀に布告された「カリシュの法令」と、東方植民によるドイツ都市法マクデブルク法によりユダヤ人の権利と安全が保障されていたため移住した。ホロコーストまではポーランドには世界の70%がポーランドに住みポーランド文化に影響を与えたが、20世紀に入ってもユダヤ教の古来の教えを実践しながら生活していた伝統的なユダヤ人たちの多くはホロコーストにより虐殺された。多くはホロコーストや共産主義反ユダヤ主義を避けてアメリカ大陸やイスラエルなどに移住した。2010年の国内ユダヤ人在住者数は3,200人となる[71]。ポーランド人の多くは先祖にサルマタイ人がいる[72]

国民のほぼ全てが母語ポーランド語としている(ポーランド化)、併合した国の国民や多くの移民政治難民を受け入れた過去のポーランド王国の政策を反映して、彼らの先祖は西スラブ人系原ポーランド人(レフ人)、シレジア人リトアニア人ロシア人ルーシ人ルーシ族ヴァリャーグルシン人ユダヤ人ウクライナ人ベラルーシ人サルマタイ人タタール人ラトビア人バルト人スウェーデン人チェコ人スロバキア人ドイツ人ハンガリー人ロマ人アルメニア人モンゴル系民族トルコ系民族など。家系的にもそれら多民族が通婚し、国の歴史・地理・文化的にも多民族の伝統が融合していたり互いに同化し他国にはない独特の「ポーランド文化」とその国民心理を形成している。約40万種類あるといわれるポーランド人のはその語源に先祖となったこれら各民族の出自の名残りが見られる。そのため単一民族、実際は東・中欧では民族のるつぼでポーランド人の多くはスラヴ系であると同時に、多民族と混血している。

言語[編集]

ポーランド語は印欧語のスラヴ語派西スラヴ語群に属する言語で、チェコ語スロヴァキア語上ソルブ語下ソルブ語などと共通のグループに属し、そのうち、カシューブ語などと共にレヒト諸語(レフ諸語)を構成する。表記はロシア語等で用いられるギリシャ語から作られたキリル文字ではなく、12世紀に導入したラテン文字のアルファベット。

少数民族の語源には、イディッシュ語ヘブライ語シレジア語カライム語ルシン語ロマ語タタール語がある。かつてのポーランドで広く話されていたルーシ人ルーシ族ヴァリャーグ)のルーシ語第二次世界大戦ホロコーストヴィスワ作戦を経て国内ではほぼ消滅したようである。

外国語は、英語は小学校1年からの履修科目となっていて、第二外国語としてドイツ語やフランス語、ロシア語などがある。

「クロシニツァ町/クロシュニッツ町へようこそ!」の看板
ポーランド語とドイツ語の併記、オポーレ市近郊

歴史的にドイツ語圏との貿易その他の経済関係があるため、標準ドイツ語の履修者は安定して多い。旧ドイツ領土など南部オポーレ地方ではドイツ語が地方公用語として認められ、交通標識などはポーランド語と両語表記されているが、住民のドイツ語はドイツ本土の標準ドイツ語とはかなり異なる方言で、普段の社会生活でポーランド語を使う。

冷戦時代、ロシアの支配下でのソ連化の義務教育により現在でも多くの40代以上のポーランド人はロシア語を解する。1989年東欧革命共産主義が破壊し、その後1990年代にロシア語の習得者数は激減した。ロシア語(東スラヴ語群)、ポーランド語(西スラヴ語群)で同じ原語のスラブ語に属し各言語はとてもよく類似し他のスラヴ語を修得するのは比較的容易とされる。

リプカ・タタール人は、ポーランド化しタタール語を話さなくなっている。タタール人の家系でノーベル文学賞を受賞した小説家・叙事詩人のヘンリク・シェンキェヴィチはポーランド語の小説を書いた。

人工言語のエスペラント語ワルシャワで発祥した。

宗教[編集]

聖マリア教会主祭壇(クラクフ)、1489年完成
リーヘン大聖堂(2004年完成)、世界最大級の教会建築

米国CIAの調査によると、国民の約95%がカトリック教徒であり、うち75%が敬虔な信者である。このように、ポーランド人の価値観や日常生活にカトリックの信仰が根付いている。史上初のポーランド出身の教皇ヨハネ・パウロ二世は絶大な尊敬を集めた。なお、ローマ・カトリック教会とは別にポーランド・カトリック教会という教派も存在する。そのほか、プロテスタント正教会ユダヤ教イスラム教(中世からの伝統を持つリプカ・タタール人が緩やかな信仰に基づいた生活をしている)、アジア人の移民ではベトナム人が多く仏教の信者もごく少数わずかながら存在する。

保健[編集]

平均寿命は77.1歳[73]。かつてはユニバーサルヘルスケアが実現されていたが、法改正により保険料不払い者が資格を喪失するようになり、2013年には加入率91.6%に転落した[73]

教育[編集]

クラクフ大学コレギウム・マイウス(ラテン語:「大カレッジ」)、現在も使用されている15世紀の建築

1999年9月1日より、従来のロシア化に構造改革された共産主義教育からの8・4制を改め、6・3・3制に移行した。

教育水準[編集]

ポーランドの特徴の一つはその教育水準にある。先進国ほどの所得水準でないにもかかわらず、2012年の経済協力開発機構OECD生徒の学習到達度調査 (PISA) 参加65カ国中、数学13位、科学9位、読解10位[要出典]

大学進学率[編集]

2008年、若者の50%が大学を卒業し学位を取得する(日本は39%)。この数字はOECD加盟国では4位(日本は12位)である[74]。特に近年では若者の95%が大学を卒業し学位を取得するという調査結果もあり、教育熱が非常に高い[75]。ポーランドの階級社会では、高卒はホワイトカラー職に就けない。しかし大学卒業しても多くは就職先がなく、西欧先進国などへ労働移民者とし移住しているのが現状である[60]

国立大学の授業料は無料。 IT教育に熱心な国の一つで、2014年に開催された第一回コーディング世界大会ではポーランドのチームが優勝した[76][77]

若者の国[編集]

ポーランドの人口ピラミッド
ポーランドの街は子供が多い

経済協力開発機構 (OCED) 加盟国に共通する問題としてポーランドにも少子化の傾向がある。その反面、若者が多い。人口の50%が35歳以下、35%が25歳以下、20%が15歳以下である。また学生全体の87%が外国語を習得している[7]高等教育にも熱心な国民性で、大学進学率は約70%にも上り[8]、19歳から24歳までの人口全体の55%が学生である[9]

ポーランド人の苗字[編集]

ポーランド人の苗字は非常に多く、総数40万以上に上り[78]、ポーランドの人口は3800万人程度であるから、同じ苗字を持つ人の数は平均すると100人を下回ることになる。NowakやKowalski(女性はKowalska)といった苗字を持つ人が最も多いとされるが、それでも絶対数は非常に少なく、これらの苗字を持つ人に出会うことは稀である。

同じ姓でも男性形と女性形で活用語尾が異なることがある。婚姻の際、男性は自己の姓を用い続けることが多いが、法律では男性女性どちらでも姓を変えることができる。婚姻後の姓はどちらかの姓に統一してもよいし(夫婦同姓)、変えなくてもよい(夫婦別姓)し、婚姻前の自分の姓の後に結婚相手の姓を繋げてもよい(別姓、複合姓)[79]。ただし複合姓にする場合、3つ以上の姓をつなげてはいけない[80](1964年)。

ポーランド語の姓には-ski(/~スキ、女性は-ska/~スカ)という語尾が多い。この-skiというのは名詞形容詞のように「~の」という意味で使う場合に付く接尾辞である。英語の-ish(Polandに対するPolish)やドイツ語の-isch(Japanに対するJapanisch)などと同様、インド・ヨーロッパ語族の言語がもともと共有する用法。たとえばWiśnia(意味は「」)からWiśniowoあるいはWiśniow(意味は「桜村」)という村名が派生し、そこからWiśniewski(意味は「桜村の~」)という意味の姓が生まれる。Jan Wiśniewskiさんならば、意味は「桜村のジョンさん(Janは英語のJohn)」となる。-skiの使い方はドイツ語のvon~やフランス語のde~などの使い方と同じであるため、中世には外国人向けの人名紹介では、たとえばWiśniewskiの場合von Wiśniowoやde Wiśniowoなどのような表記も見られた(アルベルト・ブルゼフスキの記事を参照)。

また、アメリカ合衆国など英語圏の国家に移住すると、しばしば苗字をそのまま英語に翻訳したものを登録して使うようになる(NowakをNewman、KrawczykをTaylorに改名など)。その結果、現地の社会に同化していく。

苗字人口上位20(2002年)は以下の通り。

  1. Nowak(ノヴァク; 203,506人; 英語の"Newman")
  2. Kowalski(コヴァルスキ; 139,719人; 英語の"Smith")
  3. Wiśniewski(ヴィシニェフスキ; 109,855人; 英語の"Cherry")
  4. Wójcik(ヴイチク; 99,509人; 原義は「戦士」)
  5. Kowalczyk(コヴァルチュィク; 97,796人, 原義は「"Smith"の息子」)
  6. Kamiński(カミニスキ; 94,499人; 英語の"Stone")
  7. Lewandowski(レヴァンドフスキ; 92,449人; 原義は「ラベンダー」)
  8. Zieliński(ジェリニスキ; 91,043人; 英語の"Green")
  9. Szymański(シュィマニスキ; 89,091人; 英語の"Simon")
  10. Woźniak(ヴォシニャク; 88,039人; 英語の"Cart")
  11. Dąbrowski(ドンブロフスキ; 86,132人; 英語の"Oak ")
  12. Kozłowski(コズウォフスキ; 75,962人; 原義は「雄ヤギ」)
  13. Jankowski(ヤンコフスキ; 68,514人; 英語の"John")
  14. Mazur(マズル; 66,773人; 原義は「マズーリ地方」)
  15. Wojciechowski(ヴォイチェホフスキ; 66,361人; 原義は聖アダルベルトの本名Wojciech)
  16. Kwiatkowski(クフャトコフスキ; 66,017人; 英語の"Flower")
  17. Krawczyk(クラフチュィク; 64,048人; 原義は「"Taylor"の息子」)
  18. Kaczmarek(カチュマレク; 61,816人; 英語の"Inn")
  19. Piotrowski(ピョトロフスキ; 61,380人; 英語の"Peter")
  20. Bagiński(バギニスキ; 60,492人; 英語の"Master")

隣国に対する感情[編集]

世論調査会社Homo Hominiが2010年12月に行った調査によると、ポーランドと陸続きで国境を接する7か国(ドイツチェコスロバキアウクライナベラルーシリトアニアロシア)全ての人々のうち、ポーランド人が最も親近感を持つのは、順に以下のようであることが分かった(複数回答)[81]

  1. チェコ人 (39%)
  2. スロバキア人 (32%)
  3. ドイツ人 (23%)
  4. リトアニア人 (21%)
  5. ロシア人 (15%)
  6. ウクライナ人 (14%)
  7. ベラルーシ人 (10%)

文化[編集]

食文化[編集]

ポーランド料理は、基本的には家庭料理が主で、宴会料理や狩猟料理(ビゴスなど)などがある。歴史的に多くの民族からの影響があり、類似する料理は主に東欧、その他にドイツ、オーストリアとユダヤ料理となる[82]。周辺のさまざまな民族の食習慣がポーランド文化に交わる。一般的に、料理の量が多い。ローストした大量の肉塊ばかりではなく、キャベツや根野菜、主食のイモを多く使う。基本の4種類のハーブやスパイスを使った料理もよくあるが、主にクリーム状の濃厚なソースを頻繁に使う。日本人には寒冷地方特有の高塩分食で、脂身、ラードやバターを多く使用する料理となる。

文学[編集]

ヴロツワフ公ボレスワフ1世
ヴロツワフ公ボレスワフ1世が后にかけた言葉
「ぼくが粉を引くから、きみは休みなさい」
("Day ut ia pobrusa, a ti poziwai.")

「ポーランド文学」といえば一般にポーランド語文学を指すが、ポーランドの文学の伝統はかつてのポーランド=リトアニア共和国における多民族社会を反映して、ポーランド語だけでなく、ラテン語イディッシュ語リトアニア語ウクライナ語ベラルーシ語ドイツ語エスペラント語といった、多くの言語による多様性を特徴としている。ここでは主にポーランド語の文学について述べる。

ヤン・ドゥウゴシュ
ヤン・コハノフスキ

中世ポーランドにおいては当初ラテン語による記述が主流であった。ポーランド人によってラテン語で書かれた本で、現存するもののうち最も古いものは13世紀歴史家クラクフ司教でもあったヴィンツェンティ・カドゥウベックによる年代記である。ポーランド語による記述で現存するもののうち最も古いものは13世紀半ばにドイツ人修道院長によって書かれたラテン語の年代記に現れる、12世紀のヴロツワフボレスワフ1世に掛けたという「ぼくが粉を引くから、きみは休みなさい ("Day ut ia pobrusa, a ti poziwai")。」という労わりの言葉である。この頃から古いポーランド語による記述が多く現れるようになった。

15世紀に入るとカトリック司祭で年代記作者でもあるヤン・ドゥウゴシュの文筆活動がポーランドにおける文学の発展に大きく寄与した。1470年頃にはポーランドで最も初期の複数の印刷工場が業務を始めている。これに続いてルネサンス時代がポーランドでも始まり、以後は書き言葉としてもポーランド語がポーランドにおける主流となった。この時代にポーランド語文学の発展に最も貢献したのは詩人ヤン・コハノフスキで、彼の作った多くの詩がポーランド語の標準的な語法と認識されるようになった。コハノフスキは19世紀以前のスラヴ人世界における最も偉大なる詩人であると評価されている[83]

アダム・ミツキェヴィチ

続くバロック時代啓蒙時代を通じてポーランド語文学は発展したが、ポーランド分割によってポーランド=リトアニア共和国が消滅した後は他国支配に対するポーランド独立運動の意識と結びついて非常に独特なロマン派文学の発展を見ることになる。この「ポーランド・ロマン派」の代表とされるのがアダム・ミツキェヴィチである。ポーランドの国民的叙事詩「パン・タデウシュ」は近現代ポーランドの苦難の時代にも常に愛読され、1999年にアンジェイ・ワイダによって『パン・タデウシュ物語』(日本語題)として映画化された。

ヘンリク・シェンキェヴィチ
ヴワディスワフ・レイモント

ポーランド立憲王国と旧リトアニア大公国の各地域で行われた、旧ポーランド=リトアニア共和国復活運動である対ロシア帝国1月蜂起1864年にロシア軍によって残酷に鎮圧されるとポーランドにおけるロマン派の流れは衰退し、実証主義の時代となる。ポーランド実証主義文学者のうちで最も広く知られているのは『クオ・ヴァディス』(のちにマーヴィン・ルロイ監督によってアメリカのハリウッドで同名映画化)の作者ヘンリク・シェンキェヴィチと『農民』の作者ヴワディスワフ・レイモントという、2人のノーベル文学賞受賞者である。またこの時代は、当時のポーランド社会にたくさん存在したユダヤ人コミュニティーを中心にイディッシュ語文学も多く発表されるようになり、ブルーノ・シュルツイツホク・レイブシュ・ペレツなどは多くの人気作品を遺した。

ジョセフ・コンラッド
スタニスワフ・レム

一方、このポーランドの苦難の時代に多くのポーランド人が海外で生活するようになったが、没落シュラフタ(ポーランド貴族)のテオドル・ユゼフ=コンラート・コジェニョフスキは船乗りとしての生活のあとイギリスに定住して 英語で小説を書いて次々と発表し、現代英国文学の代表的文豪の一人として、ジョセフ・コンラッドの筆名によって世界中で愛されている。コンラッドの作品の多くはアメリカやイギリスで映画化されているが、たとえば『闇の奥』と『決闘者たち』は、それぞれフランシス・コッポラ監督の映画『地獄の黙示録』、リドリー・スコット監督の『デュエリスト/決闘者』の原作である。

ヴィスワヴァ・シンボルスカ

第二次世界大戦を経て共産主義時代から民主化までの抑圧の時代は文学が反体制運動の主流となる。体制側の体裁をとった「若きポーランド」と呼ばれる文学運動も巧妙な反体制活動の側面があった。この時代の代表に詩人のチェスワフ・ミウォシュと、同じく詩人で日本歌川広重浮世絵に触発された詩作で世界的に有名となったヴィスワヴァ・シンボルスカという2人のノーベル文学賞受賞者、さらに小説『灰とダイヤモンド』(アンジェイ・ワイダによって同名で映画化)の作者として有名なイェジ・アンジェイェフスキ、『尼僧ヨアンナ』 (イェジー・カヴァレロヴィチ監督によって同名映画化)の作者として知られるヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチなどがいる。また空想科学文学(サイエンス・フィクション)の分野ではスタニスワフ・レムが新地平を開き、代表作『ソラリスの陽のもとに』は『惑星ソラリス』としてソ連アンドレイ・タルコフスキーよって、さらに『ソラリス』としてアメリカスティーブン・ソダーバーグによってそれぞれ映画化されたことで世界的に知られている。

リシャルト・カプシチンスキ

この時代は共産主義体制を嫌い外国へ亡命する人が続出したが、こういった人々の中には、アメリカ合衆国に移住しそこで英語で小説を多く書いて現代アメリカ文学前衛的存在となり、『異境(原題:Steps)』や『庭師 ただそこにいるだけの人(原題:Being There)』(ハル・アシュビー監督、ピーター・セラーズ主演で『チャンス』として映画化)など、現在でもその作品が若者を中心にカルト的人気を獲得している、ユダヤ系ポーランド人のジャージ・コジンスキーとして知られるイェジ・コシンスキなどがいる。

またこの時代よりポーランド現代文学の特色であるノンフィクション文学が勃興した。その代表としては、日本でも『サッカー戦争』や『帝国』などの著作で知られ、世界中で「20世紀の最も偉大なジャーナリスト」(英ガーディアン紙)[84][85]、「世界で最も偉大な報道記者」(独シュピーゲル紙)、「現代のヘロドトス」(独フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙)[86]などと評価される、リシャルト・カプシチンスキがいる。

音楽[編集]

『ボグロジツァ』の楽譜(1407年)

ポーランド音楽の理論的発展の最も初期は13世紀ノートルダム楽派の影響を受け、この時代の楽譜がポーランド南部の街で発見される。宗教音楽は『ボグロジツァ英語版(神の母)』の歌曲がこの時代に作られたものと推定されている。この曲はポーランド王国リトアニア大公国プロイセン連合と同盟してドイツ騎士団を討った1410年グルンヴァルトの戦いでも合戦の際に歌われたと伝えられる。『ブーク・シェン・ロージ英語版(神が生まれる)』は歴代のポーランド王が戴冠する時に演奏されたポロネーズの曲で、後の1792年にはフランチシェク・カルピンスキ英語版によってポーランドのクリスマス・キャロルとしての歌詞が作られた。

16世紀になるとポーランド音楽は急速に発展した。クラクフ王宮であるヴァヴェル城の宮廷音楽たちが活躍した。5歳で家族とともにイタリアからポーランド王国に移住してポーランドに帰化したディオメデス・カトー英語版、親戚を通してイタリアの最新の音楽情報を得、これをポーランド音楽に応用していった。王国の首都ワルシャワに移された16世紀の終わり頃より多数のイタリア人音楽家がポーランドにきて長期滞在する間社交の場に参加し、演奏会を催したり講義をした。ポーランドの音楽家たちはバロック音楽のスタイル、最新の楽器通奏低音といった技法などの情報に触れ大いに刺激された。17世紀初頭からはイタリアの影響を受けてオペラが盛んに製作されるようになり、ワルシャワは音楽文化や舞台文化の一大中心地として発展していった。しかしポーランド王国の国力が急速に衰退していった17世紀の終わり頃よりポーランド音楽の多くの部分が停滞した。

ピクニックで踊るポーランド貴族たち

ポーランドの民俗音楽については19世紀より曲の収集と整理が行われた。オスカル・コルベルク英語版はポーランド文化の復興を目指して熱心に各地を周って曲を収集、20世紀半ばポーランドが共産主義体制となると民俗音楽に関しても国営の音楽・舞踊団が数多く結成された。マゾフシェ音楽・舞踊団とシロンスク音楽・舞踊団は共産主義が過去のものとなった現在においても活動している。これらの団体は各地方の民俗音楽をまとめて扱うため、地方性が薄い側面があるといわれるが、外国人にとってはコンサートホールでポーランドの伝統音楽に触れる良い機会を提供している。現在のポーランド各地には各コミュニティーの自発的な音楽・舞踊団が存在しており、国営音楽・舞踊団ほど大規模な演奏ではないものの、地方色豊かな音楽文化を見せてくれる。ポーランド国内の各地で民俗音楽祭が頻繁に開催され、そのような場で彼ら小規模の音楽・舞踊団が活躍している。

ショパン
バグパイプを演奏するグラル人の男性(右)(ザコパネの音楽祭で)

フレデリック・ショパンは、マズルカポロネーズを在住国フランスで作曲した。3拍子のダンスは主に北東部で、2拍子のダンスは南部でよく見られる。ポロネーズは元々ポーランド貴族舞踏会での演奏されるもので、フランス語で「ポーランド風(のダンス音楽)」で、ポーランドでは「ホゾーニ (Chodzony)」と呼ばれるゆったりとしたリズムの絢爛なダンス音楽。ポーランド貴族たちの舞踏会や宴会で参加者が入場する際に演奏され、このリズムに乗って貴族たちがそれぞれ男女ペアとなり腕を組んで、控え室から会場へとゆったり踊りながら入場し着席するのである。その後ポロネーズはポーランドにおいても国に広まった。

踊るグラル人(ザコパネの音楽祭で)

ポーランド南部の街ザコパネを中心とする山岳地方の一帯は「ポトハレ地方」と呼ばれ、ここでは19世紀よりポーランドの芸術の中心地の一つとなった。民俗芸術だけでなく、現代音楽の作曲家のカロル・シマノフスキ。シマノフスキはこの地方の住民である「グラル人(「山の人」という意味)」の民俗音楽の収集や、それをモチーフとした作曲も行っている。彼らは弦楽器やバグパイプを用いて盛んに音楽を演奏する習慣があり、現代ではバイオリンチェロを多用する。また彼らはリディアンモードの音階を用い、歌うときにはこれに良く合う独特の歌唱法であるリディゾヴァニェを使う。ダンス音楽のクシェサニィ (krzesany) は早い動きを必要とするもので、また「山賊踊り」という意味のズブイニツキ (zbójnicki) はこの地方独特のダンスである。

A Maiden's Prayer.mid "乙女の祈り"[ヘルプ/ファイル],
MIDI, 3:05 minutes, 13 KB
ワルシャワ大劇場
シマノフスキ

19世紀初頭になるとポーランドのクラシック音楽のスタイルが確立された。ユゼフ・エルスネルフレデリック・ショパンイグナツィ・ドブジンスキ英語版を育てた。カロル・クルピンスキ英語版スタニスワフ・モニューシュコはポーランドのオペラ音楽を発展させた。また、1833年2月には当時世界最大の音楽施設であるワルシャワ大劇場が完成し、こけら落としとしてジョアキーノ・ロッシーニのオペラ『セビリアの理髪師』が演じられた。ヘンリク・ヴィエニャフスキユリウシュ・ザレンプスキが主な作曲家に挙げられ、テクラ・バダジェフスカはアマチュアで17歳で『乙女の祈り』がフランスで知られたとされる。

パデレフスキ

19世紀末から20世紀初頭にはヴワディスワフ・ジェレンスキミェチスワフ・カルウォーヴィチカロル・シマノフスキ、伝説のピアニストイグナツィ・パデレフスキ第一次大戦後に独立を回復したポーランド共和国の首相となった。ユゼフ・コフラーは十二音技法を開拓した。

第一次大戦後の時代は若い音楽家たちが芸術運動を開始し、グラジナ・バツェヴィチジグムント・ミチェルスキ英語版ミハウ・スピサックポーランド語版タデウシュ・シェリゴフスキなどが活躍した。イグナツィ・パデレフスキは政治家としての活動に身を投じた。映画『戦場のピアニスト』の主人公として有名なヴワディスワフ・シュピルマン大衆音楽の作曲家、ジャズ調の歌謡曲『ワルシャワの赤いバス (Czerwony Autobus)』がある。

ペンデレツキ
グレツキ

第二次大戦後の社会主義時代はタデウシュ・バイルトボグスワフ・シェッフェルヴウォジミェシュ・コトンスキ英語版ヴィトルト・シャロネック英語版クシシュトフ・ペンデレツキヴィトルト・ルトスワフスキヴォイチェフ・キラールカジミェシュ・セロツキヘンリク=ミコワイ・グレツキクシシュトフ・メイエルパヴェウ・シマンスキクシェシミール・デンプスキ英語版ハンナ・クルエンティ英語版エウゲニウシュ・クナピック英語版パヴェウ・ミキェティン英語版などが活躍した。 ジャズではクシシュトフ・コメダは同国出身のユダヤ系のロマン・ポランスキー監督の映画『ローズマリーの赤ちゃん』の映画音楽を担当した。

5年に一度開かれるワルシャワのショパンコンクールソポト国際音楽祭

プシスタネック・ウッドストック2012

また、プシスタネック・ウッドストック英語版(Przystanek Woodstock -「ウッドストック・バスストップ」の意)はヨーロッパの屋外音楽イベント。2010年8月1日にはポーランドを含むヨーロッパやアメリカなどから集まった615人のミュージシャンたちがリサイクル品で作った楽器で同時に演奏し、これが記録としてギネスブックに載ることになった[87][88]ヴロツワフジミ・フェスティバル (Jimi Festival)[89]では毎年世界中から数千人のジミー・ヘンドリックスのファンが集まり、ヴロツワフの旧市街広場で「Hey Joe」を演奏する。2009年には6300人が参加し世界で最も多い人数によるギターの合奏としてギネスブックに登録されたジミ・フェスティバル</ref>が、その後も毎年この祭りはギネス記録を更新し続け、2014年5月の大会では7344人が「Hey Joe」を演奏して、自分たちが昨年打ち立てたギネス記録(7273人)を塗り替えている。オポーレ国民音楽祭英語版は主にポーランド国内各地から数多くの民俗音楽団がオポーレに集まる、まだ共産主義であった1980年代のうちに既に民俗音楽部門のほかにロック部門とヒップホップ部門がある。

美術[編集]

映画[編集]

住居[編集]

田舎の木造住宅(南部のヴィスワ町)
ポーランドのアパート
ザコパネの木造住宅
地方の街の住居(東北部ヴァルミア地方)

ポーランド国内の都市の中心部は中世の街並みが保存維持されているが、外縁部の風景に共通するのは旧共産圏によく見られる四角い灰色のアパート群が多い。これは旧体制時代に建設されたもの。戦後、人口増加の対策として間に合わせに作られたものである。こぢんまりして、各戸の多くが前面と後面の両方に窓がある、欧州の寒い地方によくある防寒のため二重窓であったり、セントラルヒーティングシステムが付いている。物資不足の共産主義を反映し、壁が薄い建物もあり、近代的ではなく、使い勝手はあまり機能的ではない。近くには何軒かの店か酒屋・大衆食堂があったり、バスやトラムの停留所・公園・カトリック教会があるように設計されている。しかし一方、そういった近代アパートの存在がポーランドのよき文化的伝統に対する脅威となっているとの社会学的非難がある。地区のカトリック教会がある程度人々を結び付けている。

首都ワルシャワに関しては、今も共産圏時代の灰色のビルが中心街に数多く残っている。高度成長を背景に、一部では複数の不動産開発業者がビジネス街に富裕層向けマンションオフィスホテル複合施設を建設することになっており、今後数年の間に多数の高層ビルが新たに出現することになっている[10]

世界遺産[編集]

ポーランド国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が12件ある(そのうちドイツとにまたがっているものが1件)。ベラルーシとにまたがって1件の自然遺産が登録されている。

史上第1号の世界文化遺産リスト登録全8件のうち2件(クラクフ歴史地区ヴィエリチカ岩塩坑)がポーランドにある。

現在、世界遺産の暫定リストに4件が登録されている(そのうち1件は現在登録されている自然遺産の拡張である)。

祝祭日・年間行事[編集]

日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月1日 元日 Nowy Rok 新年。ニューイヤーパーティーなどが盛大に行われる。(休)
1月6日 3人の博士の日 Trzech Króli 三人の博士がイエス・キリストに会いに来たのを記念する日。
1月21日1月22日 おばあちゃんの日おじいちゃんの日 Dzień Babci・Dzień Dziadka 21日がおばあちゃんの日で22日がおじいちゃんの日
移動祝祭日 脂の木曜日 Tłusty Czwartek 脂っこいものを食べる日。2月中旬、謝肉祭直前の木曜。
移動祝祭日 復活祭 Wielkanoc 春の満月後の最初の日曜日と翌日の月曜日。キリストの復活を祝う日。クリスマスと並ぶ大きな祭日。2007年は4月8日と9日。(休)
5月1日 メーデー Święto Pracy (休)
5月3日 5月3日憲法」記念日 Rocznica Konstytucji 3 maja 1791年に制定された憲法を記念する日。 ※ヨーロッパで初めての憲法 (休)
5月26日 母の日 Dzień Matki
移動祝祭日 聖霊降臨の祝日 Zielone Świątki 復活祭後の7回目の日曜日。聖霊が使徒たちの上に下ったことを記念。2007年は5月27日 (休)
6月1日 子供の日 Dzień Dziecka
移動祝祭日 聖体の祝日 Boże Ciało 聖霊降臨節の10日後の木曜日。最後の晩餐を記念する。2009年は6月11日(休)
6月23日 父の日 Dzień Ojca
8月15日 聖母被昇天の祝日 Wniebowzięcie Najświętszej Marii Panny チェンストホーヴァ (Częstochowa) にあるヤスナ・グラ寺院 (Jasna Góra) へ、ポーランド各地から大規模な巡礼が行われる。(休)
11月1日 諸聖人の日 Wszystkich Świętych 聖人を祭る日。墓地で家族や親類の墓にろうそくを置く。(日本で言うお盆) (休)
11月2日 死者の日 Zaduszki 祖先の霊を供養する日
11月11日 独立記念日 Narodowe Święto Niepodległości ロシアドイツ,オーストリアからの独立を記念する日。(休)
12月6日 サンタクロースの日 Mikołajki Mikołaj(Nicolaus=サンタクロース)の日とされ、子供たちにプレゼントが与えられる。
12月24日 キリスト降誕祭前夜(クリスマス・イヴ Wigilia Bożego Narodzenia 教会でミサを行う。基本的に日本のクリスマス・イヴとは違い家族で過ごす。(日本のお正月のような雰囲気)この日は肉を食べてはいけないという慣わしがあり、伝統的に鯉を食べる。
12月25日12月26日 キリスト降誕祭(クリスマス Boże Narodzenie クリスマスの日。親戚や家族で集まる。(休)
12月31日 シルヴェスターの夜 Sylwester 大晦日に当たるが、日本のものとは異なる。家族や親戚、友人でパーティーを催したり、夜中の12時に花火を飛ばしたりする。

※(休)は休日

インターネット[編集]

Facebookとnk.plの激しい会員獲得合戦[編集]

ポーランドでは2006年11月に発足した独自のソーシャル・ネットワーキング・サービス (SNS)「nk.pl」(旧Nasza Klasa、「ぼくたちのクラス」)が盛んで総人口3800万人の3分の1に当たる1350万人がこれに参加しており、これは卒業した学校の同窓生同士の交流を主体としている。しかし、これと並行して「Facebook」も登録者数を伸ばしている。

ポーランドはSNSの利用が全世代にわたって定着している。世界的に比較して見ても、18-49歳にまでわたる世代でポーランドよりもSNS利用が定着している国はイギリスしかなく、ポーランドは世界第2位で、もちろんアメリカよりも高い。ポーランドのSNS利用率は全世代にわたって高く、世界的に見て高齢層の利用率が世界4位と高いが、若年層の利用率がそれ以上に高いため統計上は世代間の差が大きい結果になるという特異な現象が起きている[90]

最近は国産の「nk.pl」(旧「ぼくたちのクラス」)とアメリカ製の「Facebook」の間で激しい会員獲得競争が起きている。ポーランドでは、現実世界でのコミュニティー活動と深いつながりのある「nk.pl」(旧「ぼくたちのクラス」)は農村住民や高学歴の人々の間で人気があり、ネット上での活動に限定される傾向が強い「Facebook」は都市住民や低学歴の人々に人気があるという、はっきりした傾向が見られる[91]

ネット上のメディア[編集]

既存の新聞のインターネット版も充実している。特に新聞は投稿を歓迎しており、ほとんどの記事には投稿欄が付いている。投稿欄の文字数の制限は無いか、あるいは許容文字数が非常に多いため、読者による討論、あるいは記者を交えた討論が盛んに、かつかなり真剣に行われている。ポーランド語を除いては英語による記事や討論が多い。この読者たちが記者を巻き込んで、真剣かつ誠実に討論をする傾向はポーランドでは特に顕著に見られる。

インターネット上のメディアで英語版が最も充実しているのはポーランド国営ラジオ局のニュースサイト「Thenews.pl」である。

スポーツ[編集]

2009年バレーボール・ワールドリーグ、ポーランド-ブラジル戦

多くのヨーロッパ諸国同様サッカーの人気が高く、2012年にはウクライナと共催でUEFA欧州選手権2012が開催されたが、最も人気のある競技はバレーボールである。

その他、ボクシング陸上競技バスケットボールフェンシングハンドボールアイスホッケー水泳バレーボール重量挙げ総合格闘技などの競技が人気である。近年は、モータースポーツに対する人気も上がっている。

サッカーのロベルト・レヴァンドフスキヤクプ・ブワシュチコフスキウカシュ・ピシュチェク(3人共ドイツ・ブンデスリーガドルトムント香川真司のチームメイトだった)、F1のロバート・クビサ、女子バレーボールのアンナ・バランスカは日本でもよく知られている。

また、アダム・マリシュカミル・ストッフなどの活躍により、近年はスキージャンプの人気も非常に高くなっている。

著名なポーランド人[編集]

以下の人々はそれぞれの分野で世界的に知られている。

出典[編集]

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参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

政府
日本政府
大使館
観光その他