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リトアニア共和国 (1918年-1940年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
リトアニア共和国
Lietuvos Respublika (リトアニア語)
リトアニアの位置
リトアニア共和国の位置
国歌Tautiška giesmė(リトアニア語)
国民賛歌
公用語 リトアニア語
首都 カウナス事実上
ヴィリニュス法令上
大統領
1919年 - 1920年 アンターナス・スメトナ
1940年 - 1940年 ユスタス・パレツキス
首相
1918年 - 1918年 アウグスティナス・ヴォルデマラス
1940年 - 1940年 アンタナス・メルキース
変遷
独立宣言 1918年2月16日
共和国宣言 1918年11月2日
ソ連へ編入 1940年8月3日
通貨 リタス
現在  リトアニア
先代 次代
リトアニアの歴史

この記事はシリーズの一部です。
先史時代
バルト人
リトアニア王国 (1251年-1263年)
リトアニア大公国
ポーランド・リトアニア共和国
ロシア帝国
北西地域ヴィリナ県コヴノ県
リトアニア王国 (1918年) 
リトアニア・ソビエト社会主義共和国 (1918年-1919年)
リトアニア=白ロシア・ソビエト社会主義共和国 (1919年)
リトアニア共和国 (1918年-1940年)
リトアニア・ソビエト社会主義共和国 (1940年-1990年)
リトアニア共和国 (現代)

リトアニア ポータル

リトアニア共和国(リトアニアきょうわこく、リトアニア語: Lietuvos Respublika)は、ロシア革命中の1918年に独立を宣言した共和国。第二次世界大戦が起こると、1940年エストニアラトビアとともにソビエト連邦に占領・併合された。

リトアニア第一共和国および中部リトアニア共和国

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独立宣言後も諸外国との戦いが続けられたが(リトアニア独立戦争英語版)、1920年リトアニア共和国として民族自決による独立が諸外国から承認される。1920年には制憲議会リトアニア語版が招集された[1]

ポーランド・ソビエト戦争においてソビエトは、1920年5月にリトアニアに対する権利を永久に放棄し、リトアニアの独立と主権を承認した[2]

1920年7月12日にリトアニアはロシアと講和条約を結んだが、第二条付録でロシアとポーランドの戦争中に赤軍がリトアニア領を通過することを敵対行為とはみなされないとされた[2]。これにより、赤軍は1920年7月14日、ヴィリニュスを占領した[2]。さらにロシアのボルシェビキは、1920年8月には偽の身分証明書を持った秘密工作員2000人をリトアニア国内へ派遣し、反乱の準備を進めた[2]。だが、赤軍がワルシャワの戦いで敗北したことで反乱計画は中止された[2]

1920年10月7日には合意文書が調印されヴィリニュス地域はリトアニア領であるとされたものの、その翌日にはポーランド軍によって侵攻され、そのままポーランドに占領された。その後この地域には緩衝国家中部リトアニア共和国が建国されるも、1922年にポーランドに編入された。そのためリトアニア共和国の首都は憲法上はヴィリニュスと明記しつつも、カウナスが臨時首都とされた。この状況はその後1939年まで続いた。

戦間期リトアニアにおいては、リトアニア・キリスト教民主党リトアニア農民人民連合リトアニア社会民主党の3党が主要政党となった[3]。このうち最大党派はキリスト教民主党で、保守的な農民層を支持母体としていた[3]。農民人民連合もまた農民層を支持層としていたものの、キリスト教的価値観を重んじるキリスト教民主党とは異なり、世俗的な政策を掲げた[3]。社会民主党は都市労働者や知識人から支持されていたが、規模はそれほど大きくはなかった[3]。このほか、ユダヤ人政党やポーランド人政党も存在した[3]

しかしリトアニア共和国では議会制民主主義体制は長くは続かず、1926年12月16日に軍部によるクーデターが勃発[4]。初代大統領アンターナス・スメトナによる権威主義体制が成立した[4]1927年には政府に対する蜂起がタウラゲで起きたが、鎮圧された(タウラゲ蜂起)。1928年、スメトナは憲法を改正して自らの権力を強化した[5]。新憲法により大統領の任期は7年となった[5]。スメトナ体制においてはアウグスティナス・ヴォルデマラスが首相に就いたが、次第に両者は対立するようになっていった[5]1929年、スメトナはヴォルデマラスを解任し、スメトナの義弟であるユオザス・トゥーベリスリトアニア語版を首相に任命した[6]

1938年までリトアニアとポーランドの国交は断絶状態にあったが、1938年3月17日、ポーランド政府はリトアニアに外交関係の樹立を求める最後通牒を突きつけた[7][8][9]。リトアニア政府は19日、これを受諾した[8][注釈 1]

1939年3月、リトアニアはナチス・ドイツの干渉によってバルト海港湾都市メーメルを失う。更に同年アドルフ・ヒトラーヨシフ・スターリンの間で結ばれた独ソ不可侵条約の付属秘密議定書で、ソ連がバルト三国フィンランドを勢力圏に入れることが合意された[12]

1939年9月1日にドイツ、スロヴァキア、ソ連の3か国がポーランドを侵略した。リトアニアが主権を主張していたヴィリニュス地方はソ連の支配下に置かれたが、その後ソ連とリトアニアは10月に相互援助条約を締結し、ヴィリニュス地方はリトアニアに引き渡された。

ソビエト連邦への編入

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強制編入とリトアニア・ソビエトの樹立

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ドイツ軍のポーランド侵入によって第二次世界大戦が始まると、1940年夏、世界がドイツのパリ侵攻に注目している間に、ソ連はバルト三国を占領し、強制的にソ連に編入した[13]。編入の経緯は次のようなものである。

ソ連はポーランド侵攻後、リトアニアに赤軍基地の設置を要請した[12]。さらに1940年6月にはソ連共産党のモロトフが、リトアニアがラトヴィアやエストニアと反ソ連的軍事同盟を結び、赤軍兵士がリトアニアによって拷問されたという嘘に基づく非難を始めたあと、親ソビエト政権の樹立と赤軍の無制限駐留とを求め、拒否する場合は、軍事侵攻を開始するという最後通牒を手渡した[12]。また、ソ連は、自国の国境警備隊兵士が誘拐され、それに関わったとされるリトアニアの政治家の追放、投獄を要求した[9]。この誘拐事件はソビエトの自作自演と考えられている。既にソ連は陽動作戦を行うスパイ集団をリトアニアの各都市に投入していた[12]

1940年6月14日に開かれた閣議では、スメトナ大統領は主戦論を唱えた[9]が、政権内部はソビエトの要求を受け入れるのが大勢となった。翌日の6月15日、赤軍第3軍と第11軍がリトアニア侵攻を開始し、スメトナ大統領はアンタナス・メルキース英語版首相に大統領職を譲り、リトアニアは独立を失った[12]。スメトナはドイツ経由でアメリカに亡命した[9]。ソ連による強制編入に反対した者は弾圧され、抹殺された[13]

脚注

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注釈

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  1. 伊東孝之は、「ポーランドはリトアニアに最後通牒を突きつけ、事実上これを衛星国とした」と述べている[10]。これに対して吉野悦雄は、「リトアニアが屈服したのは事実であるが、屈服したのは「中部リトアニア」の領有権についてのみであり、国内の内政の主権がポーランドに従属したわけではない。「衛星国」という表現は適切ではない」と反論している[11]

出典

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  1. カセカンプ 2014, p. 178.
  2. 1 2 3 4 5 エイディンタスほか 2018, pp. 227–230.
  3. 1 2 3 4 5 カセカンプ 2014, p. 181.
  4. 1 2 カセカンプ 2014, p. 182.
  5. 1 2 3 カセカンプ 2014, p. 185.
  6. カセカンプ 2014, pp. 185–186.
  7. カセカンプ 2014, p. 204.
  8. 1 2 吉野 2000, p. 37.
  9. 1 2 3 4 畑中 1996, p. 55.
  10. 伊東 1988, p. 152.
  11. 吉野 2000, pp. 37–38.
  12. 1 2 3 4 5 エイディンタスほか 2018, pp. 294–302.
  13. 1 2 エイディンタスほか 2018, pp. 304–309.

参考文献

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  • 伊東孝之『ポーランド現代史』山川出版社〈世界現代史27〉、1988年。ISBN 9784634422704 
  • エイディンタス, アルフォンサス、アルフレダス・ブンブラウスカス、アンタナス・クラカウスカス、ミンダウガス・タモシャイティス 著、梶さやか、重松尚 訳『リトアニアの歴史』明石書店、2018年。ISBN 9784750346434 
  • カセカンプ, アンドレス 著、小森宏美、重松尚 訳『バルト三国の歴史——エストニア・ラトヴィア・リトアニア 石器時代から現代まで』明石書店〈世界歴史叢書〉、2014年。ISBN 9784750339870 
  • 畑中幸子『リトアニア——小国はいかに生き抜いたか』日本放送出版協会〈NHKブックス〉、1996年。ISBN 9784140017760 
  • 吉野悦雄『複数民族社会の微視的制度分析——リトアニアにおけるミクロストーリア研究』北海道大学図書刊行会、2000年。ISBN 978483296111-1