レニングラード包囲戦
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| レニングラード包囲戦 | |
|---|---|
1942年 包囲中のネフスキー大通りを歩くレニングラード市民達 |
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| 戦争:第二次世界大戦(独ソ戦) | |
| 年月日:1941年9月8日 - 1944年1月18日 | |
| 場所:ソビエト連邦・レニングラード市(現・サンクトペテルブルク) | |
| 結果:ソ連軍の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| 指導者・指揮官 | |
| 戦力 | |
| 725,000 | 930,000 |
| 損害 | |
| 不明 | 軍人 戦死 332,059 行方不明 111,142 市民 67万人ないし100万人以上[1] |
レニングラード包囲戦(レニングラードほういせん、ロシア語:Блокада Ленинграда ブラカーダ・リニングラーダ、1941年9月8日 - 1944年1月18日)は、第二次世界大戦の独ソ戦における戦闘のひとつ。
ドイツ軍はソビエト連邦第2の大都市レニングラード(現・サンクトペテルブルク)を900日近くにわたって包囲したが、レニングラードは包囲に耐え抜き、後にスターリンによって英雄都市の称号が与えられた。飢餓や砲爆撃によって、ソ連政府の発表によれば67万人、一説によれば100万人以上の市民が死亡した[2][3]。これは日本本土における民間人の戦災死者数の合計(東京大空襲、沖縄戦、広島・長崎を含む全て)を上回る。
目次
枢軸軍の侵攻[編集]
開戦[編集]
レニングラードは1939年当時で319万人の人口を擁し、ソ連第2の大都市であり最大の兵器生産地でもあった。独ソ開戦時の1941年6月22日時点で520の工場群と72万の労働者を有しソ連各地の発電所設備の8割を同市に依存していた。またソ連人民海軍バルト艦隊の根拠地でもあり鉄鉱石の輸入を北欧諸国に依存するドイツにとって同都市の占領は経済戦略上不可欠だった。1941年6月22日、ドイツ軍はソ連への侵攻作戦「バルバロッサ作戦」を開始した。アドルフ・ヒトラーはレニングラードの占領を作戦の最優先目標とし3つの軍集団のうち北方軍集団に攻略を命じた。開戦前バルト艦隊司令長官ウラジーミル・トリブツ海軍中将はドイツ人労働者の退去と国境での偵察情報からドイツ軍の侵攻を察知しモスクワの海軍人民委員ニコライ・クズネツォフ提督に戦闘警戒命令の発令を迫った。その日のうちにバルト艦隊、黒海艦隊、北洋艦隊に第2種戦闘警戒命令が発令されたがトリブツの求めた第1種戦闘警戒命令は拒否された。1941年6月22日にようやく国防人民委員から独ソ国境付近に布陣していたソ連軍に第1種戦闘警戒命令が発令されたがすでにドイツ軍の侵攻ははじまっていた。北方軍集団はまず西ドヴィナ川の橋梁確保をめざしマンシュタイン上級大将指揮下の第56装甲軍団がリガへ、ラインハルト装甲兵大将指揮下の第41装甲軍団がダウガフピルスへと進撃した。バルト地区の防衛を担当する北西正面軍は第11軍と第8軍に国境線の防衛を命じ第27軍に西ドヴィナ川を守らせた。ソ連軍はドイツ軍装甲部隊のスピードに対応できず第56装甲軍団は6月26日にダウガフピルスを占領し西ドヴィナ川の橋梁を確保し、両装甲軍団は7月9日にスターリン・ラインを突破した。一方スターリンはクリメント・ヴォロシ-ロフ元帥に北西・北方・レニングラードの三個戦線を統括させレニングラードの防衛を命じた。6月27日、レニングラードの労働者評議会は、市民を防御施設の建設工事に動員することを決定しドイツ軍の来襲までに木材障害物190km、鉄条網635km、対戦車壕700km、トーチカ5,000か所、塹壕25,000kmの防御施設を完成させた。ヴォロシ―ロフはルーガ川を防衛線としレニングラード市民を動員して人民義勇軍を編成した。第41装甲軍団はルーガ川を渡河し対岸に橋頭保を築いたが兵站の影響で足止めされ、第56装甲軍団と後続の歩兵軍団が追いつくと北方軍集団司令官ヴィルヘルム・フォン・レープ元帥は3つの打撃軍を編成し8月8日に攻勢を開始した。ルーガ川沿いに細く長く戦力を配置していたソ連軍はドイツ軍の攻勢に耐えられずルーガ川防衛線は各地で突破され崩壊した。8月21日第41装甲軍団がレニングラード近郊のクラスノグワルジェイスクにまで到達したが占領地区での残敵掃討のため第18軍と第16軍の到着がおくれレニングラード突入は見送られた。
フィンランド軍の侵攻[編集]
6月26日、フィンランドはソ連に対して宣戦を布告し、冬戦争の際にソ連に奪われたカレリア地方へ侵攻した(継続戦争)。フィンランド軍は9月7日までにレニングラードの北160kmまで到達したが、冬戦争以前の国境線を越えて前進することは控えた。9月4日にドイツ軍のアルフレート・ヨードルはフィンランド軍総司令官のマンネルヘイムを訪れ、レニングラードへの攻撃を要請したが、マンネルヘイムはこれを拒絶した。その後もドイツ軍とフィンランド軍との連絡が完成されることはなかった。
包囲の完成[編集]
ドイツ軍の急進撃とソ連側の混乱のために、レニングラード市民の疎開はほとんど進んでいなかった。8月30日にドイツ軍はネヴァ川に到達し、9月8日には中央軍集団から派兵された第39装甲軍団と第18軍が内陸部とレニングラードをつないでいた要衝シュリッセルブルクを攻略し全ての連絡線を完全に遮断した。ネヴァ川近郊のレニングラード外郭陣地も次々と陥落し、空襲によって市内178か所で火災が発生した。相次ぐ敗北に激怒したスターリンはヴォロシ―ロフを更迭しゲオルギー・ジューコフ上級大将にレニングラードの防衛を命じた。ジューコフは急造ながら優れた防御陣地を構築し混乱した守備軍をたてなおし自沈寸前だったバルト艦隊を移動砲台として有効活用した。ジューコフの懸命な努力によりレニングラード守備軍は態勢を立て直したが、同時にジューコフはドイツ軍の封鎖網を破るためネヴァ川への無理な攻勢を繰り返し多大な犠牲者をだした。北方軍集団がレニングラードに到達した時、消耗が激しく市街戦を遂行する体力はすでになかった。モスクワ方面への攻勢作戦もありヒトラーはレニングラードへの突入作戦を中止し封鎖と砲爆撃による破壊を命じた。9月12日にはモスクワへの攻勢に参加するため第56装甲軍団と第41装甲軍団が中央軍集団にひきぬかれ北方軍集団はレニングラード周辺に強力な包囲陣地を建設し包囲戦へと移行した。ラドガ湖方面を遮断し包囲を完成させるため第39装甲軍団がチフヴィンを攻略したがソ連軍は第4軍、第52軍、第54軍の3個軍を投入してチフヴィンを奪還した。こうしてソ連軍はかろうじてレニングラードへの唯一の補給路を確保した。
包囲戦[編集]
補給の途絶[編集]
連絡線の遮断によってレニングラードへの補給はほぼ途絶した。9月2日、市民への食糧の配給が削減され、肉体労働者は1日にパン600g、労働者は400g、その他の市民と子供は300gと定められた。9月8日の空襲では穀類や砂糖が焼失した。9月12日には、食料の残量は以下の通りと試算された。
- 穀類・小麦粉 35日分
- えん麦・粉物 30日分
- 肉類・家畜 33日分
- 油脂 45日分
- 砂糖・菓子類 60日分
同日、配給の再度の削減が実施され、肉体労働者は1日にパン500g、労働者と子供は300g、その他の市民は250gと定められた。陸軍とバルチック艦隊は備蓄を有していたが十分ではなかった。ラドガ湖に配備されていた河川艦隊は装備も十分ではなく、しばしばドイツ軍の空襲を受け、9月には穀物輸送船が撃沈された。輸送船は後に引き上げられ、濡れた穀物もパンを焼くのに使われた。小麦粉を使い果たした後は、セルロースや綿の実の絞りかすが食用に供された。馬の飼料用のえん麦も食用に回された。肉類も底をつき、内臓や皮革が料理された。市内のあらゆる空き地には野菜が植えられた。
9月末には石油と石炭も尽きた。唯一の燃料は倒木であった。10月8日には市の北方にある森林での木材の伐採が計画されたが、機材も作業施設もなく、10月24日までに木材伐採計画の1%が実施できたのみであった。電力供給も不足し、電力の使用は軍の司令部や地域委員会、防空拠点などを除き厳禁とされた。大部分の工場が操業を停止し、11月には全ての公共交通機関が運行を停止した。1942年の春には一部の路面電車が運行を再開したが、トロリーバスとバスは終戦まで再開しなかった。
冬が近づく頃、飢餓による死が襲ってきた。植物学者のニコライ・ヴァヴィロフの研究スタッフの1人は、食用にすることもできた20万種の植物種子コレクションを守ろうとして餓死した。ターニャ・サヴィチェワという当時12歳の少女は、12月から翌年5月にかけてレニングラードにいた肉親全員が次々と死んでいったことを書き残している(ターニャの日記)。レニングラードの街角は死体で溢れた。
やがて食料が切れた市内には飢餓地獄が訪れ、死体から人肉を食らう凄惨な状況が常態化した。人肉を売る店まで現れ、人々はそれで飢えをしのいだ。特に子供の人肉は美味とされたので、市内では子供の誘拐・殺人が横行したと言われる。
命の道[編集]
11月20日、ラドガ湖が結氷し、馬橇の輸送部隊が氷上を通ってレニングラードへ物資を送り届けた。その後トラックによる輸送も可能となった。氷上の連絡路は「命の道」(Дорога жизни ダローガ・ジーズニ)と呼ばれた。湖の対岸から市内へ物資が運び込まれ、市民の脱出も可能となった。
命の道は1942年4月24日までの152日間利用可能であった。この間に市民51万4千人、負傷した兵士3万5千人がレニングラードから脱出し、重要な産業設備も運び出された。命の道は対空砲と戦闘機によって防衛されたが、ドイツ軍の砲撃と空襲による脅威にさらされ続け、危険は高かった。人々は皮肉を込めてこれを「死の道」と呼んだ。
1942年の夏にはラドガ湖の湖底を通る長さ29kmの石油パイプライン「命の動脈」が敷設された。冬になると命の道は再開した。12月20日から馬の往来が始まり、12月24日から自動車輸送も始まった。氷上鉄道の建設も行われた。
解放へ[編集]
1943年1月12日、ラドガ湖南岸におけるソ連軍の反攻作戦(イスクラ作戦)が開始され、1月18日にはレニングラードへの陸上ルートが確保された。その後もレニングラードはドイツ軍による部分的な包囲下におかれ、爆撃と砲撃を受けたが、翌1944年1月にはソ連軍の攻勢によりドイツ軍は撤退し、包囲は完全に解かれた。1944年の夏にはフィンランド軍も開戦時の位置まで押し戻された。
影響と戦争中の役割[編集]
独ソ戦の開始から数週間でのソ連軍の敗退は連合国の人々を意気消沈させたが、レニングラードの抵抗は人々を勇気付けた。レニングラードは1945年にスターリンによって英雄都市の称号を与えられた。
包囲戦の犠牲者数については諸説がある。戦後のソ連政府による公式発表は死者67万人というものであったが、他の研究では死者は70万人から150万人、多数説としては110万人程度という推計値が示されている。犠牲者の多くはピスカリョフ記念墓地に埋葬された。
包囲戦の記憶は市民の心に暗い影を落とした。市民はそれまでレニングラードが文化都市であることを誇りとしてきた。図書館の蔵書や18世紀の骨董家具を燃やすか、それとも凍え死ぬかという選択は辛いものであった。一方、レニングラードが900日近くにわたって抵抗を続け、「トロイも陥ち、ローマも陥ちたが、レニングラードは陥ちなかった」ことは市民の新たな誇りともなった。
今日でもサンクトペテルブルク市内では、ドイツ軍による砲撃を避けるために設置された標識が修復され保存されている。
一方でレニングラードはドイツ軍の包囲下で市民が餓死する中、市内の兵器工場群をフル稼働させ大量の兵器を生産し兵器廠として機能し続けた。工場から出荷された兵器はレニングラード守備軍にはまわされず各戦線のソ連軍に供給された。1941年7月~12月だけで戦車500両、装甲車600両、野砲2400門、機関銃1万挺、砲弾300万発、ロケット砲3万発を出荷し独ソ戦の勝利に大きな貢献をはたした。
題材とした作品[編集]
映画[編集]
- 『レニングラード攻防戦I』 - 1974年 ソ連 (監督:ミハイル・エルショフ)
- 『レニングラード攻防戦II』 - 1977年 ソ連 (監督:ミハイル・エルショフ)
- 『レニングラード大攻防1941』 - 1985年 ソ連 (監督:ヴィクトル・アリストフ)
- 『レニングラード 900日の大包囲戦』 - 2009年 ロシア・イギリス (監督:アレクサンドル・ブラフスキー)
ほかセルジオ・レオーネが『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』に続く作品としてこのレニングラード包囲戦を題材とした映画を構想していたが、逝去のため実現しなかった。
楽曲[編集]
- ドミートリイ・ショスタコーヴィチの交響曲第7番は、包囲下のレニングラードで作曲され、『レニングラード交響曲』と呼ばれている。
- ビリー・ジョエルの曲『レニングラード』は、レニングラード包囲戦で父親を失ったロシア人の少年ヴィクトールを主人公とするものである。
- イタリアのバンド、ダーク・ルナシーのアルバム『The Diarist』は、全編がレニングラード包囲戦を扱ったコンセプトアルバムである。
文献[編集]
- 『レニングラード』 ニコライ・チーホノフ著、前芝確三訳 創元社 (1952年)
- 『封鎖下のレニングラード』 ドミトリー・パヴロフ著、藤木伸三、滝沢一郎訳 大陸書房 (1971年)
- 『攻防900日:包囲されたレニングラード』 ハリソン・ソールズベリー著、大沢正訳 早川書房 (1972年)
- 『グラフィックアクション 第2次大戦 第6号「レニングラード攻防戦」』 分林堂 (1974年)
- 『独ソ戦:この知られざる戦い(燃える東部戦線:独ソ戦の全貌)』 ハリソン・ソールズベリー著、大沢正訳 早川書房 (1980年)
- 『900日の包囲の中で』 ユーリ・イワノフ著、宮島綾子訳 岩崎書店 (1982年) ISBN 4-265-92727-0
- 『レニングラード物語:華麗なる都の250年』 NHK取材班著 日本放送出版協会 (1983年)
- 『封鎖・飢餓・人間:1941-1944年のレニングラード』 アレーシ・アダーモヴィチ、ダニール・グラーニン共著、宮下トモ子訳 新時代社 (1986年)
- 『歴史群像 アーカイブ Vol.7「独ソ戦」』 学習研究社 (2009年)
- 『レニングラード封鎖:飢餓と非情の都市1941-1944』 マイケル・ジョーンズ著、松本幸重訳 白水社 (2013年)
- 『戦火のシンフォニー―レニングラード封鎖345日目の真実―』 ひのまどか 新潮社 (2014年)
小説[編集]
- 『卵をめぐる祖父の戦争』 デイヴィッド・ベニオフ著、田口俊樹訳 早川書房 (2010年) ISBN 978-4-15-001838-2
出典[編集]
- ^ Glantz, David (2001), The Siege of Leningrad 1941-44: 900 Days of Terror, Zenith Press, Osceola, WI,
- ^ The Siege of Leningrad, Seventeen Moments in Soviet History
- ^ The Legacy of the Siege of Leningrad, 1941-1995, Cambridge University Press
