モスクワの戦い

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モスクワの戦い
RIAN archive 429 Fresh forces going to the front.jpg
1941年12月 モスクワから前線に移動中の新規部隊。
戦争第二次世界大戦独ソ戦
年月日1941年10月2日1942年1月7日(3ヶ月と5日)
場所ソビエト連邦 ロシアSFSR モスクワ州 モスクワ近郊
結果:・ソ連軍の戦略的勝利

・ドイツの作戦、戦術の失敗 ・バルバロッサ作戦の失敗

交戦勢力
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
指導者・指揮官
ナチス・ドイツの旗 フェードア・フォン・ボック
ナチス・ドイツの旗 ハインツ・グデーリアン
ナチス・ドイツの旗 アルベルト・ケッセルリンク
ソビエト連邦の旗 ゲオルギー・ジューコフ
ソビエト連邦の旗 アレクサンドル・ヴァシレフスキー
戦力
1941年10月1日時点:

1,183,693–1,929,406

1941年10月1日時点:

1,250,000

損害
248,000~400,000 650,000~1,000,000[1]
独ソ戦
ドイツ軍の進撃。1941年12月5日まで
ソ連軍の反撃。1941年12月5日から1942年5月7日

モスクワの戦い(モスクワのたたかい、ロシア語: Битва за Москву, ローマ字表記:Bitva za Moskvu 英語:Battle of Moscow)は、第二次世界大戦中の1941年10月2日から1942年1月7日にかけてモスクワ近郊で行われた戦闘である。この戦いは600kmの防衛区域で2つの段階に分かれて行われた戦略的に重要な戦いであった。モスクワはソビエト連邦の首都であり、最大の都市であったため、バルバロッサ作戦で最も重要な軍事的、政治的な目標の一つであった。

この戦いはドイツでは「タイフーン作戦」(ドイツ語:Unternehmen Taifun)と名付けられており、モスクワ北部と南部からの両翼包囲を必要とした。

タイフーン作戦の失敗により、バルバロッサ作戦も、その目的を達成できる見込みがなくなり、失敗に終わった。

経過[編集]

ドイツ軍の進撃[編集]

1941年7月8日ヒトラーと国防軍首脳部は中央軍集団の攻撃目標を決める会議を開いた。バルバロッサ作戦ではスモレンスク以西で赤軍野戦軍を殲滅後、中央軍集団はレニングラードとウクライナの奪取を支援することになっていた。しかし中央軍集団はスモレンスク一帯で足止めされ短期間での赤軍野戦軍の包囲殲滅には困難が予想された。そこでヒトラーはレニングラードとウクライナを第1目標とする当初の計画を修正し、モスクワの攻略を優先するため装甲部隊による両翼包囲で赤軍野戦軍を捕捉する計画を提案した。参謀総長フランツ・ハルダ―ハインツ・グデーリアンヘルマン・ホトなどの中央軍集団前線指揮官達はヒトラーの提案に賛同したが、赤軍がウクライナに戦力を集中し南西総軍を編成するとヒトラーはウクライナの赤軍大兵力を殲滅するため再び方針を転換、中央軍集団の進撃を停止させ装甲部隊をウクライナに南下させる当初の計画を主張した。8月21日にヒトラーはモスクワではなくウクライナを第1目標とする総統訓令を全軍に下達し、グデーリアン旗下の第2装甲集団はキエフ包囲戦に参加するため南下を開始、モスクワ攻略は延期となった。スタフカは第2装甲集団がキエフにむかった時間的猶予をいかし、ルジェフヴャジマブリャンスク間での第2防衛線構築を命じ、西方面軍とブリャンスク方面軍が縦深陣地の建設を開始した。キエフ方面での勝利が確定するとヒトラーは9月6日にモスクワへの攻勢を開始する新たな総統訓令を全軍に下達した。赤軍大兵力の包囲殲滅によるソ連打倒が失敗に終ったため、ヒトラーはグデーリアンら前線指揮官が主張したモスクワ攻略によるソ連体制の打倒に望みをたくした。9月30日、中央軍集団はモスクワ攻略をめざしタイフーン作戦を開始した。ドイツ軍は装甲部隊をより効率的に運用するため10月5日~8日にかけて各装甲集団を独自の補給段列を持つ装甲軍へと改編した。10月3日に第2装甲軍の第4装甲師団がオリョールを攻略し、10月6日には第2軍と第17装甲師団がブリャンスクを攻略した。ブリャンスク方面軍は退路を断たれたが中央軍集団に後背地の赤軍を包囲殲滅する余力はなく、各部隊は重装備を放棄して東方に逃れた。第3装甲軍と北方軍集団から転用された第4装甲軍は10月2日に攻勢を開始し10月7日にヴャジマで合流し赤軍4個軍(第19軍・第20軍・第24軍・第32軍)を包囲した。中央軍集団はブリャンスク周辺とヴャジマ周辺に2つの包囲網を形成し、相当な戦力を有する赤軍を壊滅、事実上赤軍第19軍を主力とする西方面軍司令部を機能しない状態にまで追い込んだ。

10月14日には、第3装甲集団はヴォルガ川を渡河し、モスクワとレニングラードを結ぶ鉄道を断ったほか、10月末にはグデーリアンの部隊がトゥーラ近郊まで到達することに成功した。

ソ連軍の反撃[編集]

モスクワ陥落の危機にたいし、ヨシフ・スターリンは10月10日にレニングラード攻防戦を一段落させたゲオルギー・ジューコフに首都防衛を命じ西方面軍司令官に就任させた。同時にソ連国防委員会は、政府機関や工場等をウラル方面へと疎開させつつもモスクワ市民を中心にドイツ軍に立ち向かわせ、冬将軍が来るまでできるだけ長く足止めをするという作戦を実行する。これには周辺士官学校生やコムソモール員からなる共産主義者義勇団等を大量動員、不足していた防衛前線へ人員補充の為に送られた。その中には後にパルチザン英雄として称賛される若きコムソモール、ゾーヤ・コスモデミヤンスカヤも含まれている。彼女はドイツ軍駐屯地への放火に依りドイツ軍に処刑されたが、これはソ連軍及びコムソモールの士気を高める材料には十分となった。10月になり、ついに天候が悪化しはじめ雨が多くなると、舗装されていないソ連の道は泥沼と化した。これがドイツ軍にとって致命的な障害となり、装甲部隊の前進も物資の補給もままならなくなった。一方、ソ連軍はこうした自然条件に慣れていたのと、ドイツ軍に比べ長距離の移動を必要としない防御戦であるためにさほど問題はなかった。この10月中のドイツ軍の前進の鈍化が、モスクワの防衛体制を整える時間的猶予を与えた。また、戦意高揚の為、この防衛戦の最中であっても11月7日の革命記念日には、ドイツ軍を尻目に恒例のスターリン演説と軍事パレードを敢行した。11月になると天候は回復し、気温が低下。霜が降りて路面状態は良好となり、ドイツ軍の進撃スピードは回復する。しかし、ドイツ軍は冬までに作戦を終了させる予定だったため、厳冬に対応した衣類や装備をしておらず、何よりも伸びきった補給線が限界に到達しようとしていた。また、ソ連軍はドイツ軍に物資を残さない徹底的な「焦土作戦」を実施し、補給の現地徴収もほぼ不可能となり、ドイツ軍はいよいよ窮乏に瀕した。

11月12日~13日にかけて参謀総長ハルダ―と東部戦線の各軍参謀・野戦指揮官はオルシャで戦略会議を開き、新たな攻勢の是非を話しあった。第2装甲軍司令官グデーリアン上級大将はモスクワ攻略の好機は去ったと判断していたが、中央軍集団司令官ボック元帥はモスクワへの攻勢を主張し、ハルダ―は攻勢の認可を出した。11月15日~18日にかけて第2・第3・第4装甲軍が攻勢を開始、中央軍集団はモスクワへの攻勢を再開した。スタフカは第10軍と第1打撃軍を増援として西方面軍に編入しジューコフにモスクワの死守を命じた。11月24日に第3装甲軍がクリンを攻略しモスクワ運河に橋頭保を構築、11月26日には第4装甲軍が鉄道の中継点であるイストラを攻略し11月30日にモスクワから8kmのヒムキに到達し、南部戦線では第2装甲軍が工業都市ツーラを包囲しミハイロフを攻略した。しかし11月末には、各所でドイツ軍の攻勢が頓挫。南部からモスクワを目指した第2装甲集団はトゥーラを落とせないまま、これを迂回して前進を継続していたが、モスクワ南方を流れるオカ川の線で前進を阻止された。北方から進撃した第3装甲集団は北部の要衝クリンを制圧し前進したが、北部からのモスクワ突入はならなかった。西方正面では第4装甲集団がクレムリンから25kmの地点のモスクワ郊外にまで達し、前衛部隊はクレムリンの尖塔を眺める位置に(前線の工兵部隊はモスクワまで8kmの地点まで前進したとも)あった。例年よりも早く冬が到来しドイツ軍の進撃は完全に停止する。気温が零下20度以下にまで下がり、ドイツ軍の戦闘車両火器は寒冷のため使用不能に陥った。ドイツ軍には兵士の防寒装備も冬季用のオイルも不足しており、車両や航空機も満足に動かせない状態となった。医療品の不足から凍傷にかかる兵士が続出した。特に軍靴は長距離進軍に耐えるため底に鋲が打ってあり、足に冷気を伝え凍傷の原因となった。対してソ連軍は靴底に鋲を打たないブーツを使い、兵士には一回り大きいサイズのブーツを支給し、隙間に新聞紙や藁を敷き詰める等、防寒装備は充実していた。ドイツ軍はソ連のモスクワ防衛の要衝・イストラを占領したが、翌日からソ連空軍の猛爆撃が始まり、制空権はソ連側にあった。10月25日のモスクワ空襲を最後にドイツ空軍は出撃不能となった。ドイツ軍の攻勢が頓挫しつつあった11月30日、スターリンはジューコフにモスクワ正面での大反攻を命じた。ジューコフは充分な補給と増援を得た西・カリーニン・南西の3個方面軍、13個軍を投入し12月5日に中央軍集団への攻勢を開始した。疲弊していた中央軍集団は攻勢に耐えられずモスクワ正面から押し返され西方に退却した。この攻勢で南西方面軍はエレツ西方で第34軍団の2個師団を包囲殲滅する目覚ましい戦果をあげた。ヒトラーの死守命令によってドイツ軍はかろうじて踏みとどまり戦線を立て直したがルジェフとデミャンスクに突出部が形成された。12月5日、モスクワ攻略の続行不可能が明白となり、ブラウヒッチュボックレープルントシュテット各元帥、ホトヘープナーグデーリアン各大将と35名の将軍更迭を以て作戦は失敗に終わった。

ドイツ軍の敗因[編集]

主な敗因は補給計画の不備と、制空権の喪失に集約される。補給計画の不備による冬季戦装備、燃料、交換用部品の欠如は前線の装甲部隊の戦闘能力を著しく低下させた。陸軍総司令部はスモレンスク以東でのソ連軍主力殲滅を前提とし補給計画をたてていたため、中央軍集団がモスクワ攻勢を開始すると補給計画は破綻した。タイフーン作戦とは補給計画と補給能力を無視した作戦であるといえる。二つ目の敗因として制空権の喪失があげられる。機動戦ドクトリンに特化したドイツ軍は機動力をなによりも重視し、足枷となる砲兵火力を分散させ、空軍を陸軍の直協戦力として位置ずけていた。空軍による濃密な航空支援を前提とする電撃戦では制空権の喪失は電撃戦の失敗を意味した。モスクワ上空での制空権を喪失したドイツ軍は航空支援を欠いた状態で装甲部隊を投入し、ソ連軍砲兵による直接照準で次々と撃破された。ドイツ軍とは対照的にソ連軍は温存していた砲兵予備を全力投入し前線での火力集中を成功させた。両軍の火力差は歴然であり、砲兵の代替である空軍を欠いた状態では精強なドイツ軍装甲部隊といえど結果を出すことは困難だった。 モスクワの戦いは機動戦をなによりも重視し砲兵火力を分散・縮小したドイツ軍と火力主義を堅持し続け砲兵火力の集中を可能としたソ連軍の衝突であり、両軍の理論の戦いでもあった。モスクワでのドイツ軍敗退は火力主義の有効性と火力集中下での機動戦の困難さを示す結果となり、電撃戦理論の弱点を露呈させた。

結果[編集]

モスクワ防衛メダルは1944年5月1日に1,028,600名に授与された。

赤軍の冬季の反攻によりドイツ国防軍モスクワから追い出されたが、前線から比較的近いモスクワへの脅威は以前として残っていた。そのためモスクワ戦域はスターリンにとって重要であり続けた。スターリンは開戦当初ドイツの作戦の成功により、ショックを受けた状態に最初は見えた[2]。特にソ連の最初の進撃ではルジェフ突出部を解消出来ず、中央軍集団の師団が保持しつけた。モスクワでの反攻の直後、突出部への攻撃を突けて行い(ルジェフの戦い)、ドイツ、ソ連共に大きな損害を出した。1943年の初め、ドイツ国防軍はルジェフ突出部から西に撤退せざるを得なくなった。それにもかかわらずモスクワ前面は1943年10月まで防衛体制が敷かれていた。1943年10月はスレモンスクの戦いの終わりで中央軍集団がスレモンスク地峡とドニエプル上流の左岸から押し返された頃である。

1942年のドキュメンタリー映画、モスクワの反攻でのドイツ兵士の降伏シーン

国防軍がモスクワを占領できなかったためヒトラーは1941年12月19日に陸軍総司令官のヴァルター・フォン・ブラウヒッチュを更迭し、自ら陸軍総司令官に就任して[3]、全ての軍事的な判断に関する権限を握った。それに加えて、ヒトラーは周囲を戦闘経験がほとんど、あるいは全くない将軍で固めた[4]

1941年6月以来、ソ連がドイツ軍の進撃を止めて押し返す事が出来たのはこの戦いが初めてであった。スターリンはこの結果を過信し、反攻作戦を拡大する事を決定した。

ドキュメンタリー映画のモスクワの反攻(ロシア語: Разгром немецких войск под Москвой, "モスクワ近郊でのドイツ軍の潰走")はこの戦いの最中に作られ、すぐにソビエト連邦で公開された。アメリカにもこの映画は渡り、1942年8月にはニューヨークの劇場で公開された。ニューヨーク・タイムズの批評家は"撤退時の残忍さは唖然とする光景であった"と述べている[5]。モスクワでの行進と戦闘の場面と同様に、この映画にはドイツ軍の占領時に行った残虐行為の映像が含まれている。"裸で殺害された子供達が手足を伸ばした状態でひどい列を作って青年がガタガタの絞首台に寒さの中でぶらりと吊るされていた[6]。"

モスクワの防衛は枢軸国の進攻に対するソビエト連邦の抵抗の象徴となった。この戦いを記念して、モスクワは1965年の20回目の対独戦勝記念日に英雄都市を授与された。1995年にはモスクワ防衛博物館が創立された[7]

死傷者数[編集]

モスクワの戦いにおけるドイツとソ連の損害は議論があり、様々な文献が異なった推定を行っている。全ての歴史家は第二次世界大戦の時系列の中でどの期間がモスクワの戦いと考えられるべきかということに同意していない。一般的にタイフーン作戦が開始した1941年9月30日(1941年10月2日の場合もある)がモスクワの戦いの開始日と考えられているが、この戦いが終わった日は2つの考え方がある。とりわけ一部の文献は(エリクソン[8]やグランツ[9])ルジェフの戦いをモスクワの戦いから除いており、モスクワへの攻勢が終わった1942年1月7日をモスクワの戦いの終了日と見なしているため、モスクワの戦いの死傷者数が少なく見積もられている。

ここでは様々な文献からの異なった死傷者数を述べる。ジョン・エリクソンの著作 Barbarossa: The Axis and the Alliesでは1941年10月から1942年1月にかけてのソ連の損害は653,924名だったと述べている[8]。グランツはWhen Titans Clashedでモスクワ防衛の段階で658,279名の損害を出し、1942年の1月7日までの冬季の反撃でさらに370,955名を失ったと述べている[9]。国防軍公式の死傷者に関する日報では中央軍集団は1941年10月1日から1942年1月10日にかけて35,757名が戦死、128,716名が戦傷、9,721名が行方不明になったと記載されている[10]しかし公式の報告書は前線にいる各大隊の将校、指揮官が記載した報告書とは一致しておらず、この報告書では公式の報告書よりも多くの損害を被った事が記録されている[11]

モスクワの戦い60周年を記念したロシアの切手

エピソード[編集]

  • モスクワ防衛に成功したソ連スターリン宛に同年12月16日、アメリカ大統領ルーズベルトから連合国を代表して祝電が送られている。
  • 東京発10月4日付の報告からまもなくゾルゲとその協力者(ゾルゲ諜報団)は日本側に摘発され、ソ連への最後の報告となった。

関連項目[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ Bergström, Christer (2007). Barbarossa - The Air Battle: July-December 1941. London: Chervron/Ian Allen. p 111.
  2. ^ Roberts, Cynthia A. (December 1995). "Planning for war: the Red Army and the catastrophe of 1941". Europe-Asia Studies. Taylor & Francis. 47 (8): 1293–1326. doi:10.1080/09668139508412322. JSTOR 153299. Marshal Georgii K. Zhukov, who had pressed Stalin on several occasions to alert and reinforce the army, nonetheless recalled the shock of the German attack when he noted that 'neither the defence commissariat, myself, my predecessors B.M. Shaposhnikov and K.A. Meretskov, nor the General Staff thought that the enemy could concentrate such a mass of ... forces and commit them on the first day ...
  3. ^ Guderian, p. 359.
  4. ^ Guderian, p. 365.
  5. ^ T.S. (17 August 1942). "Movie Review: Moscow Strikes Back (1942) 'Moscow Strikes Back,' Front-Line Camera Men's Story of Russian Attack, Is Seen at the Globe". The New York Times. Retrieved 18 March 2015.
  6. ^ T.S. (17 August 1942). "Movie Review: Moscow Strikes Back (1942) 'Moscow Strikes Back,' Front-Line Camera Men's Story of Russian Attack, Is Seen at the Globe". The New York Times. Retrieved 18 March 2015.
  7. ^ Rodric Braithwaite, "Moscow 1941: A City and Its People at War", p. 345.
  8. ^ a b John Erickson, Barbarossa: The Axis and the Allies, table 12.4
  9. ^ a b Glantz, Table B
  10. ^ "Heeresarzt 10-Day Casualty Reports per Army/Army Group, 1941". Archived from the original on 25 October 2012. Retrieved 28 March 2012.
  11. ^ Jones, Michael (2009). The Retreat. New York: Thomas Dunne Books. pp. 107, 126–7, 292. ISBN 9780719569265.

参考文献[編集]

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  • ゲオルギー・ジューコフ著 清川勇吉,相場正三久,大沢正 共訳 『ジューコフ元帥回想録 : 革命・大戦・平和』、朝日新聞社、1971年
  • パウル・カレル著 松谷健二 訳 『バルバロッサ作戦 : ソ連侵攻に賭けるヒトラー』、フジ出版社、1986年
  • Braithwaite, Rodric. Moscow 1941: A City and Its People at War. London: Profile Books Ltd., 2006 (hardcover, 1-86197-759-X).
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外部リンク[編集]